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2010/06/05

野中英次「魁!! クロマティ高校」 - 私も秋葉原人である以上…!

野中英次「魁!! クロマティ高校」第15巻 
関連記事:ラベル“野中英次”

がたがたさんのアニメレビューブログで、「ロケットガール」なるアニメがけしからぬ、のような趣旨の記事(*)を拝読した。ツイッターでのフォローもあわせて、そのディスがけっこう激しかったことから、『よっぽどすごいものなのか?』と、逆にちょっと興味がわいてしまったことは、たぶん『人情』のはんちゅう内のできごととして。
で、そのアニメ「ロケットガール」の第1話だけは見てみたのだが、すべてにおいて乱暴きわまるお話だとは感じつつも、しかしとくべつに心が動くところはなかった。しいて申せば、ヒロインの父親が、母親と新婚旅行の最中になぞの失踪をとげたのはなぜか?…というところにだけ、じゃっかんの興味を覚えたけれど。

さらに笠 希々さん(*)からも情報をたまわったり、Wikipedia(*)を見てみたりすると、アニメ版にも原作のラノベ(ライトノベル)にも、その父親の失踪の理由は明らかになっていないらしい。父親本人は、追って物語に登場するって話なのに。
そのように大きなふしぎが、むしろふしぎでない『かのように』作中で放置されていることは、逆に面白…と言いかけた。この作品はおそらく、びみょうにリアルな宇宙開発ストーリーを表面のモチーフとして『ハードSF』を言い張りながら、『萌え』っぽいところでビジネスを展開しつつ、さらにその原因不明な父親の家出というところでやっと≪何か≫を描いているものかと思えるけれど、しかし。
(…次のようなことを何度もしつこく言いすぎなので自分でもイヤだが、その世界においての『父の不在』は『規範の崩壊』に並行する現象であり、その原因か結果のどちらかではありそうな感じ。『“萌え”=父の権威の撥無、その横取り』、という前提は確かでありつつ)

ところでなんだが、ご存じの名作ギャグまんが「魁!! クロマティ高校」に、『ネット番長』こと≪藤本くん≫という人物が登場する。一般的にはネット上でだけ勇ましいヤツをネット番長と言うが、藤本くんはその正反対。オフラインではりっぱな番長としてリスペクトされている彼が、よせばいいのにネットの惰弱どもに交わろうとして、そこで自分も超惰弱を演じてしまうのだ。ふだんド不良のくせして、ネットでは『ネチケットをわきまえぬヤツが多くて』…などと彼は、つまらぬ常識をズレたところでふりかざすのだった。

これはようするに、≪漢(おとこ)≫たるものパソコンごときをいじっててもしょうがない、という正しい認識を返しているわけだが。で、そのような藤本くんが、『アキバチャットルーム』なる場所で『萌え系』なるものの存在を知る。そこで彼は、

 『私も秋葉原人{あきはばらじん}で ある以上 秋葉原に根づいた
 この“萌え”という文化を 探っていきたい所存です』

と、無意味なくそまじめさをもって宣言する(「魁!! クロマティ高校」第15巻, p.45。{}内はルビ)。

そして彼は、アキバで萌えグッズ一式なるものを購入してきて、とりあえず萌えっぽいラノベに目を通す。何かてきとうな未来世界の女子校を舞台に、美少女らがやたらバトルをするようなやつを。
すると彼は、そのお話のあまりな荒唐無稽さにつまづきかけるが、チャットの常連たちは『そういうふうに読むものじゃない』と、彼をたしなめる。で、そこを乗り切って藤本くんが、

 『大変興味深く 読ませていただきました(中略)
 続きが気になって 仕方ありません‥‥』

という心境にいたったところ、やはり『そういうふうに読むものじゃない』と、チャットの常連たちは彼をたしなめる。そこで彼は、カフカ「城」のヒーローばりの苦しみと焦燥感を味わうのだった。
じっさいのところ藤本くんは、チャットの常連らが言うように、『萌えの読み方ってヤツが わかってない』のではあろう。という筆者にも『萌え』がいまいちわからないので、そこを断言はしないが。

で、『萌えの読み方がわからない』ということが問題なのではなく、『そんなことをわかる必要がない、ということがわからない』、ということが、藤本くんにおいての問題なのだろうか? その一方で、学校の不良どもが、『近ごろあのTV番組がマンネリでつまらねえ』などとくだらなすぎる話をしていると、藤本くんは問答無用でボコン!と鉄拳をふるった上で、

 『つまんねえ なら 見なきゃ いいだろ』

と、あまりにも正しいことをあっさりと言いきって、ワルたちを感服させるのだが!(同書, p.52)

そして筆者も対抗して正しいことをここで述べると、『つまんねえ、つまんねえ!』とつまらないことを言い張っている人々にしても、その言表行為を大いに愉しんでいる、という事実はある。意識における苦痛が、無意識の享楽であるに他ならない。『つまんねえなら 見なきゃいい』ということはその通りなのだが、逆に言ったら、『見てるからには、実はつまんなくない』。

と、ここまでを考えてくると、ディスとリスペクトは、けっきょくは同じものである、という感じにもなってくる。ヒップホップ創世記の伝説的かつ壮絶なディス合戦、ブロンクス(ブギダウン・プロ)vsクイーンズ(ジュース・クルー)の『ブリッジ・バトル』という故事があるが、そのいずれかをほんとうにまったく無価値だと思っている人は、めったにいないだろう。口をきわめてけなしあったことが、結果的にはお互いを持ち上げているのだ。それが、たいへんレベルの高いシーンでのレアな成功例であるにしても。
『サッカーMC、ケアレス・ワン!(KRS-ONEは、クソラッパー!)』というあおりが流通することは、何がどうであれKRSワンを有名にしている。その言表内容よりも、言表行為こそが≪意味≫をなす。何せまず自分らの名前を連呼することがMC-ingの超基本であるわけなので、そこで逆に他人の名前を連呼したりすることは、大いなるサービスだと考えざるをえない。

だからサービス精神に欠ける自分は、ディスなんてサービス行為をやらない、つか、無償ではやりたくない。『地球の未来に、ご奉仕!』…なんてフレーズは旧世紀の遺物なのに(えっと確か「東京ミュウミュウ」という、なかよし掲載作に出ていたせりふ)、われわれは要らざるご奉仕をいまだにやりすぎなのではなかろうか?

2010/05/12

「課長バカ一代」と「主将!! 地院家若美」 - または『山崎ハコ と ギャグまんが』

野中英次「課長バカ一代 子供用」 
参考リンク:Wikipedia「課長バカ一代」, 「主将!! 地院家若美」

筆者はあんまりよく知らない対象なのだが、このご時世に浅川マキとか山崎ハコとかって、どうなのだろうか? うそでもいいから、フランソワーズ・アルディとかブリジット・フォンテーヌとかに置き換えてはダメなのだろうか? まずは以下しばし、約4年前に書いていた堕文の焼き直しから。



一条ゆかり先生のまぼろしの傑作「5愛のルール」(りぼん1975年5~12月号、未完)に、先日初めて文庫版で目を通した。するとその冒頭、ヒーロー初登場の場面にて。あれこれと失意が重なり、スナックでやけ酒中のヒロインの姉が、ジュークボックスに向かったヒーローに、

 「ねぇハンサムさん 浅川マキかけてよ」

と、言う。
…いやはや、浅川マキも古ければ、それを呼び出す装置の≪ジュークボックス≫も古い。ぐん、とくるほど、じゅん、となるほど、古い。まあそれは、むかしの作品だからだが。

いや、作劇としたらむろん、この場面にその名前の登場は『ふさわしい』かも。われらが一条センセのなさるコトに、まちがいのあるはずはない。だがしかし、そうきなさるのか、そのふんいきイヤだなあ…と、自分が軽く思ったことも事実だ。

それから、わりと最近。ちょっと古書店で、野中英次「課長バカ一代 子供用」(2001, KC少年マガジン, 全1巻)を買って読んだ。これは「魁!! クロマティ高校」でおなじみの作者の1990'sのシリーズ作(ミスターマガジン掲載)を、少年マガジンの読者に向けて編集し直した1冊。

そしてその巻末近く、ヒーローのバカ課長が部下の3人を呼んで『バンドを結成しよう』と、とうとつに言い出す。その理由は『音楽への情熱』とかいうのではなく、社内のサークル活動として公認されれば予算が出るかもと、あて込んで。
けれども方向性がちっともまとまらないので、『しょーがない、じゃあ、いきなりだが解散しちゃおう』(!)という相談になってしまう。だが、解散するにも多少はカッコつけが必要ということで、部下の1人の発案により、『音楽性の相違』という理由が設定される。
それに続く会話として、われらのバカ課長が『ちなみに俺は 山崎ハコが 好きだけど オマエらは何が 好きだ?』と、一同にたずねてみたら…。

 『え……! 課長も山崎ハコ 好きなんですか!?』
 『実は僕も 山崎ハコ 好きなんですよ…… あんまり人に言わないようにしてるんですけど……』
 『まさか…… 前田くんも……』
 『山崎ハコのオールナイトニッポン…… 毎週聴いてました……』

やだもう…何なの、この会社? そうして彼ら4人は、ほんわかと意気投合し直すのだが。しかしその直後、『しまった、コレじゃ解散の理由がない!』と気がついて、再び頭を抱えるのだった。

ちなみに筆者は、浅川マキと山崎ハコとの区別がほとんどついていない。というか、しっけいだがおそらく、『区別しよう』という意志がない。
ゆえにこれら2つのまんが作品が、≪同じもの≫をさしているかのように、ついさっき確認するまでかん違いしていた。こういうことを、悪しき『同一性の思考』と呼ぶのだろうか?(2006/04/03)



と、ちょうど筆者がそんなことを書いていたころ、「魁!! クロマティ高校」に続くようなギャグまんがの新しい動きとして、マガジン系の媒体でひそやかに、やきうどん「主将!! 地院家若美」(2004)の掲載が始まっていた。はっきり申してほんとうに大好きな作品だが、それの第2巻をいま見ると、こんなことが描かれている。

最強の暗殺武術の達人にして、最悪の美少年ハンターであるBL系ヒーロー≪若美≫。その親友で幼なじみの≪三平白人(みひら・はくと)≫は『超 忍者マニア』で、独断的な忍者修行にはげみすぎ、学内ですっごく迷惑をかけまくり。よって若美と並んで、柔道部の2大問題児、との風評あり。
まったく困ったもんだ…という相談をしているところへ若美が道場に現れ、たまには練習を休んで遊びに行こう、と言い出す。一同は悦んで、若美がご招待のカラオケ屋に向かう。追って白人が道場におもむくと、誰もいない。何せ忍者だけに、ふだんから存在感を消しているせいで(?)、忘れられたのだ。

やきうどん「主将!! 地院家若美」第2巻そこで白人は忍者の情報網か何かを使って、柔道部員らの行き先をつきとめ、ボーイに化けて彼らの個室に潜入する。実のところ白人クンは、のけものにされたこと、そして忘れられていることが、せつなくてたまらないのだ。さびしんぼうなのだ。
やがて部員らは、白人がいないことをやっと気づく。ところがそれからその場所は、白人へのしんらつな悪口とかげ口でもちきりに(!)。その口撃の急先鋒は、若美や白人が起こす問題の処理に追われまくりの、いつもは温厚な副将だ。部員らの中で、ちょっとでも白人をフォローしたのは、心のやさしいヒロイン≪美柑(みかん)≫だけ。
あまりのことに、ボーイ姿の白人がぼうぜんとしていると、何かわけの分からないリリックがその場に流れる。そこで白人は、

 『誰だ! 山崎ハコなんか 歌ってんのは…!!』

と内心で叫び、そして人知れずダラダラと涙を流すのだった(KC少年マガジン版, 第2巻, p.74)。

それからお話の後半は、美柑以外の部員らに白人が、血も凍るようなおそろしいふくしゅうをッ!…と続く。ゆえにこのエピソードのサブタイトルは、『忍(しのび)の戦(いくさ)は無情 の巻』。

とまあ、そうなんだけど。そのストーリーはともかく、われわれの観点からは、≪山崎ハコ≫というふかしぎな記号が、こういう場面にて、その意味不明きわまる意味作用をなすものらしい、と分かったのだった。いや、『分かった』なんてことは言えないが、しかし何かを知った感じがなくもない、という。
「課長バカ一代」にしろ「主将!! 地院家若美」にしろ、≪山崎ハコ≫とはこういう意味の記号である、なんてことを描いてはいない。ただその使われ方を見ると、その記号は、あえて言うなら『共感なき共感』、さもなくば『コミュニケーションなきコミュニケーション』とでもいった、何かきわめて両義的で、受けとり方のむずかし~い心の状態を示すようなのだった。

そしてそのような、意味ありげにして意味不明なる記号(シニフィアン)の現出、それの引きおこす強烈なとまどいを、われわれは≪ギャグ≫と解釈する。その記号に何らかの意味があることは確かそうなのだが、しかしそれが思い浮かばないのは、その意味が≪抑圧≫の対象になっているからだ。そこで発生するエネルギーの詰まりが、笑いという運動によって発散されるのだ。
だからこれらがギャグとして成り立つには受け手において、『その意味が抑圧の対象』という前提が必要になる。山崎ハコという女性歌手について、『偉大きわまるディーヴァ』だとか『くだらなさのきわみ』だとか、別にどっちでもいいのだが、にしても受け手の側にはっきりした『意味』しかないとしたら、ここで笑いの発生はない。
そうじゃなくて、その存在感(プレゼンス)はずいぶんとありつつ、しかしその受けとめ方にはたいへん困る。そのような記号としての≪山崎ハコ≫であり、その現前によっての≪ギャグ≫なのだ。

対極的な例をも、1つ出しておくと。まんがに限らずギャグの世界には、エルヴィス・プレスリーの仮装をした人がよく登場する。それが決まって、かの映画にもなったラスベガスでのカムバック・ステージの、純白のジャンプスーツ(ソデにピラピラつき)&もみあげがものすごい、というかっこうで。『何かさいきんあったなあ』と思ったらそれは、若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第2巻の冒頭のお話にも出ているのだった。
だが、それがどうして≪ギャグ≫になるのだろうか? エルヴィスは文句なくカッコいいが、しかしその猿まねはカッコ悪いのでこっけいだ、というばかり? それともそうじゃなく、ネタとなっているエルヴィス自体に、過剰すぎてカッコよさを通りこしちゃってる部分のあることが、そこにて示されているのだろうか?

むろん筆者には、それをどっちであるとも言えない。むしろ、ほとんどの人には『それをどっちであるとも言えない』。そしてそうしたどっちつかずな感覚に対して、われわれは笑いという反応を返しているのだ。ここでまた、≪エルヴィス≫という記号がりっぱなシニフィアンだということが確認されながら。
で、何が『対極的』かというと、同じく意味不明なシニフィアンでありつつ一般社会に対し、エルヴィスは出っぱりすぎている例、山崎ハコは引っ込みすぎていて『逆に』気になるかもしれない例、という意味で。そしてこのような≪シニフィアン≫というしろものを、われわれは、いっそのこと『不条理の記号』と呼んでもよいように錯覚しつつ。

…などと、山崎ハコという記号を介してギャグまんがを見る、というふかしぎな行為のあったところで。そうして「課長バカ一代」にしろ「地院家若美」にしろ、ひじょうに大好きなすばらしい作品なので、こんなんでは語りきれない…と筆者は申し上げながらッ。

2010/02/21

野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」 - 米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」について

 
参考リンク:Wikipedia「野中英次」
関連記事:小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

まず、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)について。前に関連記事で述べたこと、それが赤塚不二夫「おそ松くん」を、≪ギャグまんが≫の第1号に認定していることについて。

『基本的には、ギャグマンガの始まりを赤塚不二夫あたりにすることにする』(米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」, 2009, ちくま文庫版, p.18)。

だが。そうは言いながら同書が、第五章での「おそ松くん」の登場(p.143)まで、4つものチャプターをついやしているのがすごい。「バット君」とか「カンラカラ兵衛」とか、いまでは題名が知られるばかりの古い古いまんがの大量なあれこれを扱っているのがすごい。あわや、鳥羽僧正「鳥獣戯画」(12-13世紀, 正しくは作者不詳)だってギャグまんがのはしりでは、とでも言い出さんばかり?(そんなことは書いてありません!)
なんてことを言ってたら思い出したのは、野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」という当代の最新のギャグまんが(2009, KC少年マガジン, 刊行中)。そこに出てくる学校のへんなクラブの部長はまんが家志望で、その平安時代直系の…「鳥獣戯画」の作風を、ご先祖から受け継いでいるという。たぶんそのご先祖というのが、せいぜい3代くらい前のご先祖だろうと推理しているけれど!

そもそも「戦後ギャグマンガ史」にしろ、同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)にしろ、それらの書名に『戦後』という単語は必要なのだろうか? なぜ必要なのだろうか?
まずギャグまんがの元祖が、おそくも1962年の「おそ松くん」であるとして。一方の少女まんがの元祖は、その定義によって倉金良行「あんみつ姫」(1949)か、手塚治虫「リボンの騎士」(1953)か、と見解が分かれるが(…筆者は前者をとりたい気分)。
どうであれ、戦中戦前にはギャグまんがも少女まんがも『なかった』ことは確かだ。すると著者サマは、なぜだか『戦後』ということばが大好きだったのかなあ…と、ここで筆者はへんなことを思うのだった。

ただし。「戦後ギャグマンガ史」の著者が「おそ松くん」以前の古まんがのこっけい部門をチェキってくれているので、われわれは同じところから始める必要がない。「おそ松くん」以降の本格的な≪ギャグまんが≫だけを、見ていてよい。これはほんとうにありがたいことで、まずそのことが筆者をして、それを『大名著』と言わせる。
まあそんなことを言いながら筆者は、昨2009年の夏に長谷川町子「サザエさん」の古いところを読んでいて、ちょっと強く感じるところがあった。なので、それもいつか考察の対象にしたいのだけど。

かつまた。『古い古い』とは言っているが、「サザエさん」や「あんみつ姫」と、「バット君」や「カラ兵衛」とは、同じでない。前2者は後2者とは異なり、こんにちにまで何度も何度もリメイクされ続けている、もろ現役のキャラクターに他ならない(…対して戦前派の「のらくろ」は、やや脱落ぎみ)。
≪ギャグ≫じゃないけど笑いを主眼とした作品として、ものすごい生命力を発揮している「サザエさん」と「あんみつ姫」については、まったくもってわれわれの考察に値しよう。とま、そんなことはともかく。

閑話休題…と言いながら、さいごに自分のぬるい回想談を書いて終わり(!)。筆者は同じ著者の「戦後少女マンガ史」(1980)を、刊行から間もないころに足立区の図書館で読んだ。『ほんとうにそうだなあ!』と、その論旨に共感したことを憶えている。それがいまでは、また少し異なる感じ方があるのだが。

ところが「戦後ギャグマンガ史」に関しては、つい最近まで未見だった。そもそも絶賛品切れ中の資料だったわけで、これを発見できたのは、2007年に筆者の勤務地だった葛飾区、その区立図書館でだった。
ついでにそこはまんがの蔵書が豊富だったので、「ときめきトゥナイト」や「セーラームーン」や「天使なんかじゃない」などは、そこで借りて初めて通読した。少女まんがばかりだが、いずこでも図書館のまんが資料は、少女向けが中心だ。

ところが困ったことに、葛飾で所蔵の「戦後ギャグマンガ史」は、いつしか検索端末でヒットしなくなってしまった。たぶん『古い古い』で筆者しか借りないような資料だったので、処分されてしまったかと思っている。
この葛飾の図書館は、三一書房『夢野久作全集』さえも除籍してリサイクル図書に廻してしまってたので、それはありそうだ。そしてその久作全集の「ドグラ・マグラ」(1935)の巻は、いまは筆者の手もとにあるのだが。

で、しばらくは「戦後ギャグマンガ史」を見れなくて困っていたのだが。自分が抜き書きしたその内容以外を、見失っていたのだが。それがご存知のようにちくま文庫版(2009)で再刊されたことは、ほんとうに喜ばしい。
何せ筆者もいろいろと調べたが、『ギャグまんがについてだけ書かれた1冊の本』というものは、何とニッポン国の出版史上に、それ1冊しか存在しないらしいのだ(!)。それがまた筆者をして米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」を、『まったく比類なき大名著』と断言させるのだ!

2010/02/17

野中英次「魁!! クロマティ高校」 - 『コワい顔』と笑いの関係・試論

 
参考リンク:Wikipedia「魁!! クロマティ高校」

略称「クロ高」こと今作は、万人が知っている大ヒット作なはずだが(KC少年マガジン, 全17巻)、意外と語りにくいものがある。どういうところで笑いをとってる作品かと考えれば、『コワい顔』という要素が見逃せない。

ばくぜんと見ていれば、今作の画面はバイオレンス劇画そのものかのようであり、そこに不良たちの『コワい顔』が、しこたま描かれている。で、その方々が落語チックなこっけいを演ずるにしろ、≪不条理≫なるものに直面して当惑するにしろ、われわれがそれを笑えるのは、『コワい顔』という要素とそれらとの対比効果による(…のでは?)。

その典型的な場面…といえそうなものを捜すのが意外にたいへんだったが、たとえば第3巻のp.30の2コマ目。おでこに青スジ立てたド不良5人サマの顔が描かれているのだが。
そこだけを見たなら、単なるコワい不良劇画の1コマだ。けれどもそれは、『日本番長選手権』の第1回戦が○×クイズだと聞いて(!)、かれらが当惑している姿を描いたものなのだった。

≪ギャグまんが≫を語っているわれわれにとって、ギャグっぽい絵で描かれたとしたら、ちっとも面白くない(=劇画っぽく描かれてるので笑える)、そんな作品があることはややふしぎだが、しかしこれがそうなのだ。で、そもそも『コワぃ顔』を見てヒトが笑う、ということ自体がふしぎかのようだが…。
しかし筆者の臆見によれば、もともとの性格として、『コワい顔』には、人の笑いを引き出す要素がある。

じっさいにわれわれのようなよい子たちや善良な市民らが、不良・ヤクザ・チンピラのような方々に囲まれたりカラまれたりしてるさい、その顔がふかしぎなニヤつきを示す…というコトがある。またはその反対っぽい例で、教師や上司らのお説教を喰らってるときにも、そのような笑いが出る。それが連中の気にさわるのだが、むろんわれわれはそんな時に、笑おうと思って笑っているのではない。

この笑いを分析することはむずかしいが、ひとまず次のように見れるのでは? 目の前の危機を過小評価(もしくは無視)したいという≪無意識≫の願望の効果により、意図せずして顔の筋肉がゆるむのだ、と。われわれの申す≪快感原則≫やら何やらの主張により、人は過度の緊張に長時間は耐ええないからだ。
つまり、交通事故のようなとっさの危機に直面したとき、人の顔はおそらくユルんでいないはずだが。しかし、E.A.ポー「陥穽と振り子」に描かれた振り子式死刑台のようなジワジワと迫ってくる危機やキョーフにさらされたとき、しまいには意外と人の顔はユルんでしまうのでは?…と見るのだ。
で、その笑いは、状況に対して主体が肉体的には屈服しているが、しかし精神的には屈服していない…ということをいったんは示しつつ。つまり内心の虚勢が、ついつい顔に出ちゃっているものでありつつ。

そういえばギャグに限らずまんが作品には、あんまりな恐怖やショックに直面した人が逆にゲハゲハと笑い出し、それきり≪狂気≫におちいってしまう…という場面がよくある。ほんとうにそんな症例があるのか、ということは知らないが、にしてもわれわれはその描写に、あるていどの説得力を感じている。
つまり過度の連続した緊張に耐ええない精神が、目の前のキョーフを過小評価(または無視)するための笑い、というものがあったとして。そしてその機制が固定されてしまえば、その主体には≪現実吟味≫が不可能となる(≪現実原則≫の停止)。気の毒なことだが、≪快感原則≫が暴走したような状態になる。そうした状態を1つの≪狂気≫としてありうるものと、われわれは考えているのだ。
(ご説明。快感原則、または快楽原則と呼ばれるフロイトの概念は、できるかぎり安楽平静でいたい、という心の傾向をさす。その一方のエキサイティングなお愉しみについて、精神分析は、≪快楽 pleasure≫ではなく≪享楽 enjoyment≫という用語をあてている)

で、ここにおいて、むかしから言われる『恐怖-と-笑い』の親近性の理由が、1つ説明されている。ボードレールの引用した格言に『<賢者>はおののきながらでなければ笑わない』と言うが、賢者ならざる常人においては、『≪おののき≫を笑いにすり換える』という機制が一般的にあるわけだ。
それは危機的状況に対して主体が、勝っているのか負けているのか、その判断を自主的にぼやかす機制に他ならない。このような笑いのきわまったところに、1つの≪狂気≫が生じる。
客観的には状況に対して屈服している人間が、心の中では『たかがこんなこと』…と考え(たがっ)ている。『目の前の危機を(だんこ、意地でも)過小評価し、または無視し続ける』という場面で発現してるものは、人の強さなのか弱さなのか…ということが分からない。かつ問題になっている主体においては、それをやりたくないからこそ≪現実吟味≫がなされない、ということをきっぱり見ておこう。
ただはっきりしていることは、どのようなところから出たものであっても『笑い(=緊張のゆるみ)』は、主体に対してびみょうにも快感をもたらす。この事実だ。

あまり関係ないようなことも言い出せば、19世紀前半のイタリアロマン派オペラには、『ヒロインの狂乱場面をウリにする』という趣向があった。どういうものかというと、演劇の例だがシェイクスピア「ハムレット」の≪オフェーリア≫の錯乱…あんなような場面が大の魅せ場だったのだ。
で、だいたいのところその≪狂乱のヒロイン≫たちは(オフェーリアと同様)、幼児的になりながらエッチっぽいことを口走る。
それを見て当時もいまも、オペラ劇場の観客たちは、薄倖のヒロインへの無償の同情と、プラス性的な興奮を同時にエンジョイするのだ。かつまた追っての19世紀末、仏の精神科医シャルコーがヒステリーの女性たちを魅せものにして社会的な評判を呼んだのは、それとりっぱにシンクロしていることだ。

で、そのようなわれらの≪狂乱のヒロイン≫たちは、単なるおバカさんになっているのでは、決してない! そこでは≪現実吟味≫の放棄(狂気)が、主体における決定的な≪外傷≫の発生現場へと、主体を永遠(とわ)に縛りつけている。この女性たちの場合には、幼時と近時のエッチな事件らがそこに現前し続け、そして見る者はそこにきざす≪真理≫をおぼろにも感じ、それへと心を撃たれるのだ。

また、それこれと考えていれば、緊張のあるべき場面で笑っているということは、部分的にもその緊張を解いてるということで。そしておなじみ「ジョジョの奇妙な冒険」を見ていると、一般に悪役らの方が妙に上きげんでケンカの最中によく笑い、そして負ける。
悪者らがヘラヘラしているのは、よゆうを見せて精神的優位に立つためのパフォーマンスでもありつつ。しかし結果はいつも、闘いに対してシリアスにのぞんでる善玉らが勝つ。

これはいままでのことを、逆に見ているのだ。むげなる『楽勝』の確信が、実は意外と精神的な逃避に他ならない(…緊張からの逃避, ≪快感原則≫の暴走)。そして勝利の結果として得られるべき『笑い=緊張のゆるみ=快感』を、独りがってに先取りしちゃった者は、逆に敗北に近づく。
すると、どうりでだ…。常に目の前の状況らを≪ギャグまんが≫の一片としか想えぬ筆者が社会を嘲笑しつつ、社会のりっぱな負け犬になり下がっていることが。なんて、だんだんと話が「クロ高」とは関係なさすぎてきたが。

ところで、ギャグまんがに対しての『劇画の画風』の導入ということについては、米沢嘉博氏の大名著「戦後ギャグマンガ史」(1982)にも指摘がある。そのお説によると、それをさいしょにやったのが「がきデカ」という作品の、わりと見えざる功績らしい(…筆者の臆見によれば、それ以前に「ハレンチ学園」の貢献が、死ぬほど見逃せない。しかし米沢氏の論調は「ハレンチ学園」に対し、ふしぎと全般的に否定的)。

そこで考えたら。さっき「ジョジョ」の題名が出てきたが、それについて筆者はひじょうに浅い、まったくさいきんからの愛読者であることを白状しつつ。そして「ジョジョ」についての最古の想い出というと、掲載誌に第3部が載っていたころ、ジョゼフかポルナレフが敵にいっぱい喰わされているこっけいな場面を見たような?
ゆえに筆者はそれから長い間、『まさに“奇妙”な作品、ギャグなのか劇画なのか分からない』…と、「ジョジョ」について考えていた。そしてその『ギャグなのか? 劇画なのか?』という境界がかき乱されている地点で、今作「クロ高」と「ジョジョ」とが出遭い(そこね)を演じている。
だいたい劇画の中のギャグ要素なんて、劇画の中にあるから『こそ』笑えるというものだ。今作「魁!! クロマティ高校」が題名の一部を借りている「魁!! 男塾」の脇役が、ここ一番の場面で放屁をかます、あれのように。そして「クロ高」はその効果を『逆に』、ギャグまんがのサイドから活用しているのだ。

そうして今作「クロ高」は、『劇画チックなギャグまんが』というサブジャンルにおける1コの革新を達成した作である…とまでは、少なくとも言えそう。しかし筆者がそれを愛するのは、毎回のサブタイトルが、たいてい古ぅ~い洋楽ロックの曲名になっている…そんなところへの共感、とかいう理由もある。これがまた、「ジョジョ」にひかれる理由の1つと同じだ。

筆者にはよく分からないことだが、「ジョジョ」シリーズの愛読者さま方は、≪クレイジー・ダイヤモンド≫や≪エコーズ≫が、もとはピンク・フロイドだということをご存じなのだろうか? かと思うと今作「クロ高」にも『Final Cut』とか『Show Must Go On』などという題名のエピソードがあり、この21世紀の初頭にピンク・フロイドはどうなのかと、筆者は遠~くに想いをはせるのだった。
まあ、われわれはギャグまんがを通じて≪狂気≫というものを考察しているので、そこでどうしてもフロイドの話が出そうな気もしつつ(…ピンク・フロイドの代表作"Dark Side of the Moon"の邦題が、「狂気」)。

かつ、「クロ高」のさいごのエピソードのサブタイトルが『The End』なのだが。いわば、『そのまんま』なのだが。しかしその内容とザ・ドアーズの唄との関係がなさすぎで、それこそりっぱな≪ギャグ≫だ、と考えざるをえない。
というところではっきり申せば、今シリーズ「クロ高」のさいごの方はけっこう低調だと思っていたが、しかしそこでぴたりと帳尻が合ったかも…という感じを受けたのだった。

【付記】 以上の堕文もまた、2009年の夏に書いていたものの再利用。しかしどういうわけなのか、このブログの記事には、ザ・ドアーズの名曲「ジ・エンド」、というネタが出すぎている。もちろん、わざとではないはずだがっ。