2010/12/04

tenkla「ヨメイロちょいす」 - 『くぱぁ』の意味するところの両義性

tenkla「ヨメイロちょいす」第2巻
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「ヨメイロちょいす」第2巻
 
関連記事:tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

関連記事の続きで「ヨメイロちょいす」について、もうちょっと作品の内容よりなお話を。

1. まさに『自分』が作られようとしている瞬間

『ギャグとは“必ず”ショッキングなもの』、というわれわれのテーゼから。今作の冒頭、まだ何もしていない処女と童貞のヒロイン&ヒーローらの前に、彼たちの未来の娘と自称する女の子たちが現れる。このことを、とうぜんだが作中人物たちは、ショックとして受けとめる。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.15)―――
【花凜】 (頭をかかえながらモノローグで、)ありえない ありえないぃ
おかしいでしょ!? 必要なこと全部 スッとばして……
“既成事実”だけ 突きつけられるなんて……!!

その場面で花凜はさいしょ、いまだ告白もデートもしていないのに…などと、乙女チックなことを考えている。ところが、やがて。ようするに性交がなされたのだと気づき、その場面を具体的に想像して、彼女はひとりでかってにテンパるのだった(p.17)。

さて。婉曲に申し上げるのも逆にいやらしいかと思い、このさいストレートに記述させていただけば。そのらちもない想像の中で花凜は、サクくんのペニスの挿入を促して、自分のヴァギナを自分の手で『くぱぁ』と開いている。この『くぱぁ』という擬音とその所作が、追って今作「ヨメイロちょいす」に頻出する。
未来からやって来たらしい娘3人は、自らの存在を確定させるべく、その父母らに性交を促すのだ。自分の存在が消えないようにと必死で、母となるべき少女らのヴァギナを『くぱぁ』と開いてまで…! 何という、これはものすごいお話だろうか。

何がすごい、と言って。ふつうの人間らにとって、『父母の性交』を考えること、『自らの起源』をたずねることは≪外傷≫的な認識だ。
分析用語で≪原光景≫と呼ばれるものがあり、これは自分の両親が性交している姿を言う。それがしばしば隠喩的に表現されながら、分析主体の夢や妄想に表れる。
もう少し踏み込んで申すと、まさに自分が作られようとしている瞬間を、主体は眺めるのだ。すなわち≪原光景≫は、一般的には、じっさいに見たものが想起されているのではない。『自らの起源はどこに?』と考えたすえ、主体が見出すひとつの答がそれなのだ。

ところが今作の場合には、『自らの起源がなければならない』と考えた子どもが、≪原光景≫をイメージとして見るどころか、それを目の前で実現させようとする(!)。そしてそのことは逆に、親となりそうなヒロインとヒーローらに対して、≪外傷≫として作用する。
そもそも、結果が先にあって原因を作らなければならないということが、奇妙すぎて受けいれがたく、そしてヒーローらのやる気をそいでいる。それで彼たちは、何だかんだで娘らのおねだりを実現しないまま、物語はダラダラと続いているのだった。

2. やたらヴァギナが誇示されるギャグまんが、とは

ところでなんだが、話が『くぱぁ』に戻り。今作のヤマ場に『くぱぁ』が頻出することを、いちおう≪ギャグ≫だと受けとった上で…。
そしてわれわれの申す『第2世代ギャグまんが』というものは、山上たつひこ「がきデカ」(1974)を始まりとして、そこでいわゆる『タマキン(ペニス)』がやたら誇示される、という特徴があった(…補足すると、それに代わって『タマキン的な“記号”らが誇示される』という方向性が、第3世代的)。
だがしかし、それに対して『ヴァギナが誇示される』というタイプのギャグを、あまり見たような気がしない。いや細かく申せば、永井豪「ハレンチ学園」(1968)や、吾妻ひでお「やけくそ天使」(1973)などにあるけれど。けれどもマイナーでありつつ、しかもそれらの表現は、ギャグまんがのメインストリームからはみ出たもの、という気がする。

なぜだろうか? まずそれが≪ギャグまんが≫であれば、過剰に読者を興奮させてはいけない、いわゆるおかずになってはいけない、ということがある。
だから「ハレンチ学園」をいまよく読んでみると、意外とその内容に抑制がある、と感じられてくる。かの≪ヒゲゴジラ先生≫の醜怪な顔がおりおりドカンと描かれることは、けっして無意味ではなく機能していると知れる。
また「やけくそ天使」にしても、そのヒロインがやたらつつしみなくヴァギナを見せることが、いずれ冒頭の小ネタになってしまっている。作品をもたせているのはその先の、不条理や奇想天外として展開する部分だ。

それらに比したら、ピークの部分で『くぱぁ』が描かれてギャグとして機能する「ヨメイロちょいす」の表現は、かなりユニークなものだと知れてくる。そしてそれには、前提となっているしかけがある。つまりこの『くぱぁ』はヒーローから見ると、単なる≪享楽≫のサインばかりではない。
それは少年であるヒーローに、いきなりパパになることを求めてくる『しるし』でもあるのだ。だから彼は、一方ではすなおに興奮しつつも、しかし彼の言う自分の『モラトリアム』(第1巻, p.20)を継続しようとして、娘らが強いてくる性交から逃げまわる。
つまり今作の、『くぱぁ』の意味するところは両義的。この両義性の演出されていることが、それをギャグとして機能させているのだ。その構成の巧みさを、まずいまは見ておきながら。

3. やおよろずの神々の笑い、その対象

かつまた、『ヴァギナ-と-ギャグ』というお題で考えると。日本のさいしょの≪ギャグ≫と呼べるものは、日本最古の書物「古事記」の『天の岩戸』のエピソードで、アマノウズメがヴァギナを誇示してみせたこと、とも考えられてくる。

――― 「古事記」原文、『天の岩屋戸』より(*)―――
天宇受賣命(中略)。爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而。八百萬神共咲。

――― Wikipedia「天岩戸」, 『神話の記述 古事記』より(*)―――
天宇受賣命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳(もすそ)の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

原文中の『番登』は『ほと』と読み、すなわちヴァギナのこと。そして「古事記」において、天地の開びゃく以後、何であれ『笑い』という現象が初めて記録されているのが、この場面なのだった。
(なお、「日本書紀」にも『天の岩戸』のエピソードは描かれているが、しかし『ヴァギナ等を見せた』という記述はないらしい)

するとびっくりだが、ニホンにおける『笑い』の起源は、ヴァギナを見て神々が大爆笑したことなのだ。…けれどもそのヴァギナの誇示が、『なぜ』ギャグとして機能したのか? それが筆者には、あまりはっきりとは分かりかねるのだった。
それについては何年も前から断続的に考えているのだが、まずはヴァギナを、≪去勢のシニフィアン≫として見ることができる(シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。フロイトの論文「メドゥーサの首」(1922)によると、ラブレーの小説に『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』、というお話があるそうだ。それがまた、たぶんギャグっぽく書かれたものかと考えながら。
またはそうでなく、最高神であるアマテラスのこもった場所の前にてハレンチな行為がなされている、それゆえの≪ギャグ≫とも考えられる。ここで神々はアマノウズメの向こうに、アマテラスのヴァギナをも見ていたのやも知れぬ。

と、分かりかねることが多いのだった。『ペニスが誇示される』というギャグが、わりとさわやかに笑えるものであるに対して、その逆であって機能するギャグは、みょうに複雑なのだった。
また。これを書いている自分は男性なので、ペニスに対して怖いとか不気味なものだとか、そういう感じ方はあまりない。たぶんヴァギナの方をこそ、(無意識にも)そのように感じていることだろう。
ところが、女性であったからといって、ヴァギナに関するギャグをさわやかに笑える、ということがあるだろうか? ヴァギナに対するイメージの抑圧は、単なる道徳とやらの問題ではなく、それがあまりにも外傷的なので人間において普遍的なのだ。

そもそもヴァギナには、『考察の対象にしがたい』という性格があるように思われる。『てめえはドーナツの穴でも喰ってろ!』というジョーク(?)があるが、ヴァギナとはそれ的な“もの”だ。
というわけなので、今作「ヨメイロちょいす」のヒーローの優柔不断さにも似て、筆者の申しようが、いつも以上に切れ味よくないが。そのようにふしぎで不気味なヴァギナという“もの”の両義性をはっきり描き、そして≪ギャグ≫にしている「ヨメイロちょいす」という作品。その貢献の重要さを強調しながら、この堕文はいったん終わる。

2010/12/03

tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

tenkla「ヨメイロちょいす」第1巻
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「ヨメイロちょいす」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「ヨメイロちょいす」

「ヨメイロちょいす」は2007年にチャンピオンREDいちごでスタート、追ってRED本誌で掲載中のSFチックな『微エロハーレムラブコメ』(第1巻, p.183、作者より)。単行本は、チャンピオンREDコミックスとして第4巻まで既刊。
そしてRED本誌移転後の第2巻から、作者によるなら『バカ度』が上がり、ラヴコメよりもギャグ要素に重点が移っている気配。なお作者のtenkla(てんくら, 天倉)先生はなぞめいた人物で、その実体は成年コミックの土居坂崎先生なのではと、ネットではもっぱらのうわさらしい。

1. その存在が、“未確定”

今作こと「ヨメイロちょいす」、その概要はというと。なぜかモテ気味だがうすぼんやりした高校生のヒーロー≪桜我咲久(さくらが・さく)≫くんと、2人の少女。ばくぜんと三角関係のあるところへ、とうとつに小さな女の子たちが現れる。
その女の子たちは、近未来からやってきた、ヒーローとひとりのヒロインとの間の娘であると言い張る。ところがその未来がうすぼんやりと不確定気味なので、自分の存在を確定させるため、父母の間にさっさと既成事実を作っていただきたい、と言うのだ。

もしもヒーローがあっち側のヒロインと結ばれた場合には、こっちの女の子の存在は消失してしまうらしい。だから娘らは必死で、自分の母とヒーローとを(性的に)くっつけようと、未来のテクノロジーをも用いながら画策する。
やがては3番めの母娘のペアまでも登場し、赤・黄・緑のイメージカラーで象徴される3組の母娘によって、われらのヒーローは(性的に)翻弄されまくる。ゆえに題名が「ヨメ-イロ-ちょいす」、というわけなのかと。

さて。皆さまもご存じのことと思うけれど、量子力学のおもしろ不可解さを表す≪シュレーディンガーの猫≫というお話がある(*)。説明はリンク先にゆずるけれど、見えない箱の中の猫は『50%生きていて、50%死んでいる』と、ひじょうにおかしいことばで記述される。
で、今作の、未来からやって来た娘たちもシュレーディンガー的に、『生まれている可能性が確率としてある』ような、あやふやな存在であるらしい。だから目の前で、サク君と自分の母≪花凜≫がしっくりしてないのを見て、娘の≪きぃろ≫は、半透明になっている自分の手を示す。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.18) ―――
【きぃろ】 ほら 存在が“未確定” になりかけてる
なんとかしないと いなかったことに なっちゃうの

『シュレーディンガーの猫』は、素粒子のふるまいの『不確定』のふしぎに着目したお話だが。一方の今作では未来の『未確定』であることが、現在の目に見える現象として描かれるのだ。このSF的アイデアが、なかなか切れている感じ。

2. 50パーの確率で生きている

ところで、『好ましくない現在を改善するために過去への干渉がなされる』お話とすると、われわれは藤子・F・不二雄「ドラえもん」(1970)という偉大すぎる先行作を思い出さないわけにはいかない。その第1話から、ちょっと気になるダイアログを引用しておくと。

――― 「ドラえもん」第1話より(てんとう虫コミックス 第1巻, p.18) ―――
【のび太】 ぼくの運命が 変わったら、きみは 生まれて こない ことに なるぜ。
【セワシ】 心配はいらない。ほかでつりあい とるから。
歴史の流れが変わっても、けっきょく ぼくは 生まれて くるよ。
たとえば きみが大阪へ 行くとする。いろんな 乗りものや 道すじがある。
だけど、どれを 選んでも、方角さえ 正しければ 大阪へ 着けるんだ。

さいしょの話だと、いずれのび太くんはジャイ子と結婚して、その孫の孫としてセワシくんが生まれる予定だという。しかし何かをがんばれば、のび太くんはしずかと結婚できるかもしれない…。で、やはりいずれはセワシくんが、『同じ人』として生まれてくるのだろうか? それを『同じ人』、と言えるのだろうか?
とまあ、それはひとつのSFアイデアだ。そしてそれに対抗してかどうか、今作「ヨメイロちょいす」は、『未来における存在権を争う並行世界、そのエージェント』という、新しい切り口を描いているのだ。それがひょっとしたら、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)とすれ違っている発想かも…とも思わせながら。

つまり。「ドラえもん」においては、のび太くんの未来の妻が、ジャイ子であろうとしずかであろうと、結果は大して変わらないらしい。変わらないとは、同じアイデンティティを持った子孫が生まれてくる、ということが変わらない。…そこでセワシくんは、彼の現在の生活の改善を求めて、過去に干渉してくる。
ところが「ヨメイロちょいす」においては、それがぜんぜん『同じ』にはならないらしい。そしてヒーローの行動の分岐は多数の並行世界を生ぜしめ、そしてその世界らは、確率の波として存在するようなものらしい。…だから並行世界の住人たちは、自らの存在の確率の上昇を求めて、過去に干渉してくる。

けれども逆から考えると、自分自身を『確率的な存在』と考えている人はいないはずだ。…おられますか? すなわち、50パーの確率で生きているシュレーディンガーの猫は、実在はしていない。実在するのは100パー生きている猫と、100パー死んでいる猫だけだ。
ところで思ったのだが、貯金箱に多少はお金が入っていることは確か、けれどもいくらかは分からない、といった状況はありげ。これも一種のシュレーディンガーだとすると、それはようするに、ひとの記憶や認識の問題に還元されてしまう。

3. たとえば大阪に行くとして?

さらに言うと、ひとの知覚の形式である時間と空間の存在は、常にシュレーディンガー的な状況を生み出しているのではなかろうか?
…つまり。別に量子力学的な装置などがなかったとしても、猫を箱の中にぶち込んで、後で開けてみたら必ず生きている、という保証はないのだ。死んでいる可能性はごく薄いにしろ、確率としたらそれは存在する。
さらに、箱なんかなかったとしてもだ。自分の知り合いの某氏が近ごろ連絡がないのだが、ひょっとしたら死んでいるかもしれないので『シュレーディンガーの知人』、ということだって言えるのでは?

だが、そうではあっても≪自分≫の存在の可能性が100%でない、そのあり方が量子的、あるようでないようであいまいだ…という感じ方は、きわめて斬新でざらにない。そこが、「ヨメイロちょいす」の新しさだと見る。
ただしこの感じ方は、ふつうの人間からは、『わが身にもあること』という共感が、ちょっとできにくいのではないか…とも思われる。

だからふつうの人間の感じ方からすれば、「ドラえもん」のお話の方が、相対的に自然で受けいれやすいものなのだ。自分の先祖が大金持ちだったらよかったのに…くらい、誰でもいちどは考えるようなことで。
けれどもそこでわれわれが考えないのは、その『大金持ちの家系に生まれた自分』が、いまの自分と『同じ』ものなのか、ということだ。そして今21世紀の創作「ヨメイロちょいす」は、『同じ』にはならない未確定のさまざまな未来から、『シュレーディンガーの娘たち』が押しかけてくる、という絵図を描く。そのSFアイデアのフレッシュさを、まずわれわれは大いに評価しなければならないだろう。

さて、ここまでを見てきてだが、先行作「ドラえもん」に対抗しての「ヨメイロちょいす」ということは明らかに自覚的なしかけであり、今作の内部にもしっかり描きこまれていることだ。「ドラえもん」という語は出ていないけれど、あるお話で花凜の母の≪美凜(みりん≫)からサクくんに、こんなせりふが言われる。

――― 「ヨメイロちょいす」第2巻, 第12話より(p.145) ―――
【美凜】 たとえばあなたが 大阪へ(…中略…)結局 大阪に着くでしょう?

何のことかというと、お色気過剰な美凜はサクくんを誘惑して、『母体が花凜でも 私でもきぃろちゃんは 生まれるのよ』と言い張り、ヒーローを子作りに誘うのだった(!)。が、それでは基本設定がぶち壊れ、そして『ドラえもんに対抗』という作品の性格がなくなってしまうので、あわて気味に花凜が『生まれない わよっ!』とツッコむのだが!

といったところで、いまだ基本設定あたりを眺めたばかりだが。けれども記事が長くなっているので、tenkla「ヨメイロちょいす」の話は次回に続く。