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2010/10/31

「手塚治虫のマンガの描き方」 - 手塚治虫のまんがの≪ギャグ≫論

手塚治虫漫画全集「手塚治虫のマンガの描き方」 
参考リンク:Wikipedia「手塚治虫」

これはどういう記事かというと、ほとんど自分用のメモで。「手塚治虫のマンガの描き方」(原著・1977, 手塚治虫漫画全集 MT399)に出ている手塚先生のギャグ論を、ちょっとまとめておこうというもの。

いや、なんでそんなことを思いついたかというと。もともと興味深いものではありながら、そしてさらに、ここにうわさの≪不条理ギャグ≫という用語が出ているからだ。
吾妻ひでお「不条理日記」が1978年なので、こっちの方が早い。しかし史上初かというと、たぶんそんなこともなさそうな感触が、筆者にはあり。

なぜそう思うのか。…超しっけいだが、手塚先生はあまりネーミングセンスがないようなので、そんな気の利いたことばを言い出しそうにないのでは、と。
そう言うと『何を失礼な!』と思われるだろうけど、しかし、ここで先生が使われている『日常ギャグ』とか『思考ギャグ』とかいう用語の不調法さから、それを思うのだった。ご一緒に見ていくと、あるいは同感なされるのでは…?
(ちなみに『ブラックユーモア』ということばが世に出たのは、1939年のアンドレ・ブルトン編「黒いユーモア選集」がお初、が定説らしい)

とまあ、筆者のおしゃべりはそれくらいにして。以下、「手塚治虫のマンガの描き方」の第2章の2から、該当する個所を要約&抜き書きすると…(p.129-137)。

『「おかしさ」をつくる六つの要素』

まず前置き。『マンガは本来、(略)ジョークとユーモアを売りものにするものだ。(略)これのともなわないマンガは、マンガではなく、なにかべつの分野のものだ。たとえ一見深刻そうに見えたり、暗澹たるムードをもっていても、大きな意味でなにかしらおかしければ、やっぱりマンガなのだ』。
そこでその、おかしさの演出の技法を考えてみると…。

【A 奇想天外】 人間そっくりな宇宙人が、あなたにほれてしまったとしよう。その宇宙人はいきなりズボンをおろし、おしりをあなたの口に押しつける。この種族は肛門が性感帯で、彼らにはそれが『あたりまえのキスの仕方』なのだ。このように、日常からかけ離れすぎたことが生ずるおかしさを、『奇想天外ギャグ』と呼ぶ。
『赤塚不二夫さんのギャグマンガには、この手の登場人物が多い』。また、手塚作品の≪ヒョウタンツギ≫の唐突な出没もこれ。
(引用者より。その『あたりまえのキスの仕方』とやらが、お尻同士をくっつける、となっていないのは、ややおかしいのではなかろうか? むしろそれがおかしい)

【B 不条理ギャグ】 『不条理というのは、常識の理屈では思いもよらないなりゆきになることだ。奇想天外にはどこか間の抜けたオトボケがあるが、こっちのほうは理屈もヘチマもない常識はずれのおかしさだから、いささか毒を含んでいる』。その好例はつげ義春「ねじ式」、秋竜山の1コマ作品など。
『総じて、不条理ギャグは、時間と空間を無視したものが多いので、あまりにも常識的な頭をもつ人には、よくわからないというきらいがある』。
(引用者より。『奇想天外』と『不条理』の区別が、あまりできている感じがしない。『理由づけ』や説明の有無、というポイントか?)

【C 日常ギャグ】 言い換えて、『風俗マンガ、生活マンガ』。「フクちゃん」、「サザエさん」、「フジ三太郎」など。『少しジャンルが違うけれど、セックス・ギャグ、ピンク・ギャグなんかもこの手のものである』。
…ところが手塚先生の分類によると、『日常性のおかしさに、ちょっと毒が入ったものが、ブラック・ユーモアマンガ』であり、『たとえば殺人、自殺、天災、恐怖、怪奇現象なんかをとりあつかったもの』、それらもまた『日常ギャグ』のうちに入るものだそう(!)。

【D 思考ギャグ】 いわゆる『考えオチ』、ニューヨーカーやパンチの1コママンガ、新聞の政治マンガらが、これに入る。『これらは、どちらかというと、「わかる人にはわかるが、事情のわからない人にはおもしろくない」、つまり一部の読者層におもしろがられる種類のマンガ』。

【E スラップスティック】 『すべてアクションをともなった、絵だけによるおかしさで、いうなればドタバタ』。『絵によるドタバタのおもしろさを徹底させているのが「がきデカ」で、あのスジ立てのなかのなぐる、ける、あばれるアクションのリズムが、ちゃんと心地よいおかしさをつくりだしているから成功したのであろう』。

【F だじゃれ】 『おかしさとしては、マンガのなかではいちばんつまらないものである。というのは、だじゃれはべつにマンガでなくたってつくれるからである』。
『これら(だじゃれや語呂あわせ)は、ほかのいろいろなギャグのあいだにはさみこんでこそ、おかしさとして生きるのだ』。
『(もろもろの格言や名言をもじっていく手法、こんにち言われる『パロディ』は、)しょせんは借りものだから、あまりしばしば使っては効果のある方法ではない』。



ご紹介、終わり。以上の記述、ちょっとこの分類の仕方がいいのか悪いのか…。まあともかく、1977年に手塚先生の言われた『まんがのギャグ論』は、このようなものなのだった。
ちなみに、これを追って1981年に出た米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、こうした『ギャグの分類』などを熱心に行ってはいない。その行き方に、筆者はけっこう共感しているところがある
で、それこれの先人らの偉業を21世紀に発展させるのがわれわれのつとめだとまで確認し、いまはいったん終わる。

2010/09/27

鴨川つばめ「ドラネコロック」 - わが逃走、父と息子のわがままな逃走

鴨川つばめ「ドラネコロック」秋田文庫版 
参考リンク:Wikipedia「ドラネコロック」

今回は、オールドスクールの超大ネタをご紹介! で、まずそのイントロ。
自分が『ギャグまんが第2世代』と呼んでいるものの中に、ギャグまんが史上のちょっとした『アノマリ(例外的存在)』と言いたいような作品が3つある。それは、鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」(1977)、江口寿史「ストップ!! ひばりくん!」(1981)、そして岡田あーみん「お父さんは心配症」(1983)の3作。

何がアノマリかというと。その3作いずれも時代性の濃ぅいぃ作品でありながら、しかしなぜだか常にフレッシュな感じを維持し続け、そして常に新しい世代の読者を獲得し続けている。だからか、コンシャスな書店の書棚には、たいがい常に入っている。そこがすごいし、ざらにない。

それらに比したら、第2世代の第1号であり“すべて”の源泉たる山上たつひこ「がきデカ」(1974)にしろ、またその世代で最大のヒット作かと思われる高橋留美子「うる星やつら」(1978)にしろ、もうちょっと時代の垢がついてしまっている感じかと。…すると、そのアノマリ3作につき、『それぞれの時代のまんが界のNo.1にまではならなかった』、『びみょうにだがマイナーだった』、という点もまた、それらのエバーグリーンな感じに寄与しているのだろうか?

かつまた、そのアノマリと呼ばれた3作は、それぞれの作者らをたいへんに消耗させた創作でもあった。鴨川先生がいちばんはなはだしい例であり、江口先生がそれに続いて、いずれもそのあたりから調子を落とし、以後にあまり大きな作品がない…とも見られそう。
あーみん先生についてはやや異なり、「心配症」の後にも「こいつら100%伝説」(1989)、「ルナティック雑技団」(1993)、とすばらしい創作が続いていたが。しかし現在の時点から見ると、等しくいわゆる『幻のまんが家』の一員になっており(惜しくも!)。そしてその遺した代表作として、われわれの前に「心配症」があるのだ。
…というポイントに、何らかの意味が、あるのかどうか? ジミヘンやモリソンやジャニスと異なり、こっちの作者らはりっぱに存命中で『まだまだこれから』があろうけれど、しかし(どこかで)その作品に『白鳥の歌』的なニュアンスの出ちゃっていることが、何か機能しているのだろうか?

で、ともあれその3作がいずれも、われわれのギャグまんが研究の超じゅーよーな課題であろう、とまでは確認しつつ。

けれどもこの稿では、ストレートにはそこらへと取り組まず斬り込まない(!)。『手のつけやすそうなところから』という筆者のイズムによって、「マカロニ」と並ぶ鴨川つばめ先生の代表作「ドラネコロック」(1977)を、ちと見ていきたい。
いや、なぜこの「ドラネコロック」かって、自室で何かを探していたら、たまたまその秋田文庫版(2007, 全1巻)が目についたので、つい読んでしまったから…ということもあるが。



さあて、ここまでの前置きがいいかげん長すぎているので、掲載情報や書誌情報などは参考リンク先をご参照(*)。ようするに今作「ドラネコロック」は、「マカロニほうれん荘」とほとんど同時期に、月刊の方の少年チャンピオンに出ていた作、ということ。で、どういったお話かというと…。

そのヒーローの≪泉屋しげる君≫が暴走族の副リーダーで、人さまの迷惑かえりみずに徒党&ソロで暴走しまくる、いまでいう『ヤンキーまんが』という性格が、まずある。やがてその向こうみずきわまる明日なき暴走に、対抗サイドの警官2匹も加わり(!)、さらにはしげるの父の≪おやじ≫もが加わる(!)。
『ロックとバイクが オレの命!』と文庫版のあおりにあるように、当時イカしてたスコーピオンズやUFOらのハードロックサウンドに乗って、彼らの大暴走が果てしなく続くのだ。かつそのあいまには、ラブコメやホームドラマの要素も多少ありながら。

また今作は、高校生の主人公たちが、いきなりくわえたばこで登場。そして暴走や飲酒喫煙どころか、暴行・窃盗・器物破損・故買・セクハラ等々の行為らを、のびのびとおおらかにやりまくり(!)。かつパチンコ店や成人映画館にも出入りするという、いまの少年誌ではちょっと描けないような、ものすごいフリーダムなお話でもある。
といったような特徴は、先行したチャンピオンのギャグでいうと「がきデカ」や吾妻ひでお「ふたりと5人」(1972)にしてもあるのだが。しかし今作はびみょうに表現がナマっぽいだけ、いま見るとインパクトある感じ。

そして今作の、「マカロニほうれん荘」に対して対照的なところを、まず見ておこう。これは、いずれ書かれる「マカロニ論」への予習をかねて。

【1】 「マカロニ」が『荘』というひとつの場所を中心として展開したお話だったのに対し、こっちの「ドラネコ」は『暴走』というテーマ性に即してか、『移動』というモチーフがひじょうに目立っている。そしてその『移動』全般には、何かからの≪逃走≫という性格が常に濃くある。

【2】 ヒーロー像の相違。“すべて”においてハイパーな「マカロニ」の3人組に対し、「ドラネコ」のしげる君は、相対的にはコンベンショナルなギャグまんがの主人公、という感じあり。その特徴は3等身とぜったいに外さないグラサン、そして『オー マイ マザー、カーチャン フロム トーキョー!』、『ハロー ハニー ダーリン! ユー アー ボクの ルイジアナ!』、といったおかしい英語まじりのしゃべり。

【3】 「マカロニ」に登場した≪そうじ君≫のような常識あるツッコミ役が、今作にはぜんぜん不在。しいて挙げればしげる君のマザーだが、そうじ君ほどには機能していない。そもそも、泉屋マダムは基本的には家庭内でしか活躍しないので、その外でのバカどもは文字通り『野放し』(!)。だから彼らの暴走には、ほとんど歯止めがかからない。

【4】 また、「マカロニ」の表現を(相対的に)ファンタスティックでドリーミィなものと見れば、こちら「ドラネコ」の表現は(相対的に)リアリスティック。「マカロニ」で特徴的な『シュール』と形容されるようなギャグは、今作にはめったに出てこない。

と、いまさいごに申し上げた、「ドラネコロック」の『リアリスティック』と形容できそうなところを、ひとつ見てみようかと。文庫版の序盤すぎの、『みんなで一緒に!』の巻(p.119)から。

そのエピソードのイントロで、暴走族『ワイルドキャット』の首脳2人は、おしゃれっぽい街の道ばたで露店を営業中。そして二枚目のリーダー≪光二≫が女の子らを呼びとめ、しげる君がぺらぺらと口上をまくしたてて、『資金カンパ』と称し、明らかにガラクタっぽいグッズらを売りつけようとする。
それに対して女の子たちは、『ロクな物 ないじゃない!』、かつ『盗んで きたもんばかりじゃない!』と、きわめてすなお&クレバーに反応なさる。そこでしまいにしげるが出してきた『目玉商品』と称するブツが、例の≪桜の代紋≫と呼ばれる警察のエンブレム(!)。作中で20~30cmくらいの直径で描かれたソレは、確かにレア品には違いなさそうだが…。
しかし『当社が命がけで 仕入れた特選品!!』とやらの訴求力がギャルたちにはいまいちで、彼女らはしげるの≪フーテンの寅≫ばりの売り口上を『わあ おもしろーい』と聞いた上で、かしこくもさっさとその場を立ち去る。そして残されたツッパリ2人は、『チェッ しけてやんなー』と苦情を言っている。

鴨川つばめ「マカロニ2」…これが意外と、なかなか生々しいお話なのだ。パー券(パーティ券)の押し売りとかグループのステッカーの販売とか、まあいろいろと暴走族の資金稼ぎもあったものだった。
さいわい筆者はそのてのものを買わされたことはなかったが、そんな時代には確かに『あったこと』なのだ。その一方の「マカロニ」にもインチキな商売のお話が出ているけれど(パッと目についた例、「マカロニ2」の『路地裏ブギウギの巻』)、しかしその描き方は、もっともっとファンタスティックだ。

なお今作「ドラネコロック」については、そのような不良ワールドのリアリティが目立っていた序盤、続いてはおやじ大活躍の中盤、そして何だか壊れぎみな終盤…という3部構成、という見方が、遡及的には可能そう。あまりよく読んでないが、Wikipediaにもそんなことが書いてあったような感じで(*)。



そして筆者の見るところ、今作「ドラネコロック」は、主人公のしげる君をさしおいて、ハゲとヒゲ以外は息子にそっくりな≪泉屋おやじ≫が大暴走し始める中盤から、異様なる精彩を見せてくれるのだった。そこいらが全編のピークかと思うのは、筆者もほとんど中年なので、仲間びいきも(?)あるかとは自覚しつつ。
本人によれば、このおっさんは元禄8年の生まれで当年54歳、元陸軍オートバイ上等兵、自称『鋼鉄の中年』。その初期の口ぐせは『オオッ グレート!!』というので、「エア・ギア」の作者でなければジョジョの4代目にも影響を与えているようだ。まあ、「ジョジョの奇妙な冒険 第4部」も一種のツッパリ系ドタバタギャグなので(!?)、通じるところは大いにあるな…と独りがてんしつつ。

で、このおやじは、そのトシで定職もなく、わりとふだんはパチンコびたり。たまに職につくと、それが必ず車両の運転関係なのだが、そして必ずあっさりと、クビになるようなことをしでかす。
いやむしろ彼は、意図的にクビになろうとしてあれこれ工作している(!?)、というふうにまで見えるのだった。ちょっとそこらを見てみれば。

『おやじの就職』シリーズの第1弾、そのサブタイトルも『さあ働こう!!』の巻(p.137)で、路線バスの運ちゃんになったおやじ。われらのマダムは夫の就職をひじょうに喜んで、彼の朝ごはんやお弁当をスペシャルに奮発するのだが…。
ところがおやじは勤務中、タクシーじゃないのに『手を 上げん客に車を止められるかっ』と、超おかしいことを言い出す。さらには、お客らを途中で強制的に降ろしてしまい、

 【おやじ】 90円で いつまでも乗れると思っ たら大マチガイだっ!!
 こっちはちっとも 商売にならん!

などと言って、ものすごいカスタマー虐待に走る。ついでにバス90円という当時の運賃もすごいけど、それはともかく…。

続いたシーンで、しげるが女の子と2ケツで単コロ飛ばしているのを見ちゃったおやじ。100パーセントお呼びじゃないのに、彼は猛然と息子をバスで追い廻す。やがてその暴走に、まいど出ているパトカーの警官たちも参加して、しまいにはとんでもない大惨事に!
それからボロボロになった親子はさらに、バスの料金箱からかすめたお金で、夜の街へ酒を喰らいに行くのだった(!)。そして、いさいをバス会社からの電話で聞かされたマダムは、家から湯気が出るまでのカンカン状態で、バカ2匹の帰りを待つのだった。

といった『おやじの就職シリーズ』が作中に何本か、いずれも似たような展開。すると、息子のしげるもりっぱな問題児には違いないが、しかしそれにも増して! いいトシこいて社会性がゼロ以下のマイナスな、このおやじの方がよっぽどやばい人物…ということは明らかになってくる。
じっさい作品の中盤から、おやじの暴走があんまりなのでしげる君がツッコミ役に、というエピソードが目立ってくるのだ。そんなおやじの活躍で、とくに筆者の好きなところを、ご紹介いたせば…(『愛のフィナーレ!!』の巻、p.297)。

…しげるたちのグループとポリス2人組が喫茶店に入って、そしてつまらぬことからケンカをおっ始めそうに。そこへ、みょうにタイミングよくおやじが飛び込んできて、『兄弟! 楽しくやろうぜ!』と、バカどもをいさめる。人生なんて短いんだから、できるだけゆかいに過ごそうじゃないか…と、年の功ありげなことを言って、みんなを少々感心させる。
で、何とか落ち着いたところでウェイトレスが、『おじさま ご注文は?』とたずねると、われらのおやじは『しじみ貝のみそ汁!』と答え、持参の弁当を取り出す。それで一同がズコー!となって、しげる君が『そんなもん あるかってーの!』とツッコむと、そこでおやじの反応が尋常でない。

 【おやじ】 なに~~~~~ (中略) それはできないとゆーのかっ
 そっちがその気なら きさまらを殺してみそ汁の ダシに使うだけだっ!
 わかったか このどぶねずみ野郎っ!!

ときてはもはや、年の功も何も、あったものではないのだった。おやじは戦地で人死にを見すぎたせいなのか、人命尊重の概念がひじょうに乏しいようなのだった。このお話では口で何か言っただけなのでまだいいが、もっとひどい作例はいろいろとある。

なんて、うかつに面白いところをご紹介したせいで、さいしょから散乱ぎみな筆者の話が、さらにまとまらなくなっちゃったけど…!

◇まとめ、その1。筆者の感じ方によると、わりとスタイルのまとまった今作「ドラネコロック」の中盤は、それ以前の名作でいうと、赤塚不二夫「天才バカボン」に近い感じなのだった(!)。手八丁口八丁なおやじの活躍ぶりに加え、ポリがやたらにピストルを乱射するところも似てて。ぜんぜん異なるのは、スピーディなアクションによるドタバタを、クールなスタイルで具体的&立体的に描いているということだが。

◇まとめ、その2。見ていて筆者は今作について、『甘え』と『甘やかし』の共犯関係、ということを感じるのだった。そしておやじやポリ公らをも含めた作中の≪ガキ≫どもは、『甘やかされている環境がひじょうに不自由である』、と、実にわがままかってな感じ方をしやがるのだ。

第2の点について、少し補足。われらのおやじはめっちゃ甘ったれた人生を送りながら、突発的に『ぬくぬくとした環境で おいぼれていくなんざ まっぴら御免だぜ!』と叫び、そしてバイクで家を飛び出す(『青春市街戦!!』の巻, p.233)。
…と思ったらやがて戻ってきて、しげるとポリ2匹を巻き込み、自宅の庭に電話ボックスで別荘を作って(!)、そこでの自立した生活をもくろむ。それからのいさいを略して、けっきょくはマダムらに大めいわくをかけるばかりなのだが…。

ところがマダムは、なぜかおやじにはベタぼれらしく、常にひじょうに態度が甘い。それとまったく同じ構図として、しげるには幼なじみの≪渚≫というガールフレンドがいて、なぜかこの子がしげるに超ベタぼれ&態度が超甘い。
そしてしげるが、ふだんその渚をウザがって彼女から逃げ廻っていることが、お話としてひとつの円環をなして、もはや『それはなぜか?』もへったくれもないのだった。

まったくもって教訓的でない教訓だが、そのようにわれわれが『ぬくぬくとした環境で おいぼれていく』ためには、まず愛される必要があり、そして、ポーズとしてその環境から逃げようとしてみせる必要もある。…のだろうか?
ということをまず見たとして、このレビューをいったん終わろう。そして今作「ドラネコロック」、および文中で名が出た傑作らについては、ぜひ近くまた!



『終わろうZE!』と申し上げてからの余談(ゴメン!)。秋田書店のまんが刊行、特にその再刊のやり方については、すでにあちこちでいろいろ言われているかと思うが…。
にしてもわれわれが見てきた文庫版は、「ドラネコロック」の本編が全36話くらいありそうなものから、『作者自選』にしても28編収録とは、ずいぶん中途はんぱな感じ! これなら同じ秋田文庫で、かの「がきデカ」をたったの全2巻(!)で出していることの方が、思い切っているだけよっぽど好感がもてそうかもっ?

2010/06/17

山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - トランスセクシュアル論へ向け

 
関連記事:山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - こんな≪女≫で、よかったら?

どうして思いつかなかったのかな、こんなかんたんなことを…と、自分であきれたが、関連記事の文末の付記について追記。そこで書いている、筆者が『お見合い大百科』のさいごのオチに対して感じた違和感は、≪トランスセクシュアル≫にかかわる複雑な問題から、というわけではないような気がしてきたのだった。
つまり。そのお話の中で春助くん(の演じているめぐみ)は、『私は 女として 生まれながら 体は男』、と言っているのだ。これを作中のお兄さんがまっすぐ受けとめたとすれば、それに対応するものは、『肉体だけが女性である男性』なのではなかろうか。…そうだとして。
ところがラストシーンでお兄さんが、女性の和服を着て女言葉を操る人工女性になっているのは、行きすぎている感じ。これが筆者の、『ちとふに落ちねえ』という読後感のもとになったのかと。

ただし、それがみごとな大失敗であることをもって、このエピソードのオチが構成されているわけで。何せこれは、『ギャグ』まんがなわけで。
それに対して『すじが通らない!』と反応するのは無粋でしかない。いやむしろ、人間どもの性的な行為や行動らが、『けっしてすじが通りえない』ということを描破しているにより、今作こと山上たつひこ「喜劇新思想大系」がギャグまんが史上に有数の大傑作である、と申しあげる。

けれども当時の筆者の頭の中で、もやもやとしていたものに対して(無意識に構成されつつあった考察について)、このエピソードが、へんに引っかかったようなのだった。そしてそのもやもやが、多少晴れてきたことにより、前記の違和感の正体もちょっとわかった気がしてきたのだ。でまあ、その『トランスセクシュアル論』みたいなことは、別の作品についての記事で述べたい予定。

2010/04/21

山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - こんな≪女≫で、よかったら?

山上たつひこ「喜劇新思想大系」講談社+α文庫版・上巻, 1997 
参考リンク:Wikipedia「喜劇新思想大系」

ご存じのことかとは思うのだが、以下で話題の作品「喜劇新思想大系」(1972)の内容は、まったくもって激烈にはしたないしろものに他ならない。なので皆さま方におかれては、以下を見ても過剰にはびっくりなされないよう、あらかじめお願いしつつ。

さてこの「喜劇新思想大系」は、何度も何度も再刊されている≪ギャグまんが≫史上の大傑作だが、筆者においては秋田漫画文庫版(1976)の印象が強い。というか、通読したことがあるのはその版だけだ。で、その全6巻を一時は持っていたのだが、なぜか近ごろ見つからない(歴代の刊本については、次のリンク先をご参照。[*], [*])。
というところで地元の図書館に、講談社+α文庫版(上下巻, 1997)の収蔵を発見したので、それで久々に今作を再読したのだった。するとこの版についての印象があまりよくないが、しかしそんな書誌的な細事はおいといて。

こんどの再読で筆者の印象に残ったのは、次のことだ。今シリーズ中に、おなじみのヒーロー≪逆向春助くん≫が女装するエピソードが、2つある。するとその両方のお話で、女装した春助くんは、別にゲイでもない男性たちから、異様に好かれてしまう。
もっとはっきり言うと、彼たちの劣情を強力に刺激してしまう。それはもちろん≪ギャグ≫ではあるが、なぜかこのことに、ふかしぎかつ異様なる説得力があるなあ…と、このたび自分は感じたのだった。
なお、ご存じの方も多いだろうけど、われらが春助くんの面相は、あいきょうのあるおサル顔。きょくたんなブ男とわざとらしいハンサムしか出てこない今作の男子らの中では、わりかしニュートラルな見かけだとは言える。が、そうとはしても、別に女性と見まごうようなツラつきはしていない、と、おことわりした上で。

さて具体的に申して、春助くんの女装エピソードが出ているのは、この刊本の上巻に収録の2編。『町内素人名人会』(p.247)と、『お見合い大百科』(p.385)だ。
まず『町内』で春助くんは、横丁の仲間たちに誘われて、素人芝居のヒロイン役を演じる。劇の演目は、エロ小説家の≪筒彦≫が脚本を書いた、『“世紀の対決”慢性欲情男と先天性淫乱パクパク女』という、題名からしてまったくどうしようもないしろものだ。そして先天性何とか女の春助くんに対抗して、おかまの≪亀丸師匠≫が欲情男を演じるのが、また面白いところでありつつ。
その一方の『お見合い』で春助くんは、彼が思いをかけている少女≪めぐみ≫のお見合いをブチ壊すべく、本人の代わりに自分が女装してその席に出る。そこでとんでもなく粗暴でおバカで品のない女性を演じて、相手を撃退しようとする。

そうしてそれらのお話が、どう運ぶかというと…。

まず『町内』で春助くんは、さいしょはいやがっていたくせに超ノリノリで、その下劣きわまるお芝居に入っていく。そしてチン妙な女装姿で舞台セットの上で、『ああ…… ほてるわ 体が うずく……』などと言ってるところへ、何かの拍子に、警官に護送されている最中の婦女暴行魔が、会場に入ってくる。
するとその暴行魔は、春助くんの演じる団地妻のわざとらしい媚態と嬌態を見て、『イ… 色ッペエ~ フーッ!フーッ!』と、激しく興奮してしまう。それで警官の制止をものすごい力でふりきって舞台に上がり、そして春助くんを間近で見ながら『女…… いー女』とつぶやき、その次の瞬間には『犯す!』と叫んで跳びかかり、何かしようとするのだった。
そこで舞台監督の筒彦はあわてるけれど、ほとんどの人々はその展開を面白がって、事態を止めようとはしない。たまりかねた春助くんは、ステージ近くで見ていた艶っぽい未亡人≪志麻≫を暴行魔に示して、『(自分は)女と ちがうっ これが本当の 女ですよ』と言いながら、志麻を犠牲にして彼のなんぎを逃れようとする(!)。
だがそんな鬼畜の保身行動もむなしく、暴行魔は志麻には目もくれず、春助くんをかっさらって逃走。そして山中の隠れ家で彼は、あくまでも春助くんを女性と信じつつ、何かを試み続けるのだった。

その一方の『お見合い』で春助くんは、これもまたチン妙なドレスとカツラ姿でお見合い会場に出現。しかもメイクがへんに濃いので、春助くん本人から見ても『まるで 終戦直後の パンパンでは ないか』というありさま。そして、あまりに粗暴すぎなので高校をダブって在学5年目、特技はバーベルとジャーク、さらに『ご趣味は?』と聞かれての答に、『はい オナニーを 少々…』等々とふざけたことを、見合い相手の男性に吹きまくる。
ところがよく見ると相手の反応が、さいしょはすなおにドン引きしていたものが、『オナニー 俗に言う マス ですわね』という春助くん(が演じるめぐみ)のせりふが出たあたりから、びみょうにも喰いつき始めている(!)。それから2人が庭園に散歩に出ると、『めぐみ さんなら (和装よりも)ウエディング ドレスの 方が 似あう かな?』などと彼はぬかしやがり、そして春助くんの体に手を廻してくる。何とこの男はすっかり、目の前の≪女≫と結婚したい気まんまんになっているのだ(!!)。
と、計算が大ちがいになったので春助くんは大あわて。父親役の筒彦をからめて、もう1つお芝居を打ち、その粗暴さと非常識さを魅せつけてみるが、しかし男はいっこうに引かない。それどころか嬉々として、『あとは 結婚式の 日どりを 決めるだけ ですねっ』などと、とんでもないことを言い出す(!)。
そこで最後の手段として春助くんは、その場で服を脱いで全裸を男に見せる。そして『この通り…… 私は 女として 生まれながら 体は男……(中略)とても あなたの お嫁に なんか なれませんわ』と、わけの分からぬことを言って、ついに男をあきらめさせる。と、それでうまく行ったかと思ったら、その1ヶ月後に男が性転換して女性になって春助くんを訪れ、再び結婚を申し込んでくるのだった。

という2つの女装エピソードを見て、大いに笑った後でちょっと考えてみれば。そうこうとすると、男という連中は『実は』、作中で春助くんの演じているような≪女≫こそを、ほんとうは好んでいるのでは?…という気がしてくるのだった。
春助くんによる2つのお芝居は、『男たちが本当に求めている≪女≫』の姿というものを、うかつにもそれぞれの場へ現前させてしまっているのだ。それはわれらのジャック・ラカン様が、『≪女≫は、存在しない』という超メイ言によって記述しているところの≪女≫でもあろうかと。つまり男らがかってに求めている≪女≫は実在しないものだが、しかしわれらの『女装春助くん』は、そのイメージの一片としてのリアリティをそれぞれの場で実現しちゃっているのだ。

また、別のところから言えば。エロ小説家を本業とする筒彦が、『先天性淫乱パクパク女』などというしろものを彼のお芝居のヒロインにしたことは、べつに観客への(意識的な)イヤがらせではなさげ。そうして彼の制作のねらいは、少なくとも1人の観客に対しては、超ジャストミートしているのだ。
かつ、まったく関係ないものを結びつけているようでもあるが、かの高橋留美子「らんま 1/2」(1987)について、粗暴でありつつしみのない≪女らんま(その実体は男子)≫というキャラクターが、作品の内外でやたらな人気を呼んだ。このことをも、あわせて考えてみるとよろしいかも。

かくて今作における『女装春助くんの大好評(?)』という描写は、意外性の演出でもありつつ、しかしまったくとっぴなことが描かれているのではない。そして読者はそれへと≪共感≫しながら、しかしその≪共感≫を拒み、それを無意識へと沈める。その間の心的エネルギーの大きな動きが、『笑い』という肉体の運動によって消費される。
かつ、かくてわれらが呼ぶところの≪ギャグまんが≫は、それによって笑うものたちに対してのパーソナルで外傷的な≪真理≫を返している。『真理:≪女≫は、存在しない』。ところがノーマルな読み手たちはその≪真理≫を受けとって無意識へとスルーするのであり、そしてそれでよい。『受けとってスルーする』ということと、『受けとらない』ということとは、けっしてイコールではない。

さらに、もう少し話を続けよう。ご紹介した2つのエピソード、『町内素人名人会』と『お見合い大百科』。この2編それぞれの冒頭にて、本すじにはちょくせつ結びついていない感じのプロローグが、わりと長めに展開されている。それらについて、別になくてもいいようなもの、あるいはページ数合わせ、などとも考えられないことはないが、しかしよくよく見てみると。

まず『町内』のプロローグで春助くんは、自分で自分のペニスをしゃぶることのできる『尺八ザル』というものの存在を本で読み、『こんな マネが 出来る わけは ない!』といったん言いながら、そしていそいそと、その行為にチャレンジし始める(!)。しかしぜんぜんできないので体を柔らかくしようと考え、一升ビンから『ぐび ぐび ぐび~っ』と、勢いよくお酢を呑む。
そこへ彼の悪友らが部屋に入ってきて、『酢なんか 飲んで どーする つもりなんだ』と聞くので、われらのヒーローは『きまっとる じゃないか 体をやわらか くしてな…』と言いながら、自分のものを自分の口でどうにかしようと、再びトライし始める。そして彼が状況に気づいて、『わっ わー!』と叫んで自分の股間を隠すのは、そのだいぶ後の瞬間なのだった。

その一方の『お見合い』のプロローグで春助くんは、夜の街角で、女性の下半身が無修正で映っている感じのわいせつ写真、それを売るというバイトに精を出している。ところがそれは、『実は おれの下半身の 写真なのだ』と、彼はモノローグで白状する(!)。何とそれらは、春助くんが足腰まわりのムダ毛を剃った上で、自分のものを股ぐらにかくしたところを映した写真なのだった。

と、見てくると。すでに文脈から皆さまにも読めているように、これら2つのエピソードは、それぞれの後に描かれている『女装春助くん、その大好評(?)』というイベントを、間接的に予告するものになっていることが分かってくる。
『尺八ザル』をまねすることによって春助くんは、自分の中から、大悦びでペニスをしゃぶる≪女≫を呼び出している。偽エロ写真を作ることでも彼は、彼の中から、男性たちの好む≪女≫の幻想(イメージ)を呼び出している。だからこれらの小ネタが、それぞれに続いたエピソードへと発展することには、あからさまではなくも必然性が『ある』のだ。

とま。筆者がいつも申し上げるように、人を笑わせうる≪ナンセンス≫は、決して単なるナンセンスでは『ない』ということ。そしてけっこう無手勝流チックに構成されていそうな今作について、見えにくい巧みな構成が実は存在していること。この2つを上記によってみごと立証できたところで、いったんこの堕文は終わる。もちろん今作こと「喜劇新思想大系」については、今後も随時その大傑作たるゆえんを見ていくだろう。

【付記】 まったくもってよけいなことを申すのだけど、エピソード『お見合い大百科』のさいごのオチ(性転換)はあまりにも『まんが的』、というか作りごとすぎて、筆者はあんまり好きじゃない。いまでいう『トランスセクシュアリティ』についての分析的な見方が存在するので、そこをちゃんと勉強しなおすと、それが『作りごとにすぎる』というところを詳述できそうに思いつつ。
(上記にかかわる追記:山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - トランスセクシュアル論へ向け

2010/03/07

小林まこと「1・2の三四郎」 - 『反則』の描き出す真実、『越境』でしか行けない場所

 
参考リンク:Wikipedia「1・2の三四郎」

『ギャグ漫画』というキーワードに注意して人々の語らいを見ていると、『ギャグじゃないけど大いに笑える漫画』、という言い方が、逆に引っかかってくる。そしていま、そのようなものとして思いあたる作品が、1つは少年マガジンの太古の大ヒット作「1・2の三四郎」(1978)で、もう1つは現在もジャンプ掲載中の「銀魂」(2003)だ。
と、言ってみてから『2つの間が空きすぎだろ!』とは自分でも思うが、そこいらは詳しいお方に埋めといていただきたい。そしてこの場では「1・2の三四郎」を検討し、「銀魂」についてはいつかまたふれる。

そしていま題名が出た2作について、『どういう作品だったっけ?』と、思い出そうとすれば。それらのお話の流れやキャラクターは思い出せるのだが、しかし『どういう≪ギャグ≫があったか?』ということが、さっぱり思い出せない。
対して、そうじゃない≪ギャグまんが≫について考えると、ギャグは思い出せるが、お話の流れや結末などは憶えていない、ということが逆に多い。

かくて。筆者の申している『狭義のギャグ=外傷的ギャグ』とは、心にするどく突き刺さって抜けない『無意味(=意味)のトゲ』のようなものだが。その一方の『広義のギャグ』である『流れの中でのズッコケシーン』や『人物同士のはげしいすれ違い』は、読者の記憶の中で、『流れ』および『キャラクター対立の図式』らの中に埋没してしまう。そして後者を見たものは、笑ったことのこころよさだけを憶えている。

ここで話を異様に古いことにすると、手塚治虫の作品なんて、いま見るとあってもなくてもいいような小ネタが異様に多いわけだが。しかしシリアスな方向に行ききらず、どこかコミカルなムードを並置しておくのは、オーセンティックな『まんが』の描き方の本流ではある。
テーマやムードがひじょうに重たいお話でも、どこかで読者に≪快感≫を与えておく必要がある。手塚およびその流れをくむ作家たちでは、それがいわゆる『コミック・リリーフ』になっている。すなわち、大友克洋のまんが「AKIRA」にも多少は笑えるところがあるし、さらに諸星大二郎のコミック・リリーフの使い方はもろに手塚チックだと言えよう。後者について、『さすがは2回も“手塚”の賞を受けただけはある』、と感心しておくべきか。
ところが宮崎駿のまんが「風の谷のナウシカ」には、そのような手塚チックなコミック・リリーフはない。というか思い出してみると、手塚作品をはじめとする≪まんが≫的なるものが必ず『複眼的』に構成されているのに比して、宮崎の構成は常に『単眼的』。そこで再び、『な~るほど、やっぱ宮崎はアンチ手塚なんだな』と考えてもよさそうだ。
(…付言し、コミック・リリーフの入るようなところにエロ要素をもってくる方法も大いにありうるところで、それは手塚もとうぜん意識的に使っている)

と、こんなことらを述べてから、どうやって話を「1・2の三四郎」まで戻したらよいのだろう? 『ギャグじゃないまんが作品のクリエイトしている笑いとは?』という問題意識があった上で、その懐かしい作品をこのたび読み返してみたのだが。

まずはいちおう、話題の作品「1・2の三四郎」(KC少年マガジン, 全20巻)の概略を述べておくと。その前半はちばてつや「ハリスの旋風」(1965)みたいな学園スポーツもので、主人公らが学校を出てからの後半はプロレスまんがになっている。…などと、筆者の話は放っておくと、自分でも冷や汗が出るくらい古いネタばっかしになり気味。
関連して超おなじみの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)によると、狭義のギャグまんがの元祖たる「おそ松くん」に対し、同じ1962年の学園スポーツコメディ、関谷ひさし「ストップ! にいちゃん」という対立軸が見逃せなかったそうだ。いやはやそこまでを持ち出しては、あっという間に話題が終戦直後の「バット君」や「イガグリくん」にまでも戻りそう…!? 古いにしたってほどがあるし!

ま、ともかくも「1・2の三四郎」という作品を、そこいらから出ているものとして。いまそれを見ていると、何しろパワフルでテンションが高い…というか、やたらうるさい作品だとは感じられる。音が出ていないまんがを読んでいて、こんなにも『うるさい』と感じさせられるのはすごい。人々がものすごく大きな口を開けて、わりとどうでもよいようなことをがなりまくる。
たとえばその作中で、誰かに対して誰かがよけいなことを言う。するとどうなるか。

 『うるせ―――んだよォ、てめえはッ!』
 『じゃっかましい、おのれこそだまとりゃあッ!!』
 『だまれとぬかすキサマが、まずだまりやがれぃッ!』
 『ああもう、ほんとにうるさいわね―――ッ、あんたたちはッ!!』

といった具合いで、まったくとどまるところがない。かつ、基本的にはそんなことばっかしが描いてあるまんが、だと申しても過言ではなさそうだ。ただしまた基本的に、この人たちは、いちおう『有言実行』の人々でもありながら。
ところでこれもむかし聞いたことだが、筆者よりも前に今作を見ていた友人の感想。

『柔道の試合でプロレスのバックドロップを放つ、といった前半のメチャクチャさは面白い。しかし、主人公らがプロレスラーになってからの後半は面白くない。プロレスでプロレス技をやっても当たり前なんだから』

追って筆者が読んでみてもその通りで、主人公の三四郎が、『燃える闘魂』の猪木イズムでラグビーや柔道に取り組むことは面白い…が、それがプロレスラーになってしまっては、単なる猪木の亜流だ(!)。いや、そうとは言っても語りの上手さで、するすると最後まで読ませてはくれるのだが。
ここで今作の原点を確認すると、三四郎らの『格闘部』は、女子ばかりがはばを利かせる学園内の、行き場なきアウトサイダーらのたまり場として生まれている。ゆえあってラグビー部をやめた主人公が柔道部の門を叩こうとすると、さいごの部員が入れ替わりに退部していくところだった(!)。そこで空き家になった柔道部の部室に、少女まんが家志望の虎吉と、関西人の馬之助も押しかけてくる。虎吉は空手部、馬之助はレスリング部、それぞれラス1の部員なのだった。
こいつらそれぞれ、死ぬほどに我が強い一種の≪猛者≫ではあるが、しかし仲間がおらずその理解者がいない。そこへさらに、なぜか三四郎に興味をもった転校生でヒロインの≪志乃≫も押しかけてくる。彼女もまた、どういうわけだか学園内の秩序に入りそこねてしまったのだ。

そうしてこいつらはてきとうに、柔道場の一角ずつを好きかってに、それぞれの居心地よい場所として使い始める。その中でも特に志乃が、女の子の居室の備品一式を丸ごと道場に持ち込んで、優雅な放課後のティータイムとしゃれ込むのがすごい(!)。そしてその心地よい部屋で彼女は、『ああ‥‥ いとしの ポール‥‥』とつぶやきながら、マッカートニーでもニューマンでもないポール牧のポスターに見入るのだった(第1巻, p.56)。
ところがそんな好きかってがいつまでも通るわけがなく、しょうがなくてこの4人は自分らを、学校の公認する『格闘部』として組織し始めるのだが。ともあれこの作品の原点に、孤独で行き場なき少女と少年たちが、自分らの居場所を作ろうとする…というモチーフがあるとは言える。

そしてこの『行き場なきものが、自らの居場所を求めて闘う』というモチーフが、今作の根源にあって人々の共感を呼んでいることはもちろんだが。追ってこのモチーフはまた、作の中盤で少年たちがプロレスラーになろうとするときにも再現され、さらには今作の続編「1・2の三四郎 2」(1994)で、いちど引退した三四郎がプロレス復帰しようとするときにも再現される。
かつ、そのような彼らの闘いの手段は、反則もしくはすれすれの『越境』による。すなわち、かの有名な、柔道の試合でバックドロップやブレーンバスターを繰り出すようなことだ。かつ、むさ苦しい空手野郎のくせに少女まんが家になろうとしている虎吉などは、その存在自体が『越境』であり。
さらに、追ってこいつらの仲間になる超むっつりスケベの岩清水くんなどは、ほとんど反則わざ『しか』できない。むしろ平気で反則ができるということが逆に、彼の唯一に近いとりえなのだ。

けれどもそのような『反則』や『越境』のモチーフが、作の後半でプロレス界が舞台となると、急速にその輝きを失っていく。なぜって言うまでもないけれど、さいしょからその世界では、反則や乱入が当たり前なので。
それでもその展開の初期、招かれざるリングに偶発的に乱入したヒーローが、その岩清水くんの持っていたエロ本の束で殴ってプロのレスラーをのしてしまう(!)、なんてところは痛快だったが(第11巻, p.18)。それはまた、なんでもありのプロレス界(?)でさえ考えられぬ、ハイパー反則わざのばくはつだったが!
(…補足。『エロ本で血が出るまで人を殴る』というこのギャグは、このお話にはわりと珍しい『外傷的ギャグ』)

ところで今作「1・2の三四郎」で、筆者がもっとも感動したところを書いておくと、それはわりと初期の第3巻、学園祭の余興として格闘部が、県内でも強豪のラグビー部と、そのラグビーで闘う…というエピソードなのだった。これは三四郎とラグビー部の主将にとっては、ある種の遺恨試合でもあり。
そして。しょせん余興の試合なので人数も変則、そして多少の反則はありで…という設定に乗じて格闘部は、さいしょは反則わざを使いまくってセコくラグビー部に対抗する。ところがハーフタイムの1つのイベントをきっかけに、双方がマジになってしまう。かの格闘部員らでさえもが、小細工ぬきで汗と泥にまみれて真剣にボールを追い始める。

そうしてそこで描かれたのは、既成の制度を離れたまったく無償の行為としての真正なスポーツだ。ただ単にボールがあるからそれを追う、ということが誰にできるのだろうか? そのような無償の行為の美しさを、制度的な競技スポーツに見ることがきわめてまれであり、かつスポ根まんがらの中にさえそれがめったに見られない。
それを「1・2の三四郎」という作品は、偶発的な反則まぎれの『越境』というやり方で描き出しているのだ。冗談から始まって『ほんとうのもの』にいたってしまう、これこそが真に反則や『越境』と呼ぶべきことでなければ何なのだろう?
しかもその描き方がまたふざけていて、この少年たちの闘いに立ち会っている観戦者のモッブらは、『それに しても‥‥ なんで 猪木は 日本プロレスを クビになったの だろう』などと、まったく関係なさそうなプロレス談義に興じているのだった(!)。そうしてそこらで盛り上がって、『三四郎なんて どうでもいいや‥‥』と、まったくありえざることを口走るのだった(第3巻, p.146)。

そしてこのような反則の面白さが、お話の舞台がプロレス界になれば『逆に』消滅してしまっていることが残念…ということはすでに述べたし、それはもうしょうがない。
というわけで、この堕文もマズい意味での『越境』になっているような気がしつつ。さいごに筆者のそぼくな感想を述べておくと、今作のヒロイン≪志乃≫についてちょっと感じるところがあった。このようにヒーローにとことんついてきて、そして常にヒーローを立てることに終始する、そんなヒロイン像がいまはないような気がして。

その観点から、今作「1・2の三四郎」からわりとすぐに後に出た作品、1981年のあだち充「タッチ」は、今作に対しての大アンチテーゼであると見れなくない。何せそのヒーローがぜんぜん男っぽくないし、そしてヒロインは彼を『立てず』に(自分は新体操にはげんで、)張りあってくる。
そして、ここにおいて生まれた『ヒーローに対して比較的クールであり、しかも張りあってくるヒロイン像』は、現在の少年ジャンプの人気作「バクマン。」にも描かれているところだ。さらに『張りあってくる』どころか、逆に、すごいユニークなヒロインをヒーローがフォローし立てる…というお話が、少年誌上にもまれでない現在であり。

『張りあって』と言えば思い出すのだが、今作「1・2の三四郎」の冒頭で、志乃は意外と全校1番の秀才で、しかも転校前の学校では生徒会長だった、と明らかにされる。ところがそのような『設定』は、追っての展開でまったく生きていない! おバカなヒーローたちと同レベルのアホな子にしか、彼女が見えないのだが。
1つ言えばその『設定』はただ単に、三四郎から志乃に対して『売り言葉に買い言葉』で、

 『てめえこそ 頭がよくて もと生徒会長で
 ボインのくせ しやがって ~』(第4巻, p.57)

…という罵倒を引き出しているだけだ。だからほんとうは大好きだ、ということが言外に分かりやすく言われているわけで、ただそのための『設定』になっているのだ。
で、そうとすると、その一方の「タッチ」や「バクマン。」のヒロインらが『張りあってくる』という行為もまた、実はヒーローに対しての媚態になっているのではなかろうか、という気もしてくるが。しかしそこらは、いまは検討外として。

ともかく筆者が感心しているのは、この「1・2の三四郎」という作品の野趣というか、ワイルドでナイーヴなところというか、もろもろ包み隠していないところなのだった。これに比べたらこんにちのまんが作品らは、いちようにずいぶんと繊細かつ都会的な作風になっているなあ…とッ!?

2010/02/26

内崎まさとし「らんぽう」 - よるべなきものたちへ

 
参考リンク:Wikipedia「らんぽう」

少年チャンピオン掲載のハイパーなドタバタギャグまんが。この作品「らんぽう」が出ていた時期(1978-87)はちょうど、パンク、ニューウェイブ、ディスコ、スカ、テクノポップ、インダストリアル、ニューロマンティクス、ヒップホップ、ハイエナジー(ユーロビート)、ゴシックロック、ネオアコ、ついでに『おマンチェ』(マンチェスターポップ)…といった≪ポップ≫の歴史を飾ることばたちが、あまりにもまぶしく輝いていた時代ではあった。
で、その掲載が終わった1987年がアシッドハウスの誕生年だったということも、また何かちょっと意味ありげだ。それまでの“すべて”の眺めを変えてしまった、アシッドハウスという≪ポップ≫の新登場。その大刷新の発生をきっかけとして(?)「らんぽう」が引っ込んでしまったことに、何かすばらしいいさぎよさを感じてよいような気もしつつ。

ではありながら、なぜいまというときに「らんぽう」の話かというと? 別に大した理由ではないのだが、いろいろとこっち側の理由はあるのだ。

まず。先週の週末に筆者は、親族内の法事というヤボ用に出かけた。そこで筆者が注目したのは、いとこ夫婦の次男坊の2歳の男の子だ。それこそまさしく≪オイディプス以前≫のジェネレーションなので、『何か』をやってくれそう…と思い、自分はその行動に注意していた。
するとその子がすかさず、控えの部屋の床の間にズカズカと上がっていって、そこの飾りの掛け軸をグイグイと引っ張ってくれた(!)。それを見てあわてるその母親と、叱られてキョトンとする子どもと、そしてさわやかに笑いころげるわれわれ傍観者。『こういうところにも“ギャグまんが”の原点みたいのはあるなあ』と、そこで筆者は考えるのだった。

そしてそこで思い出したのが、楳図かずお「まことちゃん」(1976)、今作こと内崎まさとし「らんぽう」(1978)、そして鳥山明「Dr.スランプ」(1980)といった、あまりにも元気ありすぎなキッズの大暴れを描く作品たちなのだった。で、それらの中でも自分がいちばん好きだったのが、今作「らんぽう」なのだった。むしろ「らんぽう」を先に見ていなかったら、「Dr.スランプ」を愉しむことはできなかっただろう…と感じる。

かつ、近ごろこのブログに米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)という書名をよく見るが。その本の記述が当時の最新の≪ギャグまんが≫の、「うる星やつら」、「らんぽう」、「Dr.スランプ」…というあたりで終わっている。で、わりと筆者が意外に感じたのは、そこで「らんぽう」の評価が意外に高いということだ。
…あ、いま確認してみたら、そんなには「らんぽう」をほめてなかった(ちくま文庫版, p.257)。ストレートに『幼稚!』とは言ってない、それだけ(!?)な感じだ。
にしてもいままで、筆者が「らんぽう」を好きだと告白すると、必ずや『幼稚!』と大断言されてきたもので。そうとまで直接は言っていないだけ、「戦後ギャグマンガ史」の記述を光るものと感じた、そんなことだったかも知れない。

では、ここらで作品「らんぽう」のあらましをご紹介しておこうかと。さいしょはふつうの中学生、というより目立った秀才くんだった主人公は、UFOにアブダクションされてから、どんぐりまなこに黄色い髪に赤い道着がトレードマークのスーパー野生児≪らんぽうクン≫になってしまう。
そして担任の≪角丸先生≫のアパートに上がりこんで帰らないので、迷惑に感じた先生がクラス名簿で彼の住所を確認すると、何とそれが先生の部屋になっている(!)。そうしてそこに居ついてしまったらんぽうクンが、天才ネズミの≪チュー太郎≫を子分として暴れまくる姿が描かれる。どうもこのチュー太郎クンについては、変身前のらんぽうクンが持っていた知性を受け継いだもの、という感じがある。
かつ作品の進行につれて、番長のカラ太郎(顔がカラスにそっくり)、近所のネコ軍団、マッドサイエンティストのDr.補佐望(ほさもち)、などなどがにぎやかにお話に参加してくる。そうしてわれらのらんぽうクンを一貫して見守っているのは、お話の最初からそれとなくいい仲のクラスメイト兼ヒロイン≪むつみたん≫だ。

むしろ今作はむつみのモノローグから始まっているので、その“すべて”を彼女が見たこと、とも読める。まっとうきわまるヒロインが、なぜか異常きわまるヒーローを温かく見守っている。
追って出たゆうきまさみ「究極超人あ~る」(1985)もそうだが、ついでにマイナーな作品だと吾妻ひでお「チョッキン」(1977)もやや近いが、こうした作品構造には注意していていい。われわれ読者は、その心やさしきヒロインをフィルターにして作品世界を見ている。
先だった「おそ松くん」や「オバケのQ太郎」、そして「ハレンチ学園」や「がきデカ」らにもヒロインっぽい女の子らが登場するけれど、それらに対して異なるものがあることは明らかだ。やや近いのは≪バカボンのママ≫というキャラクターの存在かも知れないが、しかし妻とか母親とかいうポジションになっていては、またちょっと違う感じ。

ところで筆者が「らんぽう」という作品で、いちばん共感をもって見ていたのは、ノラ犬の≪ヒマ犬≫と呼ばれるキャラクターなのだった。何せノラ犬なんて必ずヒマなものだろうと思えるが(そうかな?)、ともかく彼は、たいてい『ヒマじゃ~』と言いながら登場していた。
で、そのヒマ犬くんが主人公をつとめた1編が、ひじょうに心に残っているのだ。しかし本が手元にまったく残ってないので(持ってたのだが)、ぞんぶんに記憶『だけ』にたよってそれをご紹介すれば…。

ノラ犬といえども喰っていかねばならないとして、われらのヒマ犬くんは干してある洗たくもののパンティか何かを盗み、それをどこかの童貞っぽい少年に売りつけてお金にする。当時は『ブルセラショップ』なんてものはなかったはずだが、言わばそれを不法に先取りしたビジネスを展開する。
ところがそれを『刑事らんぽう』に摘発されて(そのお話に限り、らんぽうクンが刑事役をつとめている)、あわれヒマ犬くんは更正を誓ってやっと牢屋を出ることができる。しかし、われらのヒマ犬くんは吠える。そうとは言っても、ノラ犬にどういう『やるべきこと』があるのかと! さもなくば、どんな因果で人間どもにシッポをふって、飼いならされなければならないのかと!
悩んだ末に、彼はある家の飼い犬になる。そこのお坊ちゃんのおもちゃになって、エサをもらって犬小屋におさまって、『悪くもねェな』といったんは思ったが。しかし彼はその夜、『野生の血が騒ぐんでやんす』…とつぶやきながら、自分をつないだロープを喰いちぎる。
そうして夜の町に、『どろぼうよー!』という女性の悲鳴が響く。そこでらんぽう刑事が『またヒマ犬がやりやがったか!』と叫んで現場に急行すると、そこではわれらのヒマ犬くんが、別の人間の下着ドロボーをとり押さえているのだった。
というわけで、びみょうには更正できたようなヒマ犬くんだったが。しかしけっきょくのところ、ノラ犬という存在の生きにくさはまったく変わらない…のようなつぶやきで、お話は終わっているのだった。

どういうわけだか、いま思い出してもまったくもって、『これは自分のことだなあ』…と感じないではいられない。いや、筆者は下着ドロボーをやったことはないけれど!
通じているのは、このくそくだらない社会を心そこ軽蔑しながら、そのどん底で細々と生きているばかり、というところでか。そしてヒマ犬くんと同様に、自分もある種の『野生のキバ』を持っているような気がしつつ、だがそれは役に立たず使うことの許されないものなのだった。

ところでこのエピソードについては、付随する想い出話があって。才能もないのに筆者がパンクバンドをやっていたころ、たぶん練習スタジオの帰りか何かの機会、バンド仲間およびその友人らと、池袋の喫茶店でおしゃべりしていたときに。
どういうわけだか自分は上記のエピソードをとうとうと語り、そして『われらのヒマ犬くんは、ランボーでありムルソー(カミュ「異邦人」のヒーロー)なんだヨ!』くらいなことを、つい力説してしまったのだった。超・しまったッ!
いま思い出しても、そのときの人々の真っ白けな反応には身が縮む。しかもいま現在、この場においても『まったく同じこと』をやらかしているわけで…! 何せ筆者には、『人が聞きたがるようなことを話す』という能力が、ゼロ以下にしかない。えへん!

ああ…。かくて筆者とヒマ犬くんには永遠に、この世には身の置きどころがない。そして≪われわれ≫のごときノラ犬らのことを描いてくれた「らんぽう」という作品、それに対する想いが消えることも、たぶんまたないだろう。

2010/02/22

つのだじろう「新うしろの百太郎」 - またはそういう意味でのホラー

 
参考リンク:Wikipedia「うしろの百太郎」

ご存じのホラーまんがの1つの古典「うしろの百太郎」、今回はその『新』がつくシリーズについて(1975, KCスペシャル, 全6巻)。さいきんの記事の「悪魔と俺 特盛り」がいろいろと濃すぎたので、ちょっと目先を変えてみようかと。

ところがだ。しかしその作品がまた、目もくらむようにどぎついしろものと、言えば言える。
どういうところにそのどぎつさを感じるか、というと。そのKCスペシャル版の第1巻の冒頭(p.6-13)から、ちょいとご紹介すれば。

 『死後の世界は 百パーセント 確実に 存在する! 
 そう断言 している ロス教授(例の「死ぬ瞬間」の著者キューブラー・ロス) は‥‥
 (中略)蘇生にかんする 研究で たいへんな 権威なのだ!』
 『(超能力について)外国では 長年 研究を かさねた権威ある
 科学者が 百パーセント ある‥‥と 断言している!』

というわけで、日本じゃない外国では、死後の世界や超能力らの実在は、すでに常識である(!)、とみた上で。

 『(オカルトに対して)この五年‥‥ 十年のあいだに
 日本人の考え方も じつは 大きく かわってきつつ あるんだ!』

と、主人公である一太郎クンのパパが言う根拠は、1984/08/20付の読売新聞より、『八〇年代国民意識の流れ』という世論調査の集計だ。その紙面が画面に貼り込まれており、『「神秘」大好き都会っ子』などという見出しらが見えている。
その記事の要旨を筆者が説明すると、まず宗教を信じている人は全体のたった3割足らずなのに、オカルト(的なこと)を信じている人は大いに増えている。特に、都市部および若年層においてその傾向が顕著、とのこと。
ちなみに調査対象は『有権者』なので、10代は含まれていない。そこを含めればオカルト信奉者はもっと多くなるはずと、パパさんは言う。それはそうだろうと、筆者もそこは同感する。そして。

 『この データの しめしている ものは
 科学は 万能ではない! この世には 現代科学でも
 解明できない ものが たくさんある!
 ‥‥という 正しい認識をする 進歩的な考えの 人々が‥‥
 都会や 若い層に ひじょうに 多くなっている‥‥
 反対に 古い常識に こだわり ガンコに
 理由のない 否定をつづける 人は‥‥ 田舎や 老人に多い(←!!)』

とまで引用してきて思ったのだが、どうして少年マガジンは他で見ない『‥』(2点リーダー)なのだろうか? と思ってから、前の記事の野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻を見て確認したら、そこでは一般的な『…』(3点リーダー)に変わってやがるし。
ありゃりゃりゃ。同じKC少年マガジンで、2009年5月刊の氏家ト全「生徒会役員共」第2巻では、『‥』だが。まあ、それはいいが。

まあともかくも、一太郎クンのパパの怪気炎の、さいごのところをご紹介しておこう。

 『霊魂は 存在するのだ! 現代の科学では その論を 否定できない
 ところまで きている! それは 世界の趨勢だ!
 ノーベル賞 受賞者を含む 大勢の科学者が 徹底的に 研究を
 かさねたデータが つぎつぎに 発表されて いるからね!』

まったくもって、目もくらむような電波談義としか申しようがない。こんなでは、どうして自分が≪1999年7の月≫の後にまで生きているのか、ほんとうに今年は2010年なのか、という疑問さえが生じ気味だ。
いや別に自分は後出しジャンケンとして、それからもう25年以上、いまだオカルトの実在がぜんぜん証明されてはいない、ということを述べようとはしていない。25年だろうが100年だろうが、そんなものが証明される見込みはないし。

そんなことに関係なく、さいしょからパパさんのりくつは『感情』に向けて『想像』を訴えているばかりで、ごく小さな論拠にもとづいて大きな論拠を斥けているばかりで、まったくもって論理性がなさすぎる。
それを信じている人々は、『信じたいから』それを信じているにすぎない。ただしパパさんの言うような主張が、世論調査にも見えている1つの時代の風潮にのったものではあった、ということも確かでありながら。

にしても、パパさんの言っている≪科学≫とは何なのだろうか? あるとき彼は『権威ある科学者がオカルトOKと言っているので、それはある』と言い、大多数派の≪権威ある科学者≫らが『オカルト、笑止!』と言っていることは気にもとめない。またあるとき彼は『科学は万能ではない!』と言い、別のところでは『大勢の科学者が 徹底的に 研究を かさねたデータ』がそれを証明している、と言う。
ようするに科学であろうが神話や伝説であろうが、彼には『信じたいものを信じる』、以外の態度はない。かくて、そんなにおバカさんとも思えぬ人間が、ある局面ではここまで≪批判精神≫をドブに捨てることができる…という恐ろしい1つの実例を、ここでわれわれは見ているのだ。
独りがってな『想像』の世界に生きている人間らにとって、事実および≪真理≫らの値打ちは馬のふん(=1ゴールド)ほどにも『ない』。これこそが幽霊や妖怪の出現どころでない、真の≪ホラー≫なのではあるまいか?

…ところでだ。筆者がひじょうに興味をもっている、精神分析というものがあるのだが。その世界の1匹のボスだったラカンちゃまが『分析理論のみちびくところにより、オカルト絶対否定!』と教えているので、そういうわけだが。
そうしてその精神分析について、『それは科学なのか? または別のものなのか?』という問いは、その内部の問題として存在する(外部からの同じ問いは、とくに問題とするに値しない)。
で、ラカンちゃまのそれについてのテーゼは、『精神分析は、“科学であることを目ざす言説”である』、のようなことだが…。

昨2009年の秋ごろ筆者は、その『科学とは何か?』ということを、ちょっと研究していたような記憶がある。ようはポパーが「科学的発見の論理」(1934)で『反証可能性』の有無によって科学を定義しようとした試みが、1962年のクーン「科学革命の構造」、ファイヤアーベント「説明、還元、経験主義」といった著作らで大粉砕されている。かつ、この1962年という『科学観革命』の年が≪ギャグまんが第1号≫こと「おそ松くん」誕生の年と同じであることを、ただの偶然と考えるには及ばない。
かくて『論理実証的』な科学観の崩壊した後に、科学を定義するには、『ワールドワイドの科学コミュニティ(または科学ギルド)の内部で行われ、そこで“科学である”と認定された活動が科学である』…などとしか言いようがない。
この言い方は、フロイトが発案者として≪性感帯≫という概念を説明した言い方を思わせる。いわく、『性感帯とは、人間が“性感帯だ”と思っている部位である』。

そもそも精神分析は『臨床医学』かつ『精神医学』の中の1つの『医術』と考えられ、そうしてそれらが実証科学と言えるものなのか、ということ自体が、1つの大問題なのでもあり(ポパー的には、ぜんぜん落第)。ゆえにわれわれは、『精神分析ごとき、“実証的”でないので非科学的だ』、などとぬかして悦ぶおバカさんたちが死ぬほど勉強不足であることを、そのあんまりな反省のなさを、しんそこ軽蔑してもよいが。
(ところで精神分析を否定する方々は、その末流で廉価版コピーである『カウンセリング』とやらの療法をも全面否定した方がいい。いまどきは血税をもって『カウンセラー』が雇われることもあるらしいので、否定派の方々は行政訴訟を起こした方がいい。そして心の悩みに苦しむ方々には、悩む余力もなくなるまで向精神薬をたらふく喰わせとけばいい…というわけだ! オーレイ、実証科学ばんざい!)

かと言ってわれわれに『実証性』が足りてないことを、そのりくつに『超越論的』な性格のあることを、まったく気にもしないでは、一太郎パパさんと同じになり気味かなあ…と、ここで筆者はため息をつくのだった。その言う『正しい認識』とは、『進歩的な考え』とは、いったい≪何≫なのだろうか?
『論理実証主義は崩壊した、よって考えるな、さあ踊れ!』…ということをわれわれが言いたいのでは、まったくないし。とはいえ『だんこ踊らないぞ!』、とも言わないし。また、分析ならぬ『深層心理学』とやらを言う一派においては『論理実証主義の崩壊』大歓迎だろうけれど、われわれにおいては別に嬉しくもないし。

かってフロイトは、いずれ努力の末に、精神分析がふつうに科学の一角に落ち着くだろう、と考えていた。ラカンもまたその線を追いながら、しかしその生きている間に、リファレンスたるべき≪科学≫のイメージがあっさり崩壊してしまった。
そして晩年のラカンの追求は、そうした科学観の革命に惜しくも追いつけていないというか、ズレている、という感じはある。まったくもって申したくないことだが、『現代最先端の数学や物理学の学説が補強するところにより、わたしの理論の正しさは明らかなのです!』みたいなことをおっしゃる晩年のラカンちゃまの口ぶりが、一太郎パパさんにぜんぜん似ていないと言っては、筆者がうそつきの偽善者になってしまう。ああ…。
だいたい筆者は一太郎パパさんをさきのように申してきて、そしてさいごに『それはわたしだ』と、付け加えたいような気がしているのだった。精神分析という異端でマイナーですでに搾取されきった1つの何かを、どうしてむきになって擁護しているのだろうか、この人は? みょうに誰かのことを熱心に話していると、『それは自分だ』としまいに気づく。そういう気づきの仕方は、とりあえず『精神分析的』であろうかと。ああ…。

ところで、「新うしろの百太郎」という作品の話に戻り。別に筆者はそれを、電波チックなおもしろ話のかたまり、とだけ言いたいのではない。
いまさらそれをほめても説得力ないかもしれないが、みょうにときどき『ほんとうのこと』が描かれている。たとえば第2巻の序盤すぎあたりに、『寝ている最中の霊体験』、という題材の短編がある。そして作中で、それに悩む15歳の少女からの手紙(たぶん本物)が紹介されている。

 『実を言うと私もオナニーのくせがあります。
 幼い頃から性への快感も味わっていて、週に3、4回はオナニーをしていました。
 私もいつか霊にとりつかれるのではないかと いつも思っていました。
 夜、寝ようと思うとあそこの部分が(中略)
 やはりイヤラシイ霊がとりついているのでしょうか』(第2巻, p.62)

この手紙の特徴として、『私も』、『快感も』、『やはり霊が』、と、何らかの先例をフォローしていそうな書き方になっている理由が、筆者にはよく分からないが。しかしこれに類するような訴えの『先例』として、フロイト「あるヒステリー分析の断片」(1905)が紹介している≪症例ドラ≫、というものは思い当たる。
いやはっきり申して、これはわれわれがよく知っていることに関係ありすぎる。かつ、ほんとうにいたましい悩みだと感じないではいられない!

そして、ここにて痛感されることとして。アカデミーのうちわでゆかいなおしゃべりに興じる方々には死ぬまで分からない、そもそもわかる必要のないことがある。フロイトやラカンという人々を、何か学者とか思想家とかのようにみる考えは、ほんとうに死ぬほどバカげている。
そうではない! 彼らが偉大だと言いうるのはまず、この手紙に類するような人々の苦しみ、はた目には少々らちもないような(?)苦しみに、終生つきあい続けたことによる。まずそこを見ないでは、精神分析のせの字も分かるわけがない。
…が、かといって、彼らは苦しむ人々に『なれあった』のでもない。また、臨床べったりの素朴な経験主義に徹したのでもない。そこらがかんじんだろうが(そこから分析特有の方法や理論が生まれるのだが)、それはまた別の話としておいて。

そしてだ。その手紙を見て、われらの一太郎クンは『この例は、霊とは関係なさそう』のように、珍しく冷静なことを言う。かつ霊の研究者である≪東先生≫もまた、

 『この少女の 場合は(自慰について)ひそかな 罪悪感を もっていて‥
 そのおびえを 霊のせい‥‥ ということに 結びつけて いるにすぎ ない!』

と、まったくごもっともなことを言ってくれるのだった! しかもそうは言いながら、『やはりイヤラシイ霊が』悪さをすることもある、というお話になっているのだが!
(…かつ、霊のしわざじゃなければ問題はない、ということはぜんぜんない。だが、いまはこの作品の文脈によりそってみて、そこまでは見ない)

かくて何ともこの作品「新うしろの百太郎」には、ひとすじなわではいかないところがある。はっきり申して中み的に玉石混交もいいところ、しかし矛盾をものともしないところが『逆に』面白い、と、筆者の感じ方は、ここらで変わってくるのだ。

そしてその第4巻の大部分をしめる『ファラオの呪い編』こそ、そうした面白さの典型であり1つの骨頂か、と言いたい気はする。これは主人公たちが、超自然的なトリップと飛行機の旅行と両方で、(古代の)エジプトにおもむくというお話で。ついでに作者たちもエジプトに取材しているので、いろいろなレベルの『事実』とらちもない空想とが、こんぜん一体に描かれている。
じっさいのツタンカーメンに関する記述も詳細で、知的な興味もそそられる。特に筆者が感心したのは、作中人物がアクナテンに関する『病蹟学』的な考証を一蹴するところ(p.148)。こっちの話として、『精神分析的な批評』が作者に関しての病蹟的考証になっている場合があるが、あれもほんとうに『作品』というものを知らざる臆見でくだらない(!)。そこらで大いに、共感したりもしつつ。

にもかかわらず、そのお話がとんだ大電波の発信として終わっていること。それを筆者は、ゆかいだと言いきってよいのやらどうなのやら…。
ちなみに続く第5巻の『謎の地下底都市編』はカッパドキアを扱ったもので、やはりその興味深さプラス強力な『面白さ』は、エジプト編に匹敵する。いろいろな意味で。

ほめるにしたってけなすにしたって、作品は『作品』として扱われねばならない。そうなのだが。しかしここまでを見てきて筆者は、次のように思うのだった。
さきにわれわれがちらと見た、15歳の少女からの手紙。そこに書かれた『霊』のお話はないことだが、しかし彼女の訴えの中には真実がある。と同様に、『ないこと』にまみれたこのお話の中にもまた、何らかの真実の気配は大いにある。そしてそれぞれの中の真実を見きわめるためのリテラシーが、われわれには求められているのかな…と。
と、何だかしっけい気味な話にしてしまって申し訳ないが。ともあれ、これをまったく驚くべき作品であるとは断言できる。ほんとうにいろいろな意味で…!

2010/02/10

横山光輝「三国志」 - 「三国志」関係のまんが その1

 
参考リンク:Wikipedia「三国志(横山光輝)」

ひじょうに何度も何度も再話されてやまない物語…というものが、いろいろとある。それらの中でも中国起源の説話2つ、「西遊記」と「三国志」は、特に目立っている例ではないかと思う。われわれこと、日本のまんが読者が見ている限りでは。

まずは、西遊記をまんが化したものというと…。おっと、Wikipediaの記述を参考にすれば、それは少なくとも48個あるらしく(数え違えているかも)。
その中から、わりと名のある作家のまとまった作品だけ挙げておけば、手塚治虫「ぼくの孫悟空」、吾妻ひでお「きまぐれ悟空」、小池一夫+小島剛夕「孫悟空」、諸星大二郎「西遊妖猿伝」、鳥山明「DRAGON BALL」、寺沢武一「ゴクウ」、山口貴由「悟空道」、峰倉かずや「最遊記」シリーズ…といったところか(順不同)。
と、こうして題名を挙げてみると、自分があまり読んでいないことに気づいてがっかりしたが。しかし筆者としてはこれらの中で、諸星大二郎「西遊妖猿伝」(1983)が、もっとも自分のメモリーに強い。そして現在のギャグ作品の古賀亮一「電撃テンジカーズ」(2006)の盛り上がりにも、大いに期待しつつ。

しかしいまここでは、「西遊記」ではなくて「三国志」ベースのまんが(たち)の話をしようとしているのだった。なぜにそっちかというと、たいへんかってながら『自分の中での新鮮味』があるからだ。
つまり、不勉強にして自分はいままで、「三国志」のお話については、ほとんど何も知らなかった。それが近ごろ、まんがを媒体にしても『少し』知ったので、ついついその話がしたくて…というわけ。

かつ、まんが界のトレンドを見ると。1990's以降の動向として、「西遊記」のプレゼンスが後退しているということは別になかろうが、しかし「三国志」系の作品らのプレゼンスは明らかに大きく増している。
その系列の作品として、1980'sには本宮ひろし「天地を喰らう」があったくらいだったが、1990'sには李學仁+王欣太「蒼天航路」や山原義人「龍狼伝」などの大作が登場。そして2000年の塩崎雄二「一騎当千」によって何だか異なった方向性が開かれ、そして現在まで、その勢いが下がっている感じがしない…といった観測がありうる。
かつ「三国志」には現在、『層』としてのファンが存在する。総合的なポピュラリティでは「西遊記」が上だろうが、「三国志」固定ファン層の熱烈さは見逃せない要素だ。
(あと、日本のまんが界の1980'sに中国武侠系の一大ブームがあり、つまり前出の「DRAGON BALL」にプラス、「らんま 1/2」や「北斗の拳」らの大ヒットがあった。そして「三国志」系列のまんが作品でも、「龍狼伝」や「一騎当千」らには、その流れの合流が見られる。うける要素が二倍と見れば、それはおいしいかも?)

そして、どうしてこの時代に「三国志」がささやかにもブームっぽくあるのか? 有名なコンピューター・シミュレーションゲームの影響とかありそうだが、しかしそこを追求しようとは別に思わない。自分がただいま「三国志」を面白いと思っているわけで、そして自分にとっての「三国志」であるまんが作品らを見ていくことにより、その感じ方の根拠が見えてくるかも?…くらいの気持ちで始めてみる。

そうしてわれわれが「三国志」ベースのまんがたちを順ぐりに眺めようとしているとき、まずは横山光輝「三国志」(1971)から…というこの選択が、あまりにもオーソドックスっぽい? 何せ筆者は「三国志」について、これ以上のリファレンスらしきものを持たないのだ。
ゆえに、『他とは異なる今作の特徴』ということを述べにくい。むしろ今後見ていく作品たちについて、『横山「三国志」と比べ、こう異なる』のように言おうとしているのだから。
ところで「三国志」に限らず、横山光輝の中国史ものについて一般に。…いくら武人でも、食事どきや宴席にてもよろいかぶとをつけたまま…という絵図がおかしいような気がするが、まあそれはまんがなのでよいのかも。

ではこの堕文の残りを、『「三国志」という物語、それ自体をどう見るか?』…という話で埋めようか。それを筆者がひとことで申せば、『戦争ばかりを、ずいぶんしているなあ』…となる。
別に冗談は言ってなくて、素朴かつすなおな感想として、『もう少しでも戦争をひかえてはどうか?』と、感じないではいられない。はっきり申して何をかくそう、筆者は戦争というものが大嫌いなのだ。

で、その観点から。「三国志」というお話の序盤には、誰もが引き込まれそうな要素がある。それは志ある青年たちが、意を決し命をかけて『戦争に対する戦争』を闘おうとすることだ。もしもそういう始まり方でなかったら、これが現状ほどの多くの読者を得ていないはずだ、と考える。
ところが彼らの闘いについて、物語の進行につれて、『戦争に対する戦争』という性格が薄れていることは明らかだろう。いちばん遅い段階を見ておけば、『魏-呉-蜀』の三国体制ができてしまったあたりから、もはや『平和のための闘い』という感じがぜんぜんしない。
そしてこの横山光輝「三国志」全60巻を読了したとき、筆者の心には、『劉備玄徳は、ほんとうに名君なのだろうか? 諸葛孔明は、ほんとうに名宰相なのだろうか?』…という疑問が残ったのだった。正義か否か…などという観点を、また別としてさえも。

それこれにより、「三国志」の再話ものが数ある中で、おなじみのプロローグ『桃園の誓い』あたりを描いてないものはごくまれであり、かつ蜀漢の滅亡までを描いたものも『また』まれである、という事実がある。
要するにこのお話は、明らかに後半がいまいち面白くないのだが(!)。それでもきりのついたところまで描きぬいた数少ない例、すなわち横山「三国志」は、明らかなる偉業に他ならない…とは確認しつつ。

だいたいのところ戦争というものについて、『それはむだ遣いすぎる』と筆者は考える。ちょっと筆者の感じ方を説明すれば…。
「三国志」に限らず古代や中世の戦記ものには、次のような記述がままある。『攻撃側のA将軍は、1万の軍勢をもって敵の城砦を包囲した。そして総攻撃の機をうかがいながら、その包囲が1ヶ月にも及んだころ…』
その1万の軍勢を維持するのに必要な費用が、1人あたり1日に…たとえば1000円だったとしよう。するとたったの1日で、いきなり1千万円の費用がかかる。1ヶ月では、3億円。1000円という数字を半分にしても、1.5億円だ。
どういう根性で、そのような乱費ができるのだろうか? 戦争をしないで、そのお金をましなことに使ってはどうなのだろうか?
何だか戦争をしたがる人々のりくつは、重度のギャンブラーのりくつのようだ。勝てば確かに投資以上のものが得られようけれど、負けたらという考えが彼らにはないし、過去についても勝ったときのことしか憶えていない。

で、そんな無謀なギャンブラーたちを支配者としていても、人民ぜんぶが滅んだりはしない…ということが『逆に』ふしぎだ。とまでを見たら筆者は、ジョルジュ・バタイユの異端の経済学説を思い出したのだ。
その言うによれば、『欠乏』や『不足』という問題を強調する一般の経済学理論はまちがっている。むしろ自然の生産力は人口を養ってあまりあるのが常態なので(!)、むしろ問題は『いかに大きく消費するか?』なのだとか(!)。そしてその過剰をどうにか処理するために人々は、過剰なものとしての儀礼・祭礼、そして戦争などなどをがんばるのだとか。

そんな処理にも困るような『過剰』などをかかえた覚えに乏しい筆者には、そうしたバタイユの説が、いまいち心に響かないのだが。けれど戦争を一種の『祭』だと考えている人々もいるそうなので、あながち根拠なきことでもないのやも。
そしてオリンピックやサッカーのW杯などは、『本来は戦争だったものが“祭”に変換されたもの』、と見れそうだ。確かコンラート・ローレンツの名著「攻撃」にも、『戦争の代わりとして、そうしたことをがんばろう』と書いてあったし。

かつ、われわれが戦争を描いた物語らを消費することが、それまた戦争自体の代替行為として役立ったり、しているのだろうか…? そこがちょっと分からないところで、戦争や暴力の悲惨さをはっきりと描いた作品にしても、それにふれた者に厭戦気分を必ずかき立てるとは限らないようだ。
だいたい戦争をしている国のアメリカで、かの「鉄腕アトム」が暴力的すぎる、と叱られたのでは、わけがわからなすぎる。が、そうかといってもそこまで大きく話を広げるつもりもなく、これからシリーズで1つずつ、「三国志」ベースのまんがを見ていこう、と考えるのだった。