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2010/11/01

施川ユウキ「サナギさん」 - ≪現実界≫でたわむれる子どもたち

施川ユウキ「サナギさん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「サナギさん」

施川ユウキ「サナギさん」は、2004年から2008年に週刊少年チャンピオンに掲載の、学園ほのぼの不条理4コマ。単行本は少年チャンピオン・コミックス全6巻。

これはまったくイベントも何もないような生活を送る女子中学生のヒロインらが、せめて口先だけでも面白いことが言えないかと、奇妙なことをがんばるシリーズ。別にめんみつに調べてはいないが、その作中、学園祭や体育祭ていどのイベントさえもなかった感じなのは、それまたちょっと奇妙な感じもしつつ。

1. ふたりなら、『チン』ができる!

で、その第1回でヒロイン≪サナギ≫は、『足りないモノを想像すること』という、あまりにも地味なことを、彼女の趣味として言い出す(第1巻, p.5)。たぶんそれは、つまり『わたしには“何”が足りないのか?』という問いの変奏でありそうに思えつつ。
そして思いついたのは、河童の頭のお皿が乾くと困るらしいので、そこにフタが足りないのでは、と。しかし『あ』、と考えなおして、『やっぱ ラップでいいや』と、そのアイディアを簡略化する。すると彼女のイメージしている河童はショックをうけ、『残り物の オカズみたい カッパ!』と叫ぶ。
そのアイディアが気に入ってサナギは、親友の≪マフユ≫にそれを打ち明ける。

【サナギ】 河童のお皿は ラップした方が いいよね?
【マフユ】 (…しばし考えた後、)そのまま 河童を「チン」 できるから?
【サナギ】 (ショックを受けて、)できない よ!
【マフユ】 (ぐっ、と力をこめて、)二人なら できるよ!
【サナギ】 (ショックを受けて、)そんな友情 嫌!

このようにサナギは、ちょっとうまいこと言ってマフユを感心させてやろうと、いつもつとめるのだが。しかしいつも、それより一枚上手なことを、マフユから返されてしまう。
事後的にいまのお話の流れを検討すると、『残り物のオカズ』という語が出た時点で、『チン』の発想までは、あとほんの一歩だ。しかしその一歩を、サナギはめったに踏み出せないし、逆にマフユは、その一歩にためらいがなさすぎる。

それに続き、『足りないモノ』というなら、地獄に比べて天国のイメージはばくぜんとしすぎていて、『“アミューズメント性”が足りないのでは』と、マフユが言い出す。
これがまた面白いところで、女子中学生2人の会話で、どうしていきなり死後の世界の話になるのかと。ただしずーっと見ていくと、マフユはいつもそんなことを言い出す子なのだ、ということは分かってくる。『どうして』への答にはなっていないが、彼女の発想はそうなのだ。

それでいくつか、そのアミューズメント性の提案がなされるがいまいち。そこで、『もっと自由な世界を想像した方が』…うんぬんとサナギが言う。
するとマフユは、またしばし考えた後で、『………… 「轢き逃げ天国」』と、ものすごいアイディアを出してくる。それを聞いてサナギは、『地獄絵図しか 浮かばない!!』と、またまたのショックをこうむるのだった。

かくて。『天国をもっと楽しくしよう』という企画会議なのに、主としてマフユの誘導により、しまいに2人は『地獄絵図』を想像して終わるはめになる。いつも今作はこれ的な展開で、特にイベントも何もない地味な生活を送る彼女らが、せめて想像の世界でゆかいに遊ぼうとすると、なぜか必ずろくでもない、悲惨や苦痛や汚辱のイメージらが浮上してきやがるのだ。

2. ≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなもの、だけど

ところで。『女子中学生で4コマ』というと筆者が思い出した先行作は、りぼん史上に残る名作、田辺真由美「まゆみ!」(1989)。ただし序盤すぎには高校に進学してしまうので、その初期に限ったお話で。
で、別に何もないような地味な生活を送っているのは変わらないけれど、しかし「まゆみ!」のヒロインには好きな人がいる。その男子の一挙一動を見ているだけで、毎日が超ドラマチックなのだ。彼女の心の中では。
しかしその男子(いとーくん)のふるまいが、いまいちイメージ通りの王子さまでない。たとえばの話、くしゃみをした拍子に鼻水を噴き出すようなこともしでかす。そこで彼女はショックをこうむる…というギャグになっている。
≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなものである、というわれわれのテーゼがそこで満たされる。けれどもヒロインのまゆみがタフな少女なので、意外にいとーくんが王子さまであることをやめない。

また一方、高校生のお話だが、同じりぼんで「まゆみ!」を追って出た空前の傑作、茶畑るり「へそで茶をわかす」(1992)。これは「サナギさん」のスタイルを先取りしているところがあって、そのヒロインが親友の少女を相手に、ことばの遊びに興じる局面が多い(*)。

茶畑るり「へそで茶をわかす」第1巻ただし異なるのは、「サナギさん」に存在するような暗さと閉塞感が、「へそ茶」にはまったくない。何しろ「へそ茶」のヒロイン≪ぐりこ≫は、それをやろうと考えたりする前に、いたるところでそくざに遊びを始める女の子なのだ。かなり意図的にそれをしていそうなサナギらとは違って。

――― 茶畑るり「へそで茶をわかす」より ―――
【ぐりこ】 まり 土曜日の時間割ってどうだっけ
【まり】 えーと、保健、芸術、数学ね
【ぐりこ】 保、芸、数か 何だか『保くんの芸の数々』って感じだよね
【まり】 保くんって誰

これあたり「サナギさん」にもちょっとありそうなお話なのだが、しかしテイストがぜんぜん違う。
ぐりこのことば遊びは、何もないところから『芸達者な保くん』という、ゆかいそうな人物を呼び出す。そしてわれわれは、特に面白くもない記号を変換して楽しさを生み出す、そのぐりこの妙技から歓ばしいショックをこうむるのだ。
そして、サナギにしたって意図するところは、そうしたことなのかと思われる。ところがいまいち彼女の発想にはキレがなく、そしてそれをフォローするマフユの発想はキレまくりで、何もなさそうなところからドカスカと、陰惨なものらを次々に呼び出しまくるのだ。

3. 生まれる前に、何をしていましたか?

とまでを見たところで、筆者がへりくつこきの悪癖を露呈。例の≪ラカンの理論≫と呼ばれるしろものの中に、≪現実的なもの(または現実界)≫と呼ばれる概念がある。これは説明しにくいというか、むしろ説明できないものだ。
というのも、現実的なものとは、『ことばでは言えない何か』なのだ。つまり人間の世界の主成分を『ことばで言えるもの』と見て、しかもさらにある『何か』、というわけだ。
で、ここでは細かくふれないが、この概念は、ラカンの精神病論において超重要。別に哲学でもポエムでもなく、分析理論は基本的には治療のための実用品、ということはいちおう強調しておいて。

そしてその現実的なものの顕れは、怖い、不気味、不安、といった印象を人に与える。『名づけえぬものの恐ろしさ』とこれを考えてよく、人々はそれの恐ろしさに耐ええずして、幽霊・妖怪・神霊のような名を、仮にそれへと与えたりもする。
いろいろ考えあわせていると現実界とは、ぜったい誰にも知りえない『出生前の世界』でもあり『死後の世界』でもある、そんな気もしてくる。現実的なものとは、出生する前の自分、死後の自分であるようにも思える。ただしラカンはそこまでのらんぼうな単純化をしていないようなので、それは参考意見として。

で、『顕れ』というにも現実的なものは、ものとして現れるということはない。ではどのように顕れるのかというと、人間らの言語活動(または記号活動)のすきまっぽい部位に、ちらちらと顔を出しやがるのだ。そして「サナギさん」作中のマフユの言語活動は、かなりそれを実現しちゃっているところがある。

――― 「サナギさん」第1巻より, 『眠れない時』(p.22) ―――
【サナギ】 フユちゃんは 夜眠れない時って どうしてる?
【マフユ】 色々パターンがあるけど…… 布団から 片足だけ出して
ふと誰かに 足首をつかまれそうな 気がして 慌てて引っ込める とか……
【サナギ】 (ショックを受けて、)こ…怖いよ!
【マフユ】 コレは 「足首を つかまれなかった パターン」だから 怖くないよ
【サナギ】 (大ショックを受けて、)「つかまれた パターン」 あるの!?
【マフユ】 いや ないけど

この、足首をつかんでくるかもしれない『誰か』が、まさに現実的なものの顕れだ。そしてマフユの想像の中で『さえも』、それは足首をつかんできたりはしない。ないにしたって、あまりにもなさすぎることなのだ。
なのにサナギはさいごのコマで、じっさいにつかまれたくらいの大ショックをこうむって涙ぐんでいる。

また。いまちょっとパラパラ見ていたら、お正月の書き初めにマフユが、『初 最後の晩餐』と書こうかな…というお話が目についた。それを聞いてサナギは例によってショックをこうむりつつ、『最後の晩餐が いくつもある前提…!?』と、首をかしげる(第1巻, p.58)。
まったくありはしないものだが、その『2回め以降の最後の晩餐』こそがまた、現実的なものが顕れている『言語活動のすきまっぽい部位』なのだ。

4. チャーリー・ブラウン -と- サナギさん

で、この作品「サナギさん」は、前途ありげでフレッシュな中学生しょくんが、みょうにダークでウツっぽいイメージにからまれまくって、しまいに頭をかかえるようなありさまを、超しつように描く。
ちなみにこの作品には、作中の実在する大人の姿は描かれない。そこはC.M.シュルツ「ピーナツ」(スヌーピー)シリーズばりの演出で、なぜかいろいろなことにくたびれ気味の子どもたちが描かれ、そして『童心』なんてものの存在が否定されている。
なお、これと並行でヤングチャンピオンに掲載されていた施川先生の「もずく、ウォーキング!」は、もっとストレートに「スヌーピー」へと張り合うような作品になっている。張り合えているかどうか、は別として。

なお、というならもうひとつ。今作「サナギさん」に先だった施川先生のシリーズ「がんばれ!! 酢めし疑獄」について筆者は、『“ファルスのシニフィアン”が出まくり!』という印象をもっている。特に、その初期について(ファルスのシニフィアンとは、勃起したペニスをさし示す記号)。
それに換わって今作は、『“現実的なもの”が顕れまくり!』となっているわけだ。かくて、ラカンの理論の2大おもしろワードの攻略成功という偉業を、施川ユウキ先生の作品系列に見つつ。

でもう、それこれのショックを『受け-流す』ためにわれわれは、ギャグまんがの描いている≪ギャグ≫に対して外傷的でけいれん的な笑いを返す…なんてことは、いままでもさんざんに書いてきたが。
にしても、じっさいにあれこれの怖いものらにおびえ暮らすわれわれにとって、この「サナギさん」の描くびみょうにかわいい少女と少年たちは、少なくとも相対的に『好ましい自己イメージ』ではあろう。だからわれわれは、この痛くて苦しい作品を愛読する。
かつまた、まったくうそだが『ほのぼの』というムードを全般に押し通しているのがうまい。というか、出だしのところに『ほのぼのムード』のあることが、その後に出てくる現実的なものによるショックを強めているわけだ。…とひとまずそこらまでを見て、「サナギさん」の話はぜひまたいずれ!

2010/03/12

施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - イヤだけど、現実しか存在しない

 
関連記事:施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - グッド・バイブレ~ションな、不安・不安・不安(!?)

≪われらの作家≫こと施川ユウキ先生が、どこだかで言ってらしたようなお説。『すべての物語は、潜在的には夢オチである』、とか何とか。もしもそういうものだとすれば、『夢解釈』ということを得意とするわれら精神分析の陣営が、≪物語≫らに対して黙っていられるわけがない。

ところで精神分析の夢解釈とは、『それもこれも性的な象徴なので、つまりあなたは性的欲求不満なのです』などといった、世間のイメージするようなくだらないものでは『ない』。

 ――― 久米田康治「さよなら絶望先生」, 第18集, 第177話より ―――
 『フロイトの 夢分析に よると 大抵の夢が
 性的欲求(リビドー) 不満の現れと されているのよ』

と、こんな適当なことを言っている≪智恵先生≫が学園のカウンセラーだそうなので、どうりで「絶望先生」作中の学校には、おかしい人間がひじょうに多いわけだ。そういう意味では、お話としてすじが通っている。
そもそも『性的欲求不満』と言ったら人間は“誰も”がそうなので、そんなことを指摘して『分析しました』なんて、バカなことを言っててもほんとうにつまらなすぎる。中学生ならいいけど、お互いもう大人なんだからさ!

さてここで筆者が大まかな見取りを示すと、精神分析の見方から、人間の夢とは次のような仕組みでできている。

◆比較的さいきんに主体が強い印象を受けたイベントやイメージが、『隠喩・喚喩』への変形をこうむりながら再現される。
◆かつそうやって再現されたものは、主体が無意識へと抑圧している幼時の≪外傷的≫な記憶が、遠廻しに再現されているものでもある。
◆かつ、夢の内容には、主体の(無意識の)願望を充足する要素が含まれている。『夢は願望充足である』の大テーゼは、必ず妥当する。
◆そして『なぜ人は夢をみるのか?』について1つの理由を言うと、それは『目ざめないため、もっと眠るため』だ。尿意の生じているときにトイレへ行く(行こうとする)夢をみるのは、それの分かりやすい例だ。筆者の体験だと、目ざまし時計が鳴っている時に、『セミの声がやたらうるさい』という夢を見たことがある。
◆ついでに。夢に出てくる長いものや棒状のものを、何でもかんでも『それはペニスの象徴です』、と言う。そのような精神分析の主張が紋切り型で失笑を買うわけだが、しかしその解釈がまちがっている、ということではない。われわれの解釈が紋切り型なのではなくて、夢みる人間らの発想が一般に紋切り型きわまるのだ。かつまた、正しく解釈すればいいというものでもなくて、それを『言う』タイミングが治療論の課題になる。

と、フロイトがそのような見通しを示した超名著「夢判断」(1900)の公刊から、すでに110年。その間に、脳生理学者やら何やらが別の方面から夢というものを研究して、何らかの成果を挙げているようだけど。が、そうかと言って、フロイトの理論が無効になったわけでもない。
つまり『レム睡眠のさいちゅうに脳波がウンヌン』、といった夢理論を皆さまも耳にしたことがおありだろうけれど、だがそれは別に、フロイトの夢解釈を無効にするようなものではない。それに対抗しているものですら、ない。同じ現象に対しての並行した記述がいくつかある、ただそれだけだ。いや、『同じ現象』を記述していると『さえ』も言えない。

すなわちあなたの気分や考えていることを、『脳波のざわめき』に還元するような主張もある。あなたがいまそこで生きているということを、ATPだかADPだかの代謝がなされている、とも言える。それらの主張も別にでたらめではなかろうが、しかし、『それ』があなただろうか?
つかみどころのない想念を何とかことばで表すより、脳波の波線の記録でも見たほうが客観的で『確か』なのだろうか? そしてそのように、現行の『科学』の守備範囲にあわせてものごとをスケールダウンして『理解』した気になる、そんなものが≪科学≫の営みなのだろうか? 別に筆者はセンチメンタリズムや実感信仰などから、これらを言っているのではない。

 ――― 2010年3月11日、icenerv(筆者)の、目ざめぎわの夢 ―――
朝7時、自分はいつもの職場で、検査器具を見たり利用者さまに声かけしたりと、いつもの仕事をしているつもりだ。そこへ遠くから女性の声で別の職員が、『iceさんは、鉄柱を見てくださーい!』と、業務上の指示を送ってくる。
鉄柱…? 鉄柱を見るとは、どんな仕事? 自分には分からないが、『とにかく行ってくださーい!』と、指示する声が重なる。
言われたとおり、ともかく自分は下の階へと向かおうとする。どこか下の階に、その鉄柱とやらはあるらしい。こうして通常の煩瑣な業務からしばし離れることになって、ややホッとしている気分もある。このどさくさまぎれに一休みできないかなと、ふらちな考えも脳裡をよぎる。
そうして自分が乗り込んだエレベーターには、OLらしき制服姿の女性がどこか上の階から先に乗っている。そして彼女は『もう、遅いわね!』と、かごの動きの遅さにいらだっている。…と、ここらで目がさめた。
(補足。夢の中では『いつも通り』のつもりだが、しかし『いつもの職場』ではないし、いつもの仕事ともだいぶ異なる)

ちょっと、解釈を。朝7時は自分のかっての職場で、早番の始業時刻だった。それに当たると5時半までに起床せねばならないし、人によるけど相棒の夜勤者は疲れてへんにイライラしてやがるしで、それが筆者は大きらいだった。
そのことがこの夢に関係していることは、かなりはっきりしている。かつ願望充足の要素がすなおに出ていることも、まったくご覧の通りにて(赤面)。

けれども≪鉄柱≫というものが何なのかは分からないし、OLっぽい女性の登場とそのせりふの意味も分からない。思い当たることがぜんぜんないでもないが、別にむりしてすぐに解釈をひねり出す必要はない。むしろ、解釈を急ぐことはひじょうによくない。
分からない要素がどうしても≪剰余≫として残るのが、夢解釈の『逆に』面白いところだし。かつそのなぞっぽい要素らは、多重の隠喩作用の向こうで、おそらく筆者が思い出したくもない≪外傷≫を示唆しているのだろう。
ここらにおきらくな自己分析の限界めいたところがありそうで、人間は思い出したくないことは思い出さないように努力を惜しまない。しかも、現に何かを深刻に病んでいるのでないとあれば、なおさらだ。

なお。あまり言い張らないのだが、≪鉄柱≫はとうぜん≪ファルス=勃起したペニス=父性的なもの≫を思わせる要素。そしてエレベーターは子宮と産道だとか、OL様は母親的なイメージだとか、そういうことは考えられなくない。
そういえば筆者が生まれるとき、母親は初産で、出産が予定日にはずいぶん遅れたらしいが。また、いちばんさいしょに出た≪検査器具≫にも、何か性的なイメージのような感じがありつつ。
どうであれ『自分が女性とエレベーターに同乗する』というイメージは、性交を示唆している要素という嫌疑が濃い。かつエレベーターの『下降』という現象は、倫理道徳的な意味での下降をも表すものだろう。
だから『遅いわね!』というせりふもまた、何か性的な意味に解釈されうる。別に言いたくはないのだが、いわゆる『遅漏』ということで女性から叱られたことはある。

とまでを見てから、話がいちばんさいしょまで戻り。そうは言っても≪物語≫が夢の一種であるとは、さまざまな前置きなしで言えることではない。そうだと言うにも、まずそれは“誰”がみている夢なのか?
その問いに対して『作者がみている夢』、という答には超0点を進呈せざるをえない。われわれの論議で、作者の心理とかはまったく問題にするところではない。
そうじゃなくて。広く共有された物語とは、『社会がみている夢』なのだ…という答は、大きな正解だと言いうる。正しい答だが、あまりにも大きい。

しかしながら、施川ユウキ先生のみことばを、また見直せば? 『すべての物語は、潜在的には夢オチである』とは、その物語のさいごで、お話の中の誰かが目ざめるということだろう。つまり作中人物の中の“誰か”が、その夢をみたのだ。

 ――― 施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」, 第5巻, 最終話より ―――
 『夢オチの物語が 好きだ。
 フィクションを フィクションと 潔く認めている所がいい。
 本当の現実主義(リアリズム)だ。
 全ての物語は 誰かに語られた時点で フィクションとなり
 それは 夢オチであるべき なんだ』(p.177)

おやおや。いまさらながらちゃんと確認してみたら、筆者の記憶とはぜんぜんイコールでない気もする。そもそもこれは作中人物のモノローグであって、ユウキ先生の語りではない。
かつまた異なるのは、『である』と『である“べき”』との差異だろう。われわれは作品の外側から『である』かと考え、「酢めし」の作中人物は物語の中で『である“べき”』と言っている。

 『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』(同書, p.183)

まったくそうなのだが、われわれはその逆に『夢オチの後の現実』の側からフィクションを語ることしかできない。言い換えて、≪語り=騙り≫という行為でフィクションを編み続けることしかできない。「酢めし」最終話の作中人物は、悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えているが、しかし『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』であるのだ。

ところで皆さまもご存じの、『胡蝶の夢』というお話がある。荘子が蝶になる夢をみて、夢の中では『自分は荘子である(であった)』などということは忘れて、楽しく舞い遊ぶ。ところが目ざめると、彼は荘子だ。そこで彼は、『自分が蝶になった夢をみていたのか、蝶である自分が荘子であることを夢みているのか、それは分からない』と結論するのだ(参考リンク:Wikipedia「胡蝶の夢」)。
そうしてこのお話について、誰かラカン系の大先達がするどく分析していたのだが、出典を思い出せなくて申し訳ない。…確かスラヴォイ・ジジェク様だったか、違ったか…?
ともあれその言うは、このような感じ。『そんな相対性は成り立っていない。荘子本人が正確に書いている通り、夢の中で蝶になった彼は、荘子ウンヌンもその生きていた環境もさっぱりと忘れている。ところが目ざめた荘子は夢の内容を憶えていて、それを(多少は)批判的に考察の対象にしている。目ざめている人間は“この現実は夢ではないのか?”と疑ったりするが、夢の中の主体は、そのようには考えない』。

筆者がここで自己反省してみると、夢というものの内容の合理性のなさに対して、夢の中で『これはふしぎだ』と考えていることはある。けれども『それは夢だからかなあ』と、そういうふうに夢の中で考えたことはないのだった。

そうすると、われらが見ている「酢めし疑獄」の1人のキャラクター。悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えている彼は、まったくもってそれ以上は目ざめようがないのだ。彼は彼の現実を生きており、われわれはわれわれの現実を生きている。

 『きっと全てが夢で 現実なんてどこにも 存在しないんだ』(同書, p.183)

…と彼は考えたいのだが、そうではない。『そういうふうに考えたい』というところから、彼にしろわれわれにしろ自分で自分を騙り、そしてその≪騙り=語り≫の存在さえをも忘れてしまうのだが。
ここではむしろ、『現実しか存在しない』(夢という要素を包んだ現実)、ということの前にわれわれは(彼とともに)おののいているのであって、そしてそのことのあまりな≪外傷性≫を、ギャグとして『受け-流す』のだ。何度も申すけど『まんがとは人間どもの無責任な想像を描くもの』、ではありつつ、その中でギャグまんがだけが≪外傷的≫な『ほんとうのこと』を、かろうじての方法で描き出しているのだ。

(さいごに、蛇足的な釈明。筆者もいちおう≪ラカン系≫を名のりたいものとして、『現実』という語には注意しなければならない。けれどもいろいろ考えて、文中ではそれを≪現実界 real≫ではなく、夢との対比で一般的な≪現実 reality≫として用いている)

2010/03/07

施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - グッド・バイブレ~ションな、不安・不安・不安(!?)

 
参考リンク:Wikipedia「がんばれ酢めし疑獄!!」

言語センスにきわめてすぐれた作者、または作画においてあまりちょっとアレな作者、である施川ユウキ先生のデビュー作(少年チャンピオンコミックス, 全5巻)、である今作「がんばれ酢めし疑獄!!」は、吉田戦車「伝染るんです。」(1989)以後の≪不条理4コマ≫として、1コのピークを作っている作品かと思う。
補足して申せば。「酢めし疑獄」を追って出た4コマの傑作シリーズ2つ、氏家ト全「妹は思春期」と倉島圭「メグミックス」らがその追求の方向性を変えているのに対し、「酢めし疑獄」は「伝染るんです。」へと、わりとダイレクトで張り合っているようなところがある。そのような勇敢なる創作として、これが筆者にはひじょうにすごいように感じられる。

そのどういうところが斬新だったかは、今作の第1巻のカバーへと大っぴらに出ている作例に、すでに表れているかと。さっきも申したが、その創作のキーは、画面の超シンプルさを補って大いにあまりある卓抜な言語センスだ。なので、まずそこから見ておくと。

 ――― 施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」, 第1巻(2000)カバーより ―――
晴天の北極上空に、赤いUFOが浮いている。以下、図柄は4コマすべて同じで、空中に浮いた吹き出しだけ異なる。また同書のp.97の同じ作品には、「侵略者」とサブタイトルあり。
…そのUFOの中の侵略者たちは待機中でヒマなので、『なんか 面白い話 ない?』などとおきらくなことを言っている。すると宇宙人の1匹が、『そーいや オレ最近 ヘンな所に ホクロできちゃってさー』と言う。
そこで『なんかの病気 じゃねーのか?』などと言いながら、そのホクロをチェキった他の2匹は、『ハハハハハ!!』と、大爆笑の発作に襲われまくる。ホクロのできている1匹が『笑うな!!』と抗議しても『ハハハハハ!!』と、いっこうに収まらない。
そしてその爆笑にまぎれて1匹が、『これで地球は 我々のモノ だぁ!!』と叫ぶ。ホクロの1匹はそれに、『関係 ねぇ!!』とツッコむ(完)。

と、その『ホクロ』というものが何かをきざしていそうな≪シニフィアン≫だということだけが確かで、他にはまったく、何もはっきりしない(…ラカン用語の≪シニフィアン≫とは、『意味ありげだが意味不明な記号』)。つまりそのホクロが≪何≫であるのか、かつ、なぜに彼らはそれを戦勝の予兆と見たのか。
かくしてわけの分からない、だが見たら爆笑必至らしきその≪シニフィアン≫の意味が、へんなところをふらふらと浮遊している。かつわれわれは地球人だから(あなたもですよね?)、エイリアンらによる地球侵略という話題には、多少ともいやな感じを覚える。
それこれのかきたてる≪不安≫が、読者においては受けとめようもなくて、もし可能ならば≪笑い≫へと変換されるのだ。という、『≪不安≫からの笑い』。

なお。今作についての堕文を書こうとしていた昨2009年の7月、筆者は≪不安≫から来ていそうな息苦しさの発作に襲われ、たまらず、午前2時に歩いて近くの総合病院を受診した。すると案の定レントゲンにも心電図にも異状がなくて、医師とナースから『この夜中に何もの?』みたいな目で見られたのはつらかった。
そこで筆者は、『何かこういうヒステリー系の、心身症状があるらしいじゃないですか?』…などと弁明してみたのだが、まったくむなしかった。ともかくも睡眠薬と精神安定剤を2日分処方されて帰り、さいわいそれきり症状はなくなった(薬も呑んでいない)。
そして数日後、その診療費を精算しに行ったら、支払いがぜんぶで5千円くらいにのぼったのだが。しかし『むしろ安かったな!』と感じたので、筆者の≪病≫はあったことだと思う。かつ、こんなにすなおなクライアントばかりだったら、病院はある意味で大助かりだろう…とまで言う気はないけれど!

で、その受診の直後に書いていた自分の文章から、あまり重くないところを引用しておくと。次のパラグラフから。

…こんなことらが、『喜劇』と見れるうちは幸いだ。別に筆者が申す『外傷的ギャグ』ではなくたって、笑いとは実は、命カラガラの実践なのではないか?
深夜の受診を決意する前、気がまぎれるかと思って、その前日の昼間に図書館から借りた長谷川町子「サザエさん」をパラ見してみた。するとその作者から『読者のみなさまへ』として、こんなことが書かれていた。

 ――― 長谷川町子「サザエさん」, 姉妹社版 第3巻へのまえがきより ―――
『(大いに笑える作品、という自負を込めて、)画きながら自分でふき出して了(しま)います。よろしい、これなら、お通夜の晩でもきっと笑って頂けます』
(朝日新聞社版「サザエさん」第2巻, 1994, p.49。掲載は、おそらく1947年)

…『火葬場の炎でイモを焼く』、とゆうよーな≪ギャグ≫かYO! わりに誰もが『健全なユーモア』があるかのよーに見てる「サザエさん」の方から、こンなドス黒いモノを喰らうなンて…。われわれは、地獄の門の扉を開けてしまったのかッ? 健全なユーモアじゃなく、『心身が健全でなきゃ笑えないもの』としての≪ギャグ≫がある。

自己引用、終わり。自己引用に続いては自己肯定で、『まったくそうだなあ』…と、いま見た引用文に思う。そのうち筆者がほんとうにおかしくなったら、ギャグまんがを読んで『オレのことをかってに描くな!』と、出版社に抗議し始めるかも知れない。そして、そんなことをしてないうちは大丈夫、と考えたいが。

だが、そんな≪自己≫のことなんかを書いててもしょうがないので、「酢めし」からもういくつか作例をご紹介しておけば。

 ――― 施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」, 第1巻よりの作例 ―――
題して、『スズメ』(p.86)。若夫婦らしき2人が、家の窓から庭先の1羽のスズメを見ている。かってその家のおばあちゃんが、存命中にえづけしたものらしい。
そして『あのスズメ 名前つけてあげない?』と女性が言うので男性は、『じゃあ 死んだ おばあちゃんに ちなんで……… 「死亡」!!』と、命名を行う。そこで女性は『「死」に ちなむな!!!』とはげしくツッコむが、しかし男性は上きげんで『待てよ 死亡!!』と、飛び立ったスズメを追いかけている。

題して、『しびれ薬』(p.111)。若いようだが属性不明な男女が、路上にて。メガネのあたりをキラリと輝かせた男が、西部劇で金貨を入れるような袋を手にして、『しびれ薬を 飲まないか?』と、女性に話しかける。
すると女性はびっくりして、『嫌よ! だいたい何で そんなモノ 持ってるの?』と、まったくもっともなことを言う。しかし男はその問いをはぐらかしつつ、『キミ子さんも 持ってみる かい?』と、女性にへんなことを持ちかける。
そうして女性は『じゃあ持つ だけなら……』と、その、しびれ薬が入っているらしい袋を、男からその両手に受け取る。すると彼女は、『!!』と表情を輝かせて、『コレは かなりの ずっしり感ね!』と言う。そこで男はわが意を得たりと、『かなりの ずっしり感 だろ?』と言い、またメガネのあたりをキラリ輝かせる。

題して、『特訓』(p.142)。学生らしき男2人が、学内の裏庭のような場所で、その『特訓』を行っている。顔をへんな色にしてダラダラと汗をかいている1人が、『オレの性欲は すごいが オマエ程では ない!』と叫ぶと、指導役のメガネの男が『もう一度!』と、反復を命じる。そのまったく同じ絵図とセリフを、4コマなので4回繰り返し。

題して、『日本陸上選手権』(p.132)。会社の会議で、『来年度の日本 陸上選手権の キャッチコピー について』という議題が出る。そこで目つきのするどい男が、自信ありげに次のような案を提示する。
『関係ないヤツラが 走り出した!! ―― 日本陸上選手権 ――』
すると席上のお歴々はしばらく『ざわ ざわ ざわ』と相談し、そして『一応 走ってる ヤツラは 全員 関係者だ そうだが』と言って、あえなくその案を却下する。

ご紹介、終わり。こんなような≪不安≫をあおっているネタたちが、この本の1巻あたりにたぶん300個くらいずつ出ているってわけだが(!)。そしていま見たさいごの作例は、ちょっと軽みがあって筆者のお気に入りだ。
すなわち、『関係ないと言明すること』は『関係がある』ことの証左であり、かつまた『意味がないと言明すること』は『意味がある』ことの証左に他ならない。だがしかし、エラい人にはそれが分からんのですよっと。そしてこの会議の席に描かれているエラい人ら、なぜかその3人全員の頭がモジャモジャであることが、何かまた意味ありげ。

そうしてモジャモジャつながりで、さいごに筆者がいちばんうけたネタをご紹介して、この堕文を終わろうかと。

題して、『風船』(第1巻, p.164)。板塀の向こうから路上に突き出た樹木の高い枝に、糸のついた風船が引っかかっている。若いらしい男2人が肩車の体勢で、その風船を取ろうと試みている。上のツッパリ風な男はリーゼントっぽい頭、下のメガネでおたく風なデブ男は天パーっぽい頭、と、なぜか2人とも髪がモジャモジャだ。
そして上の男が、『まったく オマエが ちゃんと風船持って ないからだぞ!!』とたしなめると、下の男は『ス…… スマねぇ』とあやまる。そうして風船を取ろうと肩車でがんばっているうち、下のデブ男は『………… なあ』と前置きを入れて、へんなことを言い出す。
すなわち下の男が、『性の話でも しないか?』と言い出す。すると上の男は、『こんな状態でか?』と返す。

このように説明した中の、いかなる要素が、作中のおデブ君に『性の話』ということを思いつかせたのだろうか? さもなければ、『どういう局面からも“性の話”を始めたがる』という点で、ふらちにも彼はわれらが精神分析のパロディを敢行しているのだろうか? こいつめぇ~!
なんてオチがついたところで、今作についても施川センセについても、もっと多くを語りたい…と予告して、いまはいったん終わる。