2010/08/15

横山了一「極☆漫 ~極道漫画道~」 - “本当のワシら”は、乙女じゃけん!

横山了一「極☆漫 ~極道漫画道~」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「極☆漫」

今作のタイトル「極☆漫 ~極道漫画道~」の読み方は、『ごくまん・ごくどうまんがみち』。2009年から月刊少年チャンピオン連載中のギャグまんが、単行本は少年チャンピオン・コミックスとして第1巻が既刊。

物語のヒーロー≪鬼ヶ島香≫は40歳の男性(独身)、ガシッとした体で眼つきは異様にするどく、ボーズ頭に鼻ヒゲ、ようするにルックスが超こわもて。そしてその見かけのまんま、彼の職業は武闘派暴力団『鬼ヶ島組』の2代目組長!
ところがこの人物には、知られざる第2の面あり。というか本人の言うによれば、『本当のワシ』という秘密のパーソナリティがあり。
いさいをはぶけば、ようするに『本当のワシ』とは≪乙女≫なのだ。花とドレスとスイーツ(笑)と少女まんがを熱愛する『本当のワシ』は、さらに≪ローズマリー香≫というペンネームで少女誌『花とまめ』に作品を投稿中(!)。特に仕上げがうまいらしい香は、彼のオモテの商売道具のドス(短刀)を用いて、トーンの『削り』を巧みにこなすのだった。

そして、そのローズマリー香が投稿者として格を上げ、やがて担当編集がついて、版元の『白湯社』にも出入りするようになる。しかし編集者は、電話ごしに香が男性だとまでは知ったが、まさかヤクザとは思わない。ゆえに彼の出現は、『理由がぜんぜん不明だが、少女まんがの世界にヤクザが押しかけてきたッ!』というショックでしか、受けとめられない。
そこで必ずドタバタ劇が生じてしまいつつ、しかし香は、ふしぎにちゃんと原稿を届けたり、プロのアシスタントをつとめおおせたり、版元のパーティに行って憧れの大作家のサインをゲットしたり…と、まるでサクセスロードを着々と歩んでる感じ(!?)なのがゆかい。題名同士が似ているだけにジャンプの「バクマン。」に対抗している感じもありつつ(!?)、そのゆかい&強引なお話の運び方は、ぜひとも実作でご覧いただければ。

ところでなんだが今作「極☆漫」について、これを読んで愉しんでいる“われわれ”すべては、それぞれが≪乙女≫なのだということは言える。香はキモいが、しかしただ単にキモいだけだったら、今作には読者がぜんぜんいなくなる。その姿が、ひそやか&ささやかにも『共感』を呼んでいるのだ…と見ないわけにはいかない。
さらに、物語の最初から香は、ランクが同じくらいの投稿者≪カモミール京子≫をライバルとして意識しているのだが。そうしてお話が進んだところで、鬼ヶ島組と対立する組織のボス≪龍ヶ崎京≫というこれまた顔の怖い男性が登場してきたとき、一瞬で『こいつがカモミールか』と知れる意外性の“なさ”に、われわれはむしろ驚く。

(香×京子のエピソードの続きをちょっと書いておくと、投稿者同士の2人が意気投合したことにより、組織同士も和解と協力関係に進む。そしてハッピーかと思ったら、しかしその合作は、ヤクザ世界の勢力図および警察関係に、激甚なるインパクトをもたらす! 香にしろ京子にしろ、“オモテの仕事”のヤクザ稼業を、そんなにうっちゃっているわけではないのだった)

と、そんなことを言っている筆者は、世紀の変わり目をはさんで約10年間、わりと熱心なりぼんの読者だったのだが。何でそうだったのかって、当時の自分が≪乙女≫だったんだろうな…と考えないわけにはいかない。それがいまでは、自分の中の乙女が衰弱してしまったらしく(泣)、少女まんがを読んでも『お話』として読めるだけだ。
また一方で、ちょっとアングラっぽい世界に、『百合』とか『ふたなり』とかいう趣向もある。かつまた、男子が読むための『ショタ』とか『男の娘』とかのジャンルも、びみょうに盛り上がっている感じ。そしてこういうねじくれた趣向らのすべては、つまるところで『オレは乙女である、オレはかわいい』という無意識の認識をさしている。ちなみに筆者のメイ言に、『萌えオタは萌えキャラである』、というテーゼもあってはみたり。

そういえば、また。今作の第1巻の結び近く、香たちを飛び越して≪斉藤ネロリ≫という新人が、『花とまめ』からデビューする。その完成度に圧倒された香が気になって、編集部での打ち合わせ直後のネロリをつかまえると、それがわずか11歳の、頭に“りぼん”をつけた活発な…というか、ひじょうに才気ありかつ生意気な女の子。
で、こいつらが、たちまち“なかよし”になるのはめでたいが(?)。にしても香から見てのネロリ(本名・斉藤音緒)は、『そうであってほしい自分の姿』(分析用語で“理想自我”)に他ならぬのだった。

そうして今作「極☆漫」の描く香らの活躍は、『オレは乙女である、オレはかわいい』という“われわれ”の無意識の認識を言わずと肯定もしつつ、あわせてそれを客観化している。心では≪乙女≫であって『かわいい』が、残念にも現し世の姿がキモオタだったりオッサンだったりする“われわれ”の姿を、それが反映として示している。
その『客観化』という作用のところでショックが生じつつ、そしてそのショックを“われわれ”は、笑いによって受け流すのだ。すなわち今作は、≪ギャグまんが≫であるのだ。

2010/08/11

月山+伊賀「エリアの騎士」 - てっとり早く≪症状≫を抑制しても

月山可也+伊賀大晃「エリアの騎士」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「エリアの騎士」

2006年から少年マガジン連載中のサッカーまんが「エリアの騎士」は、亡き天才選手の兄の遺志をついで、弟が奮闘しちゃうようなお話。単行本は、KC少年マガジンとして第21巻まで既刊。
これを筆者は第10巻くらいまでしか見てないし、かつ正直なところ、サッカーまんがとして面白いのかどうか…ということがよく分からない。ただちょっと気になったところを、ここに手短に書きとめておきたい。

今作「エリアの騎士」には、本格サッカーまんがとしては、ひじょうに珍しい点があると考えている。それは作品の底流に、心理(医療)サスペンスの要素があるところだ。それはどういうことかって、これはネタバレじゃないと信じて申せば。
お話の最初に、U15代表選手の天才ミッドフィルダー≪傑(すぐる)≫と、そのさえない弟の≪駆(かける)≫、という兄弟が登場する。兄の信ずるところによれば、駆クンもまた素質じゅうぶんなのだが、しかし惜しくもハートの部分に何かが足りない。
で、この兄弟が、不運にも交通事故に遭い、兄はあっさり死んでしまう(!)。そして弟は、兄からの心臓移植を受けて生き残る。
生き残った駆は、やがてサッカーを再開するのだが、しかし『何か』が変わった気がする。つまり兄の心臓を媒体に、傑のハートの強さを受け継いだような気がする、というわけだが。

そうして筆者が気になっているのは、その要素。『兄から弟へ、強いハート(心臓)がパスされた』ということが、このお話の中で、どれだけの重みをもつのか、ということだ。それを筆者の独断とは思わず、作品自体がそれとなくもあおっているところだ、と考えながら。
さてこのお話の中に、≪峰綾花≫という『臨床心理士, カウンセラー』である若い女性が、ちらほらと登場している。さいしょは兄が負傷した時のメンタルケア要員として現れ、次には兄をなくした弟をケアするために出てくる。
で、この人物がほとんど面白半分に、心臓移植にともなって、兄の人格(か何か)が弟に移転してるような話を無責任にあおるのだ。その要素へと、自分はつられ気味なのだった。

 ――― 月山+伊賀「エリアの騎士」, 『#7 心臓』(第2巻, p.77)より ―――
意識不明の弟を、兄弟の幼なじみのヒロイン≪美島ナナ≫が病室に見舞う。すると、正体不明の美女である綾花が駆につきそっている。彼女は自分の身分も名前も告げないままに、こんなことをナナに言う。
 『彼‥あなたの 声を聞いて 反応したのよ 心臓が大きく どくんって‥‥
 ねえ 美島さん どっちだと思う? あなたの声に 反応したのは』
とだけ言い捨てて、綾花はかってにその病室を去るのだった。『なんなの あのヒト』…と、ナナはあっけにとられる。

このしわざをはじめに、筆者には綾花が、まじめに『治療』的なことをしているという感じが、ほとんどしないのだった。自分は『臨床心理士』って何なのかほとんど知らないのだが、おおむねこういうことをしてるのだろうか?(…まさかねえ)
だいたい綾花のしていることは、≪精神分析≫に興味をもつわれわれ的に、まるっきりふに落ちない。『治療』の手段という名目で彼女は、やたらクライアントの手を握り、かつ『ハグ』ということをする(第2巻, p.87)。ところがわれらの精神分析は、『ハグをしない』ということを出発点として生まれたものだ。

そして綾花がしているような、身体接触による『治療』とは何なのかを正しく申せば、それは催眠術療法の末流に他ならない。いやむしろ、精神分析以外の『心理(的)療法』は、そのすべてが催眠術の末流かと考えられる。そして催眠術療法は『治癒』をなしえないとするのが、われわれの立場。

もう少し補足すると、われらのフロイト様もまた(ご存じのように)、初期の臨床では催眠術療法を行っていた。そしてクライアントが暗示にかかりにくい時には、声かけにプラスして身体接触を行うとグッド(!)…などということを、とくいげに報告していた時期もあった。
ところがそれの弊害があれこれ大きいし、しかも催眠術は症状を一時的かつ強圧的に抑えるだけと知って、違う方法を模索した結果、フロイトは分析療法を編み出した。むしろ彼はその方法を、クライアントらによって教えられた。ところが現代の『臨床心理士』やら『カウンセラー』やらいうスマートそうな肩書きの方々は、てっとり早く症状を抑制しようか何かで、平気で逆行ルートを進んでおられるのだろうか?

ま、まんがに描かれた根も葉もないお話から、あんまり広げても何だけど…。そこでこの「エリアの騎士」を、まんが作品として眺め直すと、やはり綾花の立ち位置が不明瞭なことが、筆者の心証をかなり悪くしているのだった。まるで彼女は、『心臓移植によって人格ののり移りが起こる』ということを確認だか証明だかしたいがために、その後の駆たちにつきまとっているようなのだが。
が、そんな態度が『治療者』としたら不まじめすぎで不ゆかいなのは言うまでもない上に。そして今作が『サッカーまんが』であるとすれば、その心理サスペンス的な興味がしつこく継続的にあおられていることは、あまりに過剰ではなかろうか? …そうでもないのかな…?
堕文のさいごに好きかってな想像をあえてすれば、『兄貴のハートをもらったから、“全国”優勝しちゃったぜ!』とまでお話が進んだところで、『実はその心臓は、違う人のなのよ』という大ドンデン返しがあったら面白い、かも。なぁ~んて!



いかなる作品でもひとつくらいはほめておく、という自分の主義から申し上げると、今作では、チームメイトで下品とセクハラを一手に担当している≪公太くん≫の活躍が面白い。つか、彼が登場していなかったとしたら、今作はまんが的にどうしようもなくなる。作中で彼の演じている『コミック・リリーフ』があまりにも有効すぎる、それで(いちおう)よいわけだが。

2010/08/09

久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」 - いつでもどこでもギャグマンガ!

久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「よんでますよ、アザゼルさん。」

話題の作品「よんでますよ、アザゼルさん。」は、2007年よりイブニング連載中のギャグまんが。悪魔を使役する町の探偵≪アクタベ≫と、その助手のバイト女子大生≪さくま≫、そして悪魔≪アザゼル≫らが演じるドタバタを、劇画っぽい画風で描く。題名中の『よんでますよ』とは、仕事にまったく気乗りしないアザゼルを、アクタベたちが召喚してるの意。単行本は、イブニングKC第4巻まで既刊。

これについて、自分の興味あるところだけ紹介して、スパッと終わってしまおうとする。…なぞの人であるアクタベ探偵の呼び出す悪魔に、いつも出てるのが2匹いるのだが…。

そのまず1匹は、題名に出ているアザゼル。彼は現世ではちびっこいイヌのような姿になっており、話し方は関西弁で、その言動は下品とセクハラのかたまり。で、その悪魔としての特殊能力は、『淫奔』。任意の人間の性的魅力を、超きょくたんに高めるようなことができるらしい。
そのもう1匹は、『蝿の王』として有名なベルゼブブ。『魔界の貴族』を名のる彼は、人間界では18世紀風に正装したペンギンの姿になっており、ことばもきれいでものごしは紳士的。がしかし、その本質は便所バエ! …あまり説明したくないが、ようするにたいへんなるスカトロ変態者に他ならない。で、彼の特殊能力は、『(いつでも即時、)強制的に生物の脱糞を促す』。

と、するとだ。われらがアザゼルとベルゼブブの活躍するところ、いつでもどこでもエロとスカトロのカーニバル空間になりうる(!)。あらゆるシチュエーションであらゆる人間どもが、出し抜けにもうれつにさかったり、必死でケツを押さえながらトイレを探して駆けずり廻ったり…というシーンを拝むことが可能となる(!)。
という、そのことを想像してちょっとはゆかいになれるような人でなければ、たぶんギャグまんがなどを読んではいないだろう。永井豪「ハレンチ学園」(1968)以後のギャグまんがのあり方を、『チンコ-と-ウンコ』という2大シンボルに集約させる大胆な見方があるが、これはそのさわやかな行き方を、ちょっぴり大人っぽいアプローチで描いた作品かと見れる。

(どうでもいいようなことも付記しておくと、『チンコ-と-ウンコ』のそれぞれをラカン用語で言い換えれば、『ファルス-と-“対象a”』。だからどう…ということをいまは申さないが、それらがきわめて重要な概念らしいのだった)

でまあこの作品、そうした『チンコ-と-ウンコ』がばくはつしてる的なところは、ひじょうに面白いと思う。がしかし、まいどいちおう『お話』になっているこの作品の、エピソードの終わり方が、まいど後味よろしくない感じも? いちばんさいしょの物語にて、アザゼルのとんちで超むりやりに依頼を解決したさくまが、まさに『後味わるい――』と叫んでいるように。
(第1巻, p.23。『夫の浮気をやめさせて』という妻からの依頼。アザゼルが魔力で夫を性的不能にしたので、浮気は止む。がしかし、その不能が原因で、やがて夫婦は離婚してしまう!)

悪魔どもの活躍はアナーキーとカオスの大ばくはつを志向しているけれど、しかしその飼い主のアクタベは、きわめて現世的なところに、表面的には『依頼を解決した』というかたちに、ドタバタの落しどころを設営しようとするのだ。そしてアクタベは、よくもはっきりとさくまに向かっていわく、

 『悪魔の力を 借りても 幸せになんぞ なれん』(同)

…するとアクタベは常に、“知っていて”クライアントらに見せかけの解決を与えているでしかない。言わば、『催眠術的』に。
まんがの世界で、一方にアナーキーとカオスの発生をドカンと描いてさわやかに終わっちゃうギャグまんがもあれば、またその一方に、とほうもないことを無理やり『いい話』にまとめている作品もある。そして今作「よんでますよ、アザゼルさん。」は、いやな意味での大人のリアリズムをギャグまんがの世界に持ち込んで、そこで毎回のお話をまとめているのだ。

Sex Pistols “The Great Rock'n'Roll Swindle”(1978)すなわち、闇のヒーローであるアクタベは、善人か悪人かという以前にまずビジネスマンであり、そして『可能ならば、“チンコ-と-ウンコ”からでも利潤を引き出す』、という資本主義の理念を貫いているのだ。『チンコ-と-ウンコ』が大暴走することは反社会的なのでショッキングかつゆかい…と考えるわれわれ、その裏をまんまとかいてくれやがるのだ。
これをパンクロック的に申すなら、21世紀の『偉大なるロックンロールのペテン』、カオスからキャッシュをつかみ出す超荒わざの再現かッ(!?)。で、そういうまったく『大人的』な視点の顕示されているところが、今作独自の味わいではあるかと。



なくもがなの追記。今作の第1巻を買ったころ、筆者はふつうに、『作者さまのペンネームは久保保久、くぼ・やすひさ』…とだけ思っていた。それで読み方は合ってたみたいだが、しかし『名前が回文』というシャレの存在には、しばらく気づけなかった。…おニブだからっ!

もひとつ。今作の第3巻の末尾あたり、悪魔と悪魔っぽい人のたむろする探偵事務所のつとめに疲れたさくまが、大学のオタクサークルにからんでコスプレメイドのアルバイトを…というお話あり。しかし筆者はそこらを見て、『おたく様たちのキモさを笑うという方向性は、ギャグまんがとしてはチープ!』、と感じた。はっきり申せば、『またかよ』と。
でもまあ、そこでも作品の姿勢は一貫してて、つまりキモオタ様らはひじょうにキモいけど、しかし大した悪ではない感じ。が、それに対する悪魔連は、キモさを通り越している上にりっぱな悪である、と。

しかもそうでありつつ今作は、どちらかといえば悪魔どもの側に、読者の共感を誘っているふんいきがある(!)。それはショッキングなことだが、しかしおかしくはなくて、なぜなら≪悪魔≫とは、いつでもいわゆる『人間性』の側によりそうものだからだ。
すなわち。≪悪魔≫のお話を追っているつもりで、いつしかわれわれは、自分の中のどん欲・怠惰・ごうまん不そん…等々というものを見せつけられてショックをこうむり、かつ、そこに生じてしまったありえざる共感を≪抑圧≫する。それはそういうものなのだが、しかしその説話パターンをギャグまんがに描いた先行作がちょっと思い出せないので、やはりこの創作はユニークだと言える。

2010/08/07

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」 - やっぱ男の子は…どうなのかといえば

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第2巻, 竹書房 
関連記事:ラベル「三ツ森あきら」

かって1990'sの大名作だった「LET'Sぬぷぬぷっ」と、今21世紀の関連シリーズ「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」。この記事では後者(略称・「SA」)について、ちょっと小さいところを見ていこうかと。

その「SA」第2巻のカバーを見ると、われわれには超おなじみのキャラクター、かって「大文字のLET'S」のシンボルだった≪スシ猫くん≫の姿が! …と思ったらそれは、『22世紀の未来からやってきた猫型ロボット』、≪エロえ悶≫という別名&別の設定で、この「SA」にご出演なされているのだった。
で、そのエロえ悶くんは、のび太君ならぬ≪ネバ子ちゃん≫という女子大生の家に住み着いてて、何かしらお手伝いをしようとしている感じなのだが。
(≪ネバ子≫といえばギャグまん通のオレとしたら、土田よしこ大先生のりぼん掲載作「ねばねばネバ子」ってお作を想い出すけど。でも、別に何の関係もなさげ!)

ひとつのお話を、ご紹介。ある日、みょうにメガネの似合ってるネバ子ちゃんが自室で、意中の男子への誕生プレゼントを何にしようか…と、悩んでいる。お寿司を食しながらその相談を聞いたエロえ悶は、何のためらいもなく、

 『やっぱ 男の子は 女の体が 一番喜ぶと 思うよ』

と、あっさり言いきりやがる(「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第2巻, p.96)。

…まずは関係ないところに目をつけておくと、エロえ悶の前世がスシ猫くんなだけに、彼がお寿司を食べている場面がよくあるのだが。
だがしかし、いつもそれでは、ずいぶんコストがかかってる感じだ。≪オバQ≫以来の居そうろうキャラクターとして、もっともぜいたくなのでは? …とま、それはいちおう見ておいて。

と、そのように、無意味に正しいエロえ悶の意見を聞いたネバ子は、『体じゃないよっ 心だよっ!』等々と、反論してけつかる。そして、相手の気持ちになって、ほんとうに喜ぶものをプレゼントしたい、的なことを言う。
そこでエロえ悶は、ご本家ドラえもんのまねをして、あれと似たような手つきで、未来のべんりアイテムらしきものを出してくるのだ。

 『オナリタ イーン!
 男の子の気持ちが わかるようになる 薬だよ』

で、そのタブレットを呑んだところ。たちどころにネバ子の股間から、男子の持つようなそれが、『ニョキ ニョキ』と生えてきてしまう。彼女のはいているスカートを持ち上げて、やたらとたくましいその姿を顕現させる。
すると、さいしょは『キャ―― 何コレ――』と叫んでびっくりしていたネバ子だが、やがて『あ――っ』と叫びながら、その“もの”を『シコ シコ シコ』と、自分でどうにかし始める。そして彼女は、この崇高にして高尚なる場所(笑)には書けないようなことを次々と口走ったあげく、

 『やっぱり プレゼントは 女の体が 良いかも――』

という結論を得るのだった。そしてそのありさまを眺め、『だろ』とだけ言い捨てるエロえ悶くんの、冷たい目つきとその機体のテカり具合いが、オチのところでみょうに印象的でありつつ。

…われらがフロイト様の尊きご理論によると、幼児の発想として『ペニスは付け外し自在のもの』であるという。さもなければ、ペニスをもたない者たちの存在が説明つかないからだ。
そしてご理論の大基本として『幼児の発想』あれこれを、人間たちは心の奥底で死ぬまでキープし続ける。そこらをへいきで否定できる者たちを、偽善的とか愚劣とか自己欺瞞のきわみとか、言ってみるも時間のむだでしかないが。

いや、まあそんな、≪理論≫がどうたらの話はやめて。男子の外性器というものが、一種の寄生虫みたいな“もの”、自分に対して外部的な“もの”なのではなかろうか…それの存在によって、自分が不自由になっているのではなかろうか…ということは、自分も思うことがある。
じっさいに男子の外性器を失ってしまった男性たちは、少なくとも『男子的な性欲』からは、自由になられているご様子だ。物理的“去勢”まではいかずとも、渡部伸「中年童貞」(扶桑社新書, 2007)という本をパラ見したら、『性欲から自由になるため、自分に女性ホルモンを投与してみた』(!)というお話が紹介されていて、それには意表をつかれてびっくりした。で、体験者はその≪自由≫の境地を、わりに快適だったように言われるのだった。

そして、われわれが見たエロえ悶くんの、エピソードの末尾の冷静きわまる態度。それがおそらく『男子的な性欲からの自由、という境地』からのものでありそうとは、彼の股間に性器的なものの描写が『ない』ことから知れる。
お話のたびにエロえ悶はいちいちエロいアイテムを出すけれど、しかし彼本人はまったくエロくない。これはどういうことかって、むしろ彼が自分から取り外してしまった“もの”が、(ひじょうにしばしばペニスを模した)彼のエロアイテムになって、そしてネバ子にくっついたりネバ子の中に挿入されたりしているのでは、と思える。そしてその使用されるありさまを、われらのエロえ悶くんは、きわめて冷静に眺めるのだ。



追記。上までで、いちおう話はまとまっている気がしているが(錯覚)、補足的なことを少し。
そして以下しばし、ひじょうにお品のないことを書いちゃうかもよ、とお断りさせていただいた上で。『かもよ』じゃなくてほんとにお下劣なフレーズを書いちゃうけど、いや別に見なくてもいいようなことだが、しかし以下を述べとかないと自分がお偽善的になっちゃう気がするので…と、そういうことで。

で、それも一種の≪ギャグまんが≫かもしれない、みさくらなんこつ大先生が≪ふたなり美少女≫を描くようなお話と、さっきご紹介したお話の共通性ということが、ないとも思えない。そっちのお作品たちで、おペニスをそなえちゃってる女の子(たち)が、『あひぃいぃ、お、おセンズリっ! マスコキっ! おチンポでっ、おセンズリ、かきたいれしゅうぅぅうう~!』等々と吠えまくってのたうちまわる、あれ的な。
筆者には『ふたなり』というネタを見ての性的興奮ということがぜんぜんないが、だけどそのような、みさくらキャラクター(たち)の痴態・嬌態・狂態に、ショックを受けつつの共感、ということはある。ようするにそれ(ら)は、お男子である“われわれ”のこと以外でない。

2010/08/03

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 『護憲派』ヒロイン、爆誕っ!?

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「マイティハート」

以下で話題の「マイティ・ハート」(正しい表記は「マイティ♥ハート」)は、2007年から2009年まで週刊少年チャンピオンに掲載されていた、『SF特撮のパロディ+ラブコメ』くらいに形容できそうな作品。作者・マツリセイシロウ先生の最初のまとまった創作であり、単行本は少年チャンピオン・コミックス、全7巻。
で、これに対して、まるでプリズムのように…もしくは、しんきろうのように…なんて表現はきれいすぎだが。そうとしてもこれは、見る人によってずいぶん印象が異なる作品なのでは…という気がしている。『こういうものだ』と、かんたんには言えない感じ。

まず。第1巻のカバー画を見ればそっこうで知れるように今作は、むやみと巨乳な異装のヒロインが、やたらパンツをチラ見せしながら活躍する、『ちょっとエッチなドキドキ禁断ラブコメディ(表4のアオリ)』、ではありそう。それは、いちおうまちがいない。
だがしかし、『Hなラブコメ』というジャンルへの一般的な興味に対して、これがまともに応じ(きれ)ているものなのか…ということが、筆者にはよく分からない。もっとふつうに言うと、『Hなラブコメ』として成功しているものである、という気がしない。
それこれいろいろと考え廻し、『今作はこうである』ということがあまりにも言いにくいように思ったので、むしろ先にお話の概要を述べた方が、まだしも分かりやすいかもしれない。

ではその第1話、『怪人ミーツ少女』というお話から見ていけば。今作のヒーローたる≪怪人ヴァルケン≫は、たぶん地球征服をもくろんでいそうな悪の組織の幹部。何かちまちまと大小の悪事を働きつつ、しかしふだんは一介の地味な高校生≪天河くん≫として、現代日本の社会に潜伏している。
で、ある日。その彼のクラスに『すげえ美少女』が転校してきたので、男子らはキーキーと大騒ぎ。ところがその少女≪舞島心≫は、きゃしゃな姿に似合わぬ大音声で『やかましい!!!』と、軟派な男子どもを一喝! りりしいところを、出し抜けに見せてくれる。
内心で硬派をきどっている天河くんは、そこで『逆に』、心へと興味をいだく。…が、心は、彼をバカ男子らとまったく同様にあしらい、そして『お前 うるさいぞ』とたしなめてくるのだった(!)。

というできごとに小さからぬショックと怒りと屈辱感を覚えつつも、同じ日にヴァルケンは部下たちを連れて、『悪事中の悪事 幼稚園バスジャック』という作戦行動へと向かう。だがそこに、彼たちの悪事をじゃますべく、『断罪天使マイティハート』を名のる正義のヒロインが登場!
それがただ単に登場したのではなく、まず巨乳とパンチラという『部分対象』から出現している…とも書いておかなければ、やや偽善的な紹介になってしまいそうでありつつ。そして≪ヴァルケン=天河くん≫は、遠目にマイティハートの姿を見て一瞬で、『あれは… 舞島…心!!』と、その正体を超あっさりと見ぬいてしまう(!)。
しかもそれは、別にヴァルケンが目ざとかったわけではない。むしろ以後ずっと、マイティハートがその正体を、隠すことに成功した例はない(!)。よって舞島心がマイティハートとして、わざわざ恥ずかしいコスチューム姿で人前に出ていることには、『何の意味もない』…とも言えないのが、今作のひとつ面白いところ。それがなぜかは、いずれ述べよう。

で、この初登場時。とうぜんのように『高いところ(=倫理的な高みを含意)』から現れたマイティハートの口上を、ちょっとご紹介しておくと。

 『貴様らの狙いは わかっている!
 徒党を組み 混乱を招き
 憲法9条を 改憲する つもり だな!!(ビシッ)』

それを聞いたヴァルケンは、内心で『護憲派――!?』と言い返しながら、『ゴゴーン』とショックをこうむる(第1巻, p.12)。と、ここに、まんが史上でおそらく初めての…。初めてじゃなくともたいへん珍しそうな『護憲派』のスーパーヒロインが、超カッコよく(?)爆誕したのだった。

という場面を見て筆者が、たいへん強い印象を受けた、ひじょうにうけた、とは明記いたしたい。この作品が筆者に対し、序盤のここで大きなポイントを稼いでくれた、ということを書いておきたい。
てのも。『悪 vs.正義の闘い』的なお話たちが、ほんっっとうにくさるほどある中でも、悪と正義との間に≪憲法≫を置いてくれた作品というものが、たぶん今作以外にない(…ポリティカル・フィクションのようなものは除外し)。
だから、ここでヴァルケンが『ゴゴーン』とショックを受けた理由をも、ちょっとは考えてみるべきで。それは相手が正義の味方にしても、≪憲法≫を持ち出して自分らを責めてこようとは、あまりにも予想外だったから、では?
ヴァルケンらに限らず、自覚的に悪事をなしている者たちは、自分らが『刑法』に触れていて警察にケンカを売っている、とまではおそらく自覚していよう。だがしかし、自分ら(の所業)が≪憲法≫に対してどうなのか、なんてことは考えていないように思われる。…とわれわれが考えるのでなければ、ここでヴァルケンが『ゴゴーン』とショックをこうむる、という今作の記述がすべってしまう。

いくら正義の味方にしたって、≪憲法≫を背負って闘うヒロイン(&ヒーロー)なんて存在は、これまで『むしろ』なかったのだ。しかも、そこらから逆に考えてみると、むやみやたらに自己判断で実力を行使する『正義の味方』のようなしろものが、はたして合法的な存在なのか?…という疑問も生じてくる(!)。
そうと見れば、このマイティハートの口上は、特に誰の信託をも受けてもいないのに『正義の 刃で罪を 断つ』、と宣言している彼女(たち)の存在、それ自体をあやしく、あやうく、そして戯画っぽくしてしまっている。ゆえに、いままで≪憲法≫ということを語った『正義の味方』などはいなかったのでは?
だいたい、話題の『憲法9条』の記述がどうかというと、

『第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』

…とあるわけだが。これの前半の、『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求』とあるところには、かなり多くの人々が共感できそうだとしても。しかしその『正義と秩序(中略)国際平和』を、いかにして実現しようか…というところに、あまりいい考えが誰からも出ていない。めんどうな話になりすぎるので、ここらはそんなに掘り下げないけれど。

そこで、あえて議論の飛躍をよくすれば。…正義とは何であろうかという問いかけ、そしていかに正義を実現しようか、さもなくば最低限、いかにして悪でない側に廻ろうか、という課題の存在。それらは、こんにちまでのいわゆる『戦後日本』の体制、その誕生の時点に生じて存在し続けている≪外傷≫に他ならない。
そしてよくある『正義の味方』たちの活躍を描くお話らは、その外傷の≪抑圧≫に貢献している。われわれがその外傷を(無意識へと)抑圧したいので、『正義とはどういうものか?』という問いを避けた『勧善懲悪』の明快そうなお話たちを、われわれは歓迎してきたのだ。

ところがマイティハートの過剰なる口上は、そのわれわれの≪外傷≫を、むじゃきかつ無慈悲で無意味にえぐり返しているのだ。かつその所業は、直前のエピソードで心が天河くんの『硬派きどり』という心理的な構えを、超あっさりと崩壊させた、その『頭から一刀両断!』のやり口の≪反復≫でもあり。
ゆえにそれは、≪ギャグ≫として機能する。そしてここでも確認しておくと、筆者が≪ギャグ≫と呼ぶものは『外傷的ギャグ』だけでありつつ。

ここでぜんぜん関係ないようなことも述べておくと、マイティハートとは異なるスーパーヒロインを描いた作品として、われわれは種村有菜「神風怪盗ジャンヌ」(1998)を知っている。そしてネタバレにならないよう慎重に申すのだが、その作品の描く≪ジャンヌ=まろん≫は、『闘う正義のスーパーヒロイン』なんて存在を、自ら撥無している。
彼女は『正義を守る』というタスクを(ふつうの安易な仕方では)実践しないばかりか、まず自分自身さえ『をも』守らない。『剣はいらない 平和主義者 だもん』というその決定的なセリフくらいは、ぜひとも引用させていただきたいところだ(「神風怪盗ジャンヌ」, 最終話より)
そしてはっきり申せば、『闘う正義のスーパーヒロイン』などという物語系列で、これに何かをつけ加えたものは、いまだない。以後はパロディ、それも、特に笑えるところもないようなパロディにすぎない、くらいに言ってよさげ。

で、そのようなジャンヌがあった上でマイティハートは、言わば『正義主義者』として、かつ何のためらいもなく悪に対して剣をつきつけるスーパーヒロインとして登場しつつ、しかも『護憲』的なことを言いたてる、というわけのわからなさ。
この状況下で『護憲』を主張することが何か消極的、もしくは微妙にもぬるま湯的で現状維持的な感じ、かといって『改憲』の側にもまったく空疎な勇ましさしかない。どうしたものか…というわれわれ多くの認識(らしきもの)とはまったく関係なく、われらのマイティハートは、『正義』の実力行使と『護憲』とを、ぜんぜん平気で直結してくれる。それがまったくの矛盾であることは、まったく別のやり方で、『“闘う正義のスーパーヒロイン”などという存在を自ら撥無』、というジャンヌのしわざを反復している。
もちろんそれは、『2度目は喜劇として』、というやり方で反復されているのだ。すなわち、そこでやっと笑えるパロディの誕生があったのだ…とまで言っては、ちょっとほめすぎなようだが。

話の先取りになってしまうけど、われわれは単に『正義』を話題にしているのではなく(そんなことに大して興味がないし)、『女性として』正義っぽいことにかかわって活躍している…そのようなヒロインたちを見ているのだ。そして、まず先行したお話のヒロインたるジャンヌ(=まろん)は、『女性である』という自覚をきわめたときにこそ、ひとつの葛藤を乗り越えることができた、と描かれている。
で、その約10年後に出たマイティハートは、それの安易でないパロディ作品になっているように思える。すなわち、非-ジェンダー的に『正義』を執行しようと意図しているヒロインが、なぜか見た目にはあからさまに『女性である』、と言うよりもそれでありすぎる、という性的な記号の現前でしかない(!)。
これはスーパーヒロインたちの通例が踏襲されているのでもあり、ジャンヌもそうだが≪セーラームーン≫とその亜流たちが、なぜかことさらに挑撥的なかっこうで登場していることには、りっぱな理由が『ある』。そしてわれらのマイティハートという存在は、そうした無意味そうな≪挑撥≫を、超ことさらにきわめているのだ。そうして彼女が、どうなってしまうのか…等々のことは、追って述べられよう。とまでを申して、続く。



続く、という文字列を打ってから、超・蛇足的な言いわけ&ごあいさつを。
このようにわれわれは、マツリセイシロウ「マイティ・ハート」なる創作の出だしのところに、たいへんシャープな≪ギャグ≫のさくれつを見た。これに限らず、そのようなものたちがあればこそ、筆者が今作について、この堕文を書いているのだ。
ところがこの作品が、トータルで≪ギャグまんが≫と呼べるものだと筆者には思えないし、かつそれは、悪と正義の闘いを『改憲 vs.護憲』として描いているものでもない。憲法がどうこうなんて話題は、冒頭のここに出ているだけだし。
そして、じゃあこの作品は何なの…ということは、おそらく“誰”も言えていないと思う。ま、ようするに今作は『ちょっとHなラブコメ』…その言い方で十分だと思う人にとって、それはまったくそうなのやも知れず。
が、単なるそれではないような、と感じているわれわれが、その有する『また別の』過剰さに注意しようとしているのだ。が、そうとはしたってこの堕文は、まだその第1話の前半までをしか見れていない(!)。…というていたらくを心そこからおわびしつつ、次回にご期待あれ…っ!