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2010/11/05

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - ≪中の人≫にも、またその中の人?

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」第6巻
杉本ペロ
「ダイナマ伊藤!」第6巻
 
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部屋をちょっと片付けようとしていたら、ずっと探していないこともなかった「ダイナマ伊藤!」の単行本のうち、第6巻が出てきた。
そういえば…いまいち熱心な読者じゃなくて申しわけないが、自分このシリーズ全7巻のうち、何冊までが手もとにあるのか、いまいち把握できてない。3冊は確実、たぶん4冊くらいはあったような気がするのだが。
そんなヤツではあるけれど、ひさしぶりにこの第6巻を一読、ちょっと感じたことを書いておくと。

1. 中年ヒーローの、こっけいと悲惨!

いやまずその前に、この作品「ダイナマ伊藤!」の、版元からの宣伝文をご紹介。

超非常識人間・ダイナマ伊藤が人の迷惑も省みず、思い込みで突っ走るハチャメチャな日常をシュールに描いたギャグ満載の短編集。

まあ、そんなようなお作品に間違いはないけれど。しかしこの文章では、何となくわれらの中年ヒーローが、悦んでその騒ぎらをを起こしているような感じ?
…それがそうでもない気がするというのは、例によってあまり強調したくはない≪ギャグまんが≫の裏面らしきところだ。とは、何を言っているのかって。

ダイナマさんがあまりにも正体不明なので、作中の人々も見ているわれわれもびっくりさせられる、というお話だが。しかしヒーロー本人には≪自分≫が何なのか、分かっているのかというと、まったくそんなことがない。むしろばくぜんとは、『自分が分からない』ということで苦しんでいるようにも見えるのだった。

たとえば、この第6巻の中盤の展開。ダイナマさんが年越しを目前に『来年こそは爆発して みせますよ』と大活躍を予告すると、テレビで新年へのカウントダウンが始まる。
…そのカウントダウンの進行につれ、彼のトレードマークの天パ頭が『ムクムクムク』とふくれ上がり、ゼロのタイミングでドカン!(p.63) 予告通り、ほんとうに爆発してしまう!

その次の回はお正月のお話になり、たくましくもダイナマさんは、前回の爆発でホータイだらけの体で、タコ揚げなどに興じている(p.65)。そこへ彼が飼っているような動物の≪ムガトラ君≫らが、お年玉をせびる。
…途中のドタバタは省略して、ムガトラ君は逃げ廻るダイナマさんを追いつめて、『3つ数える内に 払えムガ!』とおどしにかかる。そして『3、2、1、』とカウントすると、またもダイナマさんの頭がふくれ上がり、『ゼロ!!』でまたまた大爆発!

2. ≪不条理の人≫の、栄光と苦悩!

そうとすると、ちょっと何かが分かった感じだが。にしても2回めの爆発は、シャレにならん規模だったらしい。次の回の冒頭で彼は病院にかつぎこまれ、大手術を受ける(p.73)。もはやダメかと医師らも思ったらしいのに、しかしページをめくるともう超回復しているのは、さすがダイナマさん!
…そしてまた途中を省略してダイナマさんは、何か隠している感じの主治医につめよって、自分のことをたずねる(p.79)。

【伊藤】 私は…私は何者なんですか。
やっぱり普通の人間では ないのですか!?
【ドクター】 私が 調べてわかったことは… ダイナマ君は……
カウントダウンを聞くと 爆発する体質のようじゃ
【伊藤】 (ちょっと変わった体質なだけ、と聞いて安心し、)良かった。
【ムガトラ】 そんな人間 いないムガ!!
【ドクター】 現にここにいるじゃないか!! 3、2、1、0(ゼロ)!!

で、どういうオチになったかは言うまでもない。不条理の人であるダイナマさんは、その自らという不条理によって、彼本人が苦しんでいないわけではないのだった。
かつ。前にペロ先生の「俺様は?(なぞ)」を論じたところで(*)、その内容について『ジョジョっぽい感じもある』などと書いたが。そしてこちらの作品「ダイナマ伊藤!」もまた、ジョジョ第4部に出てくるキラー・クイーンだったかシアー・ハート・アタックだったかの効果で、人間爆弾にされてしまった人物を描いているがごとくなのだった。

3. ≪中の人≫にも、またその中の人?

しかもこの第6巻では、何げに活躍していた人物らの皮が1枚はがれて、中から違った人が出てくる、という描写が多し。それがひじょうにショッキングというか、≪外傷≫的というか。いま見た病院のエピソードの途中でも、どういう必要があってか、わりにふつうっぽいドクターの皮が1枚はがれると、中からちんちくりんのブラック・ジャック先生もどきが出てくる(p.78)。
で、すると。それをかげから見ていた目撃していたムガトラ君は驚き、そのショックでパックンとその体が割れて、中の小さめなムガトラ君が顔を出す(!)。

とは、どういうこと…と聞かれても、とうぜん筆者には分からない。ドクターは何らかの意図あって変装していたようだが、ムガトラ君の方には何の説明もつかない感じ。
またこれを何度も何度も魅せられては、『誰が誰なのか?』ということに、何の確信もなくなってくる。背中のチャックを開けて着ぐるみから出てきたからといって、その『中の人』の≪中の人≫が、またいないとも限らない。

かくてこの「ダイナマ伊藤!」に描かれた世界には、あまりにも確かなことが少なすぎる。そもそもその毎回のエピソードが、『問1、問2、問3』…とナンバリングされていることからも、解きえないなぞが次々と、読者に向かって投げ出されている気配。
そして申し上げるまでもなく、自分が分からず、他者のことも分からず、世界が何であるのかも分からず、解きえないなぞを次々と突きつけられている…とは、画面の外のわれわれのことだ。その考えたくもないわれわれの惨状を、この「ダイナマ伊藤!」という作品は、戯画としてかろうじて、正確に描き出しているのだ。

2010/10/26

南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」 - ≪漢道≫の絶えざる限りにおいて

南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」 
関連記事:南ひろたつ「漢魂(メンソウル)!!!」 - 走りぬけ、≪漢≫の道をッ!

「もうスンゴイ!!!」と呼ばれるスンゴいショート作品は、かの悠久の名作「漢魂(メンソウル)!!!」に先だった、南ひろたつ先生の初連載。週刊少年サンデー1997年4号~48号に掲載、単行本は少年サンデーコミックス全1巻。
そして筆者にも文意がよく分からないが、出たころの宣伝文らしきものをご紹介いたしとく。

『恋するモアイ。アンラッキー上田。そして海パンヤクゥザ。キラ星のように輝く、もうスンゴイ漢たちの伝説を新鋭・南ひろたつが贈る!!!』

さて自分の存じ上げる南センセのお作は、これおよび「漢魂!!!」全3巻だけだが。この両作にて超あからさまに貫徹されたそのテーマ性は、≪漢(おとこ)≫、郎(おとこ)、男、オトコ!…まったくもって、それ以外ではろこつになさすぎる。
こんなんだと、『南ひろたつは、≪漢≫を描いたまんが家である』…という1センテンスを見さえすれば、もはやご本人は、この世に何ら想い残すことがないのでは?…と、要らぬことを考えたりもする。

どういう調子、かというと。全11章で構成されている今作の、第1章がまさしく≪漢の章≫。そのチャプターのトビラのあおり文を引用いたせば…(p.5)。

『漢(おとこ)とは強き生き物。
漢(おとこ)とは愛を知る者。
今、真の漢(おとこ)たちのストーリーが始まる!!! 』

と、いうわけだ。

しかし思うのだが、本宮ひろしや宮下あきら等のセンセらも(おそらく)オトコを描いたまんが家だとして。
一方のわれらが南センセは、≪ギャグまんが≫としてオトコを描いておられるわけだ。筆者においては超とうぜんながら、その≪差異≫が死ぬほど重要だ。というところで、その≪漢の章≫から、実作の様相をちょいと見とくと。

…イガグリ頭で学生服のサエなそうな少年が、便意をこらえながら、『くぅう』…と廊下を歩いている。ソコへ背後から『待ちたまえ!! そこのキミ!!』と声をカケたのは、サブタイトルに名前が出ている『超人 Mr.トト』だ。
そのMr.トト様の顔は和式の便器になっており(ベンキマンか)、オデコには誇らしげに『TOTO』のブランドネームが。そして彼は少年に、その顔面の使用をうながす(p.13)。

――― 南ひろたつ「もうスンゴイ!!!」, ≪漢の章≫より ―――
【Mr.トト】 ワタシのを 使いたまえ!!
【少年】 (…びっくりしてるばかり)
【Mr.トト】 キミの魂の叫びが ワタシを呼んだ!! さぁ!
何を ためらってるんだ!! もれそうなんだろ!! 使え!! 
(廊下に這いつくばって、『使用』をしやすいようにして、)早く!! 合体だ!!
(ビシィ!とガッツの握りこぶしを示し、)『勇気を出すんだ!!』
【少年】 いや…でっ …でも…(身悶えしているばかり)

これはちょっとよすぎる気がしたので、愛とリスペクトをこめて、もういちど引用。

『さあ! 何を ためらってるんだ!! もれそうなんだろ!! 使え!! 早く!!
合体だ!!』

というこのエピソードに、南センセの描かれた荘重にして雄渾なる≪漢節(おとこぶし)≫の一典型が、いきなりある。われらのヒーローたる≪Mr.トト≫がいま魅せてくれたように、オトコは≪真の漢≫としてマスラオ的に振るまうのだが。
しかしその≪漢ブリ≫が周りには、ただ単にウザいとか濃すぎとかありがたメーワクだとか…そのくらいに受けとられがち。つまり≪漢ブリ≫は、基本的に理解されぬ…という嘆かわしき状況がある。

とまでを見てきたらわかることだが、たとえば≪応援団≫チックなオトコの示し方なんてのも、こんにちではひじょうに理解しがたくなっている。ゆえに、どおくまん「嗚呼!! 花の応援団」(1976)というむかしのまんが作品は、少なくとも半分くらいはギャグかと受けとめられている。そこまで歴史をさかのぼらないでも、「魁!!男塾」(1986)にしたって、ギャグっぽいところは大いにありげ。
かくてオトコたちが≪漢≫を貫くさまが、何かのまちがいで(?)むざんにも≪ギャグ≫に見える…という一般状況があり。それを逆にして南センセは、≪ギャグまんが≫によってオトコを描く、という方法に進まれたのでは?…と、これらを見て考えたのだった。

そうして筆者も男のはしくれみたいなので、よって≪漢道≫の追求は、生命(いのち)ある限りのタスク。自分が≪漢≫というものを考えるとき、南ひろたつ先生の崇高なる創作群を思い出さないことはないだろう。よってわれわれの論考も永遠(とわ)に続く、≪漢道≫の絶えざる限りにおいて!

2010/10/25

水口尚樹「地底少年チャッピー」 - 地底人だけに、暗黒の微笑をたたえ

水口尚樹「地底少年チャッピー」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「地底少年チャッピー」

「地底少年チャッピー」は、2006年に週刊少年サンデー掲載のギャグまんが。単行本は少年サンデーコミックスより、全3巻。

たぶん版元の方から出たあらすじによると、それはこんなお話。

高校二年の女の子、土屋ミヤコの前に突然現われたちっちゃな少年と、その子よりもっとちっちゃな美形の男はなんと地底人だった!! 漫画家『水口尚樹』が描く地表観察日記ギャグ、ここに開幕!!

それはまあそうなんだが、しかしそのどこらに見どころがあるかというと?

1. 穴があったら入りたくて!!

お話の始まり方は、こう。ある晩、ミヤコの家の庭の土中から、ボコッと浮上した地底少年チャッピーくん。大きなひとみと、くるるんうずまき型の前髪がチャーミー。
それが胴体には、何か真っ赤なヨロイ的なものを着込んでおり。そして肩にはトゲトゲの武装、腕と足はボーダーという、びみょうにはおしゃれかも?…というスタイルで登場。
そしてこの少年が、空を見上げて、はればれと『暗く湿った 地底と違って 眩しいやぁ!』と言う。そこへミヤコが、『夜なんですけど』と突っ込む(第1巻. p.9)。

追って分かるのだが、地底人が地上に達することは、地上人だったら宇宙に行くぐらいの大冒険らしいのだ。そこらを真に受けると、『夜空がまぶしい』はなっとくいく。
そしてチャッピーくんは『この景色を、地底の祖父にも見せたかった…。けれど、もう祖父は…』などと、思わせぶりなことを言う。ずっと引いていたミヤコは、そこではじめて相手の側に心を動かす。

【ミヤコ】 え… ま まさか おじいさん…
【チャッピー】 あ すいません… 地底人 だけに…
湿っぽい 話して。(超どアップ、とくい満面!)
【ミヤコ】 (モノローグ)コ…コイツ まさか、それを 言うために?

『地底人だけに、話が湿っぽい』、『地底人だけに、発想が超ネガティブ』。これらを言うため『だけ』にチャッピーくんは、地上に現れたようなものなのだった。するとその存在は、いわゆる『出オチ』的。このまんが全3巻、追ってだんだん苦しまぎれのようなお話が目立ってくるが、それもそのはずなのでは。

そして、そこらに注目すると。これの単行本・各巻の裏表紙に2コマまんがが載っていて、それが手っ取り早く、今作のテイストを伝えてくれそうな気が?
それはほんとうは、英語・ヒンディー語(?)・中国語の対訳まんがなのだが、その日本語の部分だけ、ささっとご紹介いたせば。

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第1巻, 裏表紙より ―――
【ミヤコ】 (読者に向かって、)私はヒロインのミヤコです。
そしてこちらが主人公の…
【チャッピー】 (土中から顔だけ出して、)やめてよ、主人公だなんて…
地底人だけに恥ずかしくて穴があったら入りたくなる!!

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第2巻, 裏表紙より ―――
【チャッピー】 (食事中のミヤコに、)地底人として大事な質問があるんだけど…
カレー味の土と、土味のカレーとどっちが… ねぇ、ちょっと聞いてる!?

――― 水口尚樹「地底少年チャッピー」第3巻, 裏表紙より ―――
【チャッピー】 (スペイシーなお姿の人物を紹介、)地底人だけに
土星人と知り合いになったよ!!
【ミヤコ】 スゴーイ!! 何かアンタよりずっとしっかりしてそうね!!
【土星人】 いきなりですけど脱糞しまーす。
【チャッピー】 それが土星人だけにさらに輪をかけたバカなんだ!!

ちなみにミヤコの名字が『土屋』だったわけなので、彼女が今作のヒロインになってしまったことにも、まあ必然性が…たぶん!
そしてこれらを見ると、こういう2コマとか4コマの形式の方が、今作は面白くなったような気もしてくる。いつも筆者は水口尚樹先生のお作につき、『いいところはいいんだけど、構成がややゆるいのでは?』と感じている。

2. 悪夢、終わらない悪夢!

さてだ。面白げなパートをご紹介いたした後だから、申し上げるけど。今作こと「地底少年チャッピー」には、ひじょうに不気味で怖いお話、と受けとれる面がある。
端的に申してしまえば、この作品で言われる『地底』とは、死者の世界なのだ。何しろ今作は、始まり方からしてハイパーだ。

第1話の冒頭でミヤコは、かわいがっていた金魚のチャッピー、それが死んでしまったので葬ろうとして、涙をこらえながら庭に穴を掘っている。そうするとシャベルの先に、何だか『ガッ』と当たるものがある。
それが、チャッピーくんだった。ミヤコのシャベルは、彼のかぶっていたガラスのヘルメットを貫通し、例のうずまきの部分に刺さってしまう。ヘルメットはこなごなに砕け散り、そしてチャッピーくんのおでこから、『フバァァァ』と血が噴き出る。それでびっくりして、ミヤコは『キィヤアァァ――!!』と叫ぶ(第1巻, p.7)。

と、ひじょうにショッキングに今作は始まっているのだ。ところがその血がすぐに止まって傷が治ってしまったので、ミヤコは相手を尋常でないとさとる。
それから場面は、さきの地底ギャグ初ご披露シーンに。それが決まったので気をよくしてか、彼はちょっと態度を変えてきて、『お姉さん名前 何ていうの? 僕の名前はチャッピー!!』と、さわやかに自己紹介。
ところが、なぞの少年が≪チャッピー≫を名のるのが、またミヤコにはショッキングなのだ。

【ミヤコ】 何でアンタが チャッピー なのよ!?
(地面へと視線を走らせ、)チャッピーは 私の金魚… あれ!?
【チャッピー】 (足の裏に貼りついた“もの”に気づき、)ん、何だ これは?
【ミヤコ】 いやああああぁぁ!!!

ここでミヤコは、気を失ってしまう。われわれの見方だとこの展開は、人が悪夢からさめる瞬間を思わせる。わりときれいに、そのふんいきが再現されている。
そして直後のシーン、あたかもそれだったかのように、ミヤコは自室のベッドの上で目ざめる。それから彼女が階下へ向かうと、ダイニングキッチンではミヤコの両親が、チャッピーくんを交えて楽しく朝食を摂っている(!)。
ここでチャッピーくんの地底ギャグが、またジットリとさえやがる。悪夢は、終わらないのだ。われらが地底人のチャッピーくんは、死んだ金魚のチャッピーの転生…という感じもしないが、しかし何かみょうに関係ありげなものとして、入れ替わりに『地底』から登場してきたのだった。

ではこの第1話を、いちおうさいごまで見ておくと。

追って両親がへいきでチャッピーくんを引き取ろうと言い出すので、不ゆかいでミヤコは家を飛び出す。ところが路上でヤクザの人に激突してしまい、からまれそうなふんいきに。
そこへチャッピーくんが追いついて、『友達だから』助けようみたいな展開へ。すると死んだチャッピーの祖父が回想として登場し、そしてへいきで場面に割り込んでくる(!)。

…で、中国拳法の必殺わざ『竜の拳』に、地底人テイストを加えた『“土”竜(もぐら)の拳』というものが、まったくの不発に終わった後。危機一髪のチャッピーくん、そのおでこのうずまきのあたりが、『ゴオオオ』と輝き出す!
まばゆさに目がくらんだ後、その光がやんだら、さきのおヤクザさんがいない。どうしたのかと聞いてみたら、チャッピーとその死んだ祖父はそろって『ナイショ♥』のポーズをとって、『オフレコで』と、答にならない答を返すのだった(p.26)。

3. ≪うずまき≫の、謎と神秘…!

伊藤潤二「うずまき」第1巻そういえば先日、自分は伊藤潤二先生の「うずまき」(1998)というお作を読んだ。これがご存じのように、すさまじく『悪夢』的な衝撃ホラー作品だが。
そしてチャッピーくんのおでこのうずまきは、潤二先生の描くそれと等価なのだ。そのいずれもが≪死≫とか≪虚無≫とかへ通じる回路を示す記号であり、それが一方で『ホラー』、また一方で『ギャグ』として描かれているのだ。
「うずまき」第1巻(スピリッツ怪奇コミックス)の巻末あとがきに、うずまきの謎と神秘を解明しようとし、潤二先生がナルト巻きやサザエらを食しまくったようなお話が、コミカルに描かれている。…これだ。潤二先生の描き方はほほえましくも不器用だが、同じ≪不条理≫が扱い方しだいで、ホラーにもギャグにもなるわけなのだ。
(余談だがそうなので、ギャグに並んでホラー作品は、筆者にとってまんが界の最重要なジャンル!)

と、ひじょうにイヤなイベントだったにしろ、彼に借りを作ってしまったミヤコ。追ってその夜、こうなったらチャッピーくんが家にいてもいいと言うと、意外に彼は『いや、もういいや』と、逆にそれを断ってくる(!)。
放っておけば出しゃばってくるのに、こっちが押していけば引くという、『地底人だけにネガティブ』現象の発動なのだ。けれどもどっかへ行ってしまうのかと思ったらチャッピーくんは、いつの間にか土屋家の庭先に彼のマイホームを建てていて、そこへ居つきやがるのだった(第1話・完)。

と、このように、あざやかな≪不条理≫を描いて始まった、このお話。かわいい顔して死の世界から、湿っぽくもネガティブな言動をしにきたチャッピーくん、土中から顔だけ出てるヒーローという、ざらにはない絵図を描いたもの。
その全編が超面白まみれと言ってはうそになりそうだが、しかしひじょうに忘れがたい作品ではあるのだった。いずれまた、そのいいところを見ていきたいと考えながら、いまはこのへんで!

2010/05/07

杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」 - ぱわふるみらくるガマン大会!

杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」第1巻 
参考リンク:作品データベース「俺様は?(なぞ)」
関連記事:杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - 心はマジだが、立場的には冗談

人気のないブログで人気のない作品を話題にするなんて、まったくもってのガマン大会の挙行みたいなものだ。とはいえ当家の事情として、ゆうべこの杉本ペロ「俺様は?(なぞ)」全4巻(少年サンデーコミックス)をうっかり読み返してしまったので、そのタイミングで記事にしておきたいのだった。
さてこれが、2003年から2年間ばかり、週刊少年サンデーに載っていたショート形式のギャグまんが作品なのだが。そして参考リンク先のユーザーによる評価を見ると、まず今作の存在は、その時期のサンデー読者たちにとってのガマン大会であったらしく。しかも筆者が見た感じだと、作品の全般的ふんいき自体が、その第2巻あたりから苦しまぎれのガマン大会チックになっているとは痛い!

で、どう言ったら何かが伝わるのか、と苦しみながら。さいしょに筆者の全般的な感想でも書いておくと、少なくとも今作は『たまには読み返したくなる作品』だ、とは言える。そしてそのたびに『これはいったい“何”であろうか?』という疑問で、その『読み』が終りなきものとして終わるのだ。
よって「俺様は?(なぞ)」という今作の題名には、まったくいつわりがなさすぎだ。そしてその性格が、さいしょから答の用意された問いを好む方々の反発を誘っている。

だいたいペロ先生の創作態度として、なぞを提示しておいて答は出さないというところは、これの前作「ダイナマ伊藤」からして見うけられる。で、それはいいと、筆者は考える。こんなところでカフカの名前を出すのも何だが、そっちの超メイ作らにしたって永遠のなぞまみれであり、公式の答などはどこにもないのだから。
ただし『なぞ』というにも、人の喰いつくようななぞと、そうでないものがあろう。まず、『何かのひと押しでとけそうななぞ』には、人を誘う要素がある。またその一方、とけそうになくとも、あまりに重大で差し迫ったなぞであれば、いやおうなく人はそれに向き合う。
そういうところから、事後的・遡及的に申すと、今作のなぞ構成に難がないとは、とても言えない。『とけそうもないなぞ、しかも“俺様には関係ない!”』のように見られては読者の関心を失ってしまうわけだが、惜しくもそっちへ傾いちゃっている感じがぜんぜんなくはない。

ともかくもまあ、この「俺様は?」がどういったお話なのか、その第1話『レッスル馬鹿』あたりを見ておくと。

物語の語り手≪笠井くん≫は、超ネガティブ思考の小学生。ある日、彼のクラスの3年D組に『大物でわがままな』転校生がくるといううわさを聞いて、『きっと 僕は いじめられるん だろうな……』と、朝っぱらからさっそくブルーなことを思考中。
そこへ担任のよし子先生に先導されて教室へ入ってきた転校生は、デストロイヤーのような白マスクをかぶった、身長2mのマッチョマン(!)。あまりに大きすぎて入るさい、戸口にガツンとおでこをぶつけてしまう。そしてそのおでこには、『?』の文字。
みんなあっけにとられ、笠井くんが『小学生なの?』と問いかけると、大男は『俺様はどう 見ても小学生だ コノヤロウ!』と、ひじょうに無理なことを言い張る。まあよく見ると、その着ているTシャツに、大きな字で『小三』と書いてはある。ただしさらによく見ると、『小一』と書かれていたものを、後から修正した気配がある(!)。

で、ともかくもよし子先生が、『みんなに自己紹介を』…と持ちかけるも、大男はものすごい顔をして、『俺様には関係ない!』、『なんだコノヤロウ!』と、そんなことばっかしを言ってやがり、まったく会話が成立しない。しまいに怒った先生が、『関係ないなら出ていきなさい!』と命じるが、そこでまた『俺様には関係ない!』の一点張り。
これらを見ていた≪国鉄くん≫と呼ばれる七三メガネのオタク少年が、『彼はプロレスのマスクマンであるに違いない、覆面レスラーに素性をたずねるのはヤボの骨頂です』的なことを言い出す。しかし大男は自分をレスラーであるとも認めず、あくまでも一介の小学生を言い張る(!)。

と、そんなことでもめているうちに、大男のマスクの内側から、たら~りと血が流れ出してくる。さっき戸口にはげしくぶつかったところから、血が出てきたのだ。それを見た大男は、『壁コノヤロウ~』と怒りに燃え、そしてブチきれて、逆襲の頭突きで戸口の壁を『ドゴッ バゴッ』とこなごなに粉砕!
するとあちこちのものが倒れたり崩れてきたりするので、『ドア コノヤロウ!』、『柱 コノヤロウ!』と叫びながら、大男は超もうぜんと暴れまくり! しばし一同あぜんとしていたが、やがてよし子先生が、『教室ぶっ壊す気ィ!? 馬鹿っ!!』と叫んで、大男にビンタ一閃! ところが大男は『女教師コノヤロウ!』と叫んで、ふらちにもよし子先生にまで頭突きをかましてノックアウトしてしまう…ッ!

ちなみに今作で『女教師』には、『にょきょうし』とルビ。筆者は『じょきょうし』と読むように思っていたが、『にょ』の方が何となくいやらしい感じ。ところがその語感のいやらしさが今作では、まったく宙に浮いているのだ。

と言ったところで今作の『ヒロイン』と言えなくもない人物、われらがよし子先生をご紹介。この方は大分出身、年齢はヒミツだが『婚期を逸しかけ』というあたり、すなわち独身、どうでもいいけど広島カープのファン、そしてブサイクでも美人でもなくて、全般的にはひたすらに地味。
ところがこの地味すぎる『にょきょうし』が、のちに≪俺様君≫と呼ばれる大男の出現をきっかけに、みょうに輝き出すのだ。ただしその輝きが、ひじょうにあやし~い色調ではありつつも。

すなわち。どうしてそんなにタフなのか、俺様君からいいのを喰らっても、よし子先生はぜったい退かずにやり返す(!)。そうすることで教育者としての意地を見せまくるのだが、しかしその反面、ふつうの授業をまったくやらなくなってしまう(!)。
さらに俺様君に関係ないところでも先生は、すだれハゲの教頭からプロポーズされて『セクハラ!』とテンパッたり、急にアイドルを気取ってはでに着飾り『よっしー』を名のったりと、いたるところで大暴走。…かって俺様君の出現以前はまともだった(らしい)D組が、お話の進行とともにどんどんメチャクチャになっていく、プロレスチックな大暴れと下ネタの巣くつになってしまう、その先陣として、われらのよっしーは突っ走るのだ。

さらに先生の暴走は、相手が常人なら10人くらいを一撃で吹っ飛ばす猛者になったり(!)、そうして刑務所とシャバとを平気で往復していたり(!)、というところにまでエスカレート。ルックス的にも、こっけいな有為転変の描写あり。というよっしー先生が、一般的にはあまり好感を持たれなさそうな感じだが…。
しかし筆者はふしぎと、このキャラクターにひかれるところが大いにある。だから『教頭先生からのプロポーズ』というイベント(第1巻, p.42)は、ショッキングではありながら『あることかも』という感じで受けとめられる。
なぜなのかって、『何の説明もなくて異常にパワフル』だという、そこがいいのだろうか? ちょっとそこは、自分でもよく分からない点だ。ただし『何の説明もなく』というポイントはきっぱりと重要で、あさはかな設定がついていないところがよい。逆に申して設定過剰なきょうびのまんがらについて、筆者はいい印象がない。

なんてまあ、わずかを語っただけなのに夜もふけて、そしてこの堕文がすでにじゅうぶん長い(!)。で、それから俺様君の大暴走が相次いだり、その正体等のなぞをつきとめようという動きがあったり、として今作は展開する。…と言ってすませたいのだが…。
けれど今作「俺様は?」について、『その主筋はこう』、ということはひじょうに言いにくい。というか、誰にも言えない。むしろこれについては、『どういう人がどういう期待をもって読み始めても、その期待は必ず裏切られる』、とも言えそうな気がする。

たとえばの話、『俺様君の正体さがし』というモチーフが、第1巻の巻末あたりで盛り上がる。そこがある意味、今作でいちばんトーンの上がっているところなのだが、しかしその上がったふんいきは宙に浮いたまま、どこかへ帰するということがない。
そうして俺様君の正体が分からないばかりか、そのライバルとして出現したような≪うんこマスク≫や≪なぞのボス≫らの正体も分からない。さらには比較的素性の明らかな人物ら、笠井くんや国鉄くんやよし子先生についてさえ、『こういう人』ということがよくは分からないままに、この物語は終わっている。

で、このたび読み返してみたら、さいごの方で『仮想現実』として展開しているところ、そしてなぞのボスによるサイキックな仕掛けが「ジョジョの奇妙な冒険」の『スタンド攻撃』を思わせる、なんてところに、筆者は新たな印象を受けた。けれどもそこらをキーにしたところで、今作に対するすじの通った読み方ってものは、できなさそうに感じられる。
そして、このように拡散しきっているところがいいのだ…とは、さすがの筆者にも強弁できない。ちなみにここらで申すと、今作の15から20%ほどの部分は人物らのプロ野球談義からできており、そこが筆者にはまったく面白くない(ヤキュー知らないし)。

かくて今作については、『ひとにすすめられる作品ではぜんぜんない』、ということばかりが確かだが。オレさまにしたって『俺様には関係ない!』、と言いたい気もするのだが。
けれども筆者は「俺様は?」を駄作とも愚作とも言いきれず、むしろ何かの『挑むべき1つの秘境』かのように見ることがやめられないのだった。そこに何らかのひかれるものがある、それは何かという『?』の究明、すなわちたった1人でのガマン大会を、ふしぎとギブアップしきれないのだった。…とまで申して、さらに続くかも(?)。

2010/05/06

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - 心はマジだが、立場的には冗談

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ダイナマ伊藤!」

すごい大むかしのこと、バイト先の職場の休憩室で、1977年の週刊プレイボーイのバックナンバーを見つけた。『わ~い、H本だ!』と悦んでそれを見ていたら(!?)、そこに連載中だった本宮ひろ志「俺の空」の内容の断片が、みょうに心に残ったのだった。
すなわち。放浪中の主人公がヒッチハイクすると、恩人であるいせいのいい運ちゃんが、へんなところでトラックを停める。そして『すこしは恩義を返してもらおうか』みたいなことを言い出し、それからおもむろに自分のズボンをおろして、『ケツ貸せや!』と言う…っ(続く)! わ~おっ、BL展開ッ!?

「俺の空」については、以上のことだけよく憶えていて、それがなかなかに外傷的(トラウマティック)で、『それから主人公はどうなったのだろうか?』と、ずっと少しは気にしていたのだった。そうしてつい先日、やっとこの件を確認できたのだが。

…だがそれが、意外とつまらなくて。ネタバレになってしまうが(失礼)、その続き、主人公が『いや~ん!』とは言わないがイヤがってあわてると、運ちゃんは破顔一笑、『冗談だよ冗談』と言い、そしてズボンを脱いだいきおいでスーツにビシッと着替えて、それから行きつけのソープ、作中の用語では『トルコ風呂』へと向かうのだった(プレイボーイComics版, 第3巻, p.187)。ンだそりゃッ、BLじゃねーじゃん!

だいたい「俺の空」のさいしょのシリーズは、主人公のいい気な女性遍歴を描くようなものなんだけど、それの延長で男子との激闘もありかな?…と、自分はちょっぴり期待してた感じなのだった。まともな読者はそんなこと思わなかったろうけど、ちょうどその時代がJUNEっぽいものの出はじめだったので、あるかもよと?
がしかし、あたりまえだが本宮ひろ志先生におかれては、ヘテロセクシャル『のみ』のお人だったというばかり。

ところで≪冗談≫というものについてフロイト「機知」(1905)は、『実はホンネが言われているに他ならない』、くらいを主張している。『機知(Witz)』という語がかたくるしいが、これは『ジョーク(joke)』と英訳されていることばなので、その書をわれわれは「ジョーク論」と受けとってよさげ。そしてその主張の1つとして、『ふつう言えないホンネを主体が言うための手段がジョーク』、なのだ。
だから筆者は腐男子じゃないけれど(?)、いちおう美少年とも言える「俺の空」の主人公に対して、この運ちゃんが『実は』邪欲をいだいていなくもなかった、と考えたい気持ちが現在もなくない。

そういえば、以前の同僚でうっとうしいやつがいて、いつも仕事が立て込んでくると、『iceさん、ボクはもう帰りますから』と、やったら何度も言っていた。それが毎度すぎたのでしまいに、『じゃ帰れ、二度と来んなッ!』と言いわたせば、向こうはしれっとして、『やだなァ、“冗談”じゃないスか』などとぬかすのだった。
これについてまず言えることとして、彼においては『職場を放棄したい』というのがホンネに他ならない。言われたオレの方だって、大して気分は変わらなかったんだから、そこは別に責めないが。けれども彼の言語活動がジョークとして大失敗していたのは、『誰をも笑わせていない』という問題点による。

なお、ここでジョークが成り立つために笑うものは、横で聞いている第三者であってもかまわない。かつ、もしもさきの『冗談』で笑えるようなすなおな人がいたら、その受け止め方はこうだろう。『あははっ、職場放棄とかありえないし!』。かくて、言われたホンネが出まかせとして受けとめられるすれ違いから、ジョークの笑いが生じる。
ところが筆者は『ジョークはホンネである』という事実を知っており、かつ善意に乏しいひねくれ者であり、しかもはるかに洗練されたギャグまんがに毎日目を通して感覚をきたえているのだから、彼にとっては相手が悪かった、としか言いようがない。ちょっとは笑えるようなことを言ってこそ、『言えないホンネを言う』ことが許容されうる。これは憶えておきたい。

と、ほとんど同じことを、世紀をまたいで週刊少年サンデーに載っていたギャグ作品、杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」が描いている。
その作中、なぞの中年ヒーロー≪ダイナマ伊藤≫の身体から、爆発物反応が検出される。そこへかけつけたデカ長は、さいしょだけ石原プロ作品的に勇ましいが、けれどもまじで爆発物があるらしいと知ったとたん、若い刑事の相棒に『あとは頼む』(!)と言い残し、自分だけさっさと逃げようとする。
しかしとうぜんながらきっつく呼び止められて、デカ長はしぶしぶ現場まで戻ってくる。そして言いぬけするには、

 『冗談冗談マイケル ジョーダン。
 心は本気だが、立場的には 冗談だ』

というのだった(少年サンデーコミックス版, 第1巻, p.44)。
しかしこの『冗談』は、『冗談もダジャレも やめてください!!』と、彼の相棒にはまったくの大不評に終わる。そこで第三者として見ているわれわれが笑うにより、やっとデカ長の発話行為が、からくも『冗談』として成り立つ。

このように『心は本気だが、立場的に』、いちおう否定されている言説、それがジョークなのだ(なおこの堕文では、ジョークと冗談とを区別していない)。そういえば、ギャグに限らずまんがには、やたら人へと『死ね!』なんて『冗談』(?)を飛ばす人らが出てくるが…ッ!
かつ、『言えないホンネを“冗談”として言う』、という行為の心理的な効用は、フロイト様も述べておられる通り。そしてその逆には、『聞きたくない他者のホンネを、“冗談”かのように受けとめて笑殺する』、という行為がある。一方はそれを言いたい、もう一方はそれを聞きたくない、そのような言説らが『冗談』として笑いを介するにより、やっとこの世に発生しうるのだ。

また。『このさいオレたち、付きあっちゃったらどうよ?』なんて言い方でなされる『“冗談”めかしての告白』、ということが話題になるが。それが出てくる理由は、『相手が告白を聞きたくないかもしれない』という、一種の善意(?)にもよる。
何せ女性たちはやさしいから、真剣な告白を真剣にことわるということもたいへんだ。そこでそうじゃなく、『ウフフ、iceクンてば、ふざけないでよ~』のようなかわし方を相手に残しているのは、こちらの善意とも考えたいわけだが?

とまあ。それこれによって、われわれはここにおいても、フロイトの理論とギャグまんがのなしている『意味』とのシンクロを見たのだった。
ところで杉本ペロ「ダイナマ伊藤」という作品だが、しかしそれは主としたら、こんな『意味』の分かることばかりを描く作品でもない感じ。どっちかと言ったら≪不条理系≫なので、その主な内容についてはいずれまた別の記事にて!

【余談】 ほんとに余談だが、「俺の空」についてもう少しだけ。その第3巻の巻末に野坂昭如がそれへの『解説』的な文章をよせているのだが、これがけっこう手きびしい。ほめているようには、ほとんど読めない。
その文中の印象的なフレーズらだけ抜き書きしとくと、『古典の形式を踏襲』はまだしもいい方で、『月並みの本領』、『確実に男を癒楽させてくれるという原則』、『せちがらい昨今、せめて束の間でも』、『鼻毛抜きつつ読んで楽しむ』、『不毛のロマン』、『時に見るに忍びない』。そうして、『これをいかに血肉にとりこむか。それは読者の側の問題である』、というのだった。

2010/04/29

山仲剛太+工藤晋「闘莉王物語」(Web作品) - ヒーローと、その背後のもの

サッカーファンならご存じ、日本代表選手で名古屋グランパス所属の田中マルクス闘莉王、その人の伝記まんがが、小学館のサイトで無料公開されている。クラブサンデー「闘莉王物語」←こちらにて(現在、第2話まで)。同じものが、週刊少年サンデーにも掲載されているらしい。
ついさっき『サポティスタ(*)』を見てそれを知ったので、筆者も閲覧してみたのだった。

で、その闘莉王選手は昨2009年に浦和レッズでいろいろゴタゴタしたすえ、今季からグランパスに移籍したばかりであり。そうして筆者はレッズのファンなので、想うところはちょっとありつつ。
そしてさいごまで読んだらアンケートフォームへの誘導があったので、筆者はこれへの感想として、だいたい次のように書いたのだった。

 第1話の語り手の新米記者のひじょうに浮わついているところが、あまり感じよくない。
 レフェリーを悪役にしている作劇は安易だし、サッカー競技のイメージを下げている。
 そしてもっと全般に、『サッカーの楽しさ』を描くようなお話であればよいかと。
 それがそうじゃなく、トゥーリオ1人をヒーローにするような作品になっている。

でまあ、あえて言ってしまうと、あまり後味のよくないかたちで闘莉王と別れたレッズファンの中には、『あいつは1人でヒーローぶりやがって、“まず”チームのために、という気持ちがなさすぎ!』、のような感じ方は、そうとう広く存在しそう。
筆者もそのようなバイアスを持っているがゆえ、「闘莉王物語」が上記のように読めたのだろうか? あるいは「闘莉王物語」というまんが作品が、そのような闘莉王選手のキャラクターを、うかつにも『正しく』描いてしまっているのだろうか?

ところで筆者の痛いところは、サッカーという団体競技の中で、常にどこか『1人で』闘っている感じの闘莉王選手を、実はそんなに否定しきれないところだ。ほんと言うと筆者は『組織』なんか大っきらいなので(!)、よく言われる『個人と組織との矛盾』という問題を、自分の力で(とりあえず)解決している闘莉王を、かっこいいと感じることがやめきれない。
…貴姉兄は、いかがお感じになられたことでしょう?

2010/04/23

井上和郎「あいこら」 - フェチは、別腹!

井上和郎「あいこら」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「あいこら」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」 - その有する、ささやかな『うそじゃなさ』

話題の井上和郎「あいこら」は少年サンデーのラブコメ、2005~2008年に掲載(少年サンデーコミックス, 全12巻)。だが『ラブコメ』というにもけっこうストレンジな作品で、そのヒーローの≪ハチベエ君≫は、『1人の女の子』に恋をするというような、まともな少年ではない。
では、おなじみの≪あたる君≫のようにハーレムを建設したいのかって、それともまた異なる。われらのハチベエ君は『パーツフェチ』なんだそうで、女性の体の部分部分(パーツ)のフォルムに対して、異様なる固~いこだわりを持っているのだ。
ゆえに彼は、その理想のパーツの持ち主らに接近していくのだが、もちろんそれは、ふつうの恋愛活動ではない。そのいわく、

 『何がハートだ!!
 そんなもん1ミリも 求めちゃいねえ!!
 パーツこそがすべて!!
 パーツこそが正義!!』(第7巻, p.16)

…とはまた、何ともやばいヒーローがいてくれたものだ。『女体に興味があって、女性のハートには1ミリも興味がない』とは、ふつう(はっきりとは)言えないことで。

そういえば現在のサンデーには、若木民喜「神のみぞ知るセカイ」というラブコメが載っている(はずだ)。そんなに読んでないけれど、これはギャルゲー(恋愛シミュレーションゲーム)の達人で≪神≫とまで呼ばれる少年≪桂馬くん≫が、現実の恋愛にはまったく興味がないという、それとなくも同工異曲な作品になっている。女性そのものではなくして≪女性っぽい記号≫を、彼らは追い求める。
そしてハチベエ君にしろ桂馬くんにしろ、びみょうにもちょっとカッコいいと思えるのは、どちらもエゴイストのニヒリストではありながら、しかし異性に対して甘えようというこんたんがない、そこに多少のヒーローっぽさがある感じ。

ところでなんだが、関連記事において筆者は、フェチ満載の西川魯介センセのお作品について、こんなことを書いていた。
『はいぼく氏の論調だと西川作品は、フェティシズム(萌え)を超越して崇高なる愛にいたるようなものだという感じだが、しかし筆者にはそうは見えていない。
フェチ(萌え)もあるなら愛もある、と、そこでは2つのものの並置がなされているにすぎない。ところが西川作品のその点にこそ、一片のささやかな“うそじゃなさ”が存在するのだ』

これを見てから「あいこら」の話に戻ると、全編のど真ん中くらいでハチベエ君は、彼の追い求めるステキパーツの持ち主の1人≪天幕桜子≫との、わりとまともなラブに堕ちてしまう。そしてこんどは、『心(ハート)を大切にしない 者に、真の愛は 生まれない!!』(同書, p.51)などと言い出しやがる。
この事態を重く見たハチベエ君のフェチ仲間らは、彼がたまらないようなパーツを彼に見せつけて、ハチベエ君の『パーツ愛』をよみがえらせようとする。じっさいふつうの恋愛に堕ちたからといってハチベエ君は、パーツに対する執着心を失ったわけではないのだった。そこで彼は、『天幕への愛』と『パーツへの愛』との間でジレンマに苦しんでみせる。

と、そこへ、彼たちの学校のOBでフェチ道の導師みたいな≪油坂先輩≫が現れ、ハチベエ君に、『フェチの偉大なる先人達の言葉を授けよう』、と言うのだった。そしていわく(すっごく大きな文字で)、

 『フェチは、別腹だ!!』(同書, p.56)

いさいははぶくが、要はそのことばに説得されてハチベエ君は、『恋もフェチも全力投球!! 完全燃焼だぜ!!』と声高らかに叫び、今後もフェチ追求はやめないゾ…との意思を固めてしまうのだった。
そこまで読んで『はあ…』とため息をついて、このシリーズの第8巻以降は、いまだ見ていない。にしてもずいぶん正直なことが、描かれた作品だとは思える。

フロイト「性欲論3編」(1905)にも書いてあることだが、倒錯者という方々は一般に、その人格や生活がまるっきりおかしいわけではない。『通常は正常にふるまいながら、性生活の領域だけにおいては、あらゆる欲動の中でももっとも制御しがたい性欲動に支配され、病的な行動をする人がいるという事実』(フロイト「エロス論集」, ちくま学芸文庫, p.70)。
かつ、フロイト様の言われたこととは少し異なるのだが、かの名高き淫楽殺人者のペーター・キュルテン(1883-1932)にしたって、暴力なしのふつうっぽい性交などはいっこうに愉しめなかった、ということはないらしい。それがまた、やはり『別腹』であったらしい。

と、フロイト様は、『全般的にはわりとまともそうな人間が、性的行動において異常』ということを言われており。また観察は、1人の人間が性的に、ノーマルっぽい行動と異常きわまる行動の両方を(自発的に)こなす、という事実を示している。

この観察事実をふりかざして、『恋もフェチも』、あるいは『パンツも中身も』、さもなくば『2次元も3次元も』、あわせて追求するという態度が、ありえなくもなかろうが。しかしそれをことばではっきり言ってしまうことは、『フェチの求道者』や『ギャルゲーの神』を自称するよりも、なぜかよっぽどできにくいことだ。
つまり現実には知らないけれど、ネット上には『3次元ごとき(の女性ら、そのイメージ)には興味がない』を言い張っている方々が、少なからずおられるもよう。これを言い張ることが、単に生身の女性に縁がないというよりは、まだしもかっこいいらしい。
それに対して『3次元もよくね?』などという言説を返したら、『不純!』と断じられて終わるような気がしてならぬ。『2次元にしか興味がない』は、後ろ向きにしても一種のカッコつけだ。

だから『フェチは別腹』という主張は、分かりきっておりつつ認識したくないことが言われている、と考えられてもくる。言い換えて、2次元でばかりあれしている方々は『別腹』ばかりを満たしておられる、甘味ばかりを召し上がっている、ということにもなりつつ。

また。ここにおいて、一部のメガネフェチの聖典かとも言われるラブコメ、魯介センセの初期作品「屈折リーベ」(1996)を参照すれば。そのヒーローたるフェチ野郎くんは、ヒロインのメガネっ娘から『そんなに 眼鏡でなきゃ 駄目なのか!?』と迫られて、何か考えた末に『メガネでなきゃダメだッ!!』と、大断言する。それを聞いて呆れかえったヒロインは、自分のかけていたメガネをフェチ君に渡して、その場を去る。
西川魯介「屈折リーベ」ジェッツ・コミックスと、それきり疎遠になってしまってから、数週間後。何かのはずみでフェチ君は、次のように自分の考えを改めるのだった(「屈折リーベ」ジェッツ・コミックス版, p.168)。

 『「メガネだから 好きになった」 んじゃない!
 好きになった人が 「たまたまメガネだった」だけ なんだ!』

とはまたごりっぱな自己欺瞞もあったもので、そんな『たまたま』がこの世にあるわけはない。われらのフロイト様がいずこかで正しくいわく、『物理の世界に偶然はあろうが、心理の世界に偶然はない』。
ただしこのフェチ君が、単なるメガネ好きからヒロインに執着しているのだ、とも考えない。『中身よりもパンツに興味がある』、というばかりではないような感じだ。そのようにどっちつかずな自分の心理を、このフェチ君はことばで表せない。

そしてこのことを「あいこら」以降のわれわれの見地から言い直せば、すなわち『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というわけなのだが。または筆者がかって書いた、『フェチもあるなら愛もある』、という並置並存の状態なわけだが。
しかし「屈折リーベ」のヒーローのフェチ君は『恋もフェチも』、という考えには、思いいたらない。それがなぜなのか『分かりきっておりつつ認識したくないこと』なので、その想念は無意識へと抑圧されている。そして気分だけ、フェチをびみょうに卒業したつもりになっているらしい。

そういえば「あいこら」作中で油坂先輩は、『フェチは死ぬまで治らない』、みたいなことを言う。そして恋愛はフェチ心をいったん抑圧するけれど、しかしけっきょくは抑圧しきれないものなのだとか。
と言われた通り、恋愛を自覚した「屈折リーベ」のフェチ君にしたって、お話のさいごでフェチが治っているわけではない。そこらがまあ、その作品の有する『一片のささやかな“うそじゃなさ”』かなあ、と考えつつ。

かつまた。うろおぼえだが、ジャック・ラカン様がセミネールのどこかでいわく、『精神分析の実践は、人間の中にどうしようもなく存在する≪法(オキテ)≫、ということを教える』、とか何とか。そうしてフェチ君らやギャルゲーマニアらといえども、自分でかってに作ったオキテをかってに守ることによって、そのかってな世界の中で自分を『ピュア』であり『イノセント(無垢, 無罪)』だ、と考えたいのだ。
さらには、世間から見ての犯罪者といえども、自分を悪いと考えている人間はめったにいない。ねずみ小僧が≪義賊≫だという話に対抗して、いかなる泥棒も1人の貧民(自分)を救っている、とは言える。これはラカン様のみ教えを、逆に見て言われることだ。つまり、いかなるド悪人も精神的に破綻していない限りは、何らかの彼なりのかってな≪法(オキテ)≫を守っているので、その世界の中で自分を無罪だ、と考えているのだ。

で、「屈折リーベ」のヒーローのような自覚あるフェチ野郎にとって、『恋もフェチも』を『言う』ということは、彼なりの守るべきオキテから踏み出してしまうこと、らしいのだった。かつ、われわれの卑近な観察からも、『2次元も3次元も』を言うことは、何となくカッコ悪いのだった。
『女性っぽい記号には興味がある、女性には興味がない』。これがふつうは言えないことなのに、それよりもさらに言いにくいことがあるのだ。で、『恋もフェチも』あわせて追求したい、というカッコつけ以前のホンネを言わないことによって、その独りがってな≪法(オキテ)≫を守ることによって、フェチ君たちはその≪自我≫をいつくしみ守っているらしいのだった。

そうしてだ。『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というたいへん言いにくいこと、その外傷的な認識を、はっきり描いてくれている、この「あいこら」という作品。それを、少なくとも1つの大したしろものだとは考えながら、この堕文はここらでいったん終わる。

2010/03/15

ながいけん「神聖モテモテ王国」 - 体は疲れているのに妙に脳が

ながいけん
「神聖モテモテ王国」
 
参考リンク:Wikipedia「神聖モテモテ王国」

たったいま調べてみたらこの「神聖モテモテ王国」は、完結はしていない作品だそうで。1996年から2000年まで断続的に少年サンデーに掲載、少年サンデーコミックス版は第6巻まで刊行。
さてこのような作品が『ある』とはむかしから知ってたのだが、読んでみようかという気を起こしてしまった理由は、田丸浩史センセがこれ等の、ながいけん先生のお作群を大絶賛されてたからだ(田丸「レイモンド」第1巻, p.59)。で、この先生のご著書を捜してるんだけど、いまだ今作の1,2,5巻しか手元にない。売ってないんだもん。
…と書いていたのは昨2009年のことで、追って現在までに「チャッピーとゆかいな下僕たち」の新装版(2004, 大都社)はめっけた。でもそれについては、そっちの項目で語るとして。

で、「神聖モテモテ王国」について、そこまで読んだ限りでの寸評だが。

主人公らしきボーズ頭にメガネに学生服の少年15歳は、≪ファーザー≫を名のるひじょうに奇妙なおっさんとアパートで2人暮らし。何が奇妙と言って、そのおっさんの姿が≪ギレン・ザビ≫を崩したような軍服とマント、そして下半身は白ブリーフいっちょに裸足。しかも、耳があるところにへんなツノが生えており…ときては、奇妙だとしか!
そしてファーザーは少年を≪オンナスキー君≫と呼び、自分の息子であるかのように言い、そして2人で『神聖モテモテ王国』なるものを建国しようとか言う。それは、『ナオンと彼等だけの蜜あふるる約束の地』だとか何だとか。
そうして彼らは、ファーザーの珍アイデアにもとづくナンパ実践にはげむのだが。しかし、いっこうにナオンが釣れないばかりか、通報されて終わりとか、巻き込まれたヤクザや不良にボコられて終わりとか、いつもそんなケツ末ばっか!

ところでこのシチュエーションが何かおかしいわけだが、実は少年は記憶の一部を失っていて、そこらの治療のために通院中だったりする。そしてファーザーは実の父ではないらしいのだが、しかしほんとうの家族がどうしているのかは分からない。
なので。今作の中身は、≪不条理ギャグ≫というのとも異なる感じのドタバタ劇だが、しかしその内容以前のシチュエーションの部分に、≪不条理≫なふんいきがある。知らぬことだが今作のラストというものがあったなら、そこでそのなぞが明らかになってるのやも知れぬ。

にしてもこの少年が、自分の名前や身元さえもハッキリせぬ心細い身の上なのに、しかしファーザーの提案する『ナンパ実践にはけっこう乗り気である』というトコが、ふしぎというのか、人の性欲のものすごさというのか、あたかも安いRPGのヒーローみたいなおきらくさというのか!
あとついでに申して、いくら何でも『ナオン』は死語すぎではッ? 1970'sの『週刊プレイボーイ』とかに出てた語じゃねーか…と思うのだが、しかしファーザー様の青春時代の用語ではあるのやも。

かつまた。われらのファーザーは、現在の先進国らで支配的な≪代議制民主政治≫という制度に異を唱え、≪開明的専制政治≫として彼の王国に(いずれ)君臨し統治する気がマンマンのようだが。
しかし、『開明的独裁は必ずや、単なる独裁暴政に堕す』という格言の正しさは、ファーザーの行状を見ていればおのずと明らかでしかないっ。
が、そうかと言っても現に存在している代議制民主政治とやらの姿のみすぼらしさが、ファーザーが自分と自分の一人芝居で激論を交わしてる戯画と、何ら選ぶところがない。というところで意外にこれが、社会風刺的な作品であるのやも?

とまで、説明をしてきたが。なるほど田丸センセがHOTに指摘されている、ながいけん先生の『言語感覚のスゴさ』、それは大いに今作へと認められる。
その例をどこからもってきたらいいか…逆に分からないほどだが、1つ引用しとけば。

 『泣かぬなら 雨ニモ負ケズ ホトトギス
 僕の前に道はないから じっと
 手を見る カラダ記念日』(第2巻, p.77)

芸術の秋、詩人はモテるのでは…と思いついたファーザーは≪詩人ガーZ≫と号して、ヘンな詩を口ずさみながらナオンちゃんにつきまとって、しかしまいどのごとく轟沈するのだった。
うーん、ちょっとまた異なるところを見るべきだろうか…。では次に、名探偵はモテそうだと考えたファーザーがホームズっぽい扮装をきめながら、自分の名探偵ブリを示すべく、ナオンらに言う。

 『百人一首の 犯人は紀貫之。ザクの 犯人はシャア。
 デカン高原の 犯人は綿花。縄文時代の 犯人は、縄。』(第2巻, p.184)

とまぁ…。こんなでは、ながい先生の言語感覚のスゴさをご紹介できたような気がしないが。しかし筆者は、今作を見て思うのだった。確かにすごい要素が大いにあるけれど、でもそれが≪まんが≫としての面白さには、必ずしも帰結してないのでは、と。
≪ギャグ≫がどうこう以前に、この作品には、『読んで笑うようなふんいき』が…まず読者らの心がゆるむようなふんいきが、なさすぎなのでは? 筆者だけかも知れないが、その全般の冷ややかな感じに入っていけないのだった。≪共感≫はギャグまんがのメインの要素ではないが、しかしそれがまず≪まんが≫である以上は必須だし。
つまりだ。すまぬことだが自分という読者の感覚は、ファーザーらの奇行を見てすなおにひきまくるナオンらの感覚に近いようなのだった(!)。

ところであんまり関係ないことだが、少年サンデー系列の若手・新人ギャグ作家らの単行本には、たまに高橋留美子先生によるすいせん文が載っている。これがいつもいいこと書いてあって、『留美子先生は読者としても超一流だな!』と、筆者をむしょうに感動させるのだった。
で、それがもったいなくも(?)、今作の第1巻にも出ているので、何かの記念に引用しておこう。

 ――― 『高橋留美子先生 大絶賛!?』(「神聖モテモテ王国」第1巻カバーそで)―――
『体は疲れているのに妙に脳がさえて眠れない時など特に良い。センス抜群のネームと、確かなストーリー展開が、快い笑いと脱力感を与えてくれ、いろんな事がどーでも良くなって心が癒されます。本当です』

この評言について、『センス抜群のネーム』は誰にも大いにうなづけることだが。しかしその『確かなストーリー展開』、とはどういうことだろうか?
今作はどうでもいいようなドタバタでまいど展開しつつ、しかし何らかのなぞへと遠廻しに迫っているような感じがなくもない…そのことだろうか? または毎回のファーザーの計画が『まったく必然的に失敗している』という、そのことが『確かなストーリー展開』なのだろうか?
そこらでわれらが留美子先生の真意はよく分からないのだが、しかし筆者としては、『これを機会に、ギャグまんがにおける≪ストーリー≫概念を再検討してみそ』、という啓示を拝領した気分なのだった。

2010/03/08

南ひろたつ「漢魂(メンソウル)!!!」 - 走りぬけ、≪漢≫の道をッ!

ああ激動の時代たりし20世紀、そして今作「漢魂!!!」は、その前世紀の末期の少年サンデーの誌面を飾っていたショートギャグ(少年サンデーコミックス, 全3巻)。基本的には1P区切りの構成で、その内容ともあいまって展開にスピード感があるのはよし。
(掲載データを補足。週刊少年サンデー、1999年16号~2001年4・5号)

さてその『内容』とやらには関係ない話…と、言い切れるのかどうか分からないが。にしても今作には、作者・南ひろたつ先生の顔写真が出すぎだ。カバー袖に『著者近影』的に出ているのはとうぜんよしとしても、しかし、本編の扉ページにまでしばしばご出演されているのはどういうわけなのか?
しかもそれが、ヴィジュアル系ロッカーみたいなお姿でカッコいいのだった。かって、若かりしころの喜国雅彦センセといい勝負だろうか? 筆者が知っている男性の≪ギャグまんが家≫の肖像として、もっともイケている。やべぇ、ホレそうかも。

しかぁ~しィ、そうだからといって…ッ!?

なお、作者がノリノリで顔写真を出しているのは、この時期の少年サンデーのギャグまんが全般の特徴かとも考えられる。われわれがリストアップしている作品だと、久米田康治「行け!!南国アイスホッケー部」や久喜青葉「アホアホ学園」らにも、その特徴が見られるが。
そうしておそらく南センセにおかれては、『≪漢≫たるものは自分の顔に責任をもつべき!』、のようなお考えでそれをなされたのか(!?)…とでも考えて、ここらを流すけど。

そして今作「漢魂!!!」なのだが、まずその表紙が全巻にて、何だかギャグまんがっぽく『ない』。何か異様な…。ヒーローともモンスターともつかないキャラクターらが、その『カッコいい』というよりは『醜怪』だと言えそうな姿を誇示、というものになっている。
さらによく見ると背景も、RPGのラスボス城の悪趣味な造形みたいで、いわば『内臓的な風景』とでも言うか。正直なところ、筆者の現在のメンタルの状態では、気分が悪くなるのでジッとは見てらんない。
そしてそのヒーローかモンスターか分からない連中こそ、作中で≪マッスル・ソウル≫(略して、単に≪マッスル≫)と呼ばれる、ふかしぎな存在が描かれているのかと。
そしてそのマッスル・ソウルとは何であるのか…ということを、筆者ははっきりとは言えない。よく分からないがそれは、今作全般の主人公らしき少年≪直行クン≫、または後にその子として生まれる≪たけし君≫、彼らには見えている何らかの『もの』なのだ。

しかしびっくりなことを申すようだが、筆者には直行クンとたけし君との区別が、イマイチついていないのだった(!)。こんど少々めんみつに読んでみて、初めて『ありゃ?』と思ったのだ。第3巻の冒頭で直行クンが結婚し、そしてできた子どもの名がたけし(第3巻, p.29)、ということは確かそうなのだが。
ところが何と、作品のド頭でまず活躍しているのは、たけし君の方だ(第1巻, p.12)。よくよく見てみれば、前髪を分けてるのがたけし、分けてないのが直行だが。
にしたって、父と子がそれぞれの少年時代の姿で、かってに並行して活躍しているまんが作品なんて…! ここにて筆者は、南センセはほんとうにふしぎなことを描かれた作家だなァ…と感じないわけにはいかない。

で、物語というほどのものでもないが、今作のメイン的なモチーフとして。その直行クンらの生活に、大小さまざまで多種多様なるマッスルらが、へんなところで介入してくるのだ。
その典型的な出方としては、何か日用品の類がマッスルになっていて。それが『オレを使え! 役に立つぜ!』と、彼らに主張してくる。しかしまったく使いにくい、もしくはぜんぜん役に立たない…ということがオチになりがち。

マッスルが登場するさいしょのエピソード『マッスルトイレ』が典型的で、たけし君がどこだかの共同トイレに駆け込むと、そこで1匹のマッスルが自分の黒パンツをググッと引っ張って、『スペース』を作っている。そのスペースを例の男性専用の、≪朝顔≫に見立てているのだ。
そしてたけし君に向かって『俺にもエネルギーを わけてくれ』と言うので、このマッスルは出されたものをパワー源にしているらしい。しかしたけし君がソッコー『ことわる!!』と言い切るので、マッスルの≪欲望≫は満たされない(第1巻, p.6)。
そしてそのすぐ次のエピソード『マッスルトイレ~TURBO!!~』では、たけし君が再びトイレに駆け込むと、何とマッスルによって便器がすべて破壊されている(!)。そこでしょうがなくたけし君が≪マッスルトイレ≫を用いようとして、前のチャックを下ろす。するとマッスルは、『俺のより デカい!!』と叫んで、いちもくさんに逃げてってしまう…!

といったような≪マッスル&たけし(or 直行)≫を描いたエピソードを中心に、その他にも多種多様なキャラクターらが、それぞれの≪漢ぶり≫を魅せる…という作品だが。しかし申し訳ないことに、今作でしばしば題材になっている洋画のネタが、筆者にはよく分からないのだった。
≪ニコラス刑事≫などというキーワードに反応できるなら、もっとより今作が楽しめるのかも知れない。だが特にディープな題材が描かれているのでもなさそうなので、ちょっと自分は常識不足かな…と、思わず筆者は反省した。

で、今作の全般に言えることとして、≪漢ぶり≫を魅せようかとしたところで必ず、その登場人物らはズッコケを演じてしまう。ああ、≪漢≫はいかに生きるべきなのか、むしろいかに死ぬべきなのか…!?
そうしてあまり見たくない場面だが、今作のラストの第3巻、そのカバー表4のイラストでは、たぶん年老いた直行の臨終の床で、大小さまざまなマッスルらが彼の末期を看取っており。
そしてその往生を見届けたマッスルらは、『…任務… 終了…』とつぶやくのだった。どうであれ独りで生きて独りで死なねばならざる≪漢≫の宿命、そんな“われわれ”にそっと寄りそう『もの』が、彼ら≪マッスル・ソウル≫なのだろうか?

2010/03/05

久米田康治「かってに改蔵」 - 『生死』の境にて、まったく関係ないことを叫ぶ

 
参考リンク:Wikipedia「かってに改蔵」

 【Ch.1】 伝説の俗物たちをたずねて

『きわめて思い込みがはげしい』とされるヒーローが改造人間になったと思い込んで、学園や地域でへりくつをこねまくる風刺ギャグ。少年サンデーコミックス, 全26巻。
この作品と自分との≪出遭い(そこね)≫についてはよく憶えてて、ソレは1999年の梅雨どき…もう10年以上も前。世田谷に住んでいた当時の自分が、室内に干していても乾かない洗たく物を、近くのコインランドリーの乾燥機で廻していると。そこにその週の少年サンデーが放置されてあり、その掲載誌で読んだのが、今作のわりと初期のエピソード、「こいつは湿気ーだ!!」の巻なのだった(第5巻, p.129)。

読んでおられる方々はご記憶のように、それは作中も梅雨のさなか、『秘密結社 しめしめ団』を名のる奇妙な連中が、主人公らに対して『しめり気礼賛!』というおかしな論陣を張る…というお話であり。
その内容も面白かったがプラスして、そのネタがコインランドリーの待ち時間に、梅雨そぼ降る中で読むにはあまりにもタイムリーで、超ウケちゃッたワケなのだった。【教訓】:やはりギャグまんがッてものも、題材の季節感は大切にせねばならぬ!

という幸福ッぽい≪出遭い(そこね)≫があったわけだが、しかし巻を追うにつれて今作の内容が、みょうに人間のダークサイドをしつように暗く描きがち…となったこともまた、読んでる方々には周知のことかと。具体的に申して筆者は第16巻まで読んで、いったんは今作の読者であることをやめていた。むかしネット上の知人も、『オレもだいたい同じトコでヤメた』と言っていた。
いま見てもごくふつうの感じ方として、この第16巻の後半あたりのエピソードは不快だ。読んでない方のためにいちおう説明しておけば、そこらでヒーローの幼なじみでヒロイン格の≪羽美≫がひじょうにおかしくなり、夜道で改蔵くんを襲撃して瀕死の重傷を負わせる。そしてギャグまんがだからといって、それが次回ではピンピンしている…ということはない。
で、そこにあるようなお話らに対し≪笑い≫を返すのは、常人にはできえざる所業…なんて、自分もたまには常人ぶってみたり。

いっくら今作が、その名も『とらうま町』を舞台とする≪外傷的≫ギャグまんがではあっても、ただ単に≪外傷的≫なことを描けばギャグになる…というわけではない。いやむしろ「改蔵」の行き方として、≪外傷≫のあることは示してもそこを掘り下げているわけではない。
その『どうしようもなくあるもの』としての個有の≪外傷≫が、世間によくいるダメ人間たちのダメさかのように拡散されることにより、この作品は、『外傷的ギャグまんが』が『風刺ギャグまんが』へとすり換えられている。このすり換えのルーチンが、今作のキモといえばそういうところではある。

話が戻って第16巻の巻末、入院中で面会謝絶の改蔵くんについて、『今夜が峠』と医師が言う。ところがそう言われた改蔵くんは、どういうわけだか≪伝説の峠マスター≫たちが集まる山中に出向いている。そこで彼たちは『受験勉強の峠』、『お肌の峠』、『便意の峠』…等々にチャレンジする勇者たちを眺める。
だが、改蔵くん本人が生死の峠をさまよっていることと、それらの勇者たちと、いったい何の関係があるのだろうか? そして、ここでわれわれは、『ギャグまんがだからそれでいい』と言うべきなのか、むしろ生死の境でそんな関係ないことをしているのを≪ギャグ≫と受けとるべきなのか?

そうして失敬だが、作品自体もそこらが≪峠≫という見方が成り立ち、以後は何かひじょうにごまかしてる感じの≪日常≫へと、作品のトーンが復帰している。ただその『ごまかしてる感じの日常』というのがリアルだと言えば、それはそうだ。自慢じゃないけど筆者など、どれだけ多くのことをごまかして生きてきているか…ッ!

 【Ch.2】 ≪正気≫に向かって、人を送り出すもの

ところでこんなことを述べてきていたら、2009年の春先にも「かってに改蔵」に、ちょっとかかわるようなことを書いていたのを思い出した。
それがまた異様なしろもので、当時の筆者はご存じの「ひぐらしのなく頃に」のコミック版(原作:竜騎士07, ガンガン・コミックス, 刊行中)について、何かを書こうとしていた。それが『あれもこれも』と関連することを次々に書いていたら1冊の本くらいの分量になってしまい(!)、まったく人前に出せるものでなくなった。
その中で、「かってに改蔵」についてふれているのだが。こう言うとするどい方には『サイコなヒロイン』、とつぜん≪鬼≫と化して兇暴化する少女(ら)をフィーチャーしたお話として、両作のつながりはお見通しかも知れない。そしてその『サイコなヒロイン』(ら)を、筆者は≪インダストリアル・ガール≫と命名してみたのだった。
『インダストリアル』とはもちろん『産業的』という意味だが、しかし音楽ジャンルとしては、≪機械と肉体 - 苦痛と快感 - グロテスクと美 - 憎悪と愛 - そして生と死≫といったものらの極端なコントラストをあおり上げながら描出するポップの呼称であり(同じようなものを『ノイズ系』などとも言う)。で、『“萌え萌え”美少女がいきなり鬼と化す』、というコントラストの超激しさを、筆者は「ひぐらし」シリーズに見て。

その一部をここで再利用しようかとしているのだが、話の前提が多くてなかなかむずかしい…。もうひじょうに割り切って、そこまでの≪論≫の流れを説明してしまえば。

◆「ひぐらしのなく頃に」の描いている狂気は、≪娘が父親を去勢する≫というありえざる行為、というモチーフによって集約される。そこで切除されたものは、“過去の事件の被害者の行方不明の片腕”が、≪シニフィアン≫として象徴している。そして娘がそうびする兇悪なぶきは、“それ”の象徴的等価物である。
◆ほんとうなら権威や秩序や理性らを≪象徴≫として示すべき父、しかしあえなく去勢をこうむる父は、具体的人間像としては≪弱い父≫として登場している。そうして≪弱い父≫という類型は、その子らをヒステリーやスキゾフレニーに導く(C.カリガリス「妄想はなぜ必要か - ラカン派の精神病臨床」より, 原著・1991, 訳・小出+西尾, 2008, 岩波書店)。
◆「ひぐらし」シリーズの舞台の≪雛見沢≫を支配している狂気の根源は、≪父≫という記号の排除である。そこで女性たちは≪父≫なるものの去勢にはげみ、一方の男性たちは≪倒錯者=萌えオタ≫として父の権威をパロディ化して横取りしている。
◆関連して。“萌えキャラ”がいきなり鬼と化す、という「ひぐらし」シリーズの特徴があるが、しかし“萌え”の根底をまさぐれば≪鬼≫が出ることは一種の必然である。なぜならば“萌え”というものが愛をよそおったエゴイズムであり、そして≪象徴的去勢≫の否認をめざす趣向、幼児的自己チューのいびつな発展形だからだ。
◆また、“萌えキャラ→鬼”という移行の可能性は、すでに古くも「うる星やつら」のラムちゃんが予告している通り。ただしもちろん、ラムちゃんは狭義の“萌えキャラ”ではない。むしろあらかじめラムちゃんが“萌え”を撥無しているものを、なぜか後世のやからが“萌えは可能である”とかん違いしている。

…と、『ひじょうに割り切った説明』であるものが、すでにあまりにも長い! しかも、よく見ると重複気味だ。さらに要すれば「ひぐらし」では、象徴的な≪父≫の権威の弱まりが、ドラマの中の父らおよび『父性的なもの』らの弱まり、それへの攻撃や排除、として描かれている。
そしてその結果として、≪雛見沢≫の人々は狂気におちいるのだ。そこを支配するのは『狂った母性』であり(作中で具体的には、“オヤシロさま”や土地のボス一家の頭領の老婆として描かれる)、そしてその狂った母性は、兇悪なぶきを手にした≪インダストリアル・ガール≫らを育てるのだ。

とまでを見てから「かってに改蔵」の話に戻り、筆者が『「ひぐらし」論』の中に書き込んだそれの話を再利用しておけば…(次のパラグラフから)。

ここであらためて見てみれば、その『鬼と化す』、「かってに改蔵」のヒロイン≪名取羽美≫にもまた途中から、その父親がいまいち≪父≫っぽくない、かいしょうがひじょうにない、という設定がついているのだった。まず父親が社会に適応できていないのだから、その娘がとんだ電波少女(インダストリアル・ガール)に育ってしまっても、そんなにふしぎはない。それは「ひぐらし」のレナたんにも、同じく言えることとして。
(補足。「ひぐらし」シリーズのヒロインの1人≪レナ≫の父親は、自分らを棄てた前妻からの慰謝料で生活している、気がやさしいだけの小人物)

「改蔵」の1つのストーリーで羽美は、『私 最近 不安定なの!!』と言いながら、『やってはいけないコト』らへの衝動を抑えきれず…。まずは火災報知機のボタンを押してみたり、そして知らないオッサンのハゲ頭をピシャリと叩いてみたり、しまいには踏切の非常停止用スイッチを押しそうになっているところを、同級生の鉄道マニアに見つかってキッツく叱られたり。
という『しては いけない事を してみたい』との≪欲望≫に、そこでは“プチ破壊願望”との呼称がついている(「かってに改蔵」第14巻, 2002, 少年サンデーコミックス, p.77)。申すもよけいなことだけど、久米田センセのお作らには、よくそのような三流心理学チックな用語らが出てくる。言うまでもなくそれらは、特に何も説明せず解決への見通しに役立つでもない(いやまぁ、『名づけるだけでも、大いに意味がある』…とゆう師父らのみ教えも、ありはしつつ)。
しかし正しい理論を学びつつあるわれわれにはそのそれを、暴走している≪超自我≫の命ずるところなのだ…という見方が可能だ。

(補足。≪超自我≫について、J-D.ナシオ「精神分析 7つのキーワード」より。『なによりも超自我は、見せかけ(semblant)の掟であって、無意識的で無分別な掟なのである。この掟の指令があらゆる良心=意識の命令より強まって切迫したものになり、欲望を極限まで推し進めるよう命令するのである』。『犯罪者の超自我が弱いと考えるのは誤りである。逆にもっともおぞましい殺人者の場合、自分の欲望を極限まで実現すべきだと命令してくる超自我の唸り声を抑えきれずにこれに応えたのである』。訳・榎本譲, 1990, 新曜社, p.208)

そしてその≪超自我≫の暴走を抑えきれない羽美においては、人の世の“オキテ”というものがあまり身についていないのでは、という気がするわけだが。…いや、そんなことを申している自分も別に同じなんだけど、それはさておき。
そんなようなドタバタがいちおう展開し終わったところで羽美は、土手っぷちに腰かけて川の流れを見ている父親を発見。どうしたのか聞いてみたら、このおとーさんもまた『やっては いけない事を やってみたくて』、会社を無断欠勤して海に行ったら、そのままクビになっちまッたとぬかすのだった。…へんなうす笑いを、その中年づらに浮かべつつ(同書, p.84)。つまりこの困ッた事態が『実は』、本人にとっては思うツボなのだ。

別に精神分析の文脈じゃなくても言われそうなこととして、≪父≫たるものは家庭において…子どもに対して、≪社会≫の代表、的なところを見せねばならんのでは? その父たるものがこのていたらくでは、羽美がとほうもない≪社会オンチ≫であることを、本人だけの責めに帰すことはできそうにない。
で、さらに見てみると、そのちょっと前のお話にて羽美は、交番をたずねて『人の道を教えて ほしいのですが』などと言っているのだった(同書, p.8)。いたってまじめな表情で、

 『どうやら私、少々 人の道をはずれて しまってる感が あるのです』

…と訴えたのだが、しかし巡査はまずビックリし、そして次には気分を害するばかりだ。

 『国民年金を 払ってみたり… 他人の赤子に 愛想笑い したり…
 そんな当たり前の 人の道は――  どう行けばいい のでしょう?』

ここにて羽美が、言っているようなこと。『当たり前のことらを当たり前にやるためには、どうすればいいのですか?』…のようなやっかいな質問を、平気で人に投げかける方々がいることは、すでにわりと広く知られている。その方々とは、≪スキゾフレニー≫(統合失調症, 分裂病)の患者さんらだ。
このヒロインにはかわいそうだがはっきり言って、そんな質問が出てくること自体が1つのりっぱな≪症候≫に他ならない。別に彼女を≪スキゾフレニー≫なのだ…と断定もしないけれど(オレはお医者サマじゃないので)、しかしここにある眺めをカリガリスによる図式(前掲書, p.85)と照らし合わせたら、ずいぶんに符節が合っている…と、“誰も”が感じるのではなかろうか?

だが念のために付言すれば、実在する父がかいしょうなしだったからといって、その子らが必ず≪精神病≫や≪神経症≫になる…という事実はない。裏返して、真人間っぽい父の子らが必ず正気に育つ…という事実もない。われわれがかんじんだと見ているのは、主体において≪父の隠喩≫が機能しているや否や、とゆうことだ。
そして要請される≪父≫のイメージは、いかなる実在の父をもはるかに超えるほど、りっぱで大きなものなのだ。ゆえに問題は、実在する父の姿がどうか…ということにプラス、主体を囲んでいる家庭や社会が、≪父≫のイメージをどのように描いているか…ということもだ。

ただし時たま気分が変わると(?)羽美は、とうとうと彼女の≪妄想≫を語り、また地球上にはない言語を操り、そして超攻撃的な態度に出る。…と、その病態が≪パラノイア≫チックに遷移したりするのが、チョッとしたごあいきょう。
こういうのが現代のドクター様らを悩ませる、≪境界≫的な症例ってもの? と言ってから「新版 精神分析事典」の≪境界例≫の項目をチェキれば、なるほど羽美タンはこれだなァ…と思わせてくれるものがある。
そうなので扱いにくいだろーが、しかし。レナたんと比べたら羽美という≪症例≫は、こっちの社会の中でもありうるケース、かと思われる。強力にデフォルメされてはありつつも、しかし久米田康治「かってに改蔵」なる創作が描き出しているのは、われわれの住む≪この社会≫と同質の世界だ。
(かつまた改蔵くんが明らかにおたくっぽいこともまた、雛見沢の男子たちがいちように萌えオタであることと対応した、『変質化による父の権威の簒奪』という症候ではある)

…過去の堕文の再利用、ここまで。これを『読めるように』と書き直して筆者がずいぶん疲れたわりに、見た人にはあまり面白くなさそう…。
ところでさいごに、今作の『衝撃的』とされる最終回について、ばくぜんと書いて終わろうとすれば。あらためて社会に向かっていくヒーローとヒロインを、病院の屋上から院長が見送っている。この、ぶしょうひげの中年男である≪院長≫が何ものなのかが、筆者にはよく分からない(第26巻, p.185)。
ただはっきりしているのは彼が、≪正気≫の根拠としてなければならない≪父性≫を象徴するものなのだろう、ということだ。そしてその姿がやはり、細っこくも弱々しくて頼りなさそうなのだった。

黒葉潤一「ファンシー雑技団」 - シャイな少女は、シャイすぎて…

 
参考リンク:Wikipedia「ファンシー雑技団」

Late 1990'sの少年サンデー掲載の4コマ/ショートギャグ(少年サンデーコミックス, 全3巻)。掲載時期が同じ媒体の久米田康治「かってに改蔵」とわりに重なっており、そして内容がだんだんと精神的にやばい方向に流れて…という展開の方向性も重なっている。
さてこれについては、多少まとまった文章をむかし書いているので、何とかそれの転載で、と考たのだが。でもその分量が、少なくもないので再利用しにくかった。そっちはいつか、丸ごとこの近くに転載することにして、この場では作の概略を述べておこう。

さいしょ、宇宙を巡業する未来のサーカス団のチン道中を描く、として始まった今作だが。しかしいつの間にか、サーカス団とそのメンバーらがどこかへ消え失せて(?)、その次にはまず、楽聖ことL.v.ベートーヴェンの事跡を空想的に描く…という方向に転ずる。
いや空想的も何も、単に根も葉もないようなことを描いた…と言ってもよさげだが(?)。しかし≪ギャグまんが≫の単行本として、ベートーヴェンが表紙に描かれているというのは、今作オンリーの空前なるフィーチャーではあろう(第2巻)。ただし今作におけるベートーヴェンは、常に全裸のド変質者なのだがッ!

で、ひとしきりベートーヴェンやショパンらが活躍して、そして退場した後の第3巻の内容は…。ここで困った、どう説明すればいいのだろう? なまじ大好きな作品だけに、書きにくさを感じるところだ。

まあじっさい読み直してみて、やや焦点に乏しいような作品にはなっちゃってるかな…とは感じたのだった。いや≪ギャグまんが≫には、とくべつのテーマ性もストーリー性も要らない、とも一方で思いつつ。単に笑えるかどうかということが、その絶対のテーマ性なんだから。
というところから見ると、この作品のさいごの方がなあ…。シャイな少女がシャイすぎてやたらと人を斬り殺したり、または≪砂漠の犬≫と恐れられた元傭兵(と称する、マヌケな顔のイヌ)が超不良校の教師になって、そしていっきなり何のタメもなく問答無用で、

 『死ねーい!!』

と叫んで機関銃を乱射したり…。
なんて、だんだんとすなおには笑いにくいネタが増えてるような。あれれ、そうやって字に書いてみると、けっこうオカPぃような気もするが…!
そして最晩期には2つのネタが合体し、つごう16人もの罪なき人々を殺したシャイガールが超不良校に収容されてきて、『先手必勝!!』と叫んでいきなり級友を斬り殺せば、≪砂漠の犬≫もまた『全員殺ス!!』と叫んで機関銃を乱射(第3巻, p.184)…と、あまりにワケが分かンなすぎだし! ≪アナーキー≫のきわみでござ~るゥ、デストロイッ!

なお第3巻のカバーのド真ん中で、キリッとした顔つきでセーラー服姿で日本刀を構えているのが、この殺人少女だけど。見た感じ、この子は妖怪退治でもしてんのかな…と想うのが、まんが読者的な見方だろうに(“セーラー服+日本刀”は、近年けっこうよく見られる図象)。それがまさか兇悪なる殺人鬼だとは、逆にアッパレだと言ってよいのやら? むしろありきたり気味なそれを、裏返したところに≪何か≫が描かれているのだろうか?
ところで今作は、丸っきり意味不明だとも言い斬りがたいところがあって。ニンゲン誰しも多少は他人がコワい、されば即、『先手必勝!!』として『殺ス!!』…という挙動に出るのも、実はそんなにはイミ不明でない。
イミはあっても、単にそんなことを実行しちゃ~ダメだというだけで…ッ!? と、かように、(多少でも)笑えるギャグには、必ず何らかの≪意味=無意味の意味≫があるのだ。

とまあ、いろいろ申したけど、やはり自分はこの作品をスキだし、無視しえぬ創作だ、と見直してみて思ったのだった。なぜって1つ言えば、作家が構築している世界の破綻のせとぎわから何か、≪真理≫めいたものが、かろうじて回帰しているから…とでも言っておくところか。
いや、ぜんぜんことばが足りない。今作については、いずれまたもう少し。

2010/03/01

久喜青葉「アホアホ学園」 - すべては埼玉に還る、新芝川を超えて

 
参考リンク:Chakuwiki「久喜市」

Mid 1990'sの少年サンデー掲載のショートギャグ。埼玉の久喜市青葉に在住だったという作家が、『究極のアホ野郎』とも絶賛されるアホ界の超エリート≪“浦和”ヒロシ≫君の、ワールドワイドな活躍を描く。
これは、ニホンにおける、というか、『宇宙におけるアホの中心地は埼玉である』と宣言しているような作品か、という気もする。この時代から現在までのギャグまんがに、≪埼玉≫というキーワードが…。いつも何となく見え隠れしているような気もするのだけれど、あまり言い張る気もない。

そういえば筆者はこの本(少年サンデーコミックス, 全3巻)の、第1巻と第3巻を手に入れた後、第2巻を見つけることがなかなかできなかった。第1巻では『アホアホ学園』の生徒だったヒロシ君が、第3巻ではその教師として登場する(!)ので、その間の展開が大ぅい~に気になってたのに!
で、探したあげくにやっとそれがめっかったのは、川口の古書店にてだった。『やっぱり』…というわけで、埼玉から出たものはおのずと埼玉に還っていくらしかった。

しかもその、第2巻の内容ってのを見たら。ヒロシ君がたまにはうちに帰ろうかと思って学園を出たら、自分の実家の場所を思い出せず(!)、そして10年間もほっつき歩いている間に大人になってしまい、そして(卒業もしてないのに)アホアホ学園の教師として迎えられる、とは!
これがもち、≪ギャグ≫ではあるんだけど。かつ、われわれにおなじみの≪オイディプス神話≫のバリエーションにも他ならぬ、まったく≪外傷的≫なエピソードではある。テーバイから出たものはテーバイに還っていく。

そしてわれらのヒロシ君は、実家の場所も知らないくらいなので、両親のこともまた、よくは知らない。何せ、オイディプス君だけに。その彼が両親(らしき2人)にめぐりあうまでのお話がまた≪外傷的≫なので、ちょっとご紹介しとくと。
さいしょからやたらに『チンチンが小さい』という特徴をもつヒロシ君ではあったが、その活躍が過ぎたせいでとうとう、チンチンを完全にスリ減らし、女になってしまう(!)。するとかわいいのでアイドルとしてデビューし(デビュー曲『セクハラはやめて』)、大人気を博するが、しかし芸能生活のストレスがおっぱいにたまって、それがしまいには大爆発してしまう。
というところで、『アホアホ学園の海外分校でチンチンがゲットできるらしい』…という情報を頼りに、ヒロシ君らは≪自由の女神≫型の飛行機でエジプトらしき地に向かう(第3巻, p.93)。この自由の女神が、なぜか余興として空中でストリップを演じる…というのもまた意味ありげだし。
で、海外分校に到着し、そこで栽培しているチンチンの形をした『チンゲン菜』とゆうチン味を食すると…(中略)。そして男に戻ったらしきヒロシ君らの前に敵として、巨大な姿の海外分校の理事長が立ちはだかる。が、敵の背中にファスナーを見つけたヒロシ君がその着ぐるみを剥いでいくと、何重もの着ぐるみの下から最後に現れたのは1本のコケシだった。

 『理事長がチンチン… いや、コケシだったとは…!』

そしてそのコケシが、ヒロシ君にむかって『実は私はお前の… お前の父なんだ!!』と、打ち明けるのだった(第3巻, p.113-114)。そして父がこんなんだから、追って出てくる母も、あんまりまともではないということはご想像通りにて。…ただしこのエピソードでヒロシ君が、真の両親にめぐり会えたのかどうかは、誰にも分かったことではない。

もっと笑えるところをご紹介したかった気がするが、ともかくもかくのように、アホらしさのきわまり的な夢想譚が、どういうワケだか≪オイディプス神話≫のかたちを再現し、≪去勢≫のモチーフをしつこく再現し、そして主体にとっての決定的な≪シニフィアン≫である≪ファルス≫とのご対面…というクライマックスに導かれていく。
で、気がつかされることは、女の子が≪ファルス≫の所在をたずね歩く冒険談に比べると、男子によるそれは、びみょうにも軽みに乏しいということだ。

【付記】 上記の堕文は、例によって2009年の夏に書いていたものの再利用だが、われながらひじょうにキレがない。いつもだったら、もう少しましなことを書いていそう、という錯覚がある。たった3冊の本なのだから読み直して、もっとましなものとして再論したいが。
しかしこんどは自分の部屋の中で、今作「アホアホ学園」の単行本を見失っている(!)。いつのまにかそれは、またも埼玉へと還ってしまったのだろうか? なんて冗談はともかくも、それが見つかったら必ずどうにかしたい!

2010/02/18

小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

この記事は、いったい何なのかというと? まずはギャグまんがを追求しようとするわれわれの必読書、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)という名著が存在し。
そうしてそれに参考文献として紹介されていたのが以下に見る書物、小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」(1980, 創元社)だ。そして読んでみたらじっさい、その著者さまも言われるように『いまだ誰もはっきり論じたことのない』独創的な説があるかと感じたのだった。

そこでその当該のチャプター『笑い』(p.5-16)の要旨を、節ごとに抜き書きしたのが、追って掲示されるサマリーだ。ところでそれを見ていただく前に、筆者の注目点を書いておかねばなるまい。さもないと、要約の意味が通じないかも知れない、とおそれるので。

すなわち自分の考えとして、人間の『笑い』というものは、単にゆかいだから笑う、というものではない。『笑いは常に、どこか悪魔的である』とするボードレールの批評「笑いの本質について」(1855)、それを下敷きとすれば、次のように言える。
たとえば≪ハイジ≫のように純朴な田園の少女がいたとする。すると彼女は、ゆかいだから、という笑いしか知らないかも知れない。それをいま≪天使の笑い≫、とでも言っておく。空が青いから彼女は笑い、小川の水がきれいだから彼女は笑う。たぶん≪天使の笑い≫とは、そのようなものだろう。
ところが彼女が薄汚れた都会に出て、その雑踏の中でもまれるような暮らしをしたとする。そうすると彼女はやがて、われわれのよく知っている黒い笑い、『悪魔的な笑い』を知って身につけてしまうだろう。
そしてその悪魔的な笑いとは、差別・軽蔑・愚鈍・無知・偏見・無分別・暴力・死・狂気・セックス・未熟・貧困・スカトロ・グロテスク・剥奪・喪失…といった、ふつうはまったく『ゆかい』でなさそうな事項にかかわるもの。すなわち、われわれのよく知る≪ギャグ≫の作用だ。

では、なぜ≪天使≫ならざるわれわれは、まったくゆかいでなさそうなことらを≪ギャグ≫として笑うのか、笑えるのか? ここに問題がある、と見つつ。
そうして筆者の考えを言ってしまえば、人はゆかいでないことをも笑うことで、びみょうにもそれがゆかいかのように錯覚するのだ。それによって『受容可能なもの』として、その不ゆかいな事項らを再認するのだ。それを一種の『精神の健康法』として、われわれは実践しているのだ。

それはどういうことかというと。まず、どういうところから出たものであっても、人間にとっての『笑い(緊張の解消)』は≪快≫だ。むしろ『まず』笑ってみれば緊張が解消され、そしてそこに一定量の≪快≫が生ずる、とさえ言えるものだ。そしていろいろな意味での過剰で『おかしい』ものに触れたときに笑ってみせるということは、『なるたけ緊張を低めよう』という≪快感原則≫の適用結果なのだ。俗な用語で、『ストレスの発散』と言ってもよい。
ゆえにわれらのハイジっぽい少女は、ハードな環境の中で自分が傷つかないために『悪魔的な笑い』を憶えるのだ。『悪魔的な笑い』とは、まったくよくないものや状況を見ながら『こんなのは、まだまだ最悪じゃないね!』と言ってみるような強がりだ。
きわまったところでは、焼死体を見て『火葬の手間がはぶけたな』と言うような≪ユーモア≫、『黒いユーモア』! そしてそんなことを言っている人間が、必ずしも心を痛めていないとは限らない。

かつ人間にとって、『ゆかいでないこと』のきわまりを≪外傷(トラウマ)≫と言う。こんにちの一般的な用法だと『トラウマ』の語は、大災害で被災したとか、ハイジャックの人質になったとか、そんな極限的な体験(の印象)を言うようだが。『それもそう』なのだが、この語をさいしょに言い出した精神分析の用法は、ちと異なる。
もっと一般的な、誰にでも必ずあるものとしての≪外傷≫に、われわれは注目しているのだ。いちばんきょくたんなことを申せば、『なぜに自分は女性(もしくは男性)なのか?』というところに、もっとも根深い≪外傷≫が普遍的にある。
(補足。フロイトの研究過程で、最初期の「ヒステリー研究」では、ストレートな性的外傷が病因論の中心だった。それがだんだん変わっていき、最晩年の論考では≪去勢≫にかかわる外傷こそ、人間の終生克服しえぬコンプレックスだ、と言われた)

そうして、表現としての『笑い』の追求ということが深まっていったときに、その≪外傷≫というものをつつくような笑いが現れたのは、『逆の』必然とも言えよう。『本来は笑えないようなネタを用いて笑わせる』、そういうものを≪ギャグ≫だとすれば、それの進歩の方向性は『ゆかいでないことのきわまり』をネタにすることだろう。

そして、ここで問おう。米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」の論旨もそうなのだが、かの赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)が『ギャグまんがの第1号』と見られる、その理由は≪何≫だろうか? かつ、まんがなんて本来こっけいを描くものなのに、そこへことさら『ギャグまんが』という言い方が出てきたのはなぜなのか?
それは、わざわざ≪外傷≫をえぐるものとしての≪ギャグ≫が、その「おそ松くん」という作品によって初めて集中的に、まんがへと描かれたからだ。

別のところでやや詳細に「おそ松くん」は検討したいのだが、いま言えることとして。それは単なるドタバタであるばかりでなく、かのイヤミ氏の『シェー!』という≪ギャグ≫の発明によって、≪ギャグまんが≫と呼べるものになりえたのだった。
では、『シェー!』とは、何か? それは、人間のオーガズムを婉曲に示唆するジェスチャーに他ならぬ。それは『逝くゥ~ッ!』という絶頂の叫びの婉曲な言い方をともなって、オーガズムの硬直とけいれんが模擬されている≪行為≫なのだ。
…またそれを追って1970'sには、黒鉄ヒロシによる『アヘーッ!』、どおくまんによる『ガビビィ~ン!』などの同じ線を追う≪ギャグ≫が登場し、それぞれ社会にインパクトを与えている。特に前者は、『シェー!』が婉曲に表現していたものを、もろストレートに表現している。かつ、これらに類する瞬時の1発ギャグの多くが、突発的なオーガズムの現前『である』ものと見られる。

そうして筆者の意見だと。述べたように「おそ松くん」をギャグまんがの第1世代として、以下に山上たつひこ「がきデカ」(1974)が第2世代、そして吉田戦車「伝染るんです。」(1989)が第3世代…として続くのだが。
そしてその流れをたんじゅんに、『進化である』などとは申さないが。しかしその間に、『ことさらに≪外傷≫をえぐっていく』という≪ギャグ≫の方法論に深まりが生じていそうなことは、おそらく見てとれるだろう。その流れの中で、≪外傷≫的な題材らの取り扱い方に、『婉曲→露骨→また婉曲』という行ったり来たりがありながら。

そしてそのきわまりとして出ているのが、『第3世代』の最大の武器である≪不条理ギャグ≫という方法だ。それはどういうものかというと、われわれの用語で言う≪シニフィアン=意味不明だが意味ありげな記号≫が提示され、それが見ているわれわれの≪外傷≫をえぐり返していく、という方向性だ。
ここでわれわれは、不条理ギャグの意味不明さは、≪シニフィアン≫の意味不明さとイコールだ、と言ってもよい。かつ、不条理ギャグがみょうに意味ありげなのは、≪シニフィアン≫が意味ありげなこととイコール、でもありつつ。

『(精神分析において)本質的なのは(、意味のある解釈よりも)、主体が、そのような意味作用の彼方で、どのようなシニフィアン――“ノン・センス”な、“還元不可能”な、“外傷”的なシニフィアン――に、自分が主体として従属しているか、を知ることである』
(by ジャック・ラカン, 「セミネールXI 精神分析の四基本概念」より)

そしてわれわれは≪ギャグ≫が≪外傷≫をえぐり返してくれる痛みに耐えかねて、そのショックを突発的な呼吸器や腹筋のけいれん(=爆笑)、という肉体の反応として受け流し、そして受けとったものを≪無意識≫に向かってスルーする(=抑圧)。≪外傷≫自体が『必ず抑圧されているもの』なので、その≪外傷≫についての≪知≫もまた、抑圧されねばならない。
かつ、そこで受けとられながらスルーされ抑圧されたものとは、≪真理≫に他ならない。≪真理≫が大げさに聞こえるなら、フロイトが「機知」(1905)に書いている『無意味の意味』に他ならない。人は単なるまったくのナンセンスを笑ったりはせず、それがひそやかに『無意味の意味』を発揮している限りで、それを≪ギャグ≫と受けとめる。
(精神分析の追求の対象としての≪真理≫、という概念が存在する。それとカッコなしの真理とは、いちおう別ものではあろうけど、しかしまったく無関係とは思われぬ)

ところで現在≪不条理ギャグ≫といえば、吉田戦車が開発した方法かのような見方がなされなくもないが(?)。さもなくば、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)が元祖かとも見られそうだが。しかし大方はご存じのように、それは遅くともLate 1960'sには用語も方法も出ていたもので、それ自体はまったく新しくない。
けれども、そんな方法をもって社会に大なるインパクトを与えた作品としては、吉田戦車「伝染るんです。」が第1号だ。そしてその方法は、今21世紀初頭のもっともポピュラーなギャグまんが、すなわち「ピューと吹く! ジャガー」や「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」らにも流れ込んでいる。
そこらを見て筆者は、吉田戦車「伝染るんです。」という作品の登場を、『ギャグまんが第3世代』の誕生と呼ぶのだ。何せまんがは『ポピュラー・アート』の一種だと考えられるので、筆者の見方もそれなりに『ポピュラリティ重視』としている。
(付言して。思想界の用語、実存主義の用語としての不条理と≪不条理ギャグ≫の不条理とは、その意味が同じでない。これについては、別稿で語られるはず)

ッとぉ…! しまった、こんなに長い前説を書くつもりはなかったのに…!

で、まあ。以上のような筆者による『ギャグまんが論』の裏づけの1つとして、以下に小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」のサマリー(記・2009/04/19)をご紹介したい、というわけなのだった。ではどうぞ。

≪小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」, 『笑い』より要約≫

1.【<笑い>は、おかしさの生理心理的な感情表出】
 仮説:笑いの源泉とは、人間らの生与の≪くすぐられ快感 - 笑い反射≫である。

2.【微笑と笑い】
 人々が『笑い』と呼ぶものに、2種類あるかと考えられる。
 i. Smile=『微笑』。これは、心的な緊張が解消された後の心理状態の表出とみられる。(=≪快楽≫的なもの)
 ii. Laughter=いわゆる『笑い』。アハハ、キャッキャ…のような笑い声、および肉体の軽いけいれん等をともなう、激しくも一過性の感情表出。これは何かといって、『内面に起こったはげしい心的な緊張の解消作用そのもの』かと見ゆる。(=≪享楽≫的なもの)
 そして以下では、後者の『笑い Laughter』にしぼって論考を進める。

3.【笑いのナルシシズム(自己愛)】
 笑いのベースには、笑う者のナルシシズムが必ずある。

4.【笑いの緩和作用】
 笑いの心理作用として注目すべきは、『何らかの心的緊張が高まる際に、その緊張を和らげ、時には笑い飛ばしてしまう』。
 そのような『笑い』の緊張解消・弛緩作用には、さまざまな衝動や感情の高まりを笑いへと転換し、人々を再度セルフ・コントロールさせ直す…という機能が(社会的に)期待されている。『笑いは、有用な自我の緩衝作用』。

5.【笑いと“くすぐり・くすぐられ”反応】
 笑いには、性的な興奮を中和したり遮断する効果がある。しかし一方で『笑具・笑い絵・笑女(・売笑)』…というように、笑いが性交を意味する場合もある。どういうことか?
 まず、『≪くすぐり - 笑い≫という刺戟反応ほど≪性的刺戟・興奮-オルガスム≫という性的な反応に類似した現象はほかにない』。よって前者の過程がすでに『あまりにも性的であって』、場合によっては容易に『性感的なものに発展してゆく可能性をもつという意味で、性的なものときわめて親密である』。
 たとえば男性が女性をくすぐるという状況を想定すると、『もし、男女間に性愛関係が肯定されているならば』、くすぐりの快感はそくざに、その女性の性愛的な興奮へと結びついてゆく…かと考えられる。だがしかし、もしも女性があくまでもケタケタと笑い続けるだけだったならば、性的興奮は盛り上がらない。
 後者の場合に、女性がやっていることは何か? 彼女はくすぐられる快感を、性器的な興奮の高まりへと結びつけず、『性器以前』的な性的興奮として表出し、それですましている(ふつうならば性的に興奮させられそうな刺激を、性的でなさげな興奮へと流し込んで処理している)。かつこれによって彼女は≪自我≫の機能とナルシシズムを維持し続け、そしてことに対する能動性を失わずにすんでいる。かくて、『笑いによるセルフ・コントロール』が成功している。

6.【おわりに】
 未検討の話題が3つ列挙されているが、さいごの≪諸感情の表出手段としての笑い≫のパラグラフを引用しておく。
 『笑いは、快感を伴い、しかも攻撃性、性欲いずれの衝動をも直接なまなましく発揮しない。むしろ、笑いはそれらの緩衝作用を営む。笑いは互いに共有されやすく、社会化された形での感情表出手段である。これらの心理的諸機能をもつために、笑いは社会生活におけるおかしさ以外のさまざまな感情(悲しみ、怒り、照れ…)のもっとも一般的で、もっとも適応的な感情表出手段になる』

以上、要約の終わり。

なお同じ本のさいごの方で、こんどはフロイト「機知」の主張を(いちおう)ふまえつつ、再び『笑い』が検討されている(p.189)。が、そっちの論考にはいまいちキレがない。

飯島浩介「お坊サンバ!!」 - みんながんばれ、SEOっ!

 
参考リンク:Wikipedia「お坊サンバ!!」

表題に出ている、飯島浩介「お坊サンバ!!」というギャグまんが(2007, 少年サンデーコミックス, 全8巻)。その中でさんざんバカにされている、≪大坊主≫というジジイがいる。坊主がひじょうに尊敬されている作品世界、その頂点に立っているお人なのに、言動にまったく重みがない。
その大坊主さまの軽い行動の中に、まったくくだらなそうなブログを開いてて、誰もまったく見に来ないというのがある。そうして筆者がここでやっていることは、それよりもさらに低レベルかもなあ…といった自嘲もありつつ。

さて。こんなへんぴなところでSEO(サーチエンジン最適化)の話題も噴飯もので、これがまた1つの≪ギャグ≫だ。別に商売でもないのにおかしいけれど、筆者は一種のゲーム、つうかお遊びとして、それに興味がある。
遊びというなら、まったくお遊びに他ならない。コンテンツ自体とはまた別に、筆者がここをやっている理由の1つに、インターネットやブログといったこんにちのテクノロジーを弄んでみたい、というのがあるのだ。
いわば『趣味悠々 パソコン講座』的なこと、と言ってもよさげ。ほんとじじくさっ! まさに大坊主さまのたわけた行動を、さらに戯画化してるようなもんで。

そうしてやってきて知ったのだが、SEO的にこのブログは、その現在までのやり方は、ぜ~んぜんダメだ。点数つければ、35点がいいところだ。

何がダメってまずブログタイトルに、『Witzkrieg boP』などという固有名詞が出ているのがダメだ。これは無名な一般人が『田中太郎左ェ門の日記』などというホームページを作るのと同じことで、SEO的にはまったく話にならぬ。しかも『Witzkrieg boP』という語の意味不明さが、またぜんぜんよろしくない。

かつまた筆者の表記法として『ギャグ“まんが”』と書いているわけだが、これがまた(ふしぎと?)よろしくない。ひらがなではなく、『マンガ or 漫画』と書かなければならない。『ギャグ漫画』で検索した場合に『ギャグまんが』もヒットする仕組みではあるようだが、ひじょうに評価が低くなるらしいのだ。
そしてなぜだかGoogleは、『漫画』と『マンガ』の間には同一視の法則が働いている感じで、ひらがな表記だけがのけものっぽい。要するにありうる表記法のうち、わざわざ最悪なものが選ばれている。

等々と考えてくると、まずここんちのブログタイトルは、『ギャグマンガ感想』とか『ギャグ漫画レビュー』、くらいの簡潔さが好ましい。それとエントリのタイトルもシンプルに、『作者「作品名」』だけの方がよさげ。よけいな単語がひっついていては、スコアが低まるばかりらしいので。
さらに、本文のさいしょの数行がひじょうに重要なので、ここに『マクラ』として、題材とは異なるような話題をふっていくのはよくない。筆者は学校の国語っぽい教科では常に最高の評価をもらってきたが…それが唯一の自マンだが、しかし国語の先生にほめられるような文章は、SEO的にはダメだ。へんに話を拡げず『トンネル視』に徹し、ひたすら題材についていくのがよい。
そうしてここらでSEOの根本的な方向性を確認すると、それは『平均化された一般人らの思考や感性に迎合する』、ということなのだった。無意味そうなかどっこを引っ込めて、なるべくフラットなものとしてウェブサイトを演出するという。

やべえ。無理です、できません。

筆者も一種の一般人、つうかたいへんにダメな一般人なのだが、しかし自分の中に引っ込め切れないかどっこがあるからこそ、『こんなこと』をやっているわけで。そしてそういうものが誰にでもある、ということを信じたいわけで。

と、お遊びのつもりで始めてみて、もはやお遊びでないところにつきあたってしまったのだった。本当にお遊びの『SEOごっこ』に徹するなら、グルメ温泉情報へのリンク集でもやっているべきだった…のかッ!?

ところでさいごに。SEOに関してはとうぜん、コンテンツ以外にハイパーリンクで何とかする、という方法がある。特に被リンクが、超重要でありつつ。
その点に関してはちょっと申しにくいので、そこで大坊主さまのブログが実在するものだったら、ぜひとも相互リンクお願いしたいなあ…お互いのランクを上げるために! …と、無難そうなことを言って終わる。かんじんな話題の飯島浩介「お坊サンバ!!」については、また別稿でふれる。はっきり申して大好きな作品ではある、とだけこの場では伝えておきながら。

【付記】 この「お坊サンバ!!」や「魁!! クロマティ高校」らについて、当ブログのラベルでは『!』の表記をやや変えている。なぜってBloggerのシステム上、半角1バイト文字の『!』がラベルに使えないからだ。が、たぶんそこはSEOに関係ないのでよしとしてッ!?
Bloggerに関して『SEOに関係ない』といえば、サイドバーに出ている文字列が、Googleだとひじょうに拾われにくい、という発見もお伝えしておこう。よって、そんなところにキーワードを配してもムダっぽい。
BloggerはGoogleのサービスなのに、ずいぶん足もと見てない感じだ。そしてその『足もと見てなさ』こそ、われわれの追求する≪ギャグ≫の基本でありつつ!

【追記】 2010/02/21。
その1。上の記事を書いていて、話題の作品「お坊サンバ!!」の単行本、さいごの第8巻を自分が持っていない、ということを知った。そこで外出のついでにいくつかの書店で探したが、いっこうにない。
いまどきはまんがの本を買うのもたいへん、発売直後のタイミングを逃してしまったら、ほんとうにたいへんだ。自宅が東京といってもへんぴなところなので、近くにはまともな書店などないし。というか昨2009年、それなりの品ぞろえを誇った近所の書店が、2軒もつぶれてしまったし(!)。これ、どこで買おう?
その2。この記事を書いてから少々小細工をして、やっと少しだけ、SEO的なあれが向上したかと。だけども、いまだぜんぜんだなあ…。あとは、どういう小細工の余地があるのだろう?
などというつまらぬことに『関係なく』、どうにかしてここを見つけてくださったご訪問者の皆さまには、ほんとうに感謝にたえませぬ! 超ありがとうです~!

2010/02/16

噌西けんじ「動物のカメちゃん」 - それもこれも、何せカメだけに!

 
参考リンク:Wikipedia「動物のカメちゃん」

街に新しく開店しようとしているペットショップ、≪万華堂≫。ところがその経営がとんでもなくインチキで、その辺にいるどうぶつを拾ったりヨソんちのペットをさらったりして、何とか店のカッコをつけようとしている(!)。
そしてそのとばっちりで、さらわれてしまったマルチーズのラッシー君。彼がその万華堂の店内で出遭(いそこな)ったのが、≪カメちゃん≫と呼ばれるふしぎなふしぎなどうぶつなのだった…!

という感じで始まる今作(少年サンデーコミックス, 全5巻)、人呼んで『新感覚・動物パニックギャグ』(第1巻, カバー表4)という作品。これについて、むかし初読のころには、全般にややインパクトが不足か、なんて思ってた。
しかしこんどの機会に再読してみたら、その内容に『抑制』のきいてるところがよいなあ…と、まるっきり逆のことを感じたのだった。エロなし、スカトロなし、だじゃれもなし、そして過剰なグロ・残虐・暴力表現らもなし…と。

てのも。正直申してここ数日の筆者は神経が弱りぎみで、あまり刺激のあるものにはふれたくないのだった。そういった読者に対して、ちょいといい感じに機能する…というのもまた、りっぱなホメことばになっていると思うのだが…!? かつ、そこまでも抑えた内容で、ちゃんと現代的な≪ギャグまんが≫になってるのは、りっぱだと思うのだが!
(注・この堕文は、2009年の夏に書いたものを加筆修正して再利用している)

さてそのヒーローであるカメちゃんが、実にふしぎな動物で。まず、どうぶつ語と人語がペラペラのバイリンガーだし。そして寸法がみょうに小さくて『ゼニガメ』という感じで、2足で自由に歩行し、しかも甲らを着替えできる!(凡俗なカメは、甲らをはがすとオダブツらしい)
かつ、ふつうのカメとは異なりカメちゃんは、頭の中に体のぜんぶを引っ込める(!)、というスゴい芸をもつ。しかも彼は、誰に対しても常に保護者きどりの態度と『上から目線』で接し、そして『自分は“何”でも分かってる事情通』、みたいなでかい口を利いてくれる。
というわれらのカメちゃんについて、何せ『カメ』だけに≪ファルスのシニフィアン≫である、と指摘するのもバカっぽいが、しかしそうなのでしょうがない(…精神分析用語で≪ファルス=陽物≫とは、『象徴化されたペニス』。≪シニフィアン≫は、『意味ありげだが意味不明な記号』)。

とは言っても、カメちゃんの場合には性的な意味作用はそんなになくて。しかし、みょうに『その世界』の中の『カゲの支配者』を気どっていそうなところが、≪ファルス≫チックなうっとうしさかと見ゆる。
なぜならわれわれは≪ファルス≫というものの性格として、『意味作用のあるところに遍在する』ということを見ており。そしてカメちゃんが、みょうに『どこにでも』顔を出す、そのあつかましさとイヤらしさが、ちょっとそれ的なのだ。

で、そのようなカメちゃんが目の前の相手らに対し、おかしいことを振ってショックをしかけるという挙動があって、それが今作の主なる『内容』だ。そしてその『被害者』が、ラッシー君を第1号に、ゴールデンレトリーバーのジョン君、高校生の雄三くん、並行してその先パイの烏丸くん、最終的で決定的なパートナーとして小学生のはじめ君、合い間にちょこっと女子高生の篤子…等々々と、全5巻を重ねる間に変遷している。

ここらでお話を1コ、ご紹介しとこう。『今夏は水不足』というTVのニュースを聞いているカメちゃんは、『そりゃたいへん』と言いながらジョバジョバと水をたれ流しながら行水していて(!)、そして、何か一計を案じたもよう(第3巻, p.37-44, 『水不足のカメちゃん』)。
追って次のシーン、はじめ君が友だちに誘われて『デザートワールド』というテーマパークへ行くと、それはむしょうに広大な砂漠であるだけのシロモノで、甘い方の『デザート』じゃないので彼らはガッカリ! そして、そのゲートふきんで『とうぜんかのように』はじめ君らを出迎えたカメちゃんは、水不足に備えてサバイバルを学ぼう、『世界で最も過酷なテーマパークへようこそ!』…などとぬかすのだった。
で、東京ドーム46個分の敷地にサハラ・ゴビ・タクラマカン…と多種多様なる砂漠を完ぺきに再現したというパークの中に、カレらはペットボトル1本の水と地図だけをもって踏み込むのだった。

するとその過酷さがほんとにすごくって、まずは備えつけの機材らがほとんど砂に埋もれているので、使うには掘り出さねばならない。観覧車やコースターもあるが、それらも半ば埋まってるので、眺望は砂だけだ。フードコーナーには『サバクドナルド』とか『砂っく』とかいう店らが出ているが、食べ物はぜんぶ砂まみれ。もううんざりしてさっさと出口に向かったら、あったと思われた出口が蜃気楼(!)。
そうしてはじめ君たちがひからびながら、この砂の迷宮を脱したのは、約6時間も後! で、独りだけぞんぶんに砂の世界をたんのうしたカメちゃんによる、シメのセリフがまたよい。

『次は隣にできた ウォーターワールドに みんなで行こう! 地球温暖化現象による 海面の上昇を再現した 水中のテーマパークなんだ!』

そういえば英国のJ.G.バラードという小説家(スピルバーグ「太陽の帝国」の原作者)がいて、その人の初期のシリーズ作に「燃える世界」、「沈んだ世界」、といった一連の『破滅ものSF』があったが。これらは、それか。かわいい顔してカメちゃんは、われら人類の末路をあらかじめ見せてくれるというのだろうか。
またそういえば、カメというどうぶつの特徴としてふつうに、『サバイバルに強い』。筆者は小学生の時、学校の体育館ウラの地中からカメを掘り出したことがある。死んでいるのかと思われたそれだったが、ためしに水槽の中に放り込んでみたら、手足と頭を出してスイスイと泳ぎ出したのだった。

ところで巻が進むごとにはっきりするのだが、このようなカメちゃんのゆかいな挙動らは、『ツッコミを求めてボケている』のであるらしい。カメちゃんがその『相方』をしばしば変えるのも、彼の理想のツッコミを求めてのことらしい。
しかしながら! ノリまくっていた時期のカメちゃんは、そんな議論とかヌキで、ようしゃなくマシンガンのようにボケたおしていたわけで!

それがそうじゃなく、ツッコミが浅いとか甘いとかいう談義が出てきているのは、逆にカメちゃんのボケにキレが乏しくなっているからではなかろうか? ついでにカメちゃんは、先にボケをかまされるとリアクションが弱い、ということも指摘しておこうか。
それこれを反省したのかどうかは知らないが、第4巻の半ばで彼は、ヒッチハイクで修行の旅に出る。そしてその旅の空の下で、コソコソと独りでボケをかますたび心の中に、はじめ君のやさしいツッコミを感じるのだった。そこがみょうに感動的なような気がして、思わずジワリと、心の弱り気味な筆者を泣かしてくれるのだった…!

2010/02/11

草場道輝「ファンタジスタ」 - 2010日本代表へのメッセージ!

 
参考リンク:Wikipedia「ファンタジスタ」

これは少年サンデーのサッカーまんがとして、以前ご紹介の「俺たちのフィールド」に続き、1999年から2004年に掲載されていたもの(少年サンデーコミックス, 全25巻)。その特徴の1つとして、『姉が弟をコーチする』という「リングにかけろ」(車田正美の崇高きわまるボクシングまんが)みたいな要素がちょっと気にかかったのだが、しかしそこで大して発展しているわけでもないのが残念…という読後感があった。

あと思うんだけどサッカーまんがについて、その題名に使えるサッカー用語が、だんだんと『残り少なく』なっている。かって『イレブン』、『シュート』、『キックオフ』、『フィールド』などの、体育の教科書にも載っているような用語らがフレッシュだった時代は牧歌的だったのに(!?)。
だんだんとそのような用語が使いにくくなってきたのか、わりと近年の作品らでは、2極分化現象がある感じ。まず一方では、「ホイッスル!」とか「エリアの騎士」とか、題名だけ見てはサッカーまんがとは分からない。
ホイッスルはバレーのお話かも知れないし、エリアと言ってもパーキングかも知れないし。そしてその一方では、「GIANT KILLING」や今作「ファンタジスタ」のように、わりと専門的かつ『時代的』なサッカー用語が使われている。

そうして今作の題名の「ファンタジスタ」とは、ピッチの上にファンタジーを描く選手というほめ言葉だが。具体的には長い長~いロングシュートをきめるとか、深~い位置からドリブル突破して1人でゴールまで行っちゃうとか、そういう個人技がミラクル級にすごい選手(ら)を言うのだが…。
けれどそのような概念は、さいしょからノスタルジックなものとして言い出されているような気がするのだった。どうしてって現代サッカーの戦術の歴史には、『個人プレー→組織プレー』および『テクニック重視→フィジカル重視』以外の流れが、基本的には『ない』。

そこで「ファンタジスタ」の主人公もまた、ある段階では『ファンタジスタ!』と言われてほめられるのだが、その次の段階からは同じ語が、ほぼ皮肉でしか言われなくなってしまうのだった。競技のレベルが上がるほどに、ファンタジスタらはファンタジーを描きにくくなってゆく。これはわれわれサッカーファンが、現実に見ていることだ。

けれども。システムはひじょうに大事でありながら、システム一辺倒のサッカーはひじょうに硬直的で、あまりにもめったに点が入らない、つまらないものになってゆく。
つまらないうんぬんは別にしても。だいたいサッカーは必ず『守りが基本』なので、そうして同じレベルのチームらがシステム重視で守りあったなら、スコアレスドローに終わるのが『基本』になってしまう。

そしてそのような状況でも何とかしてゴールをあげるには、この競技レベルの上がりきったところで、再び『ファンタジー』が描かれねばならない。ふつうは見えないようなスペースを見つつ、ふつうは来ないようなパスを想定してプレーしなければならない。『あえて』のプレーを、成功させねばならない。じっさいに現在、最高レベルでの試合における得点シーンが、ありえない軽わざやテレパシーの実在を思わせる超連携プレーになっていることは、皆さまもご存じの通りだし。
そしてシステム重視でフィジカル重視のごりごりと押しあうような現代サッカーにおいても、個人技の必要がないということはまったくない。それは、重要きわまる『基本への基本』でありつつ。そして、年々ぶ厚くなっているシステムの壁、それをこじ開けるだけのものすごい個人技は、むしろひじょうに待望されてやまないものなのだ。

といったようなことが、草場道輝「ファンタジスタ」には描かれているかとみて。『否定の否定』を介しながらその結末までに、再びの『ファンタジスタ礼賛』がなされているとみて。
それが筆者には、いま現在(2010年2月)の日本代表チームが、格上とも言いがたいベネズエラと中国を相手に、2試合連続のスコアレスドローを演じて大いに非難されている…という状況へと、わりかしきれいに重なり合って見えるのだった。
で、この堕文は、それらに続いた香港戦をTV観戦しながら書かれているのだが。現状では日本代表が2-0で勝っているけれど、それは相手が超格下なのでともかく(…結果、凡戦として3-0で日本代表が勝利)。

そんなにレベルが変わらなければスコアレスドローに終わるのはサッカーの必然なので、そこを『つまらない!』と責めるのも、あまりサッカー的な言説ではないように思われる。むしろ点を取られていない、というところをほめるべきかも。というのも、この6月のW杯南ア大会で日本代表が少しでも勝ち点を獲るには、このような渋い闘い方こそが適切かと思えるので。
しかしそうではあっても、『点を獲って勝つ』ということのためには、再びの『ファンタジーの実現』が必要ということ。それをこの「ファンタジスタ」という作品が、いま現在のサッカー界へ、そして日本代表チームへと、再び語りかけているように思うのだった。

【付記】 これに関しては本が手元にない状態で書いているので、あまり作品の生はだに触れるような文章にはなっていないことを、皆さまにおわびいたす。
もう1つ今作への感想を付け加えておくと、サッカー『まんが』においてもあんまりなファンタジーが描かれにくくなっていった、そのような時代の作品だなあ…と筆者は、感じた。キーパーをネットまでブッ飛ばすような必殺シュートも出せないし、1人が3人分のプレーをこなすこともできない、そのようなリアリズムと、日本代表が結末で『あの』サッカー強国にオリンピックで勝つという大ファンタジーとの間に、無視しえぬ摩擦があるな、と。
このように、現実においてもまんがの世界でも、『ファンタジスタ』という語が用いられることは、逆に『ファンタジーの衰退』を前提としつつ、その復活を願うことなのだった。

2010/02/04

ツジトモ「GIANT KILLING」 vs.村枝賢一「俺たちのフィールド」

 
参考リンク:「モーニング」公式 「GIANT KILLING」作品情報, Wikipedia「俺たちのフィールド」

以下の堕文は、いま現在のサッカーまんがである「GIANT KILLING(ジャイアント・キリング)」の現在性を明らかにしようとし、そしてそのための参考として、先行作の「俺たちのフィールド」を参照している。よって『「GIANT KILLING」 vs.「俺たちのフィールド」』と表題にはあるけれど、両作の扱いはそれほど対等・平等ではない。かつ、『両者の勝負をつけよう』という意味も別にない(はずだ)。以上、おことわり。

ではまず、「GIANT KILLING」について。それは東京下町の弱小サッカークラブを超独断的に指揮して、若干35歳でひねくれ者のコーチ≪達海猛≫が、チーム内外で暴れまくる勇姿を描く作品だ(2007-, モーニング連載中)。そしてその画面を一見して目立っている作画上の特徴は、ひじょうに“誰も”の頭髪がハネている。
近ごろの用語で『アホ毛』というものなのかどうなのか、ヒーローの達海の毛が盛大に逆立っているのを筆頭に、それに負けじと(?)脇役の選手らもおっさんらもガキたちも、みんなその毛がハネている。さらにはいちおうヒロインらしきクラブ広報の女性までも、まったくもってその毛がハネている。
ハネてないのはただ1人、坊主頭の選手だけ…とまで言っては、少々うそになり気味だが。ともあれひじょうに目立っていることとして、「GIANT KILLING」作中で人々の頭髪は、むやみにハネているのだ。

で、この『やたら毛がハネている』という特徴は≪何≫か? …といったらとりあえず、その画面から受ける印象の、『垂直方向の力強さ』に寄与している、とは言える。これを書いている時点で「GIANT KILLING」は第13巻(モーニングKC)まで既刊だが、可能ならばその表紙らを並べて見ていただきたい。すると筆者の申している、その画面の『垂直方向の力強さ』とやらが、おそらく見てとれるのではと。
『垂直方向の力強さ』という語が出たところで、今作の題名をなす『ジャイアント・キリング』について。これはサッカーにおける下克上、『大物喰い』ということを表す語であり、そしてわれらのヒーローが、弱小クラブのコーチとして目指していることだ。すなわち『ジャイアント・キリング』をなそうとしている彼らに『垂直方向の力強さ』はぜったいに必要なものなので、ここには作品のテーマ性と画面構成とのみごとな一致がある。

とまで述べてから思い出したのが、Jリーグ誕生期のサッカーまんが、村枝賢一「俺たちのフィールド」(1992-98, 少年サンデー)だ。こちらの作品は「GIANT KILLING」とは異なり、サッカーという活動を『垂直方向の運動』と見ているようなふしが、あまりない。何せ『俺たちの“フィールド”』というくらいなので、縦よりも横の拡がりの中での、水平の運動が描かれているな、という印象を受けた。
比較のためにと「俺たちのフィールド」(略称・俺フィー)の話を続ければ、そのヒーローの特徴として、『横の動きがひじょうに軽快』、というところが見られる。それは、ただ単にピッチ上で脚が速い、というだけの意味ではない。

では、どういうところを申しているかというと。まずストーリーの序盤、ある事情で何年間もサッカーから離れていた後に、ふと思い立って彼は、自分の高校のサッカー部に入る。そのサッカー部は、『あとひとつ勝てば“全国”』というところまで予選を勝ち抜いているのだが、そこへ彼はふらりと入っていって、あっさりとそのレギュラーになるのだ。
それから『全国』の優勝を勝ちとった主人公は、またまたふらりと学校をやめて、アルゼンチンの一流クラブの『四軍』で修行を始める。そしてやっとその一軍に上がったと思ったら、またまたふらりと彼は日本へ戻り、とあるクラブに加入して、そのJリーグ昇格に貢献する。そうすると彼は、代表監督の編成した秘密チームに召集され、そしてまたまたふらりとヨーロッパ各地で修行の旅を続けることになり、その間は大胆にも所属クラブを『無断欠勤』(?)としゃれ込む。そして、またまたふらりと…!

ことほどさように「俺フィー」の主人公は、『横の動きがひじょうに軽快』。いやどちらかというと、あまりにもそれが軽快すぎるような感じ…かと申しているのだ。
またはこのヒーロー≪高杉和也≫について、『まるで、“サッカー遊牧民”』ということばを捧げたいような気もする。彼は常にひたむきに向上心をもってサッカーに取り組んでいる『まじめクン』ではありながら、しかし遊牧民ならぬわれわれ定住民の目には、その水平の動きが目まぐるしすぎるような感じがなくない。

かつまた。「俺フィー」の主人公はサッカーに対して、まるでそれが『個人競技』かのように取り組んでいる…という見方もできる。ここでサッカー世界の縦の構造に着目すると、日本で申せばJ1を頂点として、以下J2、JFL、地域リーグ…等々と、きわめて明確なピラミッド構造になっている。かつ1つのチームの中にさえも、レギュラーと控えとの上下関係がある。そうとすると下位から上位への『構造的な怨念』のようなものが、そこに生じないわけはない。
そしてその『構造的な怨念』をまっこうから肯定しているのが、すなわちうわさの『ジャイアント・キリング(=下克上)』という概念なのだ。これは本来ならば、アマチュアチームがトッププロに勝つくらいの、まれに見る大番狂わせを形容することばではありつつ(…ゆえに残念ながら、弱小といえどもトップリーグの監督である達海には、当面ほんとうの『ジャイアント・キリング』ができない)。

ところがその『ジャイアント・キリング』という概念ほど、「俺フィー」のヒーロー和也クンから縁遠いものはない。『サッカー界には縦のピラミッド構造があり、そしてそこには構造的な怨念が存在する』という事実が、あまりにも彼とは無関係すぎる。彼はアルゼンチンのクラブで四軍の一員として一軍との試合に臨むけれど、しかしそれにさいして、『自分らが“四軍”であることの屈辱を雪いでやる!』…などという気持ちは、もうとういだかない。
すなわち和也クンの『動き』は、実態としてはサッカー界のピラミッドを上昇している部分もありながら、しかし『構造』の中の上昇は彼の目指すところではない。さわやかにも彼は、サッカー界における自らの地位や位置など、まったく気にしていない。ゆえに、『下克上』はない。
そのような和也クンの『動き』の動機を、あえてことばで表現してみれば、『俺(個人)は、あいつ(個人)には、ぜったい負けたくない』…くらいなことになろうか。つまりはノーマルなライバル心ということだが、そしてそれをバネとして和也クンが自分(個人)を向上させていくことは、さいしょから大して構造的に描かれていない世界を、さらにさらに水平にフラットに、としていくのだ。

付言して「俺フィー」の初期、高校サッカーが描かれている部分は特に、『11人 vs.11人』の団体競技である≪サッカー≫というものを、まともには描けていない感じあり。いくら主人公だからといって、あっちのゴールからこっちのゴールまでをふつうにケアせねば…つまり1人で3~4人分くらいのプレーをこなさねば…とは、あまりにもなさそうなことだ。
だがまぁそれは、『まんがだから』と、いったん受けとって。しかしわれらの和也クンらが物語の終盤、代表チームでW杯の大舞台に出てまでも相変わらず、『1人ずつが2~3人分の動きをすればいい』とばかりの猛烈な作戦に出ることは? そしてその作戦が過酷すぎるあまり、早くもわずか前半30分過ぎに、選手の1人がオーバーワークで失神してしまう(!)。
それについては、申し訳ないがあまりにも猛烈すぎて、少々の失笑もありつつ。だがしかしそのような描写が意外に、『現代サッカーは(技術よりも)フィジカル重視』であり、『90分間フルに走れるならば勝てる』…とかいうこんにちのサッカー格言の先取りなのかなぁ…という気も、しないではないのだった。

それと、「俺フィー」のひじょうにきわだった特徴をもう1つ。その全34巻(少年サンデーコミックス)という大長編の中には、『サッカーのコーチ(監督)とは、いったい≪何≫をしている人なのか?』ということが、まったく描かれていない(!)。
うそのようだがそれは“ほぼ”、ほんとうのことだ。そこにおいて(言うまでもなく)、コーチを主人公としてサッカーを描く「GIANT KILLING」と「俺フィー」とは、あまりにも対照的すぎる作品になっている。
ただし、「GIANT KILLING」(略称・ジャイキリ)のような作品が“なかった”とすれば、「俺フィー」という作品の『きわだった特徴』などは、とりわけ目だたないことだったかも知れないのだ。ゆえにわれわれは、いまという時になってこそ「俺フィー」という作品を、その独自性において読むことができる…とも言いうる。

とまでを見てから、1つの『ぶっちゃけ』を敢行してしまえば。筆者は10年くらい前からサッカー観戦を趣味としている者なのだが、しかしその一方で『サッカーまんが』というものに対しては、ほとんど興味がなかったのだ。その約10年間を通じ、『紙に描かれた架空のサッカーよりも、現実のサッカーを見ている方が、ずっとエキサイティングだぜ!』…と感じてきた。
それがこのような堕文を書くようなことになっているのは、ひとえに「GIANT KILLING」という作品にふれたがゆえだ。そしてなぜ「ジャイキリ」が筆者の心にふれたかといえば、まずはそれが、『スタジアムに行くようなサッカーファン(特にクラブチームのサポーター)、そこから見てのサッカーを、かなりリアルに描いている』という、その特質による。そういう作品として、初めて筆者の目にふれたのが「ジャイキリ」だったのだ(…つまり筆者においては、実は「俺フィー」を後から読んでいる)。

「俺フィー」があくまでも1人の選手に着目しつつ≪サッカー≫を描いていることもまた、ありうる1つの方向性ではありながら。しかし現実のサッカーは、『選手・チーム・クラブ・ファン(サポーター)・上部組織(リーグや協会)・スポンサー・地域(自治体や国家)・メディア』…等々々々という、とほうもなく大きな拡がりの中でなされていることだ。そしてその巨大な拡がりは、公式および非公式のしがらみによって、そしてその中にうずまく正と負の強力な感情らによって、がんじがらめに構造化されている。
(ゆえに「俺フィー」の主人公のステップの異様なる軽さは、現実にはまったくありそうもない)

そして「ジャイキリ」は、そのようにうっとうしく構造化された現実のサッカー界を、しかと見ながら描かれた作品なのだ。しかも、そのうっとうしさを、単にそのまま描いているばかりではない。もはやおなじみの『ジャイアント・キリング』というキーワードの示すように、そのうっとうしい構造に風穴をブチ開けよう、少しでもその構造をゆるがし再構造化してやろう…という企図を、それは描く作品なのだ。
また、しがらみというならば「ジャイキリ」は、1つのチームのサポーター同士の間に『さえも』へんなしがらみがあることを、なかなかしつように描いている。なんともいたましいことだが、それまた筆者も見て知っているサッカー界の事実だ。そして今後の物語の中で、そのうっとうしい構造にもまた、『風穴』がブチ開けられていくのでは?

繰り返しになるが、言い直して。現にある1つの『構造』の中を、下から上へとはい上がろう、という運動があるばかりではない。加えてその『構造』自体に対するチャレンジが描かれていることこそが、「ジャイキリ」の新鮮さではないかと考える(…そして何度も言いすぎだが、「俺フィー」では、その『構造』の存在が度外視されている)。
かつそのチャレンジを行う≪主体≫は『正当にも』1つの(弱小きわまる)クラブチームと設定され、そしてそれの操舵手としてのコーチを、「ジャイキリ」は主人公に設定している。何が『正当』なのかといって、サッカーにおける闘いとは、つきつめれば『クラブ対クラブ』の闘いだということから、それを言う(…学生サッカーや代表サッカーの存在は、この世界の中のちっぽけな例外であるにすぎない)。
そして各クラブの意思を代表するものとしてのコーチらが、それぞれの戦術をもって試合を闘う。そして試合にて選手らは、それぞれのコーチの意図を実現すべくピッチ上を動く。≪サッカー≫とはそのようなものだとは、いくらボケッとしていても、10年間も見ていれば分からないわけにはいかない。

誤解を招きそうな気もするので補足すれば、『サッカーにおいて選手ごときはナッシング』、などとは申していない。かつ筆者も別に詳しくはないので『サッカーコーチ論』などはやれないが、しかしその役割はあきらかにひじょうに重要きわまるので、コーチがサッカーまんがの主役を張る資格は十分にある、ということ。そして、そのポジションをクローズアップしてこそ描けるものがありそう、ということ。
けれどもそれでは地味すぎか…と誰もが思うところを「ジャイキリ」は、立体的な構図を分かりやすく示しつつ、そしてその中に、破天荒で傍若無人なひねくれ者でがんこにして独創的で、かつ何よりも『反骨心』のかたまりのようなヒーロー≪達海≫を配し、興味あふれるドラマを作っているのだ。選手たちには次々と不可解なディレクションを示し、試合においては敵将のプランをかく乱し、どこに行っても彼がやろうとしているのは、固まりかけた『構造』に風穴を開けようとすることだ。

 『何でも 思いどおりに いって 何が 楽しいよ
 俺が 楽しいのは
 俺の 頭ん中より スゲーことが 起こった時だよ』(「GIANT KILLING」第2巻, p.100)

そしてその予想以上のことを起こそうとして達海は、彼のおもむくところ“すべて”をぞんぶんに引っかき廻し、そして出くわした者ら“すべて”を激しく挑撥してやまないのだ。そして何度も申してしまうが、彼が『こと』をなすための最大の原動力として頼んでいるのが、『下に置かれたものの怨念』、すなわち『ジャイアント・キリング』のスピリットなのだ。

また、ちょっと別な見方もしてみよう。現実になされているサッカー競技の特徴として、(野球等に比べて)めったに点が入らないし、そしてむやみに引き分けが多い、ということはある。だから世間の人々は、サッカーをつまらないと思っている。かつサッカーに限らないがスポーツ観戦において、ごひいきのチームが負けては面白くない、ということもある。
そして、そのようなつまらなさをすなおに回避しながら、「俺フィー」という作品は描かれている。よって、その作中の試合ではみょうによく点が入るし(いちばんすごいのは第21巻、全盛期のヴェルディ川崎から大量7点を奪うエピソード!)。そしてそのヒーローである和也クンらは、大一番では必ず勝利する。
ところが、だ。筆者もそうだがサッカーファンという人々は、めったに点が入らず、しばしば試合が引き分けに終わり、しかもごひいきのチームがみょうによく負ける(!?)…そのような競技であるサッカーを、ひじょうに面白い、それに惹かれ続けてやまない、と感じているのだ。そしてどうしてそうなのか、というところを描いてくれているのが、他ならぬ「ジャイキリ」という作品なのだ。

そしてこのような作品が登場してそれなりの人気を博している理由は、多少とはいえわれわれのサッカー観が深まってきていることと、そしてその『ジャイアント・キリング』という一大モチーフが現在において刺激的かつタイムリーであること…この2つなのでは。加えてそこにはもちろんのこと、『キャラクターがいい』とか『作劇がいい』とかいった、まんがの長所として一般的なものらもありながら。

と、話はだいたいここらでつきているのだが。…ここまでの堕文にて「ジャイキリ」を、『リアリティあり、きわめて現在的な作品』とほめているのは、大いにいいとしても。
それに対する「俺フィー」について、『古色蒼然としてリアリティがない』、くらいなことを言っていないとは言えないが、しかしそれだけのものとも思っていない。じっさいに古いのだからそれを『古い』と申すのも同語反復にすぎず、しかも掲載誌の対象年齢が大きく異なるので、1990'sの少年誌のサッカーまんがとして「俺フィー」は、ひじょうに適切な作品だったと考えられる。でなければ、全34巻までも続いたわけがない。
それは『まんがっぽさ』において大いにすぐれる、とは述べておきたい気がする。特に筆者が感心したのは、ヒロインとヒーローのラブシーンが、大詰め中の大詰めのW杯の試合のハーフタイムに敢行されている(!)…というその大胆きわまる作劇だ。
何よりも少年誌の読者たちに対して、『きびしい格差とがんじがらめのしがらみで縛られたサッカー界』などというものを『お話の前提』として提出するのが、いいことかどうか。惜しくも現実にはありえぬ自由でしがらみなきサッカーを描いた「俺たちのフィールド」もまた、1つの愛すべき作品に他ならない…とは述べて、この堕文を終わりたい。