2010/12/03

tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

tenkla「ヨメイロちょいす」第1巻
tenkla
「ヨメイロちょいす」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「ヨメイロちょいす」

「ヨメイロちょいす」は2007年にチャンピオンREDいちごでスタート、追ってRED本誌で掲載中のSFチックな『微エロハーレムラブコメ』(第1巻, p.183、作者より)。単行本は、チャンピオンREDコミックスとして第4巻まで既刊。
そしてRED本誌移転後の第2巻から、作者によるなら『バカ度』が上がり、ラヴコメよりもギャグ要素に重点が移っている気配。なお作者のtenkla(てんくら, 天倉)先生はなぞめいた人物で、その実体は成年コミックの土居坂崎先生なのではと、ネットではもっぱらのうわさらしい。

1. その存在が、“未確定”

今作こと「ヨメイロちょいす」、その概要はというと。なぜかモテ気味だがうすぼんやりした高校生のヒーロー≪桜我咲久(さくらが・さく)≫くんと、2人の少女。ばくぜんと三角関係のあるところへ、とうとつに小さな女の子たちが現れる。
その女の子たちは、近未来からやってきた、ヒーローとひとりのヒロインとの間の娘であると言い張る。ところがその未来がうすぼんやりと不確定気味なので、自分の存在を確定させるため、父母の間にさっさと既成事実を作っていただきたい、と言うのだ。

もしもヒーローがあっち側のヒロインと結ばれた場合には、こっちの女の子の存在は消失してしまうらしい。だから娘らは必死で、自分の母とヒーローとを(性的に)くっつけようと、未来のテクノロジーをも用いながら画策する。
やがては3番めの母娘のペアまでも登場し、赤・黄・緑のイメージカラーで象徴される3組の母娘によって、われらのヒーローは(性的に)翻弄されまくる。ゆえに題名が「ヨメ-イロ-ちょいす」、というわけなのかと。

さて。皆さまもご存じのことと思うけれど、量子力学のおもしろ不可解さを表す≪シュレーディンガーの猫≫というお話がある(*)。説明はリンク先にゆずるけれど、見えない箱の中の猫は『50%生きていて、50%死んでいる』と、ひじょうにおかしいことばで記述される。
で、今作の、未来からやって来た娘たちもシュレーディンガー的に、『生まれている可能性が確率としてある』ような、あやふやな存在であるらしい。だから目の前で、サク君と自分の母≪花凜≫がしっくりしてないのを見て、娘の≪きぃろ≫は、半透明になっている自分の手を示す。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.18) ―――
【きぃろ】 ほら 存在が“未確定” になりかけてる
なんとかしないと いなかったことに なっちゃうの

『シュレーディンガーの猫』は、素粒子のふるまいの『不確定』のふしぎに着目したお話だが。一方の今作では未来の『未確定』であることが、現在の目に見える現象として描かれるのだ。このSF的アイデアが、なかなか切れている感じ。

2. 50パーの確率で生きている

ところで、『好ましくない現在を改善するために過去への干渉がなされる』お話とすると、われわれは藤子・F・不二雄「ドラえもん」(1970)という偉大すぎる先行作を思い出さないわけにはいかない。その第1話から、ちょっと気になるダイアログを引用しておくと。

――― 「ドラえもん」第1話より(てんとう虫コミックス 第1巻, p.18) ―――
【のび太】 ぼくの運命が 変わったら、きみは 生まれて こない ことに なるぜ。
【セワシ】 心配はいらない。ほかでつりあい とるから。
歴史の流れが変わっても、けっきょく ぼくは 生まれて くるよ。
たとえば きみが大阪へ 行くとする。いろんな 乗りものや 道すじがある。
だけど、どれを 選んでも、方角さえ 正しければ 大阪へ 着けるんだ。

さいしょの話だと、いずれのび太くんはジャイ子と結婚して、その孫の孫としてセワシくんが生まれる予定だという。しかし何かをがんばれば、のび太くんはしずかと結婚できるかもしれない…。で、やはりいずれはセワシくんが、『同じ人』として生まれてくるのだろうか? それを『同じ人』、と言えるのだろうか?
とまあ、それはひとつのSFアイデアだ。そしてそれに対抗してかどうか、今作「ヨメイロちょいす」は、『未来における存在権を争う並行世界、そのエージェント』という、新しい切り口を描いているのだ。それがひょっとしたら、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)とすれ違っている発想かも…とも思わせながら。

つまり。「ドラえもん」においては、のび太くんの未来の妻が、ジャイ子であろうとしずかであろうと、結果は大して変わらないらしい。変わらないとは、同じアイデンティティを持った子孫が生まれてくる、ということが変わらない。…そこでセワシくんは、彼の現在の生活の改善を求めて、過去に干渉してくる。
ところが「ヨメイロちょいす」においては、それがぜんぜん『同じ』にはならないらしい。そしてヒーローの行動の分岐は多数の並行世界を生ぜしめ、そしてその世界らは、確率の波として存在するようなものらしい。…だから並行世界の住人たちは、自らの存在の確率の上昇を求めて、過去に干渉してくる。

けれども逆から考えると、自分自身を『確率的な存在』と考えている人はいないはずだ。…おられますか? すなわち、50パーの確率で生きているシュレーディンガーの猫は、実在はしていない。実在するのは100パー生きている猫と、100パー死んでいる猫だけだ。
ところで思ったのだが、貯金箱に多少はお金が入っていることは確か、けれどもいくらかは分からない、といった状況はありげ。これも一種のシュレーディンガーだとすると、それはようするに、ひとの記憶や認識の問題に還元されてしまう。

3. たとえば大阪に行くとして?

さらに言うと、ひとの知覚の形式である時間と空間の存在は、常にシュレーディンガー的な状況を生み出しているのではなかろうか?
…つまり。別に量子力学的な装置などがなかったとしても、猫を箱の中にぶち込んで、後で開けてみたら必ず生きている、という保証はないのだ。死んでいる可能性はごく薄いにしろ、確率としたらそれは存在する。
さらに、箱なんかなかったとしてもだ。自分の知り合いの某氏が近ごろ連絡がないのだが、ひょっとしたら死んでいるかもしれないので『シュレーディンガーの知人』、ということだって言えるのでは?

だが、そうではあっても≪自分≫の存在の可能性が100%でない、そのあり方が量子的、あるようでないようであいまいだ…という感じ方は、きわめて斬新でざらにない。そこが、「ヨメイロちょいす」の新しさだと見る。
ただしこの感じ方は、ふつうの人間からは、『わが身にもあること』という共感が、ちょっとできにくいのではないか…とも思われる。

だからふつうの人間の感じ方からすれば、「ドラえもん」のお話の方が、相対的に自然で受けいれやすいものなのだ。自分の先祖が大金持ちだったらよかったのに…くらい、誰でもいちどは考えるようなことで。
けれどもそこでわれわれが考えないのは、その『大金持ちの家系に生まれた自分』が、いまの自分と『同じ』ものなのか、ということだ。そして今21世紀の創作「ヨメイロちょいす」は、『同じ』にはならない未確定のさまざまな未来から、『シュレーディンガーの娘たち』が押しかけてくる、という絵図を描く。そのSFアイデアのフレッシュさを、まずわれわれは大いに評価しなければならないだろう。

さて、ここまでを見てきてだが、先行作「ドラえもん」に対抗しての「ヨメイロちょいす」ということは明らかに自覚的なしかけであり、今作の内部にもしっかり描きこまれていることだ。「ドラえもん」という語は出ていないけれど、あるお話で花凜の母の≪美凜(みりん≫)からサクくんに、こんなせりふが言われる。

――― 「ヨメイロちょいす」第2巻, 第12話より(p.145) ―――
【美凜】 たとえばあなたが 大阪へ(…中略…)結局 大阪に着くでしょう?

何のことかというと、お色気過剰な美凜はサクくんを誘惑して、『母体が花凜でも 私でもきぃろちゃんは 生まれるのよ』と言い張り、ヒーローを子作りに誘うのだった(!)。が、それでは基本設定がぶち壊れ、そして『ドラえもんに対抗』という作品の性格がなくなってしまうので、あわて気味に花凜が『生まれない わよっ!』とツッコむのだが!

といったところで、いまだ基本設定あたりを眺めたばかりだが。けれども記事が長くなっているので、tenkla「ヨメイロちょいす」の話は次回に続く。

0 件のコメント:

コメントを投稿