ラベル 1980's の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1980's の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010/11/22

岡田あーみん「お父さんは心配症」 - 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

岡田あーみん「お父さんは心配症」第1巻
岡田あーみん
「お父さんは心配症」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「お父さんは心配症」

岡田あーみん先生の1983年のデビュー作であり、そして出世作で代表作ともなっている「お父さんは心配症」という作品。これについて、あまりにも客観的な名作すぎて、逆に語りにくい、ということを筆者は感じる。
何しろ手もとの単行本が、第50刷とか60刷というのがすごすぎる。だが、圧倒されっぱなしではしょうがないので、まずはその客観的な見方とやらを示しておくと…。

1. 彼女らの思うつぼの≪家族物語≫

『ギャグまんがの少女部門』というジャンル史的に、赤塚不二夫のファミリーから出てきてポスト赤塚的な作風で大成功をとげたのが、1970'sの土田よしこ先生。それ以前には、われわれが言うようなギャグまんがは、少女まんが界に存在しなかった。いずれわれわれは、そのよしこ先生の偉業についても、この場で見ていくだろうけれど。
そして1980's、よしこ先生の勢いが少々なくなってきたところで、入れ替わりにポスト「がきデカ」的な作風で出てきたのが、この岡田あーみん「お父さんは心配症」。そして以後、こんにちまでずっと新たな読者を獲得し続けている今作の成功ぶりは、かの「マカロニほうれん荘」や「ストップ!! ひばりくん!」にも並ぶ、などとは以前にも述べたこと。

そして今作「お父さんは心配症」が、男やもめのヒーローでパピィこと≪光太郎≫が、彼のお年ごろの娘である≪典子≫に対して心配症すぎるお話、そして娘の彼氏の≪北野くん≫を迫害しすぎるお話だということは、すでに常識の部類として。
しかし『母親がいない』というこの家族の状況を、単なる欠落や不幸とだけも考えられない。パピィと彼氏からの愛を一身に注がれて板ばさみになり、葛藤してみせながらヒロインが『愛を独り占め』というその状況を、愉しんでいないとは言えない。それは、無意識においての愉しみではありつつも。

大島弓子「雨の音がきこえる」小学館文庫版
大島弓子
「雨の音がきこえる」
『少女まんがにおける片親の家庭の描写』について、見ていて気がつくことがある。傾向として父子家庭の場合には、作品のふんいきは、わりにカラッとして明るい。しかし母子家庭の場合には、わりにジメッとして暗い。傾向として。
たびたび述べていることなのだが、いちばんひどいと筆者が感じた作例は、大島弓子の中編「雨の音がきこえる」(1972)。これはジメッとした暗い家庭のお話として始まって、しかし作中で母親が死んでから、急に作品のふんいきがカラッと明るくなる(!)。…とは、どういうことだろうか?

ここらを意識させるものとして、りぼん掲載の小桜池なつみ「青空ポップ」(2006)という、これまたカラッと父子家庭を描く作品もあった。そのヒロインの亡き母親は、かっての伝説的なファッションモデルで、いまだ人々のリスペクトを一身に集めている。
そして、『なぜこの母親が故人でなければならないか?』と考えると、その方がヒロインにとって好つごうだから、としか考えようがない。死んだ母に代わって、空いているそのポジションを埋めることが、同じモデルの道に進むヒロインのタスクになるのだ。かって母の享受していた愛情と尊敬と名声らを、彼女はそっくり受け継ぎたいのだ。

小桜池なつみ「青空ポップ」第1巻
小桜池なつみ
「青空ポップ」第1巻
かくて、『母親などは、いなくていい』、『よい母親とは死んでいる母親』とは、≪少女≫たちの無意識の認識として、あるていどは普遍的なものであるらしい。だから今作「お父さんは心配症」についても、これが意外と、少女らの思うつぼの世界、あっぱれな≪家族物語≫として機能し、一種のユートピアを描くものであることは、まず見ておくべきこととして。
(註。フロイトの用語の≪家族物語≫とは、親の愛を足りないと感じた子どもたちが、『きっと自分は拾いっ子に違いない』等々と、自分かってな自分の出自を想像することを言う)

あと、もうひとつ。われらがパピィのかいしょうのなさ、からきし威厳のないダメパパっぷりについて筆者は、「お父さんは心配症」に先行したりぼん史上の名作、池野恋「ときめきトゥナイト」(1981)との関連性をも感じる。かつその作品では、ヒロインの蘭世にしろライバルの曜子にしろ、やたらにパパとべったりな関係で、逆に母親とは疎遠ぎみ。
池野恋「ときめきトゥナイト」第1巻
池野恋「ときめき
トゥナイト」第1巻
蘭世と曜子の関係にやや近いものとして今作では、≪緒形ひろみ≫とその父親が、何かと典子&パピィに張り合ってくる。で、ひろみとその父のべったり仲良しな関係は、『ありうるもの』としてこちら側から参照される。
ただし「ときめきトゥナイト」では、パパが娘の恋路をストレートにじゃまするような展開にはならないわけなので、そんなにまで今作と直接の関連を言う気はない。けれども何か、同じふんいきを描いているものか、という気はしつつ。

2. 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

ところでなんだが≪ギャグ≫に限らずまんがの世界に、『鼻血ブー』というメニューが現存する。これはもちろん、谷岡ヤスジ大先生の「メッタメタガキ道講座」(1970)を元祖とするもので、その意味するところは『婉曲に表現されたオーガズム』ということは、前にも述べたような気が。
藤原ゆか「CRASH!」第1巻
藤原ゆか
「CRASH!」第1巻
追って現在もそれが、少女まんがではけっこう多用されるのだった。いまのりぼんに、藤原ゆか「CRASH!」という作品が載っているはずだが、その第1部のヒロインは芸能事務所の見習いで、『タレントの素質ある人材を見つけると鼻血を出す』という設定だった。『それはギャグですか?』…くらいな感じ方もしたが。

で、この「お父さんは心配症」について、パピィの有名な切り札としての鼻ぢ攻撃がさいしょに出たのは、まさに『鼻血でデート』と題された、その第2話(りぼんマスコットコミックス第1巻, p.19)。心配症かつヘンタイのお父さんが、あろうことか娘のデートにひっついて行くお話。
そして若い2人が映画館街で、「愛のゆくえ」とかいうロマンスを見ようとするので、いきなりパピィはテンションMAXへ! 『ふざけるんじゃねェ』と、娘にくってかかる。

【光太郎】 (激しく地だんだふみながら、)愛とか 恋とか 好きとか
変態三人娘とか 好色一代男とか ふとももをあげる とか そういう題の 映画はダメ
【典子】 これは悲しい 愛の物語 なんだから やらしく ないわよ
【光太郎】 (「愛人バンク」というポルノ映画の看板をさして、)い…いいか…
こ…こーゆう 映画は ダメ…だぞ(…と言いながら息を荒くし、鼻血を流す)

『愛』ということばからパピィはやらしいものを大いに連想し、それに対して典子は『“愛”は、やらしくない』と返す。ところが『愛人バンク』(いま言う援助交際をあっせんする組織)などという語の存在は、『やらしい“愛”もある』ということの実証に他ならない。
これがおそらく、弁証法というもののお手本だ。まあ弁証法は知らないが、これこそパピィが全シリーズ中、初めてその名高き鼻血を出す場面なのだった。

そして、ともかくもその「愛のゆくえ」とやらの上映館に入った3人。いくつかの小ネタをはしょって、やがて映画はクライマックス、マリィとトニィのラヴシーンへ展開。するとその描写が、意外に激しいものなのだった。

【トニィ】 マリィ きみがほしい
【マリィ】 い…いや トニィ~
【トニィ】 いやよ いやよも 好きの うちさ… ヘッヘッ
(劇場のスクリーン上に、作者からのメッセージ。『とてつもなく すごいシーンを そーぞーして下さい』)

その『すごいシーン』を見たパピィは、さきのとは比較にならない勢いで『ブモ~』と、噴水のような鼻血をのけぞって盛大に噴き上げる。たいへんなことに…!
それで次のシーン、典子がカンカンに怒って『も―― 帰って』とパピィを叱るのも、分からぬことではない。いや、もっともだ。
けれども『やらしくない』と娘が宣言していた映画が、実はかなりやらしかった、という事実はある。だからパピィが、止血用に映画のパンフを丸めて鼻孔に突っ込みながら、『純情な中年に あんな映画 みせるからだ』と抗弁するのも、またもっともなのだった。

3. “すべて”の性交渉は、いやらしい?

つまり娘とパパにおいて、『やらしい』ということの解釈が、ぜんぜんかみあっていない。娘の側は、まじめな意図があっての性交渉ならば『やらしい』とは言えない、くらいに考えていそう。ところがパパの側の考えは、『“すべて”の性交渉はやらしい』。
この作品「お父さんは心配症」において、いつもわれらのパピィが娘について、何かとやらしい想像をよくする。この第2話の中でも、映画館の闇の中、北野くんが典子にへんなことをしてはいないかとパピィは心配し、なぜかそのやらしい妄想が、娘たちにはまる見えだ(!)。そこで『お父さんの方が、よっぽどやらしいわよ!』などと典子がいつも言うのも、またもっともだが。
けれども娘たちの側が、やらしいことをまったくしようとしてはいない…かというと、そんなこともない。お父さんの心配にもまた、もっともなところがなくはないのだった。だから彼らの『やらしいぞ!』、『やらしくないわよ!』、という言い争いは、ぜったいに解決などを見ない。

などと、ことばにするとむずかしいようだが。しかしこれは常態として存在する、そしてふつうはなしくずしに解決される、そうしたジレンマがここには尖鋭的に描かれているのだ。
そしてこのありさまを過激化しているのは、われらのパピィがヘンタイであり、かつやもめでもある、この2つの前提だ。もしその前提が片方しかなかったら…または両方ともなかったりしたら、今作に描かれたようなおもしろ騒ぎは起こりえない、少なくともここまで過激にはならないわけで。

しかもこのパピィが、りっぱな変質者として娘を溺愛しつつ、しかし一線を超えていないところがある。…ダメな人なりに彼がまともな父親でありえているということは、本来ならば言うにもおよばないことだけれども、しかしいまの情勢下では言わねばならないかもしれない。そうだからこそ今作が、逆説的にも≪少女≫たちのユートピアを描くものになりえているのだ。

「ヤスジのメッタメタガキ道講座」
「ヤスジのメッタメタ
ガキ道講座」
さてこの堕文のさいごに、少々余談を。話は戻るけれども、『鼻血ブー』ということについて。
わかりきったことのようだが、『性的興奮によって鼻血が出る』という現象は、ほぼないことらしい。それは「ヤスジのメッタメタガキ道講座」によって生み出されたまんが的表現にすぎないと、やたらあちこちに書かれている。
だが調べていると、こんな記述が見つかった(*)。

アメリカには性的興奮と鼻血を結びつける習慣がなく、代わりに胸や眼からハートが飛び出したり、オオカミに変身する描写があり、日本のアニメなどで性的興奮状態の時、鼻血が出る理由がわからないといいます。
性的興奮に鼻血を連想する習慣は、アジアに多く中国、韓国、ベトナム、台湾に同じような発想があるようです。

そうだとするなら、『性的興奮→鼻血』というイメージのもとを「メッタメタガキ道講座」だけに還元する見方の根拠は、やや薄くなってくるのではなかろうか? あまり言論のあれな社会主義国の中国やベトナムに、「ガキ道講座」やそれ的なまんがの影響がありそうな気がしないので。
むしろ、東アジア一帯にもともと(うっすらと)存在したイメージを、ヤスジ先生がはっきりと描いてくれたのやも、という気がしてくるのでは? そもそもだ、女子小学生を対象読者層としたりぼんの誌面に『性的興奮→鼻血ブー』が描かれていて、『意味が分からない』という苦情があったような話は聞かない。
すると単なる約束ごと以上の何かが、『性的興奮→鼻血ブー』のイメージにはあるような気もする。しかしここでは、まさか≪集合的無意識≫なんてたわごとを申すのではない。

ともかくも。射精という現象を知らないような幼女らでさえも、性的興奮と体液の放出との関連をすなおに受けいれる、その事実に筆者はおののきと苦笑を返すのだった。

もうちょっと余談を重ねると、自分の子どものころの思い出で、ピーナツを食べすぎて鼻血が出たことが…確かあったはずなのだが。しかしそんなことはありえないというのが、こんにちの医学的な見方のようだ。『カフェインの過剰摂取にともなう鼻血はありうるとしても、まさかピーナツはない』、のような。
うーむ、何だかくやしい! ところでわれらがあーみん先生においても『鼻血悲話』として、幼少の時代にあらぬ局面ではなぢを噴いたことを告白されているのだった(第1巻 p.102, 第3巻 p.51)。そこでまたおかしな共感が生じながら、大好きなあーみん先生のお作についての話はぜひまた!

2010/10/29

吉田戦車「伝染るんです。」, 新井理恵「ペケ」 - カミュってサルトる、≪不条理≫メモランダム

新井理恵「×-ペケ-」文庫版, 第1巻 
関連記事:うすた京介「すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り, ラベル“吉田戦車”

ギャグまんがの世界にはっきり≪不条理≫ということばを持ち込んだ作例として、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)は、目ざましいものにはちがいない。ただしそれは社会的にはマイナーに終わり、ムーブメントを起こしてはいない。
そうではなく。それを追って後からどんどん『不条理』な作品が出てくる、というムーブメントを起こしたのは、もちろん吉田戦車「伝染るんです。」(1989)。『よくも悪くも』そうなったわけで、つまり少なくない作品らが、そのムーブメントの『一部分』と見なされてしまったらしい。

1. 新井理恵「×-ペケ-」は、≪不条理≫なのかどうか

1990年に別冊少女コミックで掲載が始まった新井理恵「×-ペケ-」(フラワーコミックス・スペシャル, 全7巻)も、その巻き込まれたひとつでありそう。そしてその見方について、作者さまから、じわっと抗議が出ているところをお見うけいたす。

――― 新井理恵「ペケ」第1巻, 作者のごあいさつから(p.32) ―――
新井です。まぁ最近は不条理な四コママンガが世間にはびこっていて
それは現代の世の中自体が不条理(…中略…)
が つまりそんなことは どうでもいい関係ないコトなわけで

つまりムーブメントの存在は、はっきりと認めておられる。しかし、自作「ペケ」はその一員ではない、と言われたいごようす。
また別のところには、こんなことも描かれてある。

――― 新井理恵「ペケ」第2巻, カバー下のまんがより ―――
【なぞの博士】 「×-ペケ-」を 不条理と 言う者は
「不条理」という 言葉のイミを知らない アンポンタン・ポカンに すぎなーい!!

だがしかし、同じカバー下の表4では、その博士の助手が「ペケ」第2巻を読み終えて、『やっぱりただの 不条理4コマとしか 思えませんでした』と言っている(!)。言うにもことかいて、『ただの不条理4コマ』とは…!

とまで見てから、自分の感じ方を述べると。「ペケ」のポジションが、先行した「伝染るんです。」と、そして追って出た少女系ギャグの傑作、にざかな「B.B.Joker」(1997)にはさまれたものとして…。前後の2つに比べたら、「ペケ」はそんなに≪不条理ギャグ≫じゃない感じ、言われるとおり、確かに。

あまりにもきょくたんに単純化してしまえば、「ペケ」の描いていることは2種類だ。まずひとつは作者さまの、地域や学校における実見談。もうひとつは、いまでいったらBLっぽくて『腐女子』っぽい妄想。
そして、それぞれのネタ自体がどうというよりも、それらに対するさめきったシニカルな視点がユニークなのだ。そもそも前者の実見ネタなんて、ふつうの人らがどうとも思わないようなことらを、するどい感性がピックアップしているものだし。『妄想の世界でも モテませんでした…』とは竹内元紀の作品に出てきた標語(?)だが、なぜかそれ的な痛いリアリズムを、筆者は「ペケ」に感じるのだった。

2. サルトって、カミュった≪不条理≫たち

ところで筆者もアンポンタンとしての自覚は大ありなので、≪不条理≫などというむずかしい語の『イミ』を、ひじょうに知ってなさげ。そこで、すなおに辞書をひいてみれば…。

――― ≪不条理≫の項目, 「現代新国語辞典」より ―――
ふ-じょうり【不条理】《名・形動》
【1】道理に合わないこと。「―な判定」・不合理。
【2】〔哲〕人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的状況を言った語。(参)フランスの文学者カミュのことば。

…だそうだが。記憶によれば、確かカミュ「異邦人」(1942)の結末近くで、もうすぐ死刑になりそうな主人公が、教戒師のお説教のくだらなさをガマンしかね、『absurde!(仏・バカらしい、不条理だ)』と叫ぶ…だったかな? 何ンせ、アンポンタンのうろ憶えで。
などと、思ってたのだが。しかし調べてみたらぜんぜんそうではなかったので、自分のめっきりアンポンタンであることには、ほんっとにがっかりさせられた。

まず「異邦人」のやま場に、そのヒーローが『アブシュルド!』と叫ぶ、という場面がめっからない。いや、断じてないとは申していないが、自分には見っけられなかった。
さらに、その「異邦人」とペアをなすテクストと見られるカミュのエッセー「シーシュポスの神話」(1942)。こっちの方は逆に、≪不条理≫というキーワードが出すぎ! 本文など見ず、もくじだけをチェキっても、『不条理な論証』、『不条理と自殺』、『不条理な壁』、『不条理な自由』…等々という見出しらがズラリ。

サルトル「嘔吐」訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院なお、カミュに先立ったものとして、1938年のサルトル「嘔吐」にもまた、キーワードとしての≪不条理≫が出ている。拾い読みしかしていないのだが、この作品は中盤までは≪実存≫をキーワードとして、ひじょうに小説っぽく展開している感じ。
それが終盤前になって、急にキーワード≪不条理≫が登場。そこからしばらくエッセー風に、それに関する記述が続いている。

――― サルトル「嘔吐」より ―――
<不条理性>という言葉がいま私のペンの下で生れる(中略)。不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。
(註:“木の蛇”とは、かの有名な、主人公に突発的な吐き気を催させた、マロニエの根っこのこと。訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院, p.211)

おそまつながらも、手短さを目ざして『説明』してしまおう。この小説でさいしょ≪実存≫とは単にあるもので、『世界』の中にいちおうは収まっているものだ。ところが≪不条理≫の噴出という現象は収まらざる“もの”の現前であり、それは実存の存在(感)の確かさを失わせてしまう。
そうすると、『実存はふいにヴェールを剥がれた』、『実存とは、事物の捏造そのもの』、うんぬんに堕ちてしまう(同書, p.209)。そしてこの現象は、≪実存≫と世界との間の距離や摩擦の存在をあばきたて、そして主人公を吐き気にまで追い込むのだ。

また注目すべきは「嘔吐」の語り手が、『狂人の演説は、狂人の置かれた情況との関係によって馬鹿げている』として、他には還元しえぬ絶対的な≪不条理≫ではない、などと言っていることだ(同書, p.212)。
この主人公には≪ギャグ≫とか『笑い』とかを追求している気はなさげなのに(とうぜん!)、なぜか話がそっちへふれぎみなのだ。何しろさいしょから≪不条理 absurde≫なる語は、バカらしさ・こっけいさというニュアンスを呼び出すものだし。

さてその「嘔吐」の主人公が意識しているのは、『こっけいなようなものらを見ているのだが、しかしちっとも笑えない』という感覚だ。彼は真昼の公園の平和っぽい風景を見渡して、『なにやら滑稽な姿を呈していた』と思いかけ、しかし打ち消し、『実存しているものはいかなるものも滑稽ではあり得ない』、と述べる(同書, p.210)。

だがしかし『あり得ない』と言うならば、なぜ『こっけい』という語がことさらに呼び出され、そして宙に浮かねばならんのだろうか? しかも主人公が見ているのは、われわれがふつうに思うような『こっけいな眺め』ではない。
そして『笑う』ということは、むしろ≪不条理≫を見て見ず、『事物の捏造』としての実存に甘んじることらしいのだ。すなわち。

――― サルトル「嘔吐」より(p.209) ―――
『とめどなく笑い続け、濡れた声で、「笑うのはいいことだわ」と言うあの笑い疲れた女たちのように、すべてこれらのもの(註・主人公が見ている公園の風物ら)は、静かに従順に実存へと赴くままになっていた』

それこれと見てくればこの「嘔吐」の主人公は、常人らにはちっとも面白くないものをさして『実にこっけいくさい、しかし笑えない』などと、ひじょうに根性曲がりなことを言ってやがるヤツ、ということになり気味。ふしぎなことだが、笑わないくせに『こっけい』という前置きを、彼のりくつは必要とするのだ。
それがまた、りくつといっても、別にすじの通った論ではないのが困りもの。「嘔吐」のヒーローいわく、『“不条理”は、概念ではない』。またカミュいわく、『不条理の感性は、不条理の哲学ではない』(参照:カミュ「シーシュポスの神話」, 新潮文庫版, 1969, p.8-10, 訳者・清水徹氏による付記)。

3. 『ギャグ・不条理』 -と- ≪不条理ギャグ≫

かくて『不条理な感性』というしろものは、ふつうにわれわれを≪うつ病≫のような症候に陥らせるものかと考えられる。『笑わないこと』はうつ病の始まりだと、広く一般的に考えられている。
そこのところから、カミュが「シーシュポスの神話」の随所にニーチェをもってきて見かけ上の≪解決≫をつけたり、追ってサルトルがマルクス主義(つかむしろスターリニズム?)を一種の『救済の教え』かのようにいただいたり…という方向に両者が走っていることの理由が、筆者にはわかるような気もする。ニーチェやマルクスらの≪論≫をふつうは『超越論的』とは言わないが、しかしカミュやサルトルの≪論≫の内部にそれらを置いてみると、ふしぎだが超越論的に機能するのだ。

だが、別にわれわれは、いまどきサルトルやカミュの『思想』(?)をどうこうしようとしているのではないし。そこでもうここらから、独断的にもまとめに入ってしまうと。

【1.】 サルトルとカミュがいちいち言っている『こっけいさ』とは一種の強がりであり、≪自我防衛≫の機制の発動。その強がりが保持できなければ、“もの”や≪実存≫らの現前に面して、自我が崩壊してしまうは必定。そしてその機制は機能的に、ユーモアやウィットに重なるところがある。
【2.】 ただしカミュやサルトルの言う≪不条理≫は、『“笑い”を(見かけ上の)解決にはしない』という点が、ユーモアやウィットとは異なる。『笑うこと』には『考えることの放棄』という性格もあるが、それをしないということ。

かくて≪不条理≫の根源をたずねていくと、われわれが見たのは≪不条理ギャグ≫ではなくて、言うなれば『ギャグ・不条理』なのだった。それは何でもないもの…しかし“もの”として圧倒的にあるものの現前、その脅威に直面しつつ、『こっけいくせえ!』とまず強がり、しかも可能な場合には『笑わねえ!』と、2回強がるアチチュードなのだ。
そして、この不条理の感性においてありうる笑いとして、カミュの談義がコソッと示唆しているような、“ニーチェ的な笑い, 哄笑”、というものは考えられながら。

吉田戦車「伝染るんです。」第2巻と、ここまでを見てから、やっと話をギャグまんがに戻して。

だが、しかし。吉田戦車「伝染るんです。」を嚆矢とする(っぽい)≪不条理ギャグ≫と言われるようなまんが作品らは一般的に、『平凡(もしくは“日常的”)ならざるもの』の出現を描く。
それでは逆なようだが、言ってみればそれは、「嘔吐」のヒーローが何げなものを見て受けた『とほうもなき異様さ』という印象が、先廻りして絵的に表現されてあるものかと。
そしてその異様なる“もの”らは≪日常≫に対するインパクトとして機能し、作中人物や受け手らの心に≪不安≫をを引きおこす。たとえば、ただいま「伝染るんです。」という本(スピリッツゴーゴーコミックス, 全5巻)をパッと開いて、わりとランダムに見つけた作例…。

――― 吉田戦車「伝染るんです。」第2巻より(p.45) ―――
【角刈りの青年】 (ボロアパートの一室で電話をうけて、)もしもし
【電話の相手】(…ずっと無言…)
【青年】 (『はっ』と何かに気づき、アブラ汗をかきながら、)
く、くまか!? くまだな! オイ、なんとか言えよ! くまなんだろう!!
【やたら小さく、目鼻もない真っ黒なクマ】 (…どこかの街角の電話ボックスで、電話機の上に腰かけながら受話器を構えている)

理由はまったく分からないが、この青年は彼が“くま”と呼ぶふしぎな生き物から、いまで言う『ストーカー被害』をこうむっているらしい。
このお話の構造を見てみると、当事者である青年には単に≪不安≫があるばかりで、彼はとうぜんだが笑っていない。いわば「嘔吐」の主人公ばりに、ありえざる“もの”の出現に対し、おののきを感じている(…“木の根っこ”に対しての“くま”では、出たものの様相がだいぶ異なるが)。
ここにて誰かが笑っているとすれば、それは状況を見ているわれわれだ。というかわれわれが笑っていないとすれば、これはまんがとしてうまくない。

まんが作品には、基本的には常に三人称で叙述しているという性格があるが、そうだからこそわれわれは、このように描かれたことを客観視できる。状況から、心理的な距離をとることができる。
またその一方、もしも「嘔吐」という小説が三人称で書かれていたとしたら、『一人称の日記体』(小説として、もっともインティメートなふんいきになる形式)という現況にてあるような、身に迫る感じは出ないだろう。『この主人公はおかしいヤツ』くらいの印象を残し、ひょっとしたら戯画的なふんいきになっちゃったやも知れぬ。

まず第1段階としてわれわれは、ここで≪不条理ギャグまんが≫というものを定義できるだろう。それはサルトルも描いたような≪不条理≫の噴出という事件を、ことさらに誇張して分かりやすく描きつつ、しかもその状況を客観視させる。
そこにおいて、われわれは『半分』だ。半分は作中人物とともにおののき≪不安≫に見舞われ、そしてもう半分で、サルトルやカミュらも言った『こっけいさ』を笑っている。
そしてその笑いは、≪不安≫の発生に対し、いったんの(心理的な)けりをつけるのだ。かつ、たびたび申し上げていることだが、いかなるところから出たものであっても『笑い』(緊張の弛緩)という反応は、主体に≪快≫を与える。かくて『ギャグ・不条理』が裏返されるところに、≪不条理ギャグ≫が発生する。

4. ≪不安≫に関するメモランダム

ところが、だ。第1段階と言ったからには、少なくとも第2段階の≪不条理ギャグまんが≫の定義を考えているわけで。
それは、どういうことかというと。サルトルやカミュらの主張している“もの”が、『還元しえぬ不条理』だと称されているに対し…。
一方のわれらが≪不条理ギャグ(まんが)≫の描いている“もの”について、『心理的な還元』がまったく不可能でもなさそうと、筆者は見ているのだ。『心理』という語がイヤだが、その『還元』とはとうぜん(?)、分析的な解釈ができるという意味。

たとえば、さきに『くま』の作例を見ちゃったので、そのシリーズの別のエピソードらを、同じ第2巻からチェキれば…。
…くまは青年のアパートに上がり込んで、冷蔵庫を開けて食事の支度をする(p.19)。ドアのスキ間から封筒を押し込んでくるので中を見れば、山野を背景にくまが映った写真と、千円札2枚が入っている(p.31)。
また、玄関前にウインクのCDを置いていったので青年が再生すると、なぜか中身はテレサ・テンの唄だ(p.56)。さらには、大学の友人らが『あなたのお友達が山ぶどうを持ってきてくれて』、と礼を言うので、彼は『くまに違いない!』と考える(p.96)。…等々々。

これがおそらくEarly 1990'sに描かれたお話で、いまではウインクとテレサ・テン、どっちも同じくらいに(?)、懐メロになってしまっている。まあそれは別にいいけど、にしてもこれらはどういうことか、と考えたら。

これは都会で独り暮らしをしている青年の、いなかの親たち(主に母親)を代理するものとして、“くま”が活躍しているのだ…いまいちありがたくもないような、しみったれ気味でピント外れな『親心』っぽいものを彼に示しているのだ…と考えるのが、適切なのでは? で、そうとだけ申し上げちゃえば、興ざめな≪解釈≫かのようだが。
しかし青年はこの“くま”に対して、『自分を喰い殺さないとも限らない!』という≪不安≫や恐怖を感じているのだ。真に≪意味≫があるとすれば、そこだ。

とまでを見たところでわれわれは、≪不安≫という概念を正しく再検討しておこう。筆者が超愛用する参考書(シェママ他編「新版 精神分析事典」, 訳・小出他, 弘文堂, 2002)から、ちょいと引用すれば…。

――― シェママ他編「新版 精神分析事典」, ≪不安≫の項目より ―――
【不安】-『名付けられない何かを予期する主体において無意識的な感情の代わりに表れる、多少なりとも強い不快な情動』。
(…この後がひじょ~うに長いので、筆者が超要約をこころみると…!)

1. 「制止、症状、不安」(1926)でのフロイトは、≪不安≫に2つのレベルを区別する。まず第1のレベルは≪母≫の喪失に由来するもの、第2のレベルは≪去勢≫の脅迫(を感じたこと)に由来するもの。『このようにフロイトにとって主体における不安の襲来は、母であれファルスであれ強く備給された対象の喪失につねに結びつけられる』。

2. ところが続いたラカンちゃまにとって、『不安は、対象の欠如には結びついていない』。『ラカンにとって、不安を構成するのは「何であってもよい何かが、欲望の原因となる対象の占める場所に、現れてくるときです」(1962, セミネールX「不安」)』。

3. ≪ラカンの理論≫の構成として、欲望の対象は欠如の状態になければならない。そしてその『欠如が失われる』という可能性が逆に、主体に不安をもたらすのだ。『乳児にとって乳房の喪失の不安を生むのは、この乳房が乳児に欠如しうることにあるのではなく、乳房がその遍在によって乳児を埋め尽くしてしまうことにある』。

4. それこれにより、『満足させてしまおうとする応答はすべて、ラカンによれば、不安の出現をもたらさずにはおかない。不安はそれゆえ「対象喪失の誘惑ではなく、対象が欠如しないということの現前」(同セミネール)である』。

というわけでたいへんむずかしい話になっているが、にしても。『対象が欠如しないことの現前』が、『満足させてしまおうとする応答』が、≪不安≫を生む…ということまでは知っておこう、かと愚考しつつ。

で、「伝染るんです。」の話に戻って。“くま”によって表象されているあらぬところ(何であってもよい何か)から青年はまなざしを感じ、かつ彼を一方的に養う≪乳房≫の遍在を彼はそこに見出し、そして≪不安≫を覚えるのだ。
かつ、このエピソードに限らず吉田戦車「伝染るんです。」という作品を特徴づけるのは、『他者のあるべくもない感情』が、あるべき『欠如』をかってに失わせてくれる、それが『欲望の原因となる対象の占める場所』をかってに占拠する。そこを描く、ということだ。
では、サルトルやカミュの言った≪不条理≫が、『“感情”の彼岸にある“もの”』であって『(心理的に)還元不能である』、という話はどうなるのか? …筆者はとうぜんだが、ここでラカンちゃまにつく。

吉田戦車「伝染るんです。」第1巻また、『あるべくもない感情』といえば。この「伝染るんです。」には、会ったばかりの他人に向かって、『もっと お母さん みたいに』…という態度を要求する、おかしな子どもが登場する(第1巻, p.112等)。
『母性的な態度』というものを『保護』という語に集約させればば、“くま”に構われてる青年は根拠もないような『保護』を受け、こっちの子どもは根拠もなく『保護』を求める…と、逆の構図らが描かれつつ。

そして、『他者(ら)のわけ分からなさ』ということに普遍性が、ある。他者によって愛されようと憎まれようと(…または前者からの分岐で、保護を受けようと依存を受けようと)、それらの感情、それらを表す“もの”らの過剰な現前が主体の≪不安≫を生む、という帰結は同じだ。なんて言い方は粗雑すぎなので、よくないが。

ここいらまでを見て、われわれは≪不条理ギャグまんが≫につき、第2段階の定義ができよう。その描く≪不条理≫の噴出とは、『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である、と。
といったところが結論なのだが、さいごにちょっと補足を。これの1日前、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を扱った記事で、筆者はこんなことを述べた。

――― 自己引用、「すごいよ!!マサルさん」の記事から(*) ―――
『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。

『乳房の遍在』をやたらに描いた感じの「伝染るんです。」に対し、「すごいよ!!マサルさん」は『ファルスの遍在』、その過剰すぎる現前をやたら描いた感じ(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。『“母”であれ、“ファルス”であれ、強く備給された対象』と、さきの引用に言われていた双へき!
で、後者≪ファルス≫を描いていく方向が、まんがとしてポピュラーだということはありそうな気がするが。にしてもちょっと、『単純化しきった』にもほどがあったかな…と、多少は反省しつつ、この堕文は終わるのだった。

2010/07/17

吉田戦車「戦え! 軍人くん」 - みっちゃんのママには逆らえない

吉田戦車「戦え! 軍人くん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「戦え! 軍人くん」, 同「甘えんじゃねえよ」
関連記事:『吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 vs.フロイト「メドゥーサの首」 in 触手フェスタ』, 『坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味』

家の書棚をひっくり返していたら、奥の方からなつかしい本が出てきたので、うかつにも読んでしまった。ので、それについて少し。
この「戦え! 軍人くん」は、筆者が見たこともないコミックバーガーという媒体に『1989年頃』(出典・参考リンク先)に掲載、スコラ・コミックスDX全2巻。ということは、作者・戦車先生の代表作たる「伝染るんです。」(1989)と、まったく同年代の作。かつ、わりとそういう人がいるけれど、戦車作品との初対面は自販機エロ本のすみっこの埋め草まんがで、それがこの時期には社会的大ブレイクに向かっていたんだよなあ…などと、思い出しもしつつ。

ではまず作品を見る前に、その編本の概要を説明しておくと。この全2巻は、表題作たる「戦え! 軍人くん」以外にいくつかの連作や短編らをごちゃごちゃと併録。そしてそれらの中の主要らしきものは、「戦え! 学生さん」と「甘えんじゃねえよ」の2シリーズ。
で、それぞれのシリーズの概要はというと、「軍人くん」はSF近未来チックで不条理な戦場で活躍する、わりとふつうの少年≪吉田くん≫をヒーローとしたショート作品。「学生さん」は、「軍人くん」の主要人物はほぼそのまま、シチュエーションを平和な現代ニッポンに変えたもの。そして「甘えんじゃねえよ」は、自分の娘にうその知識を教えるのが生きがいの変人≪みっちゃんのママ≫と、その周囲などを描いた4コマ。

そうしてそれらの中で、さいごの「甘えんじゃねえよ」が、ちょっと重要というか、ひじょうに気にかかる創作なのだ。まずそれは、吉田作品の全般において、もっとも存在感ありふしぎな魅力のあるヒロインが描かれたもの、と考えられる。このお母さん(29歳・美人)に『群馬県出身』という設定がついているのは『かかあ天下』の意なのだろうか、家庭の中でも外でも彼女はやりたいほうだいなのだ。
何をやりたいほうだいしてるかって、みっちゃんのママは、純真な自分の娘にうそを教えるために…そして現在と将来、娘がそのまちがった知識によって恥をかくように…。ほぼそれ『だけ』のために、彼女のあふれる機知となぞめいた人脈と出所不明の大金、等々を惜しみなく用いまくるのだ。

たとえば、ある日。TVを見ていてつまらんことを憶えた5歳の娘が、ひじょうに高価かつ美味らしきキャビアというものを食べてみたい、のようなことを言い出す。そこでみっちゃんのママは、

 『あら みっちゃん
 ロシア人は キャビアより
 明太子のほうを 好むのよ』

と、すかさずでたらめを教える。そして、そのうその補強のために、当時のソビエト外相のシュワルナゼ氏を自宅に呼びつける(!)。そしてみっちゃんの目の前で彼に明太子をむさぼり喰わせ、『うま~い! これに比べたら、キャビアごとき鼻クソ同然!』、みたいなことを彼に言わせるのだった(第2巻, p.157)。

またある日。どうしてそんなにお金持ちなのか、みっちゃんのママはつぶれそうなそば屋から頼まれた融資を快諾。しかしその見返りに、へんなことを持ちかける。追って、その店でみっちゃんに出された『きつねソバ』には油揚げがのっているのではなくて、“何らか”の肉が…。
すると何かを察したみっちゃんは、

 『じゃあまさかこれ
 キツネさんの……お肉!?』

という衝撃をこうむり、『いやあ あああ ああ』と泣き叫ぶ。
そこでみっちゃんのママは、『大成功!』と言わんばかりの晴れやかな笑みを満面にうかべ、調理場に向かってOKのサインを示す。がしかし、融資と引き換えにこの仕込みに協力させられたそば屋の若夫婦は、『ごめんね…… ごめんね みち子ちゃん』と、罪悪感にくれながら涙を流すのだった(同書, p.149)。

とま、そんなようなエピソードが延々と続く…というのも少しうそで、この「甘えんじゃねえよ」というシリーズは、みっちゃん母子だけを描いたものではない、オムニバス作品ではある。がしかし、そのパートがだんぜん印象に残るというのが、わりとふつうの感じ方らしい。
で、これらを見ていると、『母にとって、“娘”とは何なのだろうか?』、という問いかけが、読者に向かって放り出されているような気が、してこないこともないのだった。あたりまえだが(?)、みっちゃんのママの行為らには、いわゆる『合理的』な理由などは『ない』。そういう部位へとむりに『設定』がついているような、こんにちのあさはかなまんが作品らとは、ものがぜんぜん異なっている。

さて戦車センセの作風を形容するに、『レトロ』という語がよく使われるようなので、ここで自分もレトロな話をふってみよう。いまの『少女まんが』はヒロイン&ヒーローらの恋愛ざたを描くものばかりのような感じだがしかし、いにしえにおいては違ったらしい。そこにおいて1960'sまでは、『母子もの』という内容が主流だったらしい。
で、『やさしくてすてきなお母さま』へのすなおな思慕を描くような作品らがやたらいっぱいあった(らしき)そのシーンへと、かの楳図かずお先生は1965年、「ママがこわい」という爆弾をドカン!と投下されたのだった。ご存じとは思うがそれは、当時の少女まんがの大ルーチンたる『やさしくてすてきなお母さま』が、いつの間にか兇悪で残忍なヘビ女へと入れ替わっていた…という衝撃的なホラー作品であり。
そして、そのようなお話が大いにうけたことは、そしてそれらが現在にいたるもHOTに愛読され続けているという事実は…。そこに描かれた『やさしくてすてきなお母さま』と『残忍でねたみ深いヘビ女』とが、実は同じものに他ならぬ、という認識を返しているのではなかろうか?

楳図かずお「洗礼」小学館文庫版 第1巻追ってその約10年後に楳図先生の描かれた長編「洗礼」は、『やさしくてすてきなお母さま=残忍でねたみ深いばけもの』というありえないような等式の描写が、最高潮に達したものとなっている。娘に対してとんでもないことをたくらんでいる母親が、お話の冒頭では『やさしいおかあさん』で通っている。
そしていみじくも、その作品の巻頭言のようなナレーションにいわく…(「洗礼」小学館文庫版 第1巻, p.5)。

 『母親とは娘にとって何か?
 娘とは母親にとって何か?
 そして………
 母親は娘に何を与えたか?』

そこまでを見てから筆者の悪癖、精神分析チックなヨタをかましてみると、母にとって娘とは、娘にとって母とは、それぞれに『自分の夫(父)を“去勢”している存在』だと見られる。『“すべて”のことを父・母・子の三者関係の問題に還元しやがる』と、世にも評判のよくないやからには、そう見えるのだ。
そういえば、楳図式の『母子もの』と、その先行作かとも見られるグリムのメルヒェン「白雪姫」。そのいずれにおいても、『父=夫』であるべき人物の存在感の、なさや薄さが、『逆に』印象的だ。もしも母と娘との葛藤ということがあったなら、まず本来なら、彼女らの『父=夫』が間に入って何とかすべきところなのでは? がしかし、いずれのお話でも、そういう展開にはならない。

と同様に、吉田作品「甘えんじゃねえよ」においても、みっちゃんのパパである人は、ひじょうに存在感がうすく立場がない。≪父≫として、まともには機能しない。人物紹介のコーナーにもきっぱりと、『あまり存在感のないかわいそうなお父さん』(第1巻, p.147)とあり、その実の名前も明らかでないくらいで。
また存在感がうすいばかりか、彼は若ハゲ気味で頭髪もうすいし(!)。かつ、みっちゃんのママの名が実家の姓と同じ“長谷川”君枝であるところから、この人はむこ養子でもあるようだし。

で、追って登場する君枝の実父の長谷川某氏が、また何かといじわるで、ねちねちと同居のむこを迫害してやまないのだ。きわまったところでこの父は、むこの勤め先の社長を言いくるめて、社内における彼の呼称を『みっちゃんのパパ』に統一させる(!)。社長室に呼び出された彼に向かって、義父とつるんだ社長が宣告する。

 『これからは 君のことを
 みっちゃんのパパ と呼ぶことにしたから』

追って、課長たる自分のデスクに戻った彼を、若手社員や女子社員らが口々に、『みっちゃんのパパ』、『みっちゃんのパパ』、と呼ぶのだ。そのいわれなき、わけのわからぬ屈辱にしのび泣きしながら、『おれが何をしたというのだ… とみっちゃんのパパは思った』(第2巻, p.155)。

だが、しかし! 『何をした』かということはまったくもって明らかで、彼は義父の愛娘を義父から奪って何かして、あろうことか子どもまで産ませている…それが義父から見ての大問題なのだ。で、そのことへの仕返しとして長谷川某氏は『逆に』、『そのこと』によって全面的に、自分のむこをレッテル付けしているのだ。それがまさしく、われわれの用語の『象徴的“去勢”』の実践として。
その一方、みっちゃんのパパが、あらぬところで『みっちゃんのパパ』と呼ばれて、みょうに気分が悪い理由。それは彼が、1つの家庭の夫であり父でありつつ、かつまた1匹の『男』や『雄』でもあ(りう)る、もしくは単なる1人の人間でもあ(りう)る、といった可能性の部分が、その呼び方によってきっちりと否定されているからだ。場所をかまわずその呼称が出ることによって、彼は“常に”彼の家庭へとしばりつけられるのだ。
またそれに並び、その呼称は、『課長』と呼ばれたら多少は偉そうな人物から、その『偉さ』をも剥奪しているのだ。で、そうしたような窮状にひとが追い込まれることを、われわれは『象徴的“去勢”』と呼ぶのだ。

(この場で詳述もいたしかねるが、分析理論での『象徴的“去勢”』の機能は人間において、やたら普遍的かつ全面的で永続的。ほんとうはきわめてどうもうで兇暴かもしれない“もの”が、ノーマルな人間社会の構成員となるため、それは必須な過程だ)
(かつまた。『みっちゃんのパパ』に関する呼称の変更は、会社組織と家庭組織との混同で入れ換えなわけだが、同様に彼は、家庭内で妻や娘から『課長さん』と呼ばれたとしても、それが大いに不ゆかいであるだろう)

と、そこまでを見てくれば、さきに見たみっちゃんのパパの人物紹介の続きに、『ぜんぜんそうは見えないが居合道五段の腕前を持つ』、という要らなそうな設定が出ていることも、ちょっとは意味をなしてきそう。この、むかしは刀剣をあざやかにふりまわしていたらしき≪漢(おとこ)≫が、夫となり父となってからの現在は、そんなことをやらないし、やっていたという感じさえも見せない…。
…すなわち彼は、『去勢』をこうむってしまったのだ。そして別に言わずとも、ここでの≪刀剣≫がペニスの象徴として機能していることは明らかでありつつ。

かつ、『やさしいママ=ヘビ女』というお話を見た上だと、君枝のルックスはやや面長で目がつり気味で細く、美人で通っているが『へび女』のような感じは大いにある。また同じ本に併録の作品には、ずばり≪へび少女 沼田さん≫というわき役も登場しているし(第2巻, p.90)。
そして楳図作品のヘビ女は、その習性として、鶏卵を丸呑みしたり小動物を追い廻したりしていたようだが。君枝はそこがちょっと違っていて、家族ハイキングのさいに山野で『逆に』、そのヘビたちを素手でつかまえる(!)。さらにはその口に自分の口を当て、そこから息をプー!と吹きこんで大きくふくらまし、そして『ヘビ風船』とでも言えそうなものをこさえて遊ぶのだった…!(第1巻, p.135)

筆者はこれでも都会の仔だったので、ヘビで遊んだことなどなかったのだが、そんなことができるものなのだろうか? …原理的にはできそうな気もするけど、やってみようと考える人がめったにいないだろう。そして彼女の≪行為≫を見てびっくり大仰天し、『ひいいい』と叫んで引きまくっている自分の夫と娘に向かって平然と、

 『コレ子供の 頃から 趣味だったの
 久しぶり だわあ~』

と言って君枝は、言いしれぬ≪享楽≫の味わいに、そのほほを赤くそめるのだった。これがまさしくフェラチオや『去勢』を模擬する行為でありつつ、そしてわれらのヒロインが≪メドゥーサ≫の一族に他ならぬことの証明でもあろう。そして≪メドゥーサ≫はそれ自身が≪去勢のシニフィアン≫でもありつつ、その話題については関連記事をご参照ありたし(*)。

さらに。いつもふしぎと遡及的な書き方になるけれど、われらがみっちゃんのパパの初登場シーンが、またひどい! というかそれは、長谷川家シリーズ全編のオープニング・ストーリーでもあるものだが。
すなわち。おうちで絵本を見ていたみっちゃんが、『どうして 象さんのお鼻は 長いの?』と、ママに聞く。彼女の見ていた絵本の題名が「アニマル セックス」であることは流すとして、そこでみっちゃんのママはやたらとテンションも高く、次のように娘に吹きこむのだ(第1巻 p.126)。

 『実は 生まれたばかりの 象の鼻は短いのよ!
 それをアフリカの 屈強な大男が ギュ――ッと ひっぱるの!!
 子象が泣こうが わめこうがギュギュ ギュギュ~~っとね!! ホホホホ』

というトラウマちっくなでたらめを吹いて娘をおびえさせておいて、次の4コマで、君枝はさらにノリノリで、≪外傷≫的なホラ話を重ねる。いわく、『同じように 男の子のちんちん もね! そう! 産婦人科の屈強なお医者さんが(、出生直後にその部位を) ひっぱるの!! 最初は男も 女もいっしょ なのよ!』。…これに対する、みっちゃんのリアクションがやばい。

 『へー!! パパは ひっぱり足りな かったの?』

それを聞いて君枝は『ワハハハ ハハ』と、声も高らかに大爆笑。そうしてその横でこれらを聞いていたみっちゃんのパパは、『グサ』と痛烈に≪外傷≫をこうむって、冷や汗をかきまくり青ざめるのだった。
…と、この場面では母と娘が結託して(?)、それぞれの夫であり父である人物に『去勢』をかましているわけだが。にしても、君枝のさんざんなホラ話が娘の教育によくないかもしれないのに、聞いていて放っといているみっちゃんのパパ…。それがもう、さいしょから≪父≫たるものとして、あまり機能していないもよう、ということにわれわれは気づくのだ。

で、このように存在感のないあわれな『夫=父』をはさんで、それを見えにくい利害のポイントとして、母と娘は潜在的・顕在的に、対峙または敵対するのだ。もしもみっちゃんのパパが、『明治の父』くらいに威厳ある偉くて怖いお人だったとしたら、こんなお話は成り立たないはずでありつつ。ほんとうに怖いのは≪父≫であるべきなのに、パパがそのお役を引き受けないので、『ママがこわい』という現象が生まれているのだ。
で、そうした母娘の対立図式の潜在(→顕在)を、異なる性においての≪オイディプス物語≫の葛藤劇を、楳図先生はホラーとして描き、戦車先生はギャグとして描いているのだ。そして君枝の行為らが娘を『攻撃』しているものとすれば、それは夫を『去勢』しようとするものへのけん制でもありつつ、『自分“こそ”が夫を去勢したい』という意思の表れでもあるのだ。
なお、ここまでに『娘が父を去勢する』という論点へのフォローが乏しいが、それについては以前の記事、『坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味』(*)をご参照されたし。そこに出ている『娘は父の、“想像的ファルス”である』というテーゼの展開として。が、こっちの作中では、みっちゃんがいまだ5歳でひじょうに幼いので、そんなには父を『去勢』していないのだけど。

ところでそろそろ、しめくくりに向かって。ここらで筆者が正直なところを申し上げると、われらが巨匠・吉田戦車先生のご創作で、『これはいい、すばらしい!』と自分がすなおに言いきれる作品は、見てきた限り、かの崇高なる大名作「伝染るんです。」と、びみょうに並んでこの「甘えんじゃねえよ」。という、その2本だけなのだった。
いつも強固に『同じこと』を描いているとも見られていそうな戦車センセだが、そんなでもないと筆者は感じているのだ。ここでちょっとしっけい気味なことも申せば、この2作以外の戦車センセのお作には、『単にストレンジなことがダラダラと描かれた、“形式的なシュール”』とか、『まったくありそうなふつうの見立てギャグや風刺ネタ』、といった部分らが、少々目立ってなくもないのでは?

そうじゃなく、その世に言われた特徴の≪不条理ギャグ≫がまたくシャープに切れまくっている作品として主なものが、いま挙げた2作だと感じているのだ。そしてその≪不条理ギャグ≫とは、人間らの≪外傷(トラウマ)≫のある部位をことさらにつついて刺激しつつ、その痛みが『認識』にいたることを抑圧して、読者を笑いへと方向づけるものだ。
補足すれば、もともと人間は≪外傷≫の存在自体を抑圧するものなので、≪ギャグ≫はその傾向を利用している。それはいったん≪外傷的な知≫を示唆しておいて、そして爆笑という愉しみの発生とともに、その≪知≫を主体から押し流させるのだ。
『忘れようとしても思い出せない』…とは「天才バカボン」の中の名せりふだが、それはそのまま≪外傷≫のことだ。そのような分析理論と≪ギャグまんが≫との美しいシンクロを見つつ、そして『去勢』とは、われらのフロイト様が最晩年の論考で言われた、言わば『究極のトラウマ』、人間らが終生どうしても克服しがたき≪外傷≫なのだ。

とまでを言ったらいちおうオチがついた気もするので(?)、さいごにちょっとだけ、この堕文のお題となっている作品「戦え! 軍人くん」をも見ておく。その作中、軍の司令官で発明マニアで『美形中年』と形容もできそうな人物が、新兵のヒーローくんをつかまえて、彼が考案の新兵器の自慢に及ぶ。なお、ちょっと有名かもしれない≪いじめてくん≫というキャラクターは、この人物の発明品として今作で初めて登場したものらしい。

 『吉田くん…また おもしろい物を 発明したぞ!
 無砲塔戦車だ!!(…と言って司令官は、あるべきところに砲のない戦車を示す)
 戦いたくても砲がない から
 グルグル走りまわ るばかりの 情けない
 兵器だよ! はははは』

が、これらを見て聞いた吉田くんがひじょうに反応に困っていることに気づくと、司令官は一転してしゅ~んとして、『…………だめか?』と問いかける。しかしわれらのヒーローは、そこでまた、いっそう反応に困るばかりだ(第1巻, p.49)。

と、かなり同じようなエピソードが、関連シリーズの「戦え! 学生さん」にも出ている。こちらではさきの司令官が教頭先生を演じていて、そして生徒役のヒーローくんを、出しぬけに背後から呼びとめる。

 『吉田君 見てくれたまえ!
 ついに芯の無い 鉛筆を 発明したぞ!
 (と言って教頭は、『先端が円錐状に削られた木製の六角柱』、と言うべきものを示す)
 今までの鉛筆は どんな高級品でも 芯があるのが 不満だった
 そこを改良 したのがこの 鉛筆なのだよ
 見たまえ まんなかに黒い汚い 芯が入っていない この美しさを!』

…等々とまくしたてて、教頭は大いに悦に入っているが。しかし例によって吉田くんは反応に困って、ただ無言でもじもじしているばかりなのだった(第2巻, p.72)。

そうしていずれのエピソードも、われわれがさんざんに見てきた『去勢』というモチーフをかすっているものであること、それは言うまでもなさげ。すなわち、それらの新発明は、ただ単に役に立たないのではない。言い換えて、このエピソードらは、むかしからあるような『こっけい』や『ナンセンス』を描くものではない。
そうではなく、それらの新発明のきわめている『役に立たなさ』が、われわれの≪外傷≫ある部位をズビズッ!とさして(刺して)いるので、それらが≪不条理ギャグ≫になっているのだ。それぞれのお話の吉田くんらが、『そらあかんがな!』等と安易にツッコんだりはしていない、そこに味わうべきところをぜひ見よう。



追記。ところで、みっちゃんのママが自分の娘をだまさなかった『珍しい例』として、こんなお話がある(第1巻, p.167)。

 『ママ 赤ちゃんて コウノトリが 運んで くるんだよね』
 『なに 言ってんの みっちゃん
 あんたは ママの おまんこが ガバッと裂けて
 血まみれになって 生まれてきたのよ』
 『う うそだ!! 絶対うそだ ママのうそつき!!』

≪外傷≫との直面を避けるためのやさしい作り話を平気で否定して、みっちゃんのママは、外傷そのものである事実を娘につきつける。これによって例のごとく、娘が傷ついていることには変わりがない。
つまり単に『娘をだます』ではなくして、虚構をも事実をも随意に用いて、自分の娘に外傷を植えつけたりその外傷をつついたりすることこそ、君枝がなしていることなのだ。で、その行為らがわれわれ読者らの≪外傷≫をも刺激するにより、そこで≪ギャグ≫が構成されているのだ。

とま、そんな走り書きのさいごに。先日、ここに設置のメールフォーム(*)から、おそらく激励のおたよりらしきものをいただきました。ありがとうございます! 自分以外にもここを見ている人がいるっぽいと確認できたので、がむばりま~しゅ!

2010/04/12

荻野真「孔雀王」 - 貪瞋癡による身語意より生ずる所なり

「孔雀王」YJC版 第1巻 
参考リンク:Wikipedia「孔雀王」

4月11日・日曜日、親類の法事というつまらない用事で、鐘ヶ淵あたりまで出かけた。すると行った先のお寺が真言宗だったので、その祭事の進行に異色があったことには、家族一同で少々びっくりしたのだった。

異色というのは要するに、密教色があったということ。『では』と言っていきなりお経を詠み始めるようなものでなく、まずその前に取っ手つきの香炉をあっちからこっちに移動することをはじめに、坊さまが黙ったまんまでいろいろな儀式を執行するのだ。
うまくは説明できないが、金剛杵と金属の数珠をすりあわせて『しゃらら~ん』と、ウィンドチャイムのような音を出すとか。さらには祭壇に向かって『ぐっぐっぐぐっ』と印を結んでいるのだが、しかしその両手をふくさで隠して行っているので、予備知識なくば何がなんだかわからないところだ。

で、それに続いての読経を、参列者も参加で行わせるというというのは、このお寺さんの宗派の独自のところかもしれない。『○○山勤行式』と書かれたパンフをあらかじめいただいており、見ながらそれを詠めばいいんだけど。

 『懺悔の文(さんげのもん)
 我昔より造る所の 諸々の悪業は 皆無始の貪瞋癡による身語意より生ずる所なり
 一切 我 今 懺悔したてまつる』

これはちょっと、ジャック・ラカンちっくなことが言われているな…とは誰でも思うようなところだ。特に、『無始の』とことわっている点にハッとさせられる。がしかし、似ているからといって同じに機能するのではないとあれば、さして意味がない。
『ラカン-と-密教』なんて切り口は、むかしもそうだがいまはいよいよ流行らない。と、そんなことを考えていたら、坊さんが真鍮のシンバルのようなものを『じゃーん、じゃじゃじゃーん、じゃじゃらーん』…と長く鳴らすことで、式次第は一段落したのだった。

 『光明真言
 おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら
 まに はんどま じんぱら はらはりたやうん』

という勤行式、約45分間。とま、そんなことがあって、≪金剛杵≫なんてアイテムをナマで見ることになるとは、ちょっとびっくり。そこで筆者がまんがっ子として思い出した作品が、密教バトルサスペンスの決定版こと荻野真「孔雀王」(1985)なのだったが。

そうしてこの「孔雀王」関連のシリーズが、現在にいたるも進行中なんだと思うけど。で、筆者的なその注目点は、ヒーローの≪孔雀クン≫がいまだに童貞らしい、という事実。
確かそのはず。かれこれ25年間も青年まんがの主人公をやっていて、孔雀クンてば、いまだ童貞。そのヒロインの少女≪阿修羅≫と、結ばれそうでぜんぜん結ばれない。
この2人はひじょうに好感がもてるキャラクターなので、きっと結末では幸せになってほしいなあ…などと筆者もふつうに思うけれど、しかしそういうものでもないかもしれない。さいご世界を救うために、この2人(のいずれか)が犠牲になるような、そんな結び方も考えられる。

でまあ気がつくことは、「孔雀王」シリーズが人間らのドロドロの欲望の闇を描くもの、『貪瞋癡による身語意』を描くものとしてスタートし、そしてバトル展開に転じてからもそのトーンは変わらないんだけど、しかしそのヒロインとヒーローの清潔さはキープされたままだ。
しかもその清潔さは、俗世間のPTA的な道徳を『逆に』転覆しているような激しいストイシズムによっており、そこが異様にカッコいい。筆者が孔雀クンにパンクロックを感じるのは、そういうところだ。現状ではシリーズの状況が不透明であるようなんだけど、いまだある種の期待をさせてくれるシリーズかと感じている。

2010/02/23

田辺真由美「まゆみ!」 - おとめ涙のスカトロだいあり~

 
参考リンク:Wikipedia「まゆみ!」

≪少女まんがのギャグ≫なんて、『商業誌』とは思えないようなペースで展開しているものだ。確かこの作者は1989年に今作のベースになった作品でデビューしていて、そして単行本が出たのが1993年。
何せ初期には、月刊誌掲載で2~3ページの4コマだったもので。その間に、15歳の中学生だった作者は、軽~く大学生だか短大生だかになっている。

しかも真由美センセがヒロイン≪まゆみ≫の日常を描く、という(びみょうにも?)私小説チックな内容なので、この本の1~2巻あたりを読むと、女の子の日記帳をノゾキ見してるよーな感じもある(りぼんマスコット・コミックス, 全6巻)。
その間の心境や生活の変化が、かなりすなおにまんがに出ちゃっている。ふつうに言われる『女の子がいちばん輝いている時期』が、この崇高きわまる創作へと捧げられているのだ。
まあ、じっさい崇高でもありつつ、あわて者のヒロインが道ばたでイヌのふんをやたら踏む、てなお話だがっ。そうしてお話の最中にルーズソックスが流行ったりすたれたりしながら、2003年までも女子高生を演じ続けていた≪まゆみ≫なのだった。

ところで今作を見た方はご存じのように、このお話はヒロインが彼氏の≪いとー君≫に超ゾッコン…として始まるのだが。しかし巻が進むにつれ、彼女のカレへの態度がだんだんと冷淡かつ冷笑的になっている(!)。これがまた、何ともウソのないところで…!

2010/02/22

おおつぼマキ「ケンネル所沢」 - 犬狼伝説・色情編

筆者特有の想い込みなのだろうか、『ヤングサンデー誌掲載のギャグまんがには、≪ギャグ≫としてもストレンジなヤツが多い』、と思っているのだが?
という臆見は、阿部潤「the 山田家」、長尾謙一郎「おしゃれ手帖」、ロドリゲス井之助「踊るスポーツマン ヤス」…等々々を見たあげくに生じたようだけど。しかしもとはといえば、歴史的にこの媒体を代表してきたギャグ作家…喜国雅彦センセの作風もまあ、ストレンジかと言えるものではあり。

そして筆者が今作「ケンネル所沢」(1889, ヤングサンデーコミックス, 全3巻)を知ったのは、ほんの2ヶ月ほど前なのだが(注。この堕文は2009年夏にかかれたもの)。しかも、第1巻は未見なのだが。
にしても! …読んでその中身のあんまりなストレンジさには、思わず口があんぐりと大びっくりする以外になかった。

かの喜国先生にしてさえ、今作ほどにきもち悪い、胸くそ悪いことを描いてらした…という憶えがそんなにない。かつ、わりと小ぎれいな絵で描かれた今作からヂヮア~とにじみ出てくる気色わるさは、「おしゃれ手帖」の露骨な汚物っぽさとも異なる。
またこの本のカバーデザインが(パッと見では)、けっこうポップで見ばえがよい。ということが逆にまた、その中身のキモさをいっそうひき立てておるかなあ…などとも愚考しつつ。

そもそもだ、今作が≪ギャグまんが≫であるのか否か?というポイントで、筆者にはあんまし確信がないのだ(…同じ作者の「Mr.シネマ」とかいう作品は、明らかにギャグではなさげ。ちら見しただけだが)。
すなわち今作はひょっとしたら、ラブコメのつもりで描かれてるのではなかろうか?…という気がせぬでもない。よく青年誌に載っている、一線を越えそうでなかなか越えないカップルのモヤモヤを、延々と描くようなラブコメとして。ただし今作に描かれたカップルは、その一方がイヌだ。…と聞いて、びっくりされました? いまいち?

ご紹介していてため息の出そうな異常さだが、今作は≪リンチンチン≫というパクリっぽい名前で呼ばれるオス犬が、飼い主の少女≪チカ≫の貞操をねらってあれこれと、何かをはげむ…とゆう、実にたいへんなるしろものなのだった。
それがどうにもあんまりなキモさなので、おそらくはシャレのきつすぎる≪ギャグまんが≫であろう…とでも考えなければ、こっちの神経がやらレてしまうま。ふつうに考えて今作は、≪イヌのペニス≫とゆう物体を描写しすぎでおま!

かつ今作のキモさは、『イヌ畜生が人間の少女と交尾したがっている』…というポイントにのみあるのではない。単にそれだけだったら、かって大名作「がきデカ」に登場してた≪栃の嵐クン≫もやりたがってたことだし!
…1つ言うと、リンチンチン君のモノローグのニホン語がびみょうにおかしくて、

 『チチカちゃんは 相手にして くれないし、
 ややっぱオレが イヌだから わるいのは オレかこれが。』(第2巻, p.111)

のようなその不自由さが、みょうになまなましすぎていやだ。読んでてついつい引き込まれたとすると、自分までもがこのオス犬のように、不自由な単細胞エロバカ思考に陥ってしまうのでは…という怖さをひしひしと覚ゆる。
しかもプラス、ねらわれている少女チカもまたおつむがかなり残念だという設定が、またよくない。何かこう全般に、演出されたものでないナチュラルな頭の悪さがそこに描かれてあり、そしてそれがこっちへ伝染しそうな恐ろしさが感じられてならないのだった。

あわせて今作には、まともな常識ある大人がほとんど出てこないという特徴もある。チカの家族にしろその学校の先生にしろ、まったくまともな人間とは言いがたい。それがまた読んでいるものに『よるべなさ』という感覚を味あわせ、そして≪日常≫の感覚を見失わせてくれるのだ。

…等々と言っていたら逆に今作「ケンネル所沢」が、少なくともざらにはない創作ではあろう、という気はしてきた。いやじっさい、それはそうだろうが…!
(なお。書いていたら、≪イヌ×少女≫といえば「南総里見八犬伝」か、ということは思い出した。だが、そこで話をふくらまそうという気力はなかった)

あろひろし「ぱらのい屋劇場」 - 汁ひとぞ汁、ナンセンスの名編っ!

 
参考リンク:Wikipedia「ぱらのい屋劇場」

正しい作者クレジットは、『あろひろし と スタヂオぱらのい屋』。そして認識不足で申し訳ないと、いちおうおわびしときたいのだが…。
今作の作者につき≪ギャグまんが≫の描き手でもおられると知ったのは、わりとごくさいきんのことだ。いままでずっと、ラブコメ方面の作家さまかとばかり。
『オレはポケモンマスターに…じゃなくて、“ギャグまんが博士”になる!』みたいな決意を筆者がしてからけっこう経つが、やっとさいきん今作がその探査網にかかったのだ。ここで今作のていさい面にもふれておくと、自由なショート形式で全ページ4C/2C、けっこう下ネタや残虐なギャグが多し。

で、まず大いにほめたいこととして。今作の「“ぱらのい屋”劇場」とゆう題名が大いにイケてると、筆者は思う。なぜって、われらのラカンちゃまが初めて世に出た時代(Mid 1930's)に、『“パラノイア”の専門家!』みたいに通っていたので…!

さてこれの単行本(ジャンプ・コミックス スペシャル, 全2巻)が世に出た1989年といえば、言うまでもなく(!?)、吉田戦車「伝染るんです。」の年。そして今作には、わりとそちらに対抗しているような感じもなくない。大判でオールカラーのわりとぜいたくな作りだし、かつわりと凝縮された≪狂気≫を描出してる…というあたりで。
しかし比較すれば今作は、飛ぶべきところで飛びきれておらぬようでもある。『だからよくない』とも軽くは言い切れないが、『常識からの飛距離』がそんなにない。
まあこれは、本来なら飛べぬ距離をみごとに飛びきった「伝染るんです。」の方をほめとく場面だ。と言ったところで今作から、心にに残ったネタを1つご紹介いたせば。

病院のレントゲン技師が、『しまった!! バリウムが足りない!』と、あわてている。そして次の場面では被験者の美女が、『このバリウム… なんか生臭い…』と苦情を言っているが、技師は『そ… そうかい?』と、そらトボケている。
と見たように、『美女になま臭い汁を呑ませたいっ!』という≪欲望≫がまずありつつ、そこに『バリウムが足りない!』という言い訳(合理化)がついて、ネタが成立している。この作例は、これとしてよいと思うのだが。

しかしだんだんとこの時代から≪ギャグまんが≫の流れは、『言い訳が、特にない=≪不条理≫の噴出と反復』…という方向に向かってたのでは? と、筆者は見るのだった。
そして今作について、これも≪不条理ギャグ≫なのか?…と問うてみたとき、自分の中から『否』という声がはっきり聞こえた。その1つ前の世代の、『ナンセンスギャグ』という表現がふさわしい気がした。他の作品を見ても常にそうだが、あろひろし先生の読者に対してやさしい語り口は、言い訳のないような創作を生み出すには向いていない。

【付記】 むしろ、こっちに言い訳が必要かもしれない(!?)。これがまた、2009年の夏に書いていた堕文の再利用で。いまも筆者は大いに無知だが、当時からすごい無知だった。
追って、この作者の別の作品、「ふたば君チェンジ!」や「ザ・シェリフ」などいくつかを読んだが。しかし筆者は今にいたるも、あろひろし先生の作家像がつかみきれない。常に誠実な創作をされているということはほんとうに明らかで、そこは大いに好感が持てるけれど!