ラベル 2001 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2001 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010/11/28

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - すばらしきまんがの世界(ギャグ以外)

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる THE MOVIE」
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる THE MOVIE」
 
関連記事:竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

筆者の大好きな作品、今世紀のオープニングを飾った下ネタギャグまんがの大傑作「Dr.リアンが診てあげる」。それが表題に出ているけれど、この記事では≪ギャグまんが≫の機能というか功用というか、そこらをわりと広く考えてみたい。

1. まんがと呼ばれる、夢あふれるメディア!(ギャグ以外)

にしても、さいしょは「リアン」のお話から。…その実質的な第4巻「THE MOVIE」の序盤に収録された『マンガを描こう』の巻で、ヒーローのナオト君が、少年漫画新人賞の応募作を描こうとしていると言い出す。
超とつぜんに、まんが家志望だとカミングアウトするのだ。そうすると。

【美果】 いいわよね 読者に夢を売る 商売だしね ギャグマンガ 以外は

…と、いきなり的確すぎることを、天然ボケ気味の美果がおっしゃりやがる(p.28)。
その次に、どういうジャンルで描こうかという相談になると、『ラブコメが いいです!』と言い出したのがリアン。

【リアン】 (ラブコメすなわち、)男に都合のいい女を 仕立てて
とりえのない主人公を モテさせて 全国のドーテーどもを ドキドキさせるマンガ!
【美果】 みもふたもない 言い方するな!!

ところがこの、「Dr.リアン」というまんがはギャグ作品なので。よって、そこで『ギャグマンガ以外』のまんがが読者に売りつけている夢や幻想をぶち壊すための『みもふたもない 言い方』がなされるは、しごく必然かつとうぜん!
そうすると美果は、≪ギャグまんが≫が何であるかは知っているが、しかし自分がそれに出演しているという自覚がないらしい。…ま、それはそうか。

また、異なる作品も見ておくと。ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」(*)の第1巻、『ヤスチーム vs.ビキニ隊』の対抗戦で。敵の動きが速くてつかまえられないミチル君に対し、セコンドのヤスが、『心の眼を開け!』のようにコーチングする。
そうかと思ってミチル君が目を閉じて闘うと、それがあっという間にやられてしまう! あたりまえすぎていやになるところで、だいたい『心の眼』なんて、そんなかんたんに開くものじゃない…というか、開いた人がいるのだろうか? 筆者ぐらいの古い人だと、「アストロ球団」の球三郎サマじゃあるまいし…ということになるが(汗)。

そして、『まんがじゃあるまいし!』というふかしぎなツッコミが言外に表現されているのが、これらのギャグ作品のおかしいところだ。「Dr.リアン」という作品自体がムンムンのハーレム物語的なのに、それに近いラブコメが作内で揶揄され嘲笑されている。「踊るスポーツマン ヤス」の内容のありえなさは一般のスポ根まんがの比ではないが、けれどもかんじんなところに限って、要らざるリアリズムが描かれている。

2. 一般まんがをおちょくることが、ギャグまんがの使命

どうであれギャグまんがの内容には、ギャグじゃないまんがの内容や描写を否定しているところがあるのだ。筆者としては、“必ず”あると言いたい。
そしてそれが意外とかんじんなことで、そうだからこそまんが雑誌と呼べそうな媒体には、必ずいくつかギャグ(っぽい)作品が載っている。その質はともかくも。

ギャグじゃないまんがは一般に、読者の心にファンタジーを残して終わる。それに対してギャグまんがは、意識的または無意識的に『リアル』を読者に示して終わる。受け手の心の健康のために…行きすぎないようにバランスを取るべく、媒体には、行ったものを引き戻す要素が必要。それが、ギャグ(っぽい)まんがに期待される機能だ。
ただし、戻すぐらいならファンタジーの世界に行く必要もないのかというと、そんなことはない。どうせ起きるのに毎日眠らなくてはならないし、どうせ下から出るけれど食べなくてはならない。それと似たようなことで、人間にはファンタジーもリアリズムも必要だ。

そして、まんが史をひじょうに大きく見ると。ギャグまんがというジャンルの発生は、ストーリーまんがの発達に『対応して』のこと、という見方があるようだけど、その意見に筆者はほぼ賛成だ。
そのことを、筆者の持論のギャグまんが世代論を用いて言い直すと。まず『ストーリーまんが』という呼び方を求めるような作風の誕生に対抗して生まれたものが、ギャグまんが第1号「おそ松くん」(1962)からの第1世代。この過程を、かの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、『生まれた』ではなく『生まれさせられた』、と形容している(*)。
続いて1960'sからの劇画ブームに対抗したのが、「がきデカ」(1974)からの第2世代。そしてMid 1970'sからの新しいものら(大島弓子や大友克洋、等々)に対抗したものが、「伝染るんです。」(1989)からの第3世代。

というわけで、メインストリームのまんがの進歩だか発達だかに対応して、ギャグまんがも成長してきたと考えられる。言い換えれば、まんがにおける新しいファンタジー(の描き方)の発生に対抗して、ギャグまんがによる『リアル』の描き方も進歩してきたのだ。

よって。新たに第4世代のギャグまんががこれから生まれるには、それに先立って、まずギャグじゃないまんがにおけるイノベーション『こそ』が必要になってくるのかも。
あるいはそれは、すでに発生しているのだろうか? 筆者がはっきり認識できないうちに、ギャグにしてもギャグじゃないまんがにしても、いつの間にかすでに次の世代に突入してしまっている…そんなことは、ひじょうにないとも限らない。

3. 少年まんがは、少年として少年的に!

ところで、さいごに「Dr.リアン」の話に戻ると。いろいろ相談しながら描き上がったナオト君のラブコメ作品は、何とあからさまなエロマンガになってしまったのだった(p.34)。ペンネーム≪ルパンツIII世≫を名のる作者が、自分で自分の原稿に成年コミックのマークを描き込んでいるのがどうにも…。

【美果】 少年マンガを 描くんでしょ 描き直しま しょうよ
【リアン】 簡単に 少年マンガに 直す方法が あるですよ
(『ビシッ』と親指を立て、)チンチンを 少年のチンチンに 描き直せば いいです!!
【美果】 いいこと あるか――っ!!

というナイスな修正が、なされたのか否かは不明だが。けっきょく少年漫画新人賞は、落選してしまったのだとか。
何しろナオト君のまんが家志望の動機、その職業のいちばんの魅力とは、『エロ本 いっぱい持ってても 「人体デッサンの 資料」』として言い抜けが可能、ということだそうで(p.28)。そんなではそうなったのも、しごく必然かつとうぜんかと。

でまあ、いままでの話とは関係ないようなことだが。どうせ少年誌のラブコメなんて、ナオト君ほどじゃないにしろ、かなり血の気の余ってそうな方々が描いておられように(?)。ところがナオト君とは異なり、みんなちゃんと寸止めの作品に仕上げているのはすごいな、プロだなあ…と、おかしなことに感心してみせて、この堕文は終わるのだった。

2010/11/25

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - レビル将軍脱出劇について

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第14巻
安彦良和「機動戦士ガンダム
THE ORIGIN」第14巻
 
関連記事:安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - 反復しえないことの反復を

これはいつものレビューとは、やや性格の異なる記事。関連記事の安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を見ていて『あれ?』と感じたことがあり、精読して何かつかめた気がしたので、それをメモっておきたい。同じことを書いている記事が、ネット上にないようでもあるので。

「THE ORIGIN」第13~14巻の、『ルウム編』。ここはアニメではばくぜんとしか語られていないお話が、安彦先生独自の解釈で描かれたチャプターかと受けとめているが。
そのルウム戦役で、連邦軍のレビル将軍はジオン軍に大敗し、自身が捕虜になってしまう。ところが連邦軍特殊部隊の手によって、わりとあっさり脱出に成功。そして、講和に向けた南極会議のさなかに『ジオンに兵なし!』と主戦論をぶち上げ、戦争を継続へと向かわせる。…とまでは、アニメにおいても伝えられているお話だ。

ところでふつうに考えて、連邦軍によるレビル救出は、無能な彼らにしては手ぎわがよすぎ。それはまあそういうお話だから、と受けとっておくとしても。
しかし筆者が『あれ?』と感じたのは「THE ORIGIN」において、レビル救出作戦の指揮を取ったのは、あのひきょうな内通者のエルランとして描かれていることだ(以下すべて第14巻より, p,176)。これはちょっと、『あれ?』的な描写ではないだろうか?
なお、筆者は以前に今作を見た時には、この部分に陰謀のふんいきなどは感じていなかった。関連記事を書いて、やっと『エルランとジュダックは内通者』ということが頭に入ったので、この部分を『あれ?』と感じるにいたったのだった。…にぶい!

1. 黒幕・キシリア説

そこでちょっと、精読に及んでみると。まず話の前提としてジオン側のボスのデギン・ザビは、南極会議で休戦のなることを希望している。しかし彼の子であるギレンとキシリアは、戦争継続に対して意欲がありすぎ。
その一方の、連邦側の政治状況はよく分からないが。けれどもそれをキシリアは、『彼等はいま痛切に 休戦を望んで』いるはず、と読んでいる。

そして南極会議の直前、キシリアはマ・クベを全権大使に任命し、しかも『あなたは 停戦の使者 ではない』、と告げる(p.110)。むしろ彼を、『地球侵攻 軍の長として』、地球に向かわせるのだと。
それに対してマ・クベは、連邦がぜんぜん戦意を喪失していて、強く休戦を訴えてきたらどうするのか、と問い返す。するとキシリアは、

【キシリア】 御安心なさい 手は打ってあります

と、自信たっぷりに答えるのだった(p.112)。

すると『レビル救出』と呼ばれるイベントは、連邦側の失地回復の第1弾というよりも、戦争継続を願うキシリアの仕掛けた大芝居である、という風に読めてくるのだった。キシリアの指令と手引きによって、エルランがそれを実行したのかと。

いやあ、ガンダムとのつきあいも短くないけれど、しかし『レビル救出は、むしろジオンのしかけた陰謀であるやも』などとは、さすがに思いつかなかった。シリーズ本編のお話の前提として、そういうことがあった、とだけ受けとっていた。
けれども連邦のやることが基本へまばかり、後手ばかり、ということを考えたら、この「THE ORIGIN」の描き方にはかなりな説得力がある、と感じられてくる!

2. 黒幕・デギン説

で、そうなのかと思うと、また別の見方もあるようなのだった。と申すのは、Wikipediaにこういう記述があり(*)。

(エルランは、)『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では、ルウム戦役に敗れジオン軍に捕らわれの身となっていたレビルを、特殊部隊を使いデギン公王の手引きで救出した手柄を(…後略)

いったい何の話なのか、一瞬は分からなかった。ちょっと頭を使ったところ、これはつまり、エルランが指揮したレビル救出劇、その背後で糸を引いていたのはデギンである、という解釈なのかと。

これは意外な見方だと、さいしょ思ったが。しかし拘禁中のレビルとデギンとの会見の場面を見ると、それをほのめかす描写になっているかと感じられなくはない(p.115)。
すなわち、その場面でのレビルは、完全にしっぽを巻いた負け犬状態。デギンの説く休戦論をうけたまわって、見苦しいまでにへりくだりながら『しかりしかり、公王陛下の言われるとおり』、などとおうむ返ししてみせる。そしてデギンから、休戦のための力になってくれと言われると、『私になにができましょう このような虜囚の身で』、と答える。
するとデギンは、『判っている よく判っているとも 将軍』と、含みのありそうなことを言う。そこらから、デギンがこっそり手引きしてレビルを逃がした、という見方が出ているのかと。

…ところがだ。それから地球に戻ったレビルは、うって変わって超主戦論を唱え、連邦全体にハッパをかける。これをテレビで見てデギンは怒り狂い、何かその場のものをぶち壊す。そして、そこに現れたガルマが地球戦線へ出撃するというので、『恩知らず どもを黙ら せてやれ!!』と、檄を飛ばす(p.188)。
そのお芝居の前提として、デギンは休戦派でありつつ、かわいい末っ子のガルマを前線に送りたくはないようなことを、さんざんに言っていたのだ。それがこう変わってしまったので、その場でギレンは『おや?』みたいな表情をする。ところがその横で、キシリアはひそかにほくそ笑んでいる。

そして『恩知らず』とはどういう意味かと考えたら、レビル救出劇に関し、デギンがからんでいたことはありそうかも知れない。けれども彼はいっぱい喰わされているのであり、ことが思うつぼにはまったのはキシリアだ。
しかも知られる限り、レビル救出作戦を指揮したエルランと、デギンとの間につながる線はない。ガンダム界の常識のようなこととして、エルランはマ・クベの手先、マ・クベはキシリアの手下。すると救出劇がデギンの意思のもとの現象だとしても、キシリアは確実にからんでいると考えられる。

それこれによって『デギン黒幕説』は、『キシリア黒幕説』の一部分へと回収されよう。

3. なおも分からないことが

ただし、1つ2つ分かったことがあるからと言って、すべてが分かったことにはぜんぜんならないのだった。ここで筆者がふしぎに思うのは、なぜキシリアが『レビルは強硬な主戦論者である』ということを強固に信じられたのか、それを既定の大前提として行動できたのか、ということだ。
何しろ読者の目の前では、レビルはデギンにへいへいと、屈服してみせているのだから。ここでいちばんいいのは『レビルもまた内通者であり、キシリアの手先』という解釈になるのでは(!)。
だが、それはいちおうないとすれば。そうではなくとも、『デギンの休戦論に同調してみせれば、結果として脱出できる』とでもキシリアに吹きこまれて、その通りにしたとか…?

かつまた。脱出中のレビルの乗ったサラミス巡洋艦をシャアが拿捕するが、しかしレビルが乗っているのを知って、あえて見逃すという場面がある(同, p.169)。なぜそうしたかというと、『最高の政治 ショーを だいなしに』したくはないので、みたいなことを言う。
これではまるで、レビルによる主戦論の大演説があることを、読んでいたというよりもあらかじめ知っていたかのようだ。そしてシャアの望みもまた戦争継続なので、それをじゃましなかったということ?
いくらあのお方でも、ずいぶん読みが深いなあ…と感心しないではいられない。常人の3倍の洞察力があるのだろうか? なお、この時点でのシャアはドズルの指揮下にあり、キシリアとの接点はない『はず』であり、レビル救出劇と呼ばれた陰謀にからんではいないはず。

かつまた筆者が『分からんなあ』と思うのは、なぜキシリアが、パパであるデギンの意思にそむいてまで戦争を継続したかったのかと。このものすごい陰謀家の意図がひじょうに見えなくて、はっきりしているのは、彼女がわりと誰にでも言っている『私は ギレン総帥を 好かぬ』、というその1点だけだ。
だから、デギンが死んだ後にキシリアが、何とかしてギレンの背中を刺してやろうとして画策する、そこは分かる。分かりきらぬ部分もなくはないが、けっきょくはそこにつながっていることかと解釈できるが。
がしかし、このように平気でパパを出しぬいているキシリアが、さいごギレンをやっつけてパパの敵討ちみたいなことを言っても、あまり真に受けることができなくなってくるのだった。まあそれは、さいしょからあまり信ぴょう性のない言い分であるにしろ。

『“女の欲望”、そのなぞ的性格』。

ただし、今後の「THE ORIGIN」の展開で、これらの疑問が氷解したりするのやも知れず。ものすごい陰謀家ではあるが、しかし政治家にはなりきれていなそうなキシリアの≪欲望≫が、はっきりと浮き彫りになってくるやも知れず。それを大いに期待しつつ、この堕文を終わる。

2010/11/24

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - 反復しえないことの反復を

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻
安彦良和「機動戦士ガンダム
THE ORIGIN」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」

この「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」は、1979年の名作TVアニメ「機動戦士ガンダム」の物語を、そのメインのアニメーターだった安彦良和先生が、まんが作品として描いているもの。2001年からガンダムエース掲載中、単行本は第21巻まで既刊(角川コミックスA)。
で、ガンダムという商標のついたまんがの本が、いままでにずいぶん世に出ているようなのだが。しかしその中で『作品』とまでも呼べそうなものを、筆者は今作しか存じ上げない。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻, カバー見返しより ―――
【安彦良和】 『ガンダム』というのは、こういう物語です。

さらに今作の連載開始時のあおりが、『誰もが待っていた。これが本当のガンダムだ』、とあったそうで。そうすると『あまりにもフェイクが多すぎる』とは、かなり“誰も”の感じ方だったようだ。

1. 自分自身の『若さ故』の、あやまちとエトセトラ

この作品、その存在のありようについて、ひとつの印象。オリジナルであるTVアニメーションの「機動戦士ガンダム」は、わずか1年足らずの放映期間のものであり、たぶん着想から数えても、せいぜい2年くらいでできたものかと考えつつ。
…ところが、それのまんが版としての決定版を創りだそうとして安彦先生が、がんばってすでに足かけ10年(!)。見込みとすれば、TVアニメ版と同じところで終わるとして、たぶん全23~24巻くらいにはなりそう。すると、早くとも完結は2012年くらいになりそうかと。

これと似たような性格のまんが作品として、貞本義行「新世紀エヴァンゲリオン」などは、もっとすごいことになっている。TVアニメ本編に先行して1994年からスタートしている作品なのに、いまだ第12巻までしか出ていない。貞本先生は専業のまんが家ではないとしても、ずいぶんなことだ。
さらに補足すれば、安彦「ガンダム THE ORIGIN」が、原作アニメで未言及の部分を大いにボリュームアップしている作品であるに対して。その一方の貞本「エヴァ」は、もう少しは割り切った姿勢の創作であるらしいのに…!
(余談を重ねてしまえば、貞本「エヴァ」が次の13巻で終わるとすると、TV版の全26話に対して数字的にきりがいい。ちょうどバランス的にそんなものかと感じられるけれど、しかしその執筆にかかっている時間があまりにもだ)

…というものを見て、近ごろ年寄りぎみな筆者は思うのだが。人の生涯というものについて、『若いときについうっかりと勢いでなしてしまったことを、後半生でずっとフォローしなくてはならない』ということが、そこにはある気がする。

ここでやや関係のなさそうなことを言い出すが、「フランケンシュタイン」という物語について。それは後世のイメージだと、ファウストばりの老人であるフランケンシュタイン“博士”が、怪物を作り出すお話のような感じだが。しかしメアリ・シェリーの原作小説(1818)のフランケンシュタインは、博士どころか学部学生の若輩にすぎない。
その若きフランケン君が、若気のいたりでついうっかりと勢いで、結果的に怪物であるものを生み出してしまう。そして彼はそれ以後の人生を、ずっとその怪物のフォローに費やすのだ。

そうしてガンダムにしろエヴァにしろ、ある意味でエンターテインメントの世界の『怪物』かのようになってしまった存在であり。そしてそれらを、若さの勢いにまかせて生み出してしまった人々は、フランケン君よろしく、それぞれのフォローに後半生の、ほとんどを捧げているように見えなくもない。そのことは、安彦・貞本という両先生だけの話ではなく。
しかも、決定的であり反復しえない最初の創造は、何か『霊感』的なものの作用としか思えぬ超早わざでなされたのに。しかしその後のフォローは、かっての勢いがほとんどない状態で、かつ『霊感』の介在の余地もない作業として、そして終わりも見えぬままに遂行され続けている。
現在いちおうの決定版かと見なされている「劇場版アニメ・ガンダム3部作」にしたって、1980's初頭の勢いあまっている時点だったからこそ、わりにさくっと完成したが。しかしそれ的なものをいまごろになって作ろうとしたら、その作業は、これまた軽く10年かかりそうな気もするのだった。

ここらで押井守作品からのエコーとして、『“始まったものは必ず終わる”って、大まちがいだ!』といったせりふも聞こえてきそうかも。ガンダムにしろエヴァにしろ、その反復しえぬ最初の誕生時には少々早く終わりすぎ、そしてそれらが怪物にまで育ちあがって以後、逆に『終わらなすぎるもの』としてある。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻より(p.157) ―――
【シャア】 認めたくないものだな 自分自身の 若さ故の あやまちと いうものを……

そうだがしかし、その逆のこともまた大いに言えよう。『人はいつか』、かっての自分の『若さ故の』勢いやら何やらが失われていることを、認めたくないが痛感するはめになると。

いやもちろん、ガンダムやエヴァが怪物的なものと言ったって、それらはエンターテインメントなので、それでいいのだが。『終わらなすぎるもの』として悠久に存在し続けて、悪いということは別にないが。
けれどもそれだけの大きな創作は、かかわった人々に大きな『業』を背負わせてしまうものでもあるなあ…と、見ていて筆者が感じたしだい。

2. 確実に裏切られている善意

次に、今作の内容にふれて筆者が感じたこと。もともとアニメ版にも存在していた要素である、『大人たちのダメさ、いい加減さ』。それをこの「THE ORIGIN」は、さらに強調して描いているなと。それはもう、『1年戦争』などという惨事が起こってしまったこと自体が、あからさまなその表れだが。
さらにそのことは、ヒーローのアムロ君らに対し、上層部の無責任と場当たり主義として、また直接に表れる。いかなる職場にもあるようなことだが、アムロ君らに対し、押しつけられるタスクばかりがやたらに多くて大きく、そしてフォローはひじょうに少ないのだった。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第3巻, セクションIより ―――
(…状況、地球へ降りたホワイトベースの着地点は、敵勢力圏のど真ん中!)
【アムロ】 (居室でふて寝しつつ、)連邦軍は 戦争に 勝ちさえ すればいいんだ
僕らなんか どうなっても かまわない んだ たぶん…
【フラウ・ボゥ】 それって考えすぎよ アムロ
(…場面変わって艦橋、ジャブローの連邦軍司令部から、指令の入電あり)
【艦長ブライト】 (電文を見て、)ホワイトベースは…… 敵の戦線を 突破し
ジャブローに向かわれたし これだけか?!
【セイラ】 はい 他には 何も
【リード大尉】 ああ~っ なんの支援も ないというのか ジャブローからはっ!!
(中略)もう連邦も おしまいだよ!

リード大尉の嘆きようももっともで、また共感できるところはある。けれども、この愚劣な戦争の惨禍に巻き込まれて、よっぽどかわいそうな少女と少年たちに先んじて、彼がそのように泣きを見せるのは、大人としてひじょうにカッコ悪いのだった。そこでブライトとセイラは、リードを横目で眺めて鼻白む(第3巻, p.24)。

というものを見たら、もはや何も言いたくはなくなってくる。実のところ筆者は年よりをこじらせつつある折から、いまやロボット同士のチャンバラに、それほど興味がない。そのような自分からの、今作の見え方を記しておくと。
せめて何の責任もなさそうな若者たちを守ろうとして、まともな大人たちは自己犠牲をとげ…ガンダム用語の≪特攻≫ということをしたりして、どんどん死んでいく。その後に生き残るのは、地位も名誉もあるひきょう者ばかり、とさえ言えよう。さっき見たフラウ・ボゥによる善意の受けとめ方は、確実に裏切られているのだ。

リードもみっともないおくびょう者ではあるが、しかし人間らしさがかいま見える分だけ、まだしもましな方かもしれない。アムロ君による『あなたみたいな ひとが いるから…!!』というせりふ(第16巻, p.228)で有名な、オデッサ作戦ふきんに登場する、内通者のエルランとジュダックあたり、あまりにもひどすぎる。
そしてその2人が外道すぎるのは、言うをまたないこととしても。また一方、問題のエルラン作戦部長の指令のあやしげさを、ベテランのスレッガーがするどく指摘する場面で、われらが艦長のブライトには、こんなことしか言いようがない(第16巻, p.157)。

【ブライト】 作戦に異議を 唱えて いては 任務を遂行 できない! 軍は機能 しないっ!

しかし断固としてそれを言明するブライトの顔に、明らかにおかしな汗が浮かんでいるのはなぜだろうか? 彼が考えてもスレッガーの指摘に理があるが、しかし立場上そうとは言えないのだ。

3. この21世紀に語り直されるガンダム物語として

こんなでは、われらのブライト艦長にしてもだ。リードよりましなのはオタオタしないところだけ、エルランらよりましなのは裏切り者でないだけ、くらいに見えてきてしまうのではなかろうか?
また、それに先だった場面で。かの黒い三連星に襲われそうなセイラを大急ぎで救出しようと、アムロ君とガンダムは訓練もなくいきなり、スレッガーの操る戦闘機の背中に乗って出撃する。そこでブライトが、その超緊急の新戦法について、『これが うまくいけば これからも たびたび活用 できるな』と、脳天気なことを言いやがるのを、ミライは聞き逃さない。

【ミライ】 うまくいけば?
これがうまく いかないというケースを どう お考えなの かしら?

そこでブライトは、いちおう恥を知る男だけに絶句するが(第16巻, p.104)。しかしそれを言うミライにしても、もっとましな考えがあるでもなく、アムロ君らの行動の成功を、ただ真しに願うことしかできないのだった。

こうしたことを筆頭に、この作品「ガンダム THE ORIGIN」は、きわめて痛い認識を自分につきつけて来るもの、と見えているのだった。まあじっさいに、アニメのガンダムに比べて今作は、いっそう『地に足の着いたもの』となっている気がする。この世間のいやなことの数々が、よりあからさまに描かれてしまっている。
それは組織というものの不ゆかいさに加え、フラウ・ボゥやモスク・ハンなど『相手を見た上で』へんにからんでいくアムロ君のずるさや、シャアの数々の陰謀のあんまりな悪らつさなどをも含め。さらにはアニメに描かれなかった、かの理想家ジオン・ダイクンの平板なる実像をも含め。

メディアの違いも機能しているが、勢いやふんいきで流しているところがないだけにこのまんが版の描写は、言うところの人間ドラマに比重が移っている感じなのだった。かつ、例のニュータイプというSF発想に対して、安彦先生の扱い方は、きわめてニュートラルでもあり。で、そうこうとすると、見えてくるものは…?

これらのことにより。こんなまんがの本をつらつらと読んでいる自分が、エルランらほどの悪人でもないとは考えたいが、しかしよくてリードくらいのみっともないおくびょう者なのでは…と感じられてならず、筆者はため息を重ねるばかりなのだった。
あたりまえかもだが、自分が高校生くらいで今作のアニメを眺めていたころに、そうした感じ方はなかった。それから追って、自分はもとより、物語としてのガンダム自体も年をとった。「THE ORIGIN」という作品の登場は、よく言ってその『成熟』の徴候だ。そしてその『成熟』とやらの味わいが、自分にはやたらとほろ苦い。

そして、この21世紀に語り直されるガンダム物語として、こういうものしかありえないと断言もできないが。しかし明らかに最良のものとして、われわれの目の前に安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」という作品が存在しているのだった。『反復しえないことの反復』というそのタスクの重さが、この物語にいっそうの重厚さを付け加えながら。

【追記】 2010/11/28。文中で、今作こと「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の完結を、けっこう先に見込んだけれど。しかし掲載誌の最新号では、ギレンがすでに死んでいるとか。するとおそらく来年には終わるだろうし、単行本も次巻までやも知れぬ。まあ、オレのこの手の予想があたったことはないので、いつも通りだが…!

2010/11/03

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「Dr.リアンが診てあげる」

筆者がかってに考えた『下ネタギャグまんが御三家』の一角として、氏家ト全・古賀亮一とともに高みに並び立つ、われらの竹内元紀先生。そして「Dr.リアンが診てあげる」は、竹内先生の2001年のデビュー作にして代表作となっている、下ネタ超満載のギャグまんが。2001年から2004年まで少年エースに掲載、単行本は実質的に全5巻(角川コミックスA)。

1. ゴスロリ幼女が、みとってあげる!

で。実を申せばアイスマンこと筆者は、別に生まれてから現在まで、ずっと熱心にギャグまんがをウォッチしてきた…というわけではない。ま、めったにそんな人もおられないとは思うが、いたら超リスペクトせざるをえず!
自分においての転機は、2005年だった。当時の少年マガジンに掲載、氏家ト全「女子大生家庭教師 濱中アイ」の内容のわけ分からなさ(*)にブチ当たってから、何かあるような気がしてきたのだった。何かとは、≪ギャグまんが≫として、「おそ松くん」から「伝染るんです。」あたりまでのクラシックらとは、また異なった新しいもの、という意味。

それから、ずっと探求しているけれど。その収穫らの中でも、氏家・竹内・古賀の『下ネタ御三家』のお作品らは、慣れたつもりでいまだに、たいへんショッキングであり続けているのだ。そしてそのキラ星のごとき傑作らから、この記事では「Dr.リアン」を見ていきたい。

――― 竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻, 版元の宣伝文より ―――
これぞ下ネタ&脱力ギャグの決定版!!
用法・用量を守り電車内等周りの目がある場での服用には充分注意して下さい。笑いが止まらなくなった場合は医師またはリアンにご相談しやがれです。

「Dr.リアン」がどういうお作品でありやがるのか、これでぞんぶんにお分かりのはずだ。でもぜんぜん分からないかと思うので(読んでおられぬ限り)、ちょこっと筆者からご説明。

題名にも出ているヒロイン≪リアン≫は、見た感じ10歳くらいの女の子。これがゴスロリ服の上にナースキャップと白衣と聴診器をそうびし、女医であると言いはって、でたらめかつ殺人的な治療・投薬・人体実験らをなさりたがる。
で、ヒーローである一介の高校生≪ナオト君≫が、その犠牲になったのだが。しかし彼がひじょうに寛大な人格者で『ドンマイ』とか言うので(!)、それに心を撃たれたリアンは彼にひかれ、そのアパートに住みついてしまう。ちょうど、他に行くあてもなかったので。そして、リアンにくっついている奇妙な生物≪師匠≫も一緒に。
それからこのお話には、ナオト君に惚れ込んでいるクラスメイトの≪美果≫、追ってくのいちの≪もみじ≫などの人物らが登場し、やたらとにぎやかになる。むしろ、にぎやかすぎるというか。しかも彼女と彼たちのほとんどがドスケベ色ボケ気味なので、今作が『下ネタ&脱力ギャグの決定版』になっているわけだ。

――― 「Dr.リアンが診てあげる」第1巻 第1話より(p.16) ―――
【美果】 (『どどん』と語気強く、)あんた 本物の医者じゃないでしょ
【リアン】 おまえ 失礼です リアンの 熱意と心は 本物の医者にも 負けないですっ!!
【美果】 やっぱ ニセモノ じゃん
【リアン】 (大いにあせって、)あやや ナゼかバレた です

この場面で、たぶんかぜで発熱しているらしいナオト君に対し、リアンはヤバそうなシリツを執行しようとし、美果は漢方の応用で(?)ミミズをナマで喰わせようとして、それで争っているのだ。美少女っぽい人たちに囲まれているヒーローといっても、あまりうらやましくはないのだった。

というエピソードにも出ている特徴だが、この物語では全員が徹底してボケまくり(!)、定まったツッコミ役というのがいない。ほとんど変質者しか出てこないような作品で、全員が入れ替わりに入り乱れてボケツッコミを演じる。
字で書くと何でもないようだが、しかし竹内元紀センセ以外で、そんな作品は見たことがない。このあからさまに安定のなさそうなカーニバル的様相を、ちゃんと読めるものとして描ききっているのが、「Dr.リアン」のまたすごいところだ。追って出た竹内作品らでは、ちょっとそれが不安定な感じに傾いてしまっている。

2. ≪リアン≫とは、≪師匠≫とは、何もの?

そしてだ。10歳くらいの女の子が住所不定で放浪中とか、その頭からへんな生物が生えているとか、そういうところでこのお話には明らかに、ギャグまんがにしたって『リアリズム』がない。そのリアン&師匠のコンビは、全編で終始、なぞ的な存在でありすぎ続ける。

…にしても、ちょっとは素性をたずねてみると。まずリアンについて、本人によれば、彼女はある医院の孫娘なのだそうで。そして祖父のドクターがボケ始めたのを見て、自分が跡継ぎにならねばと決意し、それで医術の武者修業(?)をしているのだとか。
また一方の師匠というのが、のべつスケベで下劣でオヤジっぽいことを言いまくっている玉っころなのだが、実にふしぎな生き物だ。そもそも、何の『師匠』なのか分からないし…たぶん、お医者さんごっこの師匠だろうけど!
そして第1話の描写を見ると、それはあたかも髪飾りのように、リアンの後頭部にくっついているのが定位置らしい(p.7)。だから師匠が手足のように使っている蝶ちょ結びのリボンは、髪飾りとしての付属物だったもよう。
で、必要なとき、ガンダムシリーズの≪ビット≫のように、有線でニューッと出てきて活躍する…という初期設定だった感じだが。しかし追って第2話以降、師匠がその定位置にいるのを見た気がしない。

ところでリアンの家の医院について、『お父さんは 継がないの?』と美果が聞くと、リアンはこんなことを言う(p.17)。

【リアン】 ヤツは ろくでなし です
夜な夜な母に プロレスごっことか言って 悲鳴をあげさす とんでもないヤツです
「いやん」とか「死んじゃうー」とか
(ぎゅっとこぶしを作って、)いつか乱入して 母と共にヤって やるです
【美果】 (悦んで赤面しながら、)それは よした方が いいわよ

といううわさに聞く、ろくでなし兼ドスケベであるらしい父親と、現にいるドスケベで役立たずな師匠。この2者の間に性格の重なりを感じない、と言ってはうそになるだろう。ちなみに師匠はとんでもないセクハラ常習犯でありつつ、しかしリアンに対しては、まったく性的興味がないようだ。
だから師匠とリアンとの関係に≪父-娘≫を見つつ、彼らはお互いがお互いを≪ファルス≫にしている、とは言えそう(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。しかしこの記事では、そこはとくべつには掘り下げず。

3. フロイト「小箱選びのモティーフ」 と、「Dr.リアン」

さてなんだが、この作品「Dr.リアン」について。リアンと師匠の存在がなぞすぎるし奇妙すぎる、それは誰がどう見てもだ。
それにあわせて筆者は、ヒーローのナオト君についてさえも、そのパーソナリティが、興味深くも読みきれない、ということを感じるのだった。

彼はまず、おっとりしてるけれど大したむっつりスケベ君として登場。物語の冒頭から、自室のベッドの下にエロマンガを大量に収蔵していなさる。ところがナオト君は、追って彼へとHOTに迫ってくる美果やもみじを、スルーしてまったく眼中に置かない。彼の言う『恋愛感情はないけど 仲がいい』友だちとしての関係を、だんこキープし続ける。
彼は女教師エロマンガが特に好きらしいので、わりと年上ごのみということもありそうだが、しかしそれだけでもない感じ。そして彼が本気でケアしている女の子は、明らかにリアンただひとりだけだ。
第13話の結末、ふざけすぎたリアンがゴリラっぽい男の怒りを買い、そして(敵にぬれぎぬを着せ、)貞操の危機を訴える。するとナオト君は、ひじょうに珍しく血相を変えてブチ切れ、そして『ロリゴリ粉砕パンチッ!!』と叫んですごいのをお見舞いし、その強そうなゴリ男をKOしてしまう(第2巻, p.76)。

そうかといって、彼自身がロリコンだからリアンにご執心、というのでもなさそうなのだ。むしろナオト君は『女教師もの』が好きなわけでもあり、ロリコンらしさを匂わせているところは、作中にまったくない。
かつまた、美果やもみじが裸っぽいものを見せるとナオト君ははなぢを噴くので、彼女らに対して性的な魅力を感じない、というのでもないようだ。

このやっかいな様相を、何とかまとめると。ドスケベのくせしてナオト君は、じゅうぶんな性的魅力をもって彼を誘う美果やもみじを相手にせず、そしてロリコンでもないのに、役たたずな殺人的ちびっ子のリアンを、惜しみなくケアしている。
なぜそうなるのか? 『それは彼が、少年まんがのヒーローであり続けるため』、さもなければ、しんが正義漢であり道徳の人だから…と言えばそれもそうかもだが、しかしもう少しましな説明がありそうな感じ。

その描かれたことがなっとくいかない、というのではない。分かる気もするが、しかしその分かり方がことばにならない、という点がなっとくいかない。
で、ず~っとそれを考えていた筆者だったが、追ってフロイト「小箱選びのモティーフ」(「改訂版フロイド選集 7 藝術論」訳・高橋等, 1970, 日本教文社)という文献を見て、ちょっと何かが分かった気がしたのだった。『ひとりの男が3人の娘からひとりを選ぶ』という場合、もっとも幼くて地味な3人めを選ぶのが『正解』なのだ。

――― フロイト「小箱選びのモティーフ」(1913)より, その概要 ―――
シェイクスピア「ヴェニスの商人」で、3人の求婚者がヒロインを争って『小箱選び』の試練を受ける、という場面がある。そして金・銀・鉛の3つの小箱のうち、鉛を選んだものが当たりを引く。
金・銀・鉛の3者の選択で、鉛が当たりであるというお話は、シェイクスピア以前のずっと古くからある説話パターンだが、しかし何となくふしぎだ。そして『なぜ鉛を選ぶか?』というところで、シェイクスピアの描いたヒーローの口上は貧弱すぎる。こういうおしゃべりの不自然さの背後には、必ず何かある。

そこでいろいろな説話を比較し、さらに『小箱はしばしば女性の象徴である』という分析的知見をもあわせ考えると。…実のところこの種の説話では、『ひとりの男が三人の女たちのうちから誰かを選ぶということが問題になっている』(p.144)。
そうするとこれは、同じシェイクスピアの「リア王」のヒーローが、3人の娘らの中から、鉛のように地味な末娘のコーディーリアを『選ばない』ことで大失敗する、ということを思い出させる。また、メルヒェンで王子さまから選ばれるシンデレラにしても、同じく地味で鉛っぽい3人めの娘であり。
そしてこの3人めの特徴として、『沈黙(・無口・存在感のなさ)』ということが言える。オッフェンバッハの喜歌劇「美しきヘレナ」における『パリスの審判』で、そのヒーローが3人めの女神アプロディーテを選んだ理由は、ただ単に『黙っていたから』だそうで。

そしてこの鉛的な3人めの娘、その意味するところは≪死≫である。分析的に、沈黙は死のメタファーなので。

運命の三姉妹モイラ。中央がアトロポス
運命の三姉妹モイラ。中央がアトロポス
『もし姉妹のうち三人目の女が死の女神であるとすると、われわれはこの三人姉妹が何者であるかすぐにわかる。これら三人は運命の女神たち、つまり運命の姉妹たちなのである(中略、すなわちギリシャ神話のモイラ)。その三人目がアトロポス、すなわち苛責なき者(遁れがたき者)とよばれている』(p.151)。かつ、アプロディーテにも本来は『死の女神』という性格があったらしい。
『コーディーリアは死である。(中略)すなわちそれはドイツ神話の「ワルキューレ」のように死せる英雄を戦場から運び去る死の女神なのである』(p.159)。

よってもって、結論。『ここに描かれている三人の女たちは、産む女(註・母親)、性的対象としての女、破壊者としての女であって、これはつまり男にとって不可避的な、女に対する三通りの関係なのだ』(p.160)。

そして死すべき人間(man, 男)らにとって、3人めの鉛っぽい女を選ぶことは、いわば『究極の正解』なのだ。

そうしたわけで、われらのヒロインであるリアンもまた、りっぱに『運命の三姉妹』の3人めであり、そして『死の女神』の1ピキなのだ。わざとらしく彼女は、白衣の下に黒ずくめのゴス衣装を隠し、そして全身のいたるところに十字架マークを飾っており。
そして彼女が医療のまねごと等をすると、必ず死者が出そうな惨事に! また物語が進むにつれ、美果やもみじらに対し、ヒロインなのにリアンの存在感が薄れていくことも、この説話の性格として必然的なわけだ。

(…あと、よく知らない作品の話で申しわけないが。近ごろよく話題になる「涼宮ハルヒの憂鬱」というシリーズ作でも、3人の娘らがヒーローをめぐって活躍し、そしてその3人めは無口で幼めで鉛っぽいらしい)

4. ワルキューレの『奇行』、ヴァルハラまで…!

ゆえにわれらのナオト君は、若くして究極の正解たる選択をなしたようなのだった。フロイト様のお話を追っていると、いきなり究極へ行っちゃダメなのでは?…という気が、びみょうにはするのだが。ともかくも3人めの貧弱なおチビさんを選択することは、『説話的な必然性』というものを満たすのだ。
そして、『自らの死』であるところのリアンをかかえ込んで生きるナオト君。リアンは彼のことを『好きだもん』とは言いながら、しかし『貴重な実験サンプル』とも呼び(第2話, p.27)、そしてほんとうに人体実験の材料にしており(第5話, p.88)、しかもそれらをぜんぜん隠していないにもかかわらず!

そのように自分用の≪ワルキューレ≫を自ら養っているところから、逆に彼が文字通りヒーロー(英雄)的にも思えるのかな…というところまでを見て。そして今作「Dr.リアン」を研究することは、またの機会にぜひ続く!

2010/09/29

川島よしお「ナックルボンバー学園」 - 去勢をされまいとして虚勢を?

川島よしお「ナックルボンバー学園」第1巻 
関連記事:川島よしお「グルームパーティー」 - 新宿西口、メトロポリタン・ディルドー

われらの川島よしお先生、またの名を『ナベちゃん』先生。その私生活でのニックネームが、ナベちゃんであるらしい。
そしてこの「ナックルボンバー学園」は、ナベちゃん先生の少年チャンピオンでの『最新』の連載作(2001-02)、少年チャンピオン・コミックス全1巻。ただし第1巻というていさいなので、例によって未収部分がかなりありそうなのだけど。
そして、なぜにいまこの作品か…という理由が特にない。例によって、たまたま目についたので見ちゃったから、でしかない。

で、たまには素朴な感想も言わせていただくと。ナベちゃん先生の週チャン掲載作が、「グルームパーティー」、「O-HA-YO」、そしてこの「ナックルボンバー学園」と続いたが、自分には「グルーム」がいちばん面白い。何か、読者に挑んでる感じがいい。特に第1~2巻の、≪さそりちゃん≫の大暴れがいい。
さらに、ナベちゃん先生のご創作ぜんぶから言うと、いちばん自分が好きなのは「さくらんぼ論理」(1999, ヤングチャンピオンコミックス全1巻)。いやもうこれは、まじぇで探しましたYO!…探しに探したあげく、赤羽のブックオフで見つかったような気がする。青年誌掲載だったので、たぶん作品系列でいちばん下ネタ度が高い。これはいつか、この場で必ずレビューするつもり。…だがいまは、その貴重なるご本が自室内で見つからなくて。

そして「ナックルボンバー学園」の話に戻ると、わざわざ『学園』と題名に出ているように、少年誌っぽく学園もので…という意図があったのかなあ、というふんいき。その前のシリーズらがけっこうフリーダムだったので、そこらを引き締めてかかった感じあり。
かつまた、同じく題名にある『ナックルボンバー』ということばだが、これはただ単なる力強さを意味しているのではない。作中に、何度か出ているギャグのことをさしている。

どういうものかというと、これは女の子専用のギャグで。たとえばブルマーを着用しているものとして、その上の方から手をつっこみ、脚の出るところからそれぞれの手を出し、そして股間の前のところで、両手をがっちりと組み、『ナックルボンバー!!』と叫ぶ。
…実作で見てもあんまり笑えるものでないのだが、こうして字だけで書いたら、さらに寒い感じだろうか? この『ナックルボンバー!!』というギャグがもっとウケていたなら、少なくとも、今作の連載がもうちょっと続いていたはずでありつつ。

で、別に分析理論がどうこう以前に、これがペニスを、それも勃起したものをさしている所作であることは、どうにも明らかすぎ。そして≪ギャグ≫として成り立ってはいるのだが、しかしこの手のネタをやたら好む筆者に対しても、もうちょっと来ないのだった。

いちおうかわいいかのように描かれた女の子に、そんなこっけいなしぐさをさせるというところが、ちょっとダメだった気がする。言うとたとえば、『魔女っ子のそうび品の魔法のステッキ』…あれがまた≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴するもの)なんだけど。つまり同じなんだけど、それがいちおうかわいいアイテムなわけで。
たとえばの話を重ね、かわいい女の子がハンマーでバカな男を撲殺しまくるとか、そんなお話がいまはどこかにありそうだが、そっちの方がまだしも機能しそうだ。今作中の『ナックルボンバー!!』には、あまり好かれないようなタイプのこっけいさに加え、ポーズで終わって動きがない、という難点もあるようであり。

しまらない話のさいごに、なぜか筆者の心に残ったネタをご紹介しておこう。この本の巻頭の4色カラーページの、題して『ラグビー』という作例(p.4)。
題名どおりラグビーのかっこうをした少年たち、前景の1人が『とられて たまるかッ』とモノローグしながら、丸っこいものを抱えて走っている。やや引きの画面になると、彼が抱えているものは、異様に大きな彼のタマキンであると分かる。

 『とられて…… とられて たまるかあ~~~ッ』

と内心で叫びながら、彼はドドドド…と走り続ける。けれどもさいごのコマを見ると、他の選手らが、そのタマキン君を追いかけて走っているのかどうか…というところが、実はいまいちよく分からないのだった。
これを見て。本人にとってはひじょうに大切なものであっても、他者らがそれを欲しがっているとは限らない…と、そういうことはある気がするのだった。

2010/08/31

氏家ト全「妹は思春期」 - 『“女の欲望”とは何か?』、に関連し

氏家ト全「妹は思春期」第1巻 
関連記事:ラベル“氏家ト全”

倉島圭「メグミックス」を題材にした前記事『“女の欲望”とは何か?』(*)にて、それと並び立つ傑作(=ケッ作)としてご紹介した、氏家ト全「妹は思春期」。そっちの記事中にあれこれと書いたらごちゃごちゃしたので、この記事で「妹は思春期」について、かかわるところを手短に述べると。

ご存じのように今作「妹は思春期」は、とんでもなく耳年増な妹(ら)がヒーローである兄に、やぶからぼうな性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう…くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者はかって、かなり考えに考えたすえ、『むしろそれは彼女らが、性交をやらざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。それは主として、ラカン系ドクターのJ-D.ナシオの著書「ヒステリー」からのインスパイアで。以下、むかし書いた堕文をちょこっと直して再利用しつつ、まずいきなり引用で…。

 ――― J-D.ナシオ「ヒステリー」(訳・姉歯一彦, 1998, 青土社, p.16-19)より ―――
『{ヒステリー患者たちが、病むまでに怖れているのは…}絶対的、純粋な危険であってイメージ・姿形がなく、定義されるというよりは感覚的なもので、つまり最大の享楽の満足を体験するという危険である』

『ヒステリー神経症の精神生活の中心を占めるのは享楽に関する恐怖と執拗な拒否である』

『ヒステリー化とは、どんな人間の表現であっても、それ自身が内的には性的性質をもっていなくとも{他者のふるまいやもろもろの徴候を、}エロス化することである』

『理解せねばならないのは、ヒステリーの性が決して性器的な性ではなく性の模造物であり、本当の性的関係の具体化に向けた現実の企図行為と言うより自慰行為や小児の性的悪戯により近い偽の性であることだ』(以上、{}内は引用者の補足)

すなわち。このヒステリーの方々は、じっさいの性的行為とその≪享楽≫を怖れるので、そこで性交を行わないために、そして≪享楽≫に接近しないために、あえて逆に自分の世界を無法にエロス化しつつ、そしていたずら半分の性的言動に及ぶ。
で彼らは、そのことにより『私は性的存在ですよー♥』というフェイクを周囲に向けてかましながら実は、そのいたずらをとうぜんの失敗や挫折に導くことからこそ、少々の安堵というリターンを得ているのだ。そんなご苦労に及んでまで彼らは、『不満足の存在であり続けようという欲望に拘(こだわ)るのである』(同書, p.19)。

とまでを知った上で、あらためて氏家ト全「妹は思春期」なる創作を、チェキし直すと…。

その題名に言われた『思春期の妹』こと≪カナミ≫は、公衆の知らぬところでエロス一色の精神生活を送り(!)、そしていっつも周囲の人々への豪放大胆なるセクハラざんまいをエンジョイしながら(!!)、しかしじっさいのシリアスな性的行動へと及びそうな気配が逆に、みじんもない。
だいたい、状況をよく見れば。そもそもカナミの挑撥の対象は、実の兄と女の子たちのみでしかない(…あと、ごくまれに男性“教師”)。すなわちひきょう千万にも(!?)、セーフティな相手だけをねらい撃ちにして、『私は性的存在ですよー♥』とのアピールが敢行されているのだ。

そしてそれは何のためか…と考えたら、いまやわれわれは、カナミがじっさいの性的行動をしないためにこそ、その生きる世界をわざとらしくエロス一色に塗りつぶし、かつたわけた性的ないたずらにはげんでみせて、そして(意図的に)人々を引かせているのだ、と解釈できる。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。

また「妹は思春期」で、追って登場するカナミの親友にして同類たる≪マナカ≫という少女は、同じく下ネタまみれのおしゃべりや性的なおふざけに明け暮れながら、しかも自主的に『貞操帯』をそうびして(!)、自分でがっちりとロックをかけている。そして、『なぜそんなことを?』という常人の友人からの質問に、

 『それはもちろん 私の清らかな 純潔を 守るためですよ』

と、やや得意げに答えるのだった(「妹は思春期」第6巻, 講談社ヤンマガKC, p.126)。

19世紀後半、精神医学史上に名高きフランスのシャルコー医師が、彼のヒステリー患者の女性らを教壇の見世物(=魅せもの)にして世間の大評判をとったという故事があり、パリ留学中の若きフロイトもそれを見学しているが(1885年)。そうして「妹は思春期」なる作品は、その面白っぽい『見世物=魅せもの』を、もう少しソフトかつ、やや健全そうな発達の一過程として示しているのだ
(かってながらここでは、シャルコーによる見世物の、『催眠術治療の実演』という性格を度外視。「妹は思春期」という作品には、『治療』および『催眠術』という要素はない。そのどちらも、必要がないし)

すなわち、社会的に未成熟な思春期の少女と少年らが、自らを意識的に性交から遠ざけるのは、けっしておかしいことでない。かと言って人間らには、『無償で』そのようながまんができるのでもない。ではどうすれば?…ということが、「妹は思春期」なる作品の描いていることの一端ではありそうなのだった。

2010/03/10

氏家ト全「妹は思春期」 - オレはアナーキーという手段を使う

氏家ト全「妹は思春期」第8巻 
参考リンク:Wikipedia「妹は思春期」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」

関連記事で出かかった『フェティシズム論』を、丸っきり放置するのもどうかと考えた、責任感にあふれる筆者(!?)。そこでこの場は、氏家ト全「妹は思春期」で『メガネっ娘』が話題になったところを扱った旧稿を再掲して、お茶をにごしてやろうかい、と愚考いたす。
いちおう説明しておくと「妹は思春期」は、氏家ト全(うじいえ・とぜん)の2001年のデビュー作ともなる4コマ・シリーズ(KCヤンマガ, 全10巻)。超かんたんにその概略を申しておけば、むっつりスケベの兄と妹がお互いを無意味に挑撥しあうような関係を軸として、周りの人間らがまたそこにへんにからんでくる、的な。では、どうぞ。



 『Looking Through the Eyeglasses - いないいない/バァ』 (2006/12/15)

時間つぶしに書店へ寄ったら、いつの間にか氏家ト全「妹は思春期」の第8巻が出ていたので買い求めた(発売日・12/6)。
で、読んでみて。その内容は相変わらずだ、と言えばそうだけど…。だがその中の1つのネタから、少々の話をば。

 ―― 氏家ト全「妹は思春期」, 第196回・『メガネの効果』(第8巻, p.86)より ――
ヒロインらの親友で常人の≪アキ≫が、珍しくおシャレとして、だてメガネをかけている。変態少女の≪マナカ≫が、そこへ問いかける。
『それでアキさんは どの路線で いくんですか』
『え?』
『私のデータを 参考にしてください』
そしてマナカが示した円グラフは『メガネっ娘といえば』と題され、面積が多い順に、優等生・ドジっ子・おっとり・天然・お色気・M・その他…と色分けされている。
それを見てアキいわく、『私は 自分というものを 大切にしたい』。

『データ』って言うけど、どこから出たデータだよ…。と、オレまでがつっこんでも仕方がない。まったくしょうがない。そうじゃなく、これを見て気づいたのは。
マナカの示してくれた貴重な『データ』によっても(!?)、問題の≪メガネっ娘≫という記号には何ら実定的な意味がなく、そして時には、相反するものらを平気で同時にさし示している…という事実だ。ちなみに作中で時たま『メガネっコ』を自称している≪小宮山先生≫25歳にしても、ぜんぜんおっとりしてないし、しかも自ら『S』だと広言しているし。
しかしそうかといって、女の子の顔の上の≪メガネの有無≫に何の意味もないとはとても思われず、『きっと“何か”の指標であるにチガイない!』と、ある種の人々がそれを想定してやまないのだ。

よって≪メガネ(っ娘)≫とは、『意味ありげだが意味不明で、みょうに気になる記号』…すなわち、≪ラカンの理論≫に言われる≪シニフィアン≫に他ならない(←まいど“こんなこと”ばっかし言ってるが、意外とあきないもんだ…自分では)。
そういえば。いつも筆者は、『源初のシニフィアンとしての≪ファルス≫は、≪享楽の禁止≫と≪享楽の強制≫とを、平気で同時にさし示す』…などと申し上げながら実は、『それホントかよッ!?』と自分で疑ってるとこがあるのだが(!)。しかしこうして人間らの記号活動は、『たかが“意味”ごとき』に関する矛盾撞着なんざ気にしちゃいない、という事実が確認される。
(ご説明、≪ファルス≫とは『象徴化されたペニス』と言い換えられうるもの)

そしてそのシニフィアンとしての≪メガネ≫への1つの読みを示すと、それは『勤勉』と『失敗』とを、同時にさし示しているように思う。それの呼び出すイメージとして、『勉強か何かにつとめすぎたあまり、視力の維持には失敗した』のような感じがあるからだ。それによって≪メガネっ娘≫の2大路線、『優等生(-勤勉)』と『ドジっ子(-失敗)』と、がある。

ところで。こうして『≪メガネ(っ娘)≫とは、1つの≪シニフィアン≫に他ならない』などというが、また一方で。それを熱烈に追い求めている方々にとってそれは、≪フェティッシュ≫(物神, 呪物)にも他ならない。
われらが見ている「妹は思春期」作中にもしばしば『フェチ』という略語が出ているが、これまた根深いことばだ…。もとはといえば民族学や宗教学の方の用語だろうけれど、それをマルクス様が流用(アプロプリエート)したもので…。

 ―― マルクス「資本論」(1867), 『1-1-1-4 商品の物神的性格とその秘密』より ――
『(経済社会で諸商品らの織りなす諸関係は…)それは人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という幻想的形態をとるのである。だから、類例を見出すためには、吾々は宗教的世界の妄想境に逃避しなければならぬ』
(中略、そうした妄想わーるどの“想像”的産物らがそなえる、見せかけの生命力や幻想的な自立性などを見た上で…)
『これを私は、労働諸生産物が諸商品として生産されるや否やそれらに纏(まと)いつくところの(中略)、物神崇拝と名づける』(出典は文末に)

とはとうぜん、断固だんぜん憶えておかねばならないことだ。もしも万がいち、このマルクス様の偉大にして空前の理論的達成がなかったとしたら、われらを導く≪フロイト-ラカンの理論≫もヘッタクレもありゃしねンだぜェ~! いぇ~!!
だがしかしわれわれは、われわれの話の文脈へと、いまはたち還って…。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の冒頭 ――
『完全な満足が、ある特定の対象つまりフェティッシュの存在およびその使用がなければ達成されえないような、性的欲望あるいはリビドーの特別な組織化。精神分析は、フェティッシュを母の欠けたペニスの代理、さらにはファルスのシニフィアンとして認めている』(シェママ他編, 訳・小出他, 2002, 弘文堂, p.418)

この用語解説をさらに読み進むと分かることだが、ここにも再び、『相反することらを平気で同時に』…さし示す記号作用がある。
異様に分かりやすい例(!?)を1つ挙げてみると、女性のショーツに特殊な興味を超HOTにいだく男がいたとする。その妄想わーるどの中でそれが、どれだけイキイキと幻想的に輝かしき存在であることか…なんてことは、あまりこっちは考えたくもないが。ともあれ彼の意図せざる真の目的は、『女性(ら)が“去勢”をこうむっている』という想念への、否定と肯定と…その両方だ。

さらにほんと言うと、彼は“去勢”を否定して済ませたいのだが、しかし『女性(ら)にはそれがない』と知ってもおり、その認識をも完全には排除しきれない。そこで、『否定(+肯定)』というどっちつかずの戦略に出るのだ。
そして≪ショーツ≫はその中に陰部を隠す『覆い』であるので、この目的を実現する。筆者がひとこと付け加えるなら、それを≪想像的≫に実現する。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の結び ――
『フェティシズムは、現実の前に、現実を隠す覆いを広げるのであり、この覆いこそ、主体が最終的に過大評価しているものなのである(中略)。「何故、覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのであろうか?」ラカンはこの問いを1958年に呈した。この問いは今も現代的意義を(後略)』(同書, p.421)

またもう1つ見ておくと≪フェティッシュ≫には、『覆い』ではなく『出っ張り』というタイプのものがある。フロイトはその超名著「性欲論3編」(1905)で、ゲーテ「ファウスト」第1部(1808)第7章から引用している…『とってくれ、彼女の胸のスカーフを わが愛の喜びの靴下どめを』。

へんなところに念入りな筆者は、上の引用個所を「ファウスト」全訳書にチェキってみた。何の関係もないことだが押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)の冒頭すぎで、ハゲの校長がお説教に『かの文豪ゲェ~テいわく』、と言う場面を想い出しながら。そしてさらなる余談とすると、その校長の言った『苦悩を経て大いなる歓喜に』…ウンヌンとは、ゲーテじゃなくてシラーの詩句ではなかったかと…。
…あ、ともかく、該当個所は。それはお話の序盤、ファウストがマルガレーテにひと目ボレした直後、メフィストに向けて言うせりふで、『かの文豪ゲェ~テいわく』、

 『あれの胸からスカーフでも手に入れてくれ。
 くつ下どめでもいい、わしの愛の慰めのために』

とはまたこっちの訳文の方が、さらにナマっぽい感じだ…(訳・高橋健二, 1960, 世界文学全集 第2巻, 河出書房新社, p.81)。

そしてそのように女性(ら)の身体に接してそうびされた『出っ張り』らは、とうぜんのように(!?)≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能する。よってそっち系のフェティッシュにしても、さきの『覆い』系に見出された『“去勢”の否定(+肯定)』という意味作用は変わらない…と、見られているのだった。

そうすると、まとめて。話の起点の≪メガネ≫もそうだが、われらが見ている「妹は思春期」なる創作の中では、さまざまな≪フェティッシュ≫が数え上げられている。さしつかえない程度にそれらを列挙しとくと、下着・毛髪・体毛・エプロン・ブルセラ・水着・ナース服・ワイシャツ・レザーのように一般的なもの(!?)らから、そしてネコ耳(+シッポ)・メイド服・アホ毛(←おたく用語で、へんにハネている1束の毛髪)のように特殊っぽいものらまで。
ここですごくどうでもいいことを付け加えとくと、西洋の方の話にはよく聞かれる≪毛皮≫と≪クツ(ブーツ)≫というフェティッシュ界の2大ビッグスターの出てないことが、『ニッポンですねェ』…という感じだが、まあそれは別によくて。
そしてこれらの“すべて”が、われらの見てきた≪フェティッシュ≫の2大系列…『覆い』系か、『出っ張り』系か、またはその両方に属するものだとは、すでに賢明なる諸姉兄のご理解のことかと。
そしてそれらの意味するところを、われわれは知った。

(2010年現在の補足。ここまでを見ておくと、「妹は思春期」の作例で、『メガネ=お色気』という解釈が出ている理由も分かってくる。それは≪ファルス≫のシニフィアンなので、人々に≪享楽≫の強制と禁止とを同時に示唆する。『メガネ』とあるところを、毛皮やブーツやブルセラや『ネコ耳』に変えても、また同じ。
かつまた、関連記事(こちら)の題材の「あぶない! 図書委員長!」p.114には、こういう見方が出ている。『メガネとは“見る意思”の具象化、すなわち“男性原理”。ゆえにそれを装着せる女子は、“完全なる存在”となる』。
“男性原理”などという用語は要らぬものだが、言われたような『完全なる存在』のイメージを、精神分析は≪ファリック・マザー, 男根的母親像≫と、まったくふつうに呼んでいる。すなわちそれは、「事典」に言われた『母の欠けたペニス』が補完された状態のイメージだ)

…というところで、ひとこと。思えば筆者もずいぶん長く生きてきたように思う(!?)が、だがしかし。言われたような話で、たとえば女の子のセーラー服の胸もとのスカーフが、何と≪ファルス≫をさし示すシニフィアンやも知れぬ…などと考えてみたことは、たぶん1度たりともなかった。別にあんまり気にしたこともないけど、どっちかといったら『カワイイ』と形容できるようなアイテムか、くらいにしか。
とはまた、ひじょうにうかつだった…(のかな…ッ!?)。

繰り返しになるが、かくてわれらが精神分析の主張として。別に『フェチ』ではなくともわれわれが、ふつうにカワイイとか女性らしいとか『萌える』とか(!?)、そういうふうに見ているアイテムらの多くは、『“去勢”の否定(+肯定)』という想念の遊びを≪想像的≫に実現するための、≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能するものに他ならぬ…というのだった。
すなわち別の例で、≪裸エプロン≫という趣向の1つの『フェチ』があったとして(…くだらない話が続いてて申し訳ない)。そこではその実現する1枚のベールの向こう側に、男子の持つような“それ”が、『あるような?/ないような?』、というイメージのたわむれが…。まるで(筆者の見るところ、)フロイト「快感原則の彼岸」(1920)で報告された、幼児の『いないいない/バァ』(fort-da)の独り遊びを再現するかのように(?)、エンジョイされている(!)との主張があるのだ。
そしていまそれを申し上げながら自分でびっくり仰天しているので、『オレもけっこう≪常人≫だな』…と考えることを、筆者にお許し願いたい。

…いやはやわれらの精神分析とは、何とまたすごい≪真理≫を言いたてるしろものだろうかッ!? いやむしろここでは、それがえぐり出してみせている、人間らによる記号活動のすさまじいアナーキーさにこそ感動しておくべきなのだろうか…ッ!? ここにてラカン様(ら)の主張にピタリとシンクロしつつ、また別のわれらが大ヒーローたるセックス・ピストルズいわく、『オレはアナーキーという手段を使う、欲しいものをゲットするために』。



旧稿の再掲、終わり。見直してみて思ったのだが、約4年も前に書いた堕文といまの自分の頭の中身が、あまり変わらない…これは『逆に』ショックだ。
変わっているのは、当時はやたらとカタカナが多いふざけた文章を書いていたのを、近ごろもう少しノーマルな二ホン語にした、それだけだ。いま見ると恥ずかしいので、そこらはだいたい直しているけれど。

とはいえいま思うのは、作例の中でアキが『私は 自分というものを 大切にしたい』と言ってオチになっているが。しかし、そこで言われた≪自分≫なんて、『あるもの』ではないということだ。むしろ人から見えているところの自分こそが≪自分≫なので、われわれはそのギャップに傷つきながら生きるしかない。
そしてじっさいに作中のアキもまた、うかつに『萌えキャラ』を演じてしまったことで傷ついているのだ。そこまでがひそやかに描かれていてこその『外傷的ギャグまんが』であり、そしてそうでこそ氏家ト全「妹は思春期」が、世紀の変わりめを画する大傑作なのだ。



補足。文中の「資本論」の引用は、マルクス「資本論 経済学批判」, 訳・長谷部文雄, 1954, 青木書店, 第1部・上冊, p.172-3より。ふりがなと改行は引用者、“旧字”は新字に置き換え。

2010/02/17

長尾謙一郎「おしゃれ手帖」 - ブサイクさんにもそれはある

 
参考リンク:Wikipedia「おしゃれ手帖」

『ヤングサンデー掲載のギャグまんがには、≪ギャグまんが≫というにもストレンジすぎるヤツが多し』。今作はそのような筆者の想い込みを、「ケンネル所沢」、「the 山田家」、「踊るスポーツマン ヤス」、等々々らと並んで、実証してくれている作品。ヤングサンデーコミックス、全10巻。
とまで申して終わりにしたい気がマンマンだが、いちおうあらましのご紹介まで。

えっと今作「おしゃれ手帖」は、その…よく言って、中原淳一チックな世界とでもいうか。感覚がレトロでアナクロな『女学生』のヒロイン≪小石川セツ子≫が、「ジュニアそれいゆ」的に(?)、おしゃれでさわやかな日常を生きようとするのだが。
しか~しご存じのように、われわれの生きている≪この世界≫には、ダサさと不潔さとが蔓延しておりッ!
そこのところのギャップで彼女が、いちいち≪外傷≫をこうむる…のようなお話かと。で、そのダサさと不潔さを、『これでもかこれでもかッ!』と、露悪的にめんめんと描いているのが今作の『内容』かと。…等々、言えなくもなさげ。

で、どういうところをご紹介したら、そのふんいきをお伝えできるのだろうか?…というところで筆者は苦しむ。だいたい今作につき、一時はおもしろいような気がしてたのだが、いま見てたら、『よくもキモチ悪いことばっか!』…という気しかしないし。
プラス、笑ってたころにはあまり気にならなかったことだが。今作には一時の湯村輝彦センセのおまんがのような、1980'sチックなサブカル臭・前衛ムードがなくもない。そんな時代に、やたら死体の写真を画面に貼りこんでたのは、どちらの先生だったっけ…? 
そしてこちらのご本にも、死体ではないけど本編外のあちこちに、へんな写真らが挿入されてあり。どう申すべきか、まあそのそれらが『アングラ』っぽいムードを、ムダに盛り上げているのだった。

試みに、脇役のエピソードだけど、1つ見ておけば。セツ子のクラスに≪現子≫、通称≪メガネ≫という子がいて。そしてその『メガネ』というアダ名はひじょうに遠慮のきいたもので、ようはドブスでおデブな女の子で。
その彼女が学校のテスト中、窓の外に『ドドメ色の落ち葉がハラリ』という景色を見て、『なんだか 秋~って カンジ~…』などとひたってみた次の瞬間、『ぶぇく しょぉおん!!』とスゴいくしゃみをする。その拍子に彼女の鼻の穴から、サンマとマツタケが飛び出す(←はい出ました、『不条理ギャグ』!)。
すると喜んで現子はそれを、自分の後ろの席のセツ子に差し出して、

 『鼻水つき 秋の風物詩、おすそわけしま~す!!』

と言うのだが、セツ子は『静かにして』と、まったく現子にとりあわない。何せテスト中だし。

そこで次に現子はそれを、クラスの人気者の≪藤堂くん≫に『おすそわけ』しようとする。その美味たることをアピったつもりなのか、彼の目の前で『チロチロ』と、マツタケに自分の舌を這わせる。すると彼から無言のボディブローを喰らって、その拍子にまた、1セットのサンマとマツタケが、現子の鼻の穴から飛び出す。
どうして自分の振るまいが歓迎されないのか、と考えて、現子はふと鏡を見る。すると、『歯に青ノリ へばりついてる~』と気づく。ソコで彼女はペロンと舌を出し、自分の脳天をコツンとこづき、

 『な~るヘソ、これじゃ キラわれる わけです… 乙女、落第~』

と、まったくどうも申せぬモノローグを展開する。

等々とテスト中の悪ふざけが過ぎて、ついに先生が怒って現子を張り倒す。するとまたその拍子に、1セットのサンマとマツタケが、彼女の鼻の穴から飛び出す。
さらに先生から家庭に連絡が行って、『ママに あんまり 恥かかせないで ちょうだい!!!』と、母親からも叱られてしまう現子。キョーリョクな体罰があったとみえて、ママの右手と現子の両頬が、真っ赤にはれ上がっている。
そしてその母子2人は、部屋の中にあふれかえったサンマとマツタケに、腰までも埋もれている。その状況で、エピソードの終わりに現子がもらしたモノローグは、

 『なんか~… 生臭~いって カ~ンジっ!』

ときた。

というお話(第4巻, p.55, 『乙女のほーてーしき! ホットミルク+恋愛=奇病!?』)の意味するところを、そして『サンマとマツタケ』という奇妙な記号(意味ありげだが意味不明な記号=シニフィアン)らのさし示すところを、われわれは知ってはいる。
…だがそれを、別にわざわざ言いたくはないってカ~ンジっ! 『ニンゲン誰しも性欲が、ある』とのテーゼがすでに≪外傷的≫であるところへさらに、『ブサイクさんにも、性欲がある』などという話へ、“誰”が耳を傾けるというのだろうか?

で、そのような『1つの正しいお話』を描く作品であるこれは…ということは認めた上で。にしても筆者が今作をもはや笑えないような心境にあるコトは、すなおに申して『心の弱り』の徴候なのやも知れぬ。ギャグまんがを笑うことは(狂人ならぬ)常人の特権であり、さらにある種のギャグ作品は、ふつう以上に心がタフでないと笑えない。

2010/02/16

志水りょう「DOING」 - 生きよ、≪バトル≫としての日常をッ!

 
参考リンク:AMAZON「志水りょう/DOING」

ずいぶん前だが、どこかのBBSで『何ンかドッと笑えるよーなギャグまんがって、ない?』のようなスレッドが微妙に盛り上がっていて、これはそこでその存在を知った作品。月刊少年ジャンプ掲載作、2001年にジャンプ・コミックス全1巻として刊行。ずいぶん探して、綾瀬の古書店でやっとめっけることができた。
他にもいろいろとそのスレッドで知ったタイトルはあるが、にしても今作だけは、他の場所ではまったく評判を聞かない。ってまあ、それは筆者の見聞が狭いからだろうけど。

で、思うのだが。『ジャンプのギャグまんが』というものは、なぜかわりと必ず、ギャグじゃないジャンプ作品らのパロディになっている…という風味がある。特定の作品のパロディでなくとも、そのありがちな語法をパロってる、という場面をよく見る。
イチバンよくあるのはバトルまんがの、例のセリフ廻し。たとえば、『なにィィィ!?』、『××だとォォォ!?』、『させるかッッ!!』、『これで最後だァッッ!!』…みたいなきわまりきったダイアローグが、異様に低レベルな局面で出る…というあれ。
われわれのリスト上の作だと、1996年のうすた京介「すごいよ!! マサルさん」および木多康昭「幕張」から、そのような方向性がハッキリある。しかしおそらく筆者が知らないだけで、その行き方はもうちょっと古くからありそうな感じ、かな?

で、わりに新しいのだと。近ごろ初めて大江慎一郎「私立ポセイドン学園高等部」(2008) という作品を読んだところ、それの第1巻・巻末のおまけまんがが、ひじょうに毒々しいパロディになっている(第1巻, p.176)。
詳しくはそれを主題にしたときに語りたいが、その作品は。『ギャグ』でなく『フザケてない』と目されるジャンプのまんが作品らの、あんまりな連載のくそ長さ・バトル規模の超インフレーション・グロに傾斜した趣味の悪さ・死んでも適当にすぐ復活するストーリー上のご都合主義…等々の特徴が、ようしゃなくえぐり出されたパロディになっており。そうしてさいご、敵ボスが『地球2億個』をゆうにフッ飛ばすだけのエネルギーを放出、というところで『ヒキ』になっているのだが。

一方の本題たる今作「DOING」は、両親と2男1女とネコ1ピキによる≪清水家≫のめんめんが、その日常をジャンプ風味の≪バトル≫として生きる、という連作だ。その日常的でひじょうにささいな『行動(ドゥーイング)』たち、それらをおろそかにせず全力でやるべし、その積み重ねこそが人生なのだから…というのがたぶん、今作のテーマ的なところだ。

さいしょのエピソード『まんじゅうを食べる家族』が、そのような今作の主張を表してあますところがない。一家5人がいただきもののまんじゅうを食べていて、16個入りの箱詰めなので、誰か1人だけが4コめを喰える計算になる。
…と考えた長男が4コめに手を出すと、すかさず長女がお茶をいれるふりをして、その手をビシッとブロックする。という場面で、『圭子め 気付いてやがるッ!!』、『甘いわね 学(まなぶ)兄さん この私が 見逃すと 思って?』と、2人は内心のセリフを交わし、両者の視線が空中で火花を散らすのだ。
こうして戦端が開かれると、やがて次男や父親もが、そこに参戦してくるのだった。圭子のブロックのするどさを知った学クンが、『左が駄目でも 右がある!!』と内心で叫んでそっちの手を出すと、それを手の甲でブロックしたのは次男の誠クンだ。
という展開にびっくりしている学クンに父親がニヤリと笑いかけ、そして『チッ チッ チッ』と言って、ひとさし指を左右に振る。なんて場面に描き込まれた擬音らがまた、ジャアッ、ビシイッ、ドオン、オオオオオオ…と、こりゃまた迫力マン点なのだった。

で、そこからは口先のバトルとなって、こいつらがそれぞれに、『長男だから』、『やっぱりレディーファーストよね』、『ボクって、育ち盛りで食べ盛りだし』、『ココは一家の長が!』…等々とへりくつをこねあう展開に。
なんてことばの内容はともかくも、そのたびにスゴい擬音と画面効果がビシビシと飛びかって、彼らの心理戦のテンションは高まる一方なのだった。そして、バトルの結末がどうなったか…ということは、読んでのお愉しみとして。

ただしこの一家にあって、ふだんおっとりしてるが怒らすとひじょうにこわい母、彼女だけはバトらない。なぜかって、文句なくさいしょから最強だから…という見方ができるけれど、しかしいきなりそこを見ては興ざめか。
という、シリーズのすべり出しはひじょうによかったと思うのだが。しかし惜しくも、その後に続いたエピソードらが地味だったかも。明らかに、いま見たさいしょのまんじゅうのエピソードがいちばん面白い、というのでは問題やも知れぬ。もうちょっと、たたみかけるようにシリーズのペースが上がっていればなあ…。

2010/01/18

伊藤潤二「ギョ」 - 彼氏と彼女の、事情と情事?

 
参考リンク:Wikipedia「伊藤潤二」

ホラーまんがの巨匠による一編。どういうお話かといえば、もうとにかく『こわい』! 読後感というにも、『こわい、こわい!』とだけ言ってすましたい気が満々だが。
けれど読んでから数日後に、『ひょっとしたらこういうお話なのかなぁ』…という1個の思いつきが生じたので、備忘がてらにここへ書いておこうかと。

このお話はヒーローの≪忠クン≫とヒロイン≪華織≫のカップルが、沖縄の別荘(忠クンのおじの所有物)に遊びに来ているところから始まる。忠クンはごくふつうの青年だけど、華織はひじょうに美人で、そして過度ぎみな潔癖症だ。
その潔癖症というところから痴話げんかになった2人、もめているところへひじょうに怪しい生物が現れる。魚の体に節足動物の脚(ただし4本)が生えたようなその生き物は、やたら素早く走り回りながら、その脚の先の鋭いツメで人を襲う。しかもその体の開口部からは常に、耐えがたい腐臭のガスを吐き出している。

これが1匹出たくらいならまだよかったが、やがてその大群が沖縄に上陸し、さらには東京にも出現して大暴れ。しかもその≪歩行魚≫ら(の一部)は、忠クンと華織を意図的に追い廻しているような感じも(!)。
そして忠クンは捕獲した歩行魚の1匹を、かれのおじである科学者≪小柳≫に見てもらう。ふんいきがいきなりマッド・サイエンティスト風な小柳は、美貌の女性助手≪芳山≫と2人で彼の研究所を営んでいる。
いろいろと調べたあげく小柳は歩行魚の正体は、太平洋戦争中に小柳の父が開発した生物兵器なのでは…と言い出す。その仕組みはどうかというと、まずは謎の細菌が生物を侵してやがては死なせ、死体から腐敗ガスを発生させる。それを運んで走り廻る脚は生物にくっついた機械であり、死体の発する腐敗ガスを動力に動いているらしい、というのだ。
(そして脚部の『機械』は、その運んでいる死体が腐り果てて崩壊してしまうと、新しい死体に取りついて再び行進を始める。このふしぎな『機械』というものがあまりにもふしぎだが、『それは実は人工物ではないのかも?』…という推測が、作品の結末近くで提示される)

で、何と、ヒロインの華織がその細菌に侵されてしまう。やがてその体はぶくぶくとみにくくふくれ上がり、皮膚がくずれボコボコのできものが生じ、そして息をするたびに腐臭を吐き出す。
これを悲観して首吊り自殺をはかった華織を背負い、忠クンは歩行魚らの襲撃をかわしながら小柳研究所に運び込んで、彼女の後を託す。そして歩行魚の猛威によって廃墟と化した東京、そのどこかで意識を失ってしまった忠クンが、次に目醒めると…!?(このあたりで、全2巻の第1巻が終わり)

といったような、独断的かつ強力でグロテスクがものすごいホラーまんがであると、今作「ギョ」を形容できる。まったくもって、こわいにもほどがある。
だが、これを読んでから数日後、筆者はおかしいことを思いついたのだった。『意外とこのストーリーは、ひそやかにも“愛と欲望の物語”になっているのではなかろうか?』…と。

さいしょ沖縄の別荘の場面で忠クンは、捕まえた1匹の歩行魚を、ビニールのゴミ袋に入れて保存しようとする(…科学的な大発見かも、と考えて)。しかし華織はそれが放っている悪臭にたまりかね、『遠くへ捨ててきて!』と叫ぶ。と、そこで、何とビニール袋に入ったままの歩行魚がぷかぷかと空中を浮遊しながら、2人に襲いかかるのだ。
それを何とか追い払って、ともかくも東京に戻った2人。するとビックリなことに袋入りの歩行魚は、東京にまで2人を追ってきて(!)、またも彼らに襲いかかるのだ。そうしてやっと力つきたその歩行魚の死体を持って、2人は小柳研究所に向かうのだが…。

さてこの、『ぷかぷかと浮いている袋入りの“もの”が、若い2人を追っかけてくる』…ということは、いったい≪何≫かというと。この『袋入りの“もの”は、≪子宮とその中の胎児≫ということを表しているのでは?』と、筆者は考えたのだ。

どこの誰がどう見ても思うだろうこととして、「ギョ」という題名のついたこの作品は、まさしく『“悪夢”的』だ。そしてそこから一歩進んで(試みに)、これを1つの『悪夢』として眺めても?…ということを、いま筆者は提案している。
その『悪夢』を見ている≪主体≫をヒーローの忠クンに等しいものと考えると、このお話は、彼の恋人であり同棲の相手である華織の『妊娠の可能性』という≪不安≫を、まず表しているのでは…と感じられるのだった。

そして。お話の途中であっさりとみにくい死体になってしまった(!)華織だが、ふしぎにその後のストーリーもまた、忠クンが彼女を追い求める、というモチーフを中心に展開するのだ。
以下はネタバレになってしまうが、あえて書いておけば。瀕死の華織を預かった小柳は彼女を病院に搬送したりはせず、やがて息絶えた彼女を何と(非常識にも?)、彼が独自に作った『機械』の動力源とする。そのふざけた所業を忠クンは怒り、彼女を『機械』から解放しようとする。すると『それ』は暴れ出し、研究所から逃げ出してしまう。そのはずみで、小柳も致命的な重傷を負う。
華織の死体を乗せた『それ』を追いかけて忠クンは、きてれつきわまるサーカス小屋にたどりつく。やがて見世物として華織がステージ上に引き出されるが、しかし『それ』は再び暴れ出し、汚物を噴き出して人々を威嚇しながら、サーカス小屋からも逃げ出してしまう。

やっとのことで華織をつかまえてその『機械』のスイッチを切った忠クンは、『それ』を再び研究所まで運んでくる。芳山1人が彼らを迎えて、華織を機械から降ろそうとする。ところがそこへ、死んだ小柳が飛行船つきの自作の『機械』に乗って、空中から彼らに襲いかかる。
一方の華織もまた、死んでいるはずなのにふしぎだが、自分の手で『機械』のスイッチをONにして暴れ出す。…という、この小柳と華織の行動はまるで、忠クンと芳山との過剰な接近を怪しみ、それに対して怒っているようにも思える。
この騒ぎのどさくさに、小柳は芳山をつかまえて、そのまま地平線の向こうへ飛んでいってしまう。追って華織は『機械』の群れに襲われて、どこかへと連れ去られてしまう。その別れ際、死んでいるはずの華織の手が、自分を求めてさしのべられるのを見たように、忠クンは考える。

やがて華織を探し求める忠クンは河岸にたどりつき、土手の上から河原の方に、グロテスクというにもほどがある『機械』たちの大行進を眺める。するといつのまにか若者たちが並んでそれを眺めており、ちょっと説明っぽいせりふを吐いた後、『僕たちは大学で、この災厄の解決のための研究を進めている』のようなことを言う。
忠クンもそれへの協力を求められ、そして仲間に入る。そうして彼らが土手の上を歩いていると、道すがら華織の焼死体らしきものが見つかる。そこで忠クンは仲間たちを先に行かせ、その死体の横に座って彼女に語りかけながら、土手の上からしばし、荒れはてた都市の景色を眺める。
というさいごの場面で忠クンが黒焦げの華織の死体に言うのは、『やっと…臭いから解放されたね…』というせりふだ(第2巻, p.165)。潔癖症で人一倍臭いに敏感だった華織が、自らものすごい悪臭ガスを放つ死体になってしまったことを、忠クンは哀れに思って気にしていたのだった。

ここまでを見て…あまりスッキリしたことも言えないが。まずさいしょの沖縄での場面ではっきりと描かれた、華織の過度ぎみな潔癖症、それを忠クンは少々ならずうとましく感じている…ということがある。
ということが『逆に』、汚辱にまみれきったこの物語のモチーフを、決定づけているように思えるのだ。つまりこのお話の中で華織が悪臭を放つ不潔でみにくい化け物になり下がり、しかもその姿を見世物としてさらされるということは、何と彼女の恋人が≪願望≫していることの一部分なのだ。

ただしふしぎだが、華織が化け物と化してから『逆に』、いっそう忠クンは彼女の忠実な恋人になるのだ。見ていて彼の献身ぶりにはひじょうに感動的なものがあると感じたが、しかしその態度は、彼女が美しく健康だったころには『逆に』、彼にはできなかったことなのだ。
そしておかしいことを申すようだが、筆者にはそのような忠クンのあまのじゃく心理(?)が、ちょっと分かるような気がするのだった。退廃芸術の方面に『最良の恋人は、死んだ恋人である』のような美学があるかと思うが、まあそんな感じで…?
かつ、生きていた時にさんざん忠クンを振り廻した華織は、死んでからもまったく大人しくしていない。同じように、いやむしろいっそう忠クンに世話を焼かせる。とはどういうことかと考えると、つまりびっくりだが、華織の2つの状態(生/死)は、主体の想念の中で等価なのだ。生きている状態の華織に対応する≪無意識≫のイメージが、あの奇怪な化け物の華織だということだ。

そして芳山の登場というところにまた何らかの意味があり、華織は生前から、彼女と忠クンとの間を疑っている。その一方のわれらのヒーローの側には『自覚的には』、芳山に対してそのような感情はないらしいが…。
けれども第2のヒロインとして芳山は、落ち着きある大人のレディとして、まあ子どもっぽいとも形容可能な華織への対立軸をなしていることは明らかだ。しかし忠クンがどうともせぬ間に、死せる小柳が、彼女をかっさらってしまう(…はっきりしないが以前から、小柳と芳山との間はまんざらでもなかったもよう)。
という物語の展開は、≪主体≫から芳山(…および、そのような女性、華織でない女性)への、へんな野心は禁じられている、という、どこからかのメッセージを表しているように思えるのだった。
かつ強引ぎみな読みをあえて行えば、小柳と芳山のペアは、忠クンの両親の『代理』として、この物語に出ているような気もする。その代わりにと言うのも何だが、忠クンの両親はどこかに健在なようなのに、物語の中にはまったく登場しない。彼の両親についてその消息を心配しているのは、小柳ただ1人だけだ。

以上、あまりすっきりとした分析にはなっていないようだが、トータル今作の内容を『忠クンが見ている悪夢』として見ると。この主体は、わりと(かなり?)扱いにくい恋人である華織と自分との関係を、夢の中で再考しているのかな…という気がするのだった。
で、どういう結論が出ているかということは、いちおうご紹介した通りだ。いかなる状態にあっても、華織はいつも彼を求めており、そして忠クンは彼女を思いやっている、ということを、彼の≪無意識≫の認識は示したのだ(…とは異なることもまた述べられそうだが、いまは前向きな見方を示しておく)。
だから筆者は、やがて忠クンが目醒めるとそこはまだ沖縄の別荘で。そして彼を追って目醒めた華織に、忠クンはやさしく何かを語りかける…といったハッピーエンドを今作に、頭の中でかってに付け加えておこうかと思う。

2010/01/17

玉井雪雄「OMEGA TRIBE」 - オイディプスは回帰し、意味は享楽へと還る(予定)

 
参考リンク:Wikipedia「OMEGA TRIBE」

  【Ch.1】 俺は、母を犯し、父を殺す(つもり)

≪精神分析≫というものに対しての、こういう見方がある。すなわち、『“すべて”の問題を、“パパ-ママ-ボク”の三者関係トライアングルの問題へと還元しすぎ』、だとか。筆者はあんまり知らないが、世にも名高いドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス」という書物の主張が、ほぼそういう感じらしい。
という話を、ちょっと頭のすみにでも置いた上で、この堕文の主題たる玉井雪雄「OMEGA TRIBE(オメガ・トライブ)」というまんが作品を眺めれば? その訴えるところは「アンチ・オイディプス」とは正反対に、『“すべて”の問題の根源は、親子の問題である』というところかも…という気がしてくるのだった。よってこの作品に対し、「オイディプス・リターンズ」、「バック・トゥ・オイディプス」、といった副題を献上してみるのも、頭の中の自由というものだ。

とまで申してから、今作こと「OMEGA TRIBE」のあらましをざっとご紹介。まず発端、アフリカの奥地で遭難して死にかけた日本の少年が、神とも悪魔ともつかぬ怪しい人物≪Will≫によって、次世代の人類へと≪進化≫させられる。ヒーロー以外には不可視な『怪しい人物』の正体は、異種間の遺伝子の移動を媒介するウイルスだ。
これによってわれらのヒーローたる少年は、単に一種のエスパーとして蘇生したのみか、新人類の仲間を増やしつつ現生人類を滅亡に導く、という義務を負ってしまう。しかもすでに現れている新人類は、彼だけではない。よってわれらのヒーローは、他の系統の新人類たちがひそかに繰り広げている主導権抗争にも、巻き込まれてしまうのだった。

というわけで本編は、『超能力バトル』と『ポリティカルアクション』とをまたにかけたような描写を中心に展開する。…のだが筆者には、今作の決定的な『主題』は≪親-と-子≫、その葛藤、というところかと読める。
何しろまず、ヒーローたる≪吾妻晴(あずま・はる)クン≫が冒頭で瀕死の大ピンチに陥った理由が、『実の父によって殺されかけて』、というものだ(!)。それも、創世記にある『アブラハム×イサク』のような崇高味あるお話ではない。こともあろうに晴クンの父は、『金に困ったので』という理由にて、いらない子であるひきこもりの晴クンを使った保険金サギをもくろみ、わざわざアフリカ奥地まで連れ出して彼を殺そうとしたのだった。

これを筆頭に「OMEGA TRIBE」の主要な登場人物らはいちように、『親への恨み』というものをかかえている。追って晴クンの最大のパートナーとなる暴走族のリーダー≪秋一≫は、母に愛されない子として育ち、彼の想念の中では『自分は母を殺した人間だ』と思い込んでいる。アメリカ新人類のリーダー≪イブ≫は孤児で、幼いころに養父から性的虐待を受けていた。中国新人類から寝返って晴クンらにくみする≪水華≫は、中国の闇のボスである実父のあんまりな冷酷非道さを耐ええない。そして中東新人類の≪ハキム王子≫は、愛なくして彼を産んだ母親への両面感情に苦しんでおり…等々々々。

この作中で≪Will≫を名のる怪しい人物(=ウイルス)は、『おまえの絶望の深さを見せてみろ』、的なことをしばしば言う。現にあるこの世界をどれだけ強く激しく憎んでいるか、それが十分でなければ、新人類として生まれ変わることができないという。
そうして作中人物らが自分の≪絶望≫を掘り下げていくと、その核にあるのが、さきから述べている親への恨みなのだ。それぞれの人物らを『そのようなもの』にあらしめている決定的な≪外傷≫は、それなのだ。そうでない例として目立つのは1件だけ、イタリア新人類の≪ルチアーニ≫、彼の絶望の核は第二次大戦中の収容所体験だ。

で、見ておれば、作中でその『親への恨み』という≪絶望≫をさらけ出した人物らは、いずれは晴クンにくみするようになる(ラスト近くに重大な例外もありつつ)。またサイドストーリーにて描かれた自衛隊員父子の葛藤については、父親が晴クンにくみし息子が敵に廻るのだが、父は親としての自分を深く≪絶望≫してるに対し、息子の方は父への甘えを棄て切れていない…という違いがそれらをさせているのかと。
ただしこの甘ちゃんな息子隊員にしても、彼にその≪行為≫をさせている要因は『十分に愛してくれなかった』という『親への恨み』だ…という形式で、晴クンと一致している。異なるのは、その『十分には得られなかった』と彼が感じている父からの愛を、いまからでも取り戻せるはず…と信じていることだ。ゆえにこの人物には、≪絶望≫が乏しい。それこれにより彼は、晴クンへの対立軸の1つとしてどうにか機能しつつも、小物に終わる。

そして。そうして晴クン(ら)が自分らを組織化しつつ、当面の目標として実行しようとするプロジェクトは、クーデターによる日本の権力掌握だ。
この『クーデター』という語が登場するのは今作の第4巻めだが、全25巻と数えられる今作の以後ほとんどは、その目標の追求を描くことにあてられている。一見して異なることが描かれていても、それらはクーデター実行にいたるための迂回かのように読める。逆に申せば晴クン(ら)は物語の中で、クーデターを成功させたら次にどうするか…までは、あまり考えていないようす。

今作中でさいしょに『クーデター』という語を発したイブは、彼女のアジトへと強制的にご招待された晴クンに向かい、『新人類たちの権力ゲームに参加する気なら、最小限そのくらいは自力で達成してからネ』と宣告する。しかし晴クンの反応がパッとしないので、『さもなくばアメリカがしかけてアメリカの都合いいように、日本の政権を転覆する』のように言って、彼への挑撥を重ねる。この時点でのイブの肩書きは、何とファーストレディ=アメリカ大統領夫人だ(!)。よって、『力こそ正義なり』的な論法と恫喝外交はお手のもの(!?)。
その他もろもろ、その場にてさんざんなる屈辱をこうむった末に、晴クンはイブの挑撥を受けて立つ。ただし、向こうの思惑に乗ったのではないというつもりだ。言わば『ひきこもりの代表』として彼は、アメリカが代表している『強者の論理』の下で苦しんでいる人々を解放するために、クーデターを実行してやると、宣言したのだった。
…という、晴クンの『回心』にもとづくおしゃべりはひじょうに心にふれるものだが、しかしその場でイブが『面白いけど意味不明』と評したように支離滅裂ぎみ。その中に論理の飛躍がない、とはとても思えない。よって、うまくは要約しきれないことを申し開きしつつ。

そうしてイブのもとからの帰り際、人知れず彼にくっついているWillに向かって晴クンは、ひそやかに強力にいわく…。

 『俺は、
 俺を産み捨てた
 母{日本}を犯し、
 父{アメリカ}を殺す。』(第4巻, p.87。{}内はルビ)

このフレーズはもちろん、クーデターの実行によってそれを達成にかかる…という意味かと読んでおくが。しかし何をさしてのことであれ、これぞ断固たる≪オイディプス宣言≫としか受けとりようがない。
そしてこの場面は、古い洋楽ロックについて多少とも明るい人々の脳裡に『ああ、ドアーズのジ・エンドか』…という感想を一律に呼び起こしつつ、今作の終盤、その楽曲の訳詞が延々と引用される大山場へ向けての予告、言わば予定調和へのレールの敷設、かとも受けとめられる。
かくて≪覚悟完了≫をキメたところから、晴クンには気弱なお坊ちゃんという性格が失くなり、そしてストーリーの『本編』的な部分が、やっとここから始まるのだった。

ところで≪エディプス・コンプレックス≫という概念についてだが、『正常な人間、誰しもそれはある(必ずそこを経過する)』…と、精神分析は主張する。それがひじょうにないような主体の方が、よっぽどひどく病理的かと考えられる。
しかし常人らにおいて、じっさいに父を殺す、母を犯すということは『ない』。そうしたいけどそうしない、何かその代わりになるようなことらをする、と経過するのが常人の道すじだ。
すると、『本当にやりたいことをやらない』という選択がなされてこそ、ヒトの生きる道はやっと開かれる(!)。このことを精神分析の用語で、≪象徴的去勢≫と呼ぶ。“それそのもの”を実行しちゃったら、まさしく『ジ・エンド』…というところで、ドアーズの唄はまったくもって正しい。
またその一方、ソポクレスの描いた≪オイディプス王≫は、父とは知らずに殺し、母とは知らずに交わってしまったものを、『それをやりたい!』的な概念の代名詞にされては、少々とばっちり気味のようだが。けれども精神分析チックな理屈のいやなところで、『じっさいのところ、それをやってしまった理由は“やりたかったから”に相違ない』と解釈されうる。

  【Ch.2】 エディプス期の遅れすぎな到来

とまでを見てから「OMEGA TRIBE」の話に戻ると、晴クンらがやろうとしているクーデターは、『ジ・エンド』を期してのものなのか、そうでなくもっと前向きなものなのか…ということが問題になってくる気がする。けれどもそこは、けっきょく大してハッキリはしていないこと、かと読めた。
彼たちは『クーデターの達成』、せめてその実行、ということに向かってまっしぐらに動いており、その後はどうするということを、深く考えているようすがない。そのようなプランのなさは社会的には大迷惑な感じだが、けれどお話の流れの中では、一種の心理的な自然さを有する。
なぜならば晴クンらの実行しようとしているクーデターは、発達上のプロセスで幼児が初めて親に反抗すること、それと心理的に等価なイベントだからだ。『反抗してどうなる?』ということをチャンと考えている幼児などいないように、晴クンたちもそれを考えていないのだ。逆に申せば晴クンとその軍団の中核は、幼児の時代にふつうの反抗をしなかった、できなかった…という連中なのだ。

かって精神分析の描いた『ノーマルな発達プロセス』という絵図があり、すなわち幼児らはいっときを変態性欲のあくなき追求に捧げ(=多形倒錯)、けれどもやがて、その性欲の発露は≪父≫的な存在からの制止に遭う。ここに≪エディプス期≫というものが始まるが(めやす的には3~5歳ごろ)、やがて幼児らは『父を殺し母を犯す』ということを断念して、性欲の追求自体が≪抑圧≫される。ここに≪潜在期≫が始まり、性欲自体がないかのようにも見える少年少女、というその状態が、思春期の到来まで続く…という予定。
けれどいまどきの『この社会』に、このような規範的な発達プロセスというものが『ない』。…とまで断言するのを控えれば、それがめっきり乏しい。

まずは、≪潜在期≫における『性欲の抑圧』ということだが。フロイトはそれを健全な発達には必須な過程と言い、そしてよからぬ大人等の悪影響で、思春期前の早すぎる『春のめざめ』が生じることを懸念していた。しかしその懸念を、メディア等による性的情報のはんらんがあっさりと実現してくれた。
そういえば筆者にしても、「ハレンチ学園」や「がきデカ」を超・熱読しながら育ってしまった人間なので…。つまり思春期前から過剰にエッチな子どもだったので、『現代社会のひずみの犠牲者』を自認するにやぶさかでない(!?)。…ただし別のところにてフロイトは、『この現代の“性教育”とやらは偽善的すぎる!』のようにも述べておられつつ。
という≪潜在期≫の消失を追って、さらに、≪エディプス期≫の消失ということが起こっていると考えられる。3~5歳といった時期の幼児において、いまや『適切な反抗』がなされにくいのはなぜなのか、少子化の影響などありそうな気もするが、詳しいところは育児や教育の専門家らにたずねていただきたい。ともあれ、現にわれわれの目の前に、多数の≪晴クン≫たちがいるのだ。すなわち、

 『俺は、俺を産み捨てた母を犯し、父を殺す。』

この発言が出たところで初めて彼の、いびつなるエディプス期が始まっているのだ(…そこでの年齢は、推定17歳くらい?)。かくて潜在期の消失は『萌えオタ』や『変態紳士』たちの登場を呼び、またエディプス期の到来の著しい遅延は、家庭内暴力やひきこもりの発生を促す。つまりこう言うとあんまりなようだが、晴クンらが実行を期しているクーデターは、大がかりすぎる家庭内暴力だと言ってもよさげ。

…なお、付言して。エディプス期や潜在期に関し、その消失や時期の乱れの影響は、女子らには相対的に小さく、男子らには大だ、と見ておく。
なぜ女子らへの影響が小かと申すと、さいしょから女子らにおいては男子らに比し、それらの発現や効果が劇的でも局時的でもないからだ。それはまたなぜか…というとこの場では語りきれないが、にしても示した見方は、われわれの見ている『この社会』の現況に、そこそこマッチしているのでは?

そして、『家庭内暴力』…この場合だと子から親への暴力は、けっしてよくはないことではあろうけど。だがしかし、『何の意味もない蛮行』でも、けっしてない。ともかくもそれはその家庭の中に、何らかの小さからぬ問題があることを示す指標たりうる。
「OMEGA TRIBE」という作品にて晴クンが言う、『矛盾』。『この世界』、『この社会』、およびその社会の末端の単位たる『家庭』らの中に、無数に存在している矛盾。それらのあつれきを一身に受けとめるようなはめに陥って、そして黙って自殺していく子どもたちがいる。それに対する一方の、無意味げな暴力をふるうことやひきこもる≪行為≫らは、『しかし死にたくはない!』という子どもたちの意思表示に他ならない。
そしてその『しかし死にたくはない!』という無言の叫びこそが晴クンを、アフリカ奥地での絶望もきわまった大ピンチから、この世での活動に呼び戻したのだ。
かつ、一見まともそうな親たちでさえも、その子らに『死の寸前』的な矛盾と苦痛を背負わせている場合があることを考えると、まったくまともでない父によって殺されかけた晴クンの受難は、それらの苦痛を最大限に先鋭化させたものかと受けとれる。ゆえにきわまったる≪絶望≫によって、われらのヒーローには新人類たる資格がある…というわけだ。

と、ここまでに『ひきこもり』という例が出ているけれど、作中ではそれを筆頭に、のけもの・はぐれ・不適応者らにこそ、次なる進化へのチャンスがある…と言われる。これは今日の進化論の、ノーマルで一般的な主張でもある。

ところで晴クンらの期するクーデターの意味あいを、『いま、親子関係を見直せ!』というメッセージのプロモーション、と言うこともできそうだ(“家庭内暴力”の意味するところも、同じでありつつ)。そうして言われた『親子関係』が通常の親子だけでなく、『パパ(米)-ママ(日)-ボク』の象徴的な三者関係でもあるとは、すでに晴クンが明言している通り(…適切かどうかはさておいて、彼によるこの見方は、社会・政治・国際関係の問題らを、例のトライアングルへと還元している。つまり、『バック・トゥ・オイディプス』的な言説)。
ただし、『それらを、“こういうふうに”見直せ』という具体性が、晴クンの側にはとりあえずない。見た目的にはキッチリと計画的だが、実質的には破れかぶれの反抗である彼たちの≪行為≫の見通しのなさを、筆者は『そんなには』、責められないわけだが…。せいぜい言えることは、『愛されなくて苦しんだ者が救われようとするならば、まずはどうにか他者(ら)を愛してみては?』…くらいだが…。

しかしその一方で、他の新人類らの側には、『“すべて”の問題の根源たる親子の問題を、生殖のスタイルの改変でスッキリ解消してしまおう』、というプランらが存在する。ここはひじょうに興味深いので見ておくと、そのプランらを粗雑にも形容してみれば、『託卵』・『分裂』・『三叉生殖』の3種類。
さいごの1つは、男女いずれかの第3者が生殖に参加する『3P婚』(!?)…というゆかいなしろものだ。これはまた、フロイトが型を作りラカンが黄金のメッキをかけた『パパ-ママ-ボク』の聖三角形のエンブレム、それに茶々をぶち込んでいびつな四角形にしてしまおうという壮挙(, 暴挙, 愚挙)なのかっ?
等々あたりの今作の展開は、SF史上初めて性とジェンダーの問題へとシリアスに取りくんだル・グインの名作「闇の左手」を、ちらりと想起させたりもしつつ。かつまた、かの世に名高き「アンチ・オイディプス」の著者らは『n個の性』という超空想的な珍説を提示したらしいが(これも一種のSF的発想?)、そこらへの皮肉っぽい言及をもおぼろげに感じつつ。

そして、ネタバレになってしまうが常識で判断しうることなので、いっそ明記しておこう。「OMEGA TRIBE」作中に描かれたこれら3つの新規なソリューションらは、1つも成功しない。そりゃふつうに常識で考えて、成功するわけがない。
そもそも『新規』とは形容できない後ろ向きな策が前2者、また、単に『新奇』な場当たりのソリューションでしかないのが後1者。つまり、生物としてのレベルで人類の『親子関係を見直す』という問題提起には、適切で有益な解決が存在しそうもない。この見通しは正しい。

またそれらの失敗を見て思い出されるのは、初対面の時点でイブが晴クンに対して、『実は本当に新しい“新人類”は、唯一あなただけ』のように、ハッキリ告げていることだ。つまり、晴クン以外の見かけ上の新人類らは“実は”、現生人類へと進化しそこねた旧人類でしかない。そんな彼らには、単独で将来的な勝利を収める見込みなど、最初から皆無だったのだ。
まったくハッキリとそれは描かれていながら、しかし作品の大部分を占める抗争の描写の長々しさとトリッキーさと激烈さに気を取られ、そんな伏線を筆者はスッキリと忘れていたのだった。これは筆者の頭がとても悪いということなのか、またはそういう風にと仕向けた構成になっているということなのか…?

そういえば『親子関係を見直す』という問題提起に関連してわれわれは、かってカンボジアのポル-ポト派の残虐非道と言うにもあまりな社会実験を見ている。かつそのモデルは、中国の文化大革命の『造反有理』。…ということばの響きはよいが、しかし『党の指導下に』子らが親らを裁くという、これまた残虐にして無謀な実践であり。
またそれらと並行し、今作「OMEGA TRIBE」にはるか先行したSFまんがの手塚治虫「火の鳥 未来編」には、文字通りの『マザー・コンピューター』が生殖と養育を専権的に実行する…などというプランの提示もあった。けれど史実にもフィクションにも、それらの制度的・技術的な『親子関係の見直し』には、ただ1コの成功例もない。唯一、『限定的には成功例なのか?』とも見られうるのは、イスラエルの『キブツ』という制度だけだ(…これについて、もちろん筆者はよく知らない。なぜなのか、現在はすたれ気味らしい)。

もう1つポイントの存在を指摘しておくと、制度的でも技術的でもない『なしくずしの変化』として現在のアメリカでは、シングルマザーの大規模な増加と、結婚・離婚の反復による家庭環境の複雑化が生じているのだとか。後者については、もとの配偶者の連れ子を連れて再婚…ということがまれでない、のような話も聞く。
とすれば。「OMEGA TRIBE」作中で『3P婚』がさいしょに発生し普及するのがアメリカなのだが、じっさい『3P婚』にも近い複雑でおかしな親子関係が、その国では、すでに発生しているではないか…という気もしてくる。そこらを見た上で今作が描かれていたと考えても、特におかしいことはなさげ。
そして、シングルマザーやマルチプル家族のもとで育った子らは、平均的な家庭の子らに比してどうなのか…特に変わりはないのか…という問いはとうぜんあるわけだが、しかしそこらの実態の追求は、他の方々におまかせしつつ。

また。一見まったく関係なさげことも付記しておくと、「OMEGA TRIBE」に現れた『3P婚』ともいうべきアイディアについて、美川べるの「青春ばくはつ劇場」という4コマのギャグ作品が、異なる切り口で描いている。
すなわち、そのシリーズのヒロインで女子高校生の≪麗≫が電器店を訪れ、『親子電話がほしいんですが』と言う。すると店員は、『こちらのは子機が5台もついて便利ですよ』と言う。
『うーん、子機はそんなにいらないです』
『ならば、こちらはいかが! 子機が1台に対して親機が3台、という画期的商品です!』
『…ふつうの親子電話をください』(「青春ばくはつ劇場」第4巻, 2009, p.61より、自由な要約)

こうしたすぐれたギャグ作品を見ていると、同じようなことを描いて≪ギャグまんが≫は4コマ1本であざやかにサッサと済まし、一方のギャグでないまんが作品らは数百数千ページをムダに…あ、いや、過剰にページ数を費やす、という事実は知れる。これすなわちフロイトが、≪機知≫という知性のスタイルを大いに賞揚しているゆえんでありつつ。

  【Ch.3】 意味=享楽、その回帰まで

かつ、『親子関係の見直し』について、とくべつによさげなソリューションは存在しない、ということに並行し。もし人類にこの先の進化があるものとしても、その方向性が、今作「OMEGA TRIBE」にも描かれた『超能力バトル』で勝てるような『能力』の獲得…だとしたら、とうぜんひじょうにおかしい。それはありえない。
つまりガチのタイマンだと人間は、ライオンにもクマにも勝てっこない。…かの範馬バキ君や、そのお父さんでない限りは(…と名前の出た「バキ」シリーズもまた、親子の葛藤をテーマに描かれた作品、つまりもう1つの『オイディプス物語』かと見ゆる)。けれどもしかし、そうかと言って、ライオンやクマの方が人間よりも進化した高等な生物だとは、誰も考えていない。

また。SF設定の『超能力』について、原始人やその前の動物らがそなえていた『第6感』の復活(?)、なんて説明も聞かれるが…。
しかし、もしも先行人類や類人猿らが持っていた『第6感』を現生人類が持っていないとすれば、それは必要でもないし特に便利でもなかったからだ。先祖のサル類が持っていて人類が持たざる、小器用な木登りの『能力』…そのあたりと選ぶところはなさげ。で、そんな要らざる特殊な『能力』らを捨て去ることこそが、つまり≪進化≫なのだ、とも言いたいところだ。

われわれこと現生人類は、服を着なければ風邪をひき、靴を履かなければろくに歩けず、武器を持たなければ草食獣とのケンカにも平気で負ける。まったくもってふしぎなほどに、ひよわな生物ではある。ところがそれらは、まさしく≪進化≫の結果としてそうなっている…ということを認める必要はある。
筆者は先日、『ナショナル・ジオグラフィック』のHPで、『人間は4万年前から靴を履いていたことが判明』(*)との記事を見た(従来の定説より、約1万年も古くから)。かってながら、これには大いにうなづけるものがある。本来は要らないものである靴というアイテムを、ただの気まぐれでわれわれの大多数がそうびしている…ということは『ない』。いやしくもホモ・サピエンスたるものが外を歩くには、基本的に靴は必要、と考えるべきだ。

そういえば今作「OMEGA TRIBE」の開巻そうそう、約3万年前に、それまで並行して存在していた人類たるネアンデルタール人らを、現生人類が『絶滅に追いやった』…という記述があり、そしてそのページの画面には、後者から前者への一方的な殺戮が描かれている。このナレーションと画面とのびみょうな乖離が、ちょっと興味をひかれるところではある。
すなわち、現生人類がネアンデルタール人らを『直接に』滅ぼしたという見方は、現在までの定説ではない。むしろその説は今後にわたり、すたれていく気配だ。
そうでなく、直接の殺し合いなどはなかったとしても、同じニッチ(生態的地位)を争う2つの種は、いずれ劣勢な一方が滅びる(永続的な共存はない)…という原則がまずありつつ。そしてネアンデルタール人が劣勢となった理由として近年言われているのは、繁殖能力の乏しさ、発話機能(=言語能力)の貧しさ、といったところ。

『(ネアンデルタール人の特徴の1つとして、)現生人類と比べ、喉の奥(上気道)が短い。このため、分節言語を発声する能力が低かった可能性が議論されている。』(Wikipedia Japanより)

おサルに言語が操れないのは、単にお脳が弱いからばかりでなく、発声器官が貧弱だから…と言われる。その逆にカラスや九官鳥らは、まったく理解していなくとも人語をマネして発声できる。人間らが≪記号≫として用いたフレーズを、九官鳥らは≪信号≫として人間らに返している、という感じもする。

で、もしも『分節言語』(=われわれの常用するふつうの言語)がなかったとすれば、彼らと現生人類との優劣は決定的で致命的だ。それがないということは、この堕文が、『ウホホッ、ムホホッホ~イッ』といったような文字列だけでビッシリと埋められており、しかもニュアンスで理解してくれ、的なことだ(!)。
もっとかわゆくネコ語で『にゃにゃにゃん、にゃあ~ん!』と書いてもいいが、ともあれ『分節言語』なしの発話では、発話者のきげんがいいとか悪いとか、その程度のことしか伝達できない。つまり、記号ならぬ信号であるしかない。いくらこれが堕文中の堕文でも、それより少しくらいは『読めそう』なものなのではと、自分では大いに自負しつつ!
見かけ上は言語活動の外側に、『指をさす』という伝達の仕方がある。だが、そんなものでも意外に高度なコミュニケーションなようで、乳児や動物(加えて、ひじょうに重い認知症の方)たちは、示された指自体を眺めるばかりだ。しょうがないので自分が顔ごとソッチを向くと、つられて彼らも同じ方を見る、ということはある。『分節言語』のない世界とは、そのような伝達しかない世界にちがいない。

それこれを考えれば、『じゃんけんぽん、アッチむいてホイ!』といった遊びを愉しめる…そんなことがすでに、われら人類の知能のすばらしさをまたく証明している、かとも見れてくる。『指さされた方を向く』という作業自体がすでに高度であるに加え、『指さされた方を、“向かない”』というそこでのルールまでも理解せねばならないのだから! ついでに申してジャンケンの『チョキ』という手つきがもうすでに、人間ならぬ動物らにはできないし…(カニさんは別にして)。
そしてゲームに失敗するものがあれば、ふつうその場の人々が笑い崩れる…それは『所定でありかつ恣意的なルールのある“遊び”』という理解がちゃんと共有されている証拠なわけで、かくて根源的に考えたら人間らの所業らは、ごくごく小さなことまでが宇宙の中に輝く奇跡、としか思えない! 「ジョジョ」シリーズの荒木飛呂彦先生ではないが、その一貫して言われる『人間讃歌』ということばが、ここらで脳裡に浮かばないわけにはいかない。『人間という生き物のすばらしさ』とは、ノーベル賞学者や五輪のメダリストら『だけ』をさして言われるのでは、けっしてない!

かつまた、『人語(=分節言語)』を解する者は、動物であれども喰ってはならない…とは、ご存じC.S.ルイス「ナルニア・サーガ」中の掟だが。逆にここまで考えてきたら、『分節言語』をまったく有しない者は人類にあらずとみて、別にどうしようとも?…という気がしてきてしまった(!)。そんなでは『現生人類によるネアンデルタール人の虐殺』という仮説に心理的な根拠(?)を与えているようだが、しかしその説には、強い根拠はないのだ。
という『根拠の薄さ』を分かった上でも強い『ヒキ』を作ろうとして、今作こと「OMEGA TRIBE」の冒頭シーンでは、ナレーションと画面の描写とのびみょうな乖離が演出されているのかも?…などとは思ったのだが。が、けれども別に、そんなげすっぽいかんぐりに固執はしない。

ところでさいご、今作のほとんどさいご近く、わりと遠めの近未来あたりのところだが…。以下のネタバレはさすがにちょっとよくないかとも思いつつ、しかし書いておけば。
いろいろあったあげく、いちどは『適応者』として地球上に、最大の勢力を誇った『3P婚』の方々。作中の用語では、『三者人(トリプル)』と呼ばれる新人類。しかし彼らは、ただ単にそこでの現況に『適応』してしまったものとしての、自分らの将来的な限界を悟る。
そして『三者人』らの代表らしき人物は、まったく何の取りえもなさそうな…何でもない凡人どころかむしろ、社会からズルズルと落伍しかけの老けぎみな日本の青年をたずね、『キミこそが次世代人類の父祖になるのだ』のように告げて彼を祝福する。
まったく何でもないということが、未来の何かであるための条件なのだ…というテーゼが、ここにて正しく確認されている。そして、ぜんぜん理解できないままにふしぎな祝福を受けてしまった青年は、それをきっかけにそこまでの彼の考えをちょっと変えて、大急ぎで病院へと向かう。
病院で待っていたのは彼の妻と、そして産まれたばかりの彼たちの子どもだ。そうして彼は、彼とその生きる衰退した日本社会が、ままならぬ失意や逆境の中にあることを認めつつも、しかしあらためて、心から、彼らの子どもの誕生を喜ぶのだ。

ここでわれわれの物語は、『いま、親子関係を見直せ!』という、さきに見た晴クンからのメッセージに戻るのだ。その、親子関係を見直す、再び正しいものとする…ということが新たな人類への道だとして、そこにいたるかんたんな近道の、生物的・技術的・制度的な方策などは1コも存在しないと、すでにわれわれには確認できた(…補助的に有効な方策、くらいはあろうけど)。
よって親子関係をどうにかするには、単に人たるものたちのそれぞれが、正しく望ましき親子関係を作るために、心からつとめるしかない。何せ『まず』その努力がなければ、いっさい何もありえないのだ。というところに、必然性あるものとしての≪オイディプス≫が回帰する。正しい親子関係の中には、いつくしみだけでなく、葛藤もまた必然的にあろう。

などと申し上げている筆者は今作こと「OMEGA TRIBE」の、テーマ性のような部分…そこらへと大いに共感している感じだが。いやじっさい、そうなのだが…。
けれどもしかし、今作の大部分の中身と言える『超能力バトル』と『ポリティカル・アクション』の要素…そこらに対してはそんなにひかれるところがなかったとも、正直に白状いたす。それらは一流のプロのペンによって、十分に面白そうに描かれたページらではありながら。
とは申しても、そこらを単に切って捨てては『物語』がなくなってしまうので、それではまったく何も成り立たないが…。にしても結びふきんのあまりな正しさを見た上では、そこまでさんざんに描写された『超能力』にも『クーデター』にも、それぞれ自体としての大した≪意味≫はなかったではないか、とも感じないわけにはいかない。

と、≪意味≫という語が出たところで1つ申して、この堕文を終わりたい。われわれが今作の決定的な場面と見るところ、『俺は、俺を産み捨てた母を犯し、父を殺す』というあのせりふがポツリと出たシーン。そのすぐ直後に晴クンはキリリと意を決し、渋谷街頭にあふれる群集に向かって、声も限りの大音声で、次のように宣言する。

 『俺が、
 お前らに、
 快楽{意味}を、
 与えてやる。』(「OMEGA TRIBE」第4巻, p.92-93, {}内はルビ)

ここに出た、『快楽』と書いて『意味』と読ませる…という晴クンの言語センスは、まったくもっての精神分析に対する挑撥、それ以外の何でもないな…と、ここで筆者はかってきわまる感心をいたしたのだった。ラカン一流の超高等なる理論によれば、フランス語の『ジュイッサンス(享楽)』という語は『ジュ・ウィ・サンス(私は意味を聞く)』、と読み換えられるのだ(…だじゃれ!)。かつラカン用語の≪享楽≫は一般にはない概念だけど、この場面にて晴クンの言った『快楽』は、それへと言い換えられうる。
…けれども。追って晴クンが、たとえば筆者のような凡人らに『享楽=意味』を与えてくれようとして企画したこと…後に晴クンら一味が『祭り』と呼んだもの…つまり、彼らの目論んだクーデター。それが作中の一般人らにとっての『祭り』として機能し彼らにおいての『享楽=意味』が実現されたようすは、ほぼないのだった。これらを見ていた筆者においても、それを受けとった感じがいまいちしない。

【付記】 2010/02/04。文の中盤で、手塚治虫「火の鳥 未来編」についてふれているが、このたびそれを再読してみたら、筆者の記憶とはだいぶ異なるお話だった…ぎゃふん! ではあるけれど、『コンピューター制御の育児』への懐疑を手塚がしつように繰り返し描いている、という事実はある。
また文中、≪オイディプス≫と書いている一方で『“エディプス”・コンプレックス』とも書いている。これは意図的に、一般語と分析用語とで書き分けている。後者の表記は方針として、シェママ他編「新版 精神分析事典」(訳・小出他, 2002, 弘文堂)に従う。