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2010/11/13

ホラー系ギャグまんが家の元祖、チャールズ・アダムス。基本情報と関連リンク集

チャールズ・アダムス「ばけもの大会」
チャールズ・アダムス
「ばけもの大会」
 
関連記事:押切蓮介「おばけのおやつ」 - または、≪ホラーギャグ≫論・序説第1章

ギャグまんがとブラックユーモア、またはホラーギャグというものについて調べていると必然的に突きあたる存在が、チャールズ・アダムス。米カートゥーン史上で確実にベスト3に入る大作家、映像シリーズ「アダムス・ファミリー(アダムスのお化け一家)」の原作者としても有名。

…なのではあるけれど、しかしその存在感やポピュラリティが、この日本国では異様にない。ティム・バートンの映画「アダムス・ファミリー」がちょっとうけたからといって、原作者アダムスに対する関心はいっこうに高まっていない。
論より証拠、アダムスの著作物で日本でも刊行されたものは、そのサイドワーク的な絵本である「チャールズ・アダムスのマザーグース」(国書刊行会, 2004)、ただ1冊だけ。かつネット上にも、ニホン語の情報がひじょうにない。日本語版のWikipediaに、チャールズ・アダムスの項目が“ない”のを象徴的な徴候として。

その現状を残念に思うので、しょうがなく無知な筆者が最低限のリソースを、ここに集積いたしておく。別に網羅的・完ぺきなものを作ろうとしてはおらず、なるべくパッと見で概要がつかめるように…と意図しつつ。ではどうぞ。



1. チャールズ・アダムス 人物と略歴

チャールズ・アダムス(Charles Samuel Addams)は、アメリカのカートゥーン(1コマまんが)を代表する作家のひとり。作品に『Chas Addams チャズ・アダムス』とサインするので、しばしばそちらの名前でも呼ばれる。
1912年ニュージャージー生まれ、高校時代から創作を学内誌に発表。ペンシルバニア大学やニューヨークの美術学校で学び、1932年からイラストレーターとして活動。1938年から一流誌『ニューヨーカー』の常連まんが家となり、1988年の没までその座にあり続け、その間、常に全世界から、最大の評価と敬意を受け続けた。

2. チャールズ・アダムス その作風

チャールズ・アダムス「四つ裂きの刑」
チャールズ・アダムス
「四つ裂きの刑」
アダムスの作風をひとことで言えば、やはり『ブラックユーモア』であり、そして『ゴシック』。死・暴力・犯罪・オカルト・SF要素などをモチーフにしての笑いがメイン。あるべくもない悪意の噴出や、あるべくもない“もの”らの出現が描かれる。

――― チャールズ・アダムスによる作例 5題 ―――
【その1】 ゲレンデのスキーのわだちが2本、途中に大木をはさんで(!)、続いている(…この不条理はアダムスのギャグの超基本で、同じ題材が何度も何度も描かれたらしい)。

【その2】 あぶない坊やが、盗んだ看板や立て札の収集にはげむ。看板らに書かれた文字は、『立入禁止』、『この先危険』、『高圧注意』、『遊泳禁止』、など。

【その3】 路上のマンホールから大ダコが出現し、通勤途中のサラリーマンにからみついて大騒ぎ! ところが平然とその横を通過していく別のリーマン、いわく『ニューヨークじゃ日常茶飯事さ』。

【その4】 画一的な建て売り住宅街の朝、それぞれの家から出勤していくパパを、ママと坊やが見送っている。ところがよく見るとそのパパたちは、1つの頭に顔が2つ・服を着たアリクイ・身長が約50cm・異常にデブ・手足が4本ずつ、等々とおかしい人ばかり!

【その5】 いわゆる『人喰い人種』の村で、料理中の妻に夫が言う。『…まさか、あの人類学者が昼めしの材料、ということはないよな?』。

このように。モンスターをはじめ、宇宙人や『人喰い人種』などの≪異類≫の活躍が大いに見られるのは、前の世代のカートゥニストらになかった特徴かと思われる。『アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ』を礼賛するようなトゥーンが大いに栄えていた中で、彼は『それが“すべて”ではない』と訴える。かつ彼はまた、『アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ』自体に内在する不気味さ、その破綻の必然さを描いていたように考えられる。

『アダムスと(ポスト・)コロニアリズム』ということは明らかに存在している問題で、おそらくはアメリカの学者らがいくつもの論文を書いていそう。たとえば次のような作例が、そのかっこうの題材になろう。

優雅なパーティ会場のバルコニー。着飾った女性が、身につけたエキゾチックな首飾りを示し、『これがいわくつき、呪いの伝説のついたものなんですの!』と言う。その背後の茂みの暗がりから、いわゆる『土人』が吹き矢で彼女に狙いをつけている。

マーガレット・ミードやレヴィ-ストロースらの著作がベストセラーになるような時代を、彼はまんが家として『ちゃんと』生きたのだった。ただしアダムスの『未開人もの』シリーズは、いまだとあまり笑えるものかどうか…という気もしつつ。
(追記。その後の調査により、アダムスの世代のギャグ・カートゥーンには、『未開人』テーマの作例は、ひじょうにざらにあると知った。その中でアダムスのアプローチがとりわけユニークだったかどうかは、いまは明らかにしない)

3. チャールズ・アダムスと、その先行作家ピーター・アーノ

ここで比較の材料を提示、アダムスより1世代前の偉大なまんが家に、ピーター・アーノ(Peter Arno, 1904-68)がいる。彼は『ギャグ・カートゥーン』の元祖として知られ、1925年から没までニューヨーカーに寄稿していた、アダムスの大先輩だ。このアーノと比較してみると、アダムスの個性がいっそう分かりやすいかもしれない。
アーノの作風は、くびれのきわだったグラマーなアメリカ女性への礼賛、艶笑の要素が大いに目立つものだ。その特徴を、楽天的・肯定的・享楽的、などとも形容できるだろう。

――― ピーター・アーノによる作例 4題 ―――
【その1(1936)】 野球場の外野席。ホームラン性の当たりを捕ろうとしている外野手の腕が、最前列の観客の女性の首にまきついて、ハグする形に。それで女性はあわを食うが、その隣の夫は言う。『じっとして! ワールドシリーズの勝敗がかかっているんだぞ!』。

【その2(1943)】 プールサイドでスタンバイしている女子水泳選手たち。それを撮影しているカメラマンたちのカメラが、いちようかつ露骨に、端っこの美人選手だけを狙っている。そこで美人選手はにんまり、他の選手らはおかんむり。

「ピーター・アーノのポケットブック」
「ピーター・アーノの
ポケットブック」1955
【その3(年代不明)】 公園のベンチで、ひじょうに国際色ある子どもを6人も面倒みている女性。その装いは、喪装かも。そこへ通りがかった高級軍人が、連れに向かって説明する。『彼女Q-37号は、かってわが国でもっとも優秀な工作員だったのです』。

【その4(1960)】 全米ミスコンテストのステージ上、ラインナップした各州代表の女性らが、まったく画一的なグラマー体型。それを眺めて関係者らしき紳士たちが、『アメリカに生まれた誇りを感じるね!』と悦ぶ。

いちおう『意味』の分かるものを集めてみたが、そんなには面白くもない感じ(!?)。しかしこれらは、日本で言ったら「ノンキナトウサン」から「フジ三太郎」あたりに相当するような創作なので、まあそこはがまんで。

さて、いまアーノの作例としてミスコンテストという話題が出たが、われらがアダムスにもそれを扱った作品がある。そちらではコンテスト会場にUFOが飛来するので(!)、ステージ上の役員がそれに向かって叫ぶ。

『どっかへ行っちまえ、エントリーはとっくに締め切られているぞ!』

またアーノの作例3は『国際色のある子どもたち』という題材だったが、やや似たようなことをアダムスが描くと、こうだ。『分娩室』と札の出ているドアをバタンと開けて、ナースと医者たちが『ギャー!』とでも叫び驚き恐れながら、そこからいっさんに逃げ出してくる(!)。こういうものが、『アダムスの作風』だ。

4. チャールズ・アダムスの主要な著作物

アダムスには主著として9冊の作品集があり、その他に総集編・ドローイング・挿し絵などが刊行されているようだが、ここではひじょうにかんたんな紹介にとどめる。また、定まった訳題は存在しないようなので、いま筆者がつけている。

    ≪作品集≫
「四つ裂きの刑」, Drawn and Quartered (1942)
「アダムスと悪しきもの」, Addams and Evil (1947)
「ばけもの大会」, Monster Rally (1950)
「わが家の人々」, Homebodies (1954)
「夜にうごめくものたち」, Nightcrawlers (1957)
「黒いマリア」, Black Maria (1960)
「ご馳走いっぱいのテーブル」, The Groaning Board (1964)
「わたしの人々」, My Crowd (1970)
「お気に入りの場所」, Favorite Haunts (1976)

    ≪総集編≫
「いとしき死者の日々」, Dear Dead Days (1959)
「そして彼らはいつまでも幸せに」, Happily Ever After (2006)

    ≪イラストレーション≫
「チャールズ・アダムスのマザー・グース」, The Chas Addams Mother Goose (1967)

5. チャールズ・アダムスと「アダムス・ファミリー」

アダムスに、「アダムス・ファミリー(アダムスのお化け一家)」という作品は、存在しない。それは彼の作品系列を原作とした、米ABCのテレビシリーズ(1964)に付けられたタイトルだ。それをまたベースにして、アニメーションや劇場映画へと、シリーズが続いている。

なお、のちに『アダムス・ファミリー』と呼ばれるキャラクターたちは、早くも1938年のニューヨーカー誌に登場し、それからアダムス作品のレギュラーとなっている。けれども個々人の名前があるでもなく、設定の類も何もなかった。それらはすべて、映像化のさいに後付けされたものだ。

6. チャールズ・アダムス関連のリンク集

チャールズ・アダムス「いとしき死者の日々」
チャールズ・アダムス
「いとしき死者の日々」
以下にご紹介するリンク先について、そのコンテンツらに何らかの問題がないとも限らないが、『あくまでも研究のための情報収集』ということをふまえつつご利用されたし。

    ≪オフィシャル≫
◆Tee & Charles Addams Foundation(*
総本家だが、期待するほどの情報はない。いくつか作例も見られるが、解像度がひじょうに低い。

    ≪準オフィシャル的サイト≫
◆The New Yorker: Charles Addams(*
アダムスのホームだったニューヨーカー誌の公式サイト。上のリンク先以外にも、サイト内を検索するといろいろ出てきそうな感じ。
◆Wikipedia: Charles Addams(*
英語版Wikipedia、基本情報が存在する。アダムスの(少年時代の?)ニックネームは『Chill さむけ』だった、など。あと気づいたこととして、『エドワード・ゴーリー(Edward Gorey)をも見よ』とあり、どこかの世界でアダムスはゴーリーのお仲間らしい。…が、筆者はそれを否定する。まだしも、『アーノ-アダムス』関係の方が重要。
◆はてなキーワード: チャールズ・アダムス(*
わずかな基本情報が存在する。一般知識としては、このくらいで充分かも?
◆国書刊行会: チャールズ・アダムス 恐怖と笑いの双面神(*
「アダムスのマザーグース」の版元のサイトに掲載、訳者・山口雅也氏によるエッセイ。

    ≪その他、特にアダムスの作例が見られるウェブ≫
◆チャールズ・アダムス(*
日本語で作例の見られるサイトはここだけ。
◆Golden Age Comic Book Stories: Charles Addams(*
ここはけっこう、あせるほどにすごい。
◆Hairy Green Eyeball: Charles Addams(*
アダムスだけでなく、アーノの作例も豊富。その姉妹ブログも参照(*
◆Caustic Cover Critic: The Book Covers of Charles Addams(*
表紙だけ。たぶん本人のコレクションを展示しているサイトで、本の読み込まれた感じがよい。
◆A Dazy Log Was Brossing A Cridge: Charles Addams(*
◆Cartoonist.Name: Charles Addams(*
◆Looking at Cartoons, Getting Along: Charles Addams(*
上の3つのサイト、それぞれアダムスの作例を10数点ほど掲載。このクラスのリソースは、枚挙にいとまがない。

7. さいごに。自分(アイスマン)と、チャールズ・アダムス

チャールズ・アダムス「わたしの人々」
チャールズ・アダムス
「わたしの人々」
何度も申し上げるけれど、アダムスの知名度が日本ではひじょうに低い。けれどウェブ上のいろいろな作例を見ていると、超むかし読んだ本だが、星新一「進化した猿たち」(1968)に載っていたものが、けっこうあるな…と気がついた。
それで思わず、懐かしんだ。ホラー的でSF的でウイットがあって超コンパクトなアダムスの作風と、星新一のテイストの重なりは、申すまでもなく明らかだろう。
ただし「進化した猿たち」は、いちいちカートゥーン作者の名などは書いていない本なので、『アダムス入門』的には使えない。あらかじめいろいろ見ていれば、画風や画面のサインで分かるだろうけれど。

もうひとつ、これはどうでもいいようなことだが、名前の表記について。むかしは『アダム“ズ”』という書き方が、一般的だったように思える。そういうことにコンシャスだった都筑道夫氏もそう書いているらしいので(*)、それで行きたいような気もしたが。
けれども近ごろめっきりと体制順応的なオポチュニストになっている自分は、ここでの表記を一般的な『チャールズ・アダム“ス”』としている。それがいちおうは考えた結果であると、ひきょう者の言い逃れを残して終わる。

2010/11/02

押切蓮介「おばけのおやつ」 - または、≪ホラーギャグ≫論・序説第1章

押切蓮介「おばけのおやつ」 
参考リンク:Wikipedia“押切蓮介”

ただでさえマイナーなギャグまんがの世界ではあるけれど、その中でまたささやかに≪ホラーギャグ≫というジャンルが、ちょっとはやっている感じはある。その現在の第一人者が、言わずと知れたこちらの押切蓮介先生。あと今回は見ないが、松本ひで吉「ほんとにあった!霊媒先生」(2008)の存在をも指摘。
そして参考リンク先の記述だと、こちらの押切蓮介先生その人が、このジャンルの開拓者であるようなお話。へえぇー、そうなのかな?、と思って調べてみると…。

1. ≪ホラーギャグ≫の源流をたずねて

まずは押切先生のデビューが、1997年のヤングマガジン誌上「マサシ!! うしろだ!!」であるそう。そしてそれ以前のホラーギャグっぽい作品はというと、確かにいまいち見つからない。
古典の部類、楳図かずお先生の「アゲイン」(1971)や「まことちゃん」(1976)は、タッチは確かにホラーっぽいけれど、内容にホラー要素があるのではないわけで。またもっと古く、水木しげる先生の諸作のこっけい味ということも思い出されるが、それはわれわれの言う≪ギャグ≫ではない。

まんが本来の風刺やこっけいと、「おそ松くん」以降のショッキングな≪ギャグ≫とを、できれば一緒にしたくはない…というわれわれの立場があるのだ。よって諸星大二郎先生のユーモア系の諸作品も、ここでは除外にしたい。
かつまた、1970-80'sのB級ホラーまんがには、ストレンジすぎてむしろ笑えるようなものも多い、のような説を聞く(その話は、この後にまたふれる)。それもそれで留意すべきだが、しかしわれわれは意図的でないものを≪ギャグまんが≫とは呼ばない。
さらにまた、海外の映画やカートゥーンの分野では、ホラーギャグというテイストはずいぶん前からあったような感じだ。けれどもそっちのお話は、また管轄外として。

なお、ホラーを看板にかかげた作品ではないが、りぼんの大ロングラン4コマ作品の津山ちなみ「HIGH SCORE」(1995)による、このジャンルへの貢献が見逃せない。ヒロインの父親が霊媒体質、同クラスメイトは地下室で化け物を飼っているオカルト少女、イトコの少年は虫をいじめるの大好きなグロ野郎…と、かなりそっち系の要素で押している(*)。

山咲トオル「戦慄!! タコ少女」第1巻かつまた。あまり筆者は知らなかった作家だが、1994年デビューの山咲トオル先生もまた、ホラーギャグというジャンルに先鞭をつけた1人ではあった感じ。インタビュー記事を拝見すると、その作家歴の初期、『“怖いのと面白いのを足したのを描こうかな”と、「まことちゃん」と「おろち」を足したのを描いてみようと』…などと、かなり迫ったことを述べておられる(*)。
ただ筆者のおぼろな印象だと、山咲先生のお作らは、視覚的なグロをフィーチャーしすぎている感じで、『「まことちゃん」と「おろち」を足した』ような…というふんいきではなかったような? そこらはいずれ、機会があれば検討することとして。

2. 包丁をブッ刺し、血がドピュー

それこれ見てくると、分かったのは。『明らかに可能なジャンル』だと、すでにLate 1970'sくらいには認識されていた感じの≪ホラーギャグまんが≫。だが、それが意識的に追求され始めたのは意外と遅く、Mid 1990'sくらいになりそうということ。
しかも。ここまでに名が出た3先生の特徴として、それぞれかなり意図的・意識的に、このジャンルやテイストに進まれている、そのことをわれわれは意識したい。

まず、山咲トオル先生については見たとおり。その初期、画面が楳図先生に似すぎと言われて、『何か個性を!』と考えた末に山咲先生は、その路線を目ざされたのだ。ただし「まことちゃん」+「おろち」では、ぜんぜん『脱・楳図』になっていない感じだが!
また津山ちなみ先生については、以前りぼん誌上で見た談話によると、『すべてネタ出しは計算ずくの作業。ひらめきに頼るようなことはしません』、とか。その計算の上で出てきた、ギャグ+ホラーの路線なのだ。

そして、ここで見ていく押切蓮介先生。この方は、わりとマニアックなまんがファンが高じて、創作に進まれたそうで。その事情が、押切先生のご著書の解説文に書かれている。

――― 押切蓮介「でろでろ」第4巻, 解説文より(p.158) ―――
【押切蓮介】 (ひばり書房の1980's B級ホラーへの傾倒を明かし、)ひばり系って、作者本人たちはマジメに描いたのかもしれませんけど、おかしいじゃないですか。そういう「笑えるホラー」な感じが現代に活かせるんじゃないかと思って。

押切蓮介「でろでろ」第4巻なるほど…と、こっちの側にかってななっとくが生じ気味。『ギャグとホラーの親近性』はひじょうに古くから言われていることだけれど、しかしホラーのふんいきを前提にしながらギャグとして機能させる、そのような創作は、めちゃくちゃに意識的な作業の結果でしかありえないようなのだった。
そしてわれらの押切先生は、B級ホラーの意図されざるおかしさを、意図的なギャグへと鍛えあげようとしておられる、そういう作家だということも、また見えた。

あと、あたりまえのことも記しておくと。かの赤塚不二夫「天才バカボン」(1967)で、マッドサイエンティストがグロい人体改造手術をするようなお話がある。また谷岡ヤスジ「メッタメタガキ道講座」(1970)では、ささいなことでブチ切れたキャラクターがデバ包丁を人にブッ刺し、血がドピューと出る。よく考えたらどちらも怖い内容だが、しかし≪ホラーギャグ≫と呼べるもの、とは感じられない。
つまり≪ホラーギャグ≫を言うには、ふんいきとしてのホラーっぽさが前提らしいのだった。すると「HIGH SCORE」の場合には、わりとのんきな学園生活の中にホラー要素が侵入してくるわけで、ひじょうに巧みな構成ではあるけれど、やはりこっちのコアな作風ではない感じ。

かつ、山咲トオル先生がまんが家業をセミリタイア(?)状態であることから、ホラーギャグの初期からの最重要作家は、やはり定説通り押切蓮介先生なのであろう…と、どうやら確認できたようなところで。

3. 見ることは、見られることでもある

ここでやっとわれわれは、押切蓮介先生の実作を見てみる準備ができたのだが(!)。ところが申しわけないことに、筆者の準備不足により、その代表作っぽいものを語っていくことができない。
そこでいまは、まにあわせ的に(!)、先生の初期作品集から、わずか3ページの小品をひとつ見てみよう。

――― 押切蓮介「おばけのおやつ」p.61, 『遠隔』(2003) ―――
何かのタワーの展望台から、少年が設備の望遠鏡(両眼用)を覗いていると、下方の民家の一室に、首吊り死体を発見してしまう。白一色のワンピースを着た、ぞろりと髪の長い女性の。
それで少年が『あっ…』と言ったきり、とりつかれたように見続けていると、やがてその女はゆっくりと顔を上げる(!)。そして何とも言えぬ不気味な表情で、眼球がないように見える目で、見ている少年を見つめ返してくる。少年は戦慄しながら、しかしそこから目を離せず、向こうを見つめ続ける。
そこへ少年の連れが、ニヤニヤしながら『おい… 何見てんだよ』と、声をかけ少年の肩にふれる。すると少年は、眼窩から血を流しながら、『ズシャッ』とその場に倒れてしまう。その目からは、眼球が失われているように見える。
そして少年の連れが、ぞっとしながら望遠鏡の方を見やると。その接眼レンズのあるところから、ざんばらの長い髪の毛が大量に、こちら側へと垂れている(完)。

おっと、この作品はギャグ味のぜんぜんない純ホラーだったが。けれどもこの短編集「おばけのおやつ」(2007, 太田出版)で、いちばん筆者の印象に残った作品が、この『遠隔』なのだった。

英ブラック・ラット・プロダクション「オイディプス」そしてこの超ショートホラーのスタイルが、われわれの前に研究した中山昌亮「不安の種」シリーズ(*)によく似ていることは、まず言うまでもないとして。そしてその記事で言及された作例らの、『ほのかにも性的ニュアンスがある』、というところも通じている。
『遠隔』の少年が、スケベ心から民家を望遠鏡で覗き込んだのかどうか、ということは分からない。けれども彼の連れは、彼が何かスケベ的なものを見ているに違いない、と思っているわけだ。

で、ともかくも。あれこれの“もの”を『見たい』という少年の欲望が、『見ることは見られることでもある』という≪真理≫の回帰をともなって、さいご罰せられている気配。かつまた≪近親相姦≫のふんいきを匂わせているところも、「不安の種」に見た作例らに同じ。
この物語について筆者は、少年が自分の母や姉の浴室や寝室を覗く、というお話のバリエーションのような気がしたのだった。そして『目をえぐられる』という結末は、かの≪オイディプス王≫が、お話のさいごに自らを罰して自分の目をつぶした、ということを想起させるのだった(=≪去勢≫を示唆する要素)。

よってこれは、単なるグロい怪奇談ではない。見ることと見られること、見る手段としてのフェティッシュであるレンズ類、女性と男性、そして≪欲望≫。…こうした≪外傷≫的な要素らがたくみに織り込まれていてこその、鮮烈な超ショートホラー作品『遠隔』なのだった。

かつまた。このようにホラー作品というものが、何らかの性的な認識を匂わせていることが、かなり多くありそう…と筆者は思うのだが、しかしそんなには聞かない説だ。
『ホラーとエロス』、という問題意識! これにつき、はっきりそのようなお題が出ているのではないが、スラヴォイ・ジジェク様がヒッチコックやスティーブン・キング等を語っているご文らは、かなり迫りえているものと考えつつ。
そして押切作品の場合だとエロスの要素は、その描くふしぎなふんいきの少女たちに出ているものかと思われる。実作をしさいに見ていけば、何かきっと明らかになることがあろう。

…と。まずはわれらが押切蓮介先生の創作のキレ、その一端を見た上で、この話の続きはまた遠からず!

【追加の余談】 『遠隔』という作品について、もうひとこと。それはさきに述べたような作品とみて、いちおうまちがいないとも思うのだが…。
けれど言わんでいいことを指摘しておくと、さいごの1コマの、双眼鏡式の望遠鏡から、髪の毛がこっちに伸びてきている描写。ちょっと見方を変えると、その凄惨で不気味なものが、『ものすごい鼻毛』という風にも見える(!)。
押切先生として、たぶん珍しくシリアス一辺倒なホラー作品である『遠隔』。それが意外に(?)、≪ひばり系≫ばりの『笑えるホラー』になっているようなところが、びみょうにはあるのだった。まさか仕込みでもないと思うけど、どうなのか…?

2010/10/29

中山昌亮「不安の種」 - 不条理ホラー と 不条理ギャグ

中山昌亮「不安の種」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「中山昌亮」

中山昌亮「不安の種」は、超ショート形式のオムニバスホラーまんが。推定2004年からチャンピオンREDに掲載、追って「不安の種+」に改題されて週刊少年チャンピオンに移転。単行本は、無印が全3巻(ACWチャンピオン)、「+」が全4巻(少年チャンピオン・コミックス)。この堕文では、ひとまず無印版の方を見ていくことに。

1. 窓の外、ドアの外にひそむ“もの”

何しろこのシリーズは、最短2ページできりがつくという、そのスピード感がすばらしい! 最低限の導入部に続いてドカンとイベントが発生し、それでスパッと終わってしまう。長々しいプロローグもなければ、因果話としてのくどい説明もない。
どういう作品なのか、まずその第1巻から、いくつかお話を紹介してみると。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #12『訪問』 ―――
たぶんビジネスホテルで深夜3時、急ぎの仕事でパソコンを叩いている青年。
…ふと何かを感じ、窓を開けて外を見渡す。するとその建物の3階か4階、同じ階層の窓に張りついて、ガタガタッと何かをしている女性らしい姿あり。
『 な…… なんだ… ありゃ?』
彼が見ていることに気づくと、その女性は垂直の壁をペタペタペタと四肢で這い歩き、すごい勢いでこっちへ! しかも、その顔はのっぺらぼう!
青年はびっくりして『バンッ』と窓を閉めるも、相手は彼の部屋の窓に張りついたまま、じっとこちらをうかがっている。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #15『ピンポンダッシュ』 ―――
みょうに毎度のピンポンダッシュに悩まされている青年。ちょうど玄関にいたところ、ドアの向こうに何か気配を感じ、とっちめてやろうと、ドアスコープを覗く。
ところが見えたものは、いたずら小僧ではなく、やたら髪が長い女性らしき姿。奇妙な薄暗さに包まれて、その髪が前に垂れて顔を隠しているのか、それとも後ろを向いているのか、よく分からない。
そしてその女は、何か人間としてありえないポーズで腕を伸ばし、そして『ピンポーン…』とチャイムを鳴らす。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #9『届けもの』 ―――
安アパートに住む青年、その玄関のドアノブに、毎日のようにふかしぎな届けものが吊るされて…と、友人に打ち明ける。
『クシャクシャのコンビニ袋にさ…… ヨーカン1本とか ドーナツ屋のオマケのタオルとかさ ひどい時には 生の牛肉が新聞紙にくるまれて……』
友人は警察へ行けと言うが、しかし青年は『でも ここしばらく 無いんだよ』と言う。そして『いっそ くたばってて 欲しいぜ』などと吐き捨てるので、そこで逆に友人は引く。
やがて2人が部屋にたどりつくと、久々のそれが! そこで青年が怒って袋をたたき落とすと、その中身が転がり出る。『小鹿サブレ』という菓子の箱、そこに描かれたかわいい小鹿の絵、その目の部分に、アイスピックか目打ちがグッサリと突き刺さっている。

『不安の種』とはよく言ったもので、人間誰しも≪不安≫はある。見た作例らでは、窓の外、ドアの外への不安らが描かれている。もともと不安が存在しているところに、それを形象化した“もの”らが現れている。
晩年のフロイト様は、『何か理由があって不安がある、というものではない。むしろ人間らには、どうしようもなくさいしょから不安がありすぎる』とまで述べられた(…確か、「終わりある分析と終わりなき分析」に出ていたかと)。よって、閉所が不安なら広場も不安、深夜も不安なら白昼も不安、というわけだ。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, 表4のあおり ―――
落下する夢のような
生温かい血液が背中を這うような
最後の一瞬だけを繰り返し体験するような
そんな気分はお好きですか…。
新感覚オムニバスホラー。
この物語は8割がフィクションです。

『8割がフィクション』とはよく言ったもので、今シリーズの特徴として、さいしょかさいごに時間と場所のデータが書き込まれている例が多し。作例#12だと、冒頭に『平成14年 2月 九州 福岡市』、とある。
だが、まんが表現の面白いところで、そのデータが、『この事件がその時そこで起こった』という意味かどうか、別にはっきりはしていない。ただ単に、絵図と文字とが画面上で出遭(いそこな)っているだけ、とも受けとれる。
にしても何らかの仕方でエピソードらが、具体的な日時と場所につながれている。その日時と場所が実在したことまでは確かそうなので、それが2割のノンフィクション部分なのやも知れぬ。そしてその部分の存在が、このお話らのやたらなリアリティに寄与していそう。

(さらに、単行本だけの特徴かも知れないが、エピソードの合い間のページに挿入された白黒写真。何でもないが、しかし何かありそうな都会の一隅を、高感度フィルムの粗い粒子で描写したもの。
何とこれらのほとんどが、エピソードの舞台らをそのまま写したものに見える! これがまた、このお話らのやたらなリアリティに寄与しつつ)

2. 欠如であるべきポイントを、かってに占拠する“もの”

ところでなんだが、さっき見た作例3つ、いずれにも性的なニュアンスを見ることができる。「不安の種」シリーズ全般に、かなりそれはある。#12『訪問』のさいごの1コマ、窓に張りついたのっぺらぼうの女性が、くねっとしたポーズで首をかしげながら、ミニスカートから出た脚を誇示しているのが印象的だ。
そして≪不安≫の高まりということについて、性的なアンバランスをその理由にする見方がある。さきの作例3つについて、まず何らかの性的な強迫を見た上で、さらに筆者が独断的に解釈すれば、これらはいずれも≪近親相姦≫の強迫、その存在を語っている。

中山昌亮「不安の種」第2巻もっとはっきり言えば、その目撃者である主体の、母や叔母や姉あたりが、近親相姦を迫ってくるというイメージ。それが変形されて、それぞれのエピソードになっている。
ただし近親相姦の欲望は主体の側にあるもので、それがくるくると反転されながら外化されて、それぞれの化け物的な女性(?)の出現、となっているのだ。…ま、それはひとつの可能な解釈として。

ところでこのシリーズのスタイルが、われわれの見てきた≪不条理ギャグ≫と似すぎていることは、大方の諸賢にはお分かりのことだろう。以前、当家のこの記事(*)で定義された≪不条理ギャグ≫とは、次のようなものだった。

『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である。

今作に即して言い直せば、もともと≪不安≫のあるような場所、薄暗いところや境界、何か人の情念がこもっていそうな場所。その欠如であるべきポイントを、かってに占拠する“もの”が突発的に現れる。
そこで主体の不安は≪恐怖≫に転じ、そしてお話はスパッと終わってしまう。そしてこの、『不安→恐怖』の転換が一種のカタルシスとなるので、よって今作はエンターテインメントとして成り立つ。

また、次のような作例はあからさまにギャグっぽい。今作について、『通り越して笑える部分もけっこうある』とは、わりに多くの人が感じるところらしい。

――― 中山昌亮「不安の種」第1巻, #14『訪問 II』 ―――
夜、ガタイのいい青年がテレビを見ていると、ベランダに人影。撃退してやろうと、身構えながら窓を開けたら…。
そこには、兇悪そうな鎌をもった、がい骨っぽい化け物の姿が! しかしその人物は、『ああ… 間違えた』とつぶやき(!)、そしてベランダ間の仕切りを透過して、隣の部屋へと向かうのだった。

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b12『エックスデイ』 ―――
ちょっとスカしたかっこうの青年がクリスマスの街を、『オレんちにはサンタなんか来ねえし、さみしいなあ』、などと嘆きながら歩いている。
そして彼がアパートの前まで戻ってくると、自室のベランダの柵の上に、ふら~りと立っている、サンタの服を着た人影が…。
やがてそのサンタ風の人物は、窓ガラスに手を当て、そしてありえぬような大きな口と兇悪な歯並びをむき出して(!)、何かブツブツつぶやいたかと思ったら、『ずず…』と窓ガラスを通りぬけ、『ずるん』と青年の部屋に侵入してしまう。
これらを見ていた青年は頭を抱え、『前言撤回!! さみしくないっす! お願い! 出てって!!』と、心で叫ぶ。

b12『エックスデイ』では、『クリスマス→Xマス→Xデイ』ということばの転換が秀逸だが、そのことば遊びの要素も、ほのかにギャグっぽい。
また次の例など、『もろにギャグっぽい』というのではないが、しかし吉田戦車「伝染るんです。」の中に、そのまま出てきそうなお話なのでは?

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b1『スウィング』 ―――
会社にケータイを忘れたサラリーマン。取りに戻ったら、ひと気のない真っ暗なオフィスから、『ブンブン、ブゥンブゥン!』と、異様な音がしている。
覗き込んだら、なぞの野球少年がバットを素振りしている。リーマンに気づくと少年はスウィングをやめ、『ガランガラン』と金属バットを床に引きずりながら、オフィスを出て行く。すれ違いざまに彼らが視線を合わせると、その少年の顔は、暗闇の中にみょうに真っ白で、そして目と口がきわめて小さい、異様なありさま。

かくて。言いわけや説明などの部分をいさぎよく切り捨てた、“超”ショートホラーである今作「不安の種」。その表現は明らかに、≪不条理ギャグ≫の先端部位に接して、同じかたちを描いているものなのだった。

3. 繰り返し…繰り返し…繰り返し………

中山昌亮「不安の種」第3巻そしてここまでを見てくると、さいしょにご紹介した3つの作例。そこに登場する女性らしき“もの”たちが、ギャグの世界で近年はやり気味な、『不条理のヒロイン』たち、それらと等価なものだということも分かってくるだろう。
どこに出てきた『不条理のヒロイン』かって、いままでいろいろご紹介してきたが、「妹は思春期」、「メグミックス」、「ロボこみ」、「侵略!イカ娘」、「波打際のむろみさん」…あの系列の。

とまでを明らかにできたところで、この堕文をいったん終わりたい。そしてさいごに、無印「不安の種」シリーズで、筆者がいちばん心に残った作例をご紹介。

――― 中山昌亮「不安の種」第2巻, b18『飛ぶ人』 ―――
青年2人が夜の道を、何かお金の勘定の問題で、びみょうに言い争いながら歩いている。そして一方がふと、近くのビルの屋上、そのフェンスの外側に、女性らしき人影を見つける。
『あれ 飛び降り自殺…… じゃねえか?』
『あ――… 大丈夫』
『大丈夫って お前ね…』
『あれ 毎晩飛び降り てるから』
…などと不可解なせりふが出たところで、屋上の人影はダイブを決行し、『ドサッ』といやな音が、そこに響く。しかし何かを知っている方の青年は、まったく表情も変えず、『繰り返し …なんだよ』、とつぶやく。
2人が見上げるビルの屋上、さっきと同じ場所に、再びその女性らしき人影が現れる。

繰り返し、繰り返し、繰り返し! かくて『不安の種』はけっしてつきることなく、そしてここにまた現れた不条理のヒロイン、そのまがまがしい媚態もまた、飽かずいつまでも反復されるのだ。

2010/02/22

つのだじろう「新うしろの百太郎」 - またはそういう意味でのホラー

 
参考リンク:Wikipedia「うしろの百太郎」

ご存じのホラーまんがの1つの古典「うしろの百太郎」、今回はその『新』がつくシリーズについて(1975, KCスペシャル, 全6巻)。さいきんの記事の「悪魔と俺 特盛り」がいろいろと濃すぎたので、ちょっと目先を変えてみようかと。

ところがだ。しかしその作品がまた、目もくらむようにどぎついしろものと、言えば言える。
どういうところにそのどぎつさを感じるか、というと。そのKCスペシャル版の第1巻の冒頭(p.6-13)から、ちょいとご紹介すれば。

 『死後の世界は 百パーセント 確実に 存在する! 
 そう断言 している ロス教授(例の「死ぬ瞬間」の著者キューブラー・ロス) は‥‥
 (中略)蘇生にかんする 研究で たいへんな 権威なのだ!』
 『(超能力について)外国では 長年 研究を かさねた権威ある
 科学者が 百パーセント ある‥‥と 断言している!』

というわけで、日本じゃない外国では、死後の世界や超能力らの実在は、すでに常識である(!)、とみた上で。

 『(オカルトに対して)この五年‥‥ 十年のあいだに
 日本人の考え方も じつは 大きく かわってきつつ あるんだ!』

と、主人公である一太郎クンのパパが言う根拠は、1984/08/20付の読売新聞より、『八〇年代国民意識の流れ』という世論調査の集計だ。その紙面が画面に貼り込まれており、『「神秘」大好き都会っ子』などという見出しらが見えている。
その記事の要旨を筆者が説明すると、まず宗教を信じている人は全体のたった3割足らずなのに、オカルト(的なこと)を信じている人は大いに増えている。特に、都市部および若年層においてその傾向が顕著、とのこと。
ちなみに調査対象は『有権者』なので、10代は含まれていない。そこを含めればオカルト信奉者はもっと多くなるはずと、パパさんは言う。それはそうだろうと、筆者もそこは同感する。そして。

 『この データの しめしている ものは
 科学は 万能ではない! この世には 現代科学でも
 解明できない ものが たくさんある!
 ‥‥という 正しい認識をする 進歩的な考えの 人々が‥‥
 都会や 若い層に ひじょうに 多くなっている‥‥
 反対に 古い常識に こだわり ガンコに
 理由のない 否定をつづける 人は‥‥ 田舎や 老人に多い(←!!)』

とまで引用してきて思ったのだが、どうして少年マガジンは他で見ない『‥』(2点リーダー)なのだろうか? と思ってから、前の記事の野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻を見て確認したら、そこでは一般的な『…』(3点リーダー)に変わってやがるし。
ありゃりゃりゃ。同じKC少年マガジンで、2009年5月刊の氏家ト全「生徒会役員共」第2巻では、『‥』だが。まあ、それはいいが。

まあともかくも、一太郎クンのパパの怪気炎の、さいごのところをご紹介しておこう。

 『霊魂は 存在するのだ! 現代の科学では その論を 否定できない
 ところまで きている! それは 世界の趨勢だ!
 ノーベル賞 受賞者を含む 大勢の科学者が 徹底的に 研究を
 かさねたデータが つぎつぎに 発表されて いるからね!』

まったくもって、目もくらむような電波談義としか申しようがない。こんなでは、どうして自分が≪1999年7の月≫の後にまで生きているのか、ほんとうに今年は2010年なのか、という疑問さえが生じ気味だ。
いや別に自分は後出しジャンケンとして、それからもう25年以上、いまだオカルトの実在がぜんぜん証明されてはいない、ということを述べようとはしていない。25年だろうが100年だろうが、そんなものが証明される見込みはないし。

そんなことに関係なく、さいしょからパパさんのりくつは『感情』に向けて『想像』を訴えているばかりで、ごく小さな論拠にもとづいて大きな論拠を斥けているばかりで、まったくもって論理性がなさすぎる。
それを信じている人々は、『信じたいから』それを信じているにすぎない。ただしパパさんの言うような主張が、世論調査にも見えている1つの時代の風潮にのったものではあった、ということも確かでありながら。

にしても、パパさんの言っている≪科学≫とは何なのだろうか? あるとき彼は『権威ある科学者がオカルトOKと言っているので、それはある』と言い、大多数派の≪権威ある科学者≫らが『オカルト、笑止!』と言っていることは気にもとめない。またあるとき彼は『科学は万能ではない!』と言い、別のところでは『大勢の科学者が 徹底的に 研究を かさねたデータ』がそれを証明している、と言う。
ようするに科学であろうが神話や伝説であろうが、彼には『信じたいものを信じる』、以外の態度はない。かくて、そんなにおバカさんとも思えぬ人間が、ある局面ではここまで≪批判精神≫をドブに捨てることができる…という恐ろしい1つの実例を、ここでわれわれは見ているのだ。
独りがってな『想像』の世界に生きている人間らにとって、事実および≪真理≫らの値打ちは馬のふん(=1ゴールド)ほどにも『ない』。これこそが幽霊や妖怪の出現どころでない、真の≪ホラー≫なのではあるまいか?

…ところでだ。筆者がひじょうに興味をもっている、精神分析というものがあるのだが。その世界の1匹のボスだったラカンちゃまが『分析理論のみちびくところにより、オカルト絶対否定!』と教えているので、そういうわけだが。
そうしてその精神分析について、『それは科学なのか? または別のものなのか?』という問いは、その内部の問題として存在する(外部からの同じ問いは、とくに問題とするに値しない)。
で、ラカンちゃまのそれについてのテーゼは、『精神分析は、“科学であることを目ざす言説”である』、のようなことだが…。

昨2009年の秋ごろ筆者は、その『科学とは何か?』ということを、ちょっと研究していたような記憶がある。ようはポパーが「科学的発見の論理」(1934)で『反証可能性』の有無によって科学を定義しようとした試みが、1962年のクーン「科学革命の構造」、ファイヤアーベント「説明、還元、経験主義」といった著作らで大粉砕されている。かつ、この1962年という『科学観革命』の年が≪ギャグまんが第1号≫こと「おそ松くん」誕生の年と同じであることを、ただの偶然と考えるには及ばない。
かくて『論理実証的』な科学観の崩壊した後に、科学を定義するには、『ワールドワイドの科学コミュニティ(または科学ギルド)の内部で行われ、そこで“科学である”と認定された活動が科学である』…などとしか言いようがない。
この言い方は、フロイトが発案者として≪性感帯≫という概念を説明した言い方を思わせる。いわく、『性感帯とは、人間が“性感帯だ”と思っている部位である』。

そもそも精神分析は『臨床医学』かつ『精神医学』の中の1つの『医術』と考えられ、そうしてそれらが実証科学と言えるものなのか、ということ自体が、1つの大問題なのでもあり(ポパー的には、ぜんぜん落第)。ゆえにわれわれは、『精神分析ごとき、“実証的”でないので非科学的だ』、などとぬかして悦ぶおバカさんたちが死ぬほど勉強不足であることを、そのあんまりな反省のなさを、しんそこ軽蔑してもよいが。
(ところで精神分析を否定する方々は、その末流で廉価版コピーである『カウンセリング』とやらの療法をも全面否定した方がいい。いまどきは血税をもって『カウンセラー』が雇われることもあるらしいので、否定派の方々は行政訴訟を起こした方がいい。そして心の悩みに苦しむ方々には、悩む余力もなくなるまで向精神薬をたらふく喰わせとけばいい…というわけだ! オーレイ、実証科学ばんざい!)

かと言ってわれわれに『実証性』が足りてないことを、そのりくつに『超越論的』な性格のあることを、まったく気にもしないでは、一太郎パパさんと同じになり気味かなあ…と、ここで筆者はため息をつくのだった。その言う『正しい認識』とは、『進歩的な考え』とは、いったい≪何≫なのだろうか?
『論理実証主義は崩壊した、よって考えるな、さあ踊れ!』…ということをわれわれが言いたいのでは、まったくないし。とはいえ『だんこ踊らないぞ!』、とも言わないし。また、分析ならぬ『深層心理学』とやらを言う一派においては『論理実証主義の崩壊』大歓迎だろうけれど、われわれにおいては別に嬉しくもないし。

かってフロイトは、いずれ努力の末に、精神分析がふつうに科学の一角に落ち着くだろう、と考えていた。ラカンもまたその線を追いながら、しかしその生きている間に、リファレンスたるべき≪科学≫のイメージがあっさり崩壊してしまった。
そして晩年のラカンの追求は、そうした科学観の革命に惜しくも追いつけていないというか、ズレている、という感じはある。まったくもって申したくないことだが、『現代最先端の数学や物理学の学説が補強するところにより、わたしの理論の正しさは明らかなのです!』みたいなことをおっしゃる晩年のラカンちゃまの口ぶりが、一太郎パパさんにぜんぜん似ていないと言っては、筆者がうそつきの偽善者になってしまう。ああ…。
だいたい筆者は一太郎パパさんをさきのように申してきて、そしてさいごに『それはわたしだ』と、付け加えたいような気がしているのだった。精神分析という異端でマイナーですでに搾取されきった1つの何かを、どうしてむきになって擁護しているのだろうか、この人は? みょうに誰かのことを熱心に話していると、『それは自分だ』としまいに気づく。そういう気づきの仕方は、とりあえず『精神分析的』であろうかと。ああ…。

ところで、「新うしろの百太郎」という作品の話に戻り。別に筆者はそれを、電波チックなおもしろ話のかたまり、とだけ言いたいのではない。
いまさらそれをほめても説得力ないかもしれないが、みょうにときどき『ほんとうのこと』が描かれている。たとえば第2巻の序盤すぎあたりに、『寝ている最中の霊体験』、という題材の短編がある。そして作中で、それに悩む15歳の少女からの手紙(たぶん本物)が紹介されている。

 『実を言うと私もオナニーのくせがあります。
 幼い頃から性への快感も味わっていて、週に3、4回はオナニーをしていました。
 私もいつか霊にとりつかれるのではないかと いつも思っていました。
 夜、寝ようと思うとあそこの部分が(中略)
 やはりイヤラシイ霊がとりついているのでしょうか』(第2巻, p.62)

この手紙の特徴として、『私も』、『快感も』、『やはり霊が』、と、何らかの先例をフォローしていそうな書き方になっている理由が、筆者にはよく分からないが。しかしこれに類するような訴えの『先例』として、フロイト「あるヒステリー分析の断片」(1905)が紹介している≪症例ドラ≫、というものは思い当たる。
いやはっきり申して、これはわれわれがよく知っていることに関係ありすぎる。かつ、ほんとうにいたましい悩みだと感じないではいられない!

そして、ここにて痛感されることとして。アカデミーのうちわでゆかいなおしゃべりに興じる方々には死ぬまで分からない、そもそもわかる必要のないことがある。フロイトやラカンという人々を、何か学者とか思想家とかのようにみる考えは、ほんとうに死ぬほどバカげている。
そうではない! 彼らが偉大だと言いうるのはまず、この手紙に類するような人々の苦しみ、はた目には少々らちもないような(?)苦しみに、終生つきあい続けたことによる。まずそこを見ないでは、精神分析のせの字も分かるわけがない。
…が、かといって、彼らは苦しむ人々に『なれあった』のでもない。また、臨床べったりの素朴な経験主義に徹したのでもない。そこらがかんじんだろうが(そこから分析特有の方法や理論が生まれるのだが)、それはまた別の話としておいて。

そしてだ。その手紙を見て、われらの一太郎クンは『この例は、霊とは関係なさそう』のように、珍しく冷静なことを言う。かつ霊の研究者である≪東先生≫もまた、

 『この少女の 場合は(自慰について)ひそかな 罪悪感を もっていて‥
 そのおびえを 霊のせい‥‥ ということに 結びつけて いるにすぎ ない!』

と、まったくごもっともなことを言ってくれるのだった! しかもそうは言いながら、『やはりイヤラシイ霊が』悪さをすることもある、というお話になっているのだが!
(…かつ、霊のしわざじゃなければ問題はない、ということはぜんぜんない。だが、いまはこの作品の文脈によりそってみて、そこまでは見ない)

かくて何ともこの作品「新うしろの百太郎」には、ひとすじなわではいかないところがある。はっきり申して中み的に玉石混交もいいところ、しかし矛盾をものともしないところが『逆に』面白い、と、筆者の感じ方は、ここらで変わってくるのだ。

そしてその第4巻の大部分をしめる『ファラオの呪い編』こそ、そうした面白さの典型であり1つの骨頂か、と言いたい気はする。これは主人公たちが、超自然的なトリップと飛行機の旅行と両方で、(古代の)エジプトにおもむくというお話で。ついでに作者たちもエジプトに取材しているので、いろいろなレベルの『事実』とらちもない空想とが、こんぜん一体に描かれている。
じっさいのツタンカーメンに関する記述も詳細で、知的な興味もそそられる。特に筆者が感心したのは、作中人物がアクナテンに関する『病蹟学』的な考証を一蹴するところ(p.148)。こっちの話として、『精神分析的な批評』が作者に関しての病蹟的考証になっている場合があるが、あれもほんとうに『作品』というものを知らざる臆見でくだらない(!)。そこらで大いに、共感したりもしつつ。

にもかかわらず、そのお話がとんだ大電波の発信として終わっていること。それを筆者は、ゆかいだと言いきってよいのやらどうなのやら…。
ちなみに続く第5巻の『謎の地下底都市編』はカッパドキアを扱ったもので、やはりその興味深さプラス強力な『面白さ』は、エジプト編に匹敵する。いろいろな意味で。

ほめるにしたってけなすにしたって、作品は『作品』として扱われねばならない。そうなのだが。しかしここまでを見てきて筆者は、次のように思うのだった。
さきにわれわれがちらと見た、15歳の少女からの手紙。そこに書かれた『霊』のお話はないことだが、しかし彼女の訴えの中には真実がある。と同様に、『ないこと』にまみれたこのお話の中にもまた、何らかの真実の気配は大いにある。そしてそれぞれの中の真実を見きわめるためのリテラシーが、われわれには求められているのかな…と。
と、何だかしっけい気味な話にしてしまって申し訳ないが。ともあれ、これをまったく驚くべき作品であるとは断言できる。ほんとうにいろいろな意味で…!

2010/01/18

伊藤潤二「ギョ」 - 彼氏と彼女の、事情と情事?

 
参考リンク:Wikipedia「伊藤潤二」

ホラーまんがの巨匠による一編。どういうお話かといえば、もうとにかく『こわい』! 読後感というにも、『こわい、こわい!』とだけ言ってすましたい気が満々だが。
けれど読んでから数日後に、『ひょっとしたらこういうお話なのかなぁ』…という1個の思いつきが生じたので、備忘がてらにここへ書いておこうかと。

このお話はヒーローの≪忠クン≫とヒロイン≪華織≫のカップルが、沖縄の別荘(忠クンのおじの所有物)に遊びに来ているところから始まる。忠クンはごくふつうの青年だけど、華織はひじょうに美人で、そして過度ぎみな潔癖症だ。
その潔癖症というところから痴話げんかになった2人、もめているところへひじょうに怪しい生物が現れる。魚の体に節足動物の脚(ただし4本)が生えたようなその生き物は、やたら素早く走り回りながら、その脚の先の鋭いツメで人を襲う。しかもその体の開口部からは常に、耐えがたい腐臭のガスを吐き出している。

これが1匹出たくらいならまだよかったが、やがてその大群が沖縄に上陸し、さらには東京にも出現して大暴れ。しかもその≪歩行魚≫ら(の一部)は、忠クンと華織を意図的に追い廻しているような感じも(!)。
そして忠クンは捕獲した歩行魚の1匹を、かれのおじである科学者≪小柳≫に見てもらう。ふんいきがいきなりマッド・サイエンティスト風な小柳は、美貌の女性助手≪芳山≫と2人で彼の研究所を営んでいる。
いろいろと調べたあげく小柳は歩行魚の正体は、太平洋戦争中に小柳の父が開発した生物兵器なのでは…と言い出す。その仕組みはどうかというと、まずは謎の細菌が生物を侵してやがては死なせ、死体から腐敗ガスを発生させる。それを運んで走り廻る脚は生物にくっついた機械であり、死体の発する腐敗ガスを動力に動いているらしい、というのだ。
(そして脚部の『機械』は、その運んでいる死体が腐り果てて崩壊してしまうと、新しい死体に取りついて再び行進を始める。このふしぎな『機械』というものがあまりにもふしぎだが、『それは実は人工物ではないのかも?』…という推測が、作品の結末近くで提示される)

で、何と、ヒロインの華織がその細菌に侵されてしまう。やがてその体はぶくぶくとみにくくふくれ上がり、皮膚がくずれボコボコのできものが生じ、そして息をするたびに腐臭を吐き出す。
これを悲観して首吊り自殺をはかった華織を背負い、忠クンは歩行魚らの襲撃をかわしながら小柳研究所に運び込んで、彼女の後を託す。そして歩行魚の猛威によって廃墟と化した東京、そのどこかで意識を失ってしまった忠クンが、次に目醒めると…!?(このあたりで、全2巻の第1巻が終わり)

といったような、独断的かつ強力でグロテスクがものすごいホラーまんがであると、今作「ギョ」を形容できる。まったくもって、こわいにもほどがある。
だが、これを読んでから数日後、筆者はおかしいことを思いついたのだった。『意外とこのストーリーは、ひそやかにも“愛と欲望の物語”になっているのではなかろうか?』…と。

さいしょ沖縄の別荘の場面で忠クンは、捕まえた1匹の歩行魚を、ビニールのゴミ袋に入れて保存しようとする(…科学的な大発見かも、と考えて)。しかし華織はそれが放っている悪臭にたまりかね、『遠くへ捨ててきて!』と叫ぶ。と、そこで、何とビニール袋に入ったままの歩行魚がぷかぷかと空中を浮遊しながら、2人に襲いかかるのだ。
それを何とか追い払って、ともかくも東京に戻った2人。するとビックリなことに袋入りの歩行魚は、東京にまで2人を追ってきて(!)、またも彼らに襲いかかるのだ。そうしてやっと力つきたその歩行魚の死体を持って、2人は小柳研究所に向かうのだが…。

さてこの、『ぷかぷかと浮いている袋入りの“もの”が、若い2人を追っかけてくる』…ということは、いったい≪何≫かというと。この『袋入りの“もの”は、≪子宮とその中の胎児≫ということを表しているのでは?』と、筆者は考えたのだ。

どこの誰がどう見ても思うだろうこととして、「ギョ」という題名のついたこの作品は、まさしく『“悪夢”的』だ。そしてそこから一歩進んで(試みに)、これを1つの『悪夢』として眺めても?…ということを、いま筆者は提案している。
その『悪夢』を見ている≪主体≫をヒーローの忠クンに等しいものと考えると、このお話は、彼の恋人であり同棲の相手である華織の『妊娠の可能性』という≪不安≫を、まず表しているのでは…と感じられるのだった。

そして。お話の途中であっさりとみにくい死体になってしまった(!)華織だが、ふしぎにその後のストーリーもまた、忠クンが彼女を追い求める、というモチーフを中心に展開するのだ。
以下はネタバレになってしまうが、あえて書いておけば。瀕死の華織を預かった小柳は彼女を病院に搬送したりはせず、やがて息絶えた彼女を何と(非常識にも?)、彼が独自に作った『機械』の動力源とする。そのふざけた所業を忠クンは怒り、彼女を『機械』から解放しようとする。すると『それ』は暴れ出し、研究所から逃げ出してしまう。そのはずみで、小柳も致命的な重傷を負う。
華織の死体を乗せた『それ』を追いかけて忠クンは、きてれつきわまるサーカス小屋にたどりつく。やがて見世物として華織がステージ上に引き出されるが、しかし『それ』は再び暴れ出し、汚物を噴き出して人々を威嚇しながら、サーカス小屋からも逃げ出してしまう。

やっとのことで華織をつかまえてその『機械』のスイッチを切った忠クンは、『それ』を再び研究所まで運んでくる。芳山1人が彼らを迎えて、華織を機械から降ろそうとする。ところがそこへ、死んだ小柳が飛行船つきの自作の『機械』に乗って、空中から彼らに襲いかかる。
一方の華織もまた、死んでいるはずなのにふしぎだが、自分の手で『機械』のスイッチをONにして暴れ出す。…という、この小柳と華織の行動はまるで、忠クンと芳山との過剰な接近を怪しみ、それに対して怒っているようにも思える。
この騒ぎのどさくさに、小柳は芳山をつかまえて、そのまま地平線の向こうへ飛んでいってしまう。追って華織は『機械』の群れに襲われて、どこかへと連れ去られてしまう。その別れ際、死んでいるはずの華織の手が、自分を求めてさしのべられるのを見たように、忠クンは考える。

やがて華織を探し求める忠クンは河岸にたどりつき、土手の上から河原の方に、グロテスクというにもほどがある『機械』たちの大行進を眺める。するといつのまにか若者たちが並んでそれを眺めており、ちょっと説明っぽいせりふを吐いた後、『僕たちは大学で、この災厄の解決のための研究を進めている』のようなことを言う。
忠クンもそれへの協力を求められ、そして仲間に入る。そうして彼らが土手の上を歩いていると、道すがら華織の焼死体らしきものが見つかる。そこで忠クンは仲間たちを先に行かせ、その死体の横に座って彼女に語りかけながら、土手の上からしばし、荒れはてた都市の景色を眺める。
というさいごの場面で忠クンが黒焦げの華織の死体に言うのは、『やっと…臭いから解放されたね…』というせりふだ(第2巻, p.165)。潔癖症で人一倍臭いに敏感だった華織が、自らものすごい悪臭ガスを放つ死体になってしまったことを、忠クンは哀れに思って気にしていたのだった。

ここまでを見て…あまりスッキリしたことも言えないが。まずさいしょの沖縄での場面ではっきりと描かれた、華織の過度ぎみな潔癖症、それを忠クンは少々ならずうとましく感じている…ということがある。
ということが『逆に』、汚辱にまみれきったこの物語のモチーフを、決定づけているように思えるのだ。つまりこのお話の中で華織が悪臭を放つ不潔でみにくい化け物になり下がり、しかもその姿を見世物としてさらされるということは、何と彼女の恋人が≪願望≫していることの一部分なのだ。

ただしふしぎだが、華織が化け物と化してから『逆に』、いっそう忠クンは彼女の忠実な恋人になるのだ。見ていて彼の献身ぶりにはひじょうに感動的なものがあると感じたが、しかしその態度は、彼女が美しく健康だったころには『逆に』、彼にはできなかったことなのだ。
そしておかしいことを申すようだが、筆者にはそのような忠クンのあまのじゃく心理(?)が、ちょっと分かるような気がするのだった。退廃芸術の方面に『最良の恋人は、死んだ恋人である』のような美学があるかと思うが、まあそんな感じで…?
かつ、生きていた時にさんざん忠クンを振り廻した華織は、死んでからもまったく大人しくしていない。同じように、いやむしろいっそう忠クンに世話を焼かせる。とはどういうことかと考えると、つまりびっくりだが、華織の2つの状態(生/死)は、主体の想念の中で等価なのだ。生きている状態の華織に対応する≪無意識≫のイメージが、あの奇怪な化け物の華織だということだ。

そして芳山の登場というところにまた何らかの意味があり、華織は生前から、彼女と忠クンとの間を疑っている。その一方のわれらのヒーローの側には『自覚的には』、芳山に対してそのような感情はないらしいが…。
けれども第2のヒロインとして芳山は、落ち着きある大人のレディとして、まあ子どもっぽいとも形容可能な華織への対立軸をなしていることは明らかだ。しかし忠クンがどうともせぬ間に、死せる小柳が、彼女をかっさらってしまう(…はっきりしないが以前から、小柳と芳山との間はまんざらでもなかったもよう)。
という物語の展開は、≪主体≫から芳山(…および、そのような女性、華織でない女性)への、へんな野心は禁じられている、という、どこからかのメッセージを表しているように思えるのだった。
かつ強引ぎみな読みをあえて行えば、小柳と芳山のペアは、忠クンの両親の『代理』として、この物語に出ているような気もする。その代わりにと言うのも何だが、忠クンの両親はどこかに健在なようなのに、物語の中にはまったく登場しない。彼の両親についてその消息を心配しているのは、小柳ただ1人だけだ。

以上、あまりすっきりとした分析にはなっていないようだが、トータル今作の内容を『忠クンが見ている悪夢』として見ると。この主体は、わりと(かなり?)扱いにくい恋人である華織と自分との関係を、夢の中で再考しているのかな…という気がするのだった。
で、どういう結論が出ているかということは、いちおうご紹介した通りだ。いかなる状態にあっても、華織はいつも彼を求めており、そして忠クンは彼女を思いやっている、ということを、彼の≪無意識≫の認識は示したのだ(…とは異なることもまた述べられそうだが、いまは前向きな見方を示しておく)。
だから筆者は、やがて忠クンが目醒めるとそこはまだ沖縄の別荘で。そして彼を追って目醒めた華織に、忠クンはやさしく何かを語りかける…といったハッピーエンドを今作に、頭の中でかってに付け加えておこうかと思う。