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2010/11/22

岡田あーみん「お父さんは心配症」 - 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

岡田あーみん「お父さんは心配症」第1巻
岡田あーみん
「お父さんは心配症」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「お父さんは心配症」

岡田あーみん先生の1983年のデビュー作であり、そして出世作で代表作ともなっている「お父さんは心配症」という作品。これについて、あまりにも客観的な名作すぎて、逆に語りにくい、ということを筆者は感じる。
何しろ手もとの単行本が、第50刷とか60刷というのがすごすぎる。だが、圧倒されっぱなしではしょうがないので、まずはその客観的な見方とやらを示しておくと…。

1. 彼女らの思うつぼの≪家族物語≫

『ギャグまんがの少女部門』というジャンル史的に、赤塚不二夫のファミリーから出てきてポスト赤塚的な作風で大成功をとげたのが、1970'sの土田よしこ先生。それ以前には、われわれが言うようなギャグまんがは、少女まんが界に存在しなかった。いずれわれわれは、そのよしこ先生の偉業についても、この場で見ていくだろうけれど。
そして1980's、よしこ先生の勢いが少々なくなってきたところで、入れ替わりにポスト「がきデカ」的な作風で出てきたのが、この岡田あーみん「お父さんは心配症」。そして以後、こんにちまでずっと新たな読者を獲得し続けている今作の成功ぶりは、かの「マカロニほうれん荘」や「ストップ!! ひばりくん!」にも並ぶ、などとは以前にも述べたこと。

そして今作「お父さんは心配症」が、男やもめのヒーローでパピィこと≪光太郎≫が、彼のお年ごろの娘である≪典子≫に対して心配症すぎるお話、そして娘の彼氏の≪北野くん≫を迫害しすぎるお話だということは、すでに常識の部類として。
しかし『母親がいない』というこの家族の状況を、単なる欠落や不幸とだけも考えられない。パピィと彼氏からの愛を一身に注がれて板ばさみになり、葛藤してみせながらヒロインが『愛を独り占め』というその状況を、愉しんでいないとは言えない。それは、無意識においての愉しみではありつつも。

大島弓子「雨の音がきこえる」小学館文庫版
大島弓子
「雨の音がきこえる」
『少女まんがにおける片親の家庭の描写』について、見ていて気がつくことがある。傾向として父子家庭の場合には、作品のふんいきは、わりにカラッとして明るい。しかし母子家庭の場合には、わりにジメッとして暗い。傾向として。
たびたび述べていることなのだが、いちばんひどいと筆者が感じた作例は、大島弓子の中編「雨の音がきこえる」(1972)。これはジメッとした暗い家庭のお話として始まって、しかし作中で母親が死んでから、急に作品のふんいきがカラッと明るくなる(!)。…とは、どういうことだろうか?

ここらを意識させるものとして、りぼん掲載の小桜池なつみ「青空ポップ」(2006)という、これまたカラッと父子家庭を描く作品もあった。そのヒロインの亡き母親は、かっての伝説的なファッションモデルで、いまだ人々のリスペクトを一身に集めている。
そして、『なぜこの母親が故人でなければならないか?』と考えると、その方がヒロインにとって好つごうだから、としか考えようがない。死んだ母に代わって、空いているそのポジションを埋めることが、同じモデルの道に進むヒロインのタスクになるのだ。かって母の享受していた愛情と尊敬と名声らを、彼女はそっくり受け継ぎたいのだ。

小桜池なつみ「青空ポップ」第1巻
小桜池なつみ
「青空ポップ」第1巻
かくて、『母親などは、いなくていい』、『よい母親とは死んでいる母親』とは、≪少女≫たちの無意識の認識として、あるていどは普遍的なものであるらしい。だから今作「お父さんは心配症」についても、これが意外と、少女らの思うつぼの世界、あっぱれな≪家族物語≫として機能し、一種のユートピアを描くものであることは、まず見ておくべきこととして。
(註。フロイトの用語の≪家族物語≫とは、親の愛を足りないと感じた子どもたちが、『きっと自分は拾いっ子に違いない』等々と、自分かってな自分の出自を想像することを言う)

あと、もうひとつ。われらがパピィのかいしょうのなさ、からきし威厳のないダメパパっぷりについて筆者は、「お父さんは心配症」に先行したりぼん史上の名作、池野恋「ときめきトゥナイト」(1981)との関連性をも感じる。かつその作品では、ヒロインの蘭世にしろライバルの曜子にしろ、やたらにパパとべったりな関係で、逆に母親とは疎遠ぎみ。
池野恋「ときめきトゥナイト」第1巻
池野恋「ときめき
トゥナイト」第1巻
蘭世と曜子の関係にやや近いものとして今作では、≪緒形ひろみ≫とその父親が、何かと典子&パピィに張り合ってくる。で、ひろみとその父のべったり仲良しな関係は、『ありうるもの』としてこちら側から参照される。
ただし「ときめきトゥナイト」では、パパが娘の恋路をストレートにじゃまするような展開にはならないわけなので、そんなにまで今作と直接の関連を言う気はない。けれども何か、同じふんいきを描いているものか、という気はしつつ。

2. 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

ところでなんだが≪ギャグ≫に限らずまんがの世界に、『鼻血ブー』というメニューが現存する。これはもちろん、谷岡ヤスジ大先生の「メッタメタガキ道講座」(1970)を元祖とするもので、その意味するところは『婉曲に表現されたオーガズム』ということは、前にも述べたような気が。
藤原ゆか「CRASH!」第1巻
藤原ゆか
「CRASH!」第1巻
追って現在もそれが、少女まんがではけっこう多用されるのだった。いまのりぼんに、藤原ゆか「CRASH!」という作品が載っているはずだが、その第1部のヒロインは芸能事務所の見習いで、『タレントの素質ある人材を見つけると鼻血を出す』という設定だった。『それはギャグですか?』…くらいな感じ方もしたが。

で、この「お父さんは心配症」について、パピィの有名な切り札としての鼻ぢ攻撃がさいしょに出たのは、まさに『鼻血でデート』と題された、その第2話(りぼんマスコットコミックス第1巻, p.19)。心配症かつヘンタイのお父さんが、あろうことか娘のデートにひっついて行くお話。
そして若い2人が映画館街で、「愛のゆくえ」とかいうロマンスを見ようとするので、いきなりパピィはテンションMAXへ! 『ふざけるんじゃねェ』と、娘にくってかかる。

【光太郎】 (激しく地だんだふみながら、)愛とか 恋とか 好きとか
変態三人娘とか 好色一代男とか ふとももをあげる とか そういう題の 映画はダメ
【典子】 これは悲しい 愛の物語 なんだから やらしく ないわよ
【光太郎】 (「愛人バンク」というポルノ映画の看板をさして、)い…いいか…
こ…こーゆう 映画は ダメ…だぞ(…と言いながら息を荒くし、鼻血を流す)

『愛』ということばからパピィはやらしいものを大いに連想し、それに対して典子は『“愛”は、やらしくない』と返す。ところが『愛人バンク』(いま言う援助交際をあっせんする組織)などという語の存在は、『やらしい“愛”もある』ということの実証に他ならない。
これがおそらく、弁証法というもののお手本だ。まあ弁証法は知らないが、これこそパピィが全シリーズ中、初めてその名高き鼻血を出す場面なのだった。

そして、ともかくもその「愛のゆくえ」とやらの上映館に入った3人。いくつかの小ネタをはしょって、やがて映画はクライマックス、マリィとトニィのラヴシーンへ展開。するとその描写が、意外に激しいものなのだった。

【トニィ】 マリィ きみがほしい
【マリィ】 い…いや トニィ~
【トニィ】 いやよ いやよも 好きの うちさ… ヘッヘッ
(劇場のスクリーン上に、作者からのメッセージ。『とてつもなく すごいシーンを そーぞーして下さい』)

その『すごいシーン』を見たパピィは、さきのとは比較にならない勢いで『ブモ~』と、噴水のような鼻血をのけぞって盛大に噴き上げる。たいへんなことに…!
それで次のシーン、典子がカンカンに怒って『も―― 帰って』とパピィを叱るのも、分からぬことではない。いや、もっともだ。
けれども『やらしくない』と娘が宣言していた映画が、実はかなりやらしかった、という事実はある。だからパピィが、止血用に映画のパンフを丸めて鼻孔に突っ込みながら、『純情な中年に あんな映画 みせるからだ』と抗弁するのも、またもっともなのだった。

3. “すべて”の性交渉は、いやらしい?

つまり娘とパパにおいて、『やらしい』ということの解釈が、ぜんぜんかみあっていない。娘の側は、まじめな意図があっての性交渉ならば『やらしい』とは言えない、くらいに考えていそう。ところがパパの側の考えは、『“すべて”の性交渉はやらしい』。
この作品「お父さんは心配症」において、いつもわれらのパピィが娘について、何かとやらしい想像をよくする。この第2話の中でも、映画館の闇の中、北野くんが典子にへんなことをしてはいないかとパピィは心配し、なぜかそのやらしい妄想が、娘たちにはまる見えだ(!)。そこで『お父さんの方が、よっぽどやらしいわよ!』などと典子がいつも言うのも、またもっともだが。
けれども娘たちの側が、やらしいことをまったくしようとしてはいない…かというと、そんなこともない。お父さんの心配にもまた、もっともなところがなくはないのだった。だから彼らの『やらしいぞ!』、『やらしくないわよ!』、という言い争いは、ぜったいに解決などを見ない。

などと、ことばにするとむずかしいようだが。しかしこれは常態として存在する、そしてふつうはなしくずしに解決される、そうしたジレンマがここには尖鋭的に描かれているのだ。
そしてこのありさまを過激化しているのは、われらのパピィがヘンタイであり、かつやもめでもある、この2つの前提だ。もしその前提が片方しかなかったら…または両方ともなかったりしたら、今作に描かれたようなおもしろ騒ぎは起こりえない、少なくともここまで過激にはならないわけで。

しかもこのパピィが、りっぱな変質者として娘を溺愛しつつ、しかし一線を超えていないところがある。…ダメな人なりに彼がまともな父親でありえているということは、本来ならば言うにもおよばないことだけれども、しかしいまの情勢下では言わねばならないかもしれない。そうだからこそ今作が、逆説的にも≪少女≫たちのユートピアを描くものになりえているのだ。

「ヤスジのメッタメタガキ道講座」
「ヤスジのメッタメタ
ガキ道講座」
さてこの堕文のさいごに、少々余談を。話は戻るけれども、『鼻血ブー』ということについて。
わかりきったことのようだが、『性的興奮によって鼻血が出る』という現象は、ほぼないことらしい。それは「ヤスジのメッタメタガキ道講座」によって生み出されたまんが的表現にすぎないと、やたらあちこちに書かれている。
だが調べていると、こんな記述が見つかった(*)。

アメリカには性的興奮と鼻血を結びつける習慣がなく、代わりに胸や眼からハートが飛び出したり、オオカミに変身する描写があり、日本のアニメなどで性的興奮状態の時、鼻血が出る理由がわからないといいます。
性的興奮に鼻血を連想する習慣は、アジアに多く中国、韓国、ベトナム、台湾に同じような発想があるようです。

そうだとするなら、『性的興奮→鼻血』というイメージのもとを「メッタメタガキ道講座」だけに還元する見方の根拠は、やや薄くなってくるのではなかろうか? あまり言論のあれな社会主義国の中国やベトナムに、「ガキ道講座」やそれ的なまんがの影響がありそうな気がしないので。
むしろ、東アジア一帯にもともと(うっすらと)存在したイメージを、ヤスジ先生がはっきりと描いてくれたのやも、という気がしてくるのでは? そもそもだ、女子小学生を対象読者層としたりぼんの誌面に『性的興奮→鼻血ブー』が描かれていて、『意味が分からない』という苦情があったような話は聞かない。
すると単なる約束ごと以上の何かが、『性的興奮→鼻血ブー』のイメージにはあるような気もする。しかしここでは、まさか≪集合的無意識≫なんてたわごとを申すのではない。

ともかくも。射精という現象を知らないような幼女らでさえも、性的興奮と体液の放出との関連をすなおに受けいれる、その事実に筆者はおののきと苦笑を返すのだった。

もうちょっと余談を重ねると、自分の子どものころの思い出で、ピーナツを食べすぎて鼻血が出たことが…確かあったはずなのだが。しかしそんなことはありえないというのが、こんにちの医学的な見方のようだ。『カフェインの過剰摂取にともなう鼻血はありうるとしても、まさかピーナツはない』、のような。
うーむ、何だかくやしい! ところでわれらがあーみん先生においても『鼻血悲話』として、幼少の時代にあらぬ局面ではなぢを噴いたことを告白されているのだった(第1巻 p.102, 第3巻 p.51)。そこでまたおかしな共感が生じながら、大好きなあーみん先生のお作についての話はぜひまた!

2010/11/07

櫻井リヤ「仮スマ」 - 仮面のカリスマの告白!

櫻井リヤ「仮スマ」第1巻
櫻井リヤ
「仮スマ」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「仮スマ」

たまには、あまり黒くないハッピーなお作品をご紹介! こちら櫻井リヤ先生の「仮スマ」は、『華やかな芸能界で繰り広げる大爆笑ビジュアル系ギャグ!!』。
今作は2001年のザ・マーガレットにて初登場、追って本誌のマーガレットに進出して掲載中。単行本は、第6巻まで既刊(マーガレット・コミックス)。自由なショート形式の作品で、ひじょうに読みやすく親しみやすい。

1. まったく謎に包まれたままの、その実体!?

ではまず、この作品のヒーローの≪サク≫をご紹介いたすれば。

――― 「仮スマ」第1巻より, 『カリスマアーティスト』(p.3) ―――
超人気アーティスト サク
その歌唱力とルックスで 若い女性達を虜(とりこ)に している
だが自らを ほとんど 語ろうとしないため
彼の素性は まったく謎に包まれた ままだ

さてこの白面で長身の美形カリスマアーティスト、その『素性』がどんなかというと。それが本名を≪米俵豊作≫という、ものすごいイナカから出てきた地味ぃ~な青年。顔の地味さをメイクでごまかしているので、属性として水分にきわめて弱い。
その素顔が、どれだけ地味なのか。初期のお話で豊作くんが、顔を隠して外出するエピソードあり。すると案のじょうサクの大ファンの女子たちに出くわし、思わずジタバタした拍子に、帽子とグラサンが取れてしまう。…しかし女子らは『なんなのよアンタ!!』と言うばかりで、何も気づかない(!)。そこで『変装の 意味ナシ!!』と、豊作くんはさとる。

さらに豊作くんは、単に地味というばかりか、着るものが野良着とジャージしかないようなド辺境の出身で、ふだんのセンスが異様にダサい、古臭い、そして地道すぎ。お金はあっても六畳ひと間の風呂なしアパートに住まい、食事はまめまめしく自炊。ついでに幼児的という面もあって、女性関係まったくなしどころか、男女の手がふれると子どもができると考えている。

そんなわけなので仮面のカリスマ、「仮スマ」というわけか。あとひじょうにショッキングなのは、彼のことばのなまり。『~やがも』とか『~だっち』とかいう語尾が印象的で、意味は分かるけれど聞いたことのないものであり、『どんだけ奥地の出身!?』という感じを大いに盛り上げている。
サクとしてはいちおう標準語を操っているけれど、しかしその『米俵弁』が、そんなには隠しきれていない。こんなお話があり。

――― 「仮スマ」第1巻より, 『演技』(p.34) ―――
【演出家】 (イメージビデオを撮影中、)次のシーン サクは――
服を脱いで シャワーに向かう いいね?
【サク】 はい(…カメラが廻るとサクは、脱いだ服を正座してキチキチ折りたたむ)
【演出家】 (怒って、)たたまなくて いーんだよ!! 脱ぎ捨てろ!!
【サク】 (名前入りの白ブリーフいっちょで、)かあちゃんの 教えだっちに――

これをイケメンのよそいき顔で、みょうにきれいに直立して言いやがる。というわけで、サクをサポートしているスタッフたちは、彼がすごいイナカものということを、ぜんぜん知らないわけではない。あまりごまかしきれていないのだが、しかしあえてスルーしてくれているらしい。

2. 『てーんで わからんちども まあ よかちぬー』

なまりの話題で押していくと、こんなエピソードも。サクは海外のプロデューサーと仕事することになり、レセプションで向こうはペラペラと外国語で話しかけてくる。するとサクはスマイルし、負けずに一方的にしゃべくる。

【外国の人】 Mie Oinem kuf dielina layudk dul...
【サク】 てーんで わからんちども まあ よかちぬ――
なんしゃべとーも けぇとつかんが よかひとなぬくさ――

いま初めて気づいたのだが、この場面の白人らしきプロデューサーのおしゃべりが、何語なのか分からない。そしてサクの米俵弁も、どこの方言か分からないを通り越して、もはやニホン語っぽくない。
なのでこのシーンをテレビで見ている人々は、サクが何らかの外国語を操っていると思い込んで感心するのだった。ゆえに題して、『バイリンガル』(第1巻, p.47)。いやほんとうに、一種のバイリンガルと言えないこともない!

さらに、こんなお話が。地方巡業に出たサク、ホテルの部屋での打ち上げに参加。すると誰かが、『ジャンケンで 負けたヤツは イッキ飲みな!』と言い出す。バスローブ姿か何かでリラックスしているサクは、『ハハッ おもしろそうですね』と、よゆうで受けて立つ。
そしてジャンケンをする運びになるとサクは、『もんじゃらけ~ ポ~~』と、ぜんぜんわけの分からないことを言い出す。それも、みょうにとびっきりのイケメン顔を作ってそんなことを言い、そのこぶしを振るのだった(第1巻, p.136)。

【サク】 もんじゃらけ~ ポ~~
【その場の人】 なっ なんなんスか それ!?
【サク】 じゃんけんの かけ声…
【その場の人】 「ジャンケン ポン」でしょ!?

『ジャンケンポン!』の方言といえば、筆者が小さいころの東京足立区では、『チッ!ケッ!タッ!』という言い方がイカスとされていた。歯切れよく、より気合いがこもるような言い方になっていたわけだが、しかし『もんじゃらけ~ ポ~』では、それとはまるで逆! どこにも気合いの入りようがない!
あまりにゆるすぎて、逆にショッキング。かつ、この『もんじゃらけ~ ポ~』には、どこぞの体毛がもんじゃらけ~くらいのニュアンスもありそうな感じだが、まあそこは追求しない。

それからやり直しで、『じゃーんけん』…というかけ声に続き、こんどサクがどうするかというと。『チョキ!!』と叫んで彼は、両手の人差し指を高い場所で組み、みょうに大きなポーズでバッテンを作る!
サク本人は顔を赤くして必死だが、ちょっとこれには威圧的なしぐさという感じもある。それを見せられた歌手仲間はびっくりして、『なんじゃ そら~!? こえーよ』とツッコむのだった。

というわけで筆者の感じ、この作品では、まず何しろ米俵弁がすごい。こんな方言がどっかにはあるの?…とは誰もが思うようなところだったらしく、単行本のどこかで作者さまが種明かしをされている。
それが丸っきり架空の方言で、作者の考案になるものだそう。エセ方言にしても出来すぎで、これのテンポなきテンポが、今作「仮スマ」のムードを決定づけているとは言えそう。

3. みんないっしょに、『もんじゃらけ~』

さてこの「仮スマ」も、第3巻を過ぎたころから、わりと誰にも見えたことがあると思う。それはこの≪サク=豊作くん≫が、とんだこっけいなおどけ者にも見えながら、実はたいへん好ましい男子なのではないかと。それは筆者が、できれば少女まんがの一般的な読者の身になって考えよう、として感じたのだが。

つまりサクのハデハデしさと輝く才能に対して、豊作くんの実直まじめさや生活力の豊かさ、人のよさ誠実さ、そして農作業できたえたフィジカルの超強さなどもまた、女性らから見て魅力的でないということはないのでは。つまり、いわゆる『1粒で2度おいしい』キャラクターになっているのではなかろうか?
お話の作り方として、キャラクターには第2の側面、ウラの顔、『実は…』というポイントを持たせろと、よく言われる。その方が、より好かれるから。そういうものとして、これは大いに成功していると思われるのだ。

かつまた今作には、装うということや≪仮面≫という主題について、考えさせられるようなところもあるにはある。けれどあまりむずかしくは考えず、『もんじゃらけ~』と言いながら豊作くんを眺め、ゆかいな気分でひとまず終わりたい。次にこの作品を見るときには、今作のびっくりなラブコメ展開について、おそらく!

2010/10/29

吉田戦車「伝染るんです。」, 新井理恵「ペケ」 - カミュってサルトる、≪不条理≫メモランダム

新井理恵「×-ペケ-」文庫版, 第1巻 
関連記事:うすた京介「すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り, ラベル“吉田戦車”

ギャグまんがの世界にはっきり≪不条理≫ということばを持ち込んだ作例として、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)は、目ざましいものにはちがいない。ただしそれは社会的にはマイナーに終わり、ムーブメントを起こしてはいない。
そうではなく。それを追って後からどんどん『不条理』な作品が出てくる、というムーブメントを起こしたのは、もちろん吉田戦車「伝染るんです。」(1989)。『よくも悪くも』そうなったわけで、つまり少なくない作品らが、そのムーブメントの『一部分』と見なされてしまったらしい。

1. 新井理恵「×-ペケ-」は、≪不条理≫なのかどうか

1990年に別冊少女コミックで掲載が始まった新井理恵「×-ペケ-」(フラワーコミックス・スペシャル, 全7巻)も、その巻き込まれたひとつでありそう。そしてその見方について、作者さまから、じわっと抗議が出ているところをお見うけいたす。

――― 新井理恵「ペケ」第1巻, 作者のごあいさつから(p.32) ―――
新井です。まぁ最近は不条理な四コママンガが世間にはびこっていて
それは現代の世の中自体が不条理(…中略…)
が つまりそんなことは どうでもいい関係ないコトなわけで

つまりムーブメントの存在は、はっきりと認めておられる。しかし、自作「ペケ」はその一員ではない、と言われたいごようす。
また別のところには、こんなことも描かれてある。

――― 新井理恵「ペケ」第2巻, カバー下のまんがより ―――
【なぞの博士】 「×-ペケ-」を 不条理と 言う者は
「不条理」という 言葉のイミを知らない アンポンタン・ポカンに すぎなーい!!

だがしかし、同じカバー下の表4では、その博士の助手が「ペケ」第2巻を読み終えて、『やっぱりただの 不条理4コマとしか 思えませんでした』と言っている(!)。言うにもことかいて、『ただの不条理4コマ』とは…!

とまで見てから、自分の感じ方を述べると。「ペケ」のポジションが、先行した「伝染るんです。」と、そして追って出た少女系ギャグの傑作、にざかな「B.B.Joker」(1997)にはさまれたものとして…。前後の2つに比べたら、「ペケ」はそんなに≪不条理ギャグ≫じゃない感じ、言われるとおり、確かに。

あまりにもきょくたんに単純化してしまえば、「ペケ」の描いていることは2種類だ。まずひとつは作者さまの、地域や学校における実見談。もうひとつは、いまでいったらBLっぽくて『腐女子』っぽい妄想。
そして、それぞれのネタ自体がどうというよりも、それらに対するさめきったシニカルな視点がユニークなのだ。そもそも前者の実見ネタなんて、ふつうの人らがどうとも思わないようなことらを、するどい感性がピックアップしているものだし。『妄想の世界でも モテませんでした…』とは竹内元紀の作品に出てきた標語(?)だが、なぜかそれ的な痛いリアリズムを、筆者は「ペケ」に感じるのだった。

2. サルトって、カミュった≪不条理≫たち

ところで筆者もアンポンタンとしての自覚は大ありなので、≪不条理≫などというむずかしい語の『イミ』を、ひじょうに知ってなさげ。そこで、すなおに辞書をひいてみれば…。

――― ≪不条理≫の項目, 「現代新国語辞典」より ―――
ふ-じょうり【不条理】《名・形動》
【1】道理に合わないこと。「―な判定」・不合理。
【2】〔哲〕人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的状況を言った語。(参)フランスの文学者カミュのことば。

…だそうだが。記憶によれば、確かカミュ「異邦人」(1942)の結末近くで、もうすぐ死刑になりそうな主人公が、教戒師のお説教のくだらなさをガマンしかね、『absurde!(仏・バカらしい、不条理だ)』と叫ぶ…だったかな? 何ンせ、アンポンタンのうろ憶えで。
などと、思ってたのだが。しかし調べてみたらぜんぜんそうではなかったので、自分のめっきりアンポンタンであることには、ほんっとにがっかりさせられた。

まず「異邦人」のやま場に、そのヒーローが『アブシュルド!』と叫ぶ、という場面がめっからない。いや、断じてないとは申していないが、自分には見っけられなかった。
さらに、その「異邦人」とペアをなすテクストと見られるカミュのエッセー「シーシュポスの神話」(1942)。こっちの方は逆に、≪不条理≫というキーワードが出すぎ! 本文など見ず、もくじだけをチェキっても、『不条理な論証』、『不条理と自殺』、『不条理な壁』、『不条理な自由』…等々という見出しらがズラリ。

サルトル「嘔吐」訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院なお、カミュに先立ったものとして、1938年のサルトル「嘔吐」にもまた、キーワードとしての≪不条理≫が出ている。拾い読みしかしていないのだが、この作品は中盤までは≪実存≫をキーワードとして、ひじょうに小説っぽく展開している感じ。
それが終盤前になって、急にキーワード≪不条理≫が登場。そこからしばらくエッセー風に、それに関する記述が続いている。

――― サルトル「嘔吐」より ―――
<不条理性>という言葉がいま私のペンの下で生れる(中略)。不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。
(註:“木の蛇”とは、かの有名な、主人公に突発的な吐き気を催させた、マロニエの根っこのこと。訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院, p.211)

おそまつながらも、手短さを目ざして『説明』してしまおう。この小説でさいしょ≪実存≫とは単にあるもので、『世界』の中にいちおうは収まっているものだ。ところが≪不条理≫の噴出という現象は収まらざる“もの”の現前であり、それは実存の存在(感)の確かさを失わせてしまう。
そうすると、『実存はふいにヴェールを剥がれた』、『実存とは、事物の捏造そのもの』、うんぬんに堕ちてしまう(同書, p.209)。そしてこの現象は、≪実存≫と世界との間の距離や摩擦の存在をあばきたて、そして主人公を吐き気にまで追い込むのだ。

また注目すべきは「嘔吐」の語り手が、『狂人の演説は、狂人の置かれた情況との関係によって馬鹿げている』として、他には還元しえぬ絶対的な≪不条理≫ではない、などと言っていることだ(同書, p.212)。
この主人公には≪ギャグ≫とか『笑い』とかを追求している気はなさげなのに(とうぜん!)、なぜか話がそっちへふれぎみなのだ。何しろさいしょから≪不条理 absurde≫なる語は、バカらしさ・こっけいさというニュアンスを呼び出すものだし。

さてその「嘔吐」の主人公が意識しているのは、『こっけいなようなものらを見ているのだが、しかしちっとも笑えない』という感覚だ。彼は真昼の公園の平和っぽい風景を見渡して、『なにやら滑稽な姿を呈していた』と思いかけ、しかし打ち消し、『実存しているものはいかなるものも滑稽ではあり得ない』、と述べる(同書, p.210)。

だがしかし『あり得ない』と言うならば、なぜ『こっけい』という語がことさらに呼び出され、そして宙に浮かねばならんのだろうか? しかも主人公が見ているのは、われわれがふつうに思うような『こっけいな眺め』ではない。
そして『笑う』ということは、むしろ≪不条理≫を見て見ず、『事物の捏造』としての実存に甘んじることらしいのだ。すなわち。

――― サルトル「嘔吐」より(p.209) ―――
『とめどなく笑い続け、濡れた声で、「笑うのはいいことだわ」と言うあの笑い疲れた女たちのように、すべてこれらのもの(註・主人公が見ている公園の風物ら)は、静かに従順に実存へと赴くままになっていた』

それこれと見てくればこの「嘔吐」の主人公は、常人らにはちっとも面白くないものをさして『実にこっけいくさい、しかし笑えない』などと、ひじょうに根性曲がりなことを言ってやがるヤツ、ということになり気味。ふしぎなことだが、笑わないくせに『こっけい』という前置きを、彼のりくつは必要とするのだ。
それがまた、りくつといっても、別にすじの通った論ではないのが困りもの。「嘔吐」のヒーローいわく、『“不条理”は、概念ではない』。またカミュいわく、『不条理の感性は、不条理の哲学ではない』(参照:カミュ「シーシュポスの神話」, 新潮文庫版, 1969, p.8-10, 訳者・清水徹氏による付記)。

3. 『ギャグ・不条理』 -と- ≪不条理ギャグ≫

かくて『不条理な感性』というしろものは、ふつうにわれわれを≪うつ病≫のような症候に陥らせるものかと考えられる。『笑わないこと』はうつ病の始まりだと、広く一般的に考えられている。
そこのところから、カミュが「シーシュポスの神話」の随所にニーチェをもってきて見かけ上の≪解決≫をつけたり、追ってサルトルがマルクス主義(つかむしろスターリニズム?)を一種の『救済の教え』かのようにいただいたり…という方向に両者が走っていることの理由が、筆者にはわかるような気もする。ニーチェやマルクスらの≪論≫をふつうは『超越論的』とは言わないが、しかしカミュやサルトルの≪論≫の内部にそれらを置いてみると、ふしぎだが超越論的に機能するのだ。

だが、別にわれわれは、いまどきサルトルやカミュの『思想』(?)をどうこうしようとしているのではないし。そこでもうここらから、独断的にもまとめに入ってしまうと。

【1.】 サルトルとカミュがいちいち言っている『こっけいさ』とは一種の強がりであり、≪自我防衛≫の機制の発動。その強がりが保持できなければ、“もの”や≪実存≫らの現前に面して、自我が崩壊してしまうは必定。そしてその機制は機能的に、ユーモアやウィットに重なるところがある。
【2.】 ただしカミュやサルトルの言う≪不条理≫は、『“笑い”を(見かけ上の)解決にはしない』という点が、ユーモアやウィットとは異なる。『笑うこと』には『考えることの放棄』という性格もあるが、それをしないということ。

かくて≪不条理≫の根源をたずねていくと、われわれが見たのは≪不条理ギャグ≫ではなくて、言うなれば『ギャグ・不条理』なのだった。それは何でもないもの…しかし“もの”として圧倒的にあるものの現前、その脅威に直面しつつ、『こっけいくせえ!』とまず強がり、しかも可能な場合には『笑わねえ!』と、2回強がるアチチュードなのだ。
そして、この不条理の感性においてありうる笑いとして、カミュの談義がコソッと示唆しているような、“ニーチェ的な笑い, 哄笑”、というものは考えられながら。

吉田戦車「伝染るんです。」第2巻と、ここまでを見てから、やっと話をギャグまんがに戻して。

だが、しかし。吉田戦車「伝染るんです。」を嚆矢とする(っぽい)≪不条理ギャグ≫と言われるようなまんが作品らは一般的に、『平凡(もしくは“日常的”)ならざるもの』の出現を描く。
それでは逆なようだが、言ってみればそれは、「嘔吐」のヒーローが何げなものを見て受けた『とほうもなき異様さ』という印象が、先廻りして絵的に表現されてあるものかと。
そしてその異様なる“もの”らは≪日常≫に対するインパクトとして機能し、作中人物や受け手らの心に≪不安≫をを引きおこす。たとえば、ただいま「伝染るんです。」という本(スピリッツゴーゴーコミックス, 全5巻)をパッと開いて、わりとランダムに見つけた作例…。

――― 吉田戦車「伝染るんです。」第2巻より(p.45) ―――
【角刈りの青年】 (ボロアパートの一室で電話をうけて、)もしもし
【電話の相手】(…ずっと無言…)
【青年】 (『はっ』と何かに気づき、アブラ汗をかきながら、)
く、くまか!? くまだな! オイ、なんとか言えよ! くまなんだろう!!
【やたら小さく、目鼻もない真っ黒なクマ】 (…どこかの街角の電話ボックスで、電話機の上に腰かけながら受話器を構えている)

理由はまったく分からないが、この青年は彼が“くま”と呼ぶふしぎな生き物から、いまで言う『ストーカー被害』をこうむっているらしい。
このお話の構造を見てみると、当事者である青年には単に≪不安≫があるばかりで、彼はとうぜんだが笑っていない。いわば「嘔吐」の主人公ばりに、ありえざる“もの”の出現に対し、おののきを感じている(…“木の根っこ”に対しての“くま”では、出たものの様相がだいぶ異なるが)。
ここにて誰かが笑っているとすれば、それは状況を見ているわれわれだ。というかわれわれが笑っていないとすれば、これはまんがとしてうまくない。

まんが作品には、基本的には常に三人称で叙述しているという性格があるが、そうだからこそわれわれは、このように描かれたことを客観視できる。状況から、心理的な距離をとることができる。
またその一方、もしも「嘔吐」という小説が三人称で書かれていたとしたら、『一人称の日記体』(小説として、もっともインティメートなふんいきになる形式)という現況にてあるような、身に迫る感じは出ないだろう。『この主人公はおかしいヤツ』くらいの印象を残し、ひょっとしたら戯画的なふんいきになっちゃったやも知れぬ。

まず第1段階としてわれわれは、ここで≪不条理ギャグまんが≫というものを定義できるだろう。それはサルトルも描いたような≪不条理≫の噴出という事件を、ことさらに誇張して分かりやすく描きつつ、しかもその状況を客観視させる。
そこにおいて、われわれは『半分』だ。半分は作中人物とともにおののき≪不安≫に見舞われ、そしてもう半分で、サルトルやカミュらも言った『こっけいさ』を笑っている。
そしてその笑いは、≪不安≫の発生に対し、いったんの(心理的な)けりをつけるのだ。かつ、たびたび申し上げていることだが、いかなるところから出たものであっても『笑い』(緊張の弛緩)という反応は、主体に≪快≫を与える。かくて『ギャグ・不条理』が裏返されるところに、≪不条理ギャグ≫が発生する。

4. ≪不安≫に関するメモランダム

ところが、だ。第1段階と言ったからには、少なくとも第2段階の≪不条理ギャグまんが≫の定義を考えているわけで。
それは、どういうことかというと。サルトルやカミュらの主張している“もの”が、『還元しえぬ不条理』だと称されているに対し…。
一方のわれらが≪不条理ギャグ(まんが)≫の描いている“もの”について、『心理的な還元』がまったく不可能でもなさそうと、筆者は見ているのだ。『心理』という語がイヤだが、その『還元』とはとうぜん(?)、分析的な解釈ができるという意味。

たとえば、さきに『くま』の作例を見ちゃったので、そのシリーズの別のエピソードらを、同じ第2巻からチェキれば…。
…くまは青年のアパートに上がり込んで、冷蔵庫を開けて食事の支度をする(p.19)。ドアのスキ間から封筒を押し込んでくるので中を見れば、山野を背景にくまが映った写真と、千円札2枚が入っている(p.31)。
また、玄関前にウインクのCDを置いていったので青年が再生すると、なぜか中身はテレサ・テンの唄だ(p.56)。さらには、大学の友人らが『あなたのお友達が山ぶどうを持ってきてくれて』、と礼を言うので、彼は『くまに違いない!』と考える(p.96)。…等々々。

これがおそらくEarly 1990'sに描かれたお話で、いまではウインクとテレサ・テン、どっちも同じくらいに(?)、懐メロになってしまっている。まあそれは別にいいけど、にしてもこれらはどういうことか、と考えたら。

これは都会で独り暮らしをしている青年の、いなかの親たち(主に母親)を代理するものとして、“くま”が活躍しているのだ…いまいちありがたくもないような、しみったれ気味でピント外れな『親心』っぽいものを彼に示しているのだ…と考えるのが、適切なのでは? で、そうとだけ申し上げちゃえば、興ざめな≪解釈≫かのようだが。
しかし青年はこの“くま”に対して、『自分を喰い殺さないとも限らない!』という≪不安≫や恐怖を感じているのだ。真に≪意味≫があるとすれば、そこだ。

とまでを見たところでわれわれは、≪不安≫という概念を正しく再検討しておこう。筆者が超愛用する参考書(シェママ他編「新版 精神分析事典」, 訳・小出他, 弘文堂, 2002)から、ちょいと引用すれば…。

――― シェママ他編「新版 精神分析事典」, ≪不安≫の項目より ―――
【不安】-『名付けられない何かを予期する主体において無意識的な感情の代わりに表れる、多少なりとも強い不快な情動』。
(…この後がひじょ~うに長いので、筆者が超要約をこころみると…!)

1. 「制止、症状、不安」(1926)でのフロイトは、≪不安≫に2つのレベルを区別する。まず第1のレベルは≪母≫の喪失に由来するもの、第2のレベルは≪去勢≫の脅迫(を感じたこと)に由来するもの。『このようにフロイトにとって主体における不安の襲来は、母であれファルスであれ強く備給された対象の喪失につねに結びつけられる』。

2. ところが続いたラカンちゃまにとって、『不安は、対象の欠如には結びついていない』。『ラカンにとって、不安を構成するのは「何であってもよい何かが、欲望の原因となる対象の占める場所に、現れてくるときです」(1962, セミネールX「不安」)』。

3. ≪ラカンの理論≫の構成として、欲望の対象は欠如の状態になければならない。そしてその『欠如が失われる』という可能性が逆に、主体に不安をもたらすのだ。『乳児にとって乳房の喪失の不安を生むのは、この乳房が乳児に欠如しうることにあるのではなく、乳房がその遍在によって乳児を埋め尽くしてしまうことにある』。

4. それこれにより、『満足させてしまおうとする応答はすべて、ラカンによれば、不安の出現をもたらさずにはおかない。不安はそれゆえ「対象喪失の誘惑ではなく、対象が欠如しないということの現前」(同セミネール)である』。

というわけでたいへんむずかしい話になっているが、にしても。『対象が欠如しないことの現前』が、『満足させてしまおうとする応答』が、≪不安≫を生む…ということまでは知っておこう、かと愚考しつつ。

で、「伝染るんです。」の話に戻って。“くま”によって表象されているあらぬところ(何であってもよい何か)から青年はまなざしを感じ、かつ彼を一方的に養う≪乳房≫の遍在を彼はそこに見出し、そして≪不安≫を覚えるのだ。
かつ、このエピソードに限らず吉田戦車「伝染るんです。」という作品を特徴づけるのは、『他者のあるべくもない感情』が、あるべき『欠如』をかってに失わせてくれる、それが『欲望の原因となる対象の占める場所』をかってに占拠する。そこを描く、ということだ。
では、サルトルやカミュの言った≪不条理≫が、『“感情”の彼岸にある“もの”』であって『(心理的に)還元不能である』、という話はどうなるのか? …筆者はとうぜんだが、ここでラカンちゃまにつく。

吉田戦車「伝染るんです。」第1巻また、『あるべくもない感情』といえば。この「伝染るんです。」には、会ったばかりの他人に向かって、『もっと お母さん みたいに』…という態度を要求する、おかしな子どもが登場する(第1巻, p.112等)。
『母性的な態度』というものを『保護』という語に集約させればば、“くま”に構われてる青年は根拠もないような『保護』を受け、こっちの子どもは根拠もなく『保護』を求める…と、逆の構図らが描かれつつ。

そして、『他者(ら)のわけ分からなさ』ということに普遍性が、ある。他者によって愛されようと憎まれようと(…または前者からの分岐で、保護を受けようと依存を受けようと)、それらの感情、それらを表す“もの”らの過剰な現前が主体の≪不安≫を生む、という帰結は同じだ。なんて言い方は粗雑すぎなので、よくないが。

ここいらまでを見て、われわれは≪不条理ギャグまんが≫につき、第2段階の定義ができよう。その描く≪不条理≫の噴出とは、『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である、と。
といったところが結論なのだが、さいごにちょっと補足を。これの1日前、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を扱った記事で、筆者はこんなことを述べた。

――― 自己引用、「すごいよ!!マサルさん」の記事から(*) ―――
『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。

『乳房の遍在』をやたらに描いた感じの「伝染るんです。」に対し、「すごいよ!!マサルさん」は『ファルスの遍在』、その過剰すぎる現前をやたら描いた感じ(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。『“母”であれ、“ファルス”であれ、強く備給された対象』と、さきの引用に言われていた双へき!
で、後者≪ファルス≫を描いていく方向が、まんがとしてポピュラーだということはありそうな気がするが。にしてもちょっと、『単純化しきった』にもほどがあったかな…と、多少は反省しつつ、この堕文は終わるのだった。

2010/10/17

おおひなたごう「空飛べ!プッチ」 - “母の欲望”、その対象とは何か?

おおひなたごう「空飛べ!プッチ」 
関連記事:おおひなたごう「おやつ」 - 彼女がムダ毛を処理したら

おおひなたごう先生がプリンセスに掲載された、その初の少女向け作品「空飛べ!プッチ」(2005-06)。単行本は秋田書店より、全1巻。
これが近くエンターブレインから『完全版』として再刊されるそうなので(10/25発)、この機会に秋田版を読みなおしてみた。

それがどういうお話かって、アマゾンに出ていた秋田版の宣伝文によると。

奇才が描く初の少女まんが!!
雲の上の国・ネザーランドのプッチは飛べないウサギ。生き別れた母を探すために今日も飛ぶ訓練をしていますが…。

次に同じく、近日発売のエンターブレイン『完全版』の宣伝文。

安野モヨコ絶賛!! おおひなたごう唯一の少女漫画!!
「ママに会いたい! 空を飛びたい!」
雲の上にある、空飛ぶウサギの国・ネザーランド。飛べないウサギのプッチは行方不明のママを探すため、健気に練習に励むけどなかなか飛ぶことができません。かわいそうなプッチは今日もひとり、つらい現実から目を背けるため、エアクッションをプチプチプチプチプチプチプチ……。
ギャグ漫画家おおひなたごうが初めて少女漫画誌に連載した隠れた名作が、大量の未収録作品と感動のフィナーレを収録した完全版として、ここに待望の新生!

と、これでどういうお話か、よくわかったとして(?)。こんど読み返して、ひとつ筆者の印象に残ったことを書いておきたい。

「空飛べ!プッチ」・第3話、『ママの呼ぶ声』の巻(秋田書店版, p.23)。冒頭、その行方不明の母が、プッチの夢の中で、彼女の子どもを探している。
『どこだい? プッチ!』と呼びかけ、彼女は闇の中で、遠くに視線を送る。そこでプッチは、『ぼくは ここだよ!』と呼びかけ返すのだが、その声は母には届かない。
やがて彼女は、『プッチ?』と呼びながら、自分の服のポッケの中や、マッチ箱の中などをチェキし始める(!)。プッチはショックをこうむりながら、『そんなところに いないよ!』とツッコむ。が、その声は母には聞こえていない。

それからだんだん背景が具体的になってきて、彼女は壁の額ぶちの裏側を調べたり、さらにはテレビ台の上のほこりをぬぐったりしながら、『プッチ?』と呼びかける。その次には、本を開いてその中に『プッチ?』と呼びかけたかと思ったら、そのまま本を読みふけってしまう(!)。
さらに彼女は、出かけ先のレストランで『ご注文は?』と聞かれて、『プッチ』と答える。その次に、怪しい館の玄関口で『合言葉を 言え』と命じられ、『プッチ』と答える。ここまでいちいちショックを受けてきた本人は、そこで『やりたい放題!?』、と叫ぶ。
するとふたたび背景が暗転し、闇の中で母は、『プッチ! プッチ!』と、彼女の子どもを呼びつづける。そしてプッチは『ママー!』と現実で叫び、目ざめて『わ~ん』と泣き出す。そしてその激しい泣き声が、彼の寄宿先の家族らを起こしてしまう。

それに続いてのシーンでは、プッチの両親が生き別れになったてんまつが紹介される。これがイカにもごう先生のお作らしい人を喰ったもので、そこは実作でご覧になりたい。
で、そうしてプッチは、

『毎晩毎晩… (彼の母が)夢でボクを呼ぶんだ…
だからいつか 飛べるようになって… 探しに行って あげるんだ!』

とまで言って、また『うびゃ~ん』と泣き出してしまう。

それからすぐ続いて、結びの1ページ。またもプッチの夢の中で、母がわが子を探している。『プッチ? プッチ?』と呼びながら、歯科医としてドリルを手にして人の口の中を覗き込んだり、また万華鏡らしきものを『クルクル』と、廻しながら覗き込んだり。
しまいに彼女は、スーツ姿にドレッドヘアという、カッコいいウサギの青年をつかまえて、『プッチ?』と呼びかける。それから2人は彼の車でどこかへと走り出し、そしてミラーボールの廻るディスコでいっしょに踊る。
これにショックを受けて、『(自分の母が、)ナンパ されちゃっ たよ!』と、プッチは叫ぶ。そして『どひゃ~ん』とけたたましく泣き出すので、またまた彼の同居人たちはたまらない(第3話・終わり)。

…さて、このお話は、いったい≪何≫なのだろうか? 『これはこうなのだ!』と、はっきり分かっている気はしないけれど、ひとつ申し上げれば。

まず、プッチの母親が、『あくまでもプッチ自身の夢の中で』、自分の息子を探している。そして母が、見当違いを通り越した探し方をしていることが≪ギャグ≫になっているけれど…。
その描かれたことを、逆に考えると。『ママはプッチを探している』が裏返って、『“ママが探しているもの”は、(そのつどに)プッチである』となっている。

さらに。さいしょからチラチラと出ている『覗き込み』という探し方に加えて、さいごの段では『回転』や『突き出たもの』というモチーフらがググッと浮上する。これらが何となくも性的なニュアンスをかもし出しているところで、しまいにプッチの母は『ナンパされ』てしまう。
そしてディスコの場面で、初めて彼女はほほえんでいる表情を示して、それを青年に向ける。それまでは、ずっと憂い顔だったものが。
そうすると、その2ショットで、プッチの母親の強調された乳房の大きさが、『母性』の表現とは、また別のものにも見えてくる。そしてその先の展開を見ることに耐ええずして、プッチは泣きながら目ざめてしまう。

彼の夢の中で、母は必死に≪プッチ≫を探している。そのことは確かだ。だがしかし、彼女が求めてやまない『プッチと呼ばれる何か』が、はたして『自分』そのものであるのかどうか?
…という疑問があまりにも≪外傷≫的すぎるので、プッチは泣く。激しく泣いて、泣いてやまないのだ。

『“母の欲望”、その対象とは何か?』

考えたくもないような話になってきて申しわけないが、だが例によって、『それは≪ファルス≫である』、という見方がある(…ファルスとは、勃起したペニスを象徴する記号)。
で、まったく言いたくもないことだが、超はしょって述べると。まず女性らは幼くして、自分が現実的に≪去勢≫をこうむっていると知って傷つく(去勢コンプレックスの発生)。そして長じては、性交という行為によって、ファルスの再所有(取り込み)をはかる。さらに続いては、出産によって生まれたものを、彼女のファルスと見なす。

『子どもは、母の≪ファルス≫である』(特に、男児について)

そして、ファルスとはあくまでも記号なので(根源的で特権的な記号ではあるが)、記号であるものの性質として、いくらでも代理の代理の代理が可能。そういうところからすると≪プッチ≫とは、母が自分用の≪ファルス≫に対して与えた名前、とも考えうる。

これらのことがあまりにも≪外傷≫的な認識なので、プッチは泣くのだ。ところでわれわれの知る正しいテーゼとして、『夢は願望充足で(も)ある』。だからこそ、そうとは言っても彼の母は、がんばって≪プッチ≫を探しているには変わりがない…という夢の内容になっているのであり。

というわけで、申しわけなくも、まったくウツっぽい話になってしまったが。にしてもわれらのおおひなたごう先生が、『根も葉もないこと』として、彼のおもしろギャグを飛ばしておられるのではない、とまでは立証できた感じ。
それらが人間らの≪外傷≫にかすっているからこそ、それらは≪ギャグ≫なのだ。そうしてプッチらの運命も気になるところだが、それはいつかまた別の記事で見よう。

2010/10/12

にざかな「4ジゲン」 - 非ヤング学園・トラウマちっく学級日誌

にざかな「4ジゲン」第2巻 
参考リンク:Wikipedia「4ジゲン」

この「4ジゲン」という作品は2005年からLaLa掲載中の、不条理系ショートギャグ作品。何だかおかしい定時制高校に集う、老若男女と宇宙人と教師たちを描く群像劇。ヒット作「B.B.Joker」(1997)で知られるコンビ作家の、現在のシリーズ。単行本は2006年に第1巻、そして今2010年に第2巻が既発(花とゆめコミックススペシャル)。

…いくらショート作品でも単行本の間がありすぎで、こいつはくせえッー! その間に何かあったニオイは、プンプンするぜッーッ!! …てわけだが、まあいい。
かつ、例によって筆者が『情報』にうとくて、第1巻からずっと待っていたのに、4月に第2巻が出てたのを知ったのが昨日(10月11日)。…なわけだが、そのてのことは何度も書きすぎた。

で、帯の文句によれば『43か月ぶり』という第2巻を見てみると。自分の思ってた以上に、そのネタがダジャレばかり!
一般的には現代のギャグまんがとして、ダジャレの使用はあまりよくないとされている。特に、少女まんが部門でそう。そうなのに「BBJ」以来ダジャレ路線を押し通しているこの作家さまを、ギャグまんが界のダジャレ帝王と呼ぶのは過大評価ではなさそうだ。

――― にざかな「4ジゲン」より、『はつじょう』(第2巻, p.70) ―――
【教師】 (黒板の文字を示して、)大きな声で 答えてみましょう!! せーの!!
【生徒たち】 (口々に、)はつじょう!! はつじょう!! はつじょう!!
【教師】 はい イイ声でしたー!!
(…と言って教師は、黒板の『発条』という字に、『ぜんまい』とかなをふる)

しかし筆者の認識によると、その字はふつうは『ばね』と読む。別にそれでも成り立つので、何もかまわないんだが。
ところで、にざかな先生特有のダジャレギャグは、このように漢字や画像をからめて構成されているものが多し。『ふとんがふっとんだ』式の、単に音韻が重なっているものは少ない。
その多くが、ビジュアルなしでは通じにくい、もしくは成り立たないダジャレ…という珍しいものになっている。それが特徴的だし、個性的だ。

――― にざかな「4ジゲン」より、『自己主張』(第2巻, p.78) ―――
【娘】 (ママにおねだり、TVゲームを、)買いたい!買いたい!!買いたい!!!
【母親である生徒】 ダーメ!!
【教師】 まあまあ… 子供らしくて 微笑ましいじゃないですか… 大人になったら
(イメージ・妊娠している娘、)懐胎! 懐胎!! 懐胎!!!
(イメージ・左翼活動中の娘、)解体! 解体!! 解体!!!
とか言い出すのですよ
【母親】 言わないと思います

そういえば、別によくは知らないんだが、≪ジョイマン≫というお笑いコンビがいるっぽい。そのコントをYouTubeで見ると、『いつも振られっぱなしでモテなくて!』などと嘆く一方を、もう一方がこう言ってはげます。

『七ころび八起きィ、生ワサビ歯グキ~!』

こんなギャグでも、会場の女の子たちはキャッキャ言って悦んでいるようなので、それではダジャレも捨てたもんでないな…という気がしてしまう(!?)。

で、並べてみると、なるほど。音韻の重なりのダジャレがまったく面白くないのではないが、しかしそれをただまんがのふき出しの中に書いたのでは、インパクトがない。そこでにざかな先生のダジャレギャグは、まんがというメディアの特性を大いに活かしたものになっているんだな…ということはわかってきた。

――― にざかな「4ジゲン」より、『くじ』(第2巻, p.82) ―――
【教師】 (掃除の時間、ゴミ出し係を決めるため、)アミダクジでも 作ってやれ
【生徒A】 はい
(用紙を裏返すと線の先には、平等院・浄土寺・法隆寺、等々の阿弥陀如来像の絵が!)
【生徒たち】 (思わず息を呑んで、)…どの阿弥陀が ハズレだ…?

しかもにざかな先生のおダジャレらは、いちいち『性・死・汚物』等々にかかわる≪外傷≫的(トラウマチック)なイメージを返している。さっきの作例と似ているが、こんなのも。

――― にざかな「4ジゲン」より、『オータムof委員長』(第2巻, p.98) ―――
【委員長】 (秋の訪れを待ちかねてため息をついたら、息が白くなったので大歓び!)
初蒸気!!
【通りすがりの生徒】 は…発情期!?

書き出すことにノッてきてしまったので、もういくつか。

――― にざかな「4ジゲン」より、『聴かされる男』(第2巻, p.66) ―――
【ヤクザっぽい生徒】 (ウォークマンを大音量で聞いている同級生らを一喝、)
シャカシャカシャカシャカ うるせ―――!!
【高齢の生徒たち】 (般若波羅密多・色即是空、みたいなお経を聞きながら、)
…なかなか いいですね この釈迦… いやいや この釈迦の方が…
【ヤクザ君】 釈迦釈迦釈迦釈迦 うるせ―――!!

――― にざかな「4ジゲン」より、『背後スケッチ』(第2巻, p.67) ―――
【オヤジの生徒】 (娘が勉強をさぼりがちなのは、自分に似たかと思って、)
因果応報かも しれんな…
【スケッチ少年】 シャッ シャッ
(『淫画』というエロ本を眺めながら『オーゥ!ホーゥ!』、とはげむオヤジを描く)
【オヤジ】 (衝撃に、だっと走りだしながら、)
さ…最近は 見てないし…!! そ…そんな 外人みたいな 声出さないし…!!

と、ここまでに見た作例らはわかりやすい方で、多少もってまわったものもある。

――― にざかな「4ジゲン」より、『伝令of委員長』(第2巻, p.92) ―――
【教師】 (職員室で、)次の時間 ちょっとだけ 先生遅れるから
臨時の 休憩ってことで… 皆に伝えて
【委員長】 は…はい
(追って教室で委員長は、なるべく手短に伝えようと考えて、)
これからしばらく 小臨時休憩で お願いします!!
【生徒たち】 少林寺休憩 少林寺休憩 少林寺休憩 少林寺休憩 少林寺休憩
(イメージ・それぞれにきわめてムリな姿勢で休憩している拳法家たち!)

続・少林寺三十六房 (DVD)ここでの『拳法家』とは≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴する記号)に他ならぬのではありつつ、もはやそれも言い張らない(言いあきたから)。

で、堕文にしても結論は必要だと思うので、さいごにまとめ気味なことを申し上げると。

今作「4ジゲン」は、筆者から見ると、老若男女がまんべんなく集っている『学園もの』、というところがまず面白い。ヤングっぽい話題に終始していない…というか、学園という舞台で人々が、非ヤングな話題をぶつけあっているのが面白い。
そのように、宇宙人をも含めた多様な人々が交錯し、そして多元的な感じ方と見方が必ず交錯する…というその特徴は、こんにちにおいてポジティブなのでは? そうすると第3巻あたりの展開として、いわゆる『外人』の生徒が登場して『オーゥ!ホーゥ!』、ということもじゅうぶんにありそうだ。ま、そんな声は出さないかも知れないけど!

だいたい筆者は『前から思ってんだが』、いじめやら何やらの学校問題について、同年代のガキらを横一列に集めたシステムが、まず問題だと思う。『同質集団』というものはいちおう扱いやすいように見えながら、何かあったらプラスのフィードバックが効きまくり…ようするに、暴走し出したら止まらない。
『オレらのクラスの一体感! オー!』みたいのもいいけれど、しかしその同じ一体感のようなものが、はみ出た1人の生徒を追いつめて殺すかもしれないのだ。『かもしれない』じゃなく、まったくあることとして。

その一方、多様な分子らによる集団には、そんな『一体感! オー!』もないけれど、アウトサイダーを殺しにかかるような危険性もない。マイナスのフィードバックが何かと常にかかっているので、盛り上がりもなければ暴走もない。
で、そんなふんいきのフラットさではつまらん…とお思いの方々もおられようけれど。しかしこれからの先進諸国の社会は、いちようにそんな方向に向かっているようでもあり。かつまた、根っからのアウトサイダーである『俺得』として、まだしもその方がいいな、と思うのだった。

と、そういうわけなので。みょうに多様な人々を集めた夕方からの学園を描く今作は、ノスタルジックなふんいきでもありながら、しかもアップトゥデートな作品と言いうるのでは?
また、定時制高校だからとうぜんのこととして、ふつうの優等生やエリートっぽい人は、そこにはいない。このいわゆる『格差社会』の、少なくとも下半分にいそうな人々ばかりが登場している。筆者なんかは、ついついそこにも共感してしまうけれど…。

で、その場へとやたらと現前しているのは、われわれの申す≪外傷≫的な記号らの数々なのだ。なぜそうなのかって、なぜかもへったくれもないのだが。
…しかし『学び』というモチーフから、むりやりに≪記号≫らのありようをひねくっていくと、ダジャレ的な展開を介してその≪外傷≫らが浮かんでくる、という現象があり続けている。そして『外傷的な記号の現前』などという言い方さえをも通りこし、『記号作用の根底に≪外傷≫がある』という認識で、われわれの見方と今作の内容とが一致しているのだ。

ミキマキ「ヒビキノBB ~男子校吹奏楽部ライフ~」 - ブラスは、エロスである!

ミキマキ「ヒビキノBB ~男子校吹奏楽部ライフ~」 
参考リンク:Wikipedia「ヒビキノBB」, HCB(ハニーカムベイビー)「ヒビキノBB」
関連記事:ラベル“ミキマキ”

りぼんを起点に現在まで、あちこちをいろいろ渡り歩いておられる、われらのミキマキ先生。そしてこの「ヒビキノBB ~男子校吹奏楽部ライフ~」は、その流浪のありさまを象徴するような作品とも言えよう。

まずさいしょ今作は、新書館ウィングス誌でふつうに連載されていたらしい(2008)。それが同誌で、非ギャグで原作つきの「ビートロック☆ラブ」の執筆に起用されたせいで、代わりに今作「ヒビキノBB」が立ち消えに…!
それから今作の発表場所は、作者のWebに移行(*)。いまはそこで全編が読めるのが、まあ太っ腹的と申し上げる。つか、ぜひのご閲覧をおすすめいたす。
それですんだのかと思ったら、ひょいとこの9月末、今作「ヒビキノBB」は、秋田書店から全1巻として刊行される。なぜ、とうとつに秋田からかって、近ごろ作者さまがプリンセスGoldに「ノジョウライフ!~V系農場男子~」を掲載中で、その関係かと思うのだが。

とは、ずいぶん流浪しちゃったもので。まあそれはいいとして、これでやっとミキマキ先生の単行本は10冊め(共著をのぞき)! オレはファンだから、この場でひっそり『おめ~ッス!』と祝辞を申し上げる。
また、さきの流浪の過程を調べていて思ったのだが。近年このように多くの出版社で描いていて、そして少女系を起点にユニセックスな作風のギャグまんが家…といったら、かの美川べるの先生だ。
それぞれの作風の黒さにも、けっこう通じるところがあるし。そこでわれらのミキマキ先生も、まずはミカベル先生くらいまでブレイクしちゃえ!…と希望はしながら。

で、この「ヒビキノBB」なんだけど。つまりは男子校のブラスバンド部の少年たちの、ほぼまったく女っ気のない世界における、ふかしぎな生態を描く4コマシリーズ。BBは、ブラスバンドの略。その単行本の帯には、このような宣伝文が。

『男子校×吹奏楽×初体験
あぁ…お前の大事なトランペット もうこんなになってんぞ… 的な。』

ん、まあ、そんな内容かな…的な…(なげやり)。

その宣伝文の挑撥に応じてついつい言っちゃうと、今作ではブラス部の少年たちが担当しているインスツルメンツ(楽器ら)が、まさにそれぞれの自前のインスツルメンツ(お道具ら)に対応いたしており、そこらが象徴的に描かれている…的な?
すなわち、クラリネットは黒い。チューバは、やたらとデカい。パーカッションは、無用にタフな感じ。そしてトロンボーンは、抜き差しのスムースさを可能とするヌルヌルが命。…等々と。

いや。それもそうでは、確かにありながら。だがわれわれは、全編のイントロをまず見ておこう。

われらがヒーローの≪宍戸(ししど)くん≫は、響野高校ブラス部でトランペットを吹く2年生。しかし、『こんなことをしててもモテない!』と思って退部を申し出る。
するとクールな秀才の副部長が、『人手不足だから』的に慰留するので、『じゃあ代わりの奴を連れてきます!』と言って、宍戸くんは廊下に飛び出す。そして、『彼女欲しい~!』くらいに叫びながら駈けずり廻っていると…。
…とつぜんに、『じゃあオレの彼女 貸してやろっか?』、などという声が! それで宍戸くんが見たら、そこには1人の少年が、例のビニール人形(いわゆるダッチワイフ)をかかえて突っ立っているのだった。その使用料、1時間800円だとか。

そこで宍戸くんが、『そういう彼女じゃねえよ!』と言うと相手は、『チェンジかよ』と言って、別のビニール人形を、超一瞬にして息でふくらましてしまう。…ものすごい肺活量! まさにブラス部向きっ!?
そこを見込んで宍戸くんは、そのゆかいな少年≪御空(みそら)くん≫をスカウト。『音楽やってればモテるぞ!』とだまして、まんまとブラス部に引きずり込む。で、その彼が、副部長に向かって自己紹介するシーン。

【御空】 御空 宙{みそら そら} 2年
好きな楽器は尺八 好きなコードはF
好きな教師は 音楽女教師
以上(…と言って、『挿入部届』と書いてから挿の字を消したものを差し出す)
【副部長】 すごい 1年前の 宍戸の自己紹介と
まったく一緒だ(…と言って、『ごくり』とつばをのむ)

と、そんなんだが、思った以上に才能のあった御空くん。わりとすぐさまペットを吹けているのを見た副部長は、『じゃ、宍戸は辞めていいぞ』などと軽く言いやがる。
そこで、ついカッとなったヒーロー! 思わず『辞めねえよ ちくしょう!!』と叫び、そして『小さなプライドのため 吹奏楽部での青春を選んだ 宍戸だった』…(第1話, 『神の肺活量』より)。

として、お話は始まるのだった。そうするってえと、御空くんの吹いている楽器は、リアルな彼女の代理であるビニール彼女、またそれに代わるものなのだ。
そしてこのお話が、『ブラスはエロスである。』とでも言わんばかりに、何かをため込んだ少年たちが、そのたまりきったエネルギーを、屈折しつつも音楽活動にたたきつけていく…そのパターンの祖型が、すでにこのイントロに出ているのだった。

で、そのような現象をわれわれは≪昇華≫とかいう分析用語で言ったりもするが、でもそんなことは別にいい。そしてこいつらも、このままでいい。

そういえば、筆者は思ったのだが。女子校にだってブラス部はあるわけで、そこらでアレンジして合コン等をセッティング、なんて手法もあるんじゃないかと。
つまりただ一介の高校生であるより、ブラスを利用してつながりを作ることもできそうかと。そしてついには、どっかのお嬢さまに『オレのフルート』を吹かせる、的な?
…あ、超ごめんなさい! もともとが下ネタまんがなんで、このくらいはいいかと思って!

だがしかしこいつらは、そんな手段に気が付かなくていい。まったくこのままでいい。むしろかわいい少年たちが、女ごときに汚されてはいけない(!?)。せいぜいブラス部にはげんで、その≪リビドー≫とも呼ばれるこやしによって、きれいな芸術の花を咲かせてほしい!
なぜかそんな気がしたのだった、筆者は今作を見てて。さらにはここで、「ルノアール兄弟の愛した大童貞」(*)の主人公をマネして、『お前らの童貞は オレが守る!』とも言ってみたい感じ。

でもまあ、どうせ女性なんてのは伝説上の生き物にすぎないんで(!)、とりわけ心配はないんだけどな! 女子と男子との関係などは、かの「ふしぎの国のアリス」の、ヒロインとグリフォンとの関係に同じなので!
とま、ここまで気分を出すために、ホルスト「惑星」をBGMにして書いてきたが(ホルストは、本来ブラス専門の作曲家らしい)。これを手はじめに、この芸術(か何か)の薫りも高き作品は、今後もちょいちょい見てイキたい…的な!

2010/10/11

森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」 - 俺の妹が≪ゴリラ≫なわけがない。または、『変態お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃない』

森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」第2巻 
参考リンク:Wikipedia「ブレイク・カフェ」

ギャグまんがの≪意味≫とは何か? それは『抑圧された意味』であって、それが抑圧されていることにも、また大いに『意味』がある。
そしてその、実は読者がちゃんと受けとっている『無意味の意味』。そのせっかく抑圧されている≪意味≫を、わざわざことばにしてしまうのも愚の骨頂ってもんかなあ…。とは、近ごろ少々思うのだけれど。

で、この森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」という作品にもまた、とうぜん何らかの≪意味≫がある。その概要は、2004年からマーガレット掲載中のショートギャグ。単行本は、第5巻まで既刊(マーガレット・コミックス)。りぼんでのデビュー作「めだかの学校」(1996-2005, RMC全7巻)の大ロングランを描ききった作者が、掲載誌を替わって、ちょっぴりだけアダルティな内容(?)を描く『喫茶店まんが』。

どういうお話かというと。ヒロインの≪寿々子(すずこ)≫とヒーローの≪卓樹(たっき)≫、天涯孤独な四ツ谷兄妹が冒頭で、ふたりの念願の『YOTUYAカフェ』をオープンする。
ところが、バカの兄が不動産屋にだまされたせいで、そのカフェの立地は、自殺の名所の断崖絶壁の崖っぷち(!)。だからお客が、来にくい…というか、まったく来ない。
しかも開店にあたってバカ兄が、悪いところから高利の金を借りてしまったので、彼女らのカフェにはひんぴんと、ガラの悪~い借金取りが押しかけてくる。というか初期には、そいつらしか『お客』が来ない(!)。
で、この兄妹がボケツッコミを演じたり、まれに来るお客らをひどい目に遭わせたり、または借金取りをどうにかして追い返したり…といったようなことで、展開しているギャグ作品なのだが。

そして、冒頭以前の設定あたりですでに『ブレイク』しているヒーロー、われらの卓樹(タッキー)。彼は天才的なパティシエでもありつつ、おバカでしかも、たいへん変態なキャラクターなのだった。
どういう変態かって、まずはすぐ脱ぐ。店内等で、自信たっぷりに裸エプロンの『サービス』をやりやがる。今作の第2巻のカバーが、そのあでやかな姿のピンナップになっている(!)。
申し上げとくが、これはタッキーの変態行為としては初歩の部だ。説明しやすいので、まずはそこを見た。そしてこれは、かのこまわり君が、やたらその≪タマキン≫を誇示するギャグが、少女まんがとしてソフトに表現されたものだ。そしてタッキーがけっこうイイ体してやがるので、実はこれが『サービス』として成り立ってもいる。

すなわち、わりとさいきんのエピソード、YOTUYAカフェのPR用のホームページを作ろうというお話。するとタッキーはとうぜんのように、自マンの裸エプロンの写真をトップに掲載したがる。そこにまたとうぜんツッコミが入ったので、いさいは省くが『裸エプロンはまずい』とエプロンを除去し(!)、股間はモザイク処理として、そのページが公開されてしまう!
ところがそれが『なぜか』評判になって、お店に女性客が押し寄せてくる。すると彼女らはタッキーの実物を見て、『何よぉー、服を着てるじゃないのぉー』とがっかりしやがるのだった。

で、タッキーの奇行らがあまりに変態なので、ヒロインたる寿々子が兄へのツッコミに入ったら、何のようしゃも抑制もない。
むしろ人間とは思えないほどの怪力で、彼女は兄に制裁を加える。そして兄は血を吹きながらブッ飛んで、全身を骨折したりする…が、しかし数ページもすると治っているのが、ギャグまんチックでなかなかゆかい!
かつまた、高校をほとんど休んでお店にかかわっている寿々子は、一見まともな女の子のようなのだが。しかし見たようなすごいバカ力に加え、天才的に不器用なのだった。お店で包丁を扱わせたら『トントントン』と、まな板ごとさっくり食材を刻んでしまう。
さらにはボウルに向かって玉子を割る、ということさえができない。『ほわぁっ』!と叫んで彼女は猛然と、いきおいよくそれをつぶしてしまう(第2巻, p.35)。そんな場面でタッキーは、『俺の妹がこんなゴリラであるわけがない』、的なことを言うのだった。

で、この、喜劇とも悲劇とも言いがたい状況が、いったい≪何≫をさしているものなのかというと…?
超いきなりだが、はっきり申し上げてしまおう。このひとつのお話の、そのまた底流にあるお話はこうだ。

『社会から切り捨てられた兄妹が、孤絶した環境下で、とうとうタブーを破って愛しあってしまい、そして「トリスタンとイゾルデ」が望んだような≪甘き死≫を迎える』

よって『自殺の名所』に立てられた小さなお店は、言われた『孤絶した環境』でありつつ、そしてきわめて≪死≫に近い場所なのだ。

Tristan und Isordeちなみに兄がだまされたとき、悪徳不動産は崖っぷちの他に、『樹海の中』と『公衆トイレ』、という物件をも提示したそうだ(第3巻, p.35)。その『樹海』の意味するところもまた≪死≫であり、そして『公衆トイレ』は、近親相姦というタブー侵犯の汚辱を表す。
そしてその3択場面、『じゃあ 崖っぷちで!!』と即答した兄の判断は、まちがっているとはとても言えない。何せ、このジャンルこと『近親系少女まんが』の始源の大名作にも、もりたじゅん「うみどり」(1970)、とあるわけだから。
よって彼らが望んでいる≪甘き死≫の舞台に、どれがいちばんふさわしいかは、おのずと明らかだろう。…これもまた少女まんがであるものとして、絵づら的に。

だからもう、『だまされた』という表現も実はうそなのであって、彼たちは『それ』についての最高のスポットを手に入れたのだ。いろんなことらが『実は』、彼たちの思うつぼなのだ。
ただし彼らは、『意識』をしないままにこれらをなしているのだ。『兄と妹、ぞんぶんに愛しあって、そして2人で死にたい』とは、彼たちの無意識の欲望だ。
そしてその無意識の欲望が、ちらちらと…。というかきっぱりと、彼たちの行為や言表らに出てしまっているのだ。

かつまた。そうかといって、彼たちが一方で、意識的に考えていることには何の意味もないのかというと、そうも言わない。まずは2人のお店を繁盛させて、いずれは兄妹が、それぞれにまっとうな幸せを…という彼たちの意識的な希望が、ぜんぜん口先だけの偽りとも考えない。
むしろそうなので彼らは、意識的な希望と無意識の欲望とのはざまで苦しむのだ。現実の成功をおさめることもできず、またきれいに死んでいくこともできずして、ず~っとけいれん的にもがいてあがき続けるのだ。さきにちょっと見たような2人の変態性や異常性らは、その苦しみが肉体の動きとして表現されたものなのだ。

その作中の、また見やすい例。まったく意味もなさそうなこととして、兄はその裸っぽい姿を誇示して妹を挑発する。すると妹は『よしてよ!』いやがってみせるけれど、しかししんからいやなのではない(!)。だから彼女は、何かがきわまらない前に『ガツン!』と喰らわして、兄の危険な挑撥を止めさせるのだ。
そしてこの2人とも、自分らに生じていることを意識はしていない。はっきり申し上げれば、『近親相姦』というモチーフがここに出ていることを理解していない。
意識していないからこそ、卓樹は悪ふざけとしての挑撥に及ぶ。また意識していないからこそ、寿々子は過剰さもきわまった破壊力でそこにツッコミをかます。

いやむしろ寿々子は、無意識には、自分が兄から性交を迫られ気味なことを知っている。だからこそ、レイプに対する抵抗ぐらいの必死の力を、そこでふるうのだ。
かつまた、このバカ野郎の変態な兄にしたって、『すべてをガマンしない』、という態度に出ているのではない。この兄にしてもまた、近親相姦をしたいけれどするまいとして、多少は苦しんでいる…ということはあるのだ。いやむしろ、そうだからこそ彼は変態なのだ。

森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」第3巻で、今作は、そのほとんど“ぜんぶ”がショッキングなお話だが。だからこそのりっぱな≪外傷的ギャグまんが≫だが、しかしその中でも、筆者がひじょうにショックをこうむったエピソードをご紹介。
変態のくせして意外とモテ気味なタッキー、『実は』過去、≪晴海≫という女性とつきあっていた。そしてお互い、実は大いに未練がある。
けれどもタッキーが、晴海とよりを戻したくない理由は、彼の生活の不安定さからであるらしい。それで晴海を苦しめたくない、などと人間なみのことを言いやがる。そして彼は、晴海と寿々子の目の前で叫ぶ(第3巻, p.127)。

 【卓樹】 借金地獄の 道づれになるのは 寿々子1人で 充分だっ!!

…しかしだ! 卓樹が道づれにしたくない晴海と、道づれにしたい寿々子。彼がほんとうに愛して求めている女性は、はたしていずれであろうかッ? このところを諸姉兄よ、いかがお感じだろうか?

で、それから彼は、『ほっといてくれ…!!』と叫んで『だっ』と走りだし、そして店の裏の崖っぷちから、ザパーンと海に転落してしまう。それも、あやまって落ちた、とは形容できないほどのまっしぐらさで。
『ぜったいに寿々子を道づれにしたい!』とまでは強く考ええずして、そこでの卓樹は、独りでお空の星になってしまうのだ。これがギャグまんがだから、次の回ではへいきで復帰しているけれど(“笑”)、もしもシリアスだったりしたら、ここでふつうにエンドマークが出ているところだ!

そして、このように書いてくるとわかってくるのは。卓樹の側には、引き続いている『兄妹心中』の可能性、未然の悲劇について、その動機も証拠もじゅうぶんなのだが。しかし寿々子の側は、そんなでもないということだろうか。…あれ?
そういえばお話の中で、タッキーが死んでしまったかと思われるような場面が、さっき見た以外にもけっこうある。そしてそこでの寿々子の反応が、意外にあっさりしていることも、また印象的だ。

ところでこのヒロインについて、単に不器用で怪力だということを、通り越した特徴がある。その不器用さをおして、彼女が何とか料理らしきものを完成させると、それはドロドロの化け物になる(!)。ここらで今作は、ドタバタを通り越して≪不条理ギャグまんが≫になっている。
で、放っとくと、その化け物には目や口らしきものが生じ、そして奇声を発したり人語を操ったりし始める。ジョジョじゃないけど、『チュミミィ~ン!』みたいに。
かつこんな『料理』らが、口に入れたら死ぬほどマズく、しかも死ぬほどの猛毒であることは言うまでもない。ところが本人には何ともないせいもあってか、彼女は自信マンマン、へいきで人々にそれらをサーブする(!)。

そしてこれが出た時点で、いままでの構図は逆転する。バカ兄の卓樹はあっぱれな変態ではあるが、しかしふだんからろこつに有害な生き物、というほどではない。具体的には、人を物理的に傷つけるようなことはしない。
ところが寿々子は、放っておくと彼女の生み出した化け物で、人類を滅亡させることも辞さない。だからタッキーが、そこでツッコミ…というか止め役に廻らざるをえない。
それではまるで、化け物っぽい妹を人里はなれた場所に隔離して、兄が何とかそれを保護しているかのようなのだった(!)。寿々子は自分が兄を保護しているようにも考えているが、何とあのような兄から見ても、それが同じなのだ。

そして、その化け物とは何か…ということも、いちおう考えてみるべきで。われわれの用語では≪現実的なもの≫などと申すが、それはことばにはできないもの。さらには、意識できないどころか、無意識にさえも存在していないもの。かつその現れは、狂気の徴候であるもの。
その両親にあっさりと捨てられ、学校にも満足には通えず、恋愛やレクリエーションもろくにできないまま、バカ兄のお守りと日々の労働にいそしんでいる…そのような彼女のかかえた『黒いもの』が、そのドロドロの化け物として現れているのだ。そしてその意味するところをあえて言えば、『みんな死んでしまえばいい』(!)。

兄は妹といっしょの≪甘き死≫を願い、妹は兄を筆頭とする“みんな”の死を願っている。そして後者の望みについては、それが彼女の無意識から『さえも』排除されているので、徴候どころか“もの”として作品世界に現れる。このどうしようもない狂気のペアを閉じ込めた場所が、われらの見ている崖っぷちの珍名所、すなわち『YOTUYAカフェ』なのだ。
森ゆきえ「めだかの学校」第1巻ちなみにラカン的な見方によって、≪倒錯者≫と≪精神病者≫とは排他的だ。だから兄は倒錯者であって精神病者ではなさそうで、その一方の妹は精神病者であっ(たとし)て、倒錯者ではない。

かつまた、ここでユッキー(森ゆきえ)先生の前作「めだかの学校」を参照すると、それがまたろこつな倒錯者の≪田中先生≫をヒーローとし、そして精神病者っぽいヒロイン≪めだか≫をフィーチャーしている。そのペアの再現、という感じも今作にはありつつ。ただし「めだ学」の作品世界がまるごと妄想っぽいのに比べたら、今作の方が、まだしも現実の中のお話という感じだが。

またここでわれわれは、少女まんが史上にさんぜんと輝きわたる永遠の超名作、かの崇高さをきわめた一条ゆかり「デザイナー」(1972)がどういうお話だったかを、思い出しておく必要もあるだろう。ネタバレをさけておぼろげに申し上げれば、それがまた、≪倒錯者≫たる兄と≪精神病者≫たる妹のペアを描いたようなお話として!

そして。かの一条ゆかり大先生は、その崇高であり華麗さをもきわめた創作歴のピークにおいて、タブーと狂気のせとぎわを『通り越した』人物らが、さわやかに破滅していく姿を描いておられた。そして、そのまさしく『通り越した』姿の美しさと荘厳さに撃たれて、われわれは惜しみようもない感動と感涙を、それらに注いできた。
ところが、その一方のわれらが「ブレイク☆カフェ」のヒロイン&ヒーローは、できるならば『通り越す』ということを『しない』ために、じたばたとあがいてもがき続けているのだ。そしてそのもがきようを、むざんにもわれわれは、≪ギャグ≫として受け止めているのだ。

ただしそのことを残酷とも言い切れないのは『逆に』、この「ブレイク☆カフェ」に対して笑いを返しているわれわれが、これらを他人ごととばかりも考えていないからだ。『いっそ通り越して、さわやかに破滅したい』…これもわれわれが考えていることであり、『そうは言っても破滅したくない』、これもまたわれわれの考えていることだ。
で、それぞれのことが、根は同じものでありながら、あまりにも対照的な反応を、われわれにもたらすのだ。それは、あまりにも通り越した一条作品が『荘厳』という印象を残すに対し、ひとつの線だけは通り越すまいとしている「ブレイク☆カフェ」が、りっぱな変態系のドタバタと不条理とを演出しちゃっているからだろうけれど。

だから、一条先生の近親シリーズと今作とは、それぞれ逆の方向から同じような効果を得ようとしているものか、という気もしてくる。一条作品を眺めた人々は、それを見て『気がすんだ』という境地にいたるかもしれない(=“カタルシス”)。一方の今作を眺めた人々は、それを見て『そのおかしさや危険さに気づいて、バカバカしくなった』という境地にいたるかもしれない。ともに、無意識の過程で。
これらはもちろん、『近親相姦は人々の無意識に求めてやまぬ、その“欲望”のコアである』を前提にしたことだ。ところでフロイト派ではないまでも、いまどこの“誰”がその正しいテーゼを否定できるのだろうか?

一条ゆかり「デザイナー」前編, クイーンズコミックス版一条作品の愛読者さまらは、もとよりだ。その卓越しきった傑作群には及びもつかぬにしろ、いまのまんが界に『近親何とか』をモチーフにした作品らがクソほどもあり、それをたいへん多くの方々が、へいきのへいざで楽しんでおられるのだ(…いま細かいことは言わないが、それらはソフトな『倒錯者としての実践』)。
こんな世の中をフロイトやラカンたちが望んだのでは『ない』が、この現況が彼らのあまりな正しさを、うかつにも証明してしまっているのだ。そして愚かな“心理”学者とやらは、かんじんなことだけはぜったいに見ないまま、『そんなことより』と言ってネズミの実験に超はげんでいる。

そしてこうしたまんが界にあって、今作「ブレイク☆カフェ」は逆説的に、もっとも『正気』に近いものだと断言できよう。なぜならそれが、凡俗で通俗なまんが作品らの描いているうそっぱちを撥無し、かろうじての方法で『正しいこと』を描くもの、すなわち≪ギャグまんが≫であるからだ。
そして。それが破滅をさけようとしているものだけに、その物語には終わりがない。きれいな終わりようなど、あるわけないではないか? 狂気におちいってしまえばかんたんだが、誰にとっても正気であろうとする闘いは、死ぬまで続くのだ。
…そして。あまり言いたくはないことだが、狂気と正気とのはざまにて、≪倒錯≫という方面に逃避してみることが、少なくとも精神病者にならないための手段として、ぜんぜん有効でないとも言えないのではあった。



と、まずはそんなところまでを見て、このすばらしい創作の具体的な局面らは、追ってご紹介することといたしたい。

ところで以下は、筆者の個人的すぎる感慨でありかつ『反省文』。むか~し自分は『りぼん感想サイト』みたいなことをやっていて、そこにものすごい長文の『森ゆきえ「めだかの学校」論 序説』というものをポストした。
すると嬉しくも読者さまからプラスのご反応があり、『この勢いで、ぜひ「ブレイク☆カフェ」についても論じてみて!』のようなリクエストまでいただいたのだった。

命をかけても大断言できることとして、りぼんの愛読者さまたちは、このくだらない世界のまれなる輝き、その中のもっともすばらしい部分に他ならぬ。そしてその中にあった自分は、少なくともいまよりは、ぜんぜん幸せだった。ところが自分は…ってまあ、そんな話は個人的すぎだけど。

で、そのリクエストに対して自分が『応! イエース!』かなんか申し上げたのが、たぶん2006年の暮れくらいの時期なのだった。で、現在が2010年の秋で!
だがしかし、小坊のころから宿題なんてやったことのない自分としたら、約4年かかってもちゃんとそれを実行した分だけ! …なんて強弁は、さすがにいたさない。いや、実質的にはいたしてるけど!

にしても自分は、われらがユッキー(森ゆきえ)先生のお名前を見るたび、そして今作「ブレイク☆カフェ」を眺めたりその題名を聞いたりするたびに、そのお約束のことは思い出していたのだ。そして託された課題の大いさを想い、かつそれをなしえていないことへの自責にくれていたのだ。
…そのことだけは、見下げはてたクソ豚野郎にもなせる最低限の弁明として、心からのおわびとともに、ここに記させていただきたいのだった。オレの大尊敬いたす諸姉兄の前にてこの醜態、まったく恥じ入るばかりではござるが…っ!!

2010/10/08

ミキマキ「少年よ耽美を描け」 - 『体に』きっちり、教え込んであげちゃえっ!

ミキマキ「少年よ耽美を描け」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「少年よ耽美を描け」, 新書館「ウェブマガジンウィングス」

こちら「少年よ耽美を描け」の作者たるミキマキ先生は、2001年にりぼんからデビューの双子合作女流まんが家。まあ別に『双子』とか『女流』とかは見たわけじゃないので、どうでもいい要素だが。
ともかく筆者としては、そのデビュー作からのファンなので、けっこう長いおつきあいになっている。そして、いつまでも何となく『新鋭』っぽさが抜けないのに、この先生らもそろそろデビュー10年目だなんて…。どおりでオレも年を取っているわけだし!

で、りぼん時代のミキマキ先生について、かの岡田あーみん様くらいの巨匠になろうかと期待しつつ見ていたが、それが惜しくもなっていない。そもそもりぼんがお先生らに、あまりギャグに徹した作品を描かせていない。そこが大いに問題だったような気がするが、いまさらそれを言っても仕方がない。
そうして『近ごろりぼんで見ねえなあ』と思っていたら、いつのまにか他誌に進出しておられたミキマキ先生。それから、2005年にウンポコ誌の今作、2006年にコミック・ハイ!の「アリーナ!」、といった創作があったのだ。
が、自マンじゃないけどウンポコなんて雑誌は、見たことさえもない。そして今作「少年よ耽美を描け」の単行本・第1巻(ウンポココミックス)が出たのが2007年、よろず『情報』にうとすぎる自分はいきなりそれを見て『あら!?』と、嬉しい驚きを味わったのではあった。

で、ウンポコとかいう媒体はすでに休刊しちゃったそうだが、今作はカグヤ誌およびウェブマガジンウィングス(*)にて掲載が続行中。そして単行本も第3巻まで刊行され、ミキマキ作品としては最大のロングランとなり、よってここまでの代表作になっているのだった。

ここであらためてご紹介すれば、「少年よ耽美を描け」、または「Boys be 耽美シャス」、それを略して「耽美シャス」などと呼ばれる今作は、ミキマキとしては初の4コマ作品。そしてその題材は、例の≪ボーイズラブ, BL≫と呼ばれるもの。
しかしストレートなBL作品ではなくて、作中の『ストレートな』(ゲイじゃない)少年らがなぜか、BLまんがを描いてその世界のてっぺんをめざす(!)、というお話。『なぜか』というにもふしぎすぎだし、そして少年らはいまいちBLをつかめていないので、まいどとんでもハップンな展開にしかならぬ…というギャグ作品。

そして。BLを知らない少年たちが、1からBLを学んでいくぜ!という今作は、ひとまずBLというものを外から眺めているわけだから、読者に対しての『BL入門』としても機能しそうな感じがある。少なくとも、筆者が今作をそんな風に見ているということはある。
ただしこれが、ほんとうにBLにひたりきっているような『ホモのお姉さま』(!)からはどう見えるのか、そこは見当がつかぬ。もしもそれ的な諸姉がここをご覧だったら、ぜひともご意見をたまわりたくある。

話は戻るが、なぜに作中の少年たちがBLまんがの追求にまい進するハメになったのか…。その理由は、もちろんだがいちおうある。

今作のヒーローたる高校生≪新葉芹(あらは・せり)≫くんは、脳天気なバカだがイケメンで超モテモテ、という初期設定。そんな彼が冒頭のエピソードで、そのときの彼女から別れを宣告される。自分から別れたことはあっても、女子から別れを切り出されたのは初めてで、彼は大ショックをこうむる。
そのさいに女子が言った理由が何と、『BLマンガにハマっちゃって…』そっちの追求に専念したいので、というものだった。するとおバカな芹くんは、『そもそもBLって何っ!?』、といったところからぜんぜん意味が分からない。
そこで彼は、秀才な親友で生徒会長の≪嶺良(ねら)くん≫に聞いてみて、それがどういうものかを知る。そして、いまそれがひそかにも女性らに大人気らしい、というよけいな知識をも得る。

ちなみに芹くんはいっとうさいしょ、BLを『バナナ・ラビリンス』のイニシャルではなかろうか、などと言う。合ってないけど、しかしまったく合っている。さすがは後に、BLの神の子か何か自称し出すおバカさんだけはある。

で、やがて芹くんの頭の中で。『このオレよりも魅力的というなら、よっぽどBLはすごいものに違いない!』、『それが“女性らに大人気”なら、自分のモテ道追求のこやしにもなりそう!』、『男同士のそれとはいえど、恋愛のことならまかしとけっ!』…といった計算が、うっかりと働いてしまった!
そこで彼は嶺良くんたちをも巻き込んで、ペンネーム≪アラ・パセリ≫先生として、BLの研究と創作にはげみ始めてしまうのだった。言い換えて、バナナ・ラビリンスに迷い込んでしまうのだった。『これやってればモテるぜ!』などと、でたらめなことを仲間に吹き込みながら。ただしパセリ先生の才能やセンスがゼロ以下なので、何だかどうにもならなそうな感じなのだが!

◇作例1◇ 異様に落描きっぽく描かれた、胸に『ハンド』とあるユニフォームの少年2人。その一方が、『おまえが好きだ ハンドボール部に入れてくれ』と言うので、もう一方の少年が『えっ!?』と驚いている。

これがわれらの芹くんの、言わば『初期作品』(第3巻, p.4)。そして、当時は未熟で手探り状態だったな…などと懐かしげに回想する芹くんの、近作はこうだ。

◇作例2◇ 異様に落描きっぽく描かれた、胸に『ハンド』とあるユニフォームの少年2人。その一方が≪M字開脚≫の体勢で顔を赤らめながら、『おまえが好きだ ハンドボールを入れてくれ オレに』と言うので、もう一方の少年が『えっ!?』と大ショックをこうむっている。

…あ…。もはや、この続きを書く気がしなくなった。

ところで芹くん(ら)が分かっていないのは、女性らにとってのBLの追求なんて、一種の『男よけ』だということだ。芹くんの元カノは、『BLにハマったので交際をやめたい』と言ったわけだが、それは実態としては逆だ。『現実の男女交際などをやめたいという心理をベースとしてこそ、BLにハマった』のだ。
だから、まんがいち芹くんが『BLマンガ界の神』に!…という彼の野望を実現できたとしても、彼がモテモテになる可能性はない。少なくとも、いわゆる≪腐女子≫さまらにモテモテ、ということはないはずだ。
ところが! まったくひじょうに正しくも、自らがBLの深みにハマった芹くんは、もはや現実の男女交際など、ぜんぜんどうでもよくなっているのだ。彼が頭では理解しきっていないことを、『彼の体が』、きっちりと理解しているのだ(!)。のちにも口先ではときたま『これでモテる!』などと言うが、もはや彼自身はそれを欲しておらず、『まっ、そんなことよりBLの追求!』…という具合いなのだ。

また、かといって芹くんたちは、自分らがゲイになるような『あやまち』もしない。ゲイになることがあやまちなのではなくて、BL追求の向こうに現実の同性愛を見ることがあやまちであり、それをしない。
そこを筆者は、ひじょうにえらいと思う! BLなんてのは紙の上だけのことであると、なぜかそこらをあらかじめ、ちゃんと『体で』(!?)理解しているのだ(…ただし、芹くんグループのちょっと外側に、ゲイになってしまう男子らも登場する)。
つまり、ふつうのBLファンらがそれを『男よけ』として利用しているように、芹くんたちもまたそれを、有効な『女よけ』として利用できているのだ。ただし、彼のファミリーの一部の分子は、けっして女性をよけたくはないようなのだが!

で、『別に女性をよけたくない派』の1匹が嶺良くんだ。芹くんの強引さに巻き込まれ、持ち前の探究心で知的にBLを追求してしまう彼だが、本人はゲイでも耽美でもない。
そして第1巻の巻末あたり、そのような嶺良くんに、後輩の女生徒≪石川≫が接近してくる。ルックスがまともでものごしがまとも、むしろ全部がふつう以上にまともそうな彼女だったが、これが実はとんでもない≪腐≫。『嶺良会長は、私の理想の“眼鏡受け”なんです!』などと、めまいがするようなことを言いくさる。
とにかく石川のマニアックすぎなメガネ談議がものすごく、とどまるところがまったくない。それから石川が申し出て、2人は1日のデートに及ぶ。しかしそれだけで、まったく彼女らはどうともならない。『今日は、とてもいい“妄想材料”をいただきました!』などと石川はお礼を述べて去り、残された嶺良くんはひじょうに“何か”がふに落ちないのだった。

…なんて、石川に負けずに筆者のBL談議も長くなっているので、ここらでいちど区切るとして。

そもそもだ、筆者ごときがBLについて、何か知っていると言ってはおこがましいが。けれども今作がでたらめそのものでありながら、しかしまったく偽りが描かれていない…そこへと筆者はむしょうに感動しているのだった。
だいたいわれらの芹くんは、『耽美』なんてものは、まずはとりあえず表面的な≪美≫であった方が…ということさえを分かっていない。というかわれわれ一般人とは≪美≫の感じ方が異なっているようなのだが、しかし彼はアチチュードとしてのBLというものは、頭ではなくその『体で』、しっかりと分かっているのだ。
その一方の嶺良くんは、BLがどんなものかを『頭では』、わりと理解している。けれども、アチチュードとしてのBLをほとんど分かっていないのだ。それはいつか、この受けメガネの『体に』、きっちりと教え込んでやる必要があるな…ぐへへへっ…なんてことを言っている場合だし。

というあざやかな対照性をもって、われらがミキマキ先生は、『BLに没頭する少年たち』というありもしないものを、かなりな説得力をもって描いておられるのだった。そしてそのフィクションなりの説得力の背後に、一定の正しい人間理解が存在している、と筆者は主張する。

そこらを当座のケツ論…あ、結論として、われわれは今作「少年よ耽美を描け」については、ねちねちと今後もキチク的に眺めていくだろう。ではまた! by あなたのヘタレ受けアイスマン。



大島弓子「四月怪談」余談ぎみだが、ちょっと思い出したことを書いておく。大島弓子の名作中編「四月怪談」(1979)で、ご存じのお話とは思うが…。
常人らに不可視の幽霊になってしまったヒロインは、それをいいことにどうするかというと、かねてから興味しんしんだったゲイ映画を見に行く。そして、たいへんなショックと失望をこうむる。
いまの≪腐女子≫の方々だったら、おそらくそんなあやまちはしないだろう。ただし、それをいちがいに『進歩である!』と言い切ることにも、少々ためらいはありながら。

2010/04/25

真城ひな「ややプリ」 - 『かわいい』帝国の専制、あわせて「みつどもえ」と「ロリフェ」

真城ひな「ややプリ」RMC第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ややプリ」
関連記事:「ロリコンフェニックス」, 「みつどもえ」

りぼんの4コマ作品で、小学1年生のヒロイン≪やや≫とその家族のストレンジな日常を、やたらにかわゆく描く(掲載:2006-09)。りぼんマスコットコミックス(RMC)版は、第1巻が発売中。

この作品については筆者の中に、印象の分裂がある。掲載誌で見ていたころには、『“かわゆさ”ばかりを売りにするような4コマは、りぼん的にはちょっと』、と感じていた。ところがこのたびRMCで見たら、けっこうストレンジなことが描かれてるので、『りぼん的にはありかもな』と。
けれどそのように、しっかりした印象を作れていないということは、けっきょくのところ今作「ややプリ」のウィークポイントなのやも知れぬ。かわいいと言い切るにはシュールなところが目立ち、シュールかとみればかわいいばかりのような感じもする、と。

そうして。並行してりぼんに載っていた、同じく『やたらかわいい』のような4コマ作品で、園田小波「チョコミミ」(2004)は現在も連載中だが、その一方の今作「ややプリ」は、いつの間にか終わっちゃっている。まあ「チョコミミ」はベテラン作家の心機一転・乾坤一擲の作なので、さすがに企画のところからよくできており、“ひなぽん”先生の本誌初連載の「ややプリ」と、ストレートには比較できないが。

と、そんな情勢論はさておいて、今作の描いているところの一端を見てみると…。

ややの父の≪ひろひこ(裕彦)≫は娘のことが心配で、たぶんサラリーマンのはずなのにろくに会社へも行かず、ほぼ常に娘を見守っている。それも考えて、ややがひじょうに好んでいるアニメのキャラクター≪ペン太ゴン≫の着ぐるみを着て、言い換えれば巨大なペンギンに化けて、娘の通う学校に押しかけるのだった。
そんなエピソードが第1話、ややが入学式に行くの巻に描かれて。それからひろひこが外出する時はペン太ゴンの着ぐるみで、ということが、逆に決まりごと(!?)かのようになっているのだ。ややはペン太ゴンを熱愛して、将来は『ペン太ゴンのおよめさんになるー』などと言ってるので、そのポジションはひろひこにとって、ひじょうにおいしいのだった。

で、そんなことばかりを描いてるとどうなるか? 今作「ややプリ」RMC第1巻のおまけまんがに、作者が教育実習に行ったさいの実話っぽいエピソードあり。そこを見ると。
実習先の中学校の教室で、りぼんのふろくを使っている女の子を見つけたひなぽん先生。そこで喜んで、『ややプリ 読んでるー? どんなマンガー?』と聞いてみる。そうすると女の子はこともなげに(?)、『お父さんが ペンギンのマンガだよー』と答えるのだった(p.144)。

 『おっ おしい!! 父は 人です!!』

というわけで、ひなぽん先生はそこでショックをこうむったらしいのだが。しかしこの事態、『誤読』といえばそうも言えるこの事態、これはむしろ、作品が言外に誘導しているところを、読者がきわめてすなおに受けとめているのだ、と考えられる。
何を言ってんのかってようするに、少女たちから見て父親なんてしろものは、ペンギンであるくらいがちょうどいい、中年男であるよりはよほどまし(!)、というわけだ。ちなみにひろひこは、犬好きな自分の長男の≪七海≫の歓心を買うために、イヌに化けることもする(p.146)。

もはやあんまりくどくどと言いたくないが、少女たちが心に描いている『かわいい』の世界に中年男がもぐりこむには、まずペンギンや犬にでも化けなければならないらしいのだった。言っとくとひろひこは、そんなにオヤジくさい中年ではなくて、つまり桜井のりお「みつどもえ」の描くヒロイン一家のヒゲデブでむさ苦しい父親のようではなくて、むしろ見かけはさわやかな方。それでもだ。
と、そこまでを見てくると。われわれが関連記事で検討したこと、松林悟「ロリコンフェニックス」に登場するロリコンどもが、なぜいちように、かわいいっぽい動物のマスクをかぶっているのか…という問いへの答もまた、出ちゃった気がするのだった。

そういえば、前にどこで聞いたのだったか、少女たちがわりと好むような『テディベア』というしろもの。毛むくじゃらでプクプクしてて、そしてクマであるからには、実は兇暴かもしれないもの。あれはようするに、≪父≫か≪男≫を象徴しているものであろう、という見方があるようだが。
そのように≪父≫や≪男≫が少女らに対して、かわいい動物で表象される、むしろそのように表象され『ねば』ならないという現象を、「ややプリ」はおもしろ戯画として描いている。また、このことを表象化ぬきで描くと「みつどもえ」の長女の、『パパが大好き、でもパパはクマのように見苦しいからキライ』、というジレンマになる。さらに「ロリコンフェニックス」のロリコン野郎どもは、この表象化を悪用して少女たちにつけ込もうとしているのだ。

で、「ややプリ」作中にも明記されていることだが、ひろひこが化けてみせたわんこは、テレビのCMでいちじ人気を呼んだ『ソフトバンクの犬のお父さん』、そのパチモノでありつつ。そうして『父親なんてしろものは、動物であるくらいでちょうどいい』という(無意識の)見方は、すでに世の中に蔓延しているものであるらしいのだった。
そしてその一方の、≪父≫という記号をやたらに高みに見ている、われわれことラカン系のもんとしては、こんな世の中が今後どうなっていくのか、気になるところではありつつ。ただここいらにおいて、『その存在が“外傷”であるところの“父”』というものをいつわりなく描いている桜井のりお「みつどもえ」の株は上がり気味、ではあるかと?

2010/04/07

種村有菜「桜姫華伝」 - ≪性交≫は、不可避でありかつ不可能

種村有菜「桜姫華伝」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「桜姫華伝」

題名の読み方は、『さくらひめ かでん』。筆者にはたいそうなじみある作家さまが、2009年1月からりぼん掲載中の伝奇ファンタジー。りぼんマスコットコミックス版は、第3巻まで既刊。というわけなんだが、その第1巻だけ読んだところでひとこと。

これはどういうお話かというと、ときは空想的に描かれた平安時代、ヒロインの≪桜姫≫は14歳。天涯孤独の身の上ながら、≪王良親王≫の許婚として、王都近郊のいなかで大切に育てられている。
ところが桜は異様に自立心が強く、よく知りもしない親王との結婚に、まったく乗り気でない。そこへ身分を偽って王良親王が、彼女を嫁取りに迎えに来る。その態度がまた、ちょっと感じ悪い。
思いあまって、桜は家出を敢行する。ところがその逃避行の過程で彼女は、『満月を見る』という禁じられていたことを実行してしまう。すると、今作中で≪妖古≫と呼ばれるドロドロした人喰いの化け物らがとつじょ出現し、桜を襲ってくる。

…ここから少々難解な設定が出ているところで、まず桜の正体は『かぐや姫の孫』。妖古を退治することは、そのかぐや姫の一族が身中から出す秘剣によるしかできない。だから妖古らは桜をねらっており、満月の鏡を媒体として、その居所をさがしていたのだとか。
そうして桜は、おなじみのなつかしい≪神風怪盗ジャンヌ≫のような姿の戦闘モードに変身。おぼつかないながらも秘剣≪血桜≫をふるって、妖古の退治に成功する(第1話・完)。

で、それから王良親王がちょっと態度を変えてきたので、『愛があるなら』いいかなと、結婚に対して前向きになった桜。そして、もうすぐ初夜のお床入り…というところへ、妖古が出現。
それはかんたんに退治したが、けれどその直後、びっくりなことに、王良に率いられた近衛兵らが桜に矢を射かけてくる。どういうことかって、王良が言うには、そもそもかぐや姫の一族と妖古とは同じもの(!)。つまり桜もまた、不老不死の人外なのだとか。
そして王良の父と祖父(先代と先々代の帝)は、月の姫の一族に魅入られたために、妖古に殺されたのだとか。ゆえに王良はその一族には恨みありまくりなので、『ここで死ぬんだ! 桜姫!!』と叫んで彼は弓を引き、その矢は桜の胴体の真ん中をつらぬく(第2話・完)。

その場をなんとか逃げのびて、やがて気がつくと桜は、忍者を名のる少女≪琥珀≫に看病されている。三日三晩、琥珀の家で寝ていたらしい。そして琥珀は王良の配下なのだが、『たぶん』連絡不行き届きのせいで、現在の桜が追われる身だとは知らない『らしい』。
そして桜が自分をチェキすると、彼女の胴体をつらぬいたはずの矢傷が、まったくない。しかも彼女は、琥珀を見ていて『おいしそう……』と、あらぬところに食欲のうずきを感じる。それではやはり、自分は妖古と同じ化け物なのかと桜は、(後略)。

というあたりで、第1巻は終わり。ふとんの中にてそこまでを読んで筆者は、『さすが“有菜っち”、おもしれえことを描いてくるよな』と、つまらぬ感想をつぶやいて寝た。
ところで筆者は、起きているときと寝ているときとで、考えることが異なる。比較すれば、眠りの中での方が、多少はましなことを考えているのでは…と自覚しているのだが。

そして筆者が、読後の眠りの中で考えたことはこうだ。
この「桜姫華伝」というお話の核心は、そのヒロインが≪性交≫を、するかしないか、というところにある。そしていったんは『愛がある(らしい)なら』と言って初夜を迎えようとした桜だが、しかしその初夜は、『男が矢によって女体をつらぬく』という象徴的行為によって代替される。
桜と呼ばれる≪主体≫において、王良との間に『愛がある』ということが確信されていないので、その初夜は代替と延期をこうむっているのだ。そしてその主体の『想像』において、彼女自身は無敵のスーパーヒロインと人外の化け物を兼ねるものであり、かつ一方の男子は『それ』を憎むものなのだ。

だからこれに続く桜姫の冒険は、『愛がある』か否かを彼女がねちねちと確かめるもの、さもなくばその愛を作っていくためのものになるのだろう。で、それが片づいたところで、性交が実行されて物語が終わるのだろう。

古い(が新しい)メルヒェンの「シンデレラ」とか「いばら姫」とかのお話には、ヒロインが『待つ』というところに明らかに、1つのポイントがある。シンデレラは一夜が明けるのを待ち、いばら姫は100年間も待つ、というところが大きく異なるにせよ。
けれども桜をはじめとする現代の≪姫≫たちは、待たずに闘う。そして彼女らの勇ましさは、≪王子≫らに対し、『拒絶しつつの媚態』というふしぎなものとして機能する。それをいっそのこと、なさるべき性交を延期するための闘いである、とも言い切りたいところだ。
よって彼女らにおいて、『性交は、不可避でありつつ不可能である』。ところが少女まんがにおいては、『それでいい』、と言いうる。性交が『ありうること』と認識されたところにそれは始まり、性交がなされてしまえばそれは終わる。

なんてまあ、そんな見方がすべてとは自分でも思わないので、この「桜姫華伝」の続きは楽しみにしつつ。今作については、いずれまた。

2010/03/18

津山ちなみ「HIGH SCORE」 - ブルジョワジーのグロテスクなお愉しみ

 
参考リンク:Wikipedia「HIGH SCORE」

以下で今作と呼ばれる4コマのギャグ作品「HIGH SCORE」は、津山ちなみ先生の1994年のデビュー作。そして2010年の現在も連載中の、りぼん史上にまれなる超ロングラン作品だ(りぼんマスコットコミックス, 刊行中)。かつ筆者の知る限りちなみ先生は、このタイトル以外のお作を描いたことが、まったくないはず。
それもだんだんに内容や登場人物らが変わっているということもなく、ちゃんと一貫し、全盛期のブリジッド・バルドーばりの美少女で『高慢ちきでわがままな』ヒロインこと≪めぐみ≫、彼女を中心とする学園(+ホーム)ものとして。筆者がはじめて今作を見たのは1997年のりぼん誌上で、当時は男子らの見分けがつかなくて困ったものだったが。そうしてそれから、ずいぶんと長~いおつきあいになり。
で、これの第7巻(2008年7月刊)を、つい先日読んだのだが(…ご覧の堕文は、けっこう古くに書かれたものの再利用)。

そうして久しぶりに読むと、くっきり浮かんで見えたことは、この作品世界には≪凡≫がない、ということだった。きょくたんなものらしか、わりと存在しない。
まずそのヒロインが、極端な美少女で極端に性格が兇悪、また成績も極端に悪いということをはじめに。そのステディな彼氏の≪政宗≫は、極端にケンカが強い極端なナルシスト。その政宗の妹≪えみか≫は極端に男前な女の子でカッコいいが、彼氏の≪京介≫に対して極端に粗暴。その京介は極端な『へタレ』野郎で極端な浮気モノだが、しかし極端に脳がかしこくて家が極端なお金持ち。
と、この作品の中心にいそうな4人だけをざっとご紹介しても、このしまつだ。で、これらに対して、めぐみの親友の≪かおり≫だけは≪凡≫なふつうの少女かのように見えるが。ところがこの子は極端に乙女チックな片想いをこじらせて、極端にきもち悪い『おまじない』にふけったりするのだった。たとえば自分の部屋の中に、ナマの魚を吊るすとか!

という絢爛ごうかなこの世界が、筆者には、『女子中学生が夢想する一種のユートピア』という感じがしたのだった。じっさい今作が初めて描かれたころ、作者のちなみ先生はいまだ中学生だったはずだし。で、そのような性格を現在まで残しているからこそ今作が、小中学生向けのりぼん誌上にて、大ロングランを達成しえてるのでは、と。
すなわち。そのヒロインは目にもまぶしいグラマー美少女で、その彼氏はこわもてのイケメンで、そのママはTVや映画の大女優で、パパは元モデルのハンサムなお金持ちで…と、今作「HIGH SCORE」には、小中くらいの女の子たちの喰いつくような要素がありまくり。だがこういうことを、ただすなおに描いていてはしまいに反撥を買うので、そこをさけるために≪ギャグ≫に展開している、という見方もできなくはなさそう。

そしてその≪ギャグ≫の演出のため、この絢爛ごうかな作品世界のスミっこのようなド真ん中のような場所にめっきりと出没しているのが、さっき見た『ナマ魚』もそうだが≪グロテスク≫、という要素なのだった。グロテスクといえばまだしも日常的な表現だが、われわれの言い方だと≪現実的なもの≫というか。
(めんどうなことを申してすまぬが、ジャック・ラカンの用語の≪現実的なもの≫とは、まず『ことばにはできないもの』であり『考察の対象にできないもの』だ。ゆえにそれらの表れは、きもち悪い、わけが分からない、怖い、といった印象を人に与える。『ナマ魚』は魚屋やキッチンにあればただの食材だが、場所を変えれば異なる≪何か≫を訴える記号、しるしになる。そしてその≪何か≫が何なのかを、われわれはことばにはしきれない)

そうした≪グロテスク≫の出没は、今作のごく初期から仕掛けられていることで。まず生物部員のわき役≪沙夜≫には、むしろふつうの世界が見えていない(!)。そして自宅でこっそりと、大量のナマ肉を喰らう化けものを飼育しているらしい。また、めぐみの父の≪麗二≫はやたら幽霊が寄ってくる体質なので、ぜんぶ心霊写真になっちゃうからモデルとしてつとめきれず、実家のお寺の住職になったというお話で。
そうしてゆかいな仲間たちが集ったカラオケ屋で、めぐみのイトコの≪嵐士≫はこんな唄を歌うのだった(第7巻, p.29)。

 『目ん玉ほじくり 出されたフランス人形♪
 四つん這いで階段逆走 子供部屋が血で染まる♪』

この嵐士クンは、手芸や料理を趣味とする心やさしき大男だが。…しかしひと皮むけば虫を殺すの大好き(!!)という陰湿きわまるグロ野郎であり、かつ応援団では鬼の副団長としてヒラ団員らを瀕死までしごきまくり…という設定なのだった。
で、その目ん玉人形の唄がデュエット曲なので、続いてめぐみがその女声パートを、 『キェエェェエェェー!! オマエ達の目ん玉も ほじくり出してやるよォォォォォ!!』…と歌う。そこで京介は、かおりが嵐士クンにホの字なのを知っているので気を利かす。唄の2番はめぐみに代わり、『かおりが歌えよ!』と言うのだ。
けれどもかおりはこの唄のキモさにひきまくっているので、『えっ!?』と、ただとまどうばかり。京介のやさしい気配りは、惜しくもありがた迷惑だ。

かくて、エログロバイオレンスおよび交錯する≪愛≫によって彩られたこいつらの青春グラフィティ(?)みたいなことが、きょくたんに高まった美と才知と力と富貴などなどの乱費乱用をともないながら、すでに実世界の時間では15年間以上も続いていて、しかもさらにず~っと続きそう。と見れば『いいなァ彼らは、素でうらやましい!』とは思いつつ。
またそのように形容してみると今作には、19世紀ブルジョワジーどものおごり高ぶり驕慢ぶりを赤裸々に描いた仏自然主義文学、バルザック「人間喜劇」連作とか、そんなような風味もありげ。

何せ題名が「"HIGH" SCORE」とはよく言ったもので、この世界からは"low"なものらが、排除されつくしているのだ。けれどもその中へ≪グロテスク≫としてひんぴんと侵入してくるのは、排除されている"low"なものら…その影、その断片のようなブツたちだ。
すなわち、女性美の頂点をきわめたようなヒロインも血と肉と臓モツのかたまりにすぎず、また、どれだけのチカラの持ち主もいずれは衰えて死ぬ。そこいらの凡人どもと、何ら変わりなく。…といった排除された認識らを、≪現実的なもの≫としてのグロ物件やグロ事件らは作中に、この世の栄華を愉しんでやまぬ連中に向けて、≪回帰≫させているのだ。

と言っていると思い出すのは、バルザック「サラジーヌ」(R.バルトの批評「S/Z」の題材として有名な小説)の冒頭、新興ブルジョワジーの邸宅での盛大な宴の最中に、ババァかジジィかも分からぬ≪グロテスク≫な老人がぬっそりと現れて、一同のきもを冷やす。この人物の正体は読んでのお娯しみだが、にしても『虚栄の市』のド真ん中ッぽい場所へと≪グロテスク≫がちん入してくるには、わりと大いなる必然性があるかのようだ。
つまり、『死を想え、メメント・モリ』とでもいうような…? そうして、『排除されたものの“回帰”』というところまでをちゃんと描いていることが、今作のすぐれた…一本調子に終わってないところなのか。かつ、≪ギャグまんが≫というものが一般には"low"な世界のロウなイベントらを描きがちということに対して、今作はハイソでセレブな世界に"low"な事物がわき出している。そこらにひと工夫が?

ところでだが、りぼん作家としてのちなみセンセの大センパイたる一条ゆかり先生。そのきょくたんに高まった1970'sの大名作ら(「デザイナー」, 「砂の城」)は、さいごその『排除されたものの“回帰”』によって、浮かれていたヒロインらが没落するようなお話だったとして。
しかし一条センセの後年の作たる「有閑倶楽部」(1981)ではそうした展開がなくなり、ただもうだらだらと『虚栄の市』が続いてるばかり(!?)。けれども作中、殺人事件などの発生や幽霊の出没といったイベントによって、その世界には『排除されたもの』らの影がさしている。ああ…『セレブ』の世界のまばゆさと、その一方の影の深さ…あはっ、苦笑っ!

申し訳ないが筆者はこの堕文の参考にと「有閑」をちょっこし読み返して、ついつい『苦笑』という反応を返してしまったのだった。で、ここまでの堕文により、『きょくたんな美と才知と力と富』およびその乱費乱用を描く2作、すなわち「有閑」と「HIGH SCORE」との間に、性格の重なりがあることは明らかだとして。
そしてその「有閑」の『苦笑』的なところをストレートなこっけいと≪グロテスク≫に変換しつつ、かわいげある限りに仕上げているのが、今作のなしていることなのか。…のような見方をここに示して、いったん終わる。今作については、いずれまた語ることがあろう。

2010/03/17

山口舞子「もうすこしがんばりましょう」 - ちょんまげを、ゆわせてちょんまげ!

 
参考リンク:Wikipedia「山口舞子」

2002年からわりとさいきんまでの『花とゆめ』掲載作、『脱力女子高生三人衆の ホンワカSCHOOLライフ』を描く4コマ(花とゆめコミックススペシャル, 全5巻)。つまり、少女まんがのギャグ作品らしいものなんだが。
だが筆者においては『少女まんがのギャグ』というと、何といってもりぼん系のあれで。1970'sには土田よしこ大先生が「きみどりみどろあおみどろ」や「わたしはしじみ!」という大輪の毒花を咲かせ、1980'sには岡田あーみん「お父さんは心配症」や「こいつら100%伝説」が続き、そして1990'sには「まゆみ!」(*)、「へそで茶をわかす」(*)、「赤ずきんチャチャ」、「HIGH SCORE」(*)らが、という系譜…。
何を言ってんのかって要するにりぼん系を筆頭に、少女まんがといえどもギャグ作品であれば、『ホンワカ』じゃなくてパワフルかつ毒々しいものが多い、というか。そもそもそうじゃない作品を、≪ギャグまんが≫とまでは言わないし。さもなくばひじょうに古いところを見て、倉金良行「あんみつ姫」(1949)にしても、かなりダイナミックでテンションの高い作品だったわけだし。

また1990's以降、ギャグにおいてあまりふるわなかった他の少女誌からも、別コミの新井理恵「× -ペケ-」、LaLaのにざかな「B.B.Joker」と、すばらしい作品らが出ている。2作の共通点は、Late 1980'sの青年誌の≪不条理4コマ≫のインパクトが少女まんが的に消化されているものであることと、ひとまず見ておく。
(付言、さらに追って登場してきた別フレの美川べるの「青春ばくはつ劇場」もまた、その系列でありつつ。かつご存じのことだろうけど、「ペケ」・「BBJ」・「青ばく」と、いずれも4コマ作品)

だから…とも言いきれないが、その2作ともテンションの高さより、むしろシニカル(冷笑的)なふんいきがフィーチャーされている。そして現在までの21世紀のりぼんを代表するギャグまんが、前川涼「アニマル横町」もまた(ドタバタ要素もありつつ)、≪不条理≫とシニカルな感覚をフィーチャーした作品になっている。
さらにそこから≪不条理≫をもシニシズムをもマイナスしたとすると、テンションが低まったままに、お互いがお互いを『かわいい、かわいい』と言ってなぐさめあうような作品が、できなくもなさげ。そして今作「もうすこしがんばりましょう」を、そのようなものと見ることが、まったく不可能でもない。

で、筆者が、その『脱力女子高生三人衆』とやらのじゃれあいを描いた今作を見ていると、『もう分かったよ、君たちは“かわいい”から!』…という気分にならないこともない。がしかし、そのようなシニシズムに終始していても何なので、わりに自分がうけたところをご紹介しておく。

 ――― 山口舞子「もうすこしがんばりましょう」(第1巻, p.52)より ―――
教室でボブカットの少女≪ひよ≫が、ロングヘアの少女の髪をすきながら、『ふみちゃんくらい 髪が長かったら ちょんまげ 結えちゃうね』と言う。と聞いてふみは、『結いたいの?』と返す。
そうするとひよは、『結わない よ~』と言って手のひらを左右に『パタ パタ』と振る。だが、それから彼女はその手を振り続けながら、中空に視線を泳がせ、しばし『―――…』と何やらを考え込む。
やがてひよは意を決し、てれ笑いを浮かべながら『だめ! やっぱり結い ませんっ』と言い、さらに手のひらを『バタタタタ』と激しく振りまくる。これらのことを見ていたふみは、『……… 迷ったの? まさか』と、声低く静かにツッコむ。

これが一種の≪不条理ギャグ≫で、その内容に『まさか』もへったくれもない。そして別に申したくはないことだが、作中の『ちょんまげ』こそはフェティッシュであり、すなわちわれわれの言う≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴するもの)である以外にない。

そういえば。すごくむかしの話だが、あずまきよひこ「あずまんが大王」(1999)についての世間の評判を聞いて、筆者は女子校のお話なのかと思い込んでいた。しかしご存じのように実作を見れば、超わき役のモッブだけど男子らは登場している。
で、こちらの「もうすこしがんばりましょう」という作品の、第1巻を読んだ限りで。こちらには本当にオスが1匹もぜんぜん出ていないので、『今度こそは!?』と思ったのだが。
ところが巻末近くのバレンタイン話で、ふみが大量のチョコをゲットして、という場面で『女子校か ここはっ』というセリフが出ており、これに筆者はびっくりしたのだった(p.109)。

びっくりしてからこの第1巻を見直すと、ひじょうに何げなすみっこに1ヶ所だけ、校内の男子が描かれているのだった(p.30)。にしてもこの学校の男女比は、氏家ト全「生徒会役員共」(2007)のガッコと同じくらい(およそ1対18)だってのだろうか? まさかねえ。
では、どうして今作の中では男性の存在が≪抑圧≫されているのだろうか? それは筆者の言い方だと、『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』というテーゼの前半の実現だ。

ではその『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』とはどういうことか? それはもう、あらゆる意味で『そうである』としか言いようのないものなのだが、特に≪少女≫ということばの出ているところで問題になるテーゼではある。
そして、われわれがご紹介のエピソードで見たところ。作中の少女の想念、『ちょんまげを、結いたいような気もするが、しかし結えない』とは、『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』というテーゼの言い換え、変奏、バリエーションに他ならない。

2010/03/02

種村有菜「満月をさがして」 - 言葉にできないなら歌にして

このブログのテーマにはちょくせつ関係ないニュースだが、3月1日から現在まで、2ちゃんねるのサーバが落ちている。自分がちょっと勉強さしてもらっている、『ブログ板』も見れない。
これがなんでも、韓国からのサイバー攻撃のせいだと見られているそうで。それも数万の人々が、申し合わせてF5キーでリロードしまくっての攻撃だとか(!)。
そんな…まさか…指が疲れちゃうでしょ。そうして半日以上たってもサーバが復活しないところをみると、さすがにそんな手動の攻撃じゃないように思えるけれど?

参考リンク:『韓国からのサイバーテロにより 2ちゃんねる"陥落”』

そして上のリンク先の情報によると、日本の2ちゃんねるユーザーもいろいろと韓国側に反撃を試みているようなのだが。しかし、ぜんぶ撃退されたり空ぶったりしているのがどうにも…。
が、そんなことより筆者は、リンク先のブログのトップバナーのキャラクターが≪神山満月(こうやま・みつき)≫だってことに、軽く衝撃をこうむったのだった(3月2日・現在)。
それは種村有菜「満月をさがして」(2002, りぼんマスコットコミックス, 全7巻)のヒロインなんだけど、いまどきそんなところでりぼんのヒロインにお目にかかるとは思わなかった。これは美談かもしれない。

 『あなたのことが 私もすきです
 あのとき 涙につまって
 言えなかった 言葉
 今 歌にして 歌うから
 空を見上げて ねぇさがして
 かすかに 光りはじめた フルムーン
 いつか あなたの道を 照らしたい
 あたたかさで つつみたい
 大きな夜に 小さな満月(わたし)
 どうか みつけて』(「満月をさがして」第1巻, p.38-39)

やべぇ、久しぶりに見たら、よすぎて泣けてきた。余命1年の満月ちゃんがこんなきれいなことを言っているのに、大きなお兄さんたちは何をしているの? 永遠に生きられるとでも思っているの? 向こうの韓国でも「満月」の本は出ているそうなのに。

ところで急に話の方向性が変わるのだが、2ちゃんねるが見られない代わりに『Shining Award』というサイト(「勝手に今日輝いていたレス大賞」スレのまとめ)を見に行った。これがもう大量のデータがあるものなので、1日に数ページずつ読んでいるんだけど。
するといきなり、次のような一種のこばなしが見つかったのだった(→ここから引用)

 ガッツ石松にインタビューがあった。
 アナ:「好きな数字は何ですか?」
 ガッツ:「ラッキーセブンの3!」

…筆者はこういう、どういう説明のしようもないようなギャグは、大好きだけどあんまし好きじゃない。ただし『でたらめ出まかせっぽい数字には必ず意味がある』のテーゼにより、お話の中のガッツさんが、ラカン系のマジックナンバーの『3』という数字を出しているのがゆかしいな、と。
『3』といえば『∴』のようなもようをわれわれは、≪ファルス(象徴化されたペニス)≫と解釈するが…。この場合はペニスと睾丸を合わせてなのだが、しかしこれまた満月ちゃんには聞かせたくない話なのでこのへんで!

2010/02/28

きんこうじたま「H -アッシュ-」 - 地中海文明における『お宝』の意味作用!

 
参考リンク:別コミOfficial「きんこうじたま」

Mid 1990'sの『少女コミック』に掲載の、まさしく『H』な4コマ・シリーズ。頭の中がももいろ一色な女子高生のヒロイン≪カシス≫が、同級生や学校の先生らを巻き込んで、妄想の花をそこら中に咲き乱れさせる。
そのA5特装版の単行本がすてきで、まず作家の名前が『きん***たま』と、その一部が目立たぬようになっているのがショッキング。そしてカバーにゴールドの特色で『H』の文字がでっかく刷られており、まさに『“きん”こうじ先生の“H”』というところが演出されている。かつその金色が真紅の地色とあいまって、ひじょうにめでたい感じ! イエー!
なお、筆者はこれの単行本を『第2巻までしか持ってない』と考えていたが、いま調べたら全2巻らしい(少コミフラワーコミックス・スペシャル)。どうりで、第3巻がめっからなかったわけだ。いや第2巻の終わり方から、何となく続きがありそうかと思ってたんだけど。

そして、ちょっと異なるところから本題に入れば。2005年のこと、自分が氏家ト全や竹内元紀らの創作を初めてめっけたとき、『いくら何でも、ここまで下ネタギャグに徹底してる作品があったなんてッ!』…というおどろきに襲われたものだった。とはまたずいぶん気づきが遅かったが、何せ筆者は『情報力』というものがゼロな人間なので。
ところがだ。それらの登場からさらに約5年も先行して、下ネタギャグに超徹底した作品が、他ならぬ≪少女まんが≫の世界から出ていたとは! これがまた、筆者においてはおシャカ様もびっくりな大発見だった。それこそ、他ならぬ今作「H -アッシュ-」のことだ。
(なおどうでもいいことだが、今作の「H -アッシュ-」という題名が、同じ少コミ系の4コマとして先行した新井理恵「× -ペケ-」と対をなしている感じもある。かついちおう説明しておくと、『H』の文字をフランス語では『アッシュ』と読む)

さてその今作、きんこうじたま「H -アッシュ-」という創作が、あまりにもスバラしいと述べるにもほどがある。そもそもだが、ウソでも『少女まんが』の単行本で、いっきなし表紙にペニスがモロ描かれてある…そんなしろものが今作(第1巻, カバー)以外にもあるなら、ぜひここへ出していただきたい。
少年誌・青年誌のギャグまんがでさえも近年は、『表紙にペニス』は見た憶えがない。…あ、ごくさいきんのジャンプ・コミックスの「いぬまるだしっ」(2009)が出てたカナ? しかしそれは、幼稚園児のブツだし。

そういえば、われらがラカンちゃまの超メイ文の1つに、「ファルスの意味作用」(1958)てのがある(≪ファルス≫とは、象徴化されたペニス)。しかしこの題名はややひかえめなもので、内容を見ればむしろ、『意味作用の前提としてのファルス』とさえも言えそうなところだ。
…で、そのようなラカンのチン説が、高ケツで高まいなる方々には評判よくないわけだが。しかし『これを見よ』、ここにある崇高さをきわめた創作を見よ。
男性の外性器というものを婉曲に呼ぶにさいし、かって「がきデカ」は『タマキン』という語をフィーチャーし、一方の今作は『お宝』と言っている。≪ファルス≫という語もまた中立的でなくそれを賛美するニュアンスがあるので、われわれは『お宝』=≪ファルス≫と受けとってよい。

そして、“誰も”は≪享楽≫のシンボルでもあるファルスを心の太陽(?)にいだいてはおりながら。さらに今作の可憐なるヒロイン≪カシス≫たるや、その頭の中は常に『お宝情報』でいっぱい(!)…とはまたスゴい。まさしく彼女は、『意味作用の前提としてのファルス』というラカンの説をその身に体現している。
かつよく見ると(第1巻, p.2)、彼女のキャラクター紹介に『性別/処女』とある(!)。これもまた、くだらないジョーシキとやらの大いなる彼岸のできごとではある。なお『処女』と言われたら、超下ネタ物語の主要人物らが全員チェリーだ、という点でも、今作は21世紀の氏家/竹内の方向性に先行しており。
そうして今作で活躍する少女らが夢にも見上げる『お宝』、あふれる≪享楽≫と生命力と人類の縦のつながりを象徴してあまりあるもの。それと似たようなものを自分が1セットばかり所有していることを、今作にふれて筆者は生まれて初めて幸福に感じたのだった。

あわせて。確か古賀亮一「ゲノム」のどこかに出てくるヨタ話だが、その主人公の≪パクマン君≫が、『はばかりながら、こちとら男根崇拝の残る村が出身地でィ!』か何か言う。それはいったい、どこの村なのだろうか? むしろわれらの全員がいやでも住んでいる≪地球村≫、それが彼の出身地なのでは?
かくて今作は≪フロイト-ラカンの理論≫の正しさを正しく証明してるものでありつつ、愛とポエジーと笑いとファンタジーを供給しているあっぱれな『人間讃歌』に他ならぬ。また別の大傑作である「LET'S ぬぷぬぷっ」は『死にゆき壊れゆくもののタスク』として≪性≫を描いているが、一方の今作は成長しつつ生きるものの≪性≫を記述している。すると相反したものかとも見えつつ、読んでる時にはどっちも『そうだなぁ』…と感じさせるのが、それぞれの大傑作たるゆえんだ。

で、今作についてはいずれ詳細を見ながらあらためての大賛美があろうけれども、いまは次の点をチョコっと見ておこう。

今作の第1巻の途中から、その名もキッパリ『包茎部』という、ありえない部活が作中に登場する。…と、ただいま『包茎部』という字を書いただけで、およそ1分間ほど息が詰まりそうに…ッ!
そのお宝が『真性』であればいきなりブチョー待遇、『仮性』であれば一生ヒラ部員、そしてそのスローガンは、『むりにむかない』、というこの部は、包茎歴40年を誇る名ティーチャー、≪卯月先生≫が顧問をつとめる(第1巻, p.77)。第1巻のカバー左下で『お宝』を魅せているのもこの先生だし、そもそも校内で『お宝』をまる出しにしてるのはいつものこと(!)という、見上げた教育者でおられる。

で、その卯月先生が指導している包茎部なのだが。…実は筆者には、その≪活動≫の目的が、いまいちよく分からないのだ。
見てるとさいしょは、手術とかしないで自然とムケるように…というところが目的だった感じ。それならまだ分かるが、しかしだんだんとその活動は、『包茎を恥じずむしろ誇る、そのために“包茎を鍛える”』…というふんいきになっているのだ。
『包茎を鍛える』というわけの分からぬ語を書いてしまったが、自分でもまったく意味が分からない。だがそれは、われらが包茎部に関する記述として正しい、とは断言できる。

何かおかしいのは、その包茎部という、特定のやからだけのことではない。そもそも作品のかまえがだ、さいしょはばくぜんとも『包茎否定』的だったのに、第2巻あたりからハッキリと『包茎肯定』的なのだ(!)。お宝賛美で始まった今作「H -アッシュ-」は、1歩すすんで(?)その途中から、『包茎賛美』のたえなるオードを奏で始めているのだ。
すなわち。ヒロインの≪カシス≫は面接の最中に教師から、『君の(進路的な)ボーダーラインだが…』と聞いて、頭の中に『ホーケーライン』というものを思い浮かべる(!)。するとその図の中で、オトコらを2分するラインの、ホーケー側にいる連中はニコニコとうれしげで、ムケてる側の連中がなぜかシュ~ンとしている(第2巻, p.86)。とは、どういうことなのだろうか?

生物学の用語で≪幼形成熟(ネオテニー)≫というモノがあり、これは要するにわれわれ人類のことで、類人猿だったら胎児のような体勢のままで≪成熟≫をキメ込んでるのだという。それが、1つのかたちでの≪進化≫だ。
すると世に増えつつあるらしき包茎というものも、一種のネオテニーでありかつ≪進化≫の1つのかたちなのだろうか? てのは軽々には断じがたきところだし、そもそもムケねばならざるものならば、どうして誰もが包茎として生まれるのか?…というところからして、よく分からぬ。
しかし人類の生み出した美の頂点の1つであるミケランジェロのダヴィデ像も包茎だし、かつそれの範をなした古代ギリシャの古典彫刻群もまた、みなりっぱな包茎である…ということには注意しておくべきか。それは少なくとも、ユダヤ教方面の≪割礼≫チックな文明のかた苦しさに対峙しているものではあろう。

 ≪包茎≫ ← クラシシズム, グレコローマン(地中海文明), 文芸復興

ちなみに包茎部員の男子らは全員が『その他大勢』で、名前の出ているキャラクターはいない。だからヒロインが想いをよせるヒーローの≪広瀬君≫や、『モーホー』っぽいと評判の美少年≪森本君≫らのお宝状況は、秘密になっている。…これは心にくいところだ。

さァて包茎バナシの〆くくりとして、作者・きんこうじたま先生のプロフィールに、ちと見とくことがある。われらの作家は『お宝における仮性と真性』という論文でノーベル平和賞を受賞された(ウソ)であるそうだが(第1巻, カバー見返し)、その論文の題名にチューイしたい。
すなわち、まるでお宝には仮性と真性しかないと言わんばかりで、『お宝における、ムケてるやつ』というものの存在が超シカトされている(!)。つまりは、そういうことなのやも知れぬ。

2010/02/27

茶畑るり「へそで茶をわかす」 - ≪詩的言語≫しか存在しない

 
参考リンク:Wikipedia「へそで茶をわかす」

1992年、中学生でデビューした茶畑るりが、唯一りぼんに残した超傑作4コマ・シリーズ(りぼんマスコットコミックス, 全3巻)。略称、「へそ茶」。
これについて2002年以来、過去に自分が書いた文章がいろいろと手元にあるのだが、見直してみて、いずれもあんまり気に入らない。そこでいっそ、その中に抜き書きされている作中のネタをご紹介して、この場ではお茶をにごそうかと。
…『茶どころ』静岡から出た作家が、お茶の美味さをテーマに描いた作品なのに(?)、そこでお茶をにごすって…!
けれども意外に、筆者がムダに堕弁をこくよりも、皆さまには楽しめるかも? 以下、お話の前提として、ちょっと変わったおもしろ少女であるヒロインが≪江崎ぐりこ≫、その親友で常人っぽい女の子が≪水田まり≫。

 ぐりこの部屋で。観葉植物を見つけたまり、『いいわね。なんていう名前?』
 ぐりこ『まだ決めてないよ。…「ため吉」なんて、どう?』
  ―――――  ―――――  ―――――
 地図の上に『○の中に×』という記号を見つけたまり、『この記号、何だっけ?』
 ぐりこ『それは…豆電球』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、うな重と70って似てるよね。パンタロンとパンシロンも似てるよね』
 まり『え? うーん、まぁそうね』
 その時、電話がRRRRRR...
 ぐりこ『そうだ! でんわとはにわも似てるよね』
 まり『いいから早く電話に出なよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、土曜日の時間割ってどうだっけ』
 まり『えーと、保健、芸術、数学ね』
 ぐりこ『保、芸、数か。何だか『保くんの芸の数々』って感じだよね』
 まり『保くんって誰』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、ラッパ呑みってあるでしょ』
 まり『ラッパを吹くみたいに、ビンから呑むことね』
 ぐりこ『そこでわたしは新しく、バイオリン呑みを考えた』
 まり『…それ、ナンだか呑みにくくない?』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『ふつうラーメンといえばショーユ、ミソ、シオ。
 そこでわたしは新しく、酢ラーメンを考えた』
 …その『酢ラーメン』とやらのドンブリから、ツゥゥ~ンと鋭いニヲイが…!
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、ラッパズボンってあるよね』
 まり『スソがラッパみたいに広がってるズボンね』
 ぐりこ『そこでわたしは新しく、中ほどに穴が開いた笛ズボンを考えた』
 まり『…穴からお肉がはみ出してるわよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 ぐりこ『まり、カンをけるとカ~ンとゆう音がします。じゃあビンをけった時の音は?』
 まり『えぇッ? …(アブラ汗とウス笑い)…ビィ~ン…』
 ぐりこ『何で? そんな音しないよ!?』
 まり『し、知ってるわよ! 何て言ってほしいのよ』
  ―――――  ―――――  ―――――
 先生『「だから」を使って短文を作りましょう。まず水田さん』
 まり『はい。「彼は約束を破った、だからボコボコにされてしまった」』
 先生『いい例文ですね。では江崎さん』
 ぐりこ『…「からだから何か出た」』
 まり『何かって、何よ!?』

いや~、いいなあ…と、自分ばかりが愉しんでいてはいけないが。さてご覧のごとく、≪言語≫の機能の実用性とか社会性とかいう部分、そこらに対するかわいい攻撃を描く…という性格を、今作「へそ茶」は有する。
『そうじゃなくて!』と明示的には別に言っていないが、しかしコード(規約)にしばられたつまらない既成の記号らを、ぐりこの機知は≪詩≫に変えていく。そして生活全体を、彼女はいきいきとした機知あるポエムに変えていく。

 『“言語”には、詩的言語しかない』 by ロラン・バルト

だから、一見のところ乱雑っぽい画面にはしたな気味なギャグがめんめんと描かれている今作「へそ茶」は、実は≪少女まんが≫のコアを体現している作品でもあるのだ。なぜならば、少女というまたきアウトサイダーの立場からのプロテスト、社会およびその≪コード≫へのプロテスト、という性格がなかったら、少女まんがなんてこの世になくてもいいわけだから。
しかもそのプロテストを、楽しい≪遊び≫、ことばの遊び、生活の中の遊び、として軽妙かつゆかいに描いている今作について、筆者は『傑作中の傑作』以外におくることばがない。で、そんなカタいことばしか思いつかないところが、ほんとうに大人のダメなところだなあ…などと痛感させられてもみるのだった!

2010/02/25

中都える「遊楽少女」 - 『ノーマルでないこと』にはげむ乙女たち

Mid 1990'sの『ASUKA』掲載の4コマ・シリーズ。これの単行本(あすかコミックスDX, 全1巻)はA5版でカバーは蛍光インクべっとりの特殊印刷で、本文にも4C2Cのカラーがたっぷりと、なかなかゴージャスなものになっている。
そのぶん定価のほうもお安くはないが(777円+税)、もちろん筆者はブックオフで105円で買ったものではある。何しろいまでは、まともには入手できない本でもあり。

さて、これに先立つ4コマ界の流れを見ておくと、まずは1978年に「がんばれ!! タブチくん!!」によるいしいひさいちのブレイクが…。というと話が遠大になりすぎなので、途中を略して、1985年に相原コージ「コージ苑」、87に喜国雅彦「傷だらけの天使たち」、そして89に吉田戦車「伝染るんです。」らが登場。といった1980's後半の青年誌の4コマの名作らに関して特記しとくべきは、いずれも豪華な特装版としてベストセラーを記録したことだ。

で、1990'sにはその流れが少女誌の4コマにも波及し、新井理恵「×-ペケ-」を皮切りに、きんこうじたま「H -アッシュ-」、にざかな「B.B.Joker」、そして今作らが、すてきな特装版で刊行されている。ちなみに書籍としての「ペケ」を特徴づける『小学館 フラワーコミックス・スペシャル』というシリーズは、「ペケ」を第1弾とするものだったそうだ(「ペケ」第7巻, 1999, p.5)。
かつ、「ペケ」以降の『少女まんがの4コマ』については、そこに質的な変化があると考えられる。1971年の『マーガレット』掲載のところはつえ「にゃんころりん」(←これも大名作!)のようなものとは、いろいろ異なる。
内容的にもそうだが、何しろ画面が違う。少女まんがならではの華麗な絵柄を4コマにぎちぎちと描きこむ…という方向性で大きな成功をおさめた作品が、「ペケ」以前にはない感じ。ゆえに、「ペケ」が初めてこの分野で特装版での刊行となった、その必然性はある(新書版では見づらすぎるので!)。

そして『4コマでありつつもぎちぎちと描き込む』というのは、「傷だらけの天使たち」が先駆けた傾向かと思うし。また「ペケ」という作品の別コミ掲載時、その後期におけるポジションは『もくじの後の巻末2Cページ』だったらしいが。それはスピリッツ誌で同じ位置を占めていた「コージ苑」や「伝染るんです。」に対応する、『ウラ面の目玉』としてのフィーチャーだったかと。
そうこうとすれば。かの名著、橋本治「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」(1979)にて確か、『少女まんがの“ギャグ”は、少年まんがのそれより5年とか10年とか遅れてる』のような指摘があったはずで(土田よしこ先生に関するチャプターで)。そこで言われていたのは、たぶん内容面のことだが。
それもさりながらていさい面において「ペケ」という作品は、約4~5年ほどの遅れをもって、当時の≪ギャグまんが≫の先端だった青年誌の4コマに追いついたのだ…と見られるのでは?

で、そのような流れの中から、今作こと「遊楽少女」も世に出たのかな…と。そこまでを見て、やぁ~っと今作のことだけど! 

コレは筆者が意識的に≪ギャグまんが≫をあさり始めたことで、うれしくも初めて出遭え(そこね)た作品ではある。そしてどういったお話かといえば、うわさの『花咲く乙女たち』とやらが集いまくっている女子校に、ユリとバラの花々が咲き乱れる。
『バラはおかしくない?』とお思いやも知れないが、それは主として、乙女らの脳内に咲き乱れてるのだ。ついでに申すと、不気味なキノコまでがニョッキリと教室に生えてきて、作中で活躍したりもする。

…まずはこのお話のコアに、ボーイッシュでカッコいい女の子≪さとみ≫と、彼女の親友(?)かのように振るまう女の子(?)という2人がいる。主なる問題は後者なのだが、その人相を書いておくと、みょうにタテに長~い楕円形のツルンとした顔をしてて、パッチリと眼が大げさに美しくキレイな柳眉、そして毛髪が3本しかない(!)。前髪らしき1本と、両サイドの『おさげ』らしき2本が、それぞれ角ばった渦をまきながら。
という彼女の初登場シーンがまたひじょうに強力で、教室でさとみへとふつうに話しかけてくるのだが。しかしさとみは、そこでガッツンと固まってしまう。なぜならば、目の前の相手が知らんヤツだというわけではない、がしかし、

 『わ…わからない!!
 いったい いつどこで こいつと出あったのだろうか?
 そんなバカな~? 』

という、あまりささやかでもない不可思議につきあたったからだ(p.4, 『ナゾの女』)。
で、そのふしぎさのあまりに思わずさとみは顔面を青黒く(?)するのだが、一方の『ナゾの女』はそのさまを見て、『変なサトミちゃん』とか言ってすましている。…かくてわれわれは、≪狂気の世界≫への扉を開いてしまうのだ。

『ナゾの女』と言われているが、このふしぎな女の子(?)の名前が、全17話中のやっと第10話にもなって明らかになる(!)…というのが、またあっぱれなところだ。で、その名前が≪果南遊(はてな・ゆう)≫と言い、それを聞いたさとみは、『そんなイカした 名前だったのか こいつ…!!』と、すなおに感心する(p.51)。がしかしこの名は、『ナゾの女』をカッコよく言い換えただけなのでは?
で、ストーリー的なものとして、ヒロインのさとみに対し。このハテナちゃん(らの大勢)が『百合』的なことをせまっていくかと思えば、近くの男子高の純情ボーイが遠くから彼女に想いをよせたりする。ただしこの少年はさとみを男子だと思い込んでいるので(!)、『自分がホモだったなんてっ』…という悩みをかかえつつ。

そしてこいつらの周りにいて状況をかき乱しかき廻すのは、『ホモの会』という部活(?)の部長≪キタジー≫。この少女は…申すまでもなさげだが、いまで言うりっぱな≪腐女子≫に他ならない。『レズもいいけど ホモもいいわよ』などとさとみに告げて、ノーマルでないことに関しては大いにやる気まんまん(!)、というところを見せるのだった(p.9)。
そこでさとみは『レズじゃねえ!!』と言って怒り、つい手に力が入って、持っていた牛乳か何かのパックをギュッと握りつぶす。するとその中の液汁が、ささっていたストローから『ピュッ』と元気よく飛び出す。等々の情景をヨコから見ていたハテナちゃんは、なぜかそのほほをそめて、『まっ』…とだけつぶやくのだった。

さてこのふかしぎな作品について筆者は、その意味するところを知ってはいる。が、別にそれを述べたくはない。むしろ、このよじれた愛にあふれ奇妙な花々が咲き乱れる≪狂気の世界≫を、いとおしくかけがえなきものと思うと、いまはそれだけ申しときたい。

【おまけ?】 作中のお正月の回でハテナちゃんが、『明けまして おめで とうり魔!!』と、まったくもってままならぬダジャレを言いやがる(p.65)。みょうに筆者が気に入ったので、皆さまもお正月に言ってみて! ぜひ、大ひんしゅくをかってみて…ッ!!

2010/02/23

田辺真由美「まゆみ!」 - おとめ涙のスカトロだいあり~

 
参考リンク:Wikipedia「まゆみ!」

≪少女まんがのギャグ≫なんて、『商業誌』とは思えないようなペースで展開しているものだ。確かこの作者は1989年に今作のベースになった作品でデビューしていて、そして単行本が出たのが1993年。
何せ初期には、月刊誌掲載で2~3ページの4コマだったもので。その間に、15歳の中学生だった作者は、軽~く大学生だか短大生だかになっている。

しかも真由美センセがヒロイン≪まゆみ≫の日常を描く、という(びみょうにも?)私小説チックな内容なので、この本の1~2巻あたりを読むと、女の子の日記帳をノゾキ見してるよーな感じもある(りぼんマスコット・コミックス, 全6巻)。
その間の心境や生活の変化が、かなりすなおにまんがに出ちゃっている。ふつうに言われる『女の子がいちばん輝いている時期』が、この崇高きわまる創作へと捧げられているのだ。
まあ、じっさい崇高でもありつつ、あわて者のヒロインが道ばたでイヌのふんをやたら踏む、てなお話だがっ。そうしてお話の最中にルーズソックスが流行ったりすたれたりしながら、2003年までも女子高生を演じ続けていた≪まゆみ≫なのだった。

ところで今作を見た方はご存じのように、このお話はヒロインが彼氏の≪いとー君≫に超ゾッコン…として始まるのだが。しかし巻が進むにつれ、彼女のカレへの態度がだんだんと冷淡かつ冷笑的になっている(!)。これがまた、何ともウソのないところで…!

2010/02/17

田村逍遥「先生あのね」 - 『毛づくりケーキ』、スイーツ!(笑)

 
参考リンク:tails-room「田村逍遥」

小学校の新米教師≪永井道典(ながい・みちのり)≫センセイと、彼のクラスのゆかいな子どもたちを描く4コマ・シリーズ全1巻(りぼんマスコットコミックス)。と、あらましをご紹介して、あとは好きかってな感想だけ記しておけば…。

これはほとんどの部分を掲載誌のりぼん(1995-2002)で読んでたのだが、童顔の永井センセが妻帯者だということが途中でいきなり発覚して、ずいぶんびっくりさせられた。そこで生徒の1人が『プロポーズの言葉って なんだったんですかー?』などと聞くので(p.116)、先生はいったんはぐらかすが、しょーがなしに教えるのだった。
さいしょキリッとした顔で『僕の妻になって くれないか…』と言った後、そしてナゼなのかポッと頬を赤らめて、『百歩譲って 養女でもいい!!』…と。

それと、この単行本には作家のデビュー作でもあるシリーズ「摩訶不思議」があわせて載っていて。その主人公たちはたぶん中学生で、自分としたらこっちの作品の方が好みかも知れない。
で、そのヒーローとヒロインたる≪つよし+けい子≫という兄妹、その2人のこんなエピソードが…(p.158, 『けい子とポニーテール』)。
シリーズ序盤ではロングだった髪の毛が、ショートボブになっているけい子。どうしたのかと親友の≪さつき≫が聞くと、けい子はジワ~と涙を流しながら事情を語る。
すなわち。たぶん前の日に兄のつよしが、『知ってるか? ポニーテールって 馬のしっぽっていう 意味なんだぜ』というフリの後、『もしかして… 肛門も?』と言い、ポニーに結われた妹の髪をグイとつかんで、背後から彼女の後頭部をチェキる。すると妹は、そこにはありもしない肛門を見られまいとしてもがき、『キャー!!』と叫ぶ。
…とまでの回想談を聞いたさつきは、何なのか『ガーン』と衝撃を強く受けて蒼ざめ、そして両目を大き~く見開いて『まさか…』と呟くのだった。という相手の反応を見たけい子は、こめかみに青スジを立てて『ないわよ』と言う。

このさい特に分析とかしないけど、兄のどうしょうもなきイチャモンをきっかけに、ありもせぬ部位に肛門があるかのような話になり、それを妹は隠さねばならなくなる。そして申すまでもないが、『まさか…』というリアクションがひじょうにいいところだ。

とまでを述べて思うのだが。単純に見た感じ、この「摩訶不思議」という作品は、黒ベタで描かれた学校の制服、主人公らしき兄妹の髪がまた真っ黒…という『黒さ』がきわだっている。りぼん掲載のギャグまんがはほとんど読んでいるけれど、画面がこんなに黒い作品は他にない(かつ今作は、『劇画タッチ』というのでもない)。
また、「摩訶不思議」ほどではないけれど、「先生あのね」にしてもじゅうぶんに黒い。ついでに申して、作家のペンネームが≪田村逍遥≫、そのデビュー作が「摩訶不思議」と、それらの字づらもひじょうに重い。で、それらの黒さと重さは、作中人物らの≪蒼い性≫のうっ屈を表して余すところがない、とも見れてくる。

書いていたらふと思い出した、次のようなネタもあった。「先生あのね」のヒロイン格の女児≪安藤奈津(あんどう・なつ)≫が、街で洋菓子店の『毛づくりケーキ』(!)という宣伝のぼりを見つける(p.125)。
それはもちろん、『手づくり』のまちがいだろう、と考えるのだが。しかしひじょうに気になったままで1年間、お店の人にそれを確かめることができない。
で、あまりはっきりも言えないことだが。女子も男子もうかつに≪オトナ≫になってしまったなら、何か『毛づくりケーキ』的なものを、喰わされるハメになるやも知れない。いやむしろ、大歓びでそれを食べるのかも知れない(!?)。そのことに対する少女の予感と≪不安≫がここには描かれている、と、われわれには読める。

≪毛≫という記号、その性的な記号に関連しては、「摩訶不思議」にも似たようなお話がある。けい子が自分のセーターのタグに、『毛100%』という文字を見つける。すると彼女は、

 『何の毛か ものすごく 気になる
 まだ鼻毛なら いい方だ』

…と、まったくらちもないことを考えるのだった(p.158)。

というわけで、日常的な展開の中に『摩訶不思議』が…。われわれの言う意味での≪不条理≫が、わりとかわゆいスタイルで侵入してくるという、この作者さまの作風。筆者はひじょうにいい、と思ったのだが。
しかしこの本が出た2001年あたりが、そのピークだったような現実はある。さいしょの方で今作を『全1巻』と申したが、実はそうじゃなく第2巻が出ていない。未刊分がだいぶあるのに。惜しいなあ…!

【付記】 今後いちいちおことわりしないが、これもまた、2009年の夏に書いていた堕文の再利用。しかし表題中の『スイーツ(笑)』という語はさいきん知ったばかりのもので、ついつい使ってみたかった(笑)。

2010/02/09

樹なつみ「八雲立つ」 - あなた、≪オイディプス≫になりなさい

 
参考リンク:Wikipedia「八雲立つ」

いまからわれらが見ようとしている作品、樹なつみ「八雲立つ」。それは『LaLa』掲載の伝奇系アクションまんが(花とゆめコミックス, 全19巻)であり、そしてはえある『講談社漫画賞』の受賞作(1997年度)なのだとか。だがその≪内容≫を見る前に、ちょっと余談から。

  【Ch.1】 “ジーザスの息子”であるべくして

むかし筆者が、何か冗談のようなハードコアパンクバンドをやっていたころ、その仲間と、次のような談義にふけったことがある。
『ザ・ドアーズの「ジ・エンド」とヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ヘロイン」とでは、どっちの方が、より名曲なのか?』

…お題からして時代性があまりにも濃厚でありつつ、しかも、いまになってそれを考えたら、『どっちもひじょうにすばらしい、でいいじゃないか』としか思えない。少なくとも、『優劣』という次元で比べるべきものとは思えない。
だけれど、そういうことを議論したい年ごろというものがあるようで。それを近年の用語では≪中二病≫とかいうらしいが、ま、それはともかく。

で、その談義において、自分は「ヘロイン」を、相手の方は「ジ・エンド」を、それぞれ推すという立場だったのだが。しかしいま、『当時の自分が、どのようなことばをもって「ヘロイン」を支持していたのか?』…という点がほとんど思い出せないのは、なかなかにいら立たしいことだ。
「ヘロイン」の作者のルー・リードの作風について、この世の最底辺と至上の崇高さとの強引きわまる同一視が、常にしかけられているのがゆかい…ということは、ずっと前から思っているが。けれどもそのときその場にて、そのような主張をしたような気が『しない』のだ。
あとまあ、自分は何かびみょうに『穴』のあるような表現の方をいつも好むので、ドアーズの作品のすきのないところが(相対的に、)ちょっと。それに対して、深刻ぶっているようでも常にどことなく『まんが的』な感じがしているのが、ルー・リードのいいところ(!?)だと思うけど。そしてその『まんが的』という感じが、続いて出てきたいわゆる『グラムロック』の、こっけい気味な様式性を導いたのだが(…以上は、Late 1960'sからEarly 1970'sのロック史のおさらい。何とも死ぬほどふっるいお話…)。

話を戻して、その議論のときのこと。自分の主張はほとんど思い出せないのだが、「ジ・エンド」を推していた相手が言っていたことの方は、わりとよく憶えているのだった。
『「ヘロイン」の歌詞で、“それをぶち込むとジーザスの息子のような気分になれる”、とか言ってっけどさ。でもオレはヤクやったことないしキリスト教徒でもないから、ちょっとよく分かんないんじゃん?
で、それに比べて「ジ・エンド」の、“オヤジを殺してオフクロを犯してやる”というテーマ性はごく身近なことだし、何ンか共感できる、オレにも分かる気がするのよ』

…言うまでもなく、『どっちが“より”、すぐれた名曲なのか?』、という問題は問題でない。けれど無意味そうな談義にふけりつつも、そこでのことばたちの流れから、ほんとうの『問題』が転がり出てくることもあるのでは?
さてその、「ジ・エンド」の歌詞中の『オヤジを殺してオフクロを犯してやる』というフレーズについて。これがフロイトによる概念≪エディプス・コンプレックス≫というものとは、まったく何の関係もありはしない…とお考えの方は、たぶんおられぬものと前提して。

そうして≪エディプス・コンプレックス≫ということについて言うと、『自分にはそれがある』とすっきり断言できるような人は、まったくただ者ではない。『それについて考えるのはあまりにも苦痛なので、考えないようにしよう』というのが、常人の構え方だ。そうした≪抑圧≫のある状態こそが、実はノーマルなのだ。
そういうところで筆者は「ジ・エンド」の、『オヤジを殺してオフクロを犯してやる』というフレーズに、ストレートな『共感』をできたことがない。そしてそうした『共感のなさ』をどう解釈するかが問題で、そんな談義をしていた幼きころの自分は、精神分析に対して大いに懐疑的だった。

かくて。元祖たるソポクレスの悲劇の主人公をはじめ、それぞれにりっぱな≪オイディプス≫であるところのわれわれは、自らの足もとという場所を見ないままに、むしろそこだけは絶対に見ないままに、『どこに“オイディプス”というやつがいるってのか!? 誰がこのけがれなき地を大罪によって汚したのか!?』と、少々かわいげなくもなき大騒ぎを演じ続けているのだ。
そしてそのような人々に対して、『あなた方こそが“オイディプス”なのです』などと告げるのは、基本的にはまったく通じない言葉に他ならない。だから盲目の予言者テイレシアスは、オイディプスに対して『あなたこそが“オイディプス”なのです』と告げることを、大いにためらったのだった。

そうして再び「ジ・エンド」と「ヘロイン」との比較に戻り、強引だがそれぞれの楽曲を『自己治療の記録』とでも見たとするならば、成功しているのは「ヘロイン」のルー・リードであり、一方の「ジ・エンド」の作者たるジム・モリソンは大失敗をとげている。ルーがそれからこんにちまでにドラッグをやめ、ゲイであることもやめて妻帯したりと、ずいぶん健康的なアーティストになっている(!?)ことに比し、追ってモリソンが破滅的な死に方をしたのは、皆さまもご存じの通りだし。

だから。≪フロイトの理論≫というものは『治療に向けての理論』でなければ何の存在理由もないしろものであって、アカデミックな心理学の『理論』などとは1つも関係がない。が、そういうものとしても、そのりくつ(分析理論)の前に屈服してみせる…ということは、別に≪治療≫とは関係がない。
さらによけいなことも述べるといまや筆者は、ルー・リード派でもなくドアーズ派でもない。それらもいいけどしかしそれ以上に、イギー・ポップの単にくだらなく気品も知性も創意工夫もなく、ただただしつように『ヤリてぇよォ、ヤリてぇんだよォ~!』と連呼してるばかりかのような作風に、もっとも心が動く。
(…何をいまさらの説明だが、ザ・ドアーズのジム・モリソン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リード、そしてついでにイギー・ポップらは、いずれもLate 1960'sの米国に現れた暗黒系のロック歌手。モリソン以外の2人は、いま現在も健在で活躍中)

  【Ch.2】 ≪男×男Love≫による再生?

さて、樹なつみ「八雲立つ」である(…筆者がよく見るサッカー系サイトのライターがこういう言い方を多用するので、思わずまねして)。

今作は化け物退治の使命を負った主人公≪闇己(くらき)クン≫のヒロイックな行動を追うという『伝奇もの』なのだが、しかしそういうものとしては、あまり魅力が『ない』。化け物の描写やアクションシーンらに、まったく迫力がない…という特徴を有するのは、逆にこの手の作品としてはすごいかも。
重ねて画面のことを、もう1つ指摘いたすと。数十年間にもわたって≪少女まんが≫を見ている者としての筆者は、ここにあるようにそっけなくも淡白な瞳の描き方には、大いに反発を感じないではいられない。

かつそれと重なることだが、今作「八雲立つ」のまた別の特徴として、『女性肯定』という感じがまったくない。というか、むしろめっきり『女性否定』的だ。
それはただ、その主人公の闇己クンがきっぱりと女ぎらいなので…という設定によるものだけではない。そうでなくそれは今作の全般において、絵的にもきわめてあっさりと描かれた女性キャラクターたちが、特に『ヒロイン的』と言えるようなことをまったくやらない、ということによる。
その、いちじるしく魅力のない女性キャラクターたちの中で、相対的に筆者がもっとも好感をもてたのは、さいしょ敵側で登場する傭兵の女性だ。つまり今作に描かれた女性らの中では、もっとも女性らしくないことをやっている人物が、もっとも人間としてまともに見える、逆説的に『やや』女性らしく見える…とは、大いにふしぎなことではなかろうか?

とまで見てくると、1つ分かることがある。今作ラストの大詰めシーンで、化け物界の大ボス的なもの、『同心円に放射状の線』として描かれた巨大かつモヤモヤした存在に、ヒーローとその相棒が対峙する見開きについて(第19巻, p.70-71)。
まずその化け物の形象は、大きく開かれたヴァギナと、その奥の子宮口を表している。『そのようには見えない』という方々はその認識を≪抑圧≫されているわけで、別にそれはそれでよい。
で、それに対してヒーローたちの男子2人は、何か神聖なものらしき≪剣≫を突き立てる。この剣が分析用語の≪ファルス(象徴化されたペニス)≫であり、その行為は性交の象徴だとは、申しててさみしいほどにふつうの見方すぎる。そして『ネタバレ』を避けようとしておぼろに言うと、その行為を介して、われらのヒーローは死と再生をとげる。

そして、≪誕生≫にかかわる何らかの秘密を象徴的に描くものとしたら、この作品は大いにねじくれ曲がっている。すなわち、≪女-男≫の間の性交が生命を再生産する…という認識をまず抑圧し、それをむりにでも≪男-男≫の間のことかのように描いている。ゆえに大詰めシーンの締めくくりでは、相棒の少年が闇己クンの体を剣で貫いて、彼をその再生に導く。これはつまり、≪男-男≫の性行為を(、主人公を『受け』として)、象徴的に描いたものだ。
それこれで、あえて申せばこの「八雲立つ」という作品には、そのヒーローがいつもブスッとしていて不きげんで不幸そうなのは、彼が≪女-男≫の性交の結果として生まれてしまったからだ…という認識が描かれていそうなのだ。そして今作の描いた彼の死と再生は、その不幸の根源に対する修正なのだ。

  【Ch.3】 われわれ“誰も”は、≪オイディプス≫でありつつ

ところで今作が、『伝奇もの』としてはあまり面白くない(!?)、と思える一方で。全19巻というその長丁場、自分という読者の興味をつないだのは、『主人公一家の家庭内のゴタゴタ』という要素だ。
つまり今作「八雲立つ」は、バトルうんぬんよりも『ホームドラマ』でもあるというところに読める要素がある。そうしてそこらで、意外と『少女まんが』っぽい…という感じがする。

ではその主人公一家の複雑な事情を、ざっと説明いたすと。まずその一家は出雲の奥地の伝統ある神職一族の本家で、その構成要素は父親と姉と闇己クン。…すると一見したところ、母がいない以外はふつうそうだが(?)、どうしてそんなものではない。
まず実は闇己クンが、その父親の実子ではない。何と『その父親』の弟が、兄の妻とかけおちしてできた子が、闇己クンなのだ。ゆえにその一家には母が不在であり、そして闇己クンの父は実は義父であり、同じくその姉は異父姉弟、ということになっている。
で、どうしてそのような『不義の子』の闇己クンを、その義父がちゃんといつくしみながら育てているかというと? ここは複雑なところで、この父には、逃げた女房や無頼の弟らへの言いつくせぬ想いもありつつ。
そして何よりも、『本家』たる彼の一家には男子の跡継ぎが必要だ、という事情があるのだ。ゆえにその逃げた女房は、追って劇中の現在に登場したときに、かって赤ん坊の闇己クンをその一家に押しつけたことを、逆に『いいことした』かのように語ってみせるのだ。

で、そのような家庭に育った闇己クンは、表面的にはとても優秀ないい子でありながら…補足すれば、家庭内ではいい子でありながら。実はその内面に、ひじょうにドス黒いモヤモヤをかかえているのだった。彼はその育った家庭のかた苦しいふんいきと、彼の実の両親であるきわめてアナーキーな男女から受けついだ血と、その間で2つに引き裂かれているのだ。
で、そのような彼の家庭の中に『事件』らが起こる。

その第1は、作の冒頭すぎでいきなり、闇己クンに対してその義父が、『俺を殺してくれ』と迫ってくる(!)。どうしてかというと、彼ら一族のしきたりとして、その宗主が49歳になったら跡継ぎがその首をはねて、そして代替わりをすることになっているのだとか。そして闇己クンは、ともかくもそれを実行して、そして一族の宗主におさまる。
追って第2には全編の中盤で、異父姉の≪寧子(やすこ)≫が闇己クンに対して、女として迫ってくる(!)。もの心ついたころから1度として、弟を『弟』として見たことはなかった、などとすごいことを言いながら。そして闇己クンは、それを退ける。

かくしてここに、父殺しと近親相姦という≪オイディプス≫物語の2大モチーフが現れる。それらが『逆に』押しつけられてくるものとして、そして主人公にはいずれも『まったくやりたくないこと』として、「八雲立つ」の作中に現れるのだ。まるでそこには、『さあ、あなたも“オイディプス”になりなさい』という命令が、どこからか聞こえているかのように。
ところで、『われわれ“誰も”はオイディプスである』とは言いながら、なろうと思ってそれになる人はいない。いつの間にか、“誰も”がそうなっているのだ。そして≪オイディプス≫であることは病理的なことでもありながら、しかもいっこうにノーマルなことなのだ。かくして『父殺しと近親相姦』は、『誰もがやりたくて仕方がないこと』でありながら、しかも『考えるもおぞましい究極の悪事』、という両面感情の対象であり続ける。

またその一方、この物語は『何となくそこにいるもの』としての邪悪な化け物らを退治するお話でありつつ、それを邪魔する目の前の敵キャラクターは、何とうわさの人物、闇己クンの実父なのだ。つまりこのヒーローは、一方では一族の≪義≫によって義父を自分の手で殺し、その一方で再び『一族の≪義≫によって』、実父には自分からケンカを売る。
かつ、追って登場する彼の母の態度のずいぶんなクールさも印象的。つまり『義父+姉』のペアと、彼を捨てた『実父+母』のペアとでは、闇己クンへの態度があまりにも対照的すぎるのだ。形式的な家庭は闇己クンに対して熱烈に接しながら『ひじょうにいやなこと』の実行を彼に迫り、それに対して血のつながった両親は、闇己クンに対しての関心がなさすぎる。
そして、闇己クンの実父について補足。兄の妻を犯し、やくざチックな無頼の稼業に従事し、そして見さかいもなく化け物らを野に放とうとするこの人物は、われわれが言うところの≪象徴的去勢≫を受けざる者であり『非-オイディプス的な人格』だ。つまり、『父を殺し母を犯す』的なことを実行して恥じず悔いないような人間は、≪オイディプス≫で『さえもない』。これこそまったく病理的な状態であり、よってこの実父も作中で(必然的に)破滅している。

かくてわれらのヒーローは、『オイディプスでありすぎること』と『オイディプスでなさすぎること』との間で引き裂かれ、大いなる苦痛を味わっているのだ。平たく言い直せば、彼は義父のような生き方を引き受けながら、実は実父のアナーキーな生き方にもひかれてやまないのだ。で、そのような彼の通常モードが『不きげん』であることについて、これでは大いになっとくせざるをえない。
そうしてそれへの解決めいたもの(!?)としてラストで提示されているのは、彼が≪女-男≫の性交の結果として生まれてきたこと、それへの否定なのだ。すごい大胆な『解決』かのようだが、しかしそれを今日のことばで言えば≪BL(ボーイズラブ)≫、『“BL”が解決である』、ということだ。もちろんそれは、『想像的』というにもほどがある『解決』ではありながら。
つまりこんにちのBL作品らが、『“BL”が解決である』ということをとうぜんの前提(!)として描かれているのに対して、古くMid 1990'sの創作である今作「八雲立つ」は、苦労して苦労して『“BL”が解決である』という結論を導きだしているのだ。そしてそのご苦労さに、そしてその『解決』があまりな『想像』であることに、思わず大びっくり…というのが、今作のラストを見ての筆者の感想なのだった。

ところでギャグまんがの話にすると、少年マガジン系の媒体の作品で、やきうどん「主将!! 地院家若美」という現在進行中の大傑作がある(2005-, KC少年マガジン, 刊行中)。『BL系格闘ギャグまんが』というキャッチフレーズの付されたそれはまさしく、いままで見てきた「八雲立つ」という作品に対して『向きあっている』ものだ。
すなわちその主人公もまた、歴史ある一族の使命の重苦しさに耐えかね、そのようなものを終わらせようとして≪BL≫に走る。当の本人は『私は生まれつきの美少年好きなのよ~ん』と言うが、しかしそうは見ていない人々も、その作中に存在するのだ。
と、そのようなやり方で彼は、≪オイディプス≫であることの苦しみから逃れようとしているわけだが。が、それがそのままうまくいくかどうか!?…というところに1つの興味がある。それこれあわせてひじょうにすばらしい作品なので、ぜひとも「地院家若美」のご一読を乞いながら!