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2010/10/28

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」第1巻 
関連記事:ラベル“うすた京介”

いわずと知れたMid 1990'sの大傑作、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」。これをジャンル史的に見ると、自分としては、『第3世代的なギャグまんが』として、初期のきわ立ったもの、などと呼びたいのだった。

…筆者の考えた史観として、ギャグまんが史に3つのエポックとなる作品あり。それは赤塚不二夫「おそ松くん」、山上たつひこ「がきデカ」、そして吉田戦車「伝染るんです。」。これらそれぞれを、第1・第2・第3世代のギャグまんがの始まりとする。
そして第3世代的なギャグまんが、言い換えて≪不条理ギャグ≫みたいなものが、まずは青年誌の4コマやショートで展開されていたとして。それを少年誌で、レギュラーサイズの作品として展開し、しかも大成功したものとして、この「すごいよ!!マサルさん」は第1号、ということになるかと。

1. ≪不条理ギャグ≫とは何か?

さて、筆者が申し上げている『ギャグまんが第3世代』というもの。その主な方法とはどんなものかというと、端的に言ったら『タマキン(ペニス)を出さない』。
前のジェネレーションを代表する「がきデカ」らの偉業が示すように、タマキン等の≪外傷≫的なアイテムらをストレートに誇示しまくるのが、第2世代ギャグまんがの特徴だったとして。しかし第3世代的な作品らは、基本的にそれをしない。

ただし、ただ単にそうしない、ということではない。『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。
タマキンに並びそうなモチーフとしてはウンコや死体らがあるが、しかしタマキンが超圧倒的。かつ、こっちの用語の『不条理』ギャグと、いわゆる思想の用語の『不条理』、大きな違いがある感じだが、それはいつかまた別のところで見よう。

と、それらを言ったら。ずいぶん後の作品になるが、「妹は思春期」に始まる氏家ト全の作品系列が、典型的な≪不条理ギャグ≫でもないけれど、しかし第3世代としての優等生である、なぜか?…ということも説明されよう。
すなわち。4コマ部門で「伝染るんです。」以降のイノヴェーションとして注目される、「妹は思春期」と倉島圭「メグミックス」。両作のどこに新しさがあったかというと、それぞれ女性を主人公としており、ゆえに出すタマキンがないところで、その代わりに≪パロール(おしゃべり)≫が提示されている。どちらもそのヒロインらが、ただ下劣なことらを『言うだけ』、みたいな作品になっていることは、偶然でも何でもない。

2. マサルさん vs.こまわり君!

やっとここまできて、この記事のメインの題材である「すごいよ!!マサルさん」を見ると。その歴史的なる第1話『マサルとヒゲ』は、何と不敵にも(?)、かの「がきデカ」の第1話『少年警察官登場の巻』を、なぞって展開している感じがある。
冒頭まず、後に言われる≪フーミン≫こと藤田くんが、『逆向小学校』ならぬ『わかめ高校』に転入してくる。で、クラスに溶け込めそうかと思って安心したのに。そこへとんでもないヤツ、すなわちマサル君が出てきて、いろいろなことが台無しになってしまう…。

ここで「がきデカ」第1話の方を見返すと、転校じゃないけど新学期のスタートという場面で、わざとこまわり君は遅れて教室に入ってきて、そしてでんぐり返しで注目を奪う。一方のマサル君は、『いなきゃいいのに』と思われているところで(!)、遅れて窓から入ってきて、人々をげんなりさせる(第1巻, p.12)。
続いた展開、こまわり君は、『少年警察官として、新学期とやらを取り締まりに来たのだ!』などとわけの分からぬことを言い、そして『仕事ですから』とセクハラを敢行したりしつつ、一同のド肝をぬく。しかしマサル君はとりあえず、へんにホットに藤田くんを見つめながらも、おとなしく授業に入る。

それからマサル君は、藤田くんひとりを相手にこそこそと、彼のセクハラ実践を始めるのだ。まずは机イスが足りないのをいいことに(?)、1人分の席へ彼ら2人が座って、超密着プレイの開始…ッ!
さらにマサル君は、藤田くんの教科書に≪ヒゲ≫の落描きを見つけ、そこから何かを独り合点して、きっぱりと彼に惚れ込んでしまう。そして、あったか~い目をしながら『ポン』と藤田くんの肩をたたき、さらには『ウォンチュッ!!』と叫んで、超決定的なセクハラを断行…!

で、それからのお話の流れを、さっさと追ってしまえば。続く場面、授業の後で、こまわり君にしろマサル君にしろ、クラスメイトに武勇伝やフィロソフィーらのご披露に及ぶ。
それから続いてバトルのシーンになり、そこでそれぞれのヒーローが『奥の手』を出す。そして、こまわり君はイヌに敗れて逆にタイホされてしまうが、しかしマサル君の方はまんまと大勝利し、何よりも重要な藤田くん(=フーミン)のリスペクトを勝ちとる。すなわち、『すごいよ マサルさん!!』というせりふの出る場面になるのだ(p.40)。

3. ティッシュとうまい棒へ、ラヴ・ミー・ドゥー!!

高橋ゆたか「ボンボン坂高校演劇部」第1巻でまあ、「マサルさん」と「がきデカ」それぞれの第1話、結末以外はわりと流れが似ていることは、確認できたとして。
しかし異なるのは、まず語り方の違い。「がきデカ」に対して「マサルさん」は語り手の第2ヒーローを設定し、その読者に近い視点から、超越的なヒーローを眺める、という形式。
そこを注目すると、「マサルさん」にすぐ先だった少年ジャンプ掲載作、高橋ゆたか「ボンボン坂高校演劇部」(1992)の形式もそれ的。なので、その「ボンボン坂」をもあわせて比較対象にして(…ややこしい!)。

で、こまわり君は、クラスの女子や先生らにセクハラをはたらく。「ボンボン坂」の語り手の正太郎くんは、演劇部のヒロミ部長(女装ホモの人)からセクハラをこうむる。そしてわれらのフーミンは、マサル君からひじょうにわけのわからないことをされ続ける。
そしてその『わけのわからないこと』を、われわれは隠微(=淫び)さもきわまったセクハラだと解釈する。

次にうわさの、タマキンの出方についてチェキると。
まずこまわり君はケンカの場面、警察手帳を示してもイヌがかしこまらないので『奥の手を出すぞっ!』と叫んで、それを出す。ところが向こうも同じものを出すので、そこでは勝負がつかない。
「ボンボン坂」のヒーローたちはどうするか。その第1話、まずは正太郎くんが、女装している部長の性別を確かめようと、そのパンツの中を『じぃ~』と熱烈に覗き込む。次には部長が、正太郎くんの弱みを握ろうとして、彼をひんむいてそれを写真に撮る。…ただし、そんなにはっきりとタマキンが描かれてはいない。
そして「マサルさん」では、ついにタマキンがまったく出ない。ブツが出ないどころか、それをストレートに示すような語さえも出ない。

ところがマサル君は、『逆に』! タマキン的なもの、それを指し示す記号、われわれの用語で≪ファルスのシニフィアン≫と呼ばれるものを、さいしょからさいごまでぞんぶんに誇示しまくるのだ。
それはまず、マサル君本人が登場する前に目撃された、彼の机の落描きに始まって。そして≪ヒゲ≫という記号を明らかなコアとしつつ、彼の出っぱりすぎな前髪、彼が両肩にはめている奇妙な輪っか、弁当箱の中に1つだけのゆで玉子、回想中に登場する捨てエロ本、『セクシーコマンドー』や『げろしゃぶ』といった奇怪な語ら、そして彼が人につけたアダ名の『ティッシュ』と『うまい棒』…等々々と展開され。

そしてケンカのシーンにて、ついにマサル君は、ズボンをおろしてパンツを丸出しに…! ここでもっとも描写がタマキンへと肉薄し、そしてお話もまた、そこで一大ピークを迎えているのだ。
そしてマサル君は必殺技の名前として、『ラヴ・ミー・ドゥー!!』と叫ぶ(p.34)。ここにそういう言い方が出ているのも、決して単なるナンセンスではない。それはタマキンの使い方の、ひとつの言い方なのだ。

そしてこの第1話、さいごにショッキングなのはマサル君が、やっつけた不良の顔にヒゲを描き込み、そして満足げに、『フウー いいヒゲ かいた!』と言う。すると彼にとって≪ヒゲ≫は、カッコよさでもありつつ同時に、敗者のらく印でもある(!)。
そしてわれわれの申している≪ファルス≫なる記号もまた、一方で性欲とパワーと男性らしさを示すものでありつつ、そのまた一方で同時に≪去勢≫を示唆する。このこととマサル君の認識とが、みょうにこの場面で、ぴたり一致してしまうのだった。

4. 誇示したくないが機能しまくっている、それ

こうして見てくると、何かが分かったのでは? まず「がきデカ」のヒーローこまわり君は、彼による『第2世代ギャグまんが』の誕生をことほぐように、そのタマキンを誇示しまくる。追ってずいぶん後だが、第2.5世代くらいの「ボンボン坂」は、それを出すにしても出し方が控えめになっている。
そして第3世代の初期のきわだった創作「すごいよ!!マサルさん」のヒーローは、もはやタマキンをまったく出さない。しかしその代わりに、その代わりの記号≪ファルスのシニフィアン≫らを出す。メリハリをつけつつ、思わぬところのあちこちからそれを、出して出して出しまくるのだ。

かつ、第2.5世代のギャグ作品「ボンボン坂」の描き方の、ちょっとユニークなところを見ると。タマキンを誇示する「がきデカ」と、タマキン的な記号らを誇示する「マサルさん」との間で、それはタマキンの扱い方に困っている感じがある。
部長にはタマキンが要らないものだし、また正太郎くんはそれを『誇示』したくはない。そして、彼の想い人のヒロインが重度の男性恐怖症なので、あわや正太郎くんにとってさえも、タマキンが要らないものになってしまいそう。…とはまた!

で、『要らなそうなタマキンが機能しているお話』として「ボンボン坂」は、こちらもジャンプの掲載作、江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」(1981)を、反復している感じあり。かの≪ひばりくん≫が超ハイパーな『ヒロイン』であれるのは、『逆に』それがついているからだ。
ついてなかったら、何もかもが成り立たない(「ボンボン坂」も同じ)。このように、『誇示したくないが機能しまくっているタマキン』というものが現れた時点で、ギャグまんがの第2.5くらいの世代が生まれたものかと見られるが。

江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」第3巻そしてさらに言えば、「ひばりくん」における≪ひばり&耕作くん≫の関係と、こっちの作品のマサル君&フーミンの関係。どこが異なるというのだろうか? …とはおかしなことを申し上げているようだが、フラットに考えたらご理解可能なはず。
つまりここでも「マサルさん」の描き方は、『隠微=淫び』がきわまっている、ということだ。そしてそれが、第3世代ギャグまんが特有のやり口なのだ。

でまあ、拡げすぎちゃった感が大いにありながら! ともかく急いで、話をまとめると。

やたらタマキンが誇示されるギャグまんがに続いて現れたのが、第3世代のもの。『誇示したくないが機能しまくっているタマキン』を、もはや誇示はしないという方法。だからそれではなくて、『タマキン的な記号』(ファルスのシニフィアン)を誇示しまくるギャグまんが。
けれども人はそれをそうとは思わず、ただ意味ありげなもの(シニフィアン)として受けとめ、そしてその出没を『不条理』と呼ぶ。そして、≪ファルス≫の意味するところがあまりにも両義的であるゆえのとまどいを、読者は笑いによって『受け-流す』。

そうして第3世代のギャグまんがとして、「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」は、わりとその特徴が見やすいというわけで、この堕文になっているのだ。何しろ作中の少年たちがはげんでいる武術は、『“セクシー”コマンドー』!
…そこにきっぱりと込められた性的ニュアンスを、読者は見ながら見ずして、無意識へと『受け-流す』。かくて、タマキンをやたら誇示するようなギャグまんがとは、また異なったテイストがそこに生まれたのだった。

ところでさいごに、課題を提出しておこう。「がきデカ」と「マサルさん」、それぞれの第1話の結末で、こまわり君はケンカに敗れ、マサル君は勝つ。
マサル君に続いて「ピューと吹く!ジャガー」でも、『常に勝ち、勝ち誇る変質者』というものを描いているのは、うすた作品の珍しいところなのでは? うすた先生に続いた「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」(2000)でも、変態ヒーローがさいごに勝ち誇るようなお話は、そうそうはない。
そのポイントを、広く検討してみてはどうだろう? そこらに新たな問題意識をいだきながら、この堕文はいったん終わる。

それと、ここまでを書いてきて思ったが。すでに早くも1980年のとり・みき「るんるんカンパニー」は、第3世代的な≪不条理ギャグまんが≫の先駆と見てまちがいない。作者さまらの言い分を直で真には受けないが、確か「The Very Best of るんるんカンパニー」の解説文で、吉田戦車先生がそれの愛読者だったと打ち明けていたし。
しかし惜しくもポピュラリティの不足により、明らかな傑作「るんカン」を、『ギャグまんが史上のエポック』とは言いえない(!)。何とも歴史とは残酷なもので、1959年の石森章太郎「テレビ小僧」が、1962年の「おそ松くん」によって『ギャグまんが第1号』の栄誉を奪われた悲劇、それがそこで反復されているのだった。

2010/10/26

おおひなたごう「新・河原崎超一郎」 - ≪花嫁≫は、彼女の独身者によって!

おおひなたごう「新・河原崎超一郎」第1巻 
関連記事:ラベル“おおひなたごう”

前シリーズの大好評にこたえて、あの太眉ヒーローが帰ってきた! スケールアップで再登場、無印「河原崎超一郎」の続編、「新・河原崎超一郎」!
…な~んて面白くもないウソをタレ流してはよくなくて、いままで「河原崎超一郎」には、『新』しかないはずだ。『ケンちゃんラーメン“新”発売!』かのごとく、『新』しかない。

では無印版で初代の「超一郎」は、いったいどうしたのか? どこでお目にかかれるのか?
おおひなたごう先生のいままでのやり方から推測すると、たぶんそれは遡及的に、いつか未来に描かれるんじゃないかと思う。いつになるのか、その日を待って、われわれはこの堕文を終わろう。

と、終わった方が明らかによさそうなのに、うっかりと続けてしまう。今作こと「新・河原崎超一郎」は、月刊少年チャンピオン掲載のショートギャグまんが。1994~2000年あたりに出ていたもので、単行本は少年チャンピオン・コミックス全2巻。

そのヒーローの≪超一郎≫が、太眉もりりしい1970's劇画タッチのヒーロー。まず彼が、多種多様なスポーツで活躍するようなお話で始まり、それからいきなり小学生に若返って、夏休みの工作やママのおつかいをがんばるお話になったり。
かと思うと木こりになったり協会理事長になったり、はてはアウトローに転じて銀行強盗をしでかしたり。『横恋慕が苦手』(第1巻, カバーそで)という以外は万能(?)のヒーローが、ありとあらゆる局面で不条理を巻き起こすのだ。

で、具体的に機能はしないのだが、今シリーズ中でへんに目立っているのが、≪花嫁≫という単語。
まず第2話で、超一郎をエースとする野球チームの名が『花嫁』と、スコアボードに書かれてあり。追って第3話ではプロサッカーの『花嫁ウェディングス』に所属、第4話では強盗として『はなよめ銀行』に押し入り、第5話では『県立花嫁中学校』の生徒としてクラスでイジメられ(?)…等々々。

では、どうして強迫的に≪花嫁≫の頻出なのかって、別にはっきりした答も存ぜぬけれど。しかし何となくばくぜんとそれが、まったくお色気要素などありはしない今シリーズの背後に、動因としての性的なモヤモヤが存在することを匂わせている。

――― 「新・河原崎超一郎」, 第18話『駅伝 その2』 ―――
【実況アナ】 トップは 花嫁中の 河原崎
【監督】 さすが 河原崎 よのう(…超一郎の姿をよ~く見て、)
ムッ 河原崎の タスキが ねじれている! “メビウスの タスキ”だ!
【関係者】 (中略)それは駅伝と 関係あるのですか?
【監督】 ない! ない…が!
(メビウスだけに、)河原崎は表裏のない ナイスガイだってことよ

これがどういう『意味』かって、筆者も知りはしないが! 『んだそりゃ!』と言って、笑ってしまえばすむだけのギャグだが!(第1巻, p.95)
だがしかし、ことさらに誇示されたメビウスの輪には、まったくふつうに≪ファルス≫(勃起したペニスを表す記号)っぽいニュアンスがある。そしてそれが、超一郎の着けたユニフォームの『花嫁』というロゴに、からみあいたわむれかけているのだ。
そしてラカンの理論だと『メビウスの輪』は、≪主体≫の構造を表すメタファーでもある。むずかしいけど人間の心とは、その内面を探っていると外面に出てしまう、といったこと。

さらに、よく見ると今作中での『花嫁』の語はいずれも、社会の側のもの、いわゆる『体制』、形のある組織の名前、として用いられている。それこれを考えあわせれば≪花嫁≫という語は、社会の許容する≪享楽≫をさし示している。『横恋慕』が苦手なので、彼はそれを追い求める。
しかし超一郎は、決してその≪花嫁(ら)≫とひとつにはなれずに、≪享楽≫へとかすりながら出遭い(そこね)続け、そしてさまざまなシーンとさまざまな役割を遍歴し続けるのだ。そして何ら不可能はなさげな超一郎は、逆に言えば≪何≫でもない器用貧乏な人物でもあるわけだ。

と、この物語のあらましを、いちおう説明できたような気分になったところで。次の機会には、またちょっと別なところを見ていきたい! ではまた。

2010/10/13

林家志弦「ひまわり地獄」 - ひまわり地獄“だけ”は読んでます!

林家志弦「ひまわり地獄」 
参考リンク:Wikipedia「林家志弦」

懐かしいので、思わず取り上げてみた「ひまわり地獄」。これはMid 1990'sのゲーム誌に載っていた業界風刺的(?)4コマシリーズで、単行本は全1巻(電撃コミックス)。まんがとしてのタッチは、わりと新井理恵「× -ペケ-」(1990)に近いもの。

で、その単行本が、いまではブックオフの105円コーナーでよく見るものになっている。『タイトルがすてきだし、その値段なら、ちょっとひまつぶし用に』…と思って買っちゃって、そんで見てみたら、何とこれの一部を掲載誌で読んだメモリーがよみがえってきた!
けれどもスマンが、林家志弦「ひまわり地獄」という作家名や題名は忘れていたのだった。いやそれどころか、掲載誌が何だったかも思い出せない…!

その掲載誌という点について自分は、『電撃コミックスで出てるからには、電撃何とかに載ってたのカナ?』、くらいに考えてすましていた(単行本には初出データがなさげ)。ところがさっき調べてみたら、「ゲーム批評」誌に1994年の創刊号から、97年まで出ていたと分かった。
そういえば、そのころ自分がゲーム関係の人のお手伝いをちょっとしてて。そしてひまなとき、その人が買ったりもらったりした雑誌を見てたっけ…。その中に、ゲーム批評の何冊かがあったくさい。開いて、それを見ていた記憶はある。

ところで筆者は、大して熱心なゲーマーだったことがないばかりか。ゲームの雑誌を読んで面白いと思ったことも、あまりない。
だからゲーム誌を見るたって、まんがっぽいところを拾い読みしているばかりだった。で、『ここはちょっとうけるな』と感じたのが、今作「ひまわり地獄」の一部分らしかった。

そして、だ。この単行本の巻末あたりに、あとがきっぽいまんがが載っていて…。
その中で、『題材とした数々のゲームらを、ほとんど買ってないし遊んでもいない』というぶっちゃけも、ちょっとはどうかと思うが…(p.78の記述だと、『その約80%のタイトルを、一回もプレイしていない』)。
が、そこまではまだしも? さらに筆者がグッときたのは、連載中に作者さまが、身内から受けとった応援メッセージのご紹介(p.128, “”内は、傍点等で大強調された個所)。

【知人A】 (掲載誌の中で、)ひまわり地獄“だけ”は 読んでますよ
【知人B】 同じく毎号 ひまわり地獄 “のみ”読んでまし た――
【知人C】 立ち読みで ひまわり “だけ”は

うわっ! と言っても、筆者の感じ方もほぼ同じだったわけで、『わかるな』という気は大いにしつつ。しかしこういったことを、ふつうのまんが家さま方は堂々とは書かないのでは、と?
まあその、どうにも。ゲーム批評それ自体がたぶん、『手かげんなしのぶっちゃけで』ゲーム作品と業界を斬る、くらいなことを目ざしていたように聞くけれど。そしてここでは、その執筆者が媒体に対して、手かげんなしのぶっちゃけを敢行しておられる感じなのだった。

とはまた、ごくごく一部の人にしか分かりがたい、しかも年代もののネタではあるが。しかしこのとほうもなきアイロニーこそが、いちばん印象に残った個所なのだった…現在に筆者が、この本を読んでみて。

またちょっと、別なことを申し上げると。『散漫な読者は、へんなところしか憶えていない』(ギク!)、ということの証明として、みょうに自分が憶えていたエピソードのひとつをご紹介。ただしそんな散漫な読みこそが『素の読者の読み』であり、むずかしいけど送り手が、できるだけ意識せねばならないものでありつつ。

――― 「ひまわり地獄」, 明記されてないが「卒業麻雀」の巻(p.12) ―――
セーラー服の女子たちが口々に、『先生!麻雀しよっ』と言っているイメージ映像。
3コマめ、むっさいオヤジらがたむろする雀荘を、入り口から覗き込んでいる少年。
『もう半荘! もー半荘な!!』
『うわあ カンベンしてくれよ』
『満貫 満貫 二酸化マンガン!』
これらを見て、胸に『ラムちゃん』と書かれたトレーナーの少年は号泣しつつ駆け出す。
『嘘つきィ――!!! 女子高生なんていやしねえぞ!』

スーパーファミコン用ソフト「卒業番外編 ねぇ麻雀しよ!」この作例について、筆者は初見のころから、『そのたいへんなそらぞらしさ』というところが逆に面白い、と感じていた気がする。つまり作者の視点らしきものが、作品の中にはない。
「卒業番外編 ねぇ麻雀しよ!」を遊んでいないどころか、麻雀をもあまり知らない人が描いている、そんな感じさえもする。『満貫 満貫 二酸化マンガン!』なんて、逆に出てこないギャグという気がするのだが。

しかも作中の、七三メガネのおたく少年にも、一方のオヤジ連にも、描いているお人の共感はないっぽい。でもまあ、どっちかといったらオヤジかな…と思うのは、今作が全般的に、なぜかオヤジっぽい方々を過剰っぽくフィーチャーしてるからだが。
(はなはだしいオヤジの例。「ひまわり地獄」という題名にそって、股間を大きなひまわりの花で隠した全裸のオヤジ連が、この本のさいしょとさいごに描かれている…っ!)

あたりまえすぎなことも確認すると、この作例は、『「卒業麻雀」の設定等がファンタスティックすぎる』、ということを風刺しているはずだ。それでいちおう、成り立ってはおりつつ。
で、風刺というのは、もともとクールな描き方になるものだが。にしてもこの突き放し方は、もはや『形式的な風刺』、と呼べるもののような気がする。シニカルというにも、きわめてずいぶんなシニカルさ。

その一方で、筆者のイメージするギャグまんがというのは、もっともっと『斬れば血がでる』ようなもの。描いてる人が、われとわが身を刻んで紙にたたきつけるようなもので…。
言い換えると、筆者の感じるギャグまんがには、たいへん遠まわしな表現になっていても、どこかに作者の自虐という風味がある。『自虐は、ギャグである』。くだらないギャグを描いている人はくだらない人間ではない、けれども『自分の中にもあるくだらなさ』として、それを描いているように推察しているが。

…で、この場合は、遊んでないどころかほんとうは興味もないようなゲームタイトルについて、ともかくもおまんがを描かねばならないタスクという、作品内容の外側のところに『作者の自虐』の要素があるのだろうか?
そうして筆者は、すでに申したように、これのやけっぱち気味な『そらぞらしさ』がきらいでない。ただしそんなそらぞらしさの面白さは、ねらって描けるものではないようだ。

かつまた、そらぞらしいにしたって、この本に併録のシリーズ「プレイステーション学園」(p.115)のそらぞらしさは、あまりにも超えきったものがありげ。何せヒロインのプレステ子ちゃんが、セガサターンはあってもPSを持っていないのに、それをCMしまくるおまんがだなんて…ッ!
(みょうに細かいことを言うと、「プレイステーション学園」の題名について、なぜかもくじと本編で、表記がやや異なる。ここでは、もくじの方を採用)

まったくこれらは、ゲーム業界がまだ多少若く、かつ大いに意気さかんだった時代のどさくさ…それの産物であるっぽい。そして、そんな時代に自分も業界の超はしっこに生きていて、そこから今作と出遭(いそこな)っていたのだった。
で、別にいいけど林家先生もまた、その後のびみょうなご出世にともなって、ギャグっぽい作品などは描かれなくなっているごようす。どうにもいろいろ、『どさくさの時代』は過ぎ去ってしまっているようなのだった。
そうしてさいごに、筆者は失敬しごくだが、『ひまわり地獄“だけ”は読んでます!』ということばを、この地点でお先生にお返ししたい感じ。…この場合に限っては、そんなアイロニーも許されるような気がするので。



以下、おわび&余談。上の文中に「卒業番外編 ねぇ麻雀しよ!」(ケイエスエス, 1994)というレトロゲームの題名が出てるけど、申し訳ないがその題名等々をさっぱり忘れてて…。
で、『あれは、「同級生麻雀」だったっけ?』とかん違いしたまま、いっぺん記事をポストしていた(修正ずみ)。ごみんなさい。
調べていたら、ほぼ同じ時代、さらにまた「麻雀同級生」というゲームもあったそうで。そんなの、いちいち憶えきれるわけが…いや、そうでもないか!

何せ林家先生とは異なり(?)、筆者は「卒業番外編 ねぇ麻雀しよ!」を、当時いちおう遊んだことがあるのだ。5~6時間はプレイしたのではないだろうか? これもまた、業界のあれで流れてきた、箱なしの試遊用ROMという形態で。
ただ、遊んではみたけど、『女の子たちに勝てばいい、単にトップであがればいい、というものではない感じ?』…とまで気がついたところで飽きた。スーファミ用ソフトなんで、別に服なんか脱がないし。と、いまいちその『ゲーム性』がつかめないまま、それは1990'sのメモリーになってしまった。

そしてそうした1990'sメモリーズを現在に掘り起こしてくれるのが、いままで見てきた「ひまわり地獄」という作品なのだ。その発掘を、ありがたいと思うかどうかは別にして。
で、このまんがについては、レトロゲーマー的な視点で見ると、またちょっと別の面白みが、現在に出てくるような気もいたす。しかし自分が、なまはんかなゲーム談議などしたくない。はずいから。
などと申し上げたら、この作品の内容もまた、まさしく『なまはんかなゲーム談議』。わりと誰もが高価なゲームを『積んでいる』ような現在とは異なり、32ビット時代初頭の当時、ダメそうなゲームでもけっこう希少であり、そして人々のそれを語ることばは熱かった…ような。そしてそんな熱さに乗じて、このような創作もあった…ような気がする。

2010/10/06

川口憲吾「脳みそプルン!」 - How to 山田 と What's 山田

川口憲吾「脳みそプルン!」第3巻 
参考リンク:Wikipedia「脳みそプルン!」

公式略称「脳プル」こと「脳みそプルン!」は、週刊少年マガジンに1995-2002年掲載の、4コマ基調のギャグまんが。単行本は、KC少年マガジン・全8巻。その掲載期間の長さからすると、当時はけっこう読者支持があったような感じ。

ところでわれらが大名作、三ツ森あきら「LET'Sぬぷぬぷっ」の掲載時期が「脳プル」にほぼ同じで、当時はマガジンのおギャグ部門の2TOPだったもよう。それで両者のコラボ企画の作品が、「LET'S」単行本のどこかに載っている。そして自分が今作の存在を知ったのは、そこからなのだった。
ただし今作が、かの「大文字のLET'S」に匹敵するほどのものかというと…? まあそれはともかく、こんどその「脳プル」の第3巻&第5巻を古書店で計100円で買ったので(!)、そこでごあいさつがわりに、ちょっと小さいところを見ておきたい。
(なお、この本はもくじもノンブルもないので、引用個所のページナンバーは省略)

で、第3巻の序盤、『憲吾が斬る!!』と題された、読者の疑問に作者が答えるシリーズの1編。『どうして私には彼氏が できないのですか?』という問いに、なぜか海水浴中の憲吾先生が、あざやかに回答してみせる。

 【憲吾先生】 それでは「彼氏できない度 チェック」をしてみましょうか
 (中略)
 チェック1 待ち合わせの時 一輪車で登場していませんか?
 チェック2 鼻の下に骨とか 付けてませんか?
 またヘビもクビにまいて ませんか?(…ようするに、『人喰い人種』っぽい)
 チェック3 女の子なのに 軍人のような言葉づかいでは ないですか?
 (彼氏に敬礼して、『自分は映画館へ 行きたいので あります!!』と言っている少女の絵)
 この3つのうち1つでも あったら要注意です 気を付けて下さい

というわけで、そんな大したギャグでもないのだが。ところで、いま皆さまも思われたかもしれないことを述べると…。
『軍人口調の少女』なんて現実にはいないけど(います?)、それを好むような男子らは現実にいる。かなりおられる感じ、と言えそうな気もする。
そしてそのような『萌え(フェティシズム)』の趣向は、そんなには新しいものでもなくて、ヤマトやガンダムの時代からずっとあるようなものだ。けれども近年、みょうに野放しで目立ってきている気もしつつ。

それから。追ってこの作品に、≪ペチカちゃん≫というふしぎな女の子が登場する。17歳の高校生、制服の時はルーズソックス…というと何だか『萌え』っぽいのだが。しかしその顔面が、例のスマイリー(顔文字)の『:D』にそっくりで、超かんたんすぎ!
そしてそのしゃべり方が、『山田――っ!! ちょっと来――い!! 山田集合――っ!!』と男っぽいし、しかも常時ハイテンション! で、この子が、いま呼ばれた同級生でボーズ頭の≪山田≫の前に、過剰に出没するのだ。
(あと余談になるけど、『山田集合――っ!!』というギャグがオレ的にヒット!)

あるお話でペチカちゃんは、山田を『小銭追い』というスポーツ大会の観戦に誘う。誘うというか、山田に断る権利とかあるわけないし。で、それがどういう競技かというと。

 【ペチカ】 落としてころがった小銭を 追うのだ――っ!! 手に汗にぎるぞ――っ!!

追って大会当日、どこかで待ち合わせた2人。例によってペチカちゃんはテンションMAXで、『オーッス!! 山田 「小銭追い」見に行くぞーっ!! しまっていこーぜ!!』、と超ノリノリ。そして歩きながら縄跳びしたり、マンホールのフタを開けて『もしも――し!!』と中の人(?)に呼びかけたり、ぜんぜん挙動に落ち着きがない。
そしてしまいに、ふいにペチカちゃんは山田のバックを取って、彼のボーズ頭に手で作った鉄砲をグイと突きつける。

 【ペチカ】 山田――っ!! 後ろにまわられたな!! 戦場だったら 殺られてるぞ――!!
 【山田】 普通に歩けないのか!! おまえ!!

ここにさっき見た『軍人口調の少女』というものが、ふいにわれわれの前に現れる。そうしてこれらをわれらのペチカちゃんは、そのおなじみの、笑いが貼りついた顔をキープしたままで遂行し続ける。
で、これらを見ているうちに、うかつだが筆者もまた、『何この子、かわいいかも…』と感じるにいたったのだった。

ところでなんだが、別にブサイクでもないけどボーズ頭しか特徴がなくて、わりとさえない山田少年。彼はペチカちゃんだけでなく、同級生の男からも、ふかしぎで熱烈な関心をいだかれているのだった。その少年は、『How to 山田』というビデオを作ったぜ!と言って、本人の前でそれを再生する。

 【ナレーション】 もし町で山田に遭遇した場合 鈴を鳴らしましょう
 山田は襲ってきません
 【山田】 俺は 熊か!!
 【ナレーション】 山田の好物はプリンの 茶色の部分と 2日目の カレーです
 これをあげると 山田は喜びます

以下、いろいろと続く。そしてどんどんでたらめがひどくなっていくので、『ウソだ! みんなウソだーっ!!』と叫んで、山田はその場から逃走する。
これはどういうことかって、山田があまりにもどうでもいいやつなので『逆に』、人々は彼について、いろいろと想像をこらすのだ。何でもないので、“すべて”でありえよう、と人々は考えるのだ。そして≪少年≫というものは基本的にその『何でもないもの』なので、そこで山田が読者層の代表として、作中の人々の想像のネタになっているのだ。

そして、『想像のネタにされることの外傷性』というものを少年の側から描いた今作「脳みそプルン!」。それは、追って21世紀のマガジンに出た氏家ト全「女子大生家庭教師 濱中アイ」(2003)の方向性を予告しているな、とは言えなくもなさそう。
そんなとこまでを今回は見て、「脳みそプルン!」の話はぜひいつかまた!

2010/05/12

「課長バカ一代」と「主将!! 地院家若美」 - または『山崎ハコ と ギャグまんが』

野中英次「課長バカ一代 子供用」 
参考リンク:Wikipedia「課長バカ一代」, 「主将!! 地院家若美」

筆者はあんまりよく知らない対象なのだが、このご時世に浅川マキとか山崎ハコとかって、どうなのだろうか? うそでもいいから、フランソワーズ・アルディとかブリジット・フォンテーヌとかに置き換えてはダメなのだろうか? まずは以下しばし、約4年前に書いていた堕文の焼き直しから。



一条ゆかり先生のまぼろしの傑作「5愛のルール」(りぼん1975年5~12月号、未完)に、先日初めて文庫版で目を通した。するとその冒頭、ヒーロー初登場の場面にて。あれこれと失意が重なり、スナックでやけ酒中のヒロインの姉が、ジュークボックスに向かったヒーローに、

 「ねぇハンサムさん 浅川マキかけてよ」

と、言う。
…いやはや、浅川マキも古ければ、それを呼び出す装置の≪ジュークボックス≫も古い。ぐん、とくるほど、じゅん、となるほど、古い。まあそれは、むかしの作品だからだが。

いや、作劇としたらむろん、この場面にその名前の登場は『ふさわしい』かも。われらが一条センセのなさるコトに、まちがいのあるはずはない。だがしかし、そうきなさるのか、そのふんいきイヤだなあ…と、自分が軽く思ったことも事実だ。

それから、わりと最近。ちょっと古書店で、野中英次「課長バカ一代 子供用」(2001, KC少年マガジン, 全1巻)を買って読んだ。これは「魁!! クロマティ高校」でおなじみの作者の1990'sのシリーズ作(ミスターマガジン掲載)を、少年マガジンの読者に向けて編集し直した1冊。

そしてその巻末近く、ヒーローのバカ課長が部下の3人を呼んで『バンドを結成しよう』と、とうとつに言い出す。その理由は『音楽への情熱』とかいうのではなく、社内のサークル活動として公認されれば予算が出るかもと、あて込んで。
けれども方向性がちっともまとまらないので、『しょーがない、じゃあ、いきなりだが解散しちゃおう』(!)という相談になってしまう。だが、解散するにも多少はカッコつけが必要ということで、部下の1人の発案により、『音楽性の相違』という理由が設定される。
それに続く会話として、われらのバカ課長が『ちなみに俺は 山崎ハコが 好きだけど オマエらは何が 好きだ?』と、一同にたずねてみたら…。

 『え……! 課長も山崎ハコ 好きなんですか!?』
 『実は僕も 山崎ハコ 好きなんですよ…… あんまり人に言わないようにしてるんですけど……』
 『まさか…… 前田くんも……』
 『山崎ハコのオールナイトニッポン…… 毎週聴いてました……』

やだもう…何なの、この会社? そうして彼ら4人は、ほんわかと意気投合し直すのだが。しかしその直後、『しまった、コレじゃ解散の理由がない!』と気がついて、再び頭を抱えるのだった。

ちなみに筆者は、浅川マキと山崎ハコとの区別がほとんどついていない。というか、しっけいだがおそらく、『区別しよう』という意志がない。
ゆえにこれら2つのまんが作品が、≪同じもの≫をさしているかのように、ついさっき確認するまでかん違いしていた。こういうことを、悪しき『同一性の思考』と呼ぶのだろうか?(2006/04/03)



と、ちょうど筆者がそんなことを書いていたころ、「魁!! クロマティ高校」に続くようなギャグまんがの新しい動きとして、マガジン系の媒体でひそやかに、やきうどん「主将!! 地院家若美」(2004)の掲載が始まっていた。はっきり申してほんとうに大好きな作品だが、それの第2巻をいま見ると、こんなことが描かれている。

最強の暗殺武術の達人にして、最悪の美少年ハンターであるBL系ヒーロー≪若美≫。その親友で幼なじみの≪三平白人(みひら・はくと)≫は『超 忍者マニア』で、独断的な忍者修行にはげみすぎ、学内ですっごく迷惑をかけまくり。よって若美と並んで、柔道部の2大問題児、との風評あり。
まったく困ったもんだ…という相談をしているところへ若美が道場に現れ、たまには練習を休んで遊びに行こう、と言い出す。一同は悦んで、若美がご招待のカラオケ屋に向かう。追って白人が道場におもむくと、誰もいない。何せ忍者だけに、ふだんから存在感を消しているせいで(?)、忘れられたのだ。

やきうどん「主将!! 地院家若美」第2巻そこで白人は忍者の情報網か何かを使って、柔道部員らの行き先をつきとめ、ボーイに化けて彼らの個室に潜入する。実のところ白人クンは、のけものにされたこと、そして忘れられていることが、せつなくてたまらないのだ。さびしんぼうなのだ。
やがて部員らは、白人がいないことをやっと気づく。ところがそれからその場所は、白人へのしんらつな悪口とかげ口でもちきりに(!)。その口撃の急先鋒は、若美や白人が起こす問題の処理に追われまくりの、いつもは温厚な副将だ。部員らの中で、ちょっとでも白人をフォローしたのは、心のやさしいヒロイン≪美柑(みかん)≫だけ。
あまりのことに、ボーイ姿の白人がぼうぜんとしていると、何かわけの分からないリリックがその場に流れる。そこで白人は、

 『誰だ! 山崎ハコなんか 歌ってんのは…!!』

と内心で叫び、そして人知れずダラダラと涙を流すのだった(KC少年マガジン版, 第2巻, p.74)。

それからお話の後半は、美柑以外の部員らに白人が、血も凍るようなおそろしいふくしゅうをッ!…と続く。ゆえにこのエピソードのサブタイトルは、『忍(しのび)の戦(いくさ)は無情 の巻』。

とまあ、そうなんだけど。そのストーリーはともかく、われわれの観点からは、≪山崎ハコ≫というふかしぎな記号が、こういう場面にて、その意味不明きわまる意味作用をなすものらしい、と分かったのだった。いや、『分かった』なんてことは言えないが、しかし何かを知った感じがなくもない、という。
「課長バカ一代」にしろ「主将!! 地院家若美」にしろ、≪山崎ハコ≫とはこういう意味の記号である、なんてことを描いてはいない。ただその使われ方を見ると、その記号は、あえて言うなら『共感なき共感』、さもなくば『コミュニケーションなきコミュニケーション』とでもいった、何かきわめて両義的で、受けとり方のむずかし~い心の状態を示すようなのだった。

そしてそのような、意味ありげにして意味不明なる記号(シニフィアン)の現出、それの引きおこす強烈なとまどいを、われわれは≪ギャグ≫と解釈する。その記号に何らかの意味があることは確かそうなのだが、しかしそれが思い浮かばないのは、その意味が≪抑圧≫の対象になっているからだ。そこで発生するエネルギーの詰まりが、笑いという運動によって発散されるのだ。
だからこれらがギャグとして成り立つには受け手において、『その意味が抑圧の対象』という前提が必要になる。山崎ハコという女性歌手について、『偉大きわまるディーヴァ』だとか『くだらなさのきわみ』だとか、別にどっちでもいいのだが、にしても受け手の側にはっきりした『意味』しかないとしたら、ここで笑いの発生はない。
そうじゃなくて、その存在感(プレゼンス)はずいぶんとありつつ、しかしその受けとめ方にはたいへん困る。そのような記号としての≪山崎ハコ≫であり、その現前によっての≪ギャグ≫なのだ。

対極的な例をも、1つ出しておくと。まんがに限らずギャグの世界には、エルヴィス・プレスリーの仮装をした人がよく登場する。それが決まって、かの映画にもなったラスベガスでのカムバック・ステージの、純白のジャンプスーツ(ソデにピラピラつき)&もみあげがものすごい、というかっこうで。『何かさいきんあったなあ』と思ったらそれは、若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第2巻の冒頭のお話にも出ているのだった。
だが、それがどうして≪ギャグ≫になるのだろうか? エルヴィスは文句なくカッコいいが、しかしその猿まねはカッコ悪いのでこっけいだ、というばかり? それともそうじゃなく、ネタとなっているエルヴィス自体に、過剰すぎてカッコよさを通りこしちゃってる部分のあることが、そこにて示されているのだろうか?

むろん筆者には、それをどっちであるとも言えない。むしろ、ほとんどの人には『それをどっちであるとも言えない』。そしてそうしたどっちつかずな感覚に対して、われわれは笑いという反応を返しているのだ。ここでまた、≪エルヴィス≫という記号がりっぱなシニフィアンだということが確認されながら。
で、何が『対極的』かというと、同じく意味不明なシニフィアンでありつつ一般社会に対し、エルヴィスは出っぱりすぎている例、山崎ハコは引っ込みすぎていて『逆に』気になるかもしれない例、という意味で。そしてこのような≪シニフィアン≫というしろものを、われわれは、いっそのこと『不条理の記号』と呼んでもよいように錯覚しつつ。

…などと、山崎ハコという記号を介してギャグまんがを見る、というふかしぎな行為のあったところで。そうして「課長バカ一代」にしろ「地院家若美」にしろ、ひじょうに大好きなすばらしい作品なので、こんなんでは語りきれない…と筆者は申し上げながらッ。

2010/03/28

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 『外傷的ギャグ』とはどういうものか

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第6巻 
関連記事:ラベル「LET'S ぬぷぬぷっ」

きのうの土曜日にせっかく浦和レッズが勝ったのに、きょうの日曜日に体調がよくない自分。『調子のいい音楽を聞いていると、逆に気分が悪くなる』とは、どういう症状なのだろうか。
そしてこの事態を、ダセぇ、まぬけだ…と嘆いていてばかりでも何なので、ちょっと小さな記事を投じてみると。

 ――― 三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第6巻,p.130より ―――
頭が悪くて家が貧乏で、見た目も貧しく頭のてっぺんにペンペン草が生えている小学生≪スギヤ君≫。ある日、席替えで、クラス1の美少女≪雨野谷さん≫の隣の席になってしまった彼は、よせばいいのにへんな野心をいだく。
そこでスギヤ君は、彼女から辞書を借りて、その中の『Hな単語すべてに赤線を引いてしまう』といういたずらを思いつく。そんなことで女の子の気を引けると思っているのもおかしいし、何とも心の貧しい発想ではある。
ところが見ると、雨野谷さんの辞書には、『性器』、『性交』、『精子』と、すでにびっしりその赤線が引かれている。

ちょっと考えると、その赤線を引いたのが辞書の持ち主とは限らないわけだが、にしてもショッキングなギャグではある。というか、ショッキングではないものを≪ギャグ≫とは言いたくないのだけれど。
ここでいろいろ説明したいことはあるが、いまは思いきって略す。つまりこうしたものを、筆者は『外傷的ギャグ』=狭義の≪ギャグ≫、と呼びたいのだった。

文末にささいな雑話を書いておくと、近ごろ気まぐれで、日本語入力システムをMS-IMEからGoogleに変えてみた。すると、『どう』とまで入力したところで、『どうしようもない僕に天使が降りてきた』という変換候補がポップアップしてくる(!)。そして、『降りてこねェじゃねーかッ!』という筆者の舌打ちを誘うのだった。
それに限らないんだけど、このIMEの機能には、『どうしょうもない紋切り型を書け』という誘導を感じるのだった。じっさいのところ、それで誰が困るのだろうか? これまたSEOの話の続きみたいなもので(*)、『“平均化”された一般人の発想』のつまらなさを、このテクノロジーはイヤつうほどに見せつけてくれるのだった。

(…誤解なきように。『一般人の発想』がつまらない、などと申し上げているのではない)

2010/03/27

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 - 斬れないハサミでヂョキヂョキと

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 
参考リンク:Wikipedia「アルプス伝説」

ここで見ていく、通称「アル伝」と呼ばれるものは、少年キャプテンという幻の媒体、その末期の話題作(1995~97年掲載)。いきなりひどいことを申すけれど、これが人気ランキングの上位にいたようでは、その時点で雑誌の命運は決まっていた感じ(!)。
なお、初出時に「アルプス伝説」だった今作の題名は、1999年に全1巻の特装版で出たときに改題されている。何で『アルプス』かって、ようは登山部のお話だからだが。しかしその作中、まともな登山の場面なんてないけれど。
また何でのちに『スペース』がついたかというと、その特装版の巻末にスペースオペラもどき、寺沢武一「コブラ」のパロディの番外編が付け足されているからだが。しかし田丸作品ではいつものように、そのパロディの斬れ味が異様に『ない』けれど。

ところで、今作中の1つのキーワードが≪デスメタル≫だ。登山部のお話である今作は、当初『デスメタル部』のお話として構想されていたという。…すると。
追って世に出た若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」(DMC)が、『史上初のデスメタルギャグ』を公称していばっているけれど(!?)。そして『惜しくも』今作は、その名誉ある称号のゲットを逃した!…という見方が、まあできそうな気も。
だいたいのところ、何でこのタイミングで「アル伝」の話かというと、こっちの都合で「DMC」の話が出たばかりなので(*)、メタルつながりで思い出した。ただ単に、それだけなのでもあり。
そういえば、かの喜国雅彦センセもメタル好きギャグまんが家のはずだが、その近作にメタル要素などはお見受けしない。そんな要素を入れてもウケはしないと、すでに見きっておられるのだろうか?

にしても「アル伝」が1995年の作品で、続いた2005年の「DMC」まで10年間も、デスメタルのギャグまんがはなかった感じとは。ここでわれわれの得意の自虐になるが、デスメタルにしてもギャグまんがにしても、ほんとに人気がない。
かつまた、デスメタルをまんがに描くとすれば、それはギャグまんがになるしかないのだろうか?…という問題意識も出てはくる。それはそうか、とも思う。
あまり筆者が一般のまんがを読まないが、世間のうわさだと例の有名な矢沢あい「NANA」は、パンクバンドのお話らしい。それがまたどうしょうもなく通俗で惰弱なファッションパンク・ストーリーで、ヴィヴィアン・ウェストウッドをまた儲けさせるだけのしろものにしろ。
けれども自分は≪パンク≫ということばを聞くだけで、そのことばが社会の中を流通しているだけで、びみょうには気持ちがいい。だって、パンクだから。
そんなわけなので、コアなデスメタルの人から見たらあれなところが多かろうけれど、しかし「DMC」という作品の登場は、『よかったこと』と受けとめられねばなるまい。そして今作「アル伝」にしても、もう少し…そういうところの近くまで、行っていたらよかったろうに。

ま、それはともかくも、「アル伝」のお話を少々見ておくと。それがまた、ギャグにもラブコメにも徹しきらない煮えきらなさを、その特徴と見ねばならない。で、ちょっと聞けば、ゆうきまさみや西川魯介らのような同業者たる方々が、そのラブコメとしての要素を、大いに評価されているとか(ゆうき:本書, p.459。西川:田丸「レイモンド」第1巻, p.110)。
このご両人は、ふだんどのようなラブコメをラブコメだと思ってご覧になっておられるのか…(ただしご両人の発言が、本気で言われたものとも限らない)。少女まんがのラブコメを死ぬほど読む、とゆう荒行にいっときはげんだことのある筆者には、今作はラブコメとしたら超ダメダメ、論外で問題外だ。
特に、1980'sの廃品置場からわいてきたような超太まゆで、しかもいわゆる『ボクっ娘』のヒロインの造型あたり、超ありえねェ…とは思うが。しかし男子の読むようなラブコメだと、これらはありなのやも知れぬ。そのての作品をまったく読んでいないので、基準が分からない。
ただ、そうとは言っても、追ってヒロイン第2号のメガネっ娘が登場すると、その陰気さが1号の空疎な元気っ娘ぶりを引き立てるかたちになって、少々作品に活気が出てきている。そういうところは認めつつ。

ところで田丸センセのお作らに一貫している特徴として、ひじょうにあれこれの先行作らの込みいったアプロプリエーション(=流用・借用, いわゆる“パロディ”)としてできている。ただいまこの本を『くぱぁ』と開いてみると、海に来ているヒロインのトップに『膿が好き』と書いてある(p.433)、…などなど。
それはもちろん「うる星やつら」からで、まぁこれは小ネタとしてありかと思うが。けれども筆者は、田丸センセによる『流用・借用』らを全般的には、そんなに面白いとは思わないのだった。
というのも。筆者が今作を初めて読んだころには、「ジョジョの奇妙な冒険」の内容をまったく知らなかった。で、そちらをいちおう通しで読んだ後に今作を見ると、随所に「ジョジョ」からの引用や盗用があったんだなァ…とは気づく。がしかし、だからといってよけいに笑える、ということがない。

その借用例として今作には、ヒロイン2人がそれぞれ≪スタンド≫を出しあって対峙する場面があったり(p.435)、またずばり『ハイエロファント緑』なんてサブタイトルの回(p.467)もあったりするが。だからって笑えるということがなく、それらはただ、ばくぜんと面白げなふんいきを作っているだけだ。≪ギャグ≫には、なってない。
ただし、読者が≪その中≫へと入って行きたくなるような『面白げなふんいきを作る』ということもまた、ひじょうに重要ではある。田丸センセがもっとも敬愛するらしいながいけん先生が、誰がどう見ても才能にあふれつつ、しかしマイナーな存在にとどまっておられるのは、おそらくそこらが足りないせいかと。
つまり、ギャグといえども≪まんが≫であれば、読者の≪共感≫をあおるということは、大いに必要かつ重要だ。

とすると。ふしぎだが田丸センセは、ながい先生にもっとも多くを学んだようにおおせながら(「レイモンド」第1巻, p.59)。しかし、ながい先生にもっとも欠けた≪共感≫をあおるようなこと、そればっかしを、まずやっておられるように見える。
どうしてそうなるのかと考えたら、たぶんだが、田丸センセが≪ギャグ≫と思って描いておられることが、こちらからはふんいき作りの小ネタくらいにしか受けとれぬ、というギャップが生じているからだ。かつ、そうじゃなくても≪共感≫をあおってる部位が存在するので、すると田丸センセのお作らはひじょうにギャグ不足、ふんいきで読ませているばかり、という印象になってしまう。

そうして筆者は田丸センセのお作について、わりと常に意図的でなさげなところで成功しているものかのように思うのだった。その『成功』の例を言おうとすれば、筆者がほぼ唯一の『成功作』として評価する、「ラブやん」からになってしまうが。
で、そちらの作は、全体的に「ああっ女神さまっ」のアプロプリエーションになっている感じ…だが、『そうだから面白い』というわけではない。また、その作の途中から、見かけの悪い妖精が出てきて≪デーボ≫と命名される…コレは「ジョジョ」第3部の『呪いの人形デーボ』からの借用だろうけど、しかし『そうだから面白い』というわけではない。ジョジョには関係なく、デーボ君の活躍はありだな…と、筆者は見るのだ。
(ついでに申せば、ジョジョの『デーボ』のルーツは米ロックバンドの≪ディーボ Devo≫だと考えられるので、もはや3番煎じのアプロプリエーションになっている気配)

そんなわけで田丸センセによるアプロプリエーションらは、原作が構成した文脈を強引にねじ曲げてるというところがないので、原作を知っていれば笑える…というものでは、ない。文脈らが交叉し交錯する面白さ、というものがないのだ。
もっとはっきり言うなら、原作が構成しているふんいきを平気でじゅうりんする冷血さが、乏しいのかと思われる。「ジョジョ」ネタで言うなら、われわれが木多康昭「幕張」で見た『スティッキィー・フィンガーズ!!』というありえない≪ギャグ≫(*)、あの異様な残虐さを思い浮かべていただきたい。ああしたスルドさが、田丸作品の『パロディ』にはない。
けれども、デーボ君がわりと自然に「ラブやん」世界の一員になってるように、元ネタとは無関係ななところでそれが、何かとして『成り立って』いるとも見れる。この作風は、ほんとうにふしぎな珍品だと、筆者は感じるのだった。

と、ここまでの話をふりかえって見ると、『それでも田丸作品に読者を呼び寄せる力がある』ということの根拠を、筆者は明らかにできてはいない。『共感をあおっているから』と言っても、そんなにかんたんにあおりきれるものではないし。それについて、せめてヒントくらいは述べておかないと、あまりにかっこうがつかない感じ。
≪それ≫は、何なのだろう? 田丸作品が、斬れ味のないハサミで先行作らをツギハギしたものではありつつ、しかしよせ集め方のセンスがよいのかも…ということは思う。また、『そっちにもこっちにも行き過ぎない』、というところにその趣きがあるのかも、という気もする。つまり今作だったら、ほっとけばダダ甘なラブコメになりそうかもしれないところに、デスメタルやホラーの要素をブチ込んでいるあたり。
と、そのように言うと、『ラブコメとギャグの間で煮え切らないことを描いている』という今作の特徴は、むしろ長所であると見ねばならない。どっちにも足りないものらが、支えあって≪何か≫として成り立っているその構成に、うまいところを見るべきなのかもしれない。かつ、常識のない者どうしがお互いに≪常識≫をふりかざしあう、というそのいつもの構図がゆかいなのかなァ…等々と、気づくところはいろいろあるが。

で、筆者は、田丸センセによる≪ギャグ≫は、わりとフィクション世界の手前サイドの『ありそうなこと』、『あったようなこと』を描く…というところにすぐれたものがあるかと見ているのだった(今作で言うと、最後の方のエピソード『KING OF AMERICA』における旧万札発見事件など)。が、これ以上の話は「ラブやん」を題材にしたところで展開されるであろうかと…?

2010/03/18

津山ちなみ「HIGH SCORE」 - ブルジョワジーのグロテスクなお愉しみ

 
参考リンク:Wikipedia「HIGH SCORE」

以下で今作と呼ばれる4コマのギャグ作品「HIGH SCORE」は、津山ちなみ先生の1994年のデビュー作。そして2010年の現在も連載中の、りぼん史上にまれなる超ロングラン作品だ(りぼんマスコットコミックス, 刊行中)。かつ筆者の知る限りちなみ先生は、このタイトル以外のお作を描いたことが、まったくないはず。
それもだんだんに内容や登場人物らが変わっているということもなく、ちゃんと一貫し、全盛期のブリジッド・バルドーばりの美少女で『高慢ちきでわがままな』ヒロインこと≪めぐみ≫、彼女を中心とする学園(+ホーム)ものとして。筆者がはじめて今作を見たのは1997年のりぼん誌上で、当時は男子らの見分けがつかなくて困ったものだったが。そうしてそれから、ずいぶんと長~いおつきあいになり。
で、これの第7巻(2008年7月刊)を、つい先日読んだのだが(…ご覧の堕文は、けっこう古くに書かれたものの再利用)。

そうして久しぶりに読むと、くっきり浮かんで見えたことは、この作品世界には≪凡≫がない、ということだった。きょくたんなものらしか、わりと存在しない。
まずそのヒロインが、極端な美少女で極端に性格が兇悪、また成績も極端に悪いということをはじめに。そのステディな彼氏の≪政宗≫は、極端にケンカが強い極端なナルシスト。その政宗の妹≪えみか≫は極端に男前な女の子でカッコいいが、彼氏の≪京介≫に対して極端に粗暴。その京介は極端な『へタレ』野郎で極端な浮気モノだが、しかし極端に脳がかしこくて家が極端なお金持ち。
と、この作品の中心にいそうな4人だけをざっとご紹介しても、このしまつだ。で、これらに対して、めぐみの親友の≪かおり≫だけは≪凡≫なふつうの少女かのように見えるが。ところがこの子は極端に乙女チックな片想いをこじらせて、極端にきもち悪い『おまじない』にふけったりするのだった。たとえば自分の部屋の中に、ナマの魚を吊るすとか!

という絢爛ごうかなこの世界が、筆者には、『女子中学生が夢想する一種のユートピア』という感じがしたのだった。じっさい今作が初めて描かれたころ、作者のちなみ先生はいまだ中学生だったはずだし。で、そのような性格を現在まで残しているからこそ今作が、小中学生向けのりぼん誌上にて、大ロングランを達成しえてるのでは、と。
すなわち。そのヒロインは目にもまぶしいグラマー美少女で、その彼氏はこわもてのイケメンで、そのママはTVや映画の大女優で、パパは元モデルのハンサムなお金持ちで…と、今作「HIGH SCORE」には、小中くらいの女の子たちの喰いつくような要素がありまくり。だがこういうことを、ただすなおに描いていてはしまいに反撥を買うので、そこをさけるために≪ギャグ≫に展開している、という見方もできなくはなさそう。

そしてその≪ギャグ≫の演出のため、この絢爛ごうかな作品世界のスミっこのようなド真ん中のような場所にめっきりと出没しているのが、さっき見た『ナマ魚』もそうだが≪グロテスク≫、という要素なのだった。グロテスクといえばまだしも日常的な表現だが、われわれの言い方だと≪現実的なもの≫というか。
(めんどうなことを申してすまぬが、ジャック・ラカンの用語の≪現実的なもの≫とは、まず『ことばにはできないもの』であり『考察の対象にできないもの』だ。ゆえにそれらの表れは、きもち悪い、わけが分からない、怖い、といった印象を人に与える。『ナマ魚』は魚屋やキッチンにあればただの食材だが、場所を変えれば異なる≪何か≫を訴える記号、しるしになる。そしてその≪何か≫が何なのかを、われわれはことばにはしきれない)

そうした≪グロテスク≫の出没は、今作のごく初期から仕掛けられていることで。まず生物部員のわき役≪沙夜≫には、むしろふつうの世界が見えていない(!)。そして自宅でこっそりと、大量のナマ肉を喰らう化けものを飼育しているらしい。また、めぐみの父の≪麗二≫はやたら幽霊が寄ってくる体質なので、ぜんぶ心霊写真になっちゃうからモデルとしてつとめきれず、実家のお寺の住職になったというお話で。
そうしてゆかいな仲間たちが集ったカラオケ屋で、めぐみのイトコの≪嵐士≫はこんな唄を歌うのだった(第7巻, p.29)。

 『目ん玉ほじくり 出されたフランス人形♪
 四つん這いで階段逆走 子供部屋が血で染まる♪』

この嵐士クンは、手芸や料理を趣味とする心やさしき大男だが。…しかしひと皮むけば虫を殺すの大好き(!!)という陰湿きわまるグロ野郎であり、かつ応援団では鬼の副団長としてヒラ団員らを瀕死までしごきまくり…という設定なのだった。
で、その目ん玉人形の唄がデュエット曲なので、続いてめぐみがその女声パートを、 『キェエェェエェェー!! オマエ達の目ん玉も ほじくり出してやるよォォォォォ!!』…と歌う。そこで京介は、かおりが嵐士クンにホの字なのを知っているので気を利かす。唄の2番はめぐみに代わり、『かおりが歌えよ!』と言うのだ。
けれどもかおりはこの唄のキモさにひきまくっているので、『えっ!?』と、ただとまどうばかり。京介のやさしい気配りは、惜しくもありがた迷惑だ。

かくて、エログロバイオレンスおよび交錯する≪愛≫によって彩られたこいつらの青春グラフィティ(?)みたいなことが、きょくたんに高まった美と才知と力と富貴などなどの乱費乱用をともないながら、すでに実世界の時間では15年間以上も続いていて、しかもさらにず~っと続きそう。と見れば『いいなァ彼らは、素でうらやましい!』とは思いつつ。
またそのように形容してみると今作には、19世紀ブルジョワジーどものおごり高ぶり驕慢ぶりを赤裸々に描いた仏自然主義文学、バルザック「人間喜劇」連作とか、そんなような風味もありげ。

何せ題名が「"HIGH" SCORE」とはよく言ったもので、この世界からは"low"なものらが、排除されつくしているのだ。けれどもその中へ≪グロテスク≫としてひんぴんと侵入してくるのは、排除されている"low"なものら…その影、その断片のようなブツたちだ。
すなわち、女性美の頂点をきわめたようなヒロインも血と肉と臓モツのかたまりにすぎず、また、どれだけのチカラの持ち主もいずれは衰えて死ぬ。そこいらの凡人どもと、何ら変わりなく。…といった排除された認識らを、≪現実的なもの≫としてのグロ物件やグロ事件らは作中に、この世の栄華を愉しんでやまぬ連中に向けて、≪回帰≫させているのだ。

と言っていると思い出すのは、バルザック「サラジーヌ」(R.バルトの批評「S/Z」の題材として有名な小説)の冒頭、新興ブルジョワジーの邸宅での盛大な宴の最中に、ババァかジジィかも分からぬ≪グロテスク≫な老人がぬっそりと現れて、一同のきもを冷やす。この人物の正体は読んでのお娯しみだが、にしても『虚栄の市』のド真ん中ッぽい場所へと≪グロテスク≫がちん入してくるには、わりと大いなる必然性があるかのようだ。
つまり、『死を想え、メメント・モリ』とでもいうような…? そうして、『排除されたものの“回帰”』というところまでをちゃんと描いていることが、今作のすぐれた…一本調子に終わってないところなのか。かつ、≪ギャグまんが≫というものが一般には"low"な世界のロウなイベントらを描きがちということに対して、今作はハイソでセレブな世界に"low"な事物がわき出している。そこらにひと工夫が?

ところでだが、りぼん作家としてのちなみセンセの大センパイたる一条ゆかり先生。そのきょくたんに高まった1970'sの大名作ら(「デザイナー」, 「砂の城」)は、さいごその『排除されたものの“回帰”』によって、浮かれていたヒロインらが没落するようなお話だったとして。
しかし一条センセの後年の作たる「有閑倶楽部」(1981)ではそうした展開がなくなり、ただもうだらだらと『虚栄の市』が続いてるばかり(!?)。けれども作中、殺人事件などの発生や幽霊の出没といったイベントによって、その世界には『排除されたもの』らの影がさしている。ああ…『セレブ』の世界のまばゆさと、その一方の影の深さ…あはっ、苦笑っ!

申し訳ないが筆者はこの堕文の参考にと「有閑」をちょっこし読み返して、ついつい『苦笑』という反応を返してしまったのだった。で、ここまでの堕文により、『きょくたんな美と才知と力と富』およびその乱費乱用を描く2作、すなわち「有閑」と「HIGH SCORE」との間に、性格の重なりがあることは明らかだとして。
そしてその「有閑」の『苦笑』的なところをストレートなこっけいと≪グロテスク≫に変換しつつ、かわいげある限りに仕上げているのが、今作のなしていることなのか。…のような見方をここに示して、いったん終わる。今作については、いずれまた語ることがあろう。

2010/03/15

ながいけん「神聖モテモテ王国」 - 体は疲れているのに妙に脳が

ながいけん
「神聖モテモテ王国」
 
参考リンク:Wikipedia「神聖モテモテ王国」

たったいま調べてみたらこの「神聖モテモテ王国」は、完結はしていない作品だそうで。1996年から2000年まで断続的に少年サンデーに掲載、少年サンデーコミックス版は第6巻まで刊行。
さてこのような作品が『ある』とはむかしから知ってたのだが、読んでみようかという気を起こしてしまった理由は、田丸浩史センセがこれ等の、ながいけん先生のお作群を大絶賛されてたからだ(田丸「レイモンド」第1巻, p.59)。で、この先生のご著書を捜してるんだけど、いまだ今作の1,2,5巻しか手元にない。売ってないんだもん。
…と書いていたのは昨2009年のことで、追って現在までに「チャッピーとゆかいな下僕たち」の新装版(2004, 大都社)はめっけた。でもそれについては、そっちの項目で語るとして。

で、「神聖モテモテ王国」について、そこまで読んだ限りでの寸評だが。

主人公らしきボーズ頭にメガネに学生服の少年15歳は、≪ファーザー≫を名のるひじょうに奇妙なおっさんとアパートで2人暮らし。何が奇妙と言って、そのおっさんの姿が≪ギレン・ザビ≫を崩したような軍服とマント、そして下半身は白ブリーフいっちょに裸足。しかも、耳があるところにへんなツノが生えており…ときては、奇妙だとしか!
そしてファーザーは少年を≪オンナスキー君≫と呼び、自分の息子であるかのように言い、そして2人で『神聖モテモテ王国』なるものを建国しようとか言う。それは、『ナオンと彼等だけの蜜あふるる約束の地』だとか何だとか。
そうして彼らは、ファーザーの珍アイデアにもとづくナンパ実践にはげむのだが。しかし、いっこうにナオンが釣れないばかりか、通報されて終わりとか、巻き込まれたヤクザや不良にボコられて終わりとか、いつもそんなケツ末ばっか!

ところでこのシチュエーションが何かおかしいわけだが、実は少年は記憶の一部を失っていて、そこらの治療のために通院中だったりする。そしてファーザーは実の父ではないらしいのだが、しかしほんとうの家族がどうしているのかは分からない。
なので。今作の中身は、≪不条理ギャグ≫というのとも異なる感じのドタバタ劇だが、しかしその内容以前のシチュエーションの部分に、≪不条理≫なふんいきがある。知らぬことだが今作のラストというものがあったなら、そこでそのなぞが明らかになってるのやも知れぬ。

にしてもこの少年が、自分の名前や身元さえもハッキリせぬ心細い身の上なのに、しかしファーザーの提案する『ナンパ実践にはけっこう乗り気である』というトコが、ふしぎというのか、人の性欲のものすごさというのか、あたかも安いRPGのヒーローみたいなおきらくさというのか!
あとついでに申して、いくら何でも『ナオン』は死語すぎではッ? 1970'sの『週刊プレイボーイ』とかに出てた語じゃねーか…と思うのだが、しかしファーザー様の青春時代の用語ではあるのやも。

かつまた。われらのファーザーは、現在の先進国らで支配的な≪代議制民主政治≫という制度に異を唱え、≪開明的専制政治≫として彼の王国に(いずれ)君臨し統治する気がマンマンのようだが。
しかし、『開明的独裁は必ずや、単なる独裁暴政に堕す』という格言の正しさは、ファーザーの行状を見ていればおのずと明らかでしかないっ。
が、そうかと言っても現に存在している代議制民主政治とやらの姿のみすぼらしさが、ファーザーが自分と自分の一人芝居で激論を交わしてる戯画と、何ら選ぶところがない。というところで意外にこれが、社会風刺的な作品であるのやも?

とまで、説明をしてきたが。なるほど田丸センセがHOTに指摘されている、ながいけん先生の『言語感覚のスゴさ』、それは大いに今作へと認められる。
その例をどこからもってきたらいいか…逆に分からないほどだが、1つ引用しとけば。

 『泣かぬなら 雨ニモ負ケズ ホトトギス
 僕の前に道はないから じっと
 手を見る カラダ記念日』(第2巻, p.77)

芸術の秋、詩人はモテるのでは…と思いついたファーザーは≪詩人ガーZ≫と号して、ヘンな詩を口ずさみながらナオンちゃんにつきまとって、しかしまいどのごとく轟沈するのだった。
うーん、ちょっとまた異なるところを見るべきだろうか…。では次に、名探偵はモテそうだと考えたファーザーがホームズっぽい扮装をきめながら、自分の名探偵ブリを示すべく、ナオンらに言う。

 『百人一首の 犯人は紀貫之。ザクの 犯人はシャア。
 デカン高原の 犯人は綿花。縄文時代の 犯人は、縄。』(第2巻, p.184)

とまぁ…。こんなでは、ながい先生の言語感覚のスゴさをご紹介できたような気がしないが。しかし筆者は、今作を見て思うのだった。確かにすごい要素が大いにあるけれど、でもそれが≪まんが≫としての面白さには、必ずしも帰結してないのでは、と。
≪ギャグ≫がどうこう以前に、この作品には、『読んで笑うようなふんいき』が…まず読者らの心がゆるむようなふんいきが、なさすぎなのでは? 筆者だけかも知れないが、その全般の冷ややかな感じに入っていけないのだった。≪共感≫はギャグまんがのメインの要素ではないが、しかしそれがまず≪まんが≫である以上は必須だし。
つまりだ。すまぬことだが自分という読者の感覚は、ファーザーらの奇行を見てすなおにひきまくるナオンらの感覚に近いようなのだった(!)。

ところであんまり関係ないことだが、少年サンデー系列の若手・新人ギャグ作家らの単行本には、たまに高橋留美子先生によるすいせん文が載っている。これがいつもいいこと書いてあって、『留美子先生は読者としても超一流だな!』と、筆者をむしょうに感動させるのだった。
で、それがもったいなくも(?)、今作の第1巻にも出ているので、何かの記念に引用しておこう。

 ――― 『高橋留美子先生 大絶賛!?』(「神聖モテモテ王国」第1巻カバーそで)―――
『体は疲れているのに妙に脳がさえて眠れない時など特に良い。センス抜群のネームと、確かなストーリー展開が、快い笑いと脱力感を与えてくれ、いろんな事がどーでも良くなって心が癒されます。本当です』

この評言について、『センス抜群のネーム』は誰にも大いにうなづけることだが。しかしその『確かなストーリー展開』、とはどういうことだろうか?
今作はどうでもいいようなドタバタでまいど展開しつつ、しかし何らかのなぞへと遠廻しに迫っているような感じがなくもない…そのことだろうか? または毎回のファーザーの計画が『まったく必然的に失敗している』という、そのことが『確かなストーリー展開』なのだろうか?
そこらでわれらが留美子先生の真意はよく分からないのだが、しかし筆者としては、『これを機会に、ギャグまんがにおける≪ストーリー≫概念を再検討してみそ』、という啓示を拝領した気分なのだった。

2010/03/01

坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味

Mid 1990'sの少年マガジン系のギャグまんが。この作品は大まかに言って、第1巻の前半が1P単位のショート形式で、それ以外はけっこう長いお話になっている(KC少年マガジン, 全2巻)。
事情がよく分からないが、ショートであるところは週刊少年マガジン掲載で、それ以外は月刊のマガジンスペシャル掲載だったらしい。比較すれば、ショート形式の方がテンポがあって読みやすいように思う。まんがに限らず≪展開≫のある芸術作品には、内容よりも展開自体のリズム感を味わうというところがある…そこらで。

で、≪愛鏡学園≫という舞台を中心に、主におかしな女生徒らの活躍を描いている感じの今作。手段を選ばずあざと~い蓄財にはげむ≪サチコ≫、そのサチコの金儲けに利用されまくるグラマーなお人よしの先パイ≪ケイコ≫、校庭の花壇にマンドラゴラを植えているオカルト少女の≪あんり≫、と、いろいろな女の子が出てくるが。
そしてその中で筆者が特に興味をひかれたのは、≪二人羽織の香(かおり)≫という少女の物語なのだった。以下、そこらを見ていくと。

『容姿端麗 頭脳明晰(中略)みんなの人気者』(第1巻, p.149)と評判の≪奥野香≫16歳は、『ある朝目覚めると 二人羽織になっていた…』(第1巻, p.5)と、今シリーズはカフカ的に始まっている。つまり特大のドテラみたいのを羽織った状態で、香の背後に隠れている人物が、そのソデから手を出している。
その状態に気づいた香はふつうにビックリし、『なにこれー やーっ!!』と叫ぶ。しかし、次に振り向いて時計を見ると、『遅刻しちゃう 急がなきゃ…』と言って、彼女はその状態のまま身支度を始める(!)。
まずは洗面台に向かい、手の甲が毛深い二人羽織の≪後ろのヒト≫に向かって、『右右… ちょい左』などとコーチングしながら歯を磨く。そしてだんだんに作業効率が上がってくると、『でも こりゃ 便利だな』などと思ったり(!)。

しかし続いて後ろのヒトは、頼まれもせぬのにシェービングフォームとカミソリを使おうとし始める。そこで香は『ちょっと ヒゲなんか ないよー』と叫び、そして足をバタつかせ、けんめいに背後を見ようとする。いまさら的だが、『だれよ 一体!?』と、後ろのヒトの正体をただす。
すると後ろのヒトはトランクスをはいたケツを、左手でボリボリとかいている。そこらで香は何かをさとり、『あ! お父さん! お父さんでしょ』…とは言うが、後ろのヒトは無言のままだ。

これを最初のエピソードとして、何とずぅ~っとそのままで、二人羽織の状態で、香の生活は続くのだった(!)。そしてあくまでも正体は謎のままでありながら≪後ろのヒト≫は、香にかかってきたオトコからの電話をジャマしたり、彼女がハデな下着を買うことを阻止したり、デートごときはとうぜんのよーにブチ壊したり、と、父親チックに香の行動をチェキる。
かと思うと後ろのヒトは、人命救助のために火事場へ飛び込んだり、香を襲った悪ものらを軽くブチのめしたり…と、オトコ気(?)のあるところも見せる。かと思うと、香の下着姿を写真に撮って賞金目当てに雑誌へ投稿したり、またあるいは、香をねらったチカン野郎に自分のケツを触らせて愉しんだり…と、ヘンタイ的なところも見せる。

というこの2人のこの状態は、何を意味してるのであろうか? まず香から見て≪後ろのヒト≫の性格は、『不可視』・『保護的(父性的)』・『規範的』・『スケベ(性的)』…となるわけで、それにジャストで相当するような記号を、精神分析は≪ファルス(象徴化されたペニス)≫、と呼んでいる。
かくて。ふつうの子らがリモートでなされている、父っぽい存在…≪父性記号≫からのソフトなコントロールを、香は超ダイレクトで超ハードに!…こうむっているのかと見れる。とまでは、まったく確かなこととして。

では…と、意外な設問をするかのようだが。逆に後ろのヒトから見ての香とは、どのような存在なのだろうか? それへの答が、再び『≪ファルス≫である』…というのが、われながらひじょうに恥ずかしく申し上げにくい感じだ。ただし、このたびのはものが異なる。

まず、主体に対して父性的なものとしての≪ファルス≫を≪象徴的なファルス≫とでも言う。そして香から見ての後ろのヒトは、それチックに振るまっている…と、われわれはさきに見た。
その一方で、主体が母の中にあるかと思い込んでる≪ファルス≫というものがあり、こっちを≪想像的なファルス≫と呼ぶ。母はじっさいにはペニスを持たないわけだが、幼児らはその存在を『想像』するのだ。で、それがないという事実を仮そめにも受け入れる、というのが人間らの源初の≪外傷≫だ。
しかし主体は、『母(および女性ら)には、ペニスがない=“去勢”をこうむっている』…という想念を完全に受け入れることはできず、何とか想像的に、その取戻しをはかる。

そしてびっくりだが、父親から見ての娘という存在が、その≪想像的なファルス≫でありうるのだ。別に小津映画でなくたって、娘をヨメに出す父親の異様~に深い哀しみ、ということは知られている。それはどういう哀しみかというと、またもやの≪去勢≫をこうむって、≪想像的なファルス≫の存在しなさをつきつけられる哀しみだ…と筆者は見ているのだ。そうして二人羽織の後ろのヒトは、自らの前面に香を構え、そしてそれを屹立した≪ファルス≫として、人々の前につき出しているのだった。

――― ラカン「ファルスの意味作用」(1958)より ―――
『すなわち、ファルスがシニフィアンの機能にまで止揚されて(aufgehoben)いるかぎりで、ファルスが果たすことのできる役割とは覆い隠された役割でしかない、つまり、ファルスは、意味作用の可能なすべてのものがそれによって刻印を押されているような潜在性の記号そのものとしてしか、自らの役割を果たすことができないのである』(原著"Ecrits", 1966, p.692, 訳・川崎惣一)

ところでだ、『娘が、父から見ての、≪想像的なファルス≫である』という状態は、どうしようもなくあることだが、それで完全に正しい…ということではなかろう。いずれ娘は父から離れていくものだし、そのゆくゆくの別離を前提とした関係がなければならないのでは?
そして後ろのヒトが父だとすれば、その適切な距離の取り方ができていないわけだ。または、二人羽織の内側にズッポリと隠れて…という彼のポジショニングが、≪ファルス≫というしろものの『覆い隠された役割』というラカンちゃまのみことばを、超表面的に受けとりすぎなのだ。ゆえに彼の存在の仕方は、われわれの見たまんまに喜劇的なのだ。

だが、そうと言っても、後ろの人の正体が香の父で確定…というわけではないのだった(!)。後ろのヒトがいつものよーに活躍している最中に父から電話がかかってきて、『今月には出張から帰ってくる』と言ったと、電話を受けた香の母が言うのだった(第1巻, p.171)。
それを聞いて香は『きゃー』!とおどろき叫び、『じゃ 後ろの人は 誰なのよォ』…と言ってパニクるのだったが。しかし今作の中でその正体は明かされておらず、『ナゾを残して 話は終わる』…とナレーションが入る中、後ろのヒトはヘンな汗をカキながら、ポリポリと頭をかいているばかりなのだった。

【ご注意】  『娘は父親の(想像的)ファルスである』という主張について、あまり確かな裏づけがない。ラカンが何かのセミネールで『(「ハムレット」の)オフェーリアはファルスである』と述べているらしいが、あるいはそれがそうかも? 現状ではそれを、筆者の私見と受けとられたい。

久喜青葉「アホアホ学園」 - すべては埼玉に還る、新芝川を超えて

 
参考リンク:Chakuwiki「久喜市」

Mid 1990'sの少年サンデー掲載のショートギャグ。埼玉の久喜市青葉に在住だったという作家が、『究極のアホ野郎』とも絶賛されるアホ界の超エリート≪“浦和”ヒロシ≫君の、ワールドワイドな活躍を描く。
これは、ニホンにおける、というか、『宇宙におけるアホの中心地は埼玉である』と宣言しているような作品か、という気もする。この時代から現在までのギャグまんがに、≪埼玉≫というキーワードが…。いつも何となく見え隠れしているような気もするのだけれど、あまり言い張る気もない。

そういえば筆者はこの本(少年サンデーコミックス, 全3巻)の、第1巻と第3巻を手に入れた後、第2巻を見つけることがなかなかできなかった。第1巻では『アホアホ学園』の生徒だったヒロシ君が、第3巻ではその教師として登場する(!)ので、その間の展開が大ぅい~に気になってたのに!
で、探したあげくにやっとそれがめっかったのは、川口の古書店にてだった。『やっぱり』…というわけで、埼玉から出たものはおのずと埼玉に還っていくらしかった。

しかもその、第2巻の内容ってのを見たら。ヒロシ君がたまにはうちに帰ろうかと思って学園を出たら、自分の実家の場所を思い出せず(!)、そして10年間もほっつき歩いている間に大人になってしまい、そして(卒業もしてないのに)アホアホ学園の教師として迎えられる、とは!
これがもち、≪ギャグ≫ではあるんだけど。かつ、われわれにおなじみの≪オイディプス神話≫のバリエーションにも他ならぬ、まったく≪外傷的≫なエピソードではある。テーバイから出たものはテーバイに還っていく。

そしてわれらのヒロシ君は、実家の場所も知らないくらいなので、両親のこともまた、よくは知らない。何せ、オイディプス君だけに。その彼が両親(らしき2人)にめぐりあうまでのお話がまた≪外傷的≫なので、ちょっとご紹介しとくと。
さいしょからやたらに『チンチンが小さい』という特徴をもつヒロシ君ではあったが、その活躍が過ぎたせいでとうとう、チンチンを完全にスリ減らし、女になってしまう(!)。するとかわいいのでアイドルとしてデビューし(デビュー曲『セクハラはやめて』)、大人気を博するが、しかし芸能生活のストレスがおっぱいにたまって、それがしまいには大爆発してしまう。
というところで、『アホアホ学園の海外分校でチンチンがゲットできるらしい』…という情報を頼りに、ヒロシ君らは≪自由の女神≫型の飛行機でエジプトらしき地に向かう(第3巻, p.93)。この自由の女神が、なぜか余興として空中でストリップを演じる…というのもまた意味ありげだし。
で、海外分校に到着し、そこで栽培しているチンチンの形をした『チンゲン菜』とゆうチン味を食すると…(中略)。そして男に戻ったらしきヒロシ君らの前に敵として、巨大な姿の海外分校の理事長が立ちはだかる。が、敵の背中にファスナーを見つけたヒロシ君がその着ぐるみを剥いでいくと、何重もの着ぐるみの下から最後に現れたのは1本のコケシだった。

 『理事長がチンチン… いや、コケシだったとは…!』

そしてそのコケシが、ヒロシ君にむかって『実は私はお前の… お前の父なんだ!!』と、打ち明けるのだった(第3巻, p.113-114)。そして父がこんなんだから、追って出てくる母も、あんまりまともではないということはご想像通りにて。…ただしこのエピソードでヒロシ君が、真の両親にめぐり会えたのかどうかは、誰にも分かったことではない。

もっと笑えるところをご紹介したかった気がするが、ともかくもかくのように、アホらしさのきわまり的な夢想譚が、どういうワケだか≪オイディプス神話≫のかたちを再現し、≪去勢≫のモチーフをしつこく再現し、そして主体にとっての決定的な≪シニフィアン≫である≪ファルス≫とのご対面…というクライマックスに導かれていく。
で、気がつかされることは、女の子が≪ファルス≫の所在をたずね歩く冒険談に比べると、男子によるそれは、びみょうにも軽みに乏しいということだ。

【付記】 上記の堕文は、例によって2009年の夏に書いていたものの再利用だが、われながらひじょうにキレがない。いつもだったら、もう少しましなことを書いていそう、という錯覚がある。たった3冊の本なのだから読み直して、もっとましなものとして再論したいが。
しかしこんどは自分の部屋の中で、今作「アホアホ学園」の単行本を見失っている(!)。いつのまにかそれは、またも埼玉へと還ってしまったのだろうか? なんて冗談はともかくも、それが見つかったら必ずどうにかしたい!

2010/02/27

うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」 - そんなには秘められてもいない『秘密』

 
参考リンク:Wikipedia「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」

ご存じの作家がMid 1990'sに世に問うた、その初連載作。そしてそれを『出世作』などと呼ぶもおろかで、いま調べたらこれのジャンプ・コミックス版・全7巻は、累計700万部以上を売り上げているとか(!)。超ミリオンセラー! さらにうわさだと連載中にいちど、ギャグでありながらジャンプの人気投票で1位を獲得したとか(!)。すごぉ~い! …等々と、ひとまず感心しておいて。

そしていきなりだが、今作の第1巻のカバーに描かれたヒーロー≪花中島マサル君≫の勇姿を、文字で記述してみれば。
まず背景は砂漠なのだが、しかし駐車禁止の標識や車のスクラップらしきものが埋まっていることから、実は未来の砂漠化したニホンの都市なのやも知れぬ。そこを独り往くわれらのヒーローは[逆三角形の体型]もカッコよく、『ステキカット』と呼ばれるそのヘアの[長~い前髪]もカッコよく、上の服は長袖Vネックの白Tシャツ(実は[紳士用肌着])で、ボトムはストレートの[ブルージーン]。シャツをキッチリとズボンに入れているので、キリリと締めた地味な[革ベルト]が見えている。
そしてオデコには[ゴーグル]をそうび、シューズはおそらく[ゴム長]、左上腕には[赤ッぽいスカーフ]を巻き、左手には[雨ガサ]と[トートバッグ]をもっている。そして右腕には、[丸めたゴザ]と[バラの花束]と[釣りざお]をかかえている。かつ腰には[虫カゴ]をブラ下げ、なおまた腰に結んだ[長いロープ]の先に[古タイヤ]を引きずっていて、さらに背中には[竹刀]と[大きな赤い旗]を背負っている。その旗に描かれた[テンコ盛りのゴハン]の絵は、彼が部長をつとめるご存じ『セクシーコマンドー部』の≪シンボル≫だ。そしてきわめつけとして彼の両肩には、本人が自分の『チャームポイント』と呼ぶ[ナゾの輪っか]がハマっている。

…というたいへんな眺めを見ちゃったわれわれは、すなおにそれへと驚いて、今作の題名どおり『すごいよ!!マサルさん』!…とでも、言わねばならないが。
そうしてただいまの描写の中に、いったい何個のあやしげなる≪シニフィアン≫(意味不明だが、みょうに意味ありげな記号)らが登場したことだろうか? いちおう自分で数えてみたら、少なくとも19個…? あれ?
そしてこれらの≪シニフィアン≫は、そのすべてが、まずは≪ファルス≫(象徴化されたペニス)をさし示すものだ。つまりそれらは『“シンボル”の≪シンボル≫』なのだ。

などと言っていて、自分でもおかしいしびっくりせざるをえない。だがしかし、そうだからしょうがない。
≪ファルス≫でなくとも、なにか性的なひみつ(の所在)がこの作品の全体にベッチョリと塗り込められている、ということにはどういう疑いもありえない。ここに現れている超大量のなぞめいた≪シニフィアン≫らのさしているのが『性的』なものだということまでは、ぜんぜん秘められていない。
何せ今作の登場人物らのはげんでいる格闘技(?)が、他ならぬ『“セクシー”コマンドー』だということくらいは、読んで読めなければなるまい。これ以上のことは、いずれ今作が再論されたときに明らかとされるだろう。いまは、ご紹介まで。

川島よしお「グルームパーティー」 - 新宿西口、メトロポリタン・ディルドー

 
参考リンク:Wikipedia「川島よしお」

Mid 1990'sから活躍中の4コマ作家の、デビュー作であり出世作(少年チャンピオン・コミックス, 全5巻)。まずこのシリーズの、表4のあおり文句がテンション高くていい感じなので、ちょっとご紹介しときたい。

 『4コママンガ不毛の時代に すい星のごとく現れた新鋭、
 川島よしお待望の初コミックス!!』(第1巻)

 『最良の4コマを 青年誌に求める時代は終わった!!(中略)
 これ読まずして4コマを語るなかれ!!』(第3巻)

…といういきおいは大いに買いながら、はて。このシリーズの第1巻の出た1996年は、『4コママンガ不毛の時代』だったっけ?…というのが、やや分からざるところ。
だが、その次の第3巻へのあおりを見てみると、言われた意味が多少は知れる。つまりあおっている人自身が『最良の4コマを 青年誌に求め』ていたが、しかしその期待が、このMid 1990'sには報われなくなったのだろう。

じっさいそれは、Late 1980'sには≪ギャグまんが≫全般の最先端でもあった青年誌の4コマが、もはや振るわなくなった、という時代ではあった感じ。かと言ってそれは、逆に少女誌の4コマがよかった時代では?…とも思うのだが、まあそれは別によい。

で、そのような時代に出た今作が、やってたのは『前向き』なことか?…というあたりが断言しがたい。あおり文句の文言に引っ張られているから逆にそう見えるのだが、そこで想定されていそうなLate 1980'sの青年誌の4コマの傑作…「傷だらけの天使たち」や「伝染るんです。」らがやったことを、今作は『先に進めて』いるだろうか?
むしろそれらがやり残したところを、異なるテイストで埋めてるくらいでは?…との気もしてくるのだった。ただし筆者は、この作品に盛り込まれている、その『異なるテイスト』を大いに愛するものではありながら。
で、その時代に、もう少し“イノヴェイティヴ”なことをやった作品らというと思い浮かぶのは、やはり「行け! 稲中卓球部」、「LET'S ぬぷぬぷっ」、そして「すごいよ!!マサルさん」、というあたりかと(少女系は除外して)。

…と、たったいま見たMid 1990'sのびみょうにも革新的だった傑作3本が、いずれも4コマ作品ではない(「ぬぷぬぷっ」には、多少4コマ要素があるが)、ということは偶然ではない。なぜって別に言いたくはないことだが、「伝染るんです。」よりも新しいスタイルの4コマは、いまだないと考えられるからだ。
で、これを言い切ると、≪ギャグまんが≫として有効なそれ以後の4コマ作品らの間の≪差異≫は、テイストや題材の違いのみ…ということになってしまうま(!)。そしてそうとはしても、やや超えてるかな…と感じられるその後の4コマ作品は、今21世紀の倉島圭「メグミックス」と氏家ト全「妹は思春期」くらいではッ?
で、世紀が変わってそうそうにその『プチ・ブレイクスルー』をやってみせた2作が、ともに『“女性”という存在、そのなぞ的性格、“女の欲望”とは何か?』、というところをテーマにしていることもまた、まったく偶然ではない。

…なんてかた苦しいことを言ってないで愉しめばよいのだし、そして今作は大いに愉しめる作品だとは認めながら。というか、いまパラパラと見ていたら『ひじょうによいなァ』とも感じた。
とまでを書いてからちょっと外へ買い物に出かけたら、途中の公園で4年生くらいの女の子が平気で(?)パンツを見せながら、登り棒を登っていた。別にロリコンではないはずだが、むしろミセスの方に興味があるくらいだが、しかし正直なところ、『この、“生”と呼ばれる煉獄の中にも、わずかには歓びが?』…と感じてしまッたことは厳秘にて。
そうして今作の一大フィーチャーが≪パンチラ≫という物件であり、特にその第1巻には、イヤというほどに出てくる。その中で筆者が特に好むネタを、1つご紹介いたす。

 ―― 川島よしお「グルームパーティー」, 第1巻, p.26より ――
『ビル風いやあああ あああん』と叫びながらお姉さんが、めくれてしまうスカートを押さえている。そして『ヒョオオ オオオ オオオォォォ…』と強風の吹きすさぶ音が聞こえつつ、視点がズズズズ…と後退していくと、新都庁の高層ビルがニョッキリと中空へそそり立っている。題して、『都庁物語』。

スズキとか青島とか石原とかいう連中が≪権力≫に託した≪欲望≫のそそり立ち、ニホンのパンクロックのザ・スターリン「電動こけし」(1980)という名曲は、西新宿の高層ビルらを『ソレ』に見立てたものだが、ほぼ同じことが艶笑ギャグとしてこっちには描かれている。そしてそのいわゆる『下ネタ』を≪艶笑≫などという古いことばで形容したくなるのは、この作者の強力に打ち出している『レトロ』なテイストゆえ。

…と、パンチラの話だけに終始も何なので、「グルームパーティー GLOOM PARTY」(ヴェルレーヌ「艶なる宴」に対抗して、『ウツなる宴』とでも訳すべきか)という今作の題名について。
ズバリ『グルームパーティー』と題されたネタがあり、ソレはチャブ台を囲んだ家族かと見れる3人が描かれて、父は大昔の学生らの集合写真を示し、『こいつは戦死した こいつは進駐軍に殺された こいつは餓死した』…などと言う。ツッパリ風なムスコも対抗して、不良だらけの卒業写真を示し、『こいつはバイクで死んだ こいつも事故って死んだ こいつはエイズで死んだ』…などと言う。そンな話を言ったり聞いたりしてはゲンナリしてるばかりの父子に、母はさいさい『やめなさいよ』と言うが…(第1巻, p.16)。

というわけでつまり『グルームパーティー』とは、おおむね『お通夜』のことかのようだ。カタカナ語にしてカッコよさげに粉飾はしてるけど、ギャグまんがの題名に『お通夜』とはハイパーだ…!
そしてゲンナリするしかないにもかかわらず、このおかしな父子は≪死≫または≪喪≫というものの味わいを反芻することを延々とやめられない。この状態をフロイト様っぽく言うと(?)、「喪とメランコリー」(1917)でありかつ≪反復強迫≫であり…なんつて!

なお、さいごに。筆者は今作中では≪さそりちゃん≫という奇妙なヒロインのシリーズが大好きで、『その話題を前に書いたはずだが』…と思ってさがしたら、ちょっと意外なところで紹介していた。
そんなのは構成としておかしいが、でもそのてきとうさが『ありかな』と錯覚したので(!)、それはそっちでいずれ日の目を見るだろう。ではまた!

2010/02/24

新山たかし「半熟忍法帳」 - 輪舞, セクハラと暴行致傷との!

 
参考リンク:Wikipedia「半熟忍法帳」

前に見た「ぱらのい屋劇場」のあろひろし先生に並び、こちらの新山たかし先生について、常に『読者にやさしい作品』を描いておられるなあ…ということを感じる。ご両家のお作のすべてを見ているわけではないけれど、それらについて、思い出したときにやさしい気持ちになれるような作品ばかりだ、とは言える。すばらしい。
ただし、まんがとはそういうものなのか、という疑問もある。大ヒット作とか歴史的名作とか言われるものらには、もっと読者を挑撥したり、急に途中で苦いものを呑ませてきたり、そして解けないような謎をしかけたりしている作品らの方が、ずっと多いのではなかろうか?

だからこのご両家は、まんが読者層に好かれているわりには人気がない(!)。その創作のベースの善意は必ず伝わっているのだが、しかしそれで熱狂的に愛されるということもなく、現在まで『そこそこ』で推移している。『いい人』としてスルーされている、というふんいきだ。
で、このようなポジションで成功されている作家はというと、それは「こち亀」の秋元治先生かと。特に『熱狂的に愛されるということもない』って感じなのだが、なぜかこの30年ばかりもジャンプの人気投票の中位をキープされているそうで。しかし筆者には「こち亀」がさっぱり分からないので、そのびみょうな人気の秘密も分からない。

ま、そんなことはともかくも。いまここでは、新山たかし先生の現在までの代表作と目される「半熟忍法帳」(ギャグ王コミックス, 全9巻)を見ていこうと。

さてこれの掲載誌が、当時のエニックス社の刊行による『月刊少年ギャグ王』(後に『GagOh!』)だったという話だが。すると≪ギャグまんが≫を愛するわれわれには、この誌名を見てるだけでも、想うところがいろいろと生じがち。
…だが、申し訳ないことに。実は筆者はこの媒体を、まったく見たことがないのだった(!)。中身どころか、その表紙(の実物)を見たことさえもない。いまもそうだが、まんが雑誌とかめったに見ない仔だったので。どのような媒体だったのだろうか…?

というあたりを、今作のカバー見返しや巻末にある『ギャグ王コミックス』のリストから臆測しようとするも。だがしかし、『何ンかパッとしてそーなタイトルが…チョッとねーな』、という想いしか浮かばない。かつ題名らを見てて、『そもそも“ギャグまんが”なの?』という疑惑、それを呼ぶようなものが目につきすぎ、とも指摘しつつ。
あげくに分かるのは、けっきょくは今作こそが、ニホンのまんが出版史に埋もれた『ギャグ王』という媒体を代表する作品なのだろう…ということだ。だいたい今作は『ギャグ王』の創刊から休刊までの約5年間、ずぅ~っと載ってた作品らしいし。そしてその全9巻というボリュームに匹敵するスケールの作品が、他にはないようだし(…池田匠「すすめ!! ダイナマン」というタイトルが、やや及ぶていど)。

ここでやや違うようなことも申すが、筆者の手もとに『comic GAGUDA』第2号というムックがある(2005, 東京漫画社)。約3年ほど前に下北沢の古書店で、確か105円で買ったものだ。で、これは約200Pにわたって≪ギャグまんが≫だけが載ってるスバラしぃ媒体…だと申したいのだが。
しかし通読してみたら、残念ながら笑えるところが1つもなかった。その内容をサブカルっぽいというにも、しかしヤングにグッと来るよーな要素がなさすぎでは、と…。いまでも出ていて、調子が上向きであるならば倖いだ。

かくて。われらが求めぬこともない、『ギャグまんが専門』の媒体…それっぽいのが2つ、あわせて失敗だか不成功だかに終わっている、という歴史的事実。その教えるところは、いったい≪何≫なのだろうか? まぁ2誌とも、『ギャグ専門だからマズった』というか、それ以前のところに何かあったようにも想いつつ。
ただ、1つ申せば。ギャグまんがというしろものに、『一般のまんがへと対抗している存在』との性格を見るとするなら、『ギャグまんが専門誌』は意外とよくないかも?…とは指摘いたしとく。ギャグと非ギャグの作品同士が、『お互いを引き立てあう効果』が失くなってしまうわけなので。

ま、そんなことはともかくも、「半熟忍法帳」の話をォォッ!

さぁてだが、『はじめてのおつかい』てのも重要なイベントではあろうけどしかし、男の子らにとっての『はじめてのエッチなまんが』、というモノもひじょうに重要だ。そこでうかつな作品を見てしまったら、とんでもない生涯の≪性癖≫が身につきかねないので…ッ!!
で、筆者の世代あたりの「ハレンチ学園」とか、追っての上村純子「ルナ先生」シリーズとかに続いて、この「半熟」を『はじめてのエッチなまんが』とした少年たちが…かっての少年たちが、わりと少なくないような話を聞く。…どうなのだろうか?

とまで言ってから初めて内容にふれるけど、今作は戦国っぽい時代の少女と少年ら4人が、見習い忍者として修行にはげんだり危険な任務に臨んだりしながら、たくましく育っていく姿を描く。根本的にはきわめて健全かつ前向きに、≪成長≫というテーマに取り組んでいる創作かと見れる。
しかし、これを表面的に見るならば。今作「半熟忍法帳」は、そこから≪セクハラ≫をとったら、その後に残るものがなさすぎ…というあっぱれな作品でもある。

…筆者は歴史をよく知らないのだが、かって戦国っぽい時代には、『セクハラ=善』だったのやも知れぬ。かつまた、みょうにかんたんに人が死ぬような時代には、≪生殖≫が大いなる美徳だったのやも知れぬ(←根本的には、常にまちがいない。客観的事実として、現代のニッポン人らは“生殖”に対して後ろ向きすぎ)。
だから…かどうかはあいまいにしておくが、今作の主人公≪雷太≫は、敵陣に潜入して逆に鉄砲隊の包囲をこうむっているような局面にて『さえも』、常にセクハラ発言の敢行に余念がない、かつためらいがない。と言うと何ンだかエラいよーな気もしてくるのだが、そしてそのセクハラの主な被害者であるヒロインの≪深雪≫は、細っこい身体にありえざる怪力の持ち主で、そのパワーにまかせたたいへんなお返しで雷太に応じる。

そうして、そこが今作の見どころだ(ッ!)。巻を追うごとに深雪によるお仕置きは超過激なるものと化し、よって雷太の身体の流血や骨折は、ごくごくふつうの≪日常≫の風景となる。
で、そのケガが次のページでもう治ってたりするのは、ギャグまんがの愉しいところとして。そしてこの≪セクハラ発言 vs. 暴力≫という応酬の大エスカレーションは、見てるこっちにもふしぎな高揚感をもたらす。

ところでセクハラと申しても、雷太は深雪に対し、えっとその…。たとえば『チチもませろ』、などと言ってはいない。むしろそれなら、深雪はオッケーなのだ(!)。それをそうじゃなく、深雪の胸がフラットすぎて『揉みようが ねえ』などとアマノジャクを言っているから、彼はキツぅぅ~いお仕置きをこうむっているのだ(第6巻, p.29)。
つまりほんとうはアツアツで相思相愛であるこのお2人さんは、≪性交≫という行為をやらざるために、要らぬ侮辱と激しい暴行をかましあっている。そしてその応酬を≪性交≫に替わるものとして、それぞれが大いに≪享楽≫しているのだ。

で、この2人に対して、見習い仲間の≪かすみと疾風(はやて)≫のカップルは、もっとふつう気味な男女交際をしているようなのだった。この≪差異≫は、なぜ生じるのか?(…それを『性格の問題』などと言っても、答にはならぬ!) 
筆者の思うに≪かすみと疾風≫に比し、深雪と雷太の方が…そのいわゆる、性欲が強いのではないかと。『性欲が強い』もバカっぽい表現だが、確かフロイト様もどこかで使ってらしたはず。やり始めたらとどまるところなさげという自覚があるので、そこを慎んで修行中の身である彼らは、≪性交≫に替わる≪享楽≫にはげんでいるのかなあ…と思うのだった。

よって。ここまでを見た上では何を今さらだが、われらが大フロイト博士の示されている、『“否定”は、肯定である』という正しいテーゼにより、『深雪には性的な魅力がない、なさすぎる』のような雷太の言表は、ソレとはまっったく正反対の気持ちを表している。
しかしこの少年は、自らの性欲を野放しにはしないために、真意の逆を言っているのだ。かくて、まったくがまんのなさそうなやつが、実は意外に大いなるがまんをしている…という、この事実は見とくべきだ!

だがしかし、そうだからそれでよし…と結論するにもためらいが、なくはない。てのも、『はじめてのエッチなまんが』として今作のようなものを受けとった少年らが、いずれセクハラの鉄人になったり≪M男クン≫になったり、というおそれがなしとはしないから…。とは、半分ジョークだがッ。
そしてここまでを見ては思うわけだが、誰が言い出したことばなのか『健康的なエロス』などというものは、どこかには実在するのだろうか? いやいやそうではなくて、多少なりとも不健康なところがあればこそ、エロスはエロスなのではなかろうか?
これにかかわることとしてラカンちゃまは、『性交の遂行について男子らの側に、女子への“おとしめ”という心的プロセスの必要性』的なことを言われている。すると雷太から深雪へのセクハラ暴言という挙動を、そこらから見ることも可能そうではある。

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 追憶のハイウェイ1919

 
関連記事:三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 入門! アシッド・マシーンになるために!

「LET'S」の記事が出たところで、ちょうど3年くらい前にも「ぬぷぬぷっ」にかかわる堕文を書いていたことを思い出した。多少は読みやすくなるように手を入れて、それをここに再掲させていただく。次のパラグラフから。

(前略)「LET'S」全9巻の半ばあたりに、『キョウザメちゃん』と名づけられたシリーズあり。そこでヒロインを演じるようち園児≪キョウザメちゃん≫の、本名は杏本朝芽(きょうもと・あさめ)。
しかし無シンケイで横柄で人々を興ざめさせる言動が大とくいなので、キョウザメちゃんの異名をもつ。何しろ眼つきのへんにするどい子で、その顔立ちは整っている方だが、まったくかわいげがない。

そしてある日、朝芽はママと連れだって、『ファミコンショップ』へ行く。朝芽がプレステを欲しがったからだ(…これは、Mid 1990'sのお話)。ちなみに朝芽のママは『元ミス日本』の超美人で、そしていまもその時の栄光に生きており(!)、よってふだんの姿がワンピースの水着の上にマントと黄金のティアラという、あのカッコ。
そのママが店員に向かって、『ファミコンのプレステください』と、いきなりトンチンカンなことを言う(…いそうだなあ、こういうおばさま)。そこで店員が当惑しているので、『プレステは ファミコンじゃ な』い…と訂正しようとする朝芽の口を素早くふさぎ、ママはコソコソと言う。

 ママ『(ヒソヒソ) ママだって 知ってるのよ それくらい‥‥』
 店員『私だって 知ってますよ』
 朝芽『‥‥‥‥』
 (三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第5巻, 1996, KC少年マガジン, p.108)

すんごくつまんない“読み”をご披露するようだけど、≪知≫とはある意味、このようなものだ。『知って』たからって何もえらくないし、それらは何も役に立たない。『あなたの知っていることは私も知っている』、『それは私も知っている』、このようなおしゃべりがループしているばかりなのだ。

 分析家『ようは、あなたはマザコンなんですよ』
 クライアント『“そんなこと”は私も知ってますよ。フロイトでしょ?』

このような≪精神分析≫は地球上にないはずだが、しかし人々が戯画として考える分析は、そのていどのものかも知れない。あたりまえだが、そんなおしゃべりだったら、やっててもまったくしょうがない。
むしろそのような≪知≫を棄てるための分析実践、でなければなるまい。かつ、“フロイト”を棄てるために『フロイトを読む』のでなければならない。
ああ、つまらない。まったく冗談ぬき、『キョウザメ・ファミリー』は大したものだ! その名に恥じない興ざめパワーのばくはつを、かくてわれわれは見たのだ。

…いまだ≪これ≫をご高覧しておられる方々が、絶対にいないとも限らないので話を少々続け、もう1本のネタをご紹介。

そうして美人のママと社長のパパとの間で、つけ上がった生活をエンジョイしていた朝芽だったが、追ってお話は急転直下! パパの会社がつぶれてしまい、借金に追われ、キョウザメ一家はどこかへと夜逃げするハメに。さいご朝芽との別れを惜しんでくれたのは、たった1人の親友≪よう子≫だけだった。
それから5年後、よう子は転校した先の小学校で、奇跡的に(?)朝芽と再会。ところが、運命の過酷さ…! つけ上がりきっていたその過去の雄姿はドコにもなく、いまや暗くてビンボーな朝芽は、クラスのひどいイジメの対象に(!)。しかも日ごろイジメられすぎな朝芽は、せっかく再会したかっての親友に対してさえも、態度がよそよそしいのだった。

そうしてよう子が朝芽をかばってあげようとしている日々の中、クラスの給食費の一部が行方不明に。人々はごくとうぜんのように(!)、証拠もないのに朝芽にギワクをかける。
続いて学校からの帰り道、よう子は朝芽に『盗ってないよね』と(確認の意味で?)問いかける。すると朝芽はキョウザメちゃんだけに、『いーんだよ 別に疑っても どうせ』…などと、投げやりなことを言う。

 『私は信じてるもん 朝芽ちゃんは 盗ってないよ』
 『ホントに そー思ってる?』
 『うんっ ぜったい』
 『そっか』

引用ダイアログのさいごのところで、珍しく朝芽がはればれとした微笑みを浮かべる。それでてっきり『いい話』かと思ったら(…そんなわけはないのだが)、その足で朝芽はファストフード店に寄って、そこで買ってきたハンバーガーの中の1つをよう子に手渡す。

 『何コレ‥』
 『友情のあかし』(←さっきからの『いい表情』を、絶賛キープ中)
 『(‥‥‥‥‥盗ってるじゃん)』(同書, p.113)

なるほどわれらのキョウザメちゃんは、『給食費を盗っていない』とは、一貫してひとことも言っていないのだった(感心)。かつ『盗ってる』とも言っていないが、でも盗ってるのか?…と、いったん受け取れば…。
そうして盗っていることを自分は『知って』いるが、しかし朝芽の無実で無垢たることを信じている人が、この世に1人でもいて欲しい…とは、やはり思っているようなのだった。かくて人間は『知らないでいる人』を想定し、その存在をかてとして、自らの≪心理≫を構成する。

じっさいわれわれは、人々の『知らなさ』を無意識の前提として生きているはずだ。ささいなことでもいろいろと隠している(つもりな)わけで、それらの“すべて”を知っているのは、想定された存在≪大文字の他者≫だけ(のはず)だ。
ところがその『知らないはずの人』が、実は『知っている人』だと知ってしまった時の大ショック…! おそらくそれを、どなたもご存じでいらっしゃるはずなので、思い出してみていただきたい。

たとえばここで、わざとアホっぽい例を申すならば。男子中学生クンらは自分のエロ本コレクションの隠し方が完ぺきだと思い込んでいるが、しかし母親たちはそれを必ず発見ずみで、だが知らぬふりをしているのだ。
…と同様に(!?)、自分の娘らが≪大人へのステップ≫を1歩…2歩…など上がったりすると、母親たちは必ず何らかの徴候からそれを察してしまうとか。…しかし、ふつうは何も言わない。
で、まったく秘密が構成できていないにもかかわらず、隠しているつもりの側は隠していることを、ぞんぶんに愉しんでいる。そしてその『秘密』(と想定していること)をベースに、≪自我≫を構成する。

またご紹介の物語には、もっともっといろいろ別の解釈がありえて…。そもそもさいごによう子が『盗ってるじゃん』との認識にいたったのは、朝芽の想定内のことだったのかどうか?…が大問題だが、けれど実作からはそれを知りえない。
というかここで朝芽の真意がさっぱりつかめないことが、≪ギャグ≫形成への大きな要素になっているのだ。何もしなければ『よう子は朝芽を信じる』ですんでいたのに、しかしキョウザメちゃんは、それではすまさない。
あるいはさいごのシーンで、朝芽は本気で自分を無実だと信じ込んでいるのかも知れない(!)。いや、よう子がそう言うからには、そうなのかも…とか。
またあるいは。われわれの思ってた以上に朝芽が悪い子になり下がっていて、よう子を共犯者として引き込むために、≪分け前≫を手渡したのかも知れない(!)。何ということだろうか。

だいたいの話、ここでは『信じないか/信じるか』という2択の問いかけをはさんで、2人の認識が逆方向に走っている。よう子は≪友情≫を前提にして朝芽を『信じる』と訴えぬき、そのあげく『盗ってるじゃん』…との認識に至る。その逆に、朝芽は自分が『盗ってる』という前提を知りつつも(?)『信じる』ということばを聞いたので、よう子との間に≪友情≫があると知る。
そしてこれが朝芽には一種のフェアな成りゆき(?)に見えているのだが、しかし真相っぽいものを知ったと感じてショックを受け蒼ざめるよう子にとっては、それが成り立っていない。やっぱりわれらの≪キョウザメちゃん≫とキたら、『いい話』などはブチ壊さずにおれないヤツなのだろうか?
いやそれとも。われわれの知った限り、朝芽の容疑はひじょうに濃いようだけど≪状況証拠≫があるのみだ。ハンバーガーを買ったお金の出どころが、必ず盗まれた給食費だとは限らない。と、できれば考えたいところだが…。

ともかくこのたった1Pのエピソードの中には、確定していることがほとんどない。われわれは無意味なことらばかりをいろいろと知った上で、もろもろの分からなさの前にたじろぐのだ。
そうしてさいごに朝芽がよう子に手渡した≪友情のあかし≫こそ、もちろんわれわれの言う≪シニフィアン≫(意味ありげだが、意味不明きわまる記号)に他ならない。そのシニフィアンの出現は物語の決定的なモメントをかたち作っており、そして朝芽はそこへとはっきり≪友情≫の意味を込めたつもりなのに、しかしよう子とわれわれは、それを『それだけ』のものとは受け取れない。

しかもそのシニフィアンをなしているブツが≪ハンバーガー≫であることが、みょうにいま筆者を感心させている。できればご一緒に考えていただきたいのだが、もしそれをアンパンやメロンパンなどに置き換えてしまったら、お話の苦さカラさに対して甘さがミスマッチではなかろうか?
では、『ここでのハンバーガーとは何か?』…と言えば、それはいろいろな意味での≪肉≫だ。どん底に生きている朝芽自身の≪肉≫…あるいは≪肉≫としての朝芽自身、それを彼女は≪友情のあかし≫として、この世でたった1人の親友と信じたよう子へと差し出したのだ。
しかもその自分自身である≪肉≫を、朝芽は盗んだお金(?)で、よそから買い戻さねばならないのだ。ところがよう子の側においては、せっかくのそれを、すなおに喜んで受け取ることがむずかしいのだ。

まあともあれ朝芽が≪友情≫のあることを確認できたのだから、それでいいじゃないか…とでも言って終わりたくなってきた(!)。これを書くためにシリーズを再読して筆者は思ったのだが、朝芽という女の子がそこで『友情』という軽くないことばを口にしたことは、けっして悪ふざけなどではない…とは信じられる。まして日ごろろくなものを喰っていない朝芽が、まともそうな食べ物を他者へと手渡したことは、絶対に軽いことではない。
ところが朝芽が本気で≪友情≫を言う時、そしてその友情をかたちで示そうとする時、それらは逆に相手の構築している≪心理≫への脅威として働くのだ。意図に反して、向こうサイドの≪友情≫に揺さぶりをかましてしまうのだ。それこそがキョウザメちゃん一流の≪パロール≫、そのヒネリがさえわたっているところ(!?)なのだ。
(ご説明。“パロール parole”は『おしゃべり』という意味の仏語だが、分析用語としては『ヒトに向けて語り、かつ騙る実践』)

等々からして、このお話は…。『盗ってるのか否か?』ということを追及するミステリーもどきなどではとうぜんなくて。
朝芽という女の子が、一から十まで悪意で行動しているわけではないのに、ふしぎと必ず人を傷つけてしまう…『外傷的な≪他者≫の現前』を演じてしまう…このことの悲喜劇性を、今作は描いている。そしてそんなどうしょうもなく了解不可能な≪他者≫が存在することを“知って”、そしてその≪知≫の役に立たなさをも知って、しょうがなく(!?)われわれは、一連のことらを(無意識の過程で)≪ギャグ≫かと解し、そこへと笑いを返すのだ。

そうして三ツ森「LET'S」中の『キョウザメちゃん』シリーズは、ご紹介したエピソードの後、たったの2編(各1P)が続いて終わっている。エンディングらしいものも、何もないままに。しかもいま言った『2編』の内容があまりに悲惨すぎて、ご紹介したくない。
ああ…。キョウザメちゃんはそれからどーしたのか…と少し気にしていたら、このたび消息を発見。同じ作品の『保健室で設楽(したら)先生』シリーズの中に、6年3組の『その他大勢』の1人として(よう子とともに)、さいごの第9巻までチョコチョコっと出ているのだった。
が、別に『活躍』はしないし、相変わらずビンボーそうだ。しかしこの時点ではもうイジメられていないみたいだし、そして何より、その後もず~っとよう子と仲がよさそうなことには、思わずほっとさせられたのだった。すると筆者もまた、朝芽が生のどん底で口にした『友情』のことばを、その示した≪シニフィアン≫の前向きな方の意味を、(よう子とともに)信じたかったようなのだった(後略)。

…というところで、旧稿の再録は終わり。ここから以下は、2010年現在の補足。
ところで作家のファンの皆さまはご存じのように、「LET'S」に続いた三ツ森先生の「わんるーむ」(KC少年マガジン, 全3巻)にも、脇役でちらちらとその後の≪キョウザメちゃん≫が出演している。そしてそれを知らないで、上の旧稿は書かれている(!)。
筆者の話には、はっきり言ってこういう穴が多い。かと言って、成り立たない話にもなっていないところがふしぎなのだが。
そうして「わんるーむ」におけるキョウザメちゃんの姿がまた、ある意味で悲惨。『どうしてこの子はこうなのかなあ』…と感じさせるところが、いっこうに変わっていない。だがその話は、そっちの作品を主題にしたときに!

2010/02/23

古谷実「行け! 稲中卓球部」 - 罪と罰、バターとマーガリン

 
参考リンク:Wikipedia「行け! 稲中卓球部」

この作品いわゆる「稲中(イナチュー)」は、歴史的に見たら『青年誌のギャグまんがは、4コマが面白い』…みたいな空気の時代が6~7年も続いた後に、異なるものを示して1つのブレイクスルーを達成した作品だと言える(ヤンマガKCスペシャル, 全13巻)。ポスト・バブル時代のふんいきを映した作品だとも言えて、ニホン人のみっともない顔が平気でリアルに描かれ、そしてカッコよくはない地方都市の中学生たちの生理と生態が、平気でビシビシと活写されている。毛はもう生えたが、いまだムケてはいない…的なそれが。

ただしちゃんとした≪ギャグまんが≫の作品として今作は、単にそこらへの≪共感≫をあおっているのではない。飛躍してるとこがある。
どうしょうもなくある≪もの≫が、そこにて読者へとつきつけられている。初期のエピソードで筆者に印象的だったものを、1つご紹介。

ボーズ頭でチンチクリンでむっつりスケベの≪田中≫が卓球部の部費を盗むのを、毛むくじゃらの大男だが心やさしい≪田辺クン≫が目撃する。何か理由があるのでは…と考えて田辺クンが田中の後をつけると、テキはスーパーで“何か”を大量に買い込んで路地の奥に向かう。
するとたくさんの野良イヌ・野良ネコらが集まってきて、田中は“何か”エサっぽぃものをかれらに与えるカマエに。それを見た田辺クンは、このどーぶつらを養うために田中は部費に手をつけたのかと考えて感動する。そして、『それにくらべて 僕は』ッ!…と自責の涙にくれながら、その場から走り去るのだが。

しかし田中はその場にて、いま買い込んできた大量のブツ…バターやマーガリンを自分の局部らに塗ッたくッて、それをケモノらに『ペロペロ ピチャクチャ』と舐めさせて、悦びにその顔を歪めつつ、『はあ はあ はあ はあ』…と≪享楽≫をむさぼるのだった(!)。やがて田中のゼッチョーの叫びと田辺クンのむせび泣きとが、『ああああ ああぁぁー!』と、空間を越えて妙なるハーモニーを奏でるのだった。
…字では伝えにくいところだが、その決定的場面での田中のポーズと表情が洋ものポルノの女優ばりの、オーバーアクション気味な悩ましさで…(!?)。それが、また、このエピソードの衝撃性をいや増しているのだ。

そして翌日、田辺クンは田中の罪をかぶって自分が部費を盗んだかのように部員らに打ち明け、『どんな罰でも 受けるよ』と言う。これを彼は、『田中君を ケーベツした(自分への)罰さ』…と考えている。
するとふつうに彼は仲間らに超ボコられ、真犯人の田中にまで暴行を喰らって(!)、そしてボロッボロの状態で路地裏に『ドサ』、と棄てられる。そして彼はそこに小さなスミレの花を見つけ、血まみれで路上に伏したまま手を伸ばし、それを両手で包むようにしながら、『き… きれいだなぁ…』とつぶやくのだった(第2巻, p.187, 『その23 友情』より)。

と、このように。ある者は自らの罪からひたすらに逃れ、またある者は自ら受罰を望む。そして同じような『路地裏』という場所に、ある者は≪享楽≫を見出し、またある者は護るべき『小さな花』を見出す。
激甚な苦しみによって田辺クンは、彼から田中への一方的くさい『友情』という『小さな花』をあがない、それを護りきったのだ。そしてこの一件が『勘定』として引き合っているのかどうかは、はたからはどうとも言えそうにない。
と、ひとまずはそういう話にしておいて。なおこの作品について独自の感想を聞かせてくれた、かっての同僚に感謝しつつ。ではまた。

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 入門! アシッド・マシーンになるために!

 
参考リンク:Wikipedia「LET'S ぬぷぬぷっ」

これぞ現代の「神聖喜劇」(ダンテ「神曲」)とばかりに(?)、≪ナンセンス≫とも呼ばれる地獄的な世界のあちらこちら、その多種多様なる眺望を経めぐっていく作品。それが、「LET'S ぬぷぬぷっ」(KC少年マガジン, 全9巻。自由なショート形式のオムニバス)。
そのもっとも凝縮されちゃったかたちにては、今シリーズを代表しているキャラクターである≪スシ猫くん≫が、ただ単に死ぬ。…死んで死んで死に続ける、その姿を単なる≪反復≫として描く。

すなわち。今作の第1巻カバー見返しの4コマは『クレー射撃ネコ』と題され、まずケージの内側の射撃手が『はいっ!!』と叫ぶと『カシャーン』という音がして、スシ猫くんが空中高くへと打ち上げられる。そして『パーン』と銃声が轟いたら、彼はバラバラになって色あざやかな臓モツを空中にブチまけながら、そのままの軌道を描いてどこかへ飛んでいく。そこへ再び、射撃手の『はいっ!!』という声が響く。
…というところでまんがはあっさりと終わりだが、そうしてまた次々と、射撃のまとをつとめる別のスシ猫くんたちが空中に打ち上げられ、そして次々に銃弾を浴び続け、死に続けるのだろう(…スシ猫くんとは『一にして多なる存在』であり、いくらでも代わりがいるらしい)。この≪反復≫には、原理的に終わるところがない。

ちょうど今作が世に出た1993年の世界を特徴づける、≪アシッドハウス・リバイバル≫という現象。その中で悪夢的な≪反復≫をしつように愚劣にはげしく遂行し続けた≪ハードアシッド≫の振るまいに同期しそれへと共振しつつ、今作は死とオーガズムの≪反復≫をあくなく描いている。
…学校の教室で、委員長選挙か何かの最中。黒板に向かっている1ピキの女生徒は、候補者らへの投票を、“正の字”ではなく“性”という漢字で集計している。よって黒板いっぱいに、“性”という漢字がビッシリと書きまくられている。
やがてこの異状に耐えかねた教師が、『バカモノー!! ふつうの“正”でかかんかー』と、彼女を叱るのだが。しかし女生徒は興奮に上気したキレイな顔を教師に見せながら、『ああ… いけない私を 殴って…』などと言うばかりだ(第1巻, p.44)。

ささやかにも≪権力≫の所在を定めようという“法”的な儀式のど真ん中に、≪享楽≫を求めてやまざるドロッドロの≪欲望≫が、1ピキの少女というかたちをとって現出している。そしてこのエピソードに限らず『少女-と-オキテ(校則)』のたわむれは…そしてそこに現前するドログチャの≪享楽≫は、今作の最重要モチーフの1つだ。まさに校則とは≪拘束≫に他ならず、そして少女らは≪拘束≫されてあることをぞんぶんに≪享楽≫する。

すなわち『買い食い』は禁止だ、と言われたら≪ネズミ小僧≫のような扮装をして『盗み喰い』に及び(第1巻, p.140)。またはトイレへの落書き禁止だと言われたら、誰も気づかなそうな和式便器の前部の内側に何かを書く(第1巻, p.174)。そして、便器を背負って仰向けになるような苦しい苦しい体勢をとってまで落書きをヤリおおせた少女は、『フフフ…』とマン足げにほくそ笑む。
その落書きを誰かが見るかどうかとか、何をそこに書いたのかとか…。そんなことらは彼女にはどうでもよくて。なされていることの主眼は、『オキテとのたわむれ』に他ならない。
さらにスゴぃのでは、『夏休み中 力士と ぶつかり稽古を してはならない』というアナーキー気味な校則が紹介され、そしてじっさいそれをヤッてる女生徒の姿が描かれている(第1巻, p.108)。そんなことはふつうに、禁止されているからこそなされているのだ…と考えざるをえぬ。かくて、それを守るにしろ破るにしろ『オキテとのたわむれ』は、彼女らにジュクジュクの≪享楽≫をもたらす。

そうして今作の題名中の『ぬぷぬぷっ』とは、ほぼあからさまに≪性交≫というものを暗示している語であり。そして再生産のための運動かとも見られる≪性交≫は、当事者らに≪享楽≫を供給しつつ、その≪享楽≫は同時に『個体の死』への予告でもある。
そしてそこにきざしている意味をうすうすとは感じながらも、どこからか聞こえてくる『LET'S ぬぷぬぷっ』という≪享楽≫への扇動…それへと従う時に、われわれは≪アシッド・マシーン≫のバカくさいひたすらな≪反復≫を模倣している。と同時に、機械さながらにうでの立つ射撃手の声が、『はいっ!!』、『はいっ!!』…とどこかで響き続けてることをも感じつつ。

かくて今作は、われわれのためにわれわれの姿を、きわめて正確に描いた作品に他ならない。すまぬことにずいぶん長い堕文を書いてしまったわけだがしかし、この驚くべき作品への賛辞としては、まだまだぜんぜん足りないッッ!!

2010/02/17

田村逍遥「先生あのね」 - 『毛づくりケーキ』、スイーツ!(笑)

 
参考リンク:tails-room「田村逍遥」

小学校の新米教師≪永井道典(ながい・みちのり)≫センセイと、彼のクラスのゆかいな子どもたちを描く4コマ・シリーズ全1巻(りぼんマスコットコミックス)。と、あらましをご紹介して、あとは好きかってな感想だけ記しておけば…。

これはほとんどの部分を掲載誌のりぼん(1995-2002)で読んでたのだが、童顔の永井センセが妻帯者だということが途中でいきなり発覚して、ずいぶんびっくりさせられた。そこで生徒の1人が『プロポーズの言葉って なんだったんですかー?』などと聞くので(p.116)、先生はいったんはぐらかすが、しょーがなしに教えるのだった。
さいしょキリッとした顔で『僕の妻になって くれないか…』と言った後、そしてナゼなのかポッと頬を赤らめて、『百歩譲って 養女でもいい!!』…と。

それと、この単行本には作家のデビュー作でもあるシリーズ「摩訶不思議」があわせて載っていて。その主人公たちはたぶん中学生で、自分としたらこっちの作品の方が好みかも知れない。
で、そのヒーローとヒロインたる≪つよし+けい子≫という兄妹、その2人のこんなエピソードが…(p.158, 『けい子とポニーテール』)。
シリーズ序盤ではロングだった髪の毛が、ショートボブになっているけい子。どうしたのかと親友の≪さつき≫が聞くと、けい子はジワ~と涙を流しながら事情を語る。
すなわち。たぶん前の日に兄のつよしが、『知ってるか? ポニーテールって 馬のしっぽっていう 意味なんだぜ』というフリの後、『もしかして… 肛門も?』と言い、ポニーに結われた妹の髪をグイとつかんで、背後から彼女の後頭部をチェキる。すると妹は、そこにはありもしない肛門を見られまいとしてもがき、『キャー!!』と叫ぶ。
…とまでの回想談を聞いたさつきは、何なのか『ガーン』と衝撃を強く受けて蒼ざめ、そして両目を大き~く見開いて『まさか…』と呟くのだった。という相手の反応を見たけい子は、こめかみに青スジを立てて『ないわよ』と言う。

このさい特に分析とかしないけど、兄のどうしょうもなきイチャモンをきっかけに、ありもせぬ部位に肛門があるかのような話になり、それを妹は隠さねばならなくなる。そして申すまでもないが、『まさか…』というリアクションがひじょうにいいところだ。

とまでを述べて思うのだが。単純に見た感じ、この「摩訶不思議」という作品は、黒ベタで描かれた学校の制服、主人公らしき兄妹の髪がまた真っ黒…という『黒さ』がきわだっている。りぼん掲載のギャグまんがはほとんど読んでいるけれど、画面がこんなに黒い作品は他にない(かつ今作は、『劇画タッチ』というのでもない)。
また、「摩訶不思議」ほどではないけれど、「先生あのね」にしてもじゅうぶんに黒い。ついでに申して、作家のペンネームが≪田村逍遥≫、そのデビュー作が「摩訶不思議」と、それらの字づらもひじょうに重い。で、それらの黒さと重さは、作中人物らの≪蒼い性≫のうっ屈を表して余すところがない、とも見れてくる。

書いていたらふと思い出した、次のようなネタもあった。「先生あのね」のヒロイン格の女児≪安藤奈津(あんどう・なつ)≫が、街で洋菓子店の『毛づくりケーキ』(!)という宣伝のぼりを見つける(p.125)。
それはもちろん、『手づくり』のまちがいだろう、と考えるのだが。しかしひじょうに気になったままで1年間、お店の人にそれを確かめることができない。
で、あまりはっきりも言えないことだが。女子も男子もうかつに≪オトナ≫になってしまったなら、何か『毛づくりケーキ』的なものを、喰わされるハメになるやも知れない。いやむしろ、大歓びでそれを食べるのかも知れない(!?)。そのことに対する少女の予感と≪不安≫がここには描かれている、と、われわれには読める。

≪毛≫という記号、その性的な記号に関連しては、「摩訶不思議」にも似たようなお話がある。けい子が自分のセーターのタグに、『毛100%』という文字を見つける。すると彼女は、

 『何の毛か ものすごく 気になる
 まだ鼻毛なら いい方だ』

…と、まったくらちもないことを考えるのだった(p.158)。

というわけで、日常的な展開の中に『摩訶不思議』が…。われわれの言う意味での≪不条理≫が、わりとかわゆいスタイルで侵入してくるという、この作者さまの作風。筆者はひじょうにいい、と思ったのだが。
しかしこの本が出た2001年あたりが、そのピークだったような現実はある。さいしょの方で今作を『全1巻』と申したが、実はそうじゃなく第2巻が出ていない。未刊分がだいぶあるのに。惜しいなあ…!

【付記】 今後いちいちおことわりしないが、これもまた、2009年の夏に書いていた堕文の再利用。しかし表題中の『スイーツ(笑)』という語はさいきん知ったばかりのもので、ついつい使ってみたかった(笑)。

2010/02/13

喜国雅彦「月光の囁き」 - 『変態記念日』のダイアリーから

 
参考リンク:Wikipedia「月光の囁き」

Yahooメールの『迷惑メール』フォルダをおもしろ半分に眺めていたら、次のようなサブジェクトが目についたのだった。

 『安心して。貴方が変態だってのは知ってますので。』

…まったく安心できませんってば! どうしてそれを…じゃなくて、根拠もないのに何を言われますのやら! あっはっはっ!
というわけであまりにもあせったので(!?)、そのメールは反射的にソッコーで削除してしまった。ゆえにその本文の内容は見ていないということが、ちと惜しかったような、別にそうでもないような…。

かくしてこの日が『変態記念日』となったので、そこでわれわれは変態ギャグまんがの第一人者こと、喜国雅彦センセのお作品を眺めようとしている。この作家サマの創作は、その初単行本「傷だらけの天使たち」(1987)の第1巻が出たころから見ているのだが…。
するとずいぶん長いつき合いになっているが、しかしいま話題にしようとしている「月光の囁き(ささやき)」(1994, 小学館文庫版・全4巻)は、ごくさいきん初めて読んだものだ。どうしてこれを放っておいたのか、という理由は特にないが、『あの喜国センセがシリアス作品なんて』、という気持ちがなかったような気はしない。

そう。今作こと「月光の囁き」は、喜国センセのお作としては唯一、ギャグではなくて『シリアス』な作品だとされているのだ。どういうものかというと、中学生という幼さでありながら早くも根っからの変質者として自覚し、そして『その道』をまっしぐらに突き進むヒーローの雄姿を描く。
ところが筆者は今作を見ていてしばしば、爆笑という反応を禁じえなかった、ということはお伝えしておこう。そしてその笑いとは、『たまにシリアスぶっても、まったくまいどの変態バナシしか描けてねーじゃねーか!』という、そのポイントをゆかいに感じてのものではある。

 『安心して。貴方が変態だってのは知ってますので。』

そういえば≪露出症≫というタイプの変質者に出くわしたときの対処として、『せせら笑ってあげるのが、よいのでは?』という意見も聞く。少なくとも、それを見せられた女性たちがすくみ上がったり『キャーッ!』と叫んだりしたのでは、彼らの期待を満たすことにはなろう。
そこで気の毒だが…というほど気の毒でもないが、彼たちの悦ぶことを阻止した方が、その後のためにはなるかも知れない。そして今作を眺めての筆者の笑いが、そうした笑いに似ていないとは思わない。

話を、今作の方に戻して。一般に男子中学生たるものとして、もしも『機会があれば』、今作に描かれているように、好きな女子のブルマーの匂いをかぐくらいの変態行為に出ることはあるのやも知れぬ(…筆者はやってません!)。

 『誰も知らない 僕と彼女の秘密。
 秘密の匂い、天使の聖なる芳香。』(第1巻, p.20-21の見開き大ゴマより)

けれどもびっくりなことに今作のヒーロー≪日高くん≫は、決して出来心でそんな挙に出ているのではない。彼はりっぱな確信犯、いわゆるところの≪真性≫なのだ。その若さにして、変態道いちずでまっしぐらなのだ。
『ノーマル』らしき異性間の交際が、彼にはまったく遂行しえない。それを愉しめない。ゆえにブルマーの持ち主の美少女≪紗月≫が向こうから告白してきたときに、彼は少なくともすぐには喜ばず、逆にそのとまどいの表情に、『レンブラント・ライティング』のドラマチックな陰影がかかる(!)。
しかもそのとき彼のポケットの中には、学校のトイレに細工して採取した紗月の尿(!)、それを詰めた小ビンが収まっておりつつ(第1巻, p.56)。という描写がりっぱなアイロニーでないとは思えなくて、またも筆者を大爆笑させながら。

とまでを見てから付言いたせば、のちの喜国センセに「日本一の男の魂」(1997)というギャグ作品があり。ボリューム的には、その諸作品の中で最大のものだが。
そこに登場する≪0013≫という諜報部員のキャラクターが、まるで日高くんの後日の姿のような超変質者なのだ。そしてその0013のキモすぎる言動を笑うという回路が脳内にできていれば、日高くんの挙動らもまた、笑いのネタにしか思えないのだった。

そうしてここらでつい思い出したのは、≪キャプテン翼≫とかその手のジャンプのヒーローたちがまた、『おれはサッカー(等)で死ねればそれでいいんだ!』などと、小中学生の若さにして覚悟しきったことを平気で申される。それらに並んでわれらの日高くんもまた、その道の早熟の英才として、猛然と活躍しておられるような。
で、このような日高くんにつきあってしまったために、やがて紗月も、りっぱな変質者になってしまう。いわゆる『Sの女王様』になってしまって、まともらしき性愛がまったくできなくなる…という風に、そのお話は運ぶ。紆余曲折はありながら、それで2人はうまくやっていくのだ。

 『安心して。貴方が変態だってのは知ってますので。』

ところで今作「月光の囁き」の発想のもとが谷崎潤一郎の、『耽美と悪魔主義』と形容された系列の作品だとは、作家サマの後書きにあることで(第4巻, p.308)。そして文庫版の解説を書いておられる先生方もまた、その『告白』をわりと素直に受けとっておられるようだが。
けれども筆者は谷崎研究が足りないせいなのだろうか(?)、むしろ今作について、それをザッヘル-マゾッホ「毛皮を着たヴィーナス」(1871)のパロディかのように受けとめた。そうしてそれを言い出すと、そもそも谷崎のそっち方面の創作からして、マゾッホ作品のパロディなのだ、という気もしてくる(!)。
そして。≪マゾヒズム≫の語源ともなった19世紀の文豪マゾッホ、彼が正しく描いてそのパロディ作品らが描いていないことは、『そんな変質者どものドリ~夢の実現はない』、ということだ。谷崎文学で言ったら「痴人の愛」が、わりと正しくそのへんを描いているように。
とはいえ「毛皮を着たヴィーナス」のヒロイン≪ワンダ≫の示したほどの残虐さ…真の残虐さとその崇高味を、追随者らの作品に見ることはできない。そのお話の結末、彼女がヒーローの≪ゼヴェリーン≫を徹底的に裏切って、結果的には彼を更生させた後、数年後にゼヴェリーンが受け取った手紙の結びを引用しておく。

 『あなたは私の鞭の下で健康を恢復(かいふく)したのではないかと思います。
 療法は残酷だけれど徹底的だったのです』(訳・種村季弘, 1983, 河出文庫, p.224)

2010/02/11

李學仁+王欣太「蒼天航路」 - 「三国志」関係のまんが その2

 
参考リンク:Wikipedia「蒼天航路」

シリーズにしようとしている「三国志」関連まんがのレビュー、横山「三国志」を第1弾として、続く第2弾(今記事)の題材が「蒼天航路」である理由。それはこの「蒼天航路」という作品が、横山「三国志」に対しての≪アンチテーゼ≫かのように読めてしょうがないので、という筆者の感じ方による。

すなわち。横山「三国志」の主人公が劉備玄徳であるに対し、「蒼天航路」の主人公は、その最大のライバルだった曹操孟徳。横山「三国志」が小説「三国志演義」をベースにしているに対し、「蒼天航路」のベースは陳寿の史書「三国志」。さらに表現のスタイルが『まんが的』に対して『劇画的』、発表媒体が『少年誌』に対しての『青年誌』。
そうして内容的なところでは、もしも横山「三国志」のそれを『偽善的』などと表現してみるならば、対しての「蒼天航路」は、あっぱれ『露悪的』、としか表現しようがない。いやむしろ、後者があまりにも露悪的なので、並べたら前者が偽善的にも見えてくる、というしくみだが。

と、こうも対照的なものが後発として登場したのでは、『アンチテーゼなのか』のように感じられてもしょうがないのでは? かつ、「三国志」関連のまんががひじょうに数ある中で、その筆頭たる横山「三国志」に対し、この「蒼天航路」ほどにまっこう『張り合って』いる作品は、他にないように見られる。というわけなので、あれの次にはこれか、と考えたのだった。

ところで『「蒼天航路」の(物語の)ベースは陳寿の史書「三国志」』、などと述べたが、きわめて限定的な意味でしかそれは申せまい。つまりお話の大まかな流れはそれに即しているとしても、史書にないエピソードを「蒼天航路」が描いていないということは、まったくなさげ。対する横山「三国志」があまり独自のエピソードを作っていないことと、これもまた対照的に。

さてここで、なぜか話は筆者のことになるのだが。以前に職場の同僚から、『あなたはやさしい人だ』と言われたことがある。言われてびっくりしたので反省してみたところ、確かに『やさしさ』のようなものを演じたことがあったようだが。
ただし筆者のそなえた『やさしさ』は、まず何よりも『自分にやさしい』(!)。そしてその『自分へのやさしさ』のおすそわけとして、ときどきわずかに『他者(ら)へのやさしさ』を発揮している、そればかりのもよう(…)。
と、何でこんな話をしたかというと、今作が主人公の敵として描いている劉備玄徳の人間像と、申したようなものである筆者と、びみょうにもキャラクターがかぶっているような気がしたからだ。

特にそれほどの実力がないにもかかわらず、妙に人望がある…という点で、横山「三国志」と今作と、劉備の人間像は一致している。そして『それはなぜか?』というところで、今作は独自の解釈を示している。
すなわち劉備をしたう人々は、『自分にやさしく人にもやさしく』という劉備の特徴に≪自分≫を、『自分の見たい自分』を見ているのだ。で、それへの対立軸である曹操は、『人にきびしく自分にもきびしく』をモットーに活動している、とも言えそうなのだった。
かといって今作「蒼天航路」の描いている曹操は、『ストイック』と言えるような人物では、まったくない。そういう意味での『自分へのきびしさ』はぜんぜんないのだが、しかし、ともかくも万事を『徹底的にやる』という超エネルギッシュな人物ではある。そこから見たなら、劉備のやることは万事が『ぬるい』のきわまりなのだった。

そして。ここまで来てからおかしい告白をするようだが、実は筆者は、今作こと「蒼天航路」全36巻(モーニングKC)を、さいごまで通読はしていない。どうしてかといえば、『きもち悪さが度を越したので、あるところから読めなくなった』というのが正直なところだ。
で、どこがそのポイントだったかというと、第20巻に収録の第227話。例の『長坂の戦い』で、曹操軍に追われ必死で敗走している劉備が、びっくりなことに馬車の中で側室らしき女性と性交している(!)、という場面。いやどうにもいま確認してみて、やはり『きもち悪さにもほどがある!』と感じたが。
ただしこの描写が意外にも、劉備を低劣な(だけの)人間として描いているわけではない。むしろそんなだけに、まあその『大物』であり、よって曹操への対抗軸の1つたりうる…と描いているようだが。しかしそうとはしても、『きもち悪い』という筆者の感じ方が変わらない。

かつ、きもち悪いというなら、もう1つ。今作は諸葛孔明について、初登場の時点で彼を、『房中術』とかそっちの方の達人として、きわめていやらしく描いている…これがまた、すまぬが筆者にはひじょうにきもち悪い。
そうしてこの手のきもち悪さ、要するに『“露悪的”にもほどがある』的な描写は、今作において枚挙にぜんぜんいとまがない。そしてそうしたきもち悪い描写らについて、とくだん史実上の根拠があるというわけでは『ない』。きもち悪いことを描きたいと考えた誰かが、きもち悪いことをねちねちと描いているのだ。そういうわけでは、『きもち悪いことを見たい人にはおすすめ!』、とでも申したくなってしまうが。

ただ、そのような今作のきもち悪さが『単なる』きもち悪さとしてカラ廻りしている、とも考えない。どうしてそれらのエピソードや画面らがひじょうにきもち悪いかというと、それらを見ている自分、『自分の見たくない自分』が、そこに描かれ見えてしまっているからだ。そしてその『見たくない自分を見る』ということが、またひじょうにできないことであり…!