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2010/11/28

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - すばらしきまんがの世界(ギャグ以外)

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる THE MOVIE」
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる THE MOVIE」
 
関連記事:竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

筆者の大好きな作品、今世紀のオープニングを飾った下ネタギャグまんがの大傑作「Dr.リアンが診てあげる」。それが表題に出ているけれど、この記事では≪ギャグまんが≫の機能というか功用というか、そこらをわりと広く考えてみたい。

1. まんがと呼ばれる、夢あふれるメディア!(ギャグ以外)

にしても、さいしょは「リアン」のお話から。…その実質的な第4巻「THE MOVIE」の序盤に収録された『マンガを描こう』の巻で、ヒーローのナオト君が、少年漫画新人賞の応募作を描こうとしていると言い出す。
超とつぜんに、まんが家志望だとカミングアウトするのだ。そうすると。

【美果】 いいわよね 読者に夢を売る 商売だしね ギャグマンガ 以外は

…と、いきなり的確すぎることを、天然ボケ気味の美果がおっしゃりやがる(p.28)。
その次に、どういうジャンルで描こうかという相談になると、『ラブコメが いいです!』と言い出したのがリアン。

【リアン】 (ラブコメすなわち、)男に都合のいい女を 仕立てて
とりえのない主人公を モテさせて 全国のドーテーどもを ドキドキさせるマンガ!
【美果】 みもふたもない 言い方するな!!

ところがこの、「Dr.リアン」というまんがはギャグ作品なので。よって、そこで『ギャグマンガ以外』のまんがが読者に売りつけている夢や幻想をぶち壊すための『みもふたもない 言い方』がなされるは、しごく必然かつとうぜん!
そうすると美果は、≪ギャグまんが≫が何であるかは知っているが、しかし自分がそれに出演しているという自覚がないらしい。…ま、それはそうか。

また、異なる作品も見ておくと。ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」(*)の第1巻、『ヤスチーム vs.ビキニ隊』の対抗戦で。敵の動きが速くてつかまえられないミチル君に対し、セコンドのヤスが、『心の眼を開け!』のようにコーチングする。
そうかと思ってミチル君が目を閉じて闘うと、それがあっという間にやられてしまう! あたりまえすぎていやになるところで、だいたい『心の眼』なんて、そんなかんたんに開くものじゃない…というか、開いた人がいるのだろうか? 筆者ぐらいの古い人だと、「アストロ球団」の球三郎サマじゃあるまいし…ということになるが(汗)。

そして、『まんがじゃあるまいし!』というふかしぎなツッコミが言外に表現されているのが、これらのギャグ作品のおかしいところだ。「Dr.リアン」という作品自体がムンムンのハーレム物語的なのに、それに近いラブコメが作内で揶揄され嘲笑されている。「踊るスポーツマン ヤス」の内容のありえなさは一般のスポ根まんがの比ではないが、けれどもかんじんなところに限って、要らざるリアリズムが描かれている。

2. 一般まんがをおちょくることが、ギャグまんがの使命

どうであれギャグまんがの内容には、ギャグじゃないまんがの内容や描写を否定しているところがあるのだ。筆者としては、“必ず”あると言いたい。
そしてそれが意外とかんじんなことで、そうだからこそまんが雑誌と呼べそうな媒体には、必ずいくつかギャグ(っぽい)作品が載っている。その質はともかくも。

ギャグじゃないまんがは一般に、読者の心にファンタジーを残して終わる。それに対してギャグまんがは、意識的または無意識的に『リアル』を読者に示して終わる。受け手の心の健康のために…行きすぎないようにバランスを取るべく、媒体には、行ったものを引き戻す要素が必要。それが、ギャグ(っぽい)まんがに期待される機能だ。
ただし、戻すぐらいならファンタジーの世界に行く必要もないのかというと、そんなことはない。どうせ起きるのに毎日眠らなくてはならないし、どうせ下から出るけれど食べなくてはならない。それと似たようなことで、人間にはファンタジーもリアリズムも必要だ。

そして、まんが史をひじょうに大きく見ると。ギャグまんがというジャンルの発生は、ストーリーまんがの発達に『対応して』のこと、という見方があるようだけど、その意見に筆者はほぼ賛成だ。
そのことを、筆者の持論のギャグまんが世代論を用いて言い直すと。まず『ストーリーまんが』という呼び方を求めるような作風の誕生に対抗して生まれたものが、ギャグまんが第1号「おそ松くん」(1962)からの第1世代。この過程を、かの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、『生まれた』ではなく『生まれさせられた』、と形容している(*)。
続いて1960'sからの劇画ブームに対抗したのが、「がきデカ」(1974)からの第2世代。そしてMid 1970'sからの新しいものら(大島弓子や大友克洋、等々)に対抗したものが、「伝染るんです。」(1989)からの第3世代。

というわけで、メインストリームのまんがの進歩だか発達だかに対応して、ギャグまんがも成長してきたと考えられる。言い換えれば、まんがにおける新しいファンタジー(の描き方)の発生に対抗して、ギャグまんがによる『リアル』の描き方も進歩してきたのだ。

よって。新たに第4世代のギャグまんががこれから生まれるには、それに先立って、まずギャグじゃないまんがにおけるイノベーション『こそ』が必要になってくるのかも。
あるいはそれは、すでに発生しているのだろうか? 筆者がはっきり認識できないうちに、ギャグにしてもギャグじゃないまんがにしても、いつの間にかすでに次の世代に突入してしまっている…そんなことは、ひじょうにないとも限らない。

3. 少年まんがは、少年として少年的に!

ところで、さいごに「Dr.リアン」の話に戻ると。いろいろ相談しながら描き上がったナオト君のラブコメ作品は、何とあからさまなエロマンガになってしまったのだった(p.34)。ペンネーム≪ルパンツIII世≫を名のる作者が、自分で自分の原稿に成年コミックのマークを描き込んでいるのがどうにも…。

【美果】 少年マンガを 描くんでしょ 描き直しま しょうよ
【リアン】 簡単に 少年マンガに 直す方法が あるですよ
(『ビシッ』と親指を立て、)チンチンを 少年のチンチンに 描き直せば いいです!!
【美果】 いいこと あるか――っ!!

というナイスな修正が、なされたのか否かは不明だが。けっきょく少年漫画新人賞は、落選してしまったのだとか。
何しろナオト君のまんが家志望の動機、その職業のいちばんの魅力とは、『エロ本 いっぱい持ってても 「人体デッサンの 資料」』として言い抜けが可能、ということだそうで(p.28)。そんなではそうなったのも、しごく必然かつとうぜんかと。

でまあ、いままでの話とは関係ないようなことだが。どうせ少年誌のラブコメなんて、ナオト君ほどじゃないにしろ、かなり血の気の余ってそうな方々が描いておられように(?)。ところがナオト君とは異なり、みんなちゃんと寸止めの作品に仕上げているのはすごいな、プロだなあ…と、おかしなことに感心してみせて、この堕文は終わるのだった。

2010/10/31

「手塚治虫のマンガの描き方」 - 手塚治虫のまんがの≪ギャグ≫論

手塚治虫漫画全集「手塚治虫のマンガの描き方」 
参考リンク:Wikipedia「手塚治虫」

これはどういう記事かというと、ほとんど自分用のメモで。「手塚治虫のマンガの描き方」(原著・1977, 手塚治虫漫画全集 MT399)に出ている手塚先生のギャグ論を、ちょっとまとめておこうというもの。

いや、なんでそんなことを思いついたかというと。もともと興味深いものではありながら、そしてさらに、ここにうわさの≪不条理ギャグ≫という用語が出ているからだ。
吾妻ひでお「不条理日記」が1978年なので、こっちの方が早い。しかし史上初かというと、たぶんそんなこともなさそうな感触が、筆者にはあり。

なぜそう思うのか。…超しっけいだが、手塚先生はあまりネーミングセンスがないようなので、そんな気の利いたことばを言い出しそうにないのでは、と。
そう言うと『何を失礼な!』と思われるだろうけど、しかし、ここで先生が使われている『日常ギャグ』とか『思考ギャグ』とかいう用語の不調法さから、それを思うのだった。ご一緒に見ていくと、あるいは同感なされるのでは…?
(ちなみに『ブラックユーモア』ということばが世に出たのは、1939年のアンドレ・ブルトン編「黒いユーモア選集」がお初、が定説らしい)

とまあ、筆者のおしゃべりはそれくらいにして。以下、「手塚治虫のマンガの描き方」の第2章の2から、該当する個所を要約&抜き書きすると…(p.129-137)。

『「おかしさ」をつくる六つの要素』

まず前置き。『マンガは本来、(略)ジョークとユーモアを売りものにするものだ。(略)これのともなわないマンガは、マンガではなく、なにかべつの分野のものだ。たとえ一見深刻そうに見えたり、暗澹たるムードをもっていても、大きな意味でなにかしらおかしければ、やっぱりマンガなのだ』。
そこでその、おかしさの演出の技法を考えてみると…。

【A 奇想天外】 人間そっくりな宇宙人が、あなたにほれてしまったとしよう。その宇宙人はいきなりズボンをおろし、おしりをあなたの口に押しつける。この種族は肛門が性感帯で、彼らにはそれが『あたりまえのキスの仕方』なのだ。このように、日常からかけ離れすぎたことが生ずるおかしさを、『奇想天外ギャグ』と呼ぶ。
『赤塚不二夫さんのギャグマンガには、この手の登場人物が多い』。また、手塚作品の≪ヒョウタンツギ≫の唐突な出没もこれ。
(引用者より。その『あたりまえのキスの仕方』とやらが、お尻同士をくっつける、となっていないのは、ややおかしいのではなかろうか? むしろそれがおかしい)

【B 不条理ギャグ】 『不条理というのは、常識の理屈では思いもよらないなりゆきになることだ。奇想天外にはどこか間の抜けたオトボケがあるが、こっちのほうは理屈もヘチマもない常識はずれのおかしさだから、いささか毒を含んでいる』。その好例はつげ義春「ねじ式」、秋竜山の1コマ作品など。
『総じて、不条理ギャグは、時間と空間を無視したものが多いので、あまりにも常識的な頭をもつ人には、よくわからないというきらいがある』。
(引用者より。『奇想天外』と『不条理』の区別が、あまりできている感じがしない。『理由づけ』や説明の有無、というポイントか?)

【C 日常ギャグ】 言い換えて、『風俗マンガ、生活マンガ』。「フクちゃん」、「サザエさん」、「フジ三太郎」など。『少しジャンルが違うけれど、セックス・ギャグ、ピンク・ギャグなんかもこの手のものである』。
…ところが手塚先生の分類によると、『日常性のおかしさに、ちょっと毒が入ったものが、ブラック・ユーモアマンガ』であり、『たとえば殺人、自殺、天災、恐怖、怪奇現象なんかをとりあつかったもの』、それらもまた『日常ギャグ』のうちに入るものだそう(!)。

【D 思考ギャグ】 いわゆる『考えオチ』、ニューヨーカーやパンチの1コママンガ、新聞の政治マンガらが、これに入る。『これらは、どちらかというと、「わかる人にはわかるが、事情のわからない人にはおもしろくない」、つまり一部の読者層におもしろがられる種類のマンガ』。

【E スラップスティック】 『すべてアクションをともなった、絵だけによるおかしさで、いうなればドタバタ』。『絵によるドタバタのおもしろさを徹底させているのが「がきデカ」で、あのスジ立てのなかのなぐる、ける、あばれるアクションのリズムが、ちゃんと心地よいおかしさをつくりだしているから成功したのであろう』。

【F だじゃれ】 『おかしさとしては、マンガのなかではいちばんつまらないものである。というのは、だじゃれはべつにマンガでなくたってつくれるからである』。
『これら(だじゃれや語呂あわせ)は、ほかのいろいろなギャグのあいだにはさみこんでこそ、おかしさとして生きるのだ』。
『(もろもろの格言や名言をもじっていく手法、こんにち言われる『パロディ』は、)しょせんは借りものだから、あまりしばしば使っては効果のある方法ではない』。



ご紹介、終わり。以上の記述、ちょっとこの分類の仕方がいいのか悪いのか…。まあともかく、1977年に手塚先生の言われた『まんがのギャグ論』は、このようなものなのだった。
ちなみに、これを追って1981年に出た米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、こうした『ギャグの分類』などを熱心に行ってはいない。その行き方に、筆者はけっこう共感しているところがある
で、それこれの先人らの偉業を21世紀に発展させるのがわれわれのつとめだとまで確認し、いまはいったん終わる。

2010/04/21

米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」 - ギャグまんがの起源のなぞ

何度も申し上げて申し訳ないが、われわれの主張の1つとして、『“ギャグまんが第1号”と呼べる作品は、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)である』。どうしてそうなのかというと、それはまず、筆者の尊敬する先パイがそう言ってたからなのだが。
まあそれは皆さまの知らないことなので、おいといて。あわせて、世に出ている資料にも、このようにある。

 ――― 米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981), 『はじめに』より ―――
『基本的には、ギャグマンガの始まりを赤塚不二夫あたりにすることにする。それまでのマンガにおいて「ギャグマンガ」という概念はたぶん存在しなかったと思われるからだ(中略)。意識的に「ギャグ」を優先させる方法論が持ち込まれた時に、「ギャグマンガ」は生まれさせられたに違いあるまい』(ちくま文庫版, p.18)

生まれ『させられた』、という言い方に味わうべきものがある。ところで近ごろ、これに並行するような主張を、別のところで見つけた。

 ――― 呉智英『ギャグの未開地を拓く』(1999)より ―――
『現在「ギャグマンガ」の名で総称される作品は、一九五〇年代までは「ユーモアマンガ」とか「ゆかいマンガ」と呼ばれていた。簡単に言えば、落語をそのままコマ割りしたようなマンガで、とぼけた主人公が滑稽な行動をし、最後にオチがある、といったものである。
これが大きく変わったのは、赤塚不二夫の登場からであった。赤塚の「おそ松くん」「天才バカボン」は、それまでのユーモアマンガの概念を打ち破るものであった。旧来のマンガの笑いがオチに向かって収斂されてゆくのに対し、赤塚の笑いは全体の流れとは無関係に冒頭だろうと途中だろうと爆発した』(楳図かずお「まことちゃん」小学館文庫版・第1巻『解説』, p.358。改行は引用者)

つまりそういうことだ、と申してすましたいのだが。ところが、質的な意味での≪ギャグまんが≫の起源はそうだとして、しかしその一方、『“ギャグまんが”ということばがいつからあるのか』を伝えている資料が、いまだ見つからない。
「戦後ギャグマンガ史」の伝えるところによると、「おそ松くん」の誕生と同じ1962年に出た「ぼくらの入門百科・マンガのかきかた」(冒険王編集部・秋田書店)という本に、すでに『ギャグまんがの描き方』が説かれているらしい(p.144)。対向ページのそこからの図版を見ると、当時の代表的な『ギャグマンガの主人公たち』は、「ナマちゃん」(赤塚不二夫)・「ポテトくん」(板井レンタロー)・「わんぱくター坊」(ムロタニ・ツネ象)・「ナガシマくん」(わち・さんぺい)・「ロボット三等兵」(前谷惟光)・「よたろうくん」(山根赤鬼)、等々々。
で、いま名前が出たような作品たちをこんにちのわれわれは、≪ギャグまんが≫以前のもの、と考えたいわけだ。ところがそれらは発表当時、りっぱな『ギャグまんが』の作例だ、と考えられていたらしいのだ。

ちなみに『ナンセンスまんが』ということばの方がよっぽど古いもので、戦前の「ノンキナトウサン」や「フクちゃん」らが、そのように呼ばれていたのだとか(米沢, 前掲書, p.27)。ゆえに、かの「サザエさん」も、そうした『ナンセンスまんが』の流れにそった作品ということになる。
だが現在のわれわれの感じ方だと、≪ナンセンス≫とは、もうちょっとどぎついものになるのではなかろうか。…と、それは余談だが。

ところで「戦後ギャグマンガ史」の論じ方は、するどく狭い意味での≪ギャグまんが≫を定義していく方向には、あまり向かっていない。『笑いを主眼として送り出されてきたものをとりあえずギャグマンガとして扱ってみた』…とは、その書の巻末付録の『戦後ギャグマンガ史年表』へのただし書きだ(p.321)。
そのように同書においては、まず『笑いを主眼とした作品』が『とりあえず』、『ギャグまんが』として扱われている。がしかし、コアな≪ギャグまんが≫の起源が「おそ松くん」なのだ、と言われているように、いちおう読んでおける。そこらをわりとあいまいにしているのが、同書の記述のにくいところだ…と考えながら。

つまり『ギャグまんが』という用語は「おそ松くん」のために生まれたのではないのだが、しかしそのように考えておこう的な≪操作≫が、ここらでなされている気配。そして筆者もその行き方には賛成するのだけど、しかしこの≪操作≫の存在を忘れてはならんように思う。
かつ、われわれがコアな≪ギャグまんが≫(“外傷”的な笑いをクリエートしている作品)を定義しえたからといって、広義の『ギャグまんが』を完全には排除できない、峻別しえない、ということは、以前に申し上げた通り。と、ここまでまったく面白くない議論だったように思うが(涙)、しかしこういうことも認識しておく必要があるかなあ…と、筆者は思い込んだのだった。

2010/03/07

小林まこと「1・2の三四郎」 - 『反則』の描き出す真実、『越境』でしか行けない場所

 
参考リンク:Wikipedia「1・2の三四郎」

『ギャグ漫画』というキーワードに注意して人々の語らいを見ていると、『ギャグじゃないけど大いに笑える漫画』、という言い方が、逆に引っかかってくる。そしていま、そのようなものとして思いあたる作品が、1つは少年マガジンの太古の大ヒット作「1・2の三四郎」(1978)で、もう1つは現在もジャンプ掲載中の「銀魂」(2003)だ。
と、言ってみてから『2つの間が空きすぎだろ!』とは自分でも思うが、そこいらは詳しいお方に埋めといていただきたい。そしてこの場では「1・2の三四郎」を検討し、「銀魂」についてはいつかまたふれる。

そしていま題名が出た2作について、『どういう作品だったっけ?』と、思い出そうとすれば。それらのお話の流れやキャラクターは思い出せるのだが、しかし『どういう≪ギャグ≫があったか?』ということが、さっぱり思い出せない。
対して、そうじゃない≪ギャグまんが≫について考えると、ギャグは思い出せるが、お話の流れや結末などは憶えていない、ということが逆に多い。

かくて。筆者の申している『狭義のギャグ=外傷的ギャグ』とは、心にするどく突き刺さって抜けない『無意味(=意味)のトゲ』のようなものだが。その一方の『広義のギャグ』である『流れの中でのズッコケシーン』や『人物同士のはげしいすれ違い』は、読者の記憶の中で、『流れ』および『キャラクター対立の図式』らの中に埋没してしまう。そして後者を見たものは、笑ったことのこころよさだけを憶えている。

ここで話を異様に古いことにすると、手塚治虫の作品なんて、いま見るとあってもなくてもいいような小ネタが異様に多いわけだが。しかしシリアスな方向に行ききらず、どこかコミカルなムードを並置しておくのは、オーセンティックな『まんが』の描き方の本流ではある。
テーマやムードがひじょうに重たいお話でも、どこかで読者に≪快感≫を与えておく必要がある。手塚およびその流れをくむ作家たちでは、それがいわゆる『コミック・リリーフ』になっている。すなわち、大友克洋のまんが「AKIRA」にも多少は笑えるところがあるし、さらに諸星大二郎のコミック・リリーフの使い方はもろに手塚チックだと言えよう。後者について、『さすがは2回も“手塚”の賞を受けただけはある』、と感心しておくべきか。
ところが宮崎駿のまんが「風の谷のナウシカ」には、そのような手塚チックなコミック・リリーフはない。というか思い出してみると、手塚作品をはじめとする≪まんが≫的なるものが必ず『複眼的』に構成されているのに比して、宮崎の構成は常に『単眼的』。そこで再び、『な~るほど、やっぱ宮崎はアンチ手塚なんだな』と考えてもよさそうだ。
(…付言し、コミック・リリーフの入るようなところにエロ要素をもってくる方法も大いにありうるところで、それは手塚もとうぜん意識的に使っている)

と、こんなことらを述べてから、どうやって話を「1・2の三四郎」まで戻したらよいのだろう? 『ギャグじゃないまんが作品のクリエイトしている笑いとは?』という問題意識があった上で、その懐かしい作品をこのたび読み返してみたのだが。

まずはいちおう、話題の作品「1・2の三四郎」(KC少年マガジン, 全20巻)の概略を述べておくと。その前半はちばてつや「ハリスの旋風」(1965)みたいな学園スポーツもので、主人公らが学校を出てからの後半はプロレスまんがになっている。…などと、筆者の話は放っておくと、自分でも冷や汗が出るくらい古いネタばっかしになり気味。
関連して超おなじみの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)によると、狭義のギャグまんがの元祖たる「おそ松くん」に対し、同じ1962年の学園スポーツコメディ、関谷ひさし「ストップ! にいちゃん」という対立軸が見逃せなかったそうだ。いやはやそこまでを持ち出しては、あっという間に話題が終戦直後の「バット君」や「イガグリくん」にまでも戻りそう…!? 古いにしたってほどがあるし!

ま、ともかくも「1・2の三四郎」という作品を、そこいらから出ているものとして。いまそれを見ていると、何しろパワフルでテンションが高い…というか、やたらうるさい作品だとは感じられる。音が出ていないまんがを読んでいて、こんなにも『うるさい』と感じさせられるのはすごい。人々がものすごく大きな口を開けて、わりとどうでもよいようなことをがなりまくる。
たとえばその作中で、誰かに対して誰かがよけいなことを言う。するとどうなるか。

 『うるせ―――んだよォ、てめえはッ!』
 『じゃっかましい、おのれこそだまとりゃあッ!!』
 『だまれとぬかすキサマが、まずだまりやがれぃッ!』
 『ああもう、ほんとにうるさいわね―――ッ、あんたたちはッ!!』

といった具合いで、まったくとどまるところがない。かつ、基本的にはそんなことばっかしが描いてあるまんが、だと申しても過言ではなさそうだ。ただしまた基本的に、この人たちは、いちおう『有言実行』の人々でもありながら。
ところでこれもむかし聞いたことだが、筆者よりも前に今作を見ていた友人の感想。

『柔道の試合でプロレスのバックドロップを放つ、といった前半のメチャクチャさは面白い。しかし、主人公らがプロレスラーになってからの後半は面白くない。プロレスでプロレス技をやっても当たり前なんだから』

追って筆者が読んでみてもその通りで、主人公の三四郎が、『燃える闘魂』の猪木イズムでラグビーや柔道に取り組むことは面白い…が、それがプロレスラーになってしまっては、単なる猪木の亜流だ(!)。いや、そうとは言っても語りの上手さで、するすると最後まで読ませてはくれるのだが。
ここで今作の原点を確認すると、三四郎らの『格闘部』は、女子ばかりがはばを利かせる学園内の、行き場なきアウトサイダーらのたまり場として生まれている。ゆえあってラグビー部をやめた主人公が柔道部の門を叩こうとすると、さいごの部員が入れ替わりに退部していくところだった(!)。そこで空き家になった柔道部の部室に、少女まんが家志望の虎吉と、関西人の馬之助も押しかけてくる。虎吉は空手部、馬之助はレスリング部、それぞれラス1の部員なのだった。
こいつらそれぞれ、死ぬほどに我が強い一種の≪猛者≫ではあるが、しかし仲間がおらずその理解者がいない。そこへさらに、なぜか三四郎に興味をもった転校生でヒロインの≪志乃≫も押しかけてくる。彼女もまた、どういうわけだか学園内の秩序に入りそこねてしまったのだ。

そうしてこいつらはてきとうに、柔道場の一角ずつを好きかってに、それぞれの居心地よい場所として使い始める。その中でも特に志乃が、女の子の居室の備品一式を丸ごと道場に持ち込んで、優雅な放課後のティータイムとしゃれ込むのがすごい(!)。そしてその心地よい部屋で彼女は、『ああ‥‥ いとしの ポール‥‥』とつぶやきながら、マッカートニーでもニューマンでもないポール牧のポスターに見入るのだった(第1巻, p.56)。
ところがそんな好きかってがいつまでも通るわけがなく、しょうがなくてこの4人は自分らを、学校の公認する『格闘部』として組織し始めるのだが。ともあれこの作品の原点に、孤独で行き場なき少女と少年たちが、自分らの居場所を作ろうとする…というモチーフがあるとは言える。

そしてこの『行き場なきものが、自らの居場所を求めて闘う』というモチーフが、今作の根源にあって人々の共感を呼んでいることはもちろんだが。追ってこのモチーフはまた、作の中盤で少年たちがプロレスラーになろうとするときにも再現され、さらには今作の続編「1・2の三四郎 2」(1994)で、いちど引退した三四郎がプロレス復帰しようとするときにも再現される。
かつ、そのような彼らの闘いの手段は、反則もしくはすれすれの『越境』による。すなわち、かの有名な、柔道の試合でバックドロップやブレーンバスターを繰り出すようなことだ。かつ、むさ苦しい空手野郎のくせに少女まんが家になろうとしている虎吉などは、その存在自体が『越境』であり。
さらに、追ってこいつらの仲間になる超むっつりスケベの岩清水くんなどは、ほとんど反則わざ『しか』できない。むしろ平気で反則ができるということが逆に、彼の唯一に近いとりえなのだ。

けれどもそのような『反則』や『越境』のモチーフが、作の後半でプロレス界が舞台となると、急速にその輝きを失っていく。なぜって言うまでもないけれど、さいしょからその世界では、反則や乱入が当たり前なので。
それでもその展開の初期、招かれざるリングに偶発的に乱入したヒーローが、その岩清水くんの持っていたエロ本の束で殴ってプロのレスラーをのしてしまう(!)、なんてところは痛快だったが(第11巻, p.18)。それはまた、なんでもありのプロレス界(?)でさえ考えられぬ、ハイパー反則わざのばくはつだったが!
(…補足。『エロ本で血が出るまで人を殴る』というこのギャグは、このお話にはわりと珍しい『外傷的ギャグ』)

ところで今作「1・2の三四郎」で、筆者がもっとも感動したところを書いておくと、それはわりと初期の第3巻、学園祭の余興として格闘部が、県内でも強豪のラグビー部と、そのラグビーで闘う…というエピソードなのだった。これは三四郎とラグビー部の主将にとっては、ある種の遺恨試合でもあり。
そして。しょせん余興の試合なので人数も変則、そして多少の反則はありで…という設定に乗じて格闘部は、さいしょは反則わざを使いまくってセコくラグビー部に対抗する。ところがハーフタイムの1つのイベントをきっかけに、双方がマジになってしまう。かの格闘部員らでさえもが、小細工ぬきで汗と泥にまみれて真剣にボールを追い始める。

そうしてそこで描かれたのは、既成の制度を離れたまったく無償の行為としての真正なスポーツだ。ただ単にボールがあるからそれを追う、ということが誰にできるのだろうか? そのような無償の行為の美しさを、制度的な競技スポーツに見ることがきわめてまれであり、かつスポ根まんがらの中にさえそれがめったに見られない。
それを「1・2の三四郎」という作品は、偶発的な反則まぎれの『越境』というやり方で描き出しているのだ。冗談から始まって『ほんとうのもの』にいたってしまう、これこそが真に反則や『越境』と呼ぶべきことでなければ何なのだろう?
しかもその描き方がまたふざけていて、この少年たちの闘いに立ち会っている観戦者のモッブらは、『それに しても‥‥ なんで 猪木は 日本プロレスを クビになったの だろう』などと、まったく関係なさそうなプロレス談義に興じているのだった(!)。そうしてそこらで盛り上がって、『三四郎なんて どうでもいいや‥‥』と、まったくありえざることを口走るのだった(第3巻, p.146)。

そしてこのような反則の面白さが、お話の舞台がプロレス界になれば『逆に』消滅してしまっていることが残念…ということはすでに述べたし、それはもうしょうがない。
というわけで、この堕文もマズい意味での『越境』になっているような気がしつつ。さいごに筆者のそぼくな感想を述べておくと、今作のヒロイン≪志乃≫についてちょっと感じるところがあった。このようにヒーローにとことんついてきて、そして常にヒーローを立てることに終始する、そんなヒロイン像がいまはないような気がして。

その観点から、今作「1・2の三四郎」からわりとすぐに後に出た作品、1981年のあだち充「タッチ」は、今作に対しての大アンチテーゼであると見れなくない。何せそのヒーローがぜんぜん男っぽくないし、そしてヒロインは彼を『立てず』に(自分は新体操にはげんで、)張りあってくる。
そして、ここにおいて生まれた『ヒーローに対して比較的クールであり、しかも張りあってくるヒロイン像』は、現在の少年ジャンプの人気作「バクマン。」にも描かれているところだ。さらに『張りあってくる』どころか、逆に、すごいユニークなヒロインをヒーローがフォローし立てる…というお話が、少年誌上にもまれでない現在であり。

『張りあって』と言えば思い出すのだが、今作「1・2の三四郎」の冒頭で、志乃は意外と全校1番の秀才で、しかも転校前の学校では生徒会長だった、と明らかにされる。ところがそのような『設定』は、追っての展開でまったく生きていない! おバカなヒーローたちと同レベルのアホな子にしか、彼女が見えないのだが。
1つ言えばその『設定』はただ単に、三四郎から志乃に対して『売り言葉に買い言葉』で、

 『てめえこそ 頭がよくて もと生徒会長で
 ボインのくせ しやがって ~』(第4巻, p.57)

…という罵倒を引き出しているだけだ。だからほんとうは大好きだ、ということが言外に分かりやすく言われているわけで、ただそのための『設定』になっているのだ。
で、そうとすると、その一方の「タッチ」や「バクマン。」のヒロインらが『張りあってくる』という行為もまた、実はヒーローに対しての媚態になっているのではなかろうか、という気もしてくるが。しかしそこらは、いまは検討外として。

ともかく筆者が感心しているのは、この「1・2の三四郎」という作品の野趣というか、ワイルドでナイーヴなところというか、もろもろ包み隠していないところなのだった。これに比べたらこんにちのまんが作品らは、いちようにずいぶんと繊細かつ都会的な作風になっているなあ…とッ!?

2010/02/26

内崎まさとし「らんぽう」 - よるべなきものたちへ

 
参考リンク:Wikipedia「らんぽう」

少年チャンピオン掲載のハイパーなドタバタギャグまんが。この作品「らんぽう」が出ていた時期(1978-87)はちょうど、パンク、ニューウェイブ、ディスコ、スカ、テクノポップ、インダストリアル、ニューロマンティクス、ヒップホップ、ハイエナジー(ユーロビート)、ゴシックロック、ネオアコ、ついでに『おマンチェ』(マンチェスターポップ)…といった≪ポップ≫の歴史を飾ることばたちが、あまりにもまぶしく輝いていた時代ではあった。
で、その掲載が終わった1987年がアシッドハウスの誕生年だったということも、また何かちょっと意味ありげだ。それまでの“すべて”の眺めを変えてしまった、アシッドハウスという≪ポップ≫の新登場。その大刷新の発生をきっかけとして(?)「らんぽう」が引っ込んでしまったことに、何かすばらしいいさぎよさを感じてよいような気もしつつ。

ではありながら、なぜいまというときに「らんぽう」の話かというと? 別に大した理由ではないのだが、いろいろとこっち側の理由はあるのだ。

まず。先週の週末に筆者は、親族内の法事というヤボ用に出かけた。そこで筆者が注目したのは、いとこ夫婦の次男坊の2歳の男の子だ。それこそまさしく≪オイディプス以前≫のジェネレーションなので、『何か』をやってくれそう…と思い、自分はその行動に注意していた。
するとその子がすかさず、控えの部屋の床の間にズカズカと上がっていって、そこの飾りの掛け軸をグイグイと引っ張ってくれた(!)。それを見てあわてるその母親と、叱られてキョトンとする子どもと、そしてさわやかに笑いころげるわれわれ傍観者。『こういうところにも“ギャグまんが”の原点みたいのはあるなあ』と、そこで筆者は考えるのだった。

そしてそこで思い出したのが、楳図かずお「まことちゃん」(1976)、今作こと内崎まさとし「らんぽう」(1978)、そして鳥山明「Dr.スランプ」(1980)といった、あまりにも元気ありすぎなキッズの大暴れを描く作品たちなのだった。で、それらの中でも自分がいちばん好きだったのが、今作「らんぽう」なのだった。むしろ「らんぽう」を先に見ていなかったら、「Dr.スランプ」を愉しむことはできなかっただろう…と感じる。

かつ、近ごろこのブログに米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)という書名をよく見るが。その本の記述が当時の最新の≪ギャグまんが≫の、「うる星やつら」、「らんぽう」、「Dr.スランプ」…というあたりで終わっている。で、わりと筆者が意外に感じたのは、そこで「らんぽう」の評価が意外に高いということだ。
…あ、いま確認してみたら、そんなには「らんぽう」をほめてなかった(ちくま文庫版, p.257)。ストレートに『幼稚!』とは言ってない、それだけ(!?)な感じだ。
にしてもいままで、筆者が「らんぽう」を好きだと告白すると、必ずや『幼稚!』と大断言されてきたもので。そうとまで直接は言っていないだけ、「戦後ギャグマンガ史」の記述を光るものと感じた、そんなことだったかも知れない。

では、ここらで作品「らんぽう」のあらましをご紹介しておこうかと。さいしょはふつうの中学生、というより目立った秀才くんだった主人公は、UFOにアブダクションされてから、どんぐりまなこに黄色い髪に赤い道着がトレードマークのスーパー野生児≪らんぽうクン≫になってしまう。
そして担任の≪角丸先生≫のアパートに上がりこんで帰らないので、迷惑に感じた先生がクラス名簿で彼の住所を確認すると、何とそれが先生の部屋になっている(!)。そうしてそこに居ついてしまったらんぽうクンが、天才ネズミの≪チュー太郎≫を子分として暴れまくる姿が描かれる。どうもこのチュー太郎クンについては、変身前のらんぽうクンが持っていた知性を受け継いだもの、という感じがある。
かつ作品の進行につれて、番長のカラ太郎(顔がカラスにそっくり)、近所のネコ軍団、マッドサイエンティストのDr.補佐望(ほさもち)、などなどがにぎやかにお話に参加してくる。そうしてわれらのらんぽうクンを一貫して見守っているのは、お話の最初からそれとなくいい仲のクラスメイト兼ヒロイン≪むつみたん≫だ。

むしろ今作はむつみのモノローグから始まっているので、その“すべて”を彼女が見たこと、とも読める。まっとうきわまるヒロインが、なぜか異常きわまるヒーローを温かく見守っている。
追って出たゆうきまさみ「究極超人あ~る」(1985)もそうだが、ついでにマイナーな作品だと吾妻ひでお「チョッキン」(1977)もやや近いが、こうした作品構造には注意していていい。われわれ読者は、その心やさしきヒロインをフィルターにして作品世界を見ている。
先だった「おそ松くん」や「オバケのQ太郎」、そして「ハレンチ学園」や「がきデカ」らにもヒロインっぽい女の子らが登場するけれど、それらに対して異なるものがあることは明らかだ。やや近いのは≪バカボンのママ≫というキャラクターの存在かも知れないが、しかし妻とか母親とかいうポジションになっていては、またちょっと違う感じ。

ところで筆者が「らんぽう」という作品で、いちばん共感をもって見ていたのは、ノラ犬の≪ヒマ犬≫と呼ばれるキャラクターなのだった。何せノラ犬なんて必ずヒマなものだろうと思えるが(そうかな?)、ともかく彼は、たいてい『ヒマじゃ~』と言いながら登場していた。
で、そのヒマ犬くんが主人公をつとめた1編が、ひじょうに心に残っているのだ。しかし本が手元にまったく残ってないので(持ってたのだが)、ぞんぶんに記憶『だけ』にたよってそれをご紹介すれば…。

ノラ犬といえども喰っていかねばならないとして、われらのヒマ犬くんは干してある洗たくもののパンティか何かを盗み、それをどこかの童貞っぽい少年に売りつけてお金にする。当時は『ブルセラショップ』なんてものはなかったはずだが、言わばそれを不法に先取りしたビジネスを展開する。
ところがそれを『刑事らんぽう』に摘発されて(そのお話に限り、らんぽうクンが刑事役をつとめている)、あわれヒマ犬くんは更正を誓ってやっと牢屋を出ることができる。しかし、われらのヒマ犬くんは吠える。そうとは言っても、ノラ犬にどういう『やるべきこと』があるのかと! さもなくば、どんな因果で人間どもにシッポをふって、飼いならされなければならないのかと!
悩んだ末に、彼はある家の飼い犬になる。そこのお坊ちゃんのおもちゃになって、エサをもらって犬小屋におさまって、『悪くもねェな』といったんは思ったが。しかし彼はその夜、『野生の血が騒ぐんでやんす』…とつぶやきながら、自分をつないだロープを喰いちぎる。
そうして夜の町に、『どろぼうよー!』という女性の悲鳴が響く。そこでらんぽう刑事が『またヒマ犬がやりやがったか!』と叫んで現場に急行すると、そこではわれらのヒマ犬くんが、別の人間の下着ドロボーをとり押さえているのだった。
というわけで、びみょうには更正できたようなヒマ犬くんだったが。しかしけっきょくのところ、ノラ犬という存在の生きにくさはまったく変わらない…のようなつぶやきで、お話は終わっているのだった。

どういうわけだか、いま思い出してもまったくもって、『これは自分のことだなあ』…と感じないではいられない。いや、筆者は下着ドロボーをやったことはないけれど!
通じているのは、このくそくだらない社会を心そこ軽蔑しながら、そのどん底で細々と生きているばかり、というところでか。そしてヒマ犬くんと同様に、自分もある種の『野生のキバ』を持っているような気がしつつ、だがそれは役に立たず使うことの許されないものなのだった。

ところでこのエピソードについては、付随する想い出話があって。才能もないのに筆者がパンクバンドをやっていたころ、たぶん練習スタジオの帰りか何かの機会、バンド仲間およびその友人らと、池袋の喫茶店でおしゃべりしていたときに。
どういうわけだか自分は上記のエピソードをとうとうと語り、そして『われらのヒマ犬くんは、ランボーでありムルソー(カミュ「異邦人」のヒーロー)なんだヨ!』くらいなことを、つい力説してしまったのだった。超・しまったッ!
いま思い出しても、そのときの人々の真っ白けな反応には身が縮む。しかもいま現在、この場においても『まったく同じこと』をやらかしているわけで…! 何せ筆者には、『人が聞きたがるようなことを話す』という能力が、ゼロ以下にしかない。えへん!

ああ…。かくて筆者とヒマ犬くんには永遠に、この世には身の置きどころがない。そして≪われわれ≫のごときノラ犬らのことを描いてくれた「らんぽう」という作品、それに対する想いが消えることも、たぶんまたないだろう。

2010/02/25

Hello World - 皆さまへのごあいさつ など

ご来訪の皆さま! ようこそおいでくださいました、ありがとうございます! ほんとうに感謝のいたりです!
と、ごあいさつ申し上げているわたしは(もちろん)当家のホストでございます。こちらではicenervを名のっております。
さてこの2010年2月になってから、わりと更新させていただいておりますが。どうしていまごろのごあいさつか、と申しますと…いやその。ろくにコンテンツのないブログに『まえがき』などを付けるのは、あまりにもおもはゆかったので…!

それはさておき、このブログについて、いくつか。

●このブログ『Witzkrieg boP - ギャグまんが研究』は、≪ギャグまんが≫についての何かであろうとする場所です。それはギャグまんがを愛する皆さまの、よき下僕(しもべ)たるべきものです。
●ここに関して、格別の変わったルールはありません。コメント・リアクション・被リンクなどを歓迎いたします。あとよく分かりませんが、トラックバックやRSSなどもふつうに。
●ここに掲出している堕文には『精神分析』の用語がよく出ていますが、あんまり気にしないでかまいません。別に、その道の制度的な専門家が書いているわけではありません。なのですが、しかしそれなしで≪何か≫を考えることがひじょうに困難…という理由で出ている限りです。

と、ひじょうに万事がかんたんです。おきらくにまいりましょう!

なお、『絶対に』というほど確認できていませんが、しかしギャグまんが全般を専門とするレビューサイトは全世界に当家だけのような感じなので(?)、そこらでぜひがんばっていきたいと存じます。
目ざすはとうぜん、かの孤高すぎる大名著、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」に≪何か≫を付け加えることです。その本が1981年あたりの記述で終わっておられますので、それから約30年間の穴を埋めようとすることです。ただ、わたしにおいては『ジャンル史』よりも『作品論』が、もっぱらの興味の対象でございますけれども。

とは、いやはや! わたしめごときがあまり大きなことを考えてもいけませんが、しかし当面のタスクと考えていることがございます。えーとまず、昨2009年の夏から作りかけで放置しているリストがございまして。それは1989年「伝染るんです。」以降の、わたしが読んでみて『これは』と感じたギャグまんがをリストアップしたものですが…(↓外部リンク)。

 ≪外傷的≫ギャグまんが, 致命的総進撃 (ミラー)

ブラウザが自動的にカウントしてくれるところで、リスト中に作家名が122個。作品数は、もう少し多いです。それは別に『名作づくし』というものでもありませんが、ともあれこれらについて、できるなら少なくとも1つずつの記事を提供していきたいのです。
しかし3日に1本の記事を書いても1年ちょっとで終わるとすれば、よく考えたら大した仕事でもございません、です、が…っ!?

かつ。現在のギャグまんがシーンをどう見るか、ということですが。わたしはそれを、けっこう盛況だと見てよろしいのではないかと存じます。
いや、このあたりから、話は余談になり気味ですが。つまり、ここからちょっと『ギャグまんが論』になり、あわせて『媒体論』にもなりますが。
まず、いかなるまんが誌にも必ず、多少はギャグっぽい作品が掲載されています。まんが誌どころか、ほとんどあらゆる雑誌に、多少は笑いを求めているようなまんがが掲載されています。政治・経済・宗教の専門誌にさえもそれはあるようですが、いまはまんが誌に限って検討することにいたしまして。
そうしてそれは、大いに理由のあることです。

なぜならば非ギャグのまんが作品らがあまりにも『想像』なので、そこにギャグ作品が≪正気≫をさし向けて中和しないと、読者がふつうの精神状態で媒体を離れることができなくなってしまうからです。非ギャグだけでは、バランスよくないのです。
つまり。むかしわたしが1970'sの『りぼん』について申したことだと、狂気と非日常に満ちあふれた一条ゆかり先生の作品に対し、土田よしこ先生のギャグ作品が対峙し拮抗し、それで媒体のバランスがとれていた。…というわけです。
ですから土田先生がその名作「きみどりみどろあおみどろ」や「わたしはしじみ!」で、同じりぼん掲載の「アラベスク」や「デザイナー」に対してひじょうに毒々しいパロディ攻撃をしかけたことを、悪意のしわざとはまったく申せません。むしろそれは、媒体の要請するところでありました。そのときりぼんは、最高レベルの作品同士が激突しあう至高の戦場でありました。真にすぐれた媒体とは、おそらくそうしたものでございましょう。

そうとしまして、その一方。21世紀初頭という現在のまんが出版界について、ともかくも媒体の数がひじょうに増えている、ということは確かそうです。そして媒体の数が増えるということは、ギャグまんがにとってのチャンスも自動的かつ形式的に増える、ということです。『いかなる媒体にも必ず』、それふうなものの存在が要請されますので。
そしてわたしの感じですとじっさいに、この当代にギャグまんがの盛り上がりはある、という気がいたします。めんどうなのでわたしは数えておりませんが(!)、1970's、80's、90's、2000's…と時期を区切ってみて、注目すべきギャグ作品のタイトル数は、たぶん下るにつれて増えているのではないでしょうか? しかし、すごい大物のタイトルが増えている、という気がしない感じもございますが(…このことについては、またいつかふれます)。

かつまた。わたしの申しております≪ギャグまんが≫とはどのようなものか、ということに、多少のご説明が必要やも知れませぬ。
それはまず、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」の史観に従いまして、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)という大ブレイクスルー以降の作品ではございます。ただしその名著は、『なぜそれが大ブレイクスルーなのか?』を、かんたんにひとことで記述してはおられぬようにお見うけいたします。

補足いたしますとその名著は、『ギャグマンガ』なる語を、広義と狭義で意識的かつ自在に使い分けておられるようです。何せ本来まんがとは、『笑い』を主眼にしたポピュラー・アートです。そういうところからして、意図的に笑いがとれていそうな作品らすべてを、広義の『ギャグまんが』と見ることは可能でございましょう。
ですが、「おそ松くん」とそれ以降の流れの中には、そうしたものとは異なる≪ギャグまんが≫のコアが存在する。…と、たぶんそうした見方がその書に潜在するかと、愚考いたしますが。
しかしそのコアとは≪何か≫が、著述中で明示されきってはいないように存じますのです。諸賢は、いかがお考えであられましょうや?

で、そこをわたしめが独自に補完いたしますと、『“外傷”的なものの提示による笑い』という意味での≪ギャグ≫が初めて集中的に描かれた、そのことによって「おそ松くん」の登場は、超画期的なブレイクスルーだったのです。よって狭義の≪ギャグまんが≫とは、『“外傷”的なものの提示による笑い』をクリエイトしている作品です。関連する記事として[こちら]、『小此木啓吾…赤塚不二夫「おそ松くん」…etc.』をご参照あらばさいわいです。
かつ、その「おそ松くん」を『ギャグまんが第1世代の登場』といたしまして、続いた1974年の山上たつひこ「がきデカ」を第2世代、そして1989年の吉田戦車「伝染るんです。」を第3世代の登場と、わたしはその後の時代を区切っております。

ですので、わたしがたまに申しますところの『外傷的ギャグまんが』ということばが自分ではおかしくて、それはリダンダンシー(冗語法、『まっすぐ直進!』)です。しかしその場合、『外傷的』の語にくっついている『ギャグまんが』の語は広義のそれであり、あわせて狭義の≪ギャグまんが≫を示しているのです。
そうして≪ギャグまんが≫というものを研究しているうちにわたしが知ったのは、けっきょく広義の『ギャグまんが』は排除できかねる、ということです。なぜならばコアな≪ギャグまんが≫の中にも、スタイルとして古典的な笑いが、楽勝で並存しうるからでございます。

1つの作例として、前にもわれわれが見ました野中英次「魁!! クロマティ高校」(2000)。それは全体が不良まんがのパロディでありつつ、その中に≪不条理ギャグ≫、古典落語の『与太郎』チックなコント、そしてシチュエーション・コメディや社会風刺やドタバタなどが平気で並存する…と、たいへん複雑なものになっております。
その中にはわれわれの考える≪ギャグまんが≫のコア(=外傷的なものの提示)が存在しますが、しかし「クロ高」をそれだけに徹した作品と述べては、大うそになってしまいます。で、これに限らず、全般にそういう感じなのです。

つまり。狭義の≪ギャグまんが≫を論じようとしても必ず、内在的にも広義の『ギャグまんが』を相手にせざるをえないのです。そもそも古い古い「サザエさん」を見ていてさえ『外傷的なものの提示』がそこになくないですから、潜在的・先駆的にはひじょうにむかしから≪ギャグまんが≫は存在したのです。
ですがゆえ、また。第1世代「おそ松くん」(1962)→第2世代「がきデカ」(1974)→第3世代「伝染るんです。」(1989)…などと申しておりますが、その間に直線的な≪進化≫があったなどとは、とても申せませぬ。それ以前にはまったくなかったものが、それぞれの時点で現れた…とは見ておりませぬ。
それはただ単に、流れの中のエポックとなるような作品で区切っているばかりなのです。ただしその区切りが必要かつ適切なものである、とは考えておりますが。

…おやっ? ほんの手短にごあいさつを、というつもりで始めた堕文が、いつしかたいへんなことになってしまいました!
たいへん失礼をばいたしました、このようなことはこのくらいで。かくのごとくいたらぬものではございますが、どうかひき続き、皆さまにはよろしくお願い申し上げます! ご高覧、まことにありがとうございました!

なお、以上の文章は、ボードレール「悪の華」(1857)の巻頭詩『読者へ』のパロディのような気もいたします。『偽善の読者よ! わが同胞よ!』…という低劣なメイ文句、あれでございます。
かつまた近ごろ≪執事≫という用語が流行り気味でございますので、わたしめをそのくらいの皆さまのしもべとお考えくだされば、実にありがたき倖せとも存じます。ここまでをこういう調子で書いてきましたら、何か自分でそういう気がしてまいりました。
あ、いや…。現実世界でのわたしめのランクからいたしますと、≪執事≫などという呼称はりっぱすぎではございますが…っ!

2010/02/21

野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」 - 米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」について

 
参考リンク:Wikipedia「野中英次」
関連記事:小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

まず、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)について。前に関連記事で述べたこと、それが赤塚不二夫「おそ松くん」を、≪ギャグまんが≫の第1号に認定していることについて。

『基本的には、ギャグマンガの始まりを赤塚不二夫あたりにすることにする』(米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」, 2009, ちくま文庫版, p.18)。

だが。そうは言いながら同書が、第五章での「おそ松くん」の登場(p.143)まで、4つものチャプターをついやしているのがすごい。「バット君」とか「カンラカラ兵衛」とか、いまでは題名が知られるばかりの古い古いまんがの大量なあれこれを扱っているのがすごい。あわや、鳥羽僧正「鳥獣戯画」(12-13世紀, 正しくは作者不詳)だってギャグまんがのはしりでは、とでも言い出さんばかり?(そんなことは書いてありません!)
なんてことを言ってたら思い出したのは、野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」という当代の最新のギャグまんが(2009, KC少年マガジン, 刊行中)。そこに出てくる学校のへんなクラブの部長はまんが家志望で、その平安時代直系の…「鳥獣戯画」の作風を、ご先祖から受け継いでいるという。たぶんそのご先祖というのが、せいぜい3代くらい前のご先祖だろうと推理しているけれど!

そもそも「戦後ギャグマンガ史」にしろ、同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)にしろ、それらの書名に『戦後』という単語は必要なのだろうか? なぜ必要なのだろうか?
まずギャグまんがの元祖が、おそくも1962年の「おそ松くん」であるとして。一方の少女まんがの元祖は、その定義によって倉金良行「あんみつ姫」(1949)か、手塚治虫「リボンの騎士」(1953)か、と見解が分かれるが(…筆者は前者をとりたい気分)。
どうであれ、戦中戦前にはギャグまんがも少女まんがも『なかった』ことは確かだ。すると著者サマは、なぜだか『戦後』ということばが大好きだったのかなあ…と、ここで筆者はへんなことを思うのだった。

ただし。「戦後ギャグマンガ史」の著者が「おそ松くん」以前の古まんがのこっけい部門をチェキってくれているので、われわれは同じところから始める必要がない。「おそ松くん」以降の本格的な≪ギャグまんが≫だけを、見ていてよい。これはほんとうにありがたいことで、まずそのことが筆者をして、それを『大名著』と言わせる。
まあそんなことを言いながら筆者は、昨2009年の夏に長谷川町子「サザエさん」の古いところを読んでいて、ちょっと強く感じるところがあった。なので、それもいつか考察の対象にしたいのだけど。

かつまた。『古い古い』とは言っているが、「サザエさん」や「あんみつ姫」と、「バット君」や「カラ兵衛」とは、同じでない。前2者は後2者とは異なり、こんにちにまで何度も何度もリメイクされ続けている、もろ現役のキャラクターに他ならない(…対して戦前派の「のらくろ」は、やや脱落ぎみ)。
≪ギャグ≫じゃないけど笑いを主眼とした作品として、ものすごい生命力を発揮している「サザエさん」と「あんみつ姫」については、まったくもってわれわれの考察に値しよう。とま、そんなことはともかく。

閑話休題…と言いながら、さいごに自分のぬるい回想談を書いて終わり(!)。筆者は同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)を、刊行から間もないころに足立区の図書館で読んだ。『ほんとうにそうだなあ!』と、その論旨に共感したことを憶えている。それがいまでは、また少し異なる感じ方があるのだが。

ところが「戦後ギャグマンガ史」に関しては、つい最近まで未見だった。そもそも絶賛品切れ中の資料だったわけで、これを発見できたのは、2007年に筆者の勤務地だった葛飾区、その区立図書館でだった。
ついでにそこはまんがの蔵書が豊富だったので、「ときめきトゥナイト」や「セーラームーン」や「天使なんかじゃない」などは、そこで借りて初めて通読した。少女まんがばかりだが、いずこでも図書館のまんが資料は、少女向けが中心だ。

ところが困ったことに、葛飾で所蔵の「戦後ギャグマンガ史」は、いつしか検索端末でヒットしなくなってしまった。たぶん『古い古い』で筆者しか借りないような資料だったので、処分されてしまったかと思っている。
この葛飾の図書館は、三一書房『夢野久作全集』さえも除籍してリサイクル図書に廻してしまってたので、それはありそうだ。そしてその久作全集の「ドグラ・マグラ」(1935)の巻は、いまは筆者の手もとにあるのだが。

で、しばらくは「戦後ギャグマンガ史」を見れなくて困っていたのだが。自分が抜き書きしたその内容以外を、見失っていたのだが。それがご存知のようにちくま文庫版(2009)で再刊されたことは、ほんとうに喜ばしい。
何せ筆者もいろいろと調べたが、『ギャグまんがについてだけ書かれた1冊の本』というものは、何とニッポン国の出版史上に、それ1冊しか存在しないらしいのだ(!)。それがまた筆者をして米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」を、『まったく比類なき大名著』と断言させるのだ!

2010/02/18

小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

この記事は、いったい何なのかというと? まずはギャグまんがを追求しようとするわれわれの必読書、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)という名著が存在し。
そうしてそれに参考文献として紹介されていたのが以下に見る書物、小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」(1980, 創元社)だ。そして読んでみたらじっさい、その著者さまも言われるように『いまだ誰もはっきり論じたことのない』独創的な説があるかと感じたのだった。

そこでその当該のチャプター『笑い』(p.5-16)の要旨を、節ごとに抜き書きしたのが、追って掲示されるサマリーだ。ところでそれを見ていただく前に、筆者の注目点を書いておかねばなるまい。さもないと、要約の意味が通じないかも知れない、とおそれるので。

すなわち自分の考えとして、人間の『笑い』というものは、単にゆかいだから笑う、というものではない。『笑いは常に、どこか悪魔的である』とするボードレールの批評「笑いの本質について」(1855)、それを下敷きとすれば、次のように言える。
たとえば≪ハイジ≫のように純朴な田園の少女がいたとする。すると彼女は、ゆかいだから、という笑いしか知らないかも知れない。それをいま≪天使の笑い≫、とでも言っておく。空が青いから彼女は笑い、小川の水がきれいだから彼女は笑う。たぶん≪天使の笑い≫とは、そのようなものだろう。
ところが彼女が薄汚れた都会に出て、その雑踏の中でもまれるような暮らしをしたとする。そうすると彼女はやがて、われわれのよく知っている黒い笑い、『悪魔的な笑い』を知って身につけてしまうだろう。
そしてその悪魔的な笑いとは、差別・軽蔑・愚鈍・無知・偏見・無分別・暴力・死・狂気・セックス・未熟・貧困・スカトロ・グロテスク・剥奪・喪失…といった、ふつうはまったく『ゆかい』でなさそうな事項にかかわるもの。すなわち、われわれのよく知る≪ギャグ≫の作用だ。

では、なぜ≪天使≫ならざるわれわれは、まったくゆかいでなさそうなことらを≪ギャグ≫として笑うのか、笑えるのか? ここに問題がある、と見つつ。
そうして筆者の考えを言ってしまえば、人はゆかいでないことをも笑うことで、びみょうにもそれがゆかいかのように錯覚するのだ。それによって『受容可能なもの』として、その不ゆかいな事項らを再認するのだ。それを一種の『精神の健康法』として、われわれは実践しているのだ。

それはどういうことかというと。まず、どういうところから出たものであっても、人間にとっての『笑い(緊張の解消)』は≪快≫だ。むしろ『まず』笑ってみれば緊張が解消され、そしてそこに一定量の≪快≫が生ずる、とさえ言えるものだ。そしていろいろな意味での過剰で『おかしい』ものに触れたときに笑ってみせるということは、『なるたけ緊張を低めよう』という≪快感原則≫の適用結果なのだ。俗な用語で、『ストレスの発散』と言ってもよい。
ゆえにわれらのハイジっぽい少女は、ハードな環境の中で自分が傷つかないために『悪魔的な笑い』を憶えるのだ。『悪魔的な笑い』とは、まったくよくないものや状況を見ながら『こんなのは、まだまだ最悪じゃないね!』と言ってみるような強がりだ。
きわまったところでは、焼死体を見て『火葬の手間がはぶけたな』と言うような≪ユーモア≫、『黒いユーモア』! そしてそんなことを言っている人間が、必ずしも心を痛めていないとは限らない。

かつ人間にとって、『ゆかいでないこと』のきわまりを≪外傷(トラウマ)≫と言う。こんにちの一般的な用法だと『トラウマ』の語は、大災害で被災したとか、ハイジャックの人質になったとか、そんな極限的な体験(の印象)を言うようだが。『それもそう』なのだが、この語をさいしょに言い出した精神分析の用法は、ちと異なる。
もっと一般的な、誰にでも必ずあるものとしての≪外傷≫に、われわれは注目しているのだ。いちばんきょくたんなことを申せば、『なぜに自分は女性(もしくは男性)なのか?』というところに、もっとも根深い≪外傷≫が普遍的にある。
(補足。フロイトの研究過程で、最初期の「ヒステリー研究」では、ストレートな性的外傷が病因論の中心だった。それがだんだん変わっていき、最晩年の論考では≪去勢≫にかかわる外傷こそ、人間の終生克服しえぬコンプレックスだ、と言われた)

そうして、表現としての『笑い』の追求ということが深まっていったときに、その≪外傷≫というものをつつくような笑いが現れたのは、『逆の』必然とも言えよう。『本来は笑えないようなネタを用いて笑わせる』、そういうものを≪ギャグ≫だとすれば、それの進歩の方向性は『ゆかいでないことのきわまり』をネタにすることだろう。

そして、ここで問おう。米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」の論旨もそうなのだが、かの赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)が『ギャグまんがの第1号』と見られる、その理由は≪何≫だろうか? かつ、まんがなんて本来こっけいを描くものなのに、そこへことさら『ギャグまんが』という言い方が出てきたのはなぜなのか?
それは、わざわざ≪外傷≫をえぐるものとしての≪ギャグ≫が、その「おそ松くん」という作品によって初めて集中的に、まんがへと描かれたからだ。

別のところでやや詳細に「おそ松くん」は検討したいのだが、いま言えることとして。それは単なるドタバタであるばかりでなく、かのイヤミ氏の『シェー!』という≪ギャグ≫の発明によって、≪ギャグまんが≫と呼べるものになりえたのだった。
では、『シェー!』とは、何か? それは、人間のオーガズムを婉曲に示唆するジェスチャーに他ならぬ。それは『逝くゥ~ッ!』という絶頂の叫びの婉曲な言い方をともなって、オーガズムの硬直とけいれんが模擬されている≪行為≫なのだ。
…またそれを追って1970'sには、黒鉄ヒロシによる『アヘーッ!』、どおくまんによる『ガビビィ~ン!』などの同じ線を追う≪ギャグ≫が登場し、それぞれ社会にインパクトを与えている。特に前者は、『シェー!』が婉曲に表現していたものを、もろストレートに表現している。かつ、これらに類する瞬時の1発ギャグの多くが、突発的なオーガズムの現前『である』ものと見られる。

そうして筆者の意見だと。述べたように「おそ松くん」をギャグまんがの第1世代として、以下に山上たつひこ「がきデカ」(1974)が第2世代、そして吉田戦車「伝染るんです。」(1989)が第3世代…として続くのだが。
そしてその流れをたんじゅんに、『進化である』などとは申さないが。しかしその間に、『ことさらに≪外傷≫をえぐっていく』という≪ギャグ≫の方法論に深まりが生じていそうなことは、おそらく見てとれるだろう。その流れの中で、≪外傷≫的な題材らの取り扱い方に、『婉曲→露骨→また婉曲』という行ったり来たりがありながら。

そしてそのきわまりとして出ているのが、『第3世代』の最大の武器である≪不条理ギャグ≫という方法だ。それはどういうものかというと、われわれの用語で言う≪シニフィアン=意味不明だが意味ありげな記号≫が提示され、それが見ているわれわれの≪外傷≫をえぐり返していく、という方向性だ。
ここでわれわれは、不条理ギャグの意味不明さは、≪シニフィアン≫の意味不明さとイコールだ、と言ってもよい。かつ、不条理ギャグがみょうに意味ありげなのは、≪シニフィアン≫が意味ありげなこととイコール、でもありつつ。

『(精神分析において)本質的なのは(、意味のある解釈よりも)、主体が、そのような意味作用の彼方で、どのようなシニフィアン――“ノン・センス”な、“還元不可能”な、“外傷”的なシニフィアン――に、自分が主体として従属しているか、を知ることである』
(by ジャック・ラカン, 「セミネールXI 精神分析の四基本概念」より)

そしてわれわれは≪ギャグ≫が≪外傷≫をえぐり返してくれる痛みに耐えかねて、そのショックを突発的な呼吸器や腹筋のけいれん(=爆笑)、という肉体の反応として受け流し、そして受けとったものを≪無意識≫に向かってスルーする(=抑圧)。≪外傷≫自体が『必ず抑圧されているもの』なので、その≪外傷≫についての≪知≫もまた、抑圧されねばならない。
かつ、そこで受けとられながらスルーされ抑圧されたものとは、≪真理≫に他ならない。≪真理≫が大げさに聞こえるなら、フロイトが「機知」(1905)に書いている『無意味の意味』に他ならない。人は単なるまったくのナンセンスを笑ったりはせず、それがひそやかに『無意味の意味』を発揮している限りで、それを≪ギャグ≫と受けとめる。
(精神分析の追求の対象としての≪真理≫、という概念が存在する。それとカッコなしの真理とは、いちおう別ものではあろうけど、しかしまったく無関係とは思われぬ)

ところで現在≪不条理ギャグ≫といえば、吉田戦車が開発した方法かのような見方がなされなくもないが(?)。さもなくば、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)が元祖かとも見られそうだが。しかし大方はご存じのように、それは遅くともLate 1960'sには用語も方法も出ていたもので、それ自体はまったく新しくない。
けれども、そんな方法をもって社会に大なるインパクトを与えた作品としては、吉田戦車「伝染るんです。」が第1号だ。そしてその方法は、今21世紀初頭のもっともポピュラーなギャグまんが、すなわち「ピューと吹く! ジャガー」や「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」らにも流れ込んでいる。
そこらを見て筆者は、吉田戦車「伝染るんです。」という作品の登場を、『ギャグまんが第3世代』の誕生と呼ぶのだ。何せまんがは『ポピュラー・アート』の一種だと考えられるので、筆者の見方もそれなりに『ポピュラリティ重視』としている。
(付言して。思想界の用語、実存主義の用語としての不条理と≪不条理ギャグ≫の不条理とは、その意味が同じでない。これについては、別稿で語られるはず)

ッとぉ…! しまった、こんなに長い前説を書くつもりはなかったのに…!

で、まあ。以上のような筆者による『ギャグまんが論』の裏づけの1つとして、以下に小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」のサマリー(記・2009/04/19)をご紹介したい、というわけなのだった。ではどうぞ。

≪小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」, 『笑い』より要約≫

1.【<笑い>は、おかしさの生理心理的な感情表出】
 仮説:笑いの源泉とは、人間らの生与の≪くすぐられ快感 - 笑い反射≫である。

2.【微笑と笑い】
 人々が『笑い』と呼ぶものに、2種類あるかと考えられる。
 i. Smile=『微笑』。これは、心的な緊張が解消された後の心理状態の表出とみられる。(=≪快楽≫的なもの)
 ii. Laughter=いわゆる『笑い』。アハハ、キャッキャ…のような笑い声、および肉体の軽いけいれん等をともなう、激しくも一過性の感情表出。これは何かといって、『内面に起こったはげしい心的な緊張の解消作用そのもの』かと見ゆる。(=≪享楽≫的なもの)
 そして以下では、後者の『笑い Laughter』にしぼって論考を進める。

3.【笑いのナルシシズム(自己愛)】
 笑いのベースには、笑う者のナルシシズムが必ずある。

4.【笑いの緩和作用】
 笑いの心理作用として注目すべきは、『何らかの心的緊張が高まる際に、その緊張を和らげ、時には笑い飛ばしてしまう』。
 そのような『笑い』の緊張解消・弛緩作用には、さまざまな衝動や感情の高まりを笑いへと転換し、人々を再度セルフ・コントロールさせ直す…という機能が(社会的に)期待されている。『笑いは、有用な自我の緩衝作用』。

5.【笑いと“くすぐり・くすぐられ”反応】
 笑いには、性的な興奮を中和したり遮断する効果がある。しかし一方で『笑具・笑い絵・笑女(・売笑)』…というように、笑いが性交を意味する場合もある。どういうことか?
 まず、『≪くすぐり - 笑い≫という刺戟反応ほど≪性的刺戟・興奮-オルガスム≫という性的な反応に類似した現象はほかにない』。よって前者の過程がすでに『あまりにも性的であって』、場合によっては容易に『性感的なものに発展してゆく可能性をもつという意味で、性的なものときわめて親密である』。
 たとえば男性が女性をくすぐるという状況を想定すると、『もし、男女間に性愛関係が肯定されているならば』、くすぐりの快感はそくざに、その女性の性愛的な興奮へと結びついてゆく…かと考えられる。だがしかし、もしも女性があくまでもケタケタと笑い続けるだけだったならば、性的興奮は盛り上がらない。
 後者の場合に、女性がやっていることは何か? 彼女はくすぐられる快感を、性器的な興奮の高まりへと結びつけず、『性器以前』的な性的興奮として表出し、それですましている(ふつうならば性的に興奮させられそうな刺激を、性的でなさげな興奮へと流し込んで処理している)。かつこれによって彼女は≪自我≫の機能とナルシシズムを維持し続け、そしてことに対する能動性を失わずにすんでいる。かくて、『笑いによるセルフ・コントロール』が成功している。

6.【おわりに】
 未検討の話題が3つ列挙されているが、さいごの≪諸感情の表出手段としての笑い≫のパラグラフを引用しておく。
 『笑いは、快感を伴い、しかも攻撃性、性欲いずれの衝動をも直接なまなましく発揮しない。むしろ、笑いはそれらの緩衝作用を営む。笑いは互いに共有されやすく、社会化された形での感情表出手段である。これらの心理的諸機能をもつために、笑いは社会生活におけるおかしさ以外のさまざまな感情(悲しみ、怒り、照れ…)のもっとも一般的で、もっとも適応的な感情表出手段になる』

以上、要約の終わり。

なお同じ本のさいごの方で、こんどはフロイト「機知」の主張を(いちおう)ふまえつつ、再び『笑い』が検討されている(p.189)。が、そっちの論考にはいまいちキレがない。

2010/02/17

野中英次「魁!! クロマティ高校」 - 『コワい顔』と笑いの関係・試論

 
参考リンク:Wikipedia「魁!! クロマティ高校」

略称「クロ高」こと今作は、万人が知っている大ヒット作なはずだが(KC少年マガジン, 全17巻)、意外と語りにくいものがある。どういうところで笑いをとってる作品かと考えれば、『コワい顔』という要素が見逃せない。

ばくぜんと見ていれば、今作の画面はバイオレンス劇画そのものかのようであり、そこに不良たちの『コワい顔』が、しこたま描かれている。で、その方々が落語チックなこっけいを演ずるにしろ、≪不条理≫なるものに直面して当惑するにしろ、われわれがそれを笑えるのは、『コワい顔』という要素とそれらとの対比効果による(…のでは?)。

その典型的な場面…といえそうなものを捜すのが意外にたいへんだったが、たとえば第3巻のp.30の2コマ目。おでこに青スジ立てたド不良5人サマの顔が描かれているのだが。
そこだけを見たなら、単なるコワい不良劇画の1コマだ。けれどもそれは、『日本番長選手権』の第1回戦が○×クイズだと聞いて(!)、かれらが当惑している姿を描いたものなのだった。

≪ギャグまんが≫を語っているわれわれにとって、ギャグっぽい絵で描かれたとしたら、ちっとも面白くない(=劇画っぽく描かれてるので笑える)、そんな作品があることはややふしぎだが、しかしこれがそうなのだ。で、そもそも『コワぃ顔』を見てヒトが笑う、ということ自体がふしぎかのようだが…。
しかし筆者の臆見によれば、もともとの性格として、『コワい顔』には、人の笑いを引き出す要素がある。

じっさいにわれわれのようなよい子たちや善良な市民らが、不良・ヤクザ・チンピラのような方々に囲まれたりカラまれたりしてるさい、その顔がふかしぎなニヤつきを示す…というコトがある。またはその反対っぽい例で、教師や上司らのお説教を喰らってるときにも、そのような笑いが出る。それが連中の気にさわるのだが、むろんわれわれはそんな時に、笑おうと思って笑っているのではない。

この笑いを分析することはむずかしいが、ひとまず次のように見れるのでは? 目の前の危機を過小評価(もしくは無視)したいという≪無意識≫の願望の効果により、意図せずして顔の筋肉がゆるむのだ、と。われわれの申す≪快感原則≫やら何やらの主張により、人は過度の緊張に長時間は耐ええないからだ。
つまり、交通事故のようなとっさの危機に直面したとき、人の顔はおそらくユルんでいないはずだが。しかし、E.A.ポー「陥穽と振り子」に描かれた振り子式死刑台のようなジワジワと迫ってくる危機やキョーフにさらされたとき、しまいには意外と人の顔はユルんでしまうのでは?…と見るのだ。
で、その笑いは、状況に対して主体が肉体的には屈服しているが、しかし精神的には屈服していない…ということをいったんは示しつつ。つまり内心の虚勢が、ついつい顔に出ちゃっているものでありつつ。

そういえばギャグに限らずまんが作品には、あんまりな恐怖やショックに直面した人が逆にゲハゲハと笑い出し、それきり≪狂気≫におちいってしまう…という場面がよくある。ほんとうにそんな症例があるのか、ということは知らないが、にしてもわれわれはその描写に、あるていどの説得力を感じている。
つまり過度の連続した緊張に耐ええない精神が、目の前のキョーフを過小評価(または無視)するための笑い、というものがあったとして。そしてその機制が固定されてしまえば、その主体には≪現実吟味≫が不可能となる(≪現実原則≫の停止)。気の毒なことだが、≪快感原則≫が暴走したような状態になる。そうした状態を1つの≪狂気≫としてありうるものと、われわれは考えているのだ。
(ご説明。快感原則、または快楽原則と呼ばれるフロイトの概念は、できるかぎり安楽平静でいたい、という心の傾向をさす。その一方のエキサイティングなお愉しみについて、精神分析は、≪快楽 pleasure≫ではなく≪享楽 enjoyment≫という用語をあてている)

で、ここにおいて、むかしから言われる『恐怖-と-笑い』の親近性の理由が、1つ説明されている。ボードレールの引用した格言に『<賢者>はおののきながらでなければ笑わない』と言うが、賢者ならざる常人においては、『≪おののき≫を笑いにすり換える』という機制が一般的にあるわけだ。
それは危機的状況に対して主体が、勝っているのか負けているのか、その判断を自主的にぼやかす機制に他ならない。このような笑いのきわまったところに、1つの≪狂気≫が生じる。
客観的には状況に対して屈服している人間が、心の中では『たかがこんなこと』…と考え(たがっ)ている。『目の前の危機を(だんこ、意地でも)過小評価し、または無視し続ける』という場面で発現してるものは、人の強さなのか弱さなのか…ということが分からない。かつ問題になっている主体においては、それをやりたくないからこそ≪現実吟味≫がなされない、ということをきっぱり見ておこう。
ただはっきりしていることは、どのようなところから出たものであっても『笑い(=緊張のゆるみ)』は、主体に対してびみょうにも快感をもたらす。この事実だ。

あまり関係ないようなことも言い出せば、19世紀前半のイタリアロマン派オペラには、『ヒロインの狂乱場面をウリにする』という趣向があった。どういうものかというと、演劇の例だがシェイクスピア「ハムレット」の≪オフェーリア≫の錯乱…あんなような場面が大の魅せ場だったのだ。
で、だいたいのところその≪狂乱のヒロイン≫たちは(オフェーリアと同様)、幼児的になりながらエッチっぽいことを口走る。
それを見て当時もいまも、オペラ劇場の観客たちは、薄倖のヒロインへの無償の同情と、プラス性的な興奮を同時にエンジョイするのだ。かつまた追っての19世紀末、仏の精神科医シャルコーがヒステリーの女性たちを魅せものにして社会的な評判を呼んだのは、それとりっぱにシンクロしていることだ。

で、そのようなわれらの≪狂乱のヒロイン≫たちは、単なるおバカさんになっているのでは、決してない! そこでは≪現実吟味≫の放棄(狂気)が、主体における決定的な≪外傷≫の発生現場へと、主体を永遠(とわ)に縛りつけている。この女性たちの場合には、幼時と近時のエッチな事件らがそこに現前し続け、そして見る者はそこにきざす≪真理≫をおぼろにも感じ、それへと心を撃たれるのだ。

また、それこれと考えていれば、緊張のあるべき場面で笑っているということは、部分的にもその緊張を解いてるということで。そしておなじみ「ジョジョの奇妙な冒険」を見ていると、一般に悪役らの方が妙に上きげんでケンカの最中によく笑い、そして負ける。
悪者らがヘラヘラしているのは、よゆうを見せて精神的優位に立つためのパフォーマンスでもありつつ。しかし結果はいつも、闘いに対してシリアスにのぞんでる善玉らが勝つ。

これはいままでのことを、逆に見ているのだ。むげなる『楽勝』の確信が、実は意外と精神的な逃避に他ならない(…緊張からの逃避, ≪快感原則≫の暴走)。そして勝利の結果として得られるべき『笑い=緊張のゆるみ=快感』を、独りがってに先取りしちゃった者は、逆に敗北に近づく。
すると、どうりでだ…。常に目の前の状況らを≪ギャグまんが≫の一片としか想えぬ筆者が社会を嘲笑しつつ、社会のりっぱな負け犬になり下がっていることが。なんて、だんだんと話が「クロ高」とは関係なさすぎてきたが。

ところで、ギャグまんがに対しての『劇画の画風』の導入ということについては、米沢嘉博氏の大名著「戦後ギャグマンガ史」(1982)にも指摘がある。そのお説によると、それをさいしょにやったのが「がきデカ」という作品の、わりと見えざる功績らしい(…筆者の臆見によれば、それ以前に「ハレンチ学園」の貢献が、死ぬほど見逃せない。しかし米沢氏の論調は「ハレンチ学園」に対し、ふしぎと全般的に否定的)。

そこで考えたら。さっき「ジョジョ」の題名が出てきたが、それについて筆者はひじょうに浅い、まったくさいきんからの愛読者であることを白状しつつ。そして「ジョジョ」についての最古の想い出というと、掲載誌に第3部が載っていたころ、ジョゼフかポルナレフが敵にいっぱい喰わされているこっけいな場面を見たような?
ゆえに筆者はそれから長い間、『まさに“奇妙”な作品、ギャグなのか劇画なのか分からない』…と、「ジョジョ」について考えていた。そしてその『ギャグなのか? 劇画なのか?』という境界がかき乱されている地点で、今作「クロ高」と「ジョジョ」とが出遭い(そこね)を演じている。
だいたい劇画の中のギャグ要素なんて、劇画の中にあるから『こそ』笑えるというものだ。今作「魁!! クロマティ高校」が題名の一部を借りている「魁!! 男塾」の脇役が、ここ一番の場面で放屁をかます、あれのように。そして「クロ高」はその効果を『逆に』、ギャグまんがのサイドから活用しているのだ。

そうして今作「クロ高」は、『劇画チックなギャグまんが』というサブジャンルにおける1コの革新を達成した作である…とまでは、少なくとも言えそう。しかし筆者がそれを愛するのは、毎回のサブタイトルが、たいてい古ぅ~い洋楽ロックの曲名になっている…そんなところへの共感、とかいう理由もある。これがまた、「ジョジョ」にひかれる理由の1つと同じだ。

筆者にはよく分からないことだが、「ジョジョ」シリーズの愛読者さま方は、≪クレイジー・ダイヤモンド≫や≪エコーズ≫が、もとはピンク・フロイドだということをご存じなのだろうか? かと思うと今作「クロ高」にも『Final Cut』とか『Show Must Go On』などという題名のエピソードがあり、この21世紀の初頭にピンク・フロイドはどうなのかと、筆者は遠~くに想いをはせるのだった。
まあ、われわれはギャグまんがを通じて≪狂気≫というものを考察しているので、そこでどうしてもフロイドの話が出そうな気もしつつ(…ピンク・フロイドの代表作"Dark Side of the Moon"の邦題が、「狂気」)。

かつ、「クロ高」のさいごのエピソードのサブタイトルが『The End』なのだが。いわば、『そのまんま』なのだが。しかしその内容とザ・ドアーズの唄との関係がなさすぎで、それこそりっぱな≪ギャグ≫だ、と考えざるをえない。
というところではっきり申せば、今シリーズ「クロ高」のさいごの方はけっこう低調だと思っていたが、しかしそこでぴたりと帳尻が合ったかも…という感じを受けたのだった。

【付記】 以上の堕文もまた、2009年の夏に書いていたものの再利用。しかしどういうわけなのか、このブログの記事には、ザ・ドアーズの名曲「ジ・エンド」、というネタが出すぎている。もちろん、わざとではないはずだがっ。