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2010/10/20

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - カフカ「掟の門」 と スカトロギャグまんが

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第2巻 
関連記事:ラベル「フルパワーMONKEY」

関連する記事で今作「フルパワーMONKEY」について、『まるで東欧文学のカフカやブルーノ・シュルツのようなふんいき、“孤立感”』ということを述べた(*)。
…が、とうとつな感じを与えていたかも知れない。カフカやシュルツのお文学と、フルモンのようなスカトロおげれつギャグまんがと、何の関係があんのバカじゃねえ?と、思われていないとも限らない(涙)。

1. あっちに『掟の門』、こっちに『暗号』

…カフカによるごく短い小説、もしくは寓話で、「掟の門」(1914)という作品がある。調べていたら『KAI-SAI ART』というブログにうまい要約があったので、まずそれを引用いたす(*)。

ここ(掟の前)にやってきたある男が、この門を通ろうと門番に掛け合うのだが、どうあがいても通してくれない。
何を言っても「今はだめだ」という。

だが門番は無理やり入ることを禁止してはいない。
とはいえ門番は屈強で、自分の後ろにはさらに強靭な門番が控えていることをほのめかす。
その脅しに男は怯えきって通ることができない。

「今は」という言葉に男は光明を感じ、いつとも知れない通行の許可を待ち続ける。

歳月は流れ、男の寿命は尽きかけていた。
その時門番は言った。

「他の誰ひとり、ここには入れない。
この門は、おまえひとりのためのものだった。
さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

次に、それに対する「フルパワーMONKEY」から、ひとつの作例を見てみよう。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『暗号』(第2巻, p.107) ―――
【野球帽の少年】(公衆トイレのドアを叩き、)早く出てくださーい
【中からなぞの声】 暗号を言いなさい
【少年】 (びっくりし、泣きながら、)暗号なんて 知らないよー!!
【声】 暗号が ちがいます
【少年】 (ついにお尻のあたりがこんもり、号泣して、)もれた――っ
【声】 (ギイイ、とドアを開けて、)OKです

トイレに入ろうとする人が、『もれた!』と叫ぶまで、トイレのドアが開かない。これがナンセンスであり、おかしい。何のためのトイレの存在か、わからない。
ただし、これをおかしいと感じて笑っている人々が、その背すじに感じている冷たいもの、ということも見ておきたい。それは、取り返しのつかない『事後』になってからでないと動かない機構が、この世にはすごいいっぱいある、という抑圧された認識だ。

それに対する、カフカの「掟の門」。これはずいぶん多様な解釈を許容しそうなお話だけど、いま見て筆者が感じたのは、『“誰も”が合法でなければならないが、合法たりえず』というところ。ドイツ語の原題(Vor dem Gesetz)を直訳すれば「掟の前で」なので、これはまず何よりも『掟』についてのお話だ、と受けとらないわけにはいかない。
そして掟の門は、入れば入れる門なのかもしれない。だがしかし、番人が『入れられぬ』と言っているところを通って、それで合法かと言ったらおかしい。

ただし、その門を実力行使で通り抜けて≪掟≫へといたる、という行き方も確かにある。オキテの起源には暴力による権力掌握があり、オキテの守護者は暴力を(特権的に)行使する。合法の根拠に何か必ず非合法くさいものがあり、秩序の背後には必ず暴力の装置がある。
(フロイト-ラカン的なりくつとして、“すべての”者が何とかをすべからず、といったオキテの立て方は、必ず例外者を言外に想定しているものらしい)

現にあるようなノーマルっぽい秩序は、いわゆる『自然状態』の暴力が横行している状況とも異なりながら、かといって“誰も”が許されているフェアな世界でもない。ここを甘く考えてはいけない。

太平洋戦争の後の、BC級戦犯の悲劇、といったことがいまも話題になるが、それはこういうことでもあろう。好きで兵役に応じた人間がそうはいたものとも思えず、応じなければ『非合法』、だから応じたものとして。
ところが暴力の応酬の結果、負けた側の行為がまるごと非合法だったような話になる。合法性を求めて行動した者が、非合法として裁かれる。これがまさしく、≪カフカ的状況≫というものだ。

だから、非合法だゾ、と言われて裁かれそうな人間は、いっそ自分の≪王国≫を作ってしまうといいかもしれぬ。自らが、≪掟≫になっちゃえばいいのでは? ただしカフカにしろ亜太川ふみひろ先生にしろ、そんな度胸などのない≪われわれ≫のことを描いているのだ。
ラカンが好んでおしゃべりに持ち出した、『奴隷と主人の弁証法』、というヘーゲルのたとえ話がある。それをここに応用すると、門番とケンカしてでも掟の門を通ってやる、という人間が≪主人≫になりうるもので、おとなしく許可を待っているようなわれわれは≪奴隷≫、ということらしい。

2. あっちに『掟の門』、こっちに『国境』

ここでフルモンの同じ巻から、ちょっと似たようなお話も見ておくと。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『国境』(第2巻, p.74) ―――
【青年】(モノローグで、)オレは今 無断で国境を 越えようと… んっ
【なぞのマシーン】 (アームの先の光線銃をつきつけ、)入国許可証ヲ 見セナサイ
【青年】 あっ…ないです…
【マシーン】 国境ヲ 越エルト 射殺デス
【青年】 そ…そんな…(個室内に存在する、不可侵の国境。その向こうのトイレットペーパーに手が出せないので、便器に腰掛けたまま、青年は頭を抱えて苦悩!)

≪侵犯≫を、しなければいいとは分かっているのだが、しかしそれをしなければ身動きも取れない。ここまでを見てくると、分かってくることは…。同じく不条理な状況、大ジレンマを描いている作品らでありながら…。
一方のカフカ「掟の門」は、『“掟の門”に入ろうとして』という高尚なところからお話が始まっているけれど、また一方のフルモンは、人間の超低レベルな欲求充足のところから、お話が始まっている。それらの特徴が、ストレートに、作品らの印象につながっていよう。

けれどもカフカ作品について、そこに高尚さばかりを見るような読みは、はっきり言ったら間違っている。この「掟の門」にしてもそうで、その全訳はネットでも読めるので、それをご参照ありたし(*)。
掟の門の前で待ちくたびれた男は、だんだんへんになって、自分についているノミに門番の懐柔を頼む(!)、そんな心境にまでおちいるのだ。こういう細部に出ているナンセンスやユーモアこそを、ぜひ味わいたい。

――― 演劇「アメリカ」の演出家・松本修氏の談話から(*)―――
カフカの読者から、僕のやった舞台には「カフカにはないユーモアと、性的なものを付け加えた」と言われましたが、違うと思います。もともとカフカの中に性的なイメージやユーモアがたくさん書き込まれている。
日本でのカフカの読まれ方では、そこが重要視されていなかったかもしれませんが、演劇的にはそこがとても面白いと思いました。若い頃に『城』を読んで面白く思えなかったのはそこが読み取れなくて、観念的に受け止めていたからだというのがわかりました。

――― 第20回東京国際映画祭(2007), 山村浩二監督らの質疑応答から (*)―――
【山村浩二】 カフカを知らない人は世界中にいないですが、ちょっと難しいととらえられがちです。原作の中にエンターテインメント性を見出し、僕はユーモアとしてこの映画(短編アニメーション「カフカ 田舎医者」)をとらえている。もちろんブラックなユーモアの部分は強いんですけど。
【池内紀】 カフカは作品を読み聞かせるのが好きでした。「変身」を友人の前で音読んだ時は、自分でもおかしくて笑ってしまい「真面目に読め」と注意されたこともあったそう。カフカの文章は非常に明晰で、おかしみがあり朗読に適しています。
(註・『音読んだ』は、原文通り)

まさにしかり、『超禿同』というところ。そしてここでは(ブラック・)ユーモアと言われているけれど、しかし『ユーモアとは感情の節約である』というフロイト様の定義からはみだす部分が明らかにあり、それをわれわれは≪不条理ギャグ≫と呼びたいわけだ。

3. あっちの人は≪掟≫を求め、こっちの人はトイレを求め

そしてフルモンの場合、まったくあたりまえなことを遂行しようとして≪われわれ≫は、不可解なオキテとの直面によってつまづく。トイレ関係のトラブルは、たいがいの人が夜の夢にもみていることで、すなわち“誰も”がそこらに≪外傷≫をもつ。
そしてフルモンの場合、そこ(トイレ)は必ず理不尽なオキテや不条理なシステムのあるところであり、人が不可避に試みを受けるところであって、しかもその試みをうまく乗り切るものがいない。≪田舎医者≫がわが家に帰りつけず、≪ヨーゼフ・K≫は告訴されて弁明の機会も得られず、≪測量技師K≫は城にまでたどりつけない…それらのことに似て。

「掟の門」のヒーローは衰弱死の間ぎわ、『誰もが掟を求めているのに…』と言う。それと同様、トイレを必要としない人はいない。これを『同様』、と言い切るのもなんだが。
そして、「掟の門」に登場したのはヒーロー専用の門だったそうだが、フルモンに頻出するトイレらにもそういう性質がありげ。つまり、同じなんぎなトイレで、いろいろな人がリアクションをきそうような展開にはならないのだ。それらは、誰であれそこに出た人物への、それぞれ専用の試みの提示という感じなのだ。

ただし、誰もが失敗するのだから、その試みの個別性ということに何の意味があるのやら? 個別的には違いないのだが、しかし『個性』ということは問題になっていないわけだ。
それは「掟の門」のヒーローが、特に誰ということもない男なのと同じで。ここいらは、人間らの『個性』などシカトしきってやまないラカンのりくつに通じる感じもある。

ところでなんだが、≪掟≫の前でのつまづきを演じまくるカフカ作品とフルモンの人物らは、いちように男性だ。これはおそらく、偶然ではなく意味があることだ。
どうしてかって、スラヴォイ・ジジェクがいろいろな本でのカフカ論で書いているように、女性の場合は≪掟≫とのかかわり方が、また違うからだ。きわだったものとしてはジジェク「斜めから見る」(訳・鈴木晶, 1995, 青土社)の、『カフカ「審判」論』チックなチャプターをご参照。

4. あっちに「流刑地にて」の処刑マシーン、こっちには?

当初の意図ではもっと短く、さいしょの2つの引用を並べて『ほら?』というだけの記事にしたかったのに。それがもうずいぶん長いので、今回はこのくらいで。
何しろ『カフカ vs.フルモン』というお話は、へいきで無限にも続けられるものなので、どこかできりをつけなければならない。さ~て次回のフルモン記事は、フルモン vs.カフカ「流刑地にて」、というお話になる予定かも?

2010/10/08

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - 牛を殺し、角を矯める

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第1巻 
関連記事:ラベル「フルパワーMONKEY」

前記事(*)のフォローアップでイカしばし、公式略称「フルモン」こと「フルパワーMONKEY」の話でもしようじゃなイカ?

さてオムニバス作品の「フルモン」だが、それを代表するキャラクターは一般的に、≪インパラ君≫だと言われている。何せ全7巻すべてのカバーに出ているのは彼だけなので、文句なくそうかと思っておいて(…ただし、第3巻での出番は表4の位置)。
で、そのインパラ君とは、どういうキャラクターなのか? 第1巻の口絵にその紹介が出ているので、それを引用しておくと。

 ――― 登場人物紹介 ≪インパラ君≫ (第1巻, p.2) ―――
偶蹄目ウシ科に属し、アフリカの中部から南部にかけて分布しています。すぐれたジャンプ力と雄だけに見られる立派なつのが自慢ですが、肉食獣のえさになるために生まれてきたようなものだともいわれています。また、要領が悪いので、悪意はないのに無闇に自慢のつので他の動物を傷つけてしまう癖があるようです。

…『人物紹介』というふれこみの文章なのに、動物図鑑の説明みたいなことが書かれている。そしてその後半の話が、どこまで(一般的な)ほんとうかは分からない。
そしてこの紹介文の上に描かれたインパラ君は、さっそく肉食獣のエサになってしまったらしく、地面の上に横たわり、頭だけ残してさっぱりとがい骨になっている(!)。そしてぜんぜん何の意味もなく、その2本の角だけが、みょうにりっぱに中空へと向かってそそり立っているのだった。

で、偶蹄目という説明を聞いた後だと、そのインパラ君の手先の骨格がおかしいようだが、まあそれはいい。そもそもインパラ君のふだんの絵姿が、手先は人間と同様の5本指になっているので。
にしても主人公っぽいキャラクターが、いきなり口絵で喰い殺されている。これが「フルモン」という作品だ。以後もまったくその登場人物らには、ろくなことが起こりはしない。この特徴を、またちょっと『カフカ的』とも見ておいて。

では、そのインパラ君が『活躍』する最初期のエピソードでもご紹介してみよう。

【1】 学校の教室にて、学生のインパラ君。『起立!』でイスから立ち上がり、『礼!』で頭を下げたら、机の天板に角が『ズボ』とささってしまう。そして『着席!』で、ささった机が持ち上がり、その勢いで首ごと後ろへもっていかれて『グキッ』! さいごのコマでインパラ君は、首にぎちぎちとホータイを巻かれて病院のベッドの上(第1巻, p.4)。
【2】 バレーボールの試合中のインパラ君。敵のアタックをレシーブすべく跳んだら、反対側から跳んできたネコ君の頭に角がグサッ! それで手錠をかけられ、パトカーでしょっぴかれてしまう(同, p.9)。
【3】 その続き、取り調べ室のインパラ君。犬の刑事に『殺意が あったんだろ!!』ときびしく責められて、思わずインパラ君は、『殺意なんか ない!!』と叫んでバッと立ち上がる。するとその拍子に、彼の角が刑事の頭に突きささって『サックリ』! …それで、あわれインパラ君は、しましまの囚人服を着せられてろうやへ(同)。

…筆者の紹介がド下手くそなせいで(ただいま自分のテンションが低いし)、『ギャグまんがですよ~』というふんいきにならないっ!? ただし、じっさい「フルモン」はこういう作品なのだ、とも言いたくはある。
かつ、これらのことは、筆者が前の「フルモン」記事(*)で述べた、≪自爆≫の一大モチーフにかかわるものでもありつつ。

と、見たようにインパラ君の立派な2本の角は、ただ役に立たないどころの騒ぎではない。まったくもって、有害な出っ張りとしか言いようがない! だがしかし、その角があってこその『彼』なのだ。もしも彼からその角を取ったら、『キツネくん?』…とも言いがたい、何だかわからぬ生物になってしまう。
そして、これらのお話に『笑い』という反応を返す人々もまた、誰もがそのような≪角≫をそなえているのだ。それには何の実用性もないどころか、むしろ有害で自他を傷つけるようなものなのだが、しかしそれなくしては自分が自分でなくなってしまう、そのような≪角≫を。

ことわざの一種に、『角を矯(た)めて牛を殺す』と言う。これは『ささいな欠点を修正しようとして、全体をダメにしてしまう』という意味だそうだが、まったくよく言ったもので!
そのように、いまだ死んでいないわれわれ“誰も”は、さっき述べたような≪角≫、へんな角、役に立たない角を、修正もできないままにキープしつつ、何とか生きている。しかもこのおかしな角の、破壊力だけはムダにふしぎと十二分なのだ。
そして『虎は死んで皮を残す』というのもことわざだが、われらの代表であるインパラ君もまた、死んだら立派な角を残す。で、そのことに何の≪意味≫があるのだろうか?

そうして自分がこの堕文を書いていることがまた、とうぜんその≪角≫のようなもののなせることだ。これには人さまを傷つけるほどの鋭さはなさそうだが、しかし自分にとっては役に立たず、むしろ自分に対して有害かも知れず、しかもこれなしでは自分が自分でない。
そして自分がもしあした死んでも、この堕文がしばらくは人前っぽい場所に残ることだろう。で、それが≪何≫なのか?

…あ~あ、いくら堕文でも、ギャグまんがという面白系のお題がある以上、あんまりウツなことは書かないつもりでいたのに! すんませんでしたー!
そしてこのような、くだらなさもきわまったまんがの中に≪自分≫をうっかり見出してしまい、われわれはそのおののきを、『笑い』という肉体の反応によって吐き出す。そのときわれわれの前に、≪ギャグまんが≫というものが現前しているのだ。

そのように、筆者が申し上げているところの≪ギャグまんが≫とは、ものとしてそこに『在る』、というものではない。われわれがそれへと笑い(外傷的でけいれん的な笑い)を返すときにだけ『それ』は現前し、笑いやんだときにはもう消え失せている。しんきろうでなければ悪夢のようなものとして、それは機能だけして消える。

2010/10/01

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - ナンセンス4コマのカフカ or B.シュルツ!

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第1巻 
参考リンク:作品データベース「フルパワーMONKEY」

公式略称「フルモン」こと「フルパワーMONKEY」は、1997-2001年にヤングジャンプ掲載のナンセンス&超おげれつな4コマ作品。単行本は、ヤングジャンプ・コミックス全7巻(ワイド版)。
さいしょにはっきり結論を申し上げてしまえば、これはきっぱりと大傑作(=大ケッ作)。それも、いろいろな意味で孤立した傑作であり、ふんいき的には東欧文学の、カフカでなければブルーノ・シュルツって感じ。孤絶的なシチュエーションにおいて、自縄自縛や自業自得チックな災難が、おげれつナンセンスな悪夢の連鎖として延々と続く。

具体的にどういうものか、まずアマゾンに出ていた宣伝文を引用しておくと。

『誰もが考えてはいるんだけど、口には出せない、実にくだらないギャグの数々。便器がボクサーだったら、ピノキオがウソばかりついていたら…。そんなアイディアを無謀かつ大胆に4コママンガ化!』

つても、『便器がボクサーだったら?』という意味が分かりにくいかと思うので、ついつい『説明』しちゃえば。
これは、男性用の『あさがお』についてのお話。その一見はふつうな『ボクサー便所』とやらは、まずスウェーイングを駆使してこっちの尿をよける(!)。狙いすまして何とか尿を命中させると、今度は『クリンチ』と称して体当たりしてきやがる(!)。出ている最中に便器に組みつかれて、こっちはたまらず『おいっ!!』と言うしかない(第1巻, p.13)。

流れからして次に、『ピノキオがウソばかりついていたら?』とは、どういうお話かについて、ちょっと見ておくと。
実作「フルパワーMONKEY」には、≪ピノッチオ≫という名前の人形と、その作り手のおじいさんを描くシリーズあり。で、『ウソをつくと鼻が伸びる』という設定は、原作のコッローディ「ピノッキオの冒険」(1883)と同じ。そして、その『ピノッチオ』シリーズ第1弾のエピソードが、このような(第1巻, p.5)。

…どういう悪人に捕まったのか、ピノッチオとおじいさんは密室にしばり上げられていて、ダイナマイトの導火線が燃えている。危機一髪っ! そこでおじいさんはピノッチオに、『ウソをついて 鼻を伸ばし それで 火を消す んだ』と命じる。
するとピノッチオは、『そっか よーし』といい返事をして、彼のとっさに考えた『ウソ』をついてみる。

 【ピノッチオ】 ケツ毛 ケツ毛 ギョウ虫 ギョウ虫
 (…そのワードを連呼しながら、どんどん目つきがおかしくなって…)
 うへへっ ぐへっ ぐへへへっ もへっ
 ケツ毛 ケツ毛 ギョウ虫 ギョウ虫

そこでおじいさんは、へんな汗をダラダラとかきながら、『ピノッチオ… それは ウソじゃ ないんだよ…』と、内心でツッコむのだった。

と、こんなでは、『ピノキオがウソばかりついていたら?』という触れ込みがウソになってしまうけど。まあそれはいいとして(?)、続いた4コマもご紹介しとくと。
『それは、“ウソ”じゃないから!』と、おじいさんに教えられたピノッチオ。そこで、『よーし 今度こそ!!』と、気合いを入れなおして言うには…!

 【ピノッチオ】 おじいさんは オカマ
 おじいさんは オカマ
 (…そのワードを連呼しながら、どんどん目つきがおかしくなって…)
 うへへっ うへへへっ ぐへっ ぐへっ

するとおじいさんは、哀しみに涙とハナ水をたれ流しながら、『それも… ウソじゃないんだよ』…とつぶやく。力が抜けたせいか、おじいさんの服がはだけ、彼がブラジャーを着用しているのが分かる。そして、マイトが爆発してしまい…!(完)

とは、いったいどういうことだろうかッ? ピノッチオはウソをつく気マンマンなのに、だが結果的にはウソをつけない、とはッ?

別に『解釈』なんて要らないのだが、でもそれを、あえて解釈すれば。『ケツ毛・ギョウ虫』にしろ『おじいさんはオカマ』にしろ、ウソではないけど『ウソであってほしいこと』なのだ。
すなわち、『ケツ毛・ギョウ虫』の存在を必要としている人が、この世のどこにいるのだろうか? また『おじいさんはオカマ』であったとして、それがいわゆる『誰得』なのだろうか?

だからそれらを『ウソであるべき』と考えて、ピノッチオはそれらの≪外傷的≫なワードらを言う。…ところがどっこい、『ウソであるべき』ことらがウソでないのだ。
そして、ピノッチオの狂気めいた表情。いつも彼はそうだがそれは、『意識における否定が無意識においては肯定されていること』、そのジレンマが顔に出てしまっているものかと思える。『ケツ毛・ギョウ虫の存在は“ウソ”である』、という彼のはかない主張を、まず彼の表情や態度が打ち消してしまっているのだ。
そしてこのようなこと、『ことばの偽りを身体症状の発生があばく』とは、フロイト起源の分析の大原点なのであ~るッ!←ドヤ顔で。

なお、同じようなエピソードが、連載に先立った初期版の「フルモン」にも描かれている(p.88)。そちらでは、おじいさんが『お前はウソをつくと 鼻がのびるんだよ』と言うので、実証のためにとピノッチオが『ウソ』発言をこころみる。

 【ピノッチオ】 チンコ ウンコ!! チンコ ウンコ!!
 うひっ うへへっ
 チンコ ウンコ!! チンコ ウンコ!!
 【おじいさん】 (しのび泣きながら、)それは ウソじゃないんだよ ピノッチオ…

…かしこくもレヴィ-ストロース様やロラン・バルト様がおおせだったように、『お話を分析しようとすれば、“類話”をさがせ』! つまりピノッチオは、≪外傷的ワード≫と『ウソ』とを取り違えているのだということが、これではっきりしてくる。
ちなみに続いた4コマでは、仕切りなおしてピノッチオが、『おじいさんは へんたい! へんたい へんたい!』と言いつのる。するとなぜかブラジャーが透けて見えて、『それも ウソじゃないんだよ』…という流れまでは、本編「フルモン」と同じ。

ところでなんだが初期版のお話の『チンコ・ウンコ』とは、≪外傷的≫なワードというにも、あまりにストレート核心をつきすぎ! そのそれぞれをラカン用語で言い換えると、≪ファルス≫および≪対象a≫という超決定的なキーワード、なんてことは前にも書いた気がするが。
そうして本編版の「フルモン」は、その『チンコ・ウンコ』を、『ケツ毛・ギョウ虫』と婉曲化している。どっちがどっちに対応とか、そんなことはどうでもいいけど。しかも、分析的には『婉曲化』しているのに、おげれつワードとしてはむしろ格が上がっている(!?)…そこがまたゆかいでありつつ。

それこれを見てくれば、さいしょに引用した宣伝文、『誰もが考えてはいるんだけど、口には出せない』とは、どういう意味かも分かってこよう。
誰もが(無意識には)考えている『そのこと』ら、誰もが(それを意識化して)口には出せない『そのこと』ら。それらをわれらの「フルモン」は、『無謀かつ大胆に4コママンガ化!』してみせているのだ。



とまでを見て、いっぺん話を区切ることにして、いまここでの結語を申し上げておくと。このように「フルパワーMONKEY」をしさいに見てくると、ギャグまんが史上におけるそれのユニークさが見えてくる気が。

すなわち。これに先立った吉田戦車「伝染るんです。」(1989)は、まったくわけのわからないものとしての≪外傷的なシニフィアン≫や、ふかしぎきわまる強迫的行為ら、その突発的な現前を描いた(…シニフィアンとは、意味不明だが意味ありげな記号)。それをわれわれは、『ギャグまんが第3世代』の誕生、と呼んでいるわけだが。
それに対して「フルモン」は、びみょうにも合理的そうな行動が、1つのしかけを介して、≪外傷的≫な何かを現前させる、ということを描く。『ボクサー便器』や『ピノッチオ』らは、それを(要らんのに!)現前させるための『しかけ』だ。

ちょっと言い換えて。次の記事で見るだろうけれど、今作「フルモン」は、便器でなければ自動販売機、ピノッチオでなければもろもろのロボットや新発明のマシーンといった『しかけ』らを、超強迫的に描きまくる。
そしてその『しかけ』らに対し、主体がいちおう『自発的に』何かをすると、思わぬことになる。さもなくば、主体自身がおかしい『しかけ』として、思わぬ機能を果たす。そして、≪外傷的≫な何かがそこへ現前する(=ギャグの発生)…というのが、おきまりのパターンだ。
そしてその『しかけ』らの主な機能とは、言ってみれば≪自爆≫だ。ここまでに見た作例でも、ボクサー便器の使用者は、自分の出したものの汚れを自分がくらう。ピノッチオのおじいさんは、自分のこさえた人形のデキの悪さで自分が苦しむ。

かくてそのような、『自爆する機械』や『自爆させる機械』らを超しつように描いた作品が、この「フルパワーMONKEY」なのだ。それをあまりにも集中的に描いているのが、「フルモン」のユニークさというか異様なところなのだ。それと似たようなエピソードが「伝染るんです。」にもないわけではないが、何せ「フルモン」のしつような集中ぶりはすご~い!
それを思わず見習ってか、筆者も態度が粘着的になってスマンが。その「フルパワーMONKEY」のしつようさがどれだけかは、続く記事で軽~くねちねちと見るだろう。ではまた皆さま、オ・ルヴォワ~ル!