2010/02/28

桜井のりお「みつどもえ」 - 無意識へ沈んでいくのは≪肯定≫

 
参考リンク:Wikipdia「みつどもえ」

『日本一似てない三つ子』と呼ばれる丸井家のユニークな三姉妹が、小学校に家庭にアナーキーを創出しまくるショートギャグ。2005年から少年チャンピオンに掲載中、パワフル・キュート・トラウマティック(外傷的・変態的)と3拍子そろった逸材で、今年後半からの大ブレイクが見込まれる。来る2010年7月から、アニメ版放映予定(→アニメ「みつどもえ」公式)

…なんてまあ、ちょっと客観的めかしてご紹介した後で、今作「みつどもえ」を筆者がどう見るかというと。それはいかなる罪とがもなさそうな『いたいけ』な少女と少年たちが、けがれなき涙をみんなでダラダラと流しながら、『変態!』、『痴女!』、『雌豚!』と、彼らの知る最大限のことばで互いに罵倒しあう、というお話かとも。
ただし、『雌豚』の称号をほしいままにしているのは、喰い意地の張った丸井長女だけだ。しかもとうぜん『痴女』は女子にしか言われないので、『変態-痴女-雌豚』の三冠ヘビー級チャンピオンは、長女こと≪丸井みつば≫に決定となる。もしも何もしなければ、いちばんかわいい子とも見られそうな彼女ではありながら。

等々はもちろん誘導的なおしゃべりで、うかつにも生まれてきてしまった人間であれば、『罪とがなく』とか『けがれなく』といった状態はありえない(!)。『何もしなければかわいい』などとは言うが、何もしない人間はいない。
そして『変態』という用語なしには語りようがないという点において、今作は同じ媒体の大先パイの「がきデカ」の作風を、これまたうかつに継承しちゃってるしろものではある。かつまた、その『似てなさすぎる三つ子』というモチーフは、『まったく区別のつかない六つ子』という例の先行作にたわむれかけているものでもあり。

で、この「みつどもえ」と呼ばれる作品のド真ん中には、やらんでよいことの“すべて”をやりすぎる丸井三姉妹がいる。ちょっとそいつらをご紹介しとけば。
すでに名が出た雌豚チャンプこと長女≪みつば≫は、人呼んで『支配してないのに支配者気取り』。ちょっとかわいいからってえばりすぎなサド少女だが、根拠もないのに人の上に立つことをめったに成功できない。
次女の≪ふたば≫は天使のように純真な女の子だけど、しかしその怪力がすぎてそこら中のものを破壊しまくり。しかも天然のドHで、おっぱいに対する興味を誇示しすぎ。
三女の≪ひとは≫はしっかり者だが、やたら暗い性格のように他から見られ、たまに怒ると顔がものすごく幽鬼のように怖い。そしてとんでもないむっつりスケベで、いつも熱心に読書してると思ったらエロ本を眺めている。

この中の、次女に対して『ちょっとHなマッスルガール』というキャッチフレーズが見えているが、しかし『ちょっと』じゃないし、しかもHなのは次女だけじゃない。次女のHさがいちばん分かりやすい、ということはあるが、しかし3ビキそろってひじょうにやばい変態少女だということはどうにも明らかだ。
ただし彼女らの示している変態性欲を、『自分にもあるもの』と(無意識に)考えている人々が、今作を支持しているわけだ。この三姉妹をはじめとする作中の罪なき子どもたちが、地面に這いつくばって泣きながら『変態!』、『変態!』、とののしりあうのを眺めながら、それを『自分には関係ないこと』と考えている読者は、いない。

そこでわれわれはさわやかに笑いを返しながら、そして心のどこかではいっしょに泣いているのだ、としか考えようがない。『自分はそこまでの変態ではない』という否定が意識に浮かびながら、『この変態絵図は、まさしく自分のことである』という肯定が無意識に沈む。
そしてこうしたときに無意識へ沈んでいくのは≪肯定≫の側であることは、フロイトが『無意識の世界に否定はない』という正しいテーゼで示している通り。しかも三姉妹をはじめとする子どもたちが、ともかくもおそらく『かわいい』ということにより、『笑いのベースには、笑う者のナルシシズムが必ずある』という小此木啓吾のテーゼが満たされる(→参考記事)
そのテーゼを逆に言い換えると、『ナルシシズムが満たされる限りにおいて、われわれは笑うことができる』。読者は今作の描く変態パノラマを眺めながら、『われもまた変態である』という≪外傷≫的な認識を(無意識において)肯定するのとひきかえに、『われもまたこの罪なき子どもたちであり、われもまた同様に罪なく“かわいい”』という自己愛的な認識をこっそりと、(無意識において)肯定している。それこれゆえに、笑うことはたいへんきもちがよい。

(補足。『否定は肯定である』というフロイトの正しいテーゼはひじょうにショッキングかつわけの分からないものではあるが、それを『意識における否定は、無意識における肯定である』とでも言い換えたら、まだしも分かる気がしてくるのでは)

で、わりに何度も言っているようなことだが、かくて『≪外傷的な笑い≫をクリエイトしえていることによって』、われらが見ている桜井のりお「みつどもえ」をりっぱな≪ギャグまんが≫であると呼ぶことができる。…とまで言ったらひとつの区切りがついた気がしたので、ここでいちど終えて、次の記事でまた別のところを見よう。

【付記】 どうでもよさそうなことだが、三つ子の名前が、長女:みつば、次女:ふたば、三女:ひとは、と、『あれ?』と思うような順番になっている。これがうまい。
あと毎回のサブタイトルが、だいたい何かの作品のもじりになっている。「よつばと!」をもじって『みつばと!』なんて、なかなかストレートだ。こういうさりげに情報量が多いところが、現代のギャグまんがとしてアップトゥデートだ…ともほめておく。

きんこうじたま「H -アッシュ-」 - 地中海文明における『お宝』の意味作用!

 
参考リンク:別コミOfficial「きんこうじたま」

Mid 1990'sの『少女コミック』に掲載の、まさしく『H』な4コマ・シリーズ。頭の中がももいろ一色な女子高生のヒロイン≪カシス≫が、同級生や学校の先生らを巻き込んで、妄想の花をそこら中に咲き乱れさせる。
そのA5特装版の単行本がすてきで、まず作家の名前が『きん***たま』と、その一部が目立たぬようになっているのがショッキング。そしてカバーにゴールドの特色で『H』の文字がでっかく刷られており、まさに『“きん”こうじ先生の“H”』というところが演出されている。かつその金色が真紅の地色とあいまって、ひじょうにめでたい感じ! イエー!
なお、筆者はこれの単行本を『第2巻までしか持ってない』と考えていたが、いま調べたら全2巻らしい(少コミフラワーコミックス・スペシャル)。どうりで、第3巻がめっからなかったわけだ。いや第2巻の終わり方から、何となく続きがありそうかと思ってたんだけど。

そして、ちょっと異なるところから本題に入れば。2005年のこと、自分が氏家ト全や竹内元紀らの創作を初めてめっけたとき、『いくら何でも、ここまで下ネタギャグに徹底してる作品があったなんてッ!』…というおどろきに襲われたものだった。とはまたずいぶん気づきが遅かったが、何せ筆者は『情報力』というものがゼロな人間なので。
ところがだ。それらの登場からさらに約5年も先行して、下ネタギャグに超徹底した作品が、他ならぬ≪少女まんが≫の世界から出ていたとは! これがまた、筆者においてはおシャカ様もびっくりな大発見だった。それこそ、他ならぬ今作「H -アッシュ-」のことだ。
(なおどうでもいいことだが、今作の「H -アッシュ-」という題名が、同じ少コミ系の4コマとして先行した新井理恵「× -ペケ-」と対をなしている感じもある。かついちおう説明しておくと、『H』の文字をフランス語では『アッシュ』と読む)

さてその今作、きんこうじたま「H -アッシュ-」という創作が、あまりにもスバラしいと述べるにもほどがある。そもそもだが、ウソでも『少女まんが』の単行本で、いっきなし表紙にペニスがモロ描かれてある…そんなしろものが今作(第1巻, カバー)以外にもあるなら、ぜひここへ出していただきたい。
少年誌・青年誌のギャグまんがでさえも近年は、『表紙にペニス』は見た憶えがない。…あ、ごくさいきんのジャンプ・コミックスの「いぬまるだしっ」(2009)が出てたカナ? しかしそれは、幼稚園児のブツだし。

そういえば、われらがラカンちゃまの超メイ文の1つに、「ファルスの意味作用」(1958)てのがある(≪ファルス≫とは、象徴化されたペニス)。しかしこの題名はややひかえめなもので、内容を見ればむしろ、『意味作用の前提としてのファルス』とさえも言えそうなところだ。
…で、そのようなラカンのチン説が、高ケツで高まいなる方々には評判よくないわけだが。しかし『これを見よ』、ここにある崇高さをきわめた創作を見よ。
男性の外性器というものを婉曲に呼ぶにさいし、かって「がきデカ」は『タマキン』という語をフィーチャーし、一方の今作は『お宝』と言っている。≪ファルス≫という語もまた中立的でなくそれを賛美するニュアンスがあるので、われわれは『お宝』=≪ファルス≫と受けとってよい。

そして、“誰も”は≪享楽≫のシンボルでもあるファルスを心の太陽(?)にいだいてはおりながら。さらに今作の可憐なるヒロイン≪カシス≫たるや、その頭の中は常に『お宝情報』でいっぱい(!)…とはまたスゴい。まさしく彼女は、『意味作用の前提としてのファルス』というラカンの説をその身に体現している。
かつよく見ると(第1巻, p.2)、彼女のキャラクター紹介に『性別/処女』とある(!)。これもまた、くだらないジョーシキとやらの大いなる彼岸のできごとではある。なお『処女』と言われたら、超下ネタ物語の主要人物らが全員チェリーだ、という点でも、今作は21世紀の氏家/竹内の方向性に先行しており。
そうして今作で活躍する少女らが夢にも見上げる『お宝』、あふれる≪享楽≫と生命力と人類の縦のつながりを象徴してあまりあるもの。それと似たようなものを自分が1セットばかり所有していることを、今作にふれて筆者は生まれて初めて幸福に感じたのだった。

あわせて。確か古賀亮一「ゲノム」のどこかに出てくるヨタ話だが、その主人公の≪パクマン君≫が、『はばかりながら、こちとら男根崇拝の残る村が出身地でィ!』か何か言う。それはいったい、どこの村なのだろうか? むしろわれらの全員がいやでも住んでいる≪地球村≫、それが彼の出身地なのでは?
かくて今作は≪フロイト-ラカンの理論≫の正しさを正しく証明してるものでありつつ、愛とポエジーと笑いとファンタジーを供給しているあっぱれな『人間讃歌』に他ならぬ。また別の大傑作である「LET'S ぬぷぬぷっ」は『死にゆき壊れゆくもののタスク』として≪性≫を描いているが、一方の今作は成長しつつ生きるものの≪性≫を記述している。すると相反したものかとも見えつつ、読んでる時にはどっちも『そうだなぁ』…と感じさせるのが、それぞれの大傑作たるゆえんだ。

で、今作についてはいずれ詳細を見ながらあらためての大賛美があろうけれども、いまは次の点をチョコっと見ておこう。

今作の第1巻の途中から、その名もキッパリ『包茎部』という、ありえない部活が作中に登場する。…と、ただいま『包茎部』という字を書いただけで、およそ1分間ほど息が詰まりそうに…ッ!
そのお宝が『真性』であればいきなりブチョー待遇、『仮性』であれば一生ヒラ部員、そしてそのスローガンは、『むりにむかない』、というこの部は、包茎歴40年を誇る名ティーチャー、≪卯月先生≫が顧問をつとめる(第1巻, p.77)。第1巻のカバー左下で『お宝』を魅せているのもこの先生だし、そもそも校内で『お宝』をまる出しにしてるのはいつものこと(!)という、見上げた教育者でおられる。

で、その卯月先生が指導している包茎部なのだが。…実は筆者には、その≪活動≫の目的が、いまいちよく分からないのだ。
見てるとさいしょは、手術とかしないで自然とムケるように…というところが目的だった感じ。それならまだ分かるが、しかしだんだんとその活動は、『包茎を恥じずむしろ誇る、そのために“包茎を鍛える”』…というふんいきになっているのだ。
『包茎を鍛える』というわけの分からぬ語を書いてしまったが、自分でもまったく意味が分からない。だがそれは、われらが包茎部に関する記述として正しい、とは断言できる。

何かおかしいのは、その包茎部という、特定のやからだけのことではない。そもそも作品のかまえがだ、さいしょはばくぜんとも『包茎否定』的だったのに、第2巻あたりからハッキリと『包茎肯定』的なのだ(!)。お宝賛美で始まった今作「H -アッシュ-」は、1歩すすんで(?)その途中から、『包茎賛美』のたえなるオードを奏で始めているのだ。
すなわち。ヒロインの≪カシス≫は面接の最中に教師から、『君の(進路的な)ボーダーラインだが…』と聞いて、頭の中に『ホーケーライン』というものを思い浮かべる(!)。するとその図の中で、オトコらを2分するラインの、ホーケー側にいる連中はニコニコとうれしげで、ムケてる側の連中がなぜかシュ~ンとしている(第2巻, p.86)。とは、どういうことなのだろうか?

生物学の用語で≪幼形成熟(ネオテニー)≫というモノがあり、これは要するにわれわれ人類のことで、類人猿だったら胎児のような体勢のままで≪成熟≫をキメ込んでるのだという。それが、1つのかたちでの≪進化≫だ。
すると世に増えつつあるらしき包茎というものも、一種のネオテニーでありかつ≪進化≫の1つのかたちなのだろうか? てのは軽々には断じがたきところだし、そもそもムケねばならざるものならば、どうして誰もが包茎として生まれるのか?…というところからして、よく分からぬ。
しかし人類の生み出した美の頂点の1つであるミケランジェロのダヴィデ像も包茎だし、かつそれの範をなした古代ギリシャの古典彫刻群もまた、みなりっぱな包茎である…ということには注意しておくべきか。それは少なくとも、ユダヤ教方面の≪割礼≫チックな文明のかた苦しさに対峙しているものではあろう。

 ≪包茎≫ ← クラシシズム, グレコローマン(地中海文明), 文芸復興

ちなみに包茎部員の男子らは全員が『その他大勢』で、名前の出ているキャラクターはいない。だからヒロインが想いをよせるヒーローの≪広瀬君≫や、『モーホー』っぽいと評判の美少年≪森本君≫らのお宝状況は、秘密になっている。…これは心にくいところだ。

さァて包茎バナシの〆くくりとして、作者・きんこうじたま先生のプロフィールに、ちと見とくことがある。われらの作家は『お宝における仮性と真性』という論文でノーベル平和賞を受賞された(ウソ)であるそうだが(第1巻, カバー見返し)、その論文の題名にチューイしたい。
すなわち、まるでお宝には仮性と真性しかないと言わんばかりで、『お宝における、ムケてるやつ』というものの存在が超シカトされている(!)。つまりは、そういうことなのやも知れぬ。

2010/02/27

木多康昭「幕張」 - Another Brick in the Wall

 
参考リンク:Wikipedia「幕張」

この「幕張」のジャンプ・コミックスが刊行されつつあったころ、筆者は今作を『ふつうの野球まんが』かとばかり、思い込んでいたような? 何せその全9巻のうち4冊まで、ピチッとユニフォームを着込んだ少年が劇画調でカバーにドンと描かれている…とあっては、そのような思い込みをきたした自分を責める気が、まったく起こらない。

さて野球を題材にしたギャグまんがというと、大むかしの作だったら、江口寿史「すすめ!! パイレーツ」や内崎まさとし「超人コンプレックス」などがあったが。しかし今作は、あのような路線とはぜんぜん異なる。何せ野球を、まったくやらないんだから(!)。
やや近いのは久米田康治「行け!!南国アイスホッケー部」が、なぜか途中から『ホッケーだけは意地でもやらぬ』…という内容になってるが、アレか。などと言ってたらひょっこり思い出したが、『野球部なのに野球しない系』ギャグまんがの元祖といえば、同じ少年ジャンプのコンタロウ「1・2のアッホ!」(1976)か! パねェ、これはまじで古い~!

で、今作は、出だしからして大いに人を喰ってやがる。まず同じ高校への入学が決まっている2人の少年が登場し、一方の奈良クンが一方の塩田クンに、進学したらいっしょにバスケ部に入ろうゼ、おもしろいしモテるから…と、ひじょうにまともなことを言う。しかし塩田クンは、さびしげに奈良クンへと背中を向けて、『バスケは だめだよ…』と答える。
なぜ、バスケはだめかというと? 『「ジャンプ」には もう… 「スラムダンク」が あるから』と塩田クンは言い、そして人知れず無念の涙を流すのだった(第1巻, p.5)。

関係ないけど同じMid 1990's、月刊のジャンプでも浅田弘幸「I'll」というバスケのまんががあったようだ(これはよく見ると、ラモーンズの曲名が引用されてたりするオシャレな作)。とま、そんなわけだから「キャプテン翼」のサッカーもダメだし、また『セクシーコマンドー部』に入るのも『いかがなものか』と考えられたので、まったく後ろ向きな選択として2人は、≪幕張南高≫の野球部に入るのだった。
しかし、まったくヤキューをやる気がないどころか! これをきっかけに、出だしの一瞬だけまともそうに見えた奈良クンが、タイヘンなるヘンタイ少年としてグィグィ頭角を現すのだった。その様相を見ていたら、やりたいバスケをやれなかった哀しみが、彼をそのようにしたのかなあ…などと想わんでもない。
すなわち、われわれはこの事態を、『前途有為な少年を、腐った体制がスポイルしたのだ』と、見れなくはない。ここにおいて今作「幕張」は、かのピンク・フロイドの作品系列の一大テーマと出遭(いそこな)っているような…そんな気が、ぜんぜんしないということもない。

そうして迷走に迷走を重ねていく彼らの行状は、ようするにバイオレンスとエロス…という『エンターテインメントの2大根幹要素』(by オヤマ!菊之助)に、スカトロと多少の喰い気を加味したモノだ。そういえばヤキューをやらぬばかりか、この連中は高校生のクセに授業やテストを受けているようすもなく、それどころか『教室』という場所に出入りしてさえもない(!)。
とはまたうらやましいばかりの≪自由≫さであり、そしてその自由を彼らは、ほぼエログロバイオレンスにのみ費やすのだ。

あまり分析的なことなど言わず、この場では作品の概況を見とこう。活動してもないヤキュー部だけど≪桜井≫という名の女子マネがいて、ちょっとカワイイし『巨乳』なので、バカたちはこの子に対して邪心をいだく。しかし彼らがあっぱれなのは、まともな男女交際を経て≪目的≫を達しよう…などという気はまったくないことだ。
ヤキューしないけどヤキュー部に在籍したい…てのと同じようなてきとうさで、バカたちはなし崩しに、まったくフェアでないなりゆき経由で、お目当ての≪部分対象≫だけをむさぼりたいのだった。と、≪部分対象≫というむずかしい語が出たが、ここでは要するにおっぱいのことだ。
それやこれや彼らの行動“すべて”は、『まともな目的・まともな手段・まともな努力』といったものらを否定するためにだけ、大ハッスルしてるように見えるのだった。いったいどこの誰が、この少年らをこんなしろものまでに育てちまッたのだろうか?

そしてこのガキらが『目的に向かってまっすぐ行動する』ことがぜったいにないのと同様、このお話自体がぜったいにまっすぐは進まない…という特徴をも見とこう。進まずにどうするかというと、内的な理由でつまづき脱線するか、さもなくば楽屋オチやアプロプリエーション(いわゆるパロディ)が強引に挿入されて≪切断≫されている。
で、正直なところ楽屋オチの意味がさっぱりよく分からないし、TV・芸能の話題も分からない(分かる人には面白いのかも)。だがこの作者のアプロプリエーションについては特異さを筆者は感じてて、それは≪対象≫らへの愛やリスペクトがゼンゼンなさそうだと。つまり、作中のバカ少年らが女性を見て≪部分対象≫しか見ない、という態度と同じようなのだ。

逆に、それだから尋常でないキレがある…とも感じられるのがいやなところだ。たとえば奈良クンがビデオ屋でアダルトビデオの箱を見て(それも、幼女が放尿してる的なやつ!)、借りもせぬ前から平気で人々の見ている前でティッシュを用意して。そしておもむろに『ヂィィィ…』とチャックを降ろして、『スティッキィー・フィンガーズ!!』…なんて、ヤバぃにもホドがある!(第7巻, p.79) そしてこの時の奈良クンの、何かをふかしぎに勝ち誇ったようなブキミな表情は夢に出そう!
というのは「ジョジョの奇妙な冒険」(第5部)のアプロプリエーションだが、同作からの引用にやたらとはげんだ大亜門「太臓もて王サーガ」(2005)よりもキレてるのではッ?…というのがいやなところだ。「幕張」による≪切断≫の異様なる斬れ味スルドさのベースは、明らかにネタ作品らおよび≪対象≫ら全般への愛のなさだからだ。
比較すると「もて王」が、いかに≪愛≫があり温かみのある作品か…ということがよく分かる。付言すれば今作「幕張」は、ふつうは見えない「ジョジョ」の底流の≪欲動≫のうごめきをえぐり出してもいよう。

それこれにより、筆者にとっての「幕張」はまず、痛いところをひじょうにするどく≪切断≫してくるみごとな創作ではあるのだった。と書いているうちにその重要さ(?)…みたいなことが感じられてきたので、いずれの再論あるやも知れず!

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」 - そんなには秘められてもいない『秘密』

 
参考リンク:Wikipedia「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」

ご存じの作家がMid 1990'sに世に問うた、その初連載作。そしてそれを『出世作』などと呼ぶもおろかで、いま調べたらこれのジャンプ・コミックス版・全7巻は、累計700万部以上を売り上げているとか(!)。超ミリオンセラー! さらにうわさだと連載中にいちど、ギャグでありながらジャンプの人気投票で1位を獲得したとか(!)。すごぉ~い! …等々と、ひとまず感心しておいて。

そしていきなりだが、今作の第1巻のカバーに描かれたヒーロー≪花中島マサル君≫の勇姿を、文字で記述してみれば。
まず背景は砂漠なのだが、しかし駐車禁止の標識や車のスクラップらしきものが埋まっていることから、実は未来の砂漠化したニホンの都市なのやも知れぬ。そこを独り往くわれらのヒーローは[逆三角形の体型]もカッコよく、『ステキカット』と呼ばれるそのヘアの[長~い前髪]もカッコよく、上の服は長袖Vネックの白Tシャツ(実は[紳士用肌着])で、ボトムはストレートの[ブルージーン]。シャツをキッチリとズボンに入れているので、キリリと締めた地味な[革ベルト]が見えている。
そしてオデコには[ゴーグル]をそうび、シューズはおそらく[ゴム長]、左上腕には[赤ッぽいスカーフ]を巻き、左手には[雨ガサ]と[トートバッグ]をもっている。そして右腕には、[丸めたゴザ]と[バラの花束]と[釣りざお]をかかえている。かつ腰には[虫カゴ]をブラ下げ、なおまた腰に結んだ[長いロープ]の先に[古タイヤ]を引きずっていて、さらに背中には[竹刀]と[大きな赤い旗]を背負っている。その旗に描かれた[テンコ盛りのゴハン]の絵は、彼が部長をつとめるご存じ『セクシーコマンドー部』の≪シンボル≫だ。そしてきわめつけとして彼の両肩には、本人が自分の『チャームポイント』と呼ぶ[ナゾの輪っか]がハマっている。

…というたいへんな眺めを見ちゃったわれわれは、すなおにそれへと驚いて、今作の題名どおり『すごいよ!!マサルさん』!…とでも、言わねばならないが。
そうしてただいまの描写の中に、いったい何個のあやしげなる≪シニフィアン≫(意味不明だが、みょうに意味ありげな記号)らが登場したことだろうか? いちおう自分で数えてみたら、少なくとも19個…? あれ?
そしてこれらの≪シニフィアン≫は、そのすべてが、まずは≪ファルス≫(象徴化されたペニス)をさし示すものだ。つまりそれらは『“シンボル”の≪シンボル≫』なのだ。

などと言っていて、自分でもおかしいしびっくりせざるをえない。だがしかし、そうだからしょうがない。
≪ファルス≫でなくとも、なにか性的なひみつ(の所在)がこの作品の全体にベッチョリと塗り込められている、ということにはどういう疑いもありえない。ここに現れている超大量のなぞめいた≪シニフィアン≫らのさしているのが『性的』なものだということまでは、ぜんぜん秘められていない。
何せ今作の登場人物らのはげんでいる格闘技(?)が、他ならぬ『“セクシー”コマンドー』だということくらいは、読んで読めなければなるまい。これ以上のことは、いずれ今作が再論されたときに明らかとされるだろう。いまは、ご紹介まで。

川島よしお「グルームパーティー」 - 新宿西口、メトロポリタン・ディルドー

 
参考リンク:Wikipedia「川島よしお」

Mid 1990'sから活躍中の4コマ作家の、デビュー作であり出世作(少年チャンピオン・コミックス, 全5巻)。まずこのシリーズの、表4のあおり文句がテンション高くていい感じなので、ちょっとご紹介しときたい。

 『4コママンガ不毛の時代に すい星のごとく現れた新鋭、
 川島よしお待望の初コミックス!!』(第1巻)

 『最良の4コマを 青年誌に求める時代は終わった!!(中略)
 これ読まずして4コマを語るなかれ!!』(第3巻)

…といういきおいは大いに買いながら、はて。このシリーズの第1巻の出た1996年は、『4コママンガ不毛の時代』だったっけ?…というのが、やや分からざるところ。
だが、その次の第3巻へのあおりを見てみると、言われた意味が多少は知れる。つまりあおっている人自身が『最良の4コマを 青年誌に求め』ていたが、しかしその期待が、このMid 1990'sには報われなくなったのだろう。

じっさいそれは、Late 1980'sには≪ギャグまんが≫全般の最先端でもあった青年誌の4コマが、もはや振るわなくなった、という時代ではあった感じ。かと言ってそれは、逆に少女誌の4コマがよかった時代では?…とも思うのだが、まあそれは別によい。

で、そのような時代に出た今作が、やってたのは『前向き』なことか?…というあたりが断言しがたい。あおり文句の文言に引っ張られているから逆にそう見えるのだが、そこで想定されていそうなLate 1980'sの青年誌の4コマの傑作…「傷だらけの天使たち」や「伝染るんです。」らがやったことを、今作は『先に進めて』いるだろうか?
むしろそれらがやり残したところを、異なるテイストで埋めてるくらいでは?…との気もしてくるのだった。ただし筆者は、この作品に盛り込まれている、その『異なるテイスト』を大いに愛するものではありながら。
で、その時代に、もう少し“イノヴェイティヴ”なことをやった作品らというと思い浮かぶのは、やはり「行け! 稲中卓球部」、「LET'S ぬぷぬぷっ」、そして「すごいよ!!マサルさん」、というあたりかと(少女系は除外して)。

…と、たったいま見たMid 1990'sのびみょうにも革新的だった傑作3本が、いずれも4コマ作品ではない(「ぬぷぬぷっ」には、多少4コマ要素があるが)、ということは偶然ではない。なぜって別に言いたくはないことだが、「伝染るんです。」よりも新しいスタイルの4コマは、いまだないと考えられるからだ。
で、これを言い切ると、≪ギャグまんが≫として有効なそれ以後の4コマ作品らの間の≪差異≫は、テイストや題材の違いのみ…ということになってしまうま(!)。そしてそうとはしても、やや超えてるかな…と感じられるその後の4コマ作品は、今21世紀の倉島圭「メグミックス」と氏家ト全「妹は思春期」くらいではッ?
で、世紀が変わってそうそうにその『プチ・ブレイクスルー』をやってみせた2作が、ともに『“女性”という存在、そのなぞ的性格、“女の欲望”とは何か?』、というところをテーマにしていることもまた、まったく偶然ではない。

…なんてかた苦しいことを言ってないで愉しめばよいのだし、そして今作は大いに愉しめる作品だとは認めながら。というか、いまパラパラと見ていたら『ひじょうによいなァ』とも感じた。
とまでを書いてからちょっと外へ買い物に出かけたら、途中の公園で4年生くらいの女の子が平気で(?)パンツを見せながら、登り棒を登っていた。別にロリコンではないはずだが、むしろミセスの方に興味があるくらいだが、しかし正直なところ、『この、“生”と呼ばれる煉獄の中にも、わずかには歓びが?』…と感じてしまッたことは厳秘にて。
そうして今作の一大フィーチャーが≪パンチラ≫という物件であり、特にその第1巻には、イヤというほどに出てくる。その中で筆者が特に好むネタを、1つご紹介いたす。

 ―― 川島よしお「グルームパーティー」, 第1巻, p.26より ――
『ビル風いやあああ あああん』と叫びながらお姉さんが、めくれてしまうスカートを押さえている。そして『ヒョオオ オオオ オオオォォォ…』と強風の吹きすさぶ音が聞こえつつ、視点がズズズズ…と後退していくと、新都庁の高層ビルがニョッキリと中空へそそり立っている。題して、『都庁物語』。

スズキとか青島とか石原とかいう連中が≪権力≫に託した≪欲望≫のそそり立ち、ニホンのパンクロックのザ・スターリン「電動こけし」(1980)という名曲は、西新宿の高層ビルらを『ソレ』に見立てたものだが、ほぼ同じことが艶笑ギャグとしてこっちには描かれている。そしてそのいわゆる『下ネタ』を≪艶笑≫などという古いことばで形容したくなるのは、この作者の強力に打ち出している『レトロ』なテイストゆえ。

…と、パンチラの話だけに終始も何なので、「グルームパーティー GLOOM PARTY」(ヴェルレーヌ「艶なる宴」に対抗して、『ウツなる宴』とでも訳すべきか)という今作の題名について。
ズバリ『グルームパーティー』と題されたネタがあり、ソレはチャブ台を囲んだ家族かと見れる3人が描かれて、父は大昔の学生らの集合写真を示し、『こいつは戦死した こいつは進駐軍に殺された こいつは餓死した』…などと言う。ツッパリ風なムスコも対抗して、不良だらけの卒業写真を示し、『こいつはバイクで死んだ こいつも事故って死んだ こいつはエイズで死んだ』…などと言う。そンな話を言ったり聞いたりしてはゲンナリしてるばかりの父子に、母はさいさい『やめなさいよ』と言うが…(第1巻, p.16)。

というわけでつまり『グルームパーティー』とは、おおむね『お通夜』のことかのようだ。カタカナ語にしてカッコよさげに粉飾はしてるけど、ギャグまんがの題名に『お通夜』とはハイパーだ…!
そしてゲンナリするしかないにもかかわらず、このおかしな父子は≪死≫または≪喪≫というものの味わいを反芻することを延々とやめられない。この状態をフロイト様っぽく言うと(?)、「喪とメランコリー」(1917)でありかつ≪反復強迫≫であり…なんつて!

なお、さいごに。筆者は今作中では≪さそりちゃん≫という奇妙なヒロインのシリーズが大好きで、『その話題を前に書いたはずだが』…と思ってさがしたら、ちょっと意外なところで紹介していた。
そんなのは構成としておかしいが、でもそのてきとうさが『ありかな』と錯覚したので(!)、それはそっちでいずれ日の目を見るだろう。ではまた!

茶畑るり「へそで茶をわかす」 - ≪詩的言語≫しか存在しない

 
参考リンク:Wikipedia「へそで茶をわかす」

1992年、中学生でデビューした茶畑るりが、唯一りぼんに残した超傑作4コマ・シリーズ(りぼんマスコットコミックス, 全3巻)。略称、「へそ茶」。
これについて2002年以来、過去に自分が書いた文章がいろいろと手元にあるのだが、見直してみて、いずれもあんまり気に入らない。そこでいっそ、その中に抜き書きされている作中のネタをご紹介して、この場ではお茶をにごそうかと。
…『茶どころ』静岡から出た作家が、お茶の美味さをテーマに描いた作品なのに(?)、そこでお茶をにごすって…!
けれども意外に、筆者がムダに堕弁をこくよりも、皆さまには楽しめるかも? 以下、お話の前提として、ちょっと変わったおもしろ少女であるヒロインが≪江崎ぐりこ≫、その親友で常人っぽい女の子が≪水田まり≫。

 ぐりこの部屋で。観葉植物を見つけたまり、『いいわね。なんていう名前?』
 ぐりこ『まだ決めてないよ。…「ため吉」なんて、どう?』
  ―――――  ―――――  ―――――
 地図の上に『○の中に×』という記号を見つけたまり、『この記号、何だっけ?』
 ぐりこ『それは…豆電球』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、うな重と70って似てるよね。パンタロンとパンシロンも似てるよね』
 まり『え? うーん、まぁそうね』
 その時、電話がRRRRRR...
 ぐりこ『そうだ! でんわとはにわも似てるよね』
 まり『いいから早く電話に出なよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、土曜日の時間割ってどうだっけ』
 まり『えーと、保健、芸術、数学ね』
 ぐりこ『保、芸、数か。何だか『保くんの芸の数々』って感じだよね』
 まり『保くんって誰』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、ラッパ呑みってあるでしょ』
 まり『ラッパを吹くみたいに、ビンから呑むことね』
 ぐりこ『そこでわたしは新しく、バイオリン呑みを考えた』
 まり『…それ、ナンだか呑みにくくない?』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『ふつうラーメンといえばショーユ、ミソ、シオ。
 そこでわたしは新しく、酢ラーメンを考えた』
 …その『酢ラーメン』とやらのドンブリから、ツゥゥ~ンと鋭いニヲイが…!
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、ラッパズボンってあるよね』
 まり『スソがラッパみたいに広がってるズボンね』
 ぐりこ『そこでわたしは新しく、中ほどに穴が開いた笛ズボンを考えた』
 まり『…穴からお肉がはみ出してるわよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、カンをけるとカ~ンとゆう音がします。じゃあビンをけった時の音は?』
 まり『えぇッ? …(アブラ汗とウス笑い)…ビィ~ン…』
 ぐりこ『何で? そんな音しないよ!?』
 まり『し、知ってるわよ! 何て言ってほしいのよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 先生『「だから」を使って短文を作りましょう。まず水田さん』
 まり『はい。「彼は約束を破った、だからボコボコにされてしまった」』
 先生『いい例文ですね。では江崎さん』
 ぐりこ『…「からだから何か出た」』
 まり『何かって、何よ!?』

いや~、いいなあ…と、自分ばかりが愉しんでいてはいけないが。さてご覧のごとく、≪言語≫の機能の実用性とか社会性とかいう部分、そこらに対するかわいい攻撃を描く…という性格を、今作「へそ茶」は有する。
『そうじゃなくて!』と明示的には別に言っていないが、しかしコード(規約)にしばられたつまらない既成の記号らを、ぐりこの機知は≪詩≫に変えていく。そして生活全体を、彼女はいきいきとした機知あるポエムに変えていく。

 『“言語”には、詩的言語しかない』 by ロラン・バルト

だから、一見のところ乱雑っぽい画面にはしたな気味なギャグがめんめんと描かれている今作「へそ茶」は、実は≪少女まんが≫のコアを体現している作品でもあるのだ。なぜならば、少女というまたきアウトサイダーの立場からのプロテスト、社会およびその≪コード≫へのプロテスト、という性格がなかったら、少女まんがなんてこの世になくてもいいわけだから。
しかもそのプロテストを、楽しい≪遊び≫、ことばの遊び、生活の中の遊び、として軽妙かつゆかいに描いている今作について、筆者は『傑作中の傑作』以外におくることばがない。で、そんなカタいことばしか思いつかないところが、ほんとうに大人のダメなところだなあ…などと痛感させられてもみるのだった!

ルノアール兄弟「獣国志」 - じゅるるるん、童貞汁♪

 
関連記事:ルノアール兄弟「獣国志」 - 三国志関係のまんが その6

上の関連記事で、すでにぞんぶんに見たところだが、

 『その昔 埼玉近辺には 現代文明を はるかにしのぐ文明が 存在した!
 それは古代童貞文明!』(ルノアール兄弟「獣国志」アッパーズKC, p.142)

などという根拠の不明な童貞讃歌を延々とたれ流しているギャグまんが、ルノアール兄弟「獣国志」。まあ『古代童貞文明』の存在は作中でも否定されているのだが、しかし『埼玉近辺』と言われたらありそうな気もするのが、その恐ろしいところ。

ところでその作品について、2つばかり補足をここで。忘れないうちにそれを書いておいて、書いたらそれをさっぱりと忘れたいので。

補足・その1。曹操に関連して今作中で『800万』という数字がしつこく出ているのを見たわけだが、筆者はその数字が気になった。なぜならば、『でたらめ出まかせっぽい数字には、必ず意味がある!』とは、フロイト様の教えたまうところなので。
そこで考えたのだが。これはそんなに深い意味とかじゃなく、作中の神頼みというイベントに対応して、『“やおよろず”の神』という八百万なのかな? 何か他の解釈があったら、ぜひのご教示ありたし!
…にしても『やおよろずの神』の加護を得るために、卑語ワイ語を800万回も唱えるって…。ずいぶんとこの作品は、まあ!

補足・その2。本書のカバーそでに、作者からちょっと気になることが書かれている。

 『2年前、私たちルノアール兄弟は中学時代の担任の家に居候していた。
 当時その教師はほぼ間違いなく童貞で、その三十路童貞とひとつ屋根の下で
 暮らすうちに自然と「獣国志」の構想ができあがった。
 そして我々が「獣国志」を携えて教師の家を出て行くや否や彼は結婚し、
 今では子供までできている。
 先生は「獣国志」にこの童貞心の全てを託したのだろう。
 そして呪縛から解かれたかのようなスピードで新たな人生に旅立ったのだ。
 「獣国志」に童貞の精霊を宿してくれた先生に最大限の感謝を』

これを読んで、『何それ』と感じた方もあるやもしれないが。しかし≪記号活動≫および≪創作≫という行為の作用として、そういうことはある、と大断言いたす。
にしても文中の『自然と』という語が出ているところのなりゆきが、あまりにも飛躍あり不自然なのではっ!? 童貞なんてどこにでもいるような気がするけれど、しかし「獣国志」のような作品は『どこにでも』はないはずだ。このようにまったくなっとくいきがたき連関の帰結として何かを作り出すのだから、まったく≪作家≫とか称する連中は始末に悪い。
さらにこの教師からジュクジュクとしみ出した大量の童貞汁はどうなったかと考えたら、とうぜんのことながらそれは「獣国志」という作品を介し、それを見ているわれわれのところに届いている(!)。まったくいまさらで手遅れだが、『読む』という行為の危険性をここで認識し直さないではいられない。

2010/02/26

ルノアール兄弟「獣国志」 - 三国志関係のまんが その6

この作者ことルノアール兄弟の最初の単行本(アッパーズKC, 全1巻)、「獣国志」という題名の読み方は『じゅうごくし』。
その題名を見て思うが。むかしの劇場アニメの名作に『わんわん忠臣蔵』(1963)なんてのもあったので、動物キャラクターが三国志をやったって、別に悪いということはなさげ。ただし今作「獣国志」は、そういうストレートな作品では、ぜんぜん『ない』。
じゃあどういうものかということを、筆者が説明したくもない。あ、説明するけど。

にしてもこれは、ゆうべ寝る前に布団の中から手を出したら、ぐうぜんさわってしまった本にすぎないのであり。確か1年くらい前に買って読んだものなんだけど、『イエス、童貞フォーエバー!』的なギャグまんが…ということだけ憶えていた。

という、「獣国志」に関して『三国志』という部分がまったく印象に残ってなかった理由。いまなら分かるが、それは初読時の自分が、三国志をほとんど知らなかったせいだ(!)。
だから西武ドームに居を構えた董卓が、球場のパートの呂布子おばちゃんに殺されるというギャグが、まるっきり通じていなかった(!)。さらには、劉備がパンツの中からブツを取り出して言う、『コイツは オレの 愛息 劉禅!』というセリフさえ、さっぱり意味不明だった(!)

…無理にでもこの場を何とか言いぬけると、筆者はこのように『教養』を読者に要求してくるギャグまんがはどうだろうか、と思う。
自マンじゃないけど、ない頭を使いたくないからそんなのばっか読んでるのだし。三国志に限らず中国のお話にはよくある場面、学がないと分からないようなジョークや警句を誰かが言って、人々は『ほぉー』と感心する。そういうときにそのイミの分からない筆者(らの無学者)は、『焚書坑儒!』などということばを脳裡に思い浮かべている。
あ…いや! ≪フロイト-ラカン≫の正しい精神分析に興味をもっているわれわれは、その『焚書坑儒』をされる側でしかありえないので、冗談にもそんなことは言っておれないが。

ま、ともかく。まずはこの本のカバーを見ると、そこに描かれているのは、長州力みたいな半裸で長髪の男が劉備、セントバーナードが関羽、セイウチが張飛。そしてこの3者が『われら 三童貞! 生まれた種は 違えども! 死する時 も童貞で ある事を 欲さん!』と、桃園ならぬチェリーの誓いを立てている。だから今作は、題材的には『童貞 - 動物 - 三国志』、というまんがなのだが…。
しかし『どうしてその三題話になってるの?』、と聞かれたら、『オレの知ったことかッ!』と逆ギレしてしまいそうな自分が怖い。自分の中に潜んでいそうなケモノが怖い。

ただしそのような場合に『それは作者にでも聞け!』とは、口が裂けても言わない。それを言ったら、≪読者≫として大惨敗だ。てゆうか、作者ごときが作品の≪意味≫を知っているわけがない。じゃ、けっきょくは自分で考えなければならない。
が、いきなりはそれが分からないので、ともかくも実作にあたってみれば。こうして劉備が登場している以上、この作中には、曹操もいるし孫家の誰かもいる。さもないと、三国志っぽくならないし。まずはそこらを、ご紹介しとけば。

で、今作中の曹操は、どうしようもなく『性交がしたい』という一念にこりかたまった田舎のメガネ青年で。それを神に願かけて、ここには書けないような卑語を1ヶ月に800万回(=1分間に180回、らしい)唱えるという超荒行に成功し、そして一種の神通力を手に入れる。
そのパワーを用いて彼は、近所の家畜や山の動物らをどうにかしまくるのだが。というかこの曹操クンは、こんどは逆に神から呪いをかけられて(?)、期限内に800万回の性交を行わないとたいへんなことになるらしい(!)。

そして今作中の孫策は、西川口の風俗街に入りびたっている≪左門豊作≫みたいなモッコスで(九州人かどうかは不明だが)。彼は『動物のオスたちもたまって困っているはずだ!』というふしぎな善意から、動物用の風俗店をその地に開こうと思い立つ。
なお、彼をサポートしている相棒の周瑜が、今作ではちっちゃなシマリスとして描かれており、かわいい~! これはいわゆる『萌え』なポイントとしてチェキっておくとして、しかしそんな要素はまったくこれだけだッ。
かつ。そもそも孫策がそんなおかしいことを考え始めたのは、むかし周瑜クンが風俗店に入ろうとして断られるのを見たから(!)…だそうなので、かわいいけれどこの畜生は!

さてこのように、今作における三国の英雄たちを見てくれば。劉備は自分と、同志の童貞獣たちの童貞を守り抜きたい。曹操は、相手かまわずというか種族さえもかまわず、たいへんな回数の性交をこなしたい。そして孫策は、動物相手の風俗店(屋号:『野生のOH!コキ 本番中』)を成功させたい。
と、3者それぞれの野望が、まったくかみあっていない。分かっていたことだが、それを字に書いてみたらすんごく力が抜けた。

そしてこのように細かく(?)読んでくると、何となく『これもありだな』という気がしてくるのはふつうの現象だ。まったくわけがわからない作品ではあるが、しかしむざんに要してしまえば『性欲のたけりをもてあますオスども』という、あまりにも普遍的かつ共感のありそうなところを、こっけいな『英雄譚』として戯画化しているのであり。

だが、三国の英雄らの中で、劉備だけその行動がストレートでない。彼は童貞を守れ、童貞に誇りを持て、童貞の讃歌を歌おう、とは言っているけれど、実は性交をまったくほんとうにしたくない…というのでもなさげ。誘われればいそいそと、合コンに出席しようとしたりするし。
ましてこの童貞王こと≪劉備獣四郎≫には、『性欲がない』というのでは、まったくない。いやそれどころか、ゾウアザラシが極海の氷上にハーレムを築いていると聞けばじゃましに行き、サケの集団での生殖が気に喰わないと言ってじゃましに行く、といった彼の≪行為≫らは、明示的に『嫉妬心』からのものに他ならないわけで。

そしてそのような彼の強力な性欲が、彼と生き別れになった『息子』の劉禅にこり固まって海上で超巨大化し、パニックをひき起こす。そこで劉備は何とかそれをソフトになだめようとするが、対して孫策は店のPRのために、その勃起を処理してみせようとする。そして曹操は、勇敢にもそれを性的対象とみなしてアタックをかける(!)。
かくして3人の英ケツが大詰めで、やっとそこで出遭(いそこな)ってしのぎを削りあう。…というこの作劇を、『巧妙である!』とほめる気がなぜかしないが。ともあれ筆者には、特に合理的そうな理由もないまま、劉備が自らの童貞を誇りそれを守ろうとする、ということのふしぎさが強く印象に残ったのだった。

 『熱き性欲 秘するが花よ
 子孫残さず 夢残せ』 by 劉備獣四郎(p.138)

ところで皆さまは、精神分析の≪昇華≫という用語をご存じやも知れない。超簡略に言ってしまえば、それは性欲がスポーツや学業によって発散されるようなことだが…。別の言い方だと性欲を、人間を駆動する一定量のエネルギーと見て(力動論)、それをあっちで使用してしまえばこっちで使う分がない、のような話だが…。
ただしそういうことが、『現にある、必ずある』とまでのはっきりした話ではない。むしろそれは『なければ困る』、分析理論のつじつまが合わなくなって困る、という理論的要請の産物のような感じもある。
しかもフロイトの理論の特徴として、万事を『結果から』事後的に論じているのであり(ゆえにまちがわないのだが!)。つまり、人が何か大きなことをなしとげたのを見て、『これは性欲が昇華された結果であろう』と言うのだ。その逆が可能なのかどうかは、実はいまだに分かったことではない。

だから。『性欲をもてあましています』と訴えるクライアントに対して、『≪昇華≫をしなさい。何か別のことに打ち込みなさい』と告げる、という分析家の対応はないはずだ。むしろそのクライアントの問題は、性欲なんて誰もがもてあましているのに(!?)、それをわざわざ言う、というところだろう。
かつまた。そうやって考えたら精神分析というおしゃべりは、関係なさそうなあれこれの症状を聞いて『それは性欲のしわざです』と答える、そのルーチンばかりを大得意にしており。そして、『ではその性欲をどうすれば?』というその次の問いに対しては、とりわけ巧みな返答がない。
で、われらのヒーローたる劉備獣四郎が、『童貞を守るぞ!』とやたら言い立てていることが、その≪昇華≫をしようという試みになっているのや否や? それはまあ、明らかに成り立っておらずダメなわけだが。

そして、そろそろ今作の『童貞讃歌』というフィーチャーについて、そのなぞ的性格について、最終的なことを。
『生まれたときから童貞なんだから、これでいいんだ!』、『さいしょに地球上に現れた生物は必ず童貞だったはず、よって童貞は正しい生物の姿だ!』、といったような劉備の主張に対し、『じゃあ、劉家は先祖代々りっぱな童貞だとでも言うの?』、と返したいようにも思いながら。だが、彼においてかんじんなのは、口で言っている≪貞≫という部分よりも、実は≪童≫であり続けたいということなのでは…という気がする。

つまりはよくある、成熟を拒否しているということだし。その傍証として、劉備は実家からの仕送りで生活してるそうなので(p.65)、ほんとにまったく成熟できていない。
かつまた、≪生殖≫とは『自らの死をわが身に織り込む』ことでもあるので、そこをもまた劉備は拒否したいのではッ? すなわち、交尾をするとそれっきり死んでしまう生き物が多いということは、おそらく皆さまもご存じの事実。
そういえば超うろ憶えだが、確か尾玉なみえ先生がどこかで、『羽化するとすぐ死んじゃうし』と言って幼虫であり続けるセミを描いていたような? そしてそのことは、『交尾すると死んじゃう』、というふうにも描きうる。

かくて劉備と彼の率いる童貞獣どもは、性交というものの意味とその結果を引き受けたくないので『童貞フォーエバー!』なのだが。しかしその性欲はつきず、そして≪享楽≫に対する興味は超しんしんでもある…という葛藤煩悶を味わっているのだ。
ただしこの態度を、とくべつに偽善的だと言う気もしない。なぜならば、『性交というものの意味とその結果を引き受けたくない』とは、ひじょうに多数の“誰も”が考えていることなので。
そこを一般人らが姑息なテクノロジーや意図的な忘却(むしろ≪抑圧≫)で処理しているところを劉備らは、とりあえずまじめにそこへ向き合っているのだ。で、その表面的で一面的なまじめさが、われわれには喜劇的に見えるのだが!

と、いちおうの答を出してみたところで、この堕文はここらで終わる。なお、確かルノアール兄弟には他にも≪童貞≫をテーマにした創作があったはずなので、そこで再びこの問題にふれるだろう。はっきり言って、実は現在≪童貞論≫はアツいと思うし。
にしても…と、さいごにオレの中のケモノは言っている。こんなりくつっぽいおしゃべりじゃなくて、今作の感想としては、『シマリスの周瑜クンがかわいー!』とか言ってすませとけばいいのに! ほんとに!

内崎まさとし「らんぽう」 - よるべなきものたちへ

 
参考リンク:Wikipedia「らんぽう」

少年チャンピオン掲載のハイパーなドタバタギャグまんが。この作品「らんぽう」が出ていた時期(1978-87)はちょうど、パンク、ニューウェイブ、ディスコ、スカ、テクノポップ、インダストリアル、ニューロマンティクス、ヒップホップ、ハイエナジー(ユーロビート)、ゴシックロック、ネオアコ、ついでに『おマンチェ』(マンチェスターポップ)…といった≪ポップ≫の歴史を飾ることばたちが、あまりにもまぶしく輝いていた時代ではあった。
で、その掲載が終わった1987年がアシッドハウスの誕生年だったということも、また何かちょっと意味ありげだ。それまでの“すべて”の眺めを変えてしまった、アシッドハウスという≪ポップ≫の新登場。その大刷新の発生をきっかけとして(?)「らんぽう」が引っ込んでしまったことに、何かすばらしいいさぎよさを感じてよいような気もしつつ。

ではありながら、なぜいまというときに「らんぽう」の話かというと? 別に大した理由ではないのだが、いろいろとこっち側の理由はあるのだ。

まず。先週の週末に筆者は、親族内の法事というヤボ用に出かけた。そこで筆者が注目したのは、いとこ夫婦の次男坊の2歳の男の子だ。それこそまさしく≪オイディプス以前≫のジェネレーションなので、『何か』をやってくれそう…と思い、自分はその行動に注意していた。
するとその子がすかさず、控えの部屋の床の間にズカズカと上がっていって、そこの飾りの掛け軸をグイグイと引っ張ってくれた(!)。それを見てあわてるその母親と、叱られてキョトンとする子どもと、そしてさわやかに笑いころげるわれわれ傍観者。『こういうところにも“ギャグまんが”の原点みたいのはあるなあ』と、そこで筆者は考えるのだった。

そしてそこで思い出したのが、楳図かずお「まことちゃん」(1976)、今作こと内崎まさとし「らんぽう」(1978)、そして鳥山明「Dr.スランプ」(1980)といった、あまりにも元気ありすぎなキッズの大暴れを描く作品たちなのだった。で、それらの中でも自分がいちばん好きだったのが、今作「らんぽう」なのだった。むしろ「らんぽう」を先に見ていなかったら、「Dr.スランプ」を愉しむことはできなかっただろう…と感じる。

かつ、近ごろこのブログに米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)という書名をよく見るが。その本の記述が当時の最新の≪ギャグまんが≫の、「うる星やつら」、「らんぽう」、「Dr.スランプ」…というあたりで終わっている。で、わりと筆者が意外に感じたのは、そこで「らんぽう」の評価が意外に高いということだ。
…あ、いま確認してみたら、そんなには「らんぽう」をほめてなかった(ちくま文庫版, p.257)。ストレートに『幼稚!』とは言ってない、それだけ(!?)な感じだ。
にしてもいままで、筆者が「らんぽう」を好きだと告白すると、必ずや『幼稚!』と大断言されてきたもので。そうとまで直接は言っていないだけ、「戦後ギャグマンガ史」の記述を光るものと感じた、そんなことだったかも知れない。

では、ここらで作品「らんぽう」のあらましをご紹介しておこうかと。さいしょはふつうの中学生、というより目立った秀才くんだった主人公は、UFOにアブダクションされてから、どんぐりまなこに黄色い髪に赤い道着がトレードマークのスーパー野生児≪らんぽうクン≫になってしまう。
そして担任の≪角丸先生≫のアパートに上がりこんで帰らないので、迷惑に感じた先生がクラス名簿で彼の住所を確認すると、何とそれが先生の部屋になっている(!)。そうしてそこに居ついてしまったらんぽうクンが、天才ネズミの≪チュー太郎≫を子分として暴れまくる姿が描かれる。どうもこのチュー太郎クンについては、変身前のらんぽうクンが持っていた知性を受け継いだもの、という感じがある。
かつ作品の進行につれて、番長のカラ太郎(顔がカラスにそっくり)、近所のネコ軍団、マッドサイエンティストのDr.補佐望(ほさもち)、などなどがにぎやかにお話に参加してくる。そうしてわれらのらんぽうクンを一貫して見守っているのは、お話の最初からそれとなくいい仲のクラスメイト兼ヒロイン≪むつみたん≫だ。

むしろ今作はむつみのモノローグから始まっているので、その“すべて”を彼女が見たこと、とも読める。まっとうきわまるヒロインが、なぜか異常きわまるヒーローを温かく見守っている。
追って出たゆうきまさみ「究極超人あ~る」(1985)もそうだが、ついでにマイナーな作品だと吾妻ひでお「チョッキン」(1977)もやや近いが、こうした作品構造には注意していていい。われわれ読者は、その心やさしきヒロインをフィルターにして作品世界を見ている。
先だった「おそ松くん」や「オバケのQ太郎」、そして「ハレンチ学園」や「がきデカ」らにもヒロインっぽい女の子らが登場するけれど、それらに対して異なるものがあることは明らかだ。やや近いのは≪バカボンのママ≫というキャラクターの存在かも知れないが、しかし妻とか母親とかいうポジションになっていては、またちょっと違う感じ。

ところで筆者が「らんぽう」という作品で、いちばん共感をもって見ていたのは、ノラ犬の≪ヒマ犬≫と呼ばれるキャラクターなのだった。何せノラ犬なんて必ずヒマなものだろうと思えるが(そうかな?)、ともかく彼は、たいてい『ヒマじゃ~』と言いながら登場していた。
で、そのヒマ犬くんが主人公をつとめた1編が、ひじょうに心に残っているのだ。しかし本が手元にまったく残ってないので(持ってたのだが)、ぞんぶんに記憶『だけ』にたよってそれをご紹介すれば…。

ノラ犬といえども喰っていかねばならないとして、われらのヒマ犬くんは干してある洗たくもののパンティか何かを盗み、それをどこかの童貞っぽい少年に売りつけてお金にする。当時は『ブルセラショップ』なんてものはなかったはずだが、言わばそれを不法に先取りしたビジネスを展開する。
ところがそれを『刑事らんぽう』に摘発されて(そのお話に限り、らんぽうクンが刑事役をつとめている)、あわれヒマ犬くんは更正を誓ってやっと牢屋を出ることができる。しかし、われらのヒマ犬くんは吠える。そうとは言っても、ノラ犬にどういう『やるべきこと』があるのかと! さもなくば、どんな因果で人間どもにシッポをふって、飼いならされなければならないのかと!
悩んだ末に、彼はある家の飼い犬になる。そこのお坊ちゃんのおもちゃになって、エサをもらって犬小屋におさまって、『悪くもねェな』といったんは思ったが。しかし彼はその夜、『野生の血が騒ぐんでやんす』…とつぶやきながら、自分をつないだロープを喰いちぎる。
そうして夜の町に、『どろぼうよー!』という女性の悲鳴が響く。そこでらんぽう刑事が『またヒマ犬がやりやがったか!』と叫んで現場に急行すると、そこではわれらのヒマ犬くんが、別の人間の下着ドロボーをとり押さえているのだった。
というわけで、びみょうには更正できたようなヒマ犬くんだったが。しかしけっきょくのところ、ノラ犬という存在の生きにくさはまったく変わらない…のようなつぶやきで、お話は終わっているのだった。

どういうわけだか、いま思い出してもまったくもって、『これは自分のことだなあ』…と感じないではいられない。いや、筆者は下着ドロボーをやったことはないけれど!
通じているのは、このくそくだらない社会を心そこ軽蔑しながら、そのどん底で細々と生きているばかり、というところでか。そしてヒマ犬くんと同様に、自分もある種の『野生のキバ』を持っているような気がしつつ、だがそれは役に立たず使うことの許されないものなのだった。

ところでこのエピソードについては、付随する想い出話があって。才能もないのに筆者がパンクバンドをやっていたころ、たぶん練習スタジオの帰りか何かの機会、バンド仲間およびその友人らと、池袋の喫茶店でおしゃべりしていたときに。
どういうわけだか自分は上記のエピソードをとうとうと語り、そして『われらのヒマ犬くんは、ランボーでありムルソー(カミュ「異邦人」のヒーロー)なんだヨ!』くらいなことを、つい力説してしまったのだった。超・しまったッ!
いま思い出しても、そのときの人々の真っ白けな反応には身が縮む。しかもいま現在、この場においても『まったく同じこと』をやらかしているわけで…! 何せ筆者には、『人が聞きたがるようなことを話す』という能力が、ゼロ以下にしかない。えへん!

ああ…。かくて筆者とヒマ犬くんには永遠に、この世には身の置きどころがない。そして≪われわれ≫のごときノラ犬らのことを描いてくれた「らんぽう」という作品、それに対する想いが消えることも、たぶんまたないだろう。

2010/02/25

Hello World - 皆さまへのごあいさつ など

ご来訪の皆さま! ようこそおいでくださいました、ありがとうございます! ほんとうに感謝のいたりです!
と、ごあいさつ申し上げているわたしは(もちろん)当家のホストでございます。こちらではicenervを名のっております。
さてこの2010年2月になってから、わりと更新させていただいておりますが。どうしていまごろのごあいさつか、と申しますと…いやその。ろくにコンテンツのないブログに『まえがき』などを付けるのは、あまりにもおもはゆかったので…!

それはさておき、このブログについて、いくつか。

●このブログ『Witzkrieg boP - ギャグまんが研究』は、≪ギャグまんが≫についての何かであろうとする場所です。それはギャグまんがを愛する皆さまの、よき下僕(しもべ)たるべきものです。
●ここに関して、格別の変わったルールはありません。コメント・リアクション・被リンクなどを歓迎いたします。あとよく分かりませんが、トラックバックやRSSなどもふつうに。
●ここに掲出している堕文には『精神分析』の用語がよく出ていますが、あんまり気にしないでかまいません。別に、その道の制度的な専門家が書いているわけではありません。なのですが、しかしそれなしで≪何か≫を考えることがひじょうに困難…という理由で出ている限りです。

と、ひじょうに万事がかんたんです。おきらくにまいりましょう!

なお、『絶対に』というほど確認できていませんが、しかしギャグまんが全般を専門とするレビューサイトは全世界に当家だけのような感じなので(?)、そこらでぜひがんばっていきたいと存じます。
目ざすはとうぜん、かの孤高すぎる大名著、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」に≪何か≫を付け加えることです。その本が1981年あたりの記述で終わっておられますので、それから約30年間の穴を埋めようとすることです。ただ、わたしにおいては『ジャンル史』よりも『作品論』が、もっぱらの興味の対象でございますけれども。

とは、いやはや! わたしめごときがあまり大きなことを考えてもいけませんが、しかし当面のタスクと考えていることがございます。えーとまず、昨2009年の夏から作りかけで放置しているリストがございまして。それは1989年「伝染るんです。」以降の、わたしが読んでみて『これは』と感じたギャグまんがをリストアップしたものですが…(↓外部リンク)。

 ≪外傷的≫ギャグまんが, 致命的総進撃 (ミラー)

ブラウザが自動的にカウントしてくれるところで、リスト中に作家名が122個。作品数は、もう少し多いです。それは別に『名作づくし』というものでもありませんが、ともあれこれらについて、できるなら少なくとも1つずつの記事を提供していきたいのです。
しかし3日に1本の記事を書いても1年ちょっとで終わるとすれば、よく考えたら大した仕事でもございません、です、が…っ!?

かつ。現在のギャグまんがシーンをどう見るか、ということですが。わたしはそれを、けっこう盛況だと見てよろしいのではないかと存じます。
いや、このあたりから、話は余談になり気味ですが。つまり、ここからちょっと『ギャグまんが論』になり、あわせて『媒体論』にもなりますが。
まず、いかなるまんが誌にも必ず、多少はギャグっぽい作品が掲載されています。まんが誌どころか、ほとんどあらゆる雑誌に、多少は笑いを求めているようなまんがが掲載されています。政治・経済・宗教の専門誌にさえもそれはあるようですが、いまはまんが誌に限って検討することにいたしまして。
そうしてそれは、大いに理由のあることです。

なぜならば非ギャグのまんが作品らがあまりにも『想像』なので、そこにギャグ作品が≪正気≫をさし向けて中和しないと、読者がふつうの精神状態で媒体を離れることができなくなってしまうからです。非ギャグだけでは、バランスよくないのです。
つまり。むかしわたしが1970'sの『りぼん』について申したことだと、狂気と非日常に満ちあふれた一条ゆかり先生の作品に対し、土田よしこ先生のギャグ作品が対峙し拮抗し、それで媒体のバランスがとれていた。…というわけです。
ですから土田先生がその名作「きみどりみどろあおみどろ」や「わたしはしじみ!」で、同じりぼん掲載の「アラベスク」や「デザイナー」に対してひじょうに毒々しいパロディ攻撃をしかけたことを、悪意のしわざとはまったく申せません。むしろそれは、媒体の要請するところでありました。そのときりぼんは、最高レベルの作品同士が激突しあう至高の戦場でありました。真にすぐれた媒体とは、おそらくそうしたものでございましょう。

そうとしまして、その一方。21世紀初頭という現在のまんが出版界について、ともかくも媒体の数がひじょうに増えている、ということは確かそうです。そして媒体の数が増えるということは、ギャグまんがにとってのチャンスも自動的かつ形式的に増える、ということです。『いかなる媒体にも必ず』、それふうなものの存在が要請されますので。
そしてわたしの感じですとじっさいに、この当代にギャグまんがの盛り上がりはある、という気がいたします。めんどうなのでわたしは数えておりませんが(!)、1970's、80's、90's、2000's…と時期を区切ってみて、注目すべきギャグ作品のタイトル数は、たぶん下るにつれて増えているのではないでしょうか? しかし、すごい大物のタイトルが増えている、という気がしない感じもございますが(…このことについては、またいつかふれます)。

かつまた。わたしの申しております≪ギャグまんが≫とはどのようなものか、ということに、多少のご説明が必要やも知れませぬ。
それはまず、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」の史観に従いまして、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)という大ブレイクスルー以降の作品ではございます。ただしその名著は、『なぜそれが大ブレイクスルーなのか?』を、かんたんにひとことで記述してはおられぬようにお見うけいたします。

補足いたしますとその名著は、『ギャグマンガ』なる語を、広義と狭義で意識的かつ自在に使い分けておられるようです。何せ本来まんがとは、『笑い』を主眼にしたポピュラー・アートです。そういうところからして、意図的に笑いがとれていそうな作品らすべてを、広義の『ギャグまんが』と見ることは可能でございましょう。
ですが、「おそ松くん」とそれ以降の流れの中には、そうしたものとは異なる≪ギャグまんが≫のコアが存在する。…と、たぶんそうした見方がその書に潜在するかと、愚考いたしますが。
しかしそのコアとは≪何か≫が、著述中で明示されきってはいないように存じますのです。諸賢は、いかがお考えであられましょうや?

で、そこをわたしめが独自に補完いたしますと、『“外傷”的なものの提示による笑い』という意味での≪ギャグ≫が初めて集中的に描かれた、そのことによって「おそ松くん」の登場は、超画期的なブレイクスルーだったのです。よって狭義の≪ギャグまんが≫とは、『“外傷”的なものの提示による笑い』をクリエイトしている作品です。関連する記事として[こちら]、『小此木啓吾…赤塚不二夫「おそ松くん」…etc.』をご参照あらばさいわいです。
かつ、その「おそ松くん」を『ギャグまんが第1世代の登場』といたしまして、続いた1974年の山上たつひこ「がきデカ」を第2世代、そして1989年の吉田戦車「伝染るんです。」を第3世代の登場と、わたしはその後の時代を区切っております。

ですので、わたしがたまに申しますところの『外傷的ギャグまんが』ということばが自分ではおかしくて、それはリダンダンシー(冗語法、『まっすぐ直進!』)です。しかしその場合、『外傷的』の語にくっついている『ギャグまんが』の語は広義のそれであり、あわせて狭義の≪ギャグまんが≫を示しているのです。
そうして≪ギャグまんが≫というものを研究しているうちにわたしが知ったのは、けっきょく広義の『ギャグまんが』は排除できかねる、ということです。なぜならばコアな≪ギャグまんが≫の中にも、スタイルとして古典的な笑いが、楽勝で並存しうるからでございます。

1つの作例として、前にもわれわれが見ました野中英次「魁!! クロマティ高校」(2000)。それは全体が不良まんがのパロディでありつつ、その中に≪不条理ギャグ≫、古典落語の『与太郎』チックなコント、そしてシチュエーション・コメディや社会風刺やドタバタなどが平気で並存する…と、たいへん複雑なものになっております。
その中にはわれわれの考える≪ギャグまんが≫のコア(=外傷的なものの提示)が存在しますが、しかし「クロ高」をそれだけに徹した作品と述べては、大うそになってしまいます。で、これに限らず、全般にそういう感じなのです。

つまり。狭義の≪ギャグまんが≫を論じようとしても必ず、内在的にも広義の『ギャグまんが』を相手にせざるをえないのです。そもそも古い古い「サザエさん」を見ていてさえ『外傷的なものの提示』がそこになくないですから、潜在的・先駆的にはひじょうにむかしから≪ギャグまんが≫は存在したのです。
ですがゆえ、また。第1世代「おそ松くん」(1962)→第2世代「がきデカ」(1974)→第3世代「伝染るんです。」(1989)…などと申しておりますが、その間に直線的な≪進化≫があったなどとは、とても申せませぬ。それ以前にはまったくなかったものが、それぞれの時点で現れた…とは見ておりませぬ。
それはただ単に、流れの中のエポックとなるような作品で区切っているばかりなのです。ただしその区切りが必要かつ適切なものである、とは考えておりますが。

…おやっ? ほんの手短にごあいさつを、というつもりで始めた堕文が、いつしかたいへんなことになってしまいました!
たいへん失礼をばいたしました、このようなことはこのくらいで。かくのごとくいたらぬものではございますが、どうかひき続き、皆さまにはよろしくお願い申し上げます! ご高覧、まことにありがとうございました!

なお、以上の文章は、ボードレール「悪の華」(1857)の巻頭詩『読者へ』のパロディのような気もいたします。『偽善の読者よ! わが同胞よ!』…という低劣なメイ文句、あれでございます。
かつまた近ごろ≪執事≫という用語が流行り気味でございますので、わたしめをそのくらいの皆さまのしもべとお考えくだされば、実にありがたき倖せとも存じます。ここまでをこういう調子で書いてきましたら、何か自分でそういう気がしてまいりました。
あ、いや…。現実世界でのわたしめのランクからいたしますと、≪執事≫などという呼称はりっぱすぎではございますが…っ!

中都える「遊楽少女」 - 『ノーマルでないこと』にはげむ乙女たち

Mid 1990'sの『ASUKA』掲載の4コマ・シリーズ。これの単行本(あすかコミックスDX, 全1巻)はA5版でカバーは蛍光インクべっとりの特殊印刷で、本文にも4C2Cのカラーがたっぷりと、なかなかゴージャスなものになっている。
そのぶん定価のほうもお安くはないが(777円+税)、もちろん筆者はブックオフで105円で買ったものではある。何しろいまでは、まともには入手できない本でもあり。

さて、これに先立つ4コマ界の流れを見ておくと、まずは1978年に「がんばれ!! タブチくん!!」によるいしいひさいちのブレイクが…。というと話が遠大になりすぎなので、途中を略して、1985年に相原コージ「コージ苑」、87に喜国雅彦「傷だらけの天使たち」、そして89に吉田戦車「伝染るんです。」らが登場。といった1980's後半の青年誌の4コマの名作らに関して特記しとくべきは、いずれも豪華な特装版としてベストセラーを記録したことだ。

で、1990'sにはその流れが少女誌の4コマにも波及し、新井理恵「×-ペケ-」を皮切りに、きんこうじたま「H -アッシュ-」、にざかな「B.B.Joker」、そして今作らが、すてきな特装版で刊行されている。ちなみに書籍としての「ペケ」を特徴づける『小学館 フラワーコミックス・スペシャル』というシリーズは、「ペケ」を第1弾とするものだったそうだ(「ペケ」第7巻, 1999, p.5)。
かつ、「ペケ」以降の『少女まんがの4コマ』については、そこに質的な変化があると考えられる。1971年の『マーガレット』掲載のところはつえ「にゃんころりん」(←これも大名作!)のようなものとは、いろいろ異なる。
内容的にもそうだが、何しろ画面が違う。少女まんがならではの華麗な絵柄を4コマにぎちぎちと描きこむ…という方向性で大きな成功をおさめた作品が、「ペケ」以前にはない感じ。ゆえに、「ペケ」が初めてこの分野で特装版での刊行となった、その必然性はある(新書版では見づらすぎるので!)。

そして『4コマでありつつもぎちぎちと描き込む』というのは、「傷だらけの天使たち」が先駆けた傾向かと思うし。また「ペケ」という作品の別コミ掲載時、その後期におけるポジションは『もくじの後の巻末2Cページ』だったらしいが。それはスピリッツ誌で同じ位置を占めていた「コージ苑」や「伝染るんです。」に対応する、『ウラ面の目玉』としてのフィーチャーだったかと。
そうこうとすれば。かの名著、橋本治「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」(1979)にて確か、『少女まんがの“ギャグ”は、少年まんがのそれより5年とか10年とか遅れてる』のような指摘があったはずで(土田よしこ先生に関するチャプターで)。そこで言われていたのは、たぶん内容面のことだが。
それもさりながらていさい面において「ペケ」という作品は、約4~5年ほどの遅れをもって、当時の≪ギャグまんが≫の先端だった青年誌の4コマに追いついたのだ…と見られるのでは?

で、そのような流れの中から、今作こと「遊楽少女」も世に出たのかな…と。そこまでを見て、やぁ~っと今作のことだけど! 

コレは筆者が意識的に≪ギャグまんが≫をあさり始めたことで、うれしくも初めて出遭え(そこね)た作品ではある。そしてどういったお話かといえば、うわさの『花咲く乙女たち』とやらが集いまくっている女子校に、ユリとバラの花々が咲き乱れる。
『バラはおかしくない?』とお思いやも知れないが、それは主として、乙女らの脳内に咲き乱れてるのだ。ついでに申すと、不気味なキノコまでがニョッキリと教室に生えてきて、作中で活躍したりもする。

…まずはこのお話のコアに、ボーイッシュでカッコいい女の子≪さとみ≫と、彼女の親友(?)かのように振るまう女の子(?)という2人がいる。主なる問題は後者なのだが、その人相を書いておくと、みょうにタテに長~い楕円形のツルンとした顔をしてて、パッチリと眼が大げさに美しくキレイな柳眉、そして毛髪が3本しかない(!)。前髪らしき1本と、両サイドの『おさげ』らしき2本が、それぞれ角ばった渦をまきながら。
という彼女の初登場シーンがまたひじょうに強力で、教室でさとみへとふつうに話しかけてくるのだが。しかしさとみは、そこでガッツンと固まってしまう。なぜならば、目の前の相手が知らんヤツだというわけではない、がしかし、

 『わ…わからない!!
 いったい いつどこで こいつと出あったのだろうか?
 そんなバカな~? 』

という、あまりささやかでもない不可思議につきあたったからだ(p.4, 『ナゾの女』)。
で、そのふしぎさのあまりに思わずさとみは顔面を青黒く(?)するのだが、一方の『ナゾの女』はそのさまを見て、『変なサトミちゃん』とか言ってすましている。…かくてわれわれは、≪狂気の世界≫への扉を開いてしまうのだ。

『ナゾの女』と言われているが、このふしぎな女の子(?)の名前が、全17話中のやっと第10話にもなって明らかになる(!)…というのが、またあっぱれなところだ。で、その名前が≪果南遊(はてな・ゆう)≫と言い、それを聞いたさとみは、『そんなイカした 名前だったのか こいつ…!!』と、すなおに感心する(p.51)。がしかしこの名は、『ナゾの女』をカッコよく言い換えただけなのでは?
で、ストーリー的なものとして、ヒロインのさとみに対し。このハテナちゃん(らの大勢)が『百合』的なことをせまっていくかと思えば、近くの男子高の純情ボーイが遠くから彼女に想いをよせたりする。ただしこの少年はさとみを男子だと思い込んでいるので(!)、『自分がホモだったなんてっ』…という悩みをかかえつつ。

そしてこいつらの周りにいて状況をかき乱しかき廻すのは、『ホモの会』という部活(?)の部長≪キタジー≫。この少女は…申すまでもなさげだが、いまで言うりっぱな≪腐女子≫に他ならない。『レズもいいけど ホモもいいわよ』などとさとみに告げて、ノーマルでないことに関しては大いにやる気まんまん(!)、というところを見せるのだった(p.9)。
そこでさとみは『レズじゃねえ!!』と言って怒り、つい手に力が入って、持っていた牛乳か何かのパックをギュッと握りつぶす。するとその中の液汁が、ささっていたストローから『ピュッ』と元気よく飛び出す。等々の情景をヨコから見ていたハテナちゃんは、なぜかそのほほをそめて、『まっ』…とだけつぶやくのだった。

さてこのふかしぎな作品について筆者は、その意味するところを知ってはいる。が、別にそれを述べたくはない。むしろ、このよじれた愛にあふれ奇妙な花々が咲き乱れる≪狂気の世界≫を、いとおしくかけがえなきものと思うと、いまはそれだけ申しときたい。

【おまけ?】 作中のお正月の回でハテナちゃんが、『明けまして おめで とうり魔!!』と、まったくもってままならぬダジャレを言いやがる(p.65)。みょうに筆者が気に入ったので、皆さまもお正月に言ってみて! ぜひ、大ひんしゅくをかってみて…ッ!!

2010/02/24

新山たかし「半熟忍法帳」 - 輪舞, セクハラと暴行致傷との!

 
参考リンク:Wikipedia「半熟忍法帳」

前に見た「ぱらのい屋劇場」のあろひろし先生に並び、こちらの新山たかし先生について、常に『読者にやさしい作品』を描いておられるなあ…ということを感じる。ご両家のお作のすべてを見ているわけではないけれど、それらについて、思い出したときにやさしい気持ちになれるような作品ばかりだ、とは言える。すばらしい。
ただし、まんがとはそういうものなのか、という疑問もある。大ヒット作とか歴史的名作とか言われるものらには、もっと読者を挑撥したり、急に途中で苦いものを呑ませてきたり、そして解けないような謎をしかけたりしている作品らの方が、ずっと多いのではなかろうか?

だからこのご両家は、まんが読者層に好かれているわりには人気がない(!)。その創作のベースの善意は必ず伝わっているのだが、しかしそれで熱狂的に愛されるということもなく、現在まで『そこそこ』で推移している。『いい人』としてスルーされている、というふんいきだ。
で、このようなポジションで成功されている作家はというと、それは「こち亀」の秋元治先生かと。特に『熱狂的に愛されるということもない』って感じなのだが、なぜかこの30年ばかりもジャンプの人気投票の中位をキープされているそうで。しかし筆者には「こち亀」がさっぱり分からないので、そのびみょうな人気の秘密も分からない。

ま、そんなことはともかくも。いまここでは、新山たかし先生の現在までの代表作と目される「半熟忍法帳」(ギャグ王コミックス, 全9巻)を見ていこうと。

さてこれの掲載誌が、当時のエニックス社の刊行による『月刊少年ギャグ王』(後に『GagOh!』)だったという話だが。すると≪ギャグまんが≫を愛するわれわれには、この誌名を見てるだけでも、想うところがいろいろと生じがち。
…だが、申し訳ないことに。実は筆者はこの媒体を、まったく見たことがないのだった(!)。中身どころか、その表紙(の実物)を見たことさえもない。いまもそうだが、まんが雑誌とかめったに見ない仔だったので。どのような媒体だったのだろうか…?

というあたりを、今作のカバー見返しや巻末にある『ギャグ王コミックス』のリストから臆測しようとするも。だがしかし、『何ンかパッとしてそーなタイトルが…チョッとねーな』、という想いしか浮かばない。かつ題名らを見てて、『そもそも“ギャグまんが”なの?』という疑惑、それを呼ぶようなものが目につきすぎ、とも指摘しつつ。
あげくに分かるのは、けっきょくは今作こそが、ニホンのまんが出版史に埋もれた『ギャグ王』という媒体を代表する作品なのだろう…ということだ。だいたい今作は『ギャグ王』の創刊から休刊までの約5年間、ずぅ~っと載ってた作品らしいし。そしてその全9巻というボリュームに匹敵するスケールの作品が、他にはないようだし(…池田匠「すすめ!! ダイナマン」というタイトルが、やや及ぶていど)。

ここでやや違うようなことも申すが、筆者の手もとに『comic GAGUDA』第2号というムックがある(2005, 東京漫画社)。約3年ほど前に下北沢の古書店で、確か105円で買ったものだ。で、これは約200Pにわたって≪ギャグまんが≫だけが載ってるスバラしぃ媒体…だと申したいのだが。
しかし通読してみたら、残念ながら笑えるところが1つもなかった。その内容をサブカルっぽいというにも、しかしヤングにグッと来るよーな要素がなさすぎでは、と…。いまでも出ていて、調子が上向きであるならば倖いだ。

かくて。われらが求めぬこともない、『ギャグまんが専門』の媒体…それっぽいのが2つ、あわせて失敗だか不成功だかに終わっている、という歴史的事実。その教えるところは、いったい≪何≫なのだろうか? まぁ2誌とも、『ギャグ専門だからマズった』というか、それ以前のところに何かあったようにも想いつつ。
ただ、1つ申せば。ギャグまんがというしろものに、『一般のまんがへと対抗している存在』との性格を見るとするなら、『ギャグまんが専門誌』は意外とよくないかも?…とは指摘いたしとく。ギャグと非ギャグの作品同士が、『お互いを引き立てあう効果』が失くなってしまうわけなので。

ま、そんなことはともかくも、「半熟忍法帳」の話をォォッ!

さぁてだが、『はじめてのおつかい』てのも重要なイベントではあろうけどしかし、男の子らにとっての『はじめてのエッチなまんが』、というモノもひじょうに重要だ。そこでうかつな作品を見てしまったら、とんでもない生涯の≪性癖≫が身につきかねないので…ッ!!
で、筆者の世代あたりの「ハレンチ学園」とか、追っての上村純子「ルナ先生」シリーズとかに続いて、この「半熟」を『はじめてのエッチなまんが』とした少年たちが…かっての少年たちが、わりと少なくないような話を聞く。…どうなのだろうか?

とまで言ってから初めて内容にふれるけど、今作は戦国っぽい時代の少女と少年ら4人が、見習い忍者として修行にはげんだり危険な任務に臨んだりしながら、たくましく育っていく姿を描く。根本的にはきわめて健全かつ前向きに、≪成長≫というテーマに取り組んでいる創作かと見れる。
しかし、これを表面的に見るならば。今作「半熟忍法帳」は、そこから≪セクハラ≫をとったら、その後に残るものがなさすぎ…というあっぱれな作品でもある。

…筆者は歴史をよく知らないのだが、かって戦国っぽい時代には、『セクハラ=善』だったのやも知れぬ。かつまた、みょうにかんたんに人が死ぬような時代には、≪生殖≫が大いなる美徳だったのやも知れぬ(←根本的には、常にまちがいない。客観的事実として、現代のニッポン人らは“生殖”に対して後ろ向きすぎ)。
だから…かどうかはあいまいにしておくが、今作の主人公≪雷太≫は、敵陣に潜入して逆に鉄砲隊の包囲をこうむっているような局面にて『さえも』、常にセクハラ発言の敢行に余念がない、かつためらいがない。と言うと何ンだかエラいよーな気もしてくるのだが、そしてそのセクハラの主な被害者であるヒロインの≪深雪≫は、細っこい身体にありえざる怪力の持ち主で、そのパワーにまかせたたいへんなお返しで雷太に応じる。

そうして、そこが今作の見どころだ(ッ!)。巻を追うごとに深雪によるお仕置きは超過激なるものと化し、よって雷太の身体の流血や骨折は、ごくごくふつうの≪日常≫の風景となる。
で、そのケガが次のページでもう治ってたりするのは、ギャグまんがの愉しいところとして。そしてこの≪セクハラ発言 vs. 暴力≫という応酬の大エスカレーションは、見てるこっちにもふしぎな高揚感をもたらす。

ところでセクハラと申しても、雷太は深雪に対し、えっとその…。たとえば『チチもませろ』、などと言ってはいない。むしろそれなら、深雪はオッケーなのだ(!)。それをそうじゃなく、深雪の胸がフラットすぎて『揉みようが ねえ』などとアマノジャクを言っているから、彼はキツぅぅ~いお仕置きをこうむっているのだ(第6巻, p.29)。
つまりほんとうはアツアツで相思相愛であるこのお2人さんは、≪性交≫という行為をやらざるために、要らぬ侮辱と激しい暴行をかましあっている。そしてその応酬を≪性交≫に替わるものとして、それぞれが大いに≪享楽≫しているのだ。

で、この2人に対して、見習い仲間の≪かすみと疾風(はやて)≫のカップルは、もっとふつう気味な男女交際をしているようなのだった。この≪差異≫は、なぜ生じるのか?(…それを『性格の問題』などと言っても、答にはならぬ!) 
筆者の思うに≪かすみと疾風≫に比し、深雪と雷太の方が…そのいわゆる、性欲が強いのではないかと。『性欲が強い』もバカっぽい表現だが、確かフロイト様もどこかで使ってらしたはず。やり始めたらとどまるところなさげという自覚があるので、そこを慎んで修行中の身である彼らは、≪性交≫に替わる≪享楽≫にはげんでいるのかなあ…と思うのだった。

よって。ここまでを見た上では何を今さらだが、われらが大フロイト博士の示されている、『“否定”は、肯定である』という正しいテーゼにより、『深雪には性的な魅力がない、なさすぎる』のような雷太の言表は、ソレとはまっったく正反対の気持ちを表している。
しかしこの少年は、自らの性欲を野放しにはしないために、真意の逆を言っているのだ。かくて、まったくがまんのなさそうなやつが、実は意外に大いなるがまんをしている…という、この事実は見とくべきだ!

だがしかし、そうだからそれでよし…と結論するにもためらいが、なくはない。てのも、『はじめてのエッチなまんが』として今作のようなものを受けとった少年らが、いずれセクハラの鉄人になったり≪M男クン≫になったり、というおそれがなしとはしないから…。とは、半分ジョークだがッ。
そしてここまでを見ては思うわけだが、誰が言い出したことばなのか『健康的なエロス』などというものは、どこかには実在するのだろうか? いやいやそうではなくて、多少なりとも不健康なところがあればこそ、エロスはエロスなのではなかろうか?
これにかかわることとしてラカンちゃまは、『性交の遂行について男子らの側に、女子への“おとしめ”という心的プロセスの必要性』的なことを言われている。すると雷太から深雪へのセクハラ暴言という挙動を、そこらから見ることも可能そうではある。

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 追憶のハイウェイ1919

 
関連記事:三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 入門! アシッド・マシーンになるために!

「LET'S」の記事が出たところで、ちょうど3年くらい前にも「ぬぷぬぷっ」にかかわる堕文を書いていたことを思い出した。多少は読みやすくなるように手を入れて、それをここに再掲させていただく。次のパラグラフから。

(前略)「LET'S」全9巻の半ばあたりに、『キョウザメちゃん』と名づけられたシリーズあり。そこでヒロインを演じるようち園児≪キョウザメちゃん≫の、本名は杏本朝芽(きょうもと・あさめ)。
しかし無シンケイで横柄で人々を興ざめさせる言動が大とくいなので、キョウザメちゃんの異名をもつ。何しろ眼つきのへんにするどい子で、その顔立ちは整っている方だが、まったくかわいげがない。

そしてある日、朝芽はママと連れだって、『ファミコンショップ』へ行く。朝芽がプレステを欲しがったからだ(…これは、Mid 1990'sのお話)。ちなみに朝芽のママは『元ミス日本』の超美人で、そしていまもその時の栄光に生きており(!)、よってふだんの姿がワンピースの水着の上にマントと黄金のティアラという、あのカッコ。
そのママが店員に向かって、『ファミコンのプレステください』と、いきなりトンチンカンなことを言う(…いそうだなあ、こういうおばさま)。そこで店員が当惑しているので、『プレステは ファミコンじゃ な』い…と訂正しようとする朝芽の口を素早くふさぎ、ママはコソコソと言う。

 ママ『(ヒソヒソ) ママだって 知ってるのよ それくらい‥‥』
 店員『私だって 知ってますよ』
 朝芽『‥‥‥‥』
 (三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第5巻, 1996, KC少年マガジン, p.108)

すんごくつまんない“読み”をご披露するようだけど、≪知≫とはある意味、このようなものだ。『知って』たからって何もえらくないし、それらは何も役に立たない。『あなたの知っていることは私も知っている』、『それは私も知っている』、このようなおしゃべりがループしているばかりなのだ。

 分析家『ようは、あなたはマザコンなんですよ』
 クライアント『“そんなこと”は私も知ってますよ。フロイトでしょ?』

このような≪精神分析≫は地球上にないはずだが、しかし人々が戯画として考える分析は、そのていどのものかも知れない。あたりまえだが、そんなおしゃべりだったら、やっててもまったくしょうがない。
むしろそのような≪知≫を棄てるための分析実践、でなければなるまい。かつ、“フロイト”を棄てるために『フロイトを読む』のでなければならない。
ああ、つまらない。まったく冗談ぬき、『キョウザメ・ファミリー』は大したものだ! その名に恥じない興ざめパワーのばくはつを、かくてわれわれは見たのだ。

…いまだ≪これ≫をご高覧しておられる方々が、絶対にいないとも限らないので話を少々続け、もう1本のネタをご紹介。

そうして美人のママと社長のパパとの間で、つけ上がった生活をエンジョイしていた朝芽だったが、追ってお話は急転直下! パパの会社がつぶれてしまい、借金に追われ、キョウザメ一家はどこかへと夜逃げするハメに。さいご朝芽との別れを惜しんでくれたのは、たった1人の親友≪よう子≫だけだった。
それから5年後、よう子は転校した先の小学校で、奇跡的に(?)朝芽と再会。ところが、運命の過酷さ…! つけ上がりきっていたその過去の雄姿はドコにもなく、いまや暗くてビンボーな朝芽は、クラスのひどいイジメの対象に(!)。しかも日ごろイジメられすぎな朝芽は、せっかく再会したかっての親友に対してさえも、態度がよそよそしいのだった。

そうしてよう子が朝芽をかばってあげようとしている日々の中、クラスの給食費の一部が行方不明に。人々はごくとうぜんのように(!)、証拠もないのに朝芽にギワクをかける。
続いて学校からの帰り道、よう子は朝芽に『盗ってないよね』と(確認の意味で?)問いかける。すると朝芽はキョウザメちゃんだけに、『いーんだよ 別に疑っても どうせ』…などと、投げやりなことを言う。

 『私は信じてるもん 朝芽ちゃんは 盗ってないよ』
 『ホントに そー思ってる?』
 『うんっ ぜったい』
 『そっか』

引用ダイアログのさいごのところで、珍しく朝芽がはればれとした微笑みを浮かべる。それでてっきり『いい話』かと思ったら(…そんなわけはないのだが)、その足で朝芽はファストフード店に寄って、そこで買ってきたハンバーガーの中の1つをよう子に手渡す。

 『何コレ‥』
 『友情のあかし』(←さっきからの『いい表情』を、絶賛キープ中)
 『(‥‥‥‥‥盗ってるじゃん)』(同書, p.113)

なるほどわれらのキョウザメちゃんは、『給食費を盗っていない』とは、一貫してひとことも言っていないのだった(感心)。かつ『盗ってる』とも言っていないが、でも盗ってるのか?…と、いったん受け取れば…。
そうして盗っていることを自分は『知って』いるが、しかし朝芽の無実で無垢たることを信じている人が、この世に1人でもいて欲しい…とは、やはり思っているようなのだった。かくて人間は『知らないでいる人』を想定し、その存在をかてとして、自らの≪心理≫を構成する。

じっさいわれわれは、人々の『知らなさ』を無意識の前提として生きているはずだ。ささいなことでもいろいろと隠している(つもりな)わけで、それらの“すべて”を知っているのは、想定された存在≪大文字の他者≫だけ(のはず)だ。
ところがその『知らないはずの人』が、実は『知っている人』だと知ってしまった時の大ショック…! おそらくそれを、どなたもご存じでいらっしゃるはずなので、思い出してみていただきたい。

たとえばここで、わざとアホっぽい例を申すならば。男子中学生クンらは自分のエロ本コレクションの隠し方が完ぺきだと思い込んでいるが、しかし母親たちはそれを必ず発見ずみで、だが知らぬふりをしているのだ。
…と同様に(!?)、自分の娘らが≪大人へのステップ≫を1歩…2歩…など上がったりすると、母親たちは必ず何らかの徴候からそれを察してしまうとか。…しかし、ふつうは何も言わない。
で、まったく秘密が構成できていないにもかかわらず、隠しているつもりの側は隠していることを、ぞんぶんに愉しんでいる。そしてその『秘密』(と想定していること)をベースに、≪自我≫を構成する。

またご紹介の物語には、もっともっといろいろ別の解釈がありえて…。そもそもさいごによう子が『盗ってるじゃん』との認識にいたったのは、朝芽の想定内のことだったのかどうか?…が大問題だが、けれど実作からはそれを知りえない。
というかここで朝芽の真意がさっぱりつかめないことが、≪ギャグ≫形成への大きな要素になっているのだ。何もしなければ『よう子は朝芽を信じる』ですんでいたのに、しかしキョウザメちゃんは、それではすまさない。
あるいはさいごのシーンで、朝芽は本気で自分を無実だと信じ込んでいるのかも知れない(!)。いや、よう子がそう言うからには、そうなのかも…とか。
またあるいは。われわれの思ってた以上に朝芽が悪い子になり下がっていて、よう子を共犯者として引き込むために、≪分け前≫を手渡したのかも知れない(!)。何ということだろうか。

だいたいの話、ここでは『信じないか/信じるか』という2択の問いかけをはさんで、2人の認識が逆方向に走っている。よう子は≪友情≫を前提にして朝芽を『信じる』と訴えぬき、そのあげく『盗ってるじゃん』…との認識に至る。その逆に、朝芽は自分が『盗ってる』という前提を知りつつも(?)『信じる』ということばを聞いたので、よう子との間に≪友情≫があると知る。
そしてこれが朝芽には一種のフェアな成りゆき(?)に見えているのだが、しかし真相っぽいものを知ったと感じてショックを受け蒼ざめるよう子にとっては、それが成り立っていない。やっぱりわれらの≪キョウザメちゃん≫とキたら、『いい話』などはブチ壊さずにおれないヤツなのだろうか?
いやそれとも。われわれの知った限り、朝芽の容疑はひじょうに濃いようだけど≪状況証拠≫があるのみだ。ハンバーガーを買ったお金の出どころが、必ず盗まれた給食費だとは限らない。と、できれば考えたいところだが…。

ともかくこのたった1Pのエピソードの中には、確定していることがほとんどない。われわれは無意味なことらばかりをいろいろと知った上で、もろもろの分からなさの前にたじろぐのだ。
そうしてさいごに朝芽がよう子に手渡した≪友情のあかし≫こそ、もちろんわれわれの言う≪シニフィアン≫(意味ありげだが、意味不明きわまる記号)に他ならない。そのシニフィアンの出現は物語の決定的なモメントをかたち作っており、そして朝芽はそこへとはっきり≪友情≫の意味を込めたつもりなのに、しかしよう子とわれわれは、それを『それだけ』のものとは受け取れない。

しかもそのシニフィアンをなしているブツが≪ハンバーガー≫であることが、みょうにいま筆者を感心させている。できればご一緒に考えていただきたいのだが、もしそれをアンパンやメロンパンなどに置き換えてしまったら、お話の苦さカラさに対して甘さがミスマッチではなかろうか?
では、『ここでのハンバーガーとは何か?』…と言えば、それはいろいろな意味での≪肉≫だ。どん底に生きている朝芽自身の≪肉≫…あるいは≪肉≫としての朝芽自身、それを彼女は≪友情のあかし≫として、この世でたった1人の親友と信じたよう子へと差し出したのだ。
しかもその自分自身である≪肉≫を、朝芽は盗んだお金(?)で、よそから買い戻さねばならないのだ。ところがよう子の側においては、せっかくのそれを、すなおに喜んで受け取ることがむずかしいのだ。

まあともあれ朝芽が≪友情≫のあることを確認できたのだから、それでいいじゃないか…とでも言って終わりたくなってきた(!)。これを書くためにシリーズを再読して筆者は思ったのだが、朝芽という女の子がそこで『友情』という軽くないことばを口にしたことは、けっして悪ふざけなどではない…とは信じられる。まして日ごろろくなものを喰っていない朝芽が、まともそうな食べ物を他者へと手渡したことは、絶対に軽いことではない。
ところが朝芽が本気で≪友情≫を言う時、そしてその友情をかたちで示そうとする時、それらは逆に相手の構築している≪心理≫への脅威として働くのだ。意図に反して、向こうサイドの≪友情≫に揺さぶりをかましてしまうのだ。それこそがキョウザメちゃん一流の≪パロール≫、そのヒネリがさえわたっているところ(!?)なのだ。
(ご説明。“パロール parole”は『おしゃべり』という意味の仏語だが、分析用語としては『ヒトに向けて語り、かつ騙る実践』)

等々からして、このお話は…。『盗ってるのか否か?』ということを追及するミステリーもどきなどではとうぜんなくて。
朝芽という女の子が、一から十まで悪意で行動しているわけではないのに、ふしぎと必ず人を傷つけてしまう…『外傷的な≪他者≫の現前』を演じてしまう…このことの悲喜劇性を、今作は描いている。そしてそんなどうしょうもなく了解不可能な≪他者≫が存在することを“知って”、そしてその≪知≫の役に立たなさをも知って、しょうがなく(!?)われわれは、一連のことらを(無意識の過程で)≪ギャグ≫かと解し、そこへと笑いを返すのだ。

そうして三ツ森「LET'S」中の『キョウザメちゃん』シリーズは、ご紹介したエピソードの後、たったの2編(各1P)が続いて終わっている。エンディングらしいものも、何もないままに。しかもいま言った『2編』の内容があまりに悲惨すぎて、ご紹介したくない。
ああ…。キョウザメちゃんはそれからどーしたのか…と少し気にしていたら、このたび消息を発見。同じ作品の『保健室で設楽(したら)先生』シリーズの中に、6年3組の『その他大勢』の1人として(よう子とともに)、さいごの第9巻までチョコチョコっと出ているのだった。
が、別に『活躍』はしないし、相変わらずビンボーそうだ。しかしこの時点ではもうイジメられていないみたいだし、そして何より、その後もず~っとよう子と仲がよさそうなことには、思わずほっとさせられたのだった。すると筆者もまた、朝芽が生のどん底で口にした『友情』のことばを、その示した≪シニフィアン≫の前向きな方の意味を、(よう子とともに)信じたかったようなのだった(後略)。

…というところで、旧稿の再録は終わり。ここから以下は、2010年現在の補足。
ところで作家のファンの皆さまはご存じのように、「LET'S」に続いた三ツ森先生の「わんるーむ」(KC少年マガジン, 全3巻)にも、脇役でちらちらとその後の≪キョウザメちゃん≫が出演している。そしてそれを知らないで、上の旧稿は書かれている(!)。
筆者の話には、はっきり言ってこういう穴が多い。かと言って、成り立たない話にもなっていないところがふしぎなのだが。
そうして「わんるーむ」におけるキョウザメちゃんの姿がまた、ある意味で悲惨。『どうしてこの子はこうなのかなあ』…と感じさせるところが、いっこうに変わっていない。だがその話は、そっちの作品を主題にしたときに!

2010/02/23

古谷実「行け! 稲中卓球部」 - 罪と罰、バターとマーガリン

 
参考リンク:Wikipedia「行け! 稲中卓球部」

この作品いわゆる「稲中(イナチュー)」は、歴史的に見たら『青年誌のギャグまんがは、4コマが面白い』…みたいな空気の時代が6~7年も続いた後に、異なるものを示して1つのブレイクスルーを達成した作品だと言える(ヤンマガKCスペシャル, 全13巻)。ポスト・バブル時代のふんいきを映した作品だとも言えて、ニホン人のみっともない顔が平気でリアルに描かれ、そしてカッコよくはない地方都市の中学生たちの生理と生態が、平気でビシビシと活写されている。毛はもう生えたが、いまだムケてはいない…的なそれが。

ただしちゃんとした≪ギャグまんが≫の作品として今作は、単にそこらへの≪共感≫をあおっているのではない。飛躍してるとこがある。
どうしょうもなくある≪もの≫が、そこにて読者へとつきつけられている。初期のエピソードで筆者に印象的だったものを、1つご紹介。

ボーズ頭でチンチクリンでむっつりスケベの≪田中≫が卓球部の部費を盗むのを、毛むくじゃらの大男だが心やさしい≪田辺クン≫が目撃する。何か理由があるのでは…と考えて田辺クンが田中の後をつけると、テキはスーパーで“何か”を大量に買い込んで路地の奥に向かう。
するとたくさんの野良イヌ・野良ネコらが集まってきて、田中は“何か”エサっぽぃものをかれらに与えるカマエに。それを見た田辺クンは、このどーぶつらを養うために田中は部費に手をつけたのかと考えて感動する。そして、『それにくらべて 僕は』ッ!…と自責の涙にくれながら、その場から走り去るのだが。

しかし田中はその場にて、いま買い込んできた大量のブツ…バターやマーガリンを自分の局部らに塗ッたくッて、それをケモノらに『ペロペロ ピチャクチャ』と舐めさせて、悦びにその顔を歪めつつ、『はあ はあ はあ はあ』…と≪享楽≫をむさぼるのだった(!)。やがて田中のゼッチョーの叫びと田辺クンのむせび泣きとが、『ああああ ああぁぁー!』と、空間を越えて妙なるハーモニーを奏でるのだった。
…字では伝えにくいところだが、その決定的場面での田中のポーズと表情が洋ものポルノの女優ばりの、オーバーアクション気味な悩ましさで…(!?)。それが、また、このエピソードの衝撃性をいや増しているのだ。

そして翌日、田辺クンは田中の罪をかぶって自分が部費を盗んだかのように部員らに打ち明け、『どんな罰でも 受けるよ』と言う。これを彼は、『田中君を ケーベツした(自分への)罰さ』…と考えている。
するとふつうに彼は仲間らに超ボコられ、真犯人の田中にまで暴行を喰らって(!)、そしてボロッボロの状態で路地裏に『ドサ』、と棄てられる。そして彼はそこに小さなスミレの花を見つけ、血まみれで路上に伏したまま手を伸ばし、それを両手で包むようにしながら、『き… きれいだなぁ…』とつぶやくのだった(第2巻, p.187, 『その23 友情』より)。

と、このように。ある者は自らの罪からひたすらに逃れ、またある者は自ら受罰を望む。そして同じような『路地裏』という場所に、ある者は≪享楽≫を見出し、またある者は護るべき『小さな花』を見出す。
激甚な苦しみによって田辺クンは、彼から田中への一方的くさい『友情』という『小さな花』をあがない、それを護りきったのだ。そしてこの一件が『勘定』として引き合っているのかどうかは、はたからはどうとも言えそうにない。
と、ひとまずはそういう話にしておいて。なおこの作品について独自の感想を聞かせてくれた、かっての同僚に感謝しつつ。ではまた。

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 入門! アシッド・マシーンになるために!

 
参考リンク:Wikipedia「LET'S ぬぷぬぷっ」

これぞ現代の「神聖喜劇」(ダンテ「神曲」)とばかりに(?)、≪ナンセンス≫とも呼ばれる地獄的な世界のあちらこちら、その多種多様なる眺望を経めぐっていく作品。それが、「LET'S ぬぷぬぷっ」(KC少年マガジン, 全9巻。自由なショート形式のオムニバス)。
そのもっとも凝縮されちゃったかたちにては、今シリーズを代表しているキャラクターである≪スシ猫くん≫が、ただ単に死ぬ。…死んで死んで死に続ける、その姿を単なる≪反復≫として描く。

すなわち。今作の第1巻カバー見返しの4コマは『クレー射撃ネコ』と題され、まずケージの内側の射撃手が『はいっ!!』と叫ぶと『カシャーン』という音がして、スシ猫くんが空中高くへと打ち上げられる。そして『パーン』と銃声が轟いたら、彼はバラバラになって色あざやかな臓モツを空中にブチまけながら、そのままの軌道を描いてどこかへ飛んでいく。そこへ再び、射撃手の『はいっ!!』という声が響く。
…というところでまんがはあっさりと終わりだが、そうしてまた次々と、射撃のまとをつとめる別のスシ猫くんたちが空中に打ち上げられ、そして次々に銃弾を浴び続け、死に続けるのだろう(…スシ猫くんとは『一にして多なる存在』であり、いくらでも代わりがいるらしい)。この≪反復≫には、原理的に終わるところがない。

ちょうど今作が世に出た1993年の世界を特徴づける、≪アシッドハウス・リバイバル≫という現象。その中で悪夢的な≪反復≫をしつように愚劣にはげしく遂行し続けた≪ハードアシッド≫の振るまいに同期しそれへと共振しつつ、今作は死とオーガズムの≪反復≫をあくなく描いている。
…学校の教室で、委員長選挙か何かの最中。黒板に向かっている1ピキの女生徒は、候補者らへの投票を、“正の字”ではなく“性”という漢字で集計している。よって黒板いっぱいに、“性”という漢字がビッシリと書きまくられている。
やがてこの異状に耐えかねた教師が、『バカモノー!! ふつうの“正”でかかんかー』と、彼女を叱るのだが。しかし女生徒は興奮に上気したキレイな顔を教師に見せながら、『ああ… いけない私を 殴って…』などと言うばかりだ(第1巻, p.44)。

ささやかにも≪権力≫の所在を定めようという“法”的な儀式のど真ん中に、≪享楽≫を求めてやまざるドロッドロの≪欲望≫が、1ピキの少女というかたちをとって現出している。そしてこのエピソードに限らず『少女-と-オキテ(校則)』のたわむれは…そしてそこに現前するドログチャの≪享楽≫は、今作の最重要モチーフの1つだ。まさに校則とは≪拘束≫に他ならず、そして少女らは≪拘束≫されてあることをぞんぶんに≪享楽≫する。

すなわち『買い食い』は禁止だ、と言われたら≪ネズミ小僧≫のような扮装をして『盗み喰い』に及び(第1巻, p.140)。またはトイレへの落書き禁止だと言われたら、誰も気づかなそうな和式便器の前部の内側に何かを書く(第1巻, p.174)。そして、便器を背負って仰向けになるような苦しい苦しい体勢をとってまで落書きをヤリおおせた少女は、『フフフ…』とマン足げにほくそ笑む。
その落書きを誰かが見るかどうかとか、何をそこに書いたのかとか…。そんなことらは彼女にはどうでもよくて。なされていることの主眼は、『オキテとのたわむれ』に他ならない。
さらにスゴぃのでは、『夏休み中 力士と ぶつかり稽古を してはならない』というアナーキー気味な校則が紹介され、そしてじっさいそれをヤッてる女生徒の姿が描かれている(第1巻, p.108)。そんなことはふつうに、禁止されているからこそなされているのだ…と考えざるをえぬ。かくて、それを守るにしろ破るにしろ『オキテとのたわむれ』は、彼女らにジュクジュクの≪享楽≫をもたらす。

そうして今作の題名中の『ぬぷぬぷっ』とは、ほぼあからさまに≪性交≫というものを暗示している語であり。そして再生産のための運動かとも見られる≪性交≫は、当事者らに≪享楽≫を供給しつつ、その≪享楽≫は同時に『個体の死』への予告でもある。
そしてそこにきざしている意味をうすうすとは感じながらも、どこからか聞こえてくる『LET'S ぬぷぬぷっ』という≪享楽≫への扇動…それへと従う時に、われわれは≪アシッド・マシーン≫のバカくさいひたすらな≪反復≫を模倣している。と同時に、機械さながらにうでの立つ射撃手の声が、『はいっ!!』、『はいっ!!』…とどこかで響き続けてることをも感じつつ。

かくて今作は、われわれのためにわれわれの姿を、きわめて正確に描いた作品に他ならない。すまぬことにずいぶん長い堕文を書いてしまったわけだがしかし、この驚くべき作品への賛辞としては、まだまだぜんぜん足りないッッ!!

田辺真由美「まゆみ!」 - おとめ涙のスカトロだいあり~

 
参考リンク:Wikipedia「まゆみ!」

≪少女まんがのギャグ≫なんて、『商業誌』とは思えないようなペースで展開しているものだ。確かこの作者は1989年に今作のベースになった作品でデビューしていて、そして単行本が出たのが1993年。
何せ初期には、月刊誌掲載で2~3ページの4コマだったもので。その間に、15歳の中学生だった作者は、軽~く大学生だか短大生だかになっている。

しかも真由美センセがヒロイン≪まゆみ≫の日常を描く、という(びみょうにも?)私小説チックな内容なので、この本の1~2巻あたりを読むと、女の子の日記帳をノゾキ見してるよーな感じもある(りぼんマスコット・コミックス, 全6巻)。
その間の心境や生活の変化が、かなりすなおにまんがに出ちゃっている。ふつうに言われる『女の子がいちばん輝いている時期』が、この崇高きわまる創作へと捧げられているのだ。
まあ、じっさい崇高でもありつつ、あわて者のヒロインが道ばたでイヌのふんをやたら踏む、てなお話だがっ。そうしてお話の最中にルーズソックスが流行ったりすたれたりしながら、2003年までも女子高生を演じ続けていた≪まゆみ≫なのだった。

ところで今作を見た方はご存じのように、このお話はヒロインが彼氏の≪いとー君≫に超ゾッコン…として始まるのだが。しかし巻が進むにつれ、彼女のカレへの態度がだんだんと冷淡かつ冷笑的になっている(!)。これがまた、何ともウソのないところで…!

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」 - 無礼禁ッ、ダ・リアル・オ~ルドスク~ル!

 
関連記事:「ネギま!」と「魔法陣グルグル」

これは想い出ふか~い作品なので、その分ひじょうに語りにくい。筆者には10年近くもほとんどまんがを読まなかった時期があって、それを打破してくれたのが、今作と「赤ずきんチャチャ」だった。
Early 1990'sという時代のふんいきを濃ゆく映した両作らを、筆者は≪ハードコアテクノ≫系ギャグまんがと呼び、そしてその方向性は、超アップテンポ、ケミカルにハッピーなムード、幼児的エロチシズム、『魔術=テクノロジー』への礼賛、そしてとうぜん≪反復強迫≫的。ここでBGMに、T99、LAスタイル、キュービック22、ザ・プロディジーらの『ハードコアテクノ』の名曲がほしいところだ。グジュギャギャ~!

確か1995年、当時出ていた『エレキング』というテクノミュージックの専門誌に、自分と仲間とのユニット名で、この「魔法陣グルグル」へのレビューっぽい文章を出したことがあった。すると作者の衛藤センセから仲間のアドレスに宛てて、あつい心のこもったお礼のメールが届いたのだった(!)。
いま言うとふつうな感じだが、当時はインターネットではなく『パソ通』の時代だ。で、あらためてこの場に、衛藤ヒロユキ先生への感謝の気持ちをしるしつつ…。

そのころ『テクノ』は、魔法のキーワードだった。テクノといっても当時存在したものはローテックのきわみだったが、それで≪すべて≫が可能になると自分らは信じていた。回想してみれば、すばらしい時代だった! 当時の自分とテクノ仲間たちのことを考えたらそれがまぶしすぎて、いまの筆者があまりにもみすぼらしい燃えカスでしかない。
そんな燃えカスにふさわしき作業として、自分はまたこのみすぼらしい自室のPCに向かって、へんな堕文をぺたぺたと書いているのだろうか。当時にしたって『PC-9801』の『一太郎 Ver.3』などというソフトでぺたぺたと書いていた…というあたりは、そんなに変わってないのだが!

そしてその時のレビューの結びあたりに自分が書いたのは、確か、

『ヒロインの≪ククリ≫がヒーローの≪ニケ君≫を、いつか、彼女が言う“勇者様”ではなくてありのままのニケ君、として見れるようになったとき。そのとき、あらためて2人はちゃんと出遭い直すのだろう』

…のようなことだったはず(もらった掲載誌が仲間の方に行ってるので、いま見れない)。
そして実作のラストの展開が『ほぼ』そのような感じだが、しかし自分がとくべつに目ざといとも思わない。物語をすなおに追っていれば、誰にでも分かるようなことだった。

そうにしても、『いまは反省している』として告白しざんげしたいことがある。自分らのレビューは当時TV放映中だったアニメ版(最初のシリーズ)だけにもとづくもので、原作も読んでなければ何の資料をも見ずに書かれたのだった(!)。
当時の自分らはいまよりもなおビンボーで、あまり本も雑誌も買えなかったのだ。ゆえに有名な≪キタキタおやじ≫の本名が、『アドバーブ』か何かとまちがっていたはず(正しくはアドバーグ)。ずいぶんとズボラかつ≪勇気≫のあったことで、ほんとうに『いまは反省している』。

そもそも自分らは、そのアニメ版だけを見ての印象で『子どものアニメなのに、テクノっぽいテイストがある!』…という発見をしたつもりで感動していたのだが。しかし原作の方を見ていれば、それがもともと『テクノまんが』であることは明らかで、発見もへったくれもない。
ん? いや、そうとはしても、見る人が見なければ『テクノまんが』という認識はできないわけで。などと言うと、ファイヤアーベントのりくつのようだが。
で、もしも『コロンブスがアメリカを発見した』と言い方がアリなら、これも『発見』かも。いまならさしつかえないと思うので書いておくと、確か衛藤先生からのメールにも、『テクノまんがというつもりで自分の描いていたものが、“テクノ専門誌”で紹介されることは大きな喜び』、とあったような気がしつつ。

(大余談:想い出したけど同じ雑誌の次々くらいの号に、当時TV放映中の「新世紀エヴァンゲリオン」のレビューも書いたっけ…やはり資料ゼロで。いまにいたるも無知をウリにして恥じない筆者は、いかなる予備知識もなきまま、単にその作品の内容に沿ったことを書いた。
つまり『少年らにとって、“巨大ロボット”とは何なのだろうか?』といったことを。いまだったら軽く、『それは≪ファルスのシニフィアン≫である』、と述べるところだが。
で、この時に『エヴァン』という略称を使ったら、おたくっぽい人から『“エヴァ”でしょうよ!』というお叱りのメールが届いた。お芝居の中でミサトねーさんが『エヴァン』と発音している気がしたので、そう書いたまでだったのに…)

ところで読んでいる方々はご存じのように、作品の途中で「グルグル」の方向性は、テクノからヒップホップへと転じている。ガンガン・コミックス版の第11巻、『エルエル砂漠のクルジェ(LLクールJ)』のフォローによって聖なる魔獣『ブレイクビー(ト)』が呼び出され、そして『地の王(グランドマスター)のフラッシュ』を浴びて、勇者が新たなパワーに目ざめる、うんぬんと。
ちょうどそのころ、どういうわけだか自分も同じ方向にシフトして、テクノならぬオールドスクール(エレクトロ・ヒップホップ)のレコードを買い漁りまくっていた。まんがを買うお金に困っていても、なぜかレコードを買うお金はあったようだ。
そうしてクラブ音楽シーンのテクノ部門の世界的な流れもまた、『ハードコア全盛→アシッド・リバイバル→ハードミニマル流行りすぎ→エレクトロ・リバイバル→テクノポップ・リバイバル』、となっていったが…(1991-2000)。
途中から明らかに、その歴史が逆行していることはともかくも(けっきょくのところ、『テクノ美学』の最遠到達点は、いまだ“ミニマル”にある)。しかし、その流れのしまいのあたりで自分がぽろりと脱落してしまっていることに、やっぱりちょっぴりさびしさを感じたり。

…等々とらちもなき想い出話のさいごに、そのころ確か丸の内の逓信会館(?)だったかの会場で催された『魔法陣グルグル展』か何かいうイベントに足を運んだ…その時の歓びをしるしておく。確か夏休み中で大盛況の会場、そして夢中になってその世界を愉しんでいる小さな子どもたち…彼らの邪魔にならないようにつとめながら、その無心の歓びを分かちあったコトを。
そしていま断じて想うのは、われらが≪ギャグまんが≫の陣営から再び! このように子どもたちへと無心の歓びを与える作品が、出てこなくてはならない。実に残念ながら、今般そのような作品が見あたらない…という現状があるゆえ。

筆者が申しているのは、≪いま≫のギャグまんが界を盛況と見るにしろ低調と見るにしろ、どうであれ小学生さんらが喜ぶような作品がそこに少ない。このことが確か。
曽山一寿「絶体絶命 でんぢゃらすじーさん」という大傑作が1つあるが、1つだけではやばい。それが大問題だということだが、しかしいまはこのへんで。

2010/02/22

おおつぼマキ「ケンネル所沢」 - 犬狼伝説・色情編

筆者特有の想い込みなのだろうか、『ヤングサンデー誌掲載のギャグまんがには、≪ギャグ≫としてもストレンジなヤツが多い』、と思っているのだが?
という臆見は、阿部潤「the 山田家」、長尾謙一郎「おしゃれ手帖」、ロドリゲス井之助「踊るスポーツマン ヤス」…等々々を見たあげくに生じたようだけど。しかしもとはといえば、歴史的にこの媒体を代表してきたギャグ作家…喜国雅彦センセの作風もまあ、ストレンジかと言えるものではあり。

そして筆者が今作「ケンネル所沢」(1889, ヤングサンデーコミックス, 全3巻)を知ったのは、ほんの2ヶ月ほど前なのだが(注。この堕文は2009年夏にかかれたもの)。しかも、第1巻は未見なのだが。
にしても! …読んでその中身のあんまりなストレンジさには、思わず口があんぐりと大びっくりする以外になかった。

かの喜国先生にしてさえ、今作ほどにきもち悪い、胸くそ悪いことを描いてらした…という憶えがそんなにない。かつ、わりと小ぎれいな絵で描かれた今作からヂヮア~とにじみ出てくる気色わるさは、「おしゃれ手帖」の露骨な汚物っぽさとも異なる。
またこの本のカバーデザインが(パッと見では)、けっこうポップで見ばえがよい。ということが逆にまた、その中身のキモさをいっそうひき立てておるかなあ…などとも愚考しつつ。

そもそもだ、今作が≪ギャグまんが≫であるのか否か?というポイントで、筆者にはあんまし確信がないのだ(…同じ作者の「Mr.シネマ」とかいう作品は、明らかにギャグではなさげ。ちら見しただけだが)。
すなわち今作はひょっとしたら、ラブコメのつもりで描かれてるのではなかろうか?…という気がせぬでもない。よく青年誌に載っている、一線を越えそうでなかなか越えないカップルのモヤモヤを、延々と描くようなラブコメとして。ただし今作に描かれたカップルは、その一方がイヌだ。…と聞いて、びっくりされました? いまいち?

ご紹介していてため息の出そうな異常さだが、今作は≪リンチンチン≫というパクリっぽい名前で呼ばれるオス犬が、飼い主の少女≪チカ≫の貞操をねらってあれこれと、何かをはげむ…とゆう、実にたいへんなるしろものなのだった。
それがどうにもあんまりなキモさなので、おそらくはシャレのきつすぎる≪ギャグまんが≫であろう…とでも考えなければ、こっちの神経がやらレてしまうま。ふつうに考えて今作は、≪イヌのペニス≫とゆう物体を描写しすぎでおま!

かつ今作のキモさは、『イヌ畜生が人間の少女と交尾したがっている』…というポイントにのみあるのではない。単にそれだけだったら、かって大名作「がきデカ」に登場してた≪栃の嵐クン≫もやりたがってたことだし!
…1つ言うと、リンチンチン君のモノローグのニホン語がびみょうにおかしくて、

 『チチカちゃんは 相手にして くれないし、
 ややっぱオレが イヌだから わるいのは オレかこれが。』(第2巻, p.111)

のようなその不自由さが、みょうになまなましすぎていやだ。読んでてついつい引き込まれたとすると、自分までもがこのオス犬のように、不自由な単細胞エロバカ思考に陥ってしまうのでは…という怖さをひしひしと覚ゆる。
しかもプラス、ねらわれている少女チカもまたおつむがかなり残念だという設定が、またよくない。何かこう全般に、演出されたものでないナチュラルな頭の悪さがそこに描かれてあり、そしてそれがこっちへ伝染しそうな恐ろしさが感じられてならないのだった。

あわせて今作には、まともな常識ある大人がほとんど出てこないという特徴もある。チカの家族にしろその学校の先生にしろ、まったくまともな人間とは言いがたい。それがまた読んでいるものに『よるべなさ』という感覚を味あわせ、そして≪日常≫の感覚を見失わせてくれるのだ。

…等々と言っていたら逆に今作「ケンネル所沢」が、少なくともざらにはない創作ではあろう、という気はしてきた。いやじっさい、それはそうだろうが…!
(なお。書いていたら、≪イヌ×少女≫といえば「南総里見八犬伝」か、ということは思い出した。だが、そこで話をふくらまそうという気力はなかった)

あろひろし「ぱらのい屋劇場」 - 汁ひとぞ汁、ナンセンスの名編っ!

 
参考リンク:Wikipedia「ぱらのい屋劇場」

正しい作者クレジットは、『あろひろし と スタヂオぱらのい屋』。そして認識不足で申し訳ないと、いちおうおわびしときたいのだが…。
今作の作者につき≪ギャグまんが≫の描き手でもおられると知ったのは、わりとごくさいきんのことだ。いままでずっと、ラブコメ方面の作家さまかとばかり。
『オレはポケモンマスターに…じゃなくて、“ギャグまんが博士”になる!』みたいな決意を筆者がしてからけっこう経つが、やっとさいきん今作がその探査網にかかったのだ。ここで今作のていさい面にもふれておくと、自由なショート形式で全ページ4C/2C、けっこう下ネタや残虐なギャグが多し。

で、まず大いにほめたいこととして。今作の「“ぱらのい屋”劇場」とゆう題名が大いにイケてると、筆者は思う。なぜって、われらのラカンちゃまが初めて世に出た時代(Mid 1930's)に、『“パラノイア”の専門家!』みたいに通っていたので…!

さてこれの単行本(ジャンプ・コミックス スペシャル, 全2巻)が世に出た1989年といえば、言うまでもなく(!?)、吉田戦車「伝染るんです。」の年。そして今作には、わりとそちらに対抗しているような感じもなくない。大判でオールカラーのわりとぜいたくな作りだし、かつわりと凝縮された≪狂気≫を描出してる…というあたりで。
しかし比較すれば今作は、飛ぶべきところで飛びきれておらぬようでもある。『だからよくない』とも軽くは言い切れないが、『常識からの飛距離』がそんなにない。
まあこれは、本来なら飛べぬ距離をみごとに飛びきった「伝染るんです。」の方をほめとく場面だ。と言ったところで今作から、心にに残ったネタを1つご紹介いたせば。

病院のレントゲン技師が、『しまった!! バリウムが足りない!』と、あわてている。そして次の場面では被験者の美女が、『このバリウム… なんか生臭い…』と苦情を言っているが、技師は『そ… そうかい?』と、そらトボケている。
と見たように、『美女になま臭い汁を呑ませたいっ!』という≪欲望≫がまずありつつ、そこに『バリウムが足りない!』という言い訳(合理化)がついて、ネタが成立している。この作例は、これとしてよいと思うのだが。

しかしだんだんとこの時代から≪ギャグまんが≫の流れは、『言い訳が、特にない=≪不条理≫の噴出と反復』…という方向に向かってたのでは? と、筆者は見るのだった。
そして今作について、これも≪不条理ギャグ≫なのか?…と問うてみたとき、自分の中から『否』という声がはっきり聞こえた。その1つ前の世代の、『ナンセンスギャグ』という表現がふさわしい気がした。他の作品を見ても常にそうだが、あろひろし先生の読者に対してやさしい語り口は、言い訳のないような創作を生み出すには向いていない。

【付記】 むしろ、こっちに言い訳が必要かもしれない(!?)。これがまた、2009年の夏に書いていた堕文の再利用で。いまも筆者は大いに無知だが、当時からすごい無知だった。
追って、この作者の別の作品、「ふたば君チェンジ!」や「ザ・シェリフ」などいくつかを読んだが。しかし筆者は今にいたるも、あろひろし先生の作家像がつかみきれない。常に誠実な創作をされているということはほんとうに明らかで、そこは大いに好感が持てるけれど!

つのだじろう「新うしろの百太郎」 - またはそういう意味でのホラー

 
参考リンク:Wikipedia「うしろの百太郎」

ご存じのホラーまんがの1つの古典「うしろの百太郎」、今回はその『新』がつくシリーズについて(1975, KCスペシャル, 全6巻)。さいきんの記事の「悪魔と俺 特盛り」がいろいろと濃すぎたので、ちょっと目先を変えてみようかと。

ところがだ。しかしその作品がまた、目もくらむようにどぎついしろものと、言えば言える。
どういうところにそのどぎつさを感じるか、というと。そのKCスペシャル版の第1巻の冒頭(p.6-13)から、ちょいとご紹介すれば。

 『死後の世界は 百パーセント 確実に 存在する! 
 そう断言 している ロス教授(例の「死ぬ瞬間」の著者キューブラー・ロス) は‥‥
 (中略)蘇生にかんする 研究で たいへんな 権威なのだ!』
 『(超能力について)外国では 長年 研究を かさねた権威ある
 科学者が 百パーセント ある‥‥と 断言している!』

というわけで、日本じゃない外国では、死後の世界や超能力らの実在は、すでに常識である(!)、とみた上で。

 『(オカルトに対して)この五年‥‥ 十年のあいだに
 日本人の考え方も じつは 大きく かわってきつつ あるんだ!』

と、主人公である一太郎クンのパパが言う根拠は、1984/08/20付の読売新聞より、『八〇年代国民意識の流れ』という世論調査の集計だ。その紙面が画面に貼り込まれており、『「神秘」大好き都会っ子』などという見出しらが見えている。
その記事の要旨を筆者が説明すると、まず宗教を信じている人は全体のたった3割足らずなのに、オカルト(的なこと)を信じている人は大いに増えている。特に、都市部および若年層においてその傾向が顕著、とのこと。
ちなみに調査対象は『有権者』なので、10代は含まれていない。そこを含めればオカルト信奉者はもっと多くなるはずと、パパさんは言う。それはそうだろうと、筆者もそこは同感する。そして。

 『この データの しめしている ものは
 科学は 万能ではない! この世には 現代科学でも
 解明できない ものが たくさんある!
 ‥‥という 正しい認識をする 進歩的な考えの 人々が‥‥
 都会や 若い層に ひじょうに 多くなっている‥‥
 反対に 古い常識に こだわり ガンコに
 理由のない 否定をつづける 人は‥‥ 田舎や 老人に多い(←!!)』

とまで引用してきて思ったのだが、どうして少年マガジンは他で見ない『‥』(2点リーダー)なのだろうか? と思ってから、前の記事の野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻を見て確認したら、そこでは一般的な『…』(3点リーダー)に変わってやがるし。
ありゃりゃりゃ。同じKC少年マガジンで、2009年5月刊の氏家ト全「生徒会役員共」第2巻では、『‥』だが。まあ、それはいいが。

まあともかくも、一太郎クンのパパの怪気炎の、さいごのところをご紹介しておこう。

 『霊魂は 存在するのだ! 現代の科学では その論を 否定できない
 ところまで きている! それは 世界の趨勢だ!
 ノーベル賞 受賞者を含む 大勢の科学者が 徹底的に 研究を
 かさねたデータが つぎつぎに 発表されて いるからね!』

まったくもって、目もくらむような電波談義としか申しようがない。こんなでは、どうして自分が≪1999年7の月≫の後にまで生きているのか、ほんとうに今年は2010年なのか、という疑問さえが生じ気味だ。
いや別に自分は後出しジャンケンとして、それからもう25年以上、いまだオカルトの実在がぜんぜん証明されてはいない、ということを述べようとはしていない。25年だろうが100年だろうが、そんなものが証明される見込みはないし。

そんなことに関係なく、さいしょからパパさんのりくつは『感情』に向けて『想像』を訴えているばかりで、ごく小さな論拠にもとづいて大きな論拠を斥けているばかりで、まったくもって論理性がなさすぎる。
それを信じている人々は、『信じたいから』それを信じているにすぎない。ただしパパさんの言うような主張が、世論調査にも見えている1つの時代の風潮にのったものではあった、ということも確かでありながら。

にしても、パパさんの言っている≪科学≫とは何なのだろうか? あるとき彼は『権威ある科学者がオカルトOKと言っているので、それはある』と言い、大多数派の≪権威ある科学者≫らが『オカルト、笑止!』と言っていることは気にもとめない。またあるとき彼は『科学は万能ではない!』と言い、別のところでは『大勢の科学者が 徹底的に 研究を かさねたデータ』がそれを証明している、と言う。
ようするに科学であろうが神話や伝説であろうが、彼には『信じたいものを信じる』、以外の態度はない。かくて、そんなにおバカさんとも思えぬ人間が、ある局面ではここまで≪批判精神≫をドブに捨てることができる…という恐ろしい1つの実例を、ここでわれわれは見ているのだ。
独りがってな『想像』の世界に生きている人間らにとって、事実および≪真理≫らの値打ちは馬のふん(=1ゴールド)ほどにも『ない』。これこそが幽霊や妖怪の出現どころでない、真の≪ホラー≫なのではあるまいか?

…ところでだ。筆者がひじょうに興味をもっている、精神分析というものがあるのだが。その世界の1匹のボスだったラカンちゃまが『分析理論のみちびくところにより、オカルト絶対否定!』と教えているので、そういうわけだが。
そうしてその精神分析について、『それは科学なのか? または別のものなのか?』という問いは、その内部の問題として存在する(外部からの同じ問いは、とくに問題とするに値しない)。
で、ラカンちゃまのそれについてのテーゼは、『精神分析は、“科学であることを目ざす言説”である』、のようなことだが…。

昨2009年の秋ごろ筆者は、その『科学とは何か?』ということを、ちょっと研究していたような記憶がある。ようはポパーが「科学的発見の論理」(1934)で『反証可能性』の有無によって科学を定義しようとした試みが、1962年のクーン「科学革命の構造」、ファイヤアーベント「説明、還元、経験主義」といった著作らで大粉砕されている。かつ、この1962年という『科学観革命』の年が≪ギャグまんが第1号≫こと「おそ松くん」誕生の年と同じであることを、ただの偶然と考えるには及ばない。
かくて『論理実証的』な科学観の崩壊した後に、科学を定義するには、『ワールドワイドの科学コミュニティ(または科学ギルド)の内部で行われ、そこで“科学である”と認定された活動が科学である』…などとしか言いようがない。
この言い方は、フロイトが発案者として≪性感帯≫という概念を説明した言い方を思わせる。いわく、『性感帯とは、人間が“性感帯だ”と思っている部位である』。

そもそも精神分析は『臨床医学』かつ『精神医学』の中の1つの『医術』と考えられ、そうしてそれらが実証科学と言えるものなのか、ということ自体が、1つの大問題なのでもあり(ポパー的には、ぜんぜん落第)。ゆえにわれわれは、『精神分析ごとき、“実証的”でないので非科学的だ』、などとぬかして悦ぶおバカさんたちが死ぬほど勉強不足であることを、そのあんまりな反省のなさを、しんそこ軽蔑してもよいが。
(ところで精神分析を否定する方々は、その末流で廉価版コピーである『カウンセリング』とやらの療法をも全面否定した方がいい。いまどきは血税をもって『カウンセラー』が雇われることもあるらしいので、否定派の方々は行政訴訟を起こした方がいい。そして心の悩みに苦しむ方々には、悩む余力もなくなるまで向精神薬をたらふく喰わせとけばいい…というわけだ! オーレイ、実証科学ばんざい!)

かと言ってわれわれに『実証性』が足りてないことを、そのりくつに『超越論的』な性格のあることを、まったく気にもしないでは、一太郎パパさんと同じになり気味かなあ…と、ここで筆者はため息をつくのだった。その言う『正しい認識』とは、『進歩的な考え』とは、いったい≪何≫なのだろうか?
『論理実証主義は崩壊した、よって考えるな、さあ踊れ!』…ということをわれわれが言いたいのでは、まったくないし。とはいえ『だんこ踊らないぞ!』、とも言わないし。また、分析ならぬ『深層心理学』とやらを言う一派においては『論理実証主義の崩壊』大歓迎だろうけれど、われわれにおいては別に嬉しくもないし。

かってフロイトは、いずれ努力の末に、精神分析がふつうに科学の一角に落ち着くだろう、と考えていた。ラカンもまたその線を追いながら、しかしその生きている間に、リファレンスたるべき≪科学≫のイメージがあっさり崩壊してしまった。
そして晩年のラカンの追求は、そうした科学観の革命に惜しくも追いつけていないというか、ズレている、という感じはある。まったくもって申したくないことだが、『現代最先端の数学や物理学の学説が補強するところにより、わたしの理論の正しさは明らかなのです!』みたいなことをおっしゃる晩年のラカンちゃまの口ぶりが、一太郎パパさんにぜんぜん似ていないと言っては、筆者がうそつきの偽善者になってしまう。ああ…。
だいたい筆者は一太郎パパさんをさきのように申してきて、そしてさいごに『それはわたしだ』と、付け加えたいような気がしているのだった。精神分析という異端でマイナーですでに搾取されきった1つの何かを、どうしてむきになって擁護しているのだろうか、この人は? みょうに誰かのことを熱心に話していると、『それは自分だ』としまいに気づく。そういう気づきの仕方は、とりあえず『精神分析的』であろうかと。ああ…。

ところで、「新うしろの百太郎」という作品の話に戻り。別に筆者はそれを、電波チックなおもしろ話のかたまり、とだけ言いたいのではない。
いまさらそれをほめても説得力ないかもしれないが、みょうにときどき『ほんとうのこと』が描かれている。たとえば第2巻の序盤すぎあたりに、『寝ている最中の霊体験』、という題材の短編がある。そして作中で、それに悩む15歳の少女からの手紙(たぶん本物)が紹介されている。

 『実を言うと私もオナニーのくせがあります。
 幼い頃から性への快感も味わっていて、週に3、4回はオナニーをしていました。
 私もいつか霊にとりつかれるのではないかと いつも思っていました。
 夜、寝ようと思うとあそこの部分が(中略)
 やはりイヤラシイ霊がとりついているのでしょうか』(第2巻, p.62)

この手紙の特徴として、『私も』、『快感も』、『やはり霊が』、と、何らかの先例をフォローしていそうな書き方になっている理由が、筆者にはよく分からないが。しかしこれに類するような訴えの『先例』として、フロイト「あるヒステリー分析の断片」(1905)が紹介している≪症例ドラ≫、というものは思い当たる。
いやはっきり申して、これはわれわれがよく知っていることに関係ありすぎる。かつ、ほんとうにいたましい悩みだと感じないではいられない!

そして、ここにて痛感されることとして。アカデミーのうちわでゆかいなおしゃべりに興じる方々には死ぬまで分からない、そもそもわかる必要のないことがある。フロイトやラカンという人々を、何か学者とか思想家とかのようにみる考えは、ほんとうに死ぬほどバカげている。
そうではない! 彼らが偉大だと言いうるのはまず、この手紙に類するような人々の苦しみ、はた目には少々らちもないような(?)苦しみに、終生つきあい続けたことによる。まずそこを見ないでは、精神分析のせの字も分かるわけがない。
…が、かといって、彼らは苦しむ人々に『なれあった』のでもない。また、臨床べったりの素朴な経験主義に徹したのでもない。そこらがかんじんだろうが(そこから分析特有の方法や理論が生まれるのだが)、それはまた別の話としておいて。

そしてだ。その手紙を見て、われらの一太郎クンは『この例は、霊とは関係なさそう』のように、珍しく冷静なことを言う。かつ霊の研究者である≪東先生≫もまた、

 『この少女の 場合は(自慰について)ひそかな 罪悪感を もっていて‥
 そのおびえを 霊のせい‥‥ ということに 結びつけて いるにすぎ ない!』

と、まったくごもっともなことを言ってくれるのだった! しかもそうは言いながら、『やはりイヤラシイ霊が』悪さをすることもある、というお話になっているのだが!
(…かつ、霊のしわざじゃなければ問題はない、ということはぜんぜんない。だが、いまはこの作品の文脈によりそってみて、そこまでは見ない)

かくて何ともこの作品「新うしろの百太郎」には、ひとすじなわではいかないところがある。はっきり申して中み的に玉石混交もいいところ、しかし矛盾をものともしないところが『逆に』面白い、と、筆者の感じ方は、ここらで変わってくるのだ。

そしてその第4巻の大部分をしめる『ファラオの呪い編』こそ、そうした面白さの典型であり1つの骨頂か、と言いたい気はする。これは主人公たちが、超自然的なトリップと飛行機の旅行と両方で、(古代の)エジプトにおもむくというお話で。ついでに作者たちもエジプトに取材しているので、いろいろなレベルの『事実』とらちもない空想とが、こんぜん一体に描かれている。
じっさいのツタンカーメンに関する記述も詳細で、知的な興味もそそられる。特に筆者が感心したのは、作中人物がアクナテンに関する『病蹟学』的な考証を一蹴するところ(p.148)。こっちの話として、『精神分析的な批評』が作者に関しての病蹟的考証になっている場合があるが、あれもほんとうに『作品』というものを知らざる臆見でくだらない(!)。そこらで大いに、共感したりもしつつ。

にもかかわらず、そのお話がとんだ大電波の発信として終わっていること。それを筆者は、ゆかいだと言いきってよいのやらどうなのやら…。
ちなみに続く第5巻の『謎の地下底都市編』はカッパドキアを扱ったもので、やはりその興味深さプラス強力な『面白さ』は、エジプト編に匹敵する。いろいろな意味で。

ほめるにしたってけなすにしたって、作品は『作品』として扱われねばならない。そうなのだが。しかしここまでを見てきて筆者は、次のように思うのだった。
さきにわれわれがちらと見た、15歳の少女からの手紙。そこに書かれた『霊』のお話はないことだが、しかし彼女の訴えの中には真実がある。と同様に、『ないこと』にまみれたこのお話の中にもまた、何らかの真実の気配は大いにある。そしてそれぞれの中の真実を見きわめるためのリテラシーが、われわれには求められているのかな…と。
と、何だかしっけい気味な話にしてしまって申し訳ないが。ともあれ、これをまったく驚くべき作品であるとは断言できる。ほんとうにいろいろな意味で…!

2010/02/21

野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」 - 米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」について

 
参考リンク:Wikipedia「野中英次」
関連記事:小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

まず、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)について。前に関連記事で述べたこと、それが赤塚不二夫「おそ松くん」を、≪ギャグまんが≫の第1号に認定していることについて。

『基本的には、ギャグマンガの始まりを赤塚不二夫あたりにすることにする』(米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」, 2009, ちくま文庫版, p.18)。

だが。そうは言いながら同書が、第五章での「おそ松くん」の登場(p.143)まで、4つものチャプターをついやしているのがすごい。「バット君」とか「カンラカラ兵衛」とか、いまでは題名が知られるばかりの古い古いまんがの大量なあれこれを扱っているのがすごい。あわや、鳥羽僧正「鳥獣戯画」(12-13世紀, 正しくは作者不詳)だってギャグまんがのはしりでは、とでも言い出さんばかり?(そんなことは書いてありません!)
なんてことを言ってたら思い出したのは、野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」という当代の最新のギャグまんが(2009, KC少年マガジン, 刊行中)。そこに出てくる学校のへんなクラブの部長はまんが家志望で、その平安時代直系の…「鳥獣戯画」の作風を、ご先祖から受け継いでいるという。たぶんそのご先祖というのが、せいぜい3代くらい前のご先祖だろうと推理しているけれど!

そもそも「戦後ギャグマンガ史」にしろ、同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)にしろ、それらの書名に『戦後』という単語は必要なのだろうか? なぜ必要なのだろうか?
まずギャグまんがの元祖が、おそくも1962年の「おそ松くん」であるとして。一方の少女まんがの元祖は、その定義によって倉金良行「あんみつ姫」(1949)か、手塚治虫「リボンの騎士」(1953)か、と見解が分かれるが(…筆者は前者をとりたい気分)。
どうであれ、戦中戦前にはギャグまんがも少女まんがも『なかった』ことは確かだ。すると著者サマは、なぜだか『戦後』ということばが大好きだったのかなあ…と、ここで筆者はへんなことを思うのだった。

ただし。「戦後ギャグマンガ史」の著者が「おそ松くん」以前の古まんがのこっけい部門をチェキってくれているので、われわれは同じところから始める必要がない。「おそ松くん」以降の本格的な≪ギャグまんが≫だけを、見ていてよい。これはほんとうにありがたいことで、まずそのことが筆者をして、それを『大名著』と言わせる。
まあそんなことを言いながら筆者は、昨2009年の夏に長谷川町子「サザエさん」の古いところを読んでいて、ちょっと強く感じるところがあった。なので、それもいつか考察の対象にしたいのだけど。

かつまた。『古い古い』とは言っているが、「サザエさん」や「あんみつ姫」と、「バット君」や「カラ兵衛」とは、同じでない。前2者は後2者とは異なり、こんにちにまで何度も何度もリメイクされ続けている、もろ現役のキャラクターに他ならない(…対して戦前派の「のらくろ」は、やや脱落ぎみ)。
≪ギャグ≫じゃないけど笑いを主眼とした作品として、ものすごい生命力を発揮している「サザエさん」と「あんみつ姫」については、まったくもってわれわれの考察に値しよう。とま、そんなことはともかく。

閑話休題…と言いながら、さいごに自分のぬるい回想談を書いて終わり(!)。筆者は同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)を、刊行から間もないころに足立区の図書館で読んだ。『ほんとうにそうだなあ!』と、その論旨に共感したことを憶えている。それがいまでは、また少し異なる感じ方があるのだが。

ところが「戦後ギャグマンガ史」に関しては、つい最近まで未見だった。そもそも絶賛品切れ中の資料だったわけで、これを発見できたのは、2007年に筆者の勤務地だった葛飾区、その区立図書館でだった。
ついでにそこはまんがの蔵書が豊富だったので、「ときめきトゥナイト」や「セーラームーン」や「天使なんかじゃない」などは、そこで借りて初めて通読した。少女まんがばかりだが、いずこでも図書館のまんが資料は、少女向けが中心だ。

ところが困ったことに、葛飾で所蔵の「戦後ギャグマンガ史」は、いつしか検索端末でヒットしなくなってしまった。たぶん『古い古い』で筆者しか借りないような資料だったので、処分されてしまったかと思っている。
この葛飾の図書館は、三一書房『夢野久作全集』さえも除籍してリサイクル図書に廻してしまってたので、それはありそうだ。そしてその久作全集の「ドグラ・マグラ」(1935)の巻は、いまは筆者の手もとにあるのだが。

で、しばらくは「戦後ギャグマンガ史」を見れなくて困っていたのだが。自分が抜き書きしたその内容以外を、見失っていたのだが。それがご存知のようにちくま文庫版(2009)で再刊されたことは、ほんとうに喜ばしい。
何せ筆者もいろいろと調べたが、『ギャグまんがについてだけ書かれた1冊の本』というものは、何とニッポン国の出版史上に、それ1冊しか存在しないらしいのだ(!)。それがまた筆者をして米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」を、『まったく比類なき大名著』と断言させるのだ!

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 vs.フロイト「メドゥーサの首」 in 触手フェスタ

 
関連記事:吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

前の記事でわれわれが見た作品、吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(2008, MFコミックス, 全1巻)。それは『触手プレイ』を大フィーチャーしまくった、ももいろ臭の濃ぅ~いファンタジーラブコメだった。
そして。実作とはちょくせつ関係ない話になり気味かもだが、その記事についてちょっと補足を。

さてとつぜんだが、ポルノグラフィーの鑑賞者は、作品の中のどこへと感情移入しているのだろうか? 『それは作中の男性キャラクターだろう』…と言ってすめば、どんなに簡単ですてきなことか!
そんな、『ふつうの性交』(的なこと)を描写するようなしろものばかりではない。と言っていきなり、触手とかふたなりの例を持ち出すまでもない。ふつうの性交を描いていないポルノの題材として、軽く次のような例が考えられる。

●女性(1人)の裸体・半裸体。もしくは更衣、入浴、排泄らのプライベートな行為の描写。
●女性の自慰。
●レズビアン、それ的な描写。

以上のようなものが、(基本的に?)あるわけだが。しかし性交をストレートに描いたハードコアを基準に考えると、逆に『どうしてそういうものが“使える”のだろう?』…という気がしてくる。
なお。女性向けのポルノ的なものとして、レディコミや少女まんがのエロ部門があるけれど。しかし筆者がちらちらと見た限りだとそれらは、ふつうの性交を描写しているものばかりだ。男性の自慰をポルノ的な興味で描いているものなど、見たことがない。
(しかし、BL作品には男子の自慰を描くものもあっておかしくない気がする。だが本格的なBL作品は筆者の守備範囲外なので、フォローありたし)

このような≪女-男≫それぞれのありようの『対称性の崩れ』という事実には、常に注意しておく必要がある。男性の興味を裏返したら、女性に対して妥当する…ということはない。
つまりたんじゅんな話、≪触手≫ならぬヴァギナ的なモンスターが男子を凌辱する、などという絵図を見て悦ぶ女性は存在しないし。かつ≪ふたなり≫ならざる、乳房のついた男子、などというものを想像する女性も存在しない…のでは!?

BL界ではちょっと有名そうな、寿たらこ「SEX PISTOLS」(2003)という作品がある。どうであれその題名がひじょうにすばらしい、アナーキー! なのでちょっとだけ見てみたが、その内容はアナーキーすぎ!
ともあれそれは≪男×男≫によっての『生殖』を描いている、という点でBL界でも異色の作品らしい。しかし複雑きわまるお話だからか、そんなにまじめに見てなかったせいか、どういうことなのかさっぱり理解できなかった。いやむしろ、自分の中の『何か』が、そんなお話への『理解』を拒んだのだ、ということかも知れない。

それに比べたら、ふたなり同士のカップルに子どもができる、というお話の方が、まだしも流れとして『自然』(!)な感じがする。両性具有やメスだけで生殖する生物らはふつうに実在するが、オスだけで生殖する生物は存在しないからだろうか? 
まんがというものは人間どもの無責任な想像を描くものではありつつ、しかしそのすぐれた作品らは『想像を通り越したこと』の描出によってすぐれている。だが「SEX PISTOLS」という作品は、その内容が根も葉もなき想像であることにおいて『きわまっている』、という感じあり(びみょうなほめ言葉)。

話を戻して。さきに見た男子の登場しない男性向けのポルノ3題、それを『単体・自慰・百合』とでも言い換えてみて。
それらに関して、『鑑賞者はそれらのイメージを起点に、ふつうの性交への展開を想像しているのだ』と言ってすましたい気はまんまんだ。しかし、それだけだろうか?

≪触手≫という趣向の登場は、何かそうじゃないものの存在を示唆しているような気がするのだ。それは『他者の享楽』が存在することをまず描き、そしてその『他者の享楽』によって『逆に』凝視されるという体験を、鑑賞者において現前させる。
まずそこにおいて鑑賞者は、『他者の享楽』からの≪疎外≫をこうむる。ところが見られている彼は、触手プレイの絵図の中に自らを投影しようとも試みる。そしてその投影の場所は、触手のモンスターでもあり、その犠牲となっている女性でもある(!)。
どうでもいいとは言いがたい通例として、触手プレイで凌辱されてしまう女性は、もちろん最初は拒絶と抵抗を試みるが、しかししまいにはありえざる持続的なオーガズムの高みにいたるものらしい。われらの見ている作例「悪魔と俺」でも、りっぱにそうなっている。そうして≪享楽≫というものの実在が、鑑賞者に対して立証される。

言い換えて、触手プレイから『ふつうの性交への展開』などはありえない。にもかかわらず、そのイメージは現に『実用』されている。かつ似たような状況を、≪寝取られ≫という趣向についても見ておこう。これらはどういうことか?
それこれ考えると、『他者の享楽によって見られること』(=疎外)が、あわせて前の記事で見た≪“去勢”のシニフィアン≫のそこに現前することが、すでに鑑賞者の『実用』の十分条件になっている、と思えるのだった。つまり、鑑賞者の想像の中にさえも『ふつうの性交』のイメージが、ない。
そうとすれば、そんなに特異な趣向とは考えられていない『単体・自慰・百合』においてさえ、鑑賞者がそこから『ふつうの性交』を想像している、とは限らないのではないか? 『他者の享楽』の現前、その前にて主体が≪去勢≫されてあること、それ自体が鑑賞者の『実用』にたいしてじゅうぶんなのでは?

かつ。前のところでちょっと言及したが、現前している『他者の享楽』に対して自分を投影していく、という鑑賞態度がありうる。つまり触手のモンスターや犠牲者の女性『である』と、鑑賞者は自らを想像する。これはもちろんひじょうに飛躍のある『想像』で、よって『自己疎外』のきわまりを前提としたものでもありつつ。
そうすると『単体・自慰・百合』においても、男性の鑑賞者が『そこで享楽しているのは自らである』と想像していることは、大いに考えられる。これを想定しないと、≪ふたなり≫という趣向の存在も説明がつかない。
かつまた。ポルノ小説の元祖らしきクレランド「ファニー・ヒル」(1748)以来、女性の視点から女性の≪享楽≫を描く趣向は常にある。『もう、彼ったらスゴいんです。だからわたし…』、的な。それらは男性が愉しむものなのに、なぜわざわざ視点が逆から描かれているのか? そのようなお話において、男性の受け手らは自分を『どこ』に置いているのか…ということを考えなければならない。

それこれでまとめると、ポルノ鑑賞者の内面的な態度には、次のようなものがあると考えられてくる。

[1]主体は、自らの行為としての『ふつうの性交』(的なこと)を想像する。
[2]主体は『他者の享楽』からのまなざしを受けながら、彼自身は≪去勢≫され疎外されている。
[3]主体は『他者の享楽』のだんこたる他者性の前で、あえて(むりにでも?)『享楽しているのは自分である』と想像する。それによって自主的に、彼自身を疎外する。

ふつう的なポルノ鑑賞の態度は[1]である、[2]と[3]は特異なものである、とは言いたいところだが。しかし明示的でないだけ、意識されないだけで、[2]と[3]はポルノ鑑賞において必ず生じている現象なのだ。
そして≪触手≫や≪ふたなり≫や≪寝取られ≫といった新奇な趣向らは、まったくの想像にすぎない[1]の態度を撥無しながら、事実としてポルノ鑑賞が[2]であり[3]であることを、あまりにも明示的に表現しているのだ。

(付記。前の記事から、≪疎外≫という用語がよく出ているが。しかし疎外されていることは、望ましくない、あわれな状況である…とは、精神分析の主張では『ない』。むしろ人間存在の条件として、主体は自らを疎外する)

さて、ここまで見てきてだが…。

かんじんな文献、フロイト「メドゥーサの首」(1922)をちゃんと参照しないままに、前記事をポストしてしまった自分。しかし珍しく責任感あるところを発揮し(!)、翌日の外出時に図書館へ寄って、当該の資料を借りてきた。
そして久々に見てみたらそれは、正み3ページ足らずの断章で。かつ死後に発表された草稿だそうなので、『これがフロイトの断じて言うところだ!』というものではないが。

その文献にあたれば、まず触手の化け物にもよく似た『メドゥーサの首』が、成人女性のヴァギナおよび≪去勢≫をさし示す≪シニフィアン≫であることは、前に見た通り(この場では≪シニフィアン≫という用語を、意味不明だが意味ありげな記号、くらいに解されよ)。ヴァギナ=『ペニスの不在』なので、それは≪去勢≫をさし示す。…ではあるが…。

『(メドゥーサを見た者が)石のように硬くなるということは、勃起を示している。だから最初の状況では、これを見た者に慰めを与えるはずだった。これを見た者はまだペニスを所有しており、硬くなることでその所有を確認できるのである』(フロイト「エロス論集」1997, ちくま学芸文庫, p.278)

それは、ひとつの『論理』ではあろうが。しかし『去勢の恐怖に直面した者が、勃起という反応を返す』、そのことの不自然さへの説明になっているだろうか?
なお、この断章でのフロイトの論の全般的な傾きとして、『ヴァギナ=去勢を示唆する恐ろしいシニフィアン』、となっている。よって、何かラブレーの作品から、『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』(!)というお話が紹介されている。その場でそうとは言われていないけれど、つまりそれは≪外傷的なシニフィアン≫だと見られている。

ではあるが! 別の方向から考えたら、『ヴァギナを見た男性が勃起する』というのは、あたりまえかのようなことだ。けれどもその対象を『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン, メドゥーサの首』などと言い換えたところで、『はて?』というわれわれの疑問が生じてしまっているのだ。
そうしてここでわれわれは、≪外傷的なシニフィアン≫の現出が、男性らを性的興奮にみちびく(=勃起させる)、というふしぎな現象に立ち会っているのだ。

『ふしぎ』と言ったが、ざらにあることでありながら説明がつきにくい、という意味でそれはふしぎだ。前の記事の序盤でわれわれは、『ニッチ』というにもピンポイントすぎる性的嗜好に憑かれた人々の姿を、ちらと見た。そしてそれらの特異すぎる嗜好が、それぞれの人の個有の≪外傷≫のあるところを示しているものだとは、とうぜん考えられることだ。
たとえばの話(そんなに特異な例でもなさそうだが)、女性の髪が精液で汚される、そのシチュエーション以外は『萌えない』、という人もいる。だまって彼の言うところを聞いていれば、しかもその髪はつややかなロングの黒髪でなければならないとか、みょうに細かいことを申される。
そうしてふつうに考えて、そのシチュエーションは彼の幼時の≪外傷≫的な体験の反復以外でない。根も葉もないところから、『想像』されたものであるわけがない。で、彼がどうにかの状況で強烈な印象を受けたのは、他ならぬ≪母≫の髪に関してであろう、と推察される。

さらに。いろいろと話を聞いていれば、『トラウマ(外傷)』という語を、『自らの性的嗜好の起源』という意味に用いる人々がおられるのでびっくりさせられる。いわく、『わたしの“トラウマ”はキューティーハニーなので、グラマーかつボーイッシュな女の子がたまりません』、のように。
分析用語としての≪外傷≫はそういう意味には使われないが、しかしそれまた正しい! 男子らそれぞれの性的嗜好は、それぞれの個有の≪外傷≫が規定している。このことは、経験的に正しい。
ただしほんとうの≪外傷≫とは意識できないものなので、『キューティーハニー』は見かけ上のそれにすぎない。もっとそれ以前の、思い出せない何らかの≪外傷的≫なイベントが、彼に『キューティーハニー』という記号を選択させているのだ。はっきり言えば、彼にとってのある時期の≪母≫のイメージに対応する記号がハニーちゃん、なのだろう。

そうやって考えてくれば、『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン』とは、ようするに『父によって犯される母のイメージ』と等価なものである、ということになり気味なのでは?
で、そこまでを見てから≪触手≫というお題に戻れば。『両親の性交』にかかわるイメージを精神分析では≪原光景≫と呼ぶのだが、触手プレイの衝撃的かつ≪外傷的≫なるイメージは、ひっきょうそれの等価物なのでは?

ところがだ、われらの題材である「悪魔と俺 特盛り」という作品の、また特異なところは。『触手プレイ』というものが一般的には、何らかの厳粛なる儀式かのように(!)、あたかも『荘厳な』という形容を待つものかのように描かれる、それをあえなく喜劇化してしまっている。
そこがその作品の≪真理≫に乏しいところでもあり、かつ同時に軽みがあってゆかいなところでもある。というふうにも見られるかなあ…と、筆者は考えるにいたったのだった。

【追記】 2010/02/23。ギリシャ神話で、≪鏡≫の盾を利用して≪メドゥーサ≫退治に成功したペルセウス。彼は次に、全裸で拘束された美女アンドロメダが、海の怪物に襲われそうなところに遭遇する。言わば、『触手プレイ』の目撃者になりかける。そこで彼は、こんどはメドゥーサの首を利用してその怪物を退治する。
ここになぜだか、われわれの気にしているキーワードが出まくっている。そしてこれを見た上だと、「悪魔と俺 特盛り」という作品が、また別のものにも見えてくる。

すなわち。『めんどうだなあ』とは言いながら、まいどまいどヒロインを触手のモンスターから救い出しているそのヒーローが、『ひょっとしたらペルセウスの再来なのか?』、というふうにも見えてくるのだ。
だから。日本神話の『スサノオ×ヤマタノオロチ』を含む『アンドロメダ型神話群』と同様の流れで、ヒーローがヒロインと結ばれてハッピーエンド…という方向が今作の結末にて示唆されていること、それは『合理的』だ。
ところが≪触手≫という趣向を愛する方々は、ペルセウスやスサノオになろうとしない。彼らはメドゥーサとも海の怪物とも、闘わない。そうして『触手プレイ』の永遠の持続の前で、現前している『他者の享楽』からの視線の前で、彼らは立ちどまり立ちすくみ、そして≪去勢≫されながら勃起という反応を返している。

2010/02/19

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

 
参考リンク:Wikipedia「悪魔と俺 特盛り」

前に見た「あきそら」に続いての、ももいろ路線のご紹介。この吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(MFコミックス, 全1巻)はどういうお話かというと、どうでもいいようなフリーター(?)であるヒーローのところに、悪魔のプリンセスが押しかけ妻としてやって来た、というような…。
はい、またまた出ました、「うる星やつら」(1978)もどき。で、その路線のファンタジーラブコメとして、今作特有のセールスポイントは…。
それは悪魔のヒロインが、自分の手下のモンスターを人にけしかけるのだが、逆に自分がからまれてしまう。比喩でなく、『からまれて』しまう。
いわゆる≪触手系≫のグロテスクきわまる化け物によって、ヒロインが毎回ぐちゃぐちゃに凌辱されてしまうのだ。そして、大ゴマ、見開き、クローズアップ、等々と見せ方を変えながら延々と、そのこっけいな惨事が描写されまくる。それが、今作の毎回の山場であり見せ場なのだった。

近ごろまんが界のすみっこで、こういう『ニッチ』の需要に特化しすぎている作品らが、びみょうに目立たなくもないな…という気がする。今作の≪触手≫に対抗して、篠房六郎「百舌谷さん逆上する」の≪ツンデレ≫とか、そういうの。
いや別にそれらをけしからんとはまったく思わなくて、“誰か”がそれを愉しんでいるならオッケーなのだが(…「百舌谷さん」については、いつか別稿で検討したい)。

また。この場では18禁の話題は控えたいんだけど、しかし『2ちゃんねる』のエロゲー板というところは、スレッドのタイトルだけを見ていても面白い。いやむしろ、その『スレタイ』たちが面白い。それらを見ていて、『そんな奇妙な性的嗜好が、あるもんなのッ!?』…というサプライズがひじょうにすごい。ご紹介しないが、それらはあまりにも超ピンポイントで、『ニッチ』どころのさわぎではない。

また。精神分析の機能について、比喩で言ったら『ゴミ捨て』や『排泄』、そういう見方はまったくふつうにある。最初期の症例報告集「ヒステリー研究」(1895)に記録された≪アンナ・O(仮名)≫は、それを『煙突掃除』と呼んだ。そして彼女を診ていたブロイアー医師が、その『煙突』のススをかぶったはずだ。
で、この現代において『どうしようもない話』をする相手をもたない人々は、その『どうしようもない話』らを、2ちゃんねるやそれに類するところに『かきこ』し。そうして何とか、心の中のゴミ的なものを処理している…というわけなのだろうか? いや別にひとごととは思っていなくて、ここでの筆者の≪行為≫もあんまり変わらないし。

で、そこらで見られるようなびっくりのユニークすぎる性的嗜好らに比すれば、いまどき≪触手≫は、とくべつに目新しくはない。触手・ふたなり・寝取られ・そして近親相姦といった題材らは、いまどきふつう気味…などとうかつに述べてしまった後に、自分は思わず頭をかかえる。あまりにもあれだし、いずれも筆者には、あまり。
とまでを見てからわれわれは、今作「悪魔と俺 特盛り」のあからさまな最大のモチーフたる≪触手≫というものを、ちょっと検討してみよう。それは、≪何≫なのか?
てのも。無粋ながら筆者にはそれがちっとも『来ない』ゆえ、なぜこんなふしぎな趣向があるのか…と、ずっと疑問に思っていたので、このせっかくの機会に。

まず。ここで申している≪触手≫という趣向とは、タコやイソギンチャクが巨大化したような化け物が、その無数の触手で女体をさんざん性的に辱めて、それを(画面外で)見ている男性が興奮する。そのようなものとする。
で、その触手たちは『ペニスの象徴』なのであろう…なんてことを、書いてて筆者はつい噴き出す。『言うもさらなり』にしてもあんまりで、こんなところにフロイト様の出番はない。まだ、ない。大物は、ラストふきんで登場する。
さて気にするべきこと、この惨事において『行動』をしているのは化け物だけであって、犠牲者の女性や目撃者の男性らは、『反応』をしても『行動』はしていない。かつ、この触手の化け物らには、高度な意識や言語能力は『ない』のが一般的らしい(今作も、その路線)。
するとそこでは、何らかの無人称な『もの』が、言うなれば『オートマチック』に、女体をどうにかしている…という感じがある。

そして何の関係もなさそうだが、宇多田ヒカル「オートマチック」は、1998年のヒット曲だそうで。その題名を聞いたときに筆者が、『テクノっぽい曲なの?』というかん違いをいたしたことを、別に恥ずかしいとは思っていない。当時は≪テクノ≫が、びみょうにもはやっていた時代だし。
だが。そうとはしたって、愛(欲の行為)のエクスタシーを『オートマチック』ということばで表現する感性が、テクノやインダストリアルの文脈にのったものでは『ない』ということを、筆者は逆にふしぎだと感じたのだった。

そして、『オートマティック』に女体がじゅうりんされる、というイメージが、なぜある種の男性たちには『来る』のだろうか? ここでハードコアポルノということを考えると、まさに『オートマティック』に、その鑑賞者たちの意思には関係なく、画面内で性交的なことが遂行される。
そこでいわゆる≪疎外≫をこうむっている主体の存在を、≪触手≫という趣向は明示化しているようにも思える。そしてそんなような世界には『ギャングバング』とかいって、すごい本数のペニスが1つの女体をどうにかするような趣向が、あるらしい(!)。それがまた、≪触手≫という趣向にシンクロしているものかなあ、と考えつつ。
かつ並行し、≪寝取られ≫という趣向がまた。それは他者たちの≪享楽≫を見ている、というよりも他者たちの≪享楽≫によって見られている、そのような主体の≪疎外≫を、そこで明示化しているものではある。このことは憶えておいて。

ところで女性の側も見ておくと。今作「悪魔と俺」のヒロインについては、実のところ彼女は『触手プレイ』が大好きなので、そこでことさらに自縄自縛で自作自演のショーを演じているのだ、としか考えられない。そうと見なければ『逆に』、あまりにもお話がわけ分からなすぎる。

 『りゃめぇぇえっ… すごいの… いっぱいすぎてぇえっ…
 ふにゃあぁあぁぁ~っ へんになりゅうっ ふぇあぁあぁぁっ』(p.130-131)

しょうがないな…まったく。
しかしだが、そんな女性が『いる』ものなのか?…という点が、1つの考えどころだ。

逆の作例を、1つ提示。少年チャンピオンの掲載作、マツリセイシロウ「マイティ・ハート」(2007)の正義のヒロインは、男の悪党どもからセクハラされがちで、そしてそのときに生じる≪羞恥≫のエネルギーの大爆発で、敵を倒す。悪党どももそのしくみは分かっているのだが、しかしセクハラはやめられない(…)。
そのようなわれらのマイティ・ハートが、大ダコの触手で責められるエピソードがあった。これも一種のセクハラか、と思われながら…。
ところが彼女はその危機について、『羞恥ではなく快感でもなく≪嫌悪感≫しかないので』、気の毒にいつもの奥の手が使えないのだった(!)。『これはほんとうかもなあ』と、筆者はそれを読んで感心したのだったが。

けれども。マイティ・ハートは目撃者の存在を意識していないが、その一方「悪魔と俺」のヒロイン≪シフォン≫は、常にわざわざヒーローの見ている前で凌辱されて、そして『そのこと』を悦び愉しんでいるのだ。さきに引用したしょうもないセリフも、ヒーローに向かって言われているのだ。
すると彼女は、ただ単に触手が好き、というのとは異なるような感じもしてくる。

そこで考えてみるとシフォンは、≪大文字の他者≫を挑撥するために、その≪享楽≫を愉しんで『見せて』いるのかなあ…という気がしてくるのだった。≪大文字の他者≫とは、『常に主体を見ていると想定された存在』、くらいを意味するラカン用語だが。

いや別に大したことは言っていなくて、人間は独りでいても『自分の中の他者』が自分を見ているという、そのていどの話で(…としておいて)。そうしてシフォンのまなざしは、その≪大文字の他者≫とヒーローとを重ね合わせに見ているのだ。
はっきり言うならシフォンの求めるところは、ヒーローがその意思で彼女と性交を行うことだ。けれども彼がそれを遠慮しやがるので、そこでシフォンは触手プレイを鑑賞させて、彼を挑撥している(!)。しかしその挑撥がまったく成功しないので、作中のドタバタが続いている。

…ふつうのラブコメのヒロインだったなら、ちょっと短いスカートをはいてみせることで、ターゲットの男子を挑撥したりするようだが。そのようなところへ凄絶な触手プレイの実演をもってくるというのが、悪魔っ娘の発想のすごいところなのか?
ところでなのだが≪大文字の他者≫への挑撥は、成功しない、むしろ必ず意図されざるところに流れ弾としてヒットする…という法則を、筆者は以前に発見している。現に今作においても触手プレイの実演は、まったくもってヒーローの心(かどこか)には響いておらず、画面の外から関係ないものがそれを見て悦んでいるばかりだ(!)。そうしてまっとうなラブコメにおいても、そのようなヒロインの意図的な挑撥は、けっしてストレートには成功しない。

おや? それを言ったら今作は、流れとしては『まっとうなラブコメ』と、そんなに変わらないことになってしまうが…?
いや、じっさいそうなのだ。今作こと「悪魔と俺」は、『触手をフィーチャーしたラブコメ』に他ならない。触手をとったら大して何も残らないような作品でありながら、ふつうに『実用』されているような『触手もの』とは同じでない。
そこで『また』、そのこっけい味が生じている。ポルノとしたら失敗作になっているということが、バナナの皮にすべって転んでみせている具合いで、今作をびみょうにも笑えるコメディにしてくれている。

(補足。つまり、こういうことで。“誰か”である≪他者≫が常に自分を見ていると、シフォンは思う。その他者とは作中のヒーローであるべきだと、やがてシフォンは想像する。そうして『常に見ているもの』と想定されたヒーローを彼女は挑撥してみせるが、しかしじっさいに見ているのは、ヒーローではないただの≪他者≫に他ならない。
こういう現象は、まんがの外側にもあるふつうのことだ。他者は他者であって、主体の想像の外側にそれは存在している。このように他者の存在を前提として成り立っているのが、精神分析は1つの唯物論である、と言われるゆえんだ)

そして、話を戻し。他者の≪享楽≫の『目撃者』であるところのわれわれは、ただ単にその≪享楽≫から疎外をこうむっているのか、そうでなくむしろ≪大文字の他者≫(の代理)としてその魅せものを受けとっているのか、という問題がありそうだが。
それは、『どっちでもある』としか言えない。「悪魔と俺」のヒーローになったつもりで考えてみれば、それは分かることだ。
『テーゼ:≪大文字の他者≫への挑撥は、必ずや見当違いの第三者にヒットする』。そして『目撃者』たるわれわれは、≪大文字の他者≫の場所と≪第三者≫の場所とを、いわば『量子論的』に行ったり来たりする。
つまり。挑撥的なカッコで彼の気を引こうとしたラブコメのヒロインは、挑撥がすぎて彼にはスルーされつつ、関係ない男(or 触手)にからまれる。そこへさっそうとヒーローが救出に現れ、『分かってんだから、もうそれはよせ』的なことを言う←ハッピーエンド。けれども見ているわれわれのマインドは、その彼の場所とあの彼の場所とを、『量子論的』に行ったり来たりしている。ここでイエス・キリストの論法を借りるなら(?)、レイプの危機がちらとでも描かれたことは、じっさいにレイプが描写されたことと同じだ。

ふしぎだが『それはどっちでもある』ということは、≪触手≫でなくとも、ヤング何とか誌の巻頭の水着グラビアに見入っている男子の心理を考えてさえ、分かることだ。南国のビーチサイドで何かを愉しんでスマイルしている水着美女、見るものはその愉しみから疎外されている。
でありながら彼は、その水着美女の視線が『他ならぬ自分を見ているのだ』、その『わがままボディ』とやらは自分へと向けてさらされているのだ、といった錯覚から逃れえない。そのように錯覚できない場合には、それは『興奮できない、萎え』ということとイコールだ。
ただし、彼は完全なる錯覚におちいっているのでもない。興奮のさなかにも疎外の自覚は失われず、そして疎外されていることは、彼を≪無責任≫にしてくれている。この無責任さ、状況に対して第三者であることが、またなぜか愉しいところなのだ。フラットに言うならそこで彼は、『参加しつつも第三者である』。

ここまで、ずいぶんと長い堕文になりつつあるが(申し訳ない!)。ようするにポルノグラフィーというもの一般が、受け手を疎外しつつ同時に彼らを興奮させている。そしてこの状況を『やたら先鋭に明示化している』のが、≪触手≫であり≪寝取られ≫なのかなあ…という気はしてきた。
するとそれらの趣向は、『おかず』業界のヌーヴェルヴァーグ(?)でもあるかのように、『それを見ること』、『それを見る人』、というものをしつように描いているのかも知れない。ゴダールをはじめとするマニア兼ディレクターのフランス人たちは、『映画、それを鑑賞する人』というものをやたらと映画で描き、そして一方の≪触手≫や≪寝取られ≫は、ポルノ鑑賞者の特有の孤独と≪享楽≫に等しいものを、ポルノ作品の内部に描いてみせている。

かつ書いてきたら≪触手≫とは、その『無人称&オートマチック』で女性を凌辱するしろものとは、ここまでに言われた『第三者』であり、すなわち実体となった≪大文字の他者≫なのかなあ…という気もしてきた。
つまり今作に即して言えば、シフォンが自らを見せたい存在と、じっさいに彼女を見ている存在とが異なり。そして彼女の想像のらち外にあるものとしての後者が、≪触手≫として描かれているようでもある。

ところでなのだが、ここから少々、視点を変えて…。

触手というものがウネウネしまくっている「悪魔と俺」を見ていて、『何か似たようなものを知っているな』と感じた。何かと考えたら、それはメドゥーサ。メドゥーサの頭から生えている、無数のヘビたちのウネウネだ。
そうとすれば、われわれはここで、フロイト「メドゥーサの首」(1922)という論考を見ないわけに行かない。だがちょっと計算違いでその本が手元になかったので、記憶とかにたよってその論旨の一端をご紹介すれば…!

まず、ヘビとか(触手とか)いうものが、ごく一般的に『ペニスの象徴』として機能する、と見た上で。しかしそんなものが大量にウネウネしている場合には、異なった意味作用が生じる。
その大量のウネウネは、逆に≪去勢≫を象徴するものとなる。そこに集積されているのは、すでにちょん切られたものらだということ。そうして≪メドゥーサの首≫は、無数のウネウネにふちどられたその大きな口は、恥毛の生えた成人女性の性器を象徴するものでもまたあり、よって『去勢するものとしてのヴァギナ』という意味作用を発揮する。
で、その恐ろしいヴァギナとは、けっきょくは母親のヴァギナでありつつ(!)。そしてメドゥーサの首を見るものが石化する、硬直するとは、それを見るもののペニスの勃起を表す、というのだった。

分かるのだけど、分かってよいのか…という感じだ。≪去勢≫の恐怖に直面しているものが、ペニスの勃起という反応を返す、というところが特に。
いつもそうだがフロイトの議論には、『ににんがし、にさんがろく』…という感じのすなおな展開を、していないところがある。特に抽象度の低い議論にて、それが顕著だと感じる。だがしかし、論理じゃないようなその迫真性によって引き込まれる。そして、けっきょく人間らは論理的になど考えない、という事実も見ねばならないし。
しかも、それをご紹介している筆者の論にもまた、たぶんけっこうな飛躍がありつつ(!?)。ま、そこらの議論のつながり方は、後日また確かめようと思うけれど。

で、メドゥーサに対する≪触手≫のモンスターもまた、他者を去勢し、自らは去勢されないような存在と考えられる。ただしそれが女性を襲って凌辱するのは、メドゥーサにはなさそうな性格ではある。
そうするとそれは、メドゥーサの首がつまりは『母の性器である』、というのとは違う感じかも。むしろそれはフロイトが「トーテムとタブー」に描いた、すべての女たちを独占して≪享楽≫をほしいままにする、かの去勢されざる兇悪な≪原父≫のようなものなのだろうか?
しかしその≪原父≫には、さきに見た≪触手≫の、『無人称&オートマチック』で機能する…という性格がない。

ならばいっそ、主体の中から彼の≪欲動≫自体が飛びだして、主体の代わりに目的の女性を凌辱しているのだ…と言いたいような気もしてくる。そしてそれまた、主体が≪疎外≫されている、と言える状態であり。
さもなくば、『触手モンスター&犠牲者の女性』が1セットで、≪メドゥーサの首≫に対応するものなのか…という気もする。それぞれがいずれも、≪享楽≫と≪去勢≫をあわせて指し示しながら、主体を見返すものではあり。

そして、そうこうではありつつ。触手イベントの目撃者もまた、メドゥーサの首を見たものと同様に、≪去勢≫の恐怖に直面しながらペニスの勃起という反応を返す。これは、比喩でなくそうなっているものと考えられる。
そして、そこではむしろ勃起の条件として、≪去勢≫の恐怖が演出されなくてはならない(!)。何しろ『触手もの』の1つの見どころは明らかに、どれだけグログロで醜悪な恐ろしいモンスターが描かれているか、というところにある。
われらが見ている「悪魔と俺」でさえも、ほんとうにグログロでたまらない。がしかしその愛好者たちは、それの見た目が弱々しかったり、描き方が淡白だったりしたのでは、たぶんなっとくしない。
で、筆者の感じだと。男子らが一生背負い続けるとされている≪去勢不安≫という不安は、何によってどうなるのか分からないので≪不安≫だが。しかし去勢する化け物らが出ている現場では、対称なき≪不安≫が、対象を持つ≪恐怖≫へと書き換えられている。ここにも意味があるのかな…とも、考えるのだった。

それやこれやと、考えて。そしていろいろ申し上げて、何かかすっているような気はするのだが。しかし『触手とは?』という問いに対して、あんまりきれいな答が出ているような気がしない。…あんまり!?
けっきょくは『ふしぎだ!』と、再び嘆息せざるをえない。触手を見ていて興奮しない自分が、『なぜに触手で興奮する人がいるのか?』、という問いに答えようとしたことが、すでに失敗だったのかも知れない。≪ふたなり≫というお題の方がまだしも解明できそうなので、そっちを書いた方がよかったかも?

それにしても…と、おかしなことを告白すれば。中学生時代の筆者の愛読書は、フロイト「精神分析入門」とマルキ・ド・サド「悪徳の栄え」だった。そんなだから、いかなる変質的な趣向を聞いても、びっくりはしないはずだと考えていた。
ところがいまや、筆者はある種の人々のさまざまな≪性癖≫に、びっくりさせられっぱなしなのだ。これこそ『後生畏るべし』ということなのか、それにしても人間はふしぎだ…と、「悪魔と俺」の恐るべき画面に再び失笑を返しながら、自分は思うのだった。

【追記】 2010/02/23。読み返してみると、筆者のフロイト読解の切れ味は甘い、甘々だ。すなわち。
人が『去勢の恐怖』を感じるのは、刃物とかを持った兇悪なものに向かったとき、だけではない。そうではなく、目の前に『すでに去勢をこうむった者』が現前したとしよう。するとその去勢された(弱々しい、みすぼらしい)被害者の存在は、≪去勢≫という兇行がありうることの証明として作用する。
だからヴァギナというものが、『兇悪だから恐ろしい』記号だというわけでは、必ずしも『ない』。そういう風にそこらは読まなければなるまいが、これについては読解も何も、やはり記憶に頼ってのご紹介にはムリがあった!

赤松健「魔法先生ネギま!」 - ≪ジャック・ラカン≫とラカンちゃま

 
参考リンク:Wikipedia「魔法先生ネギま!」
関連記事:「ネギま!」と「魔法陣グルグル」

赤松健「魔法先生ネギま!」に登場する≪ジャック・ラカン≫と、20世紀のフランスで町医者をいとなんでいたジャック・ラカン…われわれの敬愛してやまざるラカンちゃま。そして「ネギま!」の≪ラカン≫がどうして明らかに、ラカンちゃまの名前を借りているのか、という件。
という以前の記事で自分がふった話に、以下でひとつの見方を示しておく。

まず。実在したラカンちゃまと異なり、「ネギま!」作中のラカンは、やったら強くて過剰に男らしい。そこがぜんぜん異なるようでは…とまで、前の記事で見たわけだが。
しかし、実作にあたってみると。『お金が大好きそう』という特徴において、ラカンとラカンちゃまが共鳴しているような?
「ネギま!」第22巻(KC少年マガジン)収録の202話、なき父のライバルだったらしき魔法戦士の≪ラカン≫に対して、ヒーローのネギくんは亡父の話をおねだりする。するとラカンは、

 『俺の昔話はタダじゃ 聞かせられねぇぜ』

と言い、そして10分間について100万(!)、という法外そうな対価を要求しやがる。
100万『円』とは言ってないので、その単位はペソかも知れないが。しかしネギくんたちにはとても払えない金額ではあるようだ、彼らのリアクションを見ると。

これについて。さらにその先を読むと確認できるのかも知れないが、ようするにラカンは『その場では話したくない』と言っている感じだ。あたりまえだが、子どもたちからほんとうに『100万』を巻き上げようとしている感じがない。かつラカンは、『自分が話す』ということについての対価を要求している、ということを見ておこう。

一方のラカンちゃまは、まっこうからその正反対だ。彼は自分のクライアントたちから、それぞれに見合った安くない金額を、『ほんとうに』巻き上げていたが!
しかしそのことは、もちろん悪事でもないし、かといって善行でもない。彼は精神分析を、とりわけ善でも悪でもないニュートラルな実践に近づけるために、それを行っていたのだ。むろん大局的には善だろうけど、しかしその場での『慈善』にならぬよう、気を配っていたのだ。

そしてラカンちゃまはラカンとは反対に、『話を“聞く”』ということについて、対価を求めていたのであって(…精神分析の臨床とは、要するにクライアントが自由に話し、分析家は聞く、ということらしい)。
その反対に『自分が話す』ということは、彼においては無償の行為だった。彼が1953年から30年間近くも行った毎週の講義『セミネール』は、基本的には無料かつ“誰”でも聴講自由だったとか。

かつラカンちゃまに関しては、彼の『セミネール』が無料だったにしても、それを善行、ご奉仕、『サービス、サービスぅ!』、という気がまったくしない。ただ単に、話を聞いてお金をもらっている人間が、さらに話をしてお金をもらうのでは、バランスよくない…と、それだけな感じだ。むろん、『大局的には善』以外の何ものでもないが!
で。そのような『バランス』とは、どうしてそこまで配慮されるものなの?…という疑問が、ここで生じ気味かも知れない。それがひじょうに、精神分析においては重要なのだ。クライアントと分析家が『貸し借りなし』の状態が、そこでは目ざされねばならない。上下なしのニュートラルな関係がなくば、≪治療≫ができない。

話が戻って、「魔法先生ネギま!」作中のラカンにしても。おそらくは、求められたことをその場で話すのは、何かネギくんに対してよくないのでは、過剰な貸しを与えることになるのでは…という配慮があって、それを話さない方向に運んだのでは?
そしてそのことが、分析家が『慈善的な治療』を行わない理由、必ず相手のステータスに応じた対価を求める理由が、『精神分析において慈善的な≪治療≫などありえないから』、という事情にちょいと似て。

と、このように筆者は、≪ジャック・ラカン≫とラカンちゃまが、どのような地点で出遭(いそこな)っているかを見たのだった。もっとちゃんと「ネギま!」を読み込めば、さらに他のことも言えるのだろうが。けれどいかんせん、この作品が筆者にはひじょうに読みにくいのだった…!

【補足】 ラカンちゃまの臨床(面接, セッション)の実態については、次の文献を参照。そこからいろいろ書き出したいこともあったが、別に『ラカン論』じゃないので省いちゃった。
◆スチュアート・シュナイダーマン「ラカンの<死>-精神分析と死のレトリック」(原著・1983, 訳・石田浩之, 1985, 誠信書房)
◆ピエール・レー「ラカンのところで過ごした季節」(訳・小笠原晋也, 1994, 紀伊国屋書店)