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2010/11/29

衛藤ヒロユキ「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」 - ≪ゆる系ギャグ≫はんらんの必然性?

「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻
「ドラゴンクエスト 4コママンガ
劇場 ガンガン編」第2巻
 
参考リンク:Wikipedia「4コママンガ劇場」
関連記事:ラベル“衛藤ヒロユキ”

日本のまんが史においてMid 1980'sあたりから、コンピュータゲームからのインパクトが大きくて無視できないとか。また、われらの衛藤ヒロユキ先生は、その流れの中から出てきて最先端に立ち、大ブレイクをなされたとか。…そういうことはあるけれど、だが別にそんな大きめな話を、いまここで申し上げようとはしていない。
ただ単に、さっき自室に積んである本の下の方に、「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」の何冊かを見つけて、うっかり目を通してしまったのだ。で、その「ガンガン編」の第2巻(1992)から、われらが電脳系ギャグまんがのマイスター、衛藤ヒロユキ先生の作例にふれて、ちょっと感じたことを。

――― 「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻, p.55 ―――
(お話の前提。ドラゴンクエストIVの第5章、勇者らは天空のぶきぼうぐを収集中。その1つである天空のかぶとを所有するのは、北方スタンシアラの国王。彼はそれを、『自分を笑わせてくれた者に与える』と、奇妙なおふれを出している。で、勇者らも挑戦!)
【勇者の仲間・商人トルネコ】 コーミズ(という村)の 住人は ムコーミズ!!
【王】 (むっつり、)おかしく ないのぉ
【トルネコ】 (あいそ笑い、)さすが王様 ひとすじなわでは いきませんな ハッハッハッ
【王】 (場がゆるんだので、ついスマイルを返し、)まあな
【勇者たち】 (脱兎と逃げている王を必死に猛追し、)確かに 笑ったぞ!

この作例が何と、すでに20年近くも前のものかと思うと、かなりがくぜんとさせられるものがある。ドラクエ自体はぜんぜんノスタルジーになっていないのに、また衛藤先生のペンワークのみずみずしさはいま見ても変わらないのに…。しかしわれわれ(というかオレ)ばかりが、ずいぶん年を取っちゃっているようで。
ま、それはともかくも。現在のわれわれは、この作例をどのように受けとめるべきだろうか?

作中で勇者らが取り組んでいる、『人を笑わせる』ということ。それは、われらがギャグまんがの最大のタスクでもあるが。
けれどもまんがに限らない話で、『さあこい!』とかたく待ち構えている人物を笑わせるだけのギャグなんて、そうそう出るものではない。『出るぞ』とお思いなら、ぜひいまここに出していただきたい。さあッ!

で、そんなすごいギャグがないとすれば。性急に笑いを取ろうとする前に、まず何とかしてその場の空気を温め、相手の心のガードをゆるくしておくことが有効になるだろう。
あと、あまり高級なやり方とは考えられていないが、『先んじて自分から笑ってみせる』ということは、ギャグ的弱者が人を笑いに誘う戦術としては有効であろう。笑いは、伝染するものだから。
いっそのこと第3者のサクラを用意して、まず彼に爆笑させてみることもできなくはない。いにしえの海外ドラマのコメディで、笑いどころにあらかじめ笑い声が入っている、あのように。

かつまた笑いの機能として、『緊張の緩和』ということがある。作例を見ると、『ギャグを出そうとするよりもお追従を述べた方が、まだしも相手を笑わせうるとは情けない』…という気もするが、しかしそれだけではない。
のっけからいきなりお追従を述べたのでは、王は『あ? 何?』くらいにしか反応しないだろう。そうではなく、さいしょの『笑うか/笑わないか』という勝負で、まず王の緊張が高まっており。次に勇者らがギブアップしてその緊張がゆるんだところへ、タイミングよくトルネコのあいそ笑いとお追従がヒットしているのだ。言うまでもないのだが作例は、ギャグ作品なりに、ちゃんとありうる人間の動きが描かれたものに他ならない。

ところでわれわれは『笑い』に関し、英語っぽく言って『ラーフ』と『スマイル』とを区別している(*)。いずれの笑いも『心身の緊張の緩和』ということに関連しているのだが、ラーフとは肉体のけいれん的な運動によって緊張が緩和に向かう現象自体を言い、スマイルとはゆるんだステータスが表情に表れているものを言う。
(そして、言うまでもなくギャグまんがは、どうにかして読者をラーフにみちびくべき)

だが、ドラクエIV本編にしろ、衛藤先生の作例にしろ、前提としてはその2つが区別されていない感じがある。調べてみると、スタンシアラの町人が、『王さまを“大笑い”させれば』…ほうびは思いのまま、と言っているようだ。この『大笑い』こそ、われわれの言うラーフのことに違いない。けれども『ラーフでなければならず、スマイルは排除する』とまではっきり言われているわけではない感じ。
そこらがあいまいだからこそ、作例がお話として成り立っている。王の方は『ラーフ以外無効』と考え、勇者らは『スマイル有効』とゲームのルールを受けとっている、その認識のギャップがギャグを生み出している。つまり、われわれの考えるような区別は必要かつ有意義なのだと、ここで衛藤先生が同意なさっているも同然。

と、それこれ見てくると。この作例は、こんにちはやり気味な『ゆる系ギャグ』とやらの方法、ギャグ的弱者の戦術を浮き彫りにしているようにも思うのだった。

ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻
ヒロユキ「マンガ家さんと
アシスタントさんと」第1巻
一般的なギャグまんがの作法として、『1ページに2つはギャグを入れること』、と言われるらしい。ミキマキ先生がりぼんの編集からそう教わったそうだが、何か古いまんが入門の本にも同じことが書いてあった気がする。それをいちおうリファレンスとすると、こんにち『ギャグまんが』で通っている作品のかなり多くに、そんな数のギャグが入ってないことに気づかされる。

ただし、すべっているかもしれないギャグを大量に盛り込むより、読者が心地よいようなふんいきで押していくという方法は、まんがとして大いにありうるものだ。そして全体のテンションを限りなく低めておくと、その中の少数のギャグが、よりインパクトあるものとして受けとられるやも?

――― ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻(2008), p.20 ―――
【まんが家】 (仕事部屋の窓から外を見て、)いい… 天気だなぁ
何故こんな日に… 僕はマンガなんか 描いてるんだろ?
【アシスタント】 先生の原稿が 遅れているせいです
【まんが家】 (表情が死んで、)スミマセン…

同じガンガン系の『ヒロユキ』先生というつながりで、これをご紹介してみたが…。

で、こういう作品の方法論をしさいに検討しても、ちょっと自分的にはあれだが。ともあれ、このようにきわめてロウなところでのテンションのびみょうな起伏、それにプラス『お追従』、読者のナルシズムをくすぐるような要素を加えると、あいそ笑いのスマイルくらいは引き出せそうなのだった。
そしてこのような、ギャグ的弱者の方法論が現在、筆者もそうである社会的弱者らのセンチメンタリズムとナルシズムにアピールしている、ということは大いにありそうだが。いや、そうでなくともおセンチとナルシーは、『まんが』というメディアには絶対のつきものだが。

けれどもそうじゃないものがあるかもしれない、『それが“すべて”ではない』のでは?…という想いから、自分はこの≪ギャグまんが≫というものに粘着し執着し続けている。

2010/10/30

水兵きき「みかにハラスメント」 - 『子供のせかい』は、どういうセカイ?

水兵きき「みかにハラスメント」 
参考リンク:Wikipedia「みかにハラスメント」

このところ、わりにかたい話が続いていたように思うので、ちょっとやわらか方面へ出張。そこで有名なSF(?)お色気コメディ、水兵きき「みかにハラスメント」を取り上げたい。ガンガンパワード2004年掲載の読みきり3部作、単行本はガンガン・コミックス全1巻。

――― 水兵きき「みかにハラスメント」, 版元からの広告文 ―――
『みないで…ください…。B(バスト)85のごくフツーの女の子・みかは、お姉ちゃんの発明で、脱がされ、お仕置きされのタイヘンな目に…』

さてこの作品を、筆者が一読しての印象は、『わりとむかしのなかよしやちゃおに、こんなお話が載ってなかったかな?』…というもの。発想やお話の運び方に、いちおういい意味の幼児性があるので、『児童向け少女まんが』っぽい。童顔でグラマーというヒロインの造形も、そっちの系統だし。

…といった前提があってこそ『逆に』この作品が、たいそういやらしいものになっているのかと! どのようないやらしさかって、いまさら筆者が説明する必要を感じないが!
んー、何やら語り方のむずかしさを感じる。この作品の、エロいところを『エロい、エロい!』と指摘しても、超いまさらなわけだし。ではもう、いちばん印象に残ったところを述べて、ささっと終わりにしよう。

シリーズファイナルの第3話、『子供のせかい』(p.77)。そこでヒロインは、早熟すぎる天才幼女≪ココア≫の謀略にかかって幼稚園に編入された上、『幼児化リング』というものを首にはめられてしまう。そしてそれによる能力の低下、どんどん進行する幼児化、というはずかしめをこうむる。

まず彼女は、自分の名前が漢字で書けなくなる。次には、ごく浅いプールが怖くて、水に入れない。ランチタイムには食物をこぼし、食事のトレイをひっくり返す。
そこでココアはほくそ笑みながら、みかを乳母車に乗せて、スプーンで『あーんして』と、いわゆる『食事介助』に出る。それを屈辱に感じたみかが『や やだ』と断れば、病気扱いして注射器を出してくる。
そのお注射が怖くて怖くて、『そんな 大きいの だめ~』(“笑”)と言って降参し、みかはおとなしく介助をこうむる。さらにココアは哺乳ビンを出してきて、これを呑まないと注射だと、またおどす。しょうがなくて哺乳ビンを吸っているみかを、周りの園児らが、『かわいい♥』、『赤ちゃんみたい』、と言ってそれを見守る。

と、こんなことらの間にみかは、精神がどんどんまいってきて、赤ん坊扱いをおかしいとか屈辱とか、感じなくなってきているのだ。真の問題は、そこだ。
それからおねむになったみかが、目ざめるとおねしょをしてしまっている。さきのミルクに、ココアが一服盛ったせいらしい。そこでココアはみかのパンツを脱がして、紙おむつをあてる。おむつでなければはだかのまま、とおどしつけた上で。

ここいらが最終状態で、もはやおむつとよだれかけしか身につけていないヒロインは、『おむつ… ちゅ… つけてくれて… ありがとう』と、感謝の言葉をココアから強いられる。さらには幼稚園の教壇に上げられて、園児らに向かって、『おもらしして… ごめん… なさい』と謝罪させられるのだった。
で、場面が変わり。みかの幼なじみのヒーロー≪龍彦くん≫が、半日ぶりにみかに再会すると。幼児化最終状態のヒロインはベッドの上で、何とココアのまったく平らな胸を、『ちゅ~』と吸っている(!)。びっくりしきってヒーローが、『み みか 一体 なにを…』とたずねれば、彼女はこのように答えるのだった。

『み みかね おっぱい ほしかったの…』

ここまで説明しなかったがココアは、龍彦くんに横恋慕して、彼とみかとを引き離すために、これらのことをしてきたのだ。だが、そんなでも龍彦くんが引かないので、さいごのひと押しとしてココアは、彼の見ている目の前で、みかのおむつを取り替えようとする(!)。
これがたいへんな、ストーリー上の大やま場だが。だがしかし、その後の急展開は、実作を読んでのお楽しみとして…!

さて、ここにいたるまでの描写が、誰にとってもショッキングだったとは思うのだが。ところで筆者は職業が介護方面なので、描かれたみかの幼児化が、高齢者における生活能力レベルの低下とまったく同じ、ということに大ショックをこうむったのだ。
そして、自作自演の親切よがしで、みかのケアにはげむココアの姿。これがまた、実在する『けしからぬタイプの介護』というものとそっくりに描かれていて、それもひじょうにショッキングなのだ。
つまり、過剰なケアが日常生活能力のさらなる低下を招く、ということがあるわけだが。だがしかし、美少女が超うす着でいろいろ活躍してうれし恥ずかし…みたいなおまんがを眺めて、何もそんなことを考えたくはないのだった!

水兵きき「葵さまがイかせてアゲル」第1巻にしても。バカらしいにもほどがあるようなお色気まんがでありつつ、こうして何か『ほんとうのこと』を、描きぬいてしまった感じの「みかにハラスメント」という作品。それに対する、大いなるリスペクトは自らに禁じえない。これは断言いたす。
けれども筆者が、その後の水兵きき先生の諸作を拝見するに、この水準に匹敵するものが、ちょっとないような…? 別にこういうことは申し上げたくないが、追って出た「葵さまがイかせてアゲル」(2008, ライバルKC, 全2巻)を拝読して、『こんなンじゃイケねえ!』と、思わず叫んだこともあったりしつつ。

いやさすがに、声に出してそんなことは言ってないが…! ともかくも水兵きき先生によって、再びものすごいご創作のあることを、期待してやまざる筆者なのだった。

【補足】 今作「みかにハラスメント」3部作のサブタイトルは、『えっちじゃないせかい』・『犬のせかい』・『子供のせかい』。並べてみると、これが一種のスウィフト「ガリバー旅行記」の現代版、という感じもあるな…とは思うが、別に言い張らない。

2010/10/07

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」 - その、見苦しくも腹立たしい雄姿

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「舞勇伝キタキタ」, ガンガンONLINE「舞勇伝キタキタ」
関連記事:衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」 - 無礼禁ッ、ダ・リアル・オ~ルドスク~ル!

まあその、ダンスミュージックとかのインパクトを受けて生きている自分としては、『踊らない人間』というものがいまいち好きになれない。それは何でかな…と考えたら、ダンスという行為が特に意味もないけれど、ともかく肯定的なものである、そこがいいのかな、という感じ。
だがしかし、さいしょの発言を裏返して『自分は踊る人間が好きだ』、とはきっぱり言いきれないのが、われながらふしぎなところだ。特にこの、いまからわれわれが見ようとしているスーパーまじかるダンサー≪キタキタおやじ≫について!

このキタキタのおじさまを、まったくご存じない方は少ないはずとは思うけれど、少しだけご紹介。彼はもともとは、1990'sのファンタジーギャグまんがの大傑作「魔法陣グルグル」のわき役。つるっぱげのジジイで常に半裸のダンスコスチューム(!)、彼の出身地の伝統芸能『キタキタ踊り』の後継者さがしのため、勇者らの旅についてくる。
で、このオヤジによるキタキタ踊りというものが、見たらこっけいさを通り越して不ゆかい千万きわまりない。本来はもっといいものらしいのだが、しかしオヤジはそのよさを人に伝えることができない。
ところがオヤジはそれが伝わることを確信しきっていて、『機会があれば踊ろうと、常に考えておりますぞ!』などとぬかし、そしてそのポリシーを実行しまくる。そうして彼のイヤすぎる大きな存在感で、作品世界を無法に席巻しようとするのだ。

しかもこのオヤジは常人とは思えぬ超タフネスを誇り、ダンスにおいて疲れを知らないどころか、バトルのまきぞえで魔物にやられてもすぐケロっとしている。その最大HP(ヒットポイント)は50000とかいう、とほうもない数値もどこかに出ていたようで。
また彼は≪アドバーグ・エルドル≫というりっぱな本名を持っていて、その地元には地位も財産も家族もそれなりにあるらしい。かつ、ことばがきれいで性格は明朗で、常に物ごしがていねい。…が、そうしたキタキタの特徴らの“すべて”が、なぜかむしょうにわれわれをイライラッとさせるのだ。

そしてその奇妙な存在感の大きさを活かしくさり、この21世紀に今度は主役として(!)、堂々とふっかつしやがったものが、この「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」という作品なのだ。ムカつくがいちおう説明すれば、このしろものはWebのガンガンONLINEで掲載中(*)、単行本は第2巻まで既刊(ガンガンコミックスONLINE)。

 ――― 「舞勇伝キタキタ」第1巻, カバー見返しより ―――
 『みなさんの熱いリクエストが特に無い中、
 ついにキタキタおやじが帰ってきました!
 見苦しくも腹立たしい
 オヤジの活躍をごらんください!』

ドガ「舞台の踊り子」で、そのお話のプロローグを見ると。前作のヒーローらによって魔王は封印されたけど、あいかわらず魔物の脅威の残る世界で、孤児のチキ君13歳は、新たな勇者たることを志す。
そして彼は、勇者伝説の中にチラチラと出ている『キタキタ』というなぞワードに注目。よくわからないが、たぶん勇者に関連する重要事項だろうと考えて、軽率にも『それ』を呼び出してしまう!

そうして降臨したキタキタおやじの、ハイパーなキモさとウザさと毛ズネに直面し、チキ君は『とんでもない 変態だぁ~~っ!!』と叫ぶ。それで集まってきた村人らが、『けしからぬ変態め!!』などときめつけて、ジジイをろうやに押しこむ。
ところが次の夜、ろうやを脱出してまでキタキタは粘着的に、チキ君が寄宿している村長の家を急襲! と思ったらそこにモンスターまでが出現してきて、超てんやわんや! そしてオヤジは、彼のハードでアグレッシブな踊りのインパクトによって、軽ぅ~く魔物をやっつけてしまう!(第1巻, p.21)
その快挙を知った村人らは態度を一転、『あなたは 英雄だ!』とキタキタを賞賛。ところがオヤジはそれを強く打ち消し、『ただ踊りを見せようと していただけですぞ!』的に言いはって、そして自らろうやに戻っていくのだった…!

かくてこのクソオヤジは、変態と呼ばれることも欲さず…そこはふつうだが、かつまた英雄と呼ばれることをも欲さない。ただ一介のダンサーであろうとし、そしてその踊りを生涯かけて、伝え広めようとしているのだ。
その崇高さをきわめた雄姿を目にし、思わず筆者は感涙にくれた! そうして自分の脳裡には、原始人らの炎を囲んでの群舞から、中世・ルネサンスの民衆のダンスへの熱狂、そしてベルリンの壁の崩壊(1989)をもたらしたアシッドハウス大旋風、といった眺めらが次々にフラッシュ。そうして人類がダンスにかけてきた欲求と情熱の“すべて”が、このキタキタおやじによって象徴されている…かのような気もしたのだが。

だがしかし、そうかと言ってもキタキタ踊りがこっけいで見苦しく、そしてこのオヤジがうっとうしさきわまる、という事実には何の変わりもないッ!
そういえば筆者はフレッド・アステアを超リスペクトしているが、一方のわれらがキタキタおやじは、その20世紀最大のダンス・ヒーローのあり方をくるっと裏返している、という見方もできそうだ。その熱きパッションと献身ぶりにおいては等しいのに、しかしアステアと異なってオヤジの踊りは、人々をげんなりウンザリさせる役にしか立たない。

ミュシャ「サロメ」なお。ダンスの世界には『見せるダンス』と『参加して楽しむダンス』の違いがある、とは言われている。前者の典型はバレエや能楽の舞であり、後者の典型はダンスパーティや盆踊りだとして。
けれど、阿波踊りに『踊るアホウと見るアホウ』がいるように、両者の中間的なものもある。そしてオヤジは、そのブサイクな踊りをたっぷりと見せつけた上で、参加して愉しむことさえも迫ってきやがるので、ほんっっとうにしまつが悪いっ。
ただし、≪ギャグ≫に関することらは“すべて”が両義的だ。すなわち、キタキタ踊りがひじょうに見苦しいのは、そのムーブうんぬんよりも、まずオヤジの見苦しさがきわまっているせいかもしれない。かつそのキタキタおやじにしたって、見ようによってはびみょうにカッコよくないとも言い切れない…とは、すでに申し上げたようなことで。

で、筆者といっしょにチキ君もキタキタにうっかり感服してしまい、うかつにもオヤジを連れとして、勇者修行の旅に出てしまう。『うかつ』にしたってほどがある! しかもオヤジの思わくはとうぜん異なり、うまく誘導してチキ君を、キタキタ踊りの後継者にしてしまいたいのだ。
追ってこいつらが第1回のクエストに突入し、そしてダンジョンの中。疲れきったチキ君が仮眠している横でオヤジは、何らかの書きものを。…自分が寝てる間にマッピングでもしていたのかと思い込んで、チキ君は心を打たれる。そして彼が覗き込むと、オヤジが書いていた文字は…。

   キタキタキッズ
 ×キタキタ2世
 ?キタキタコヤジ
 ◎キタキタわらし

ななっ、何とオヤジはダンジョンの奥底で、キタキタ・ダンサーとしてのチキ君の芸名を考案していやがったのだ(第2巻, p.44)。プロデューサー気どりか! しかも、『いちばんイヤな案に 決まりかけてる~っ!!』と、少年は大ショックをこうむる。

 【チキ】 勇者のはずが キタキタわらしって うわぁああっ
 (…と叫んで少年は、その場から『だっ』と逃走!)
 【おやじ】 あっ キタキタわら… …チキ殿!!

と、まったくこいつらが噛み合っていないのだが。けれどもオヤジのキモさを強力に押し立てて、ふしぎと彼らはクエストに成功し続けるのだ。ただし既刊分を読んだ限り、オヤジのたまらないウザさが印象に残るばかりで、一方のチキ君が勇者っぽく成長しているような感じがほとんどないけれど…!



さてだ。そんなキタキタおやじの『ヒーロー』としてのあんまりな両義性、それに対するわれわれの感情の矛盾や葛藤が、≪笑い≫という肉体の反応へ、うんぬん。…といった分析めいたことは、このごろ言いすぎなので今回は言わないで。
なお分析っぽい観点から、一般ピープルが愉しむ踊りは『性交の代替行為』であり、そしてすぐれたダンサーらの見せる踊りは『性交の象徴化』だと言われる。そして後者の営為は、人間らの性欲を芸術へと≪昇華≫する。ところがオヤジの所業ときたら、昇華された芸術のつもりでマスターベーションを見せつけているに等しい(!)、といったことも言えながら。

…さてだ。ここでは前作「魔法陣グルグル」に対しての今作「舞勇伝キタキタ」、両者の感じの違い、といったことを述べていったん終わりたい。

まずはここまでの、巨匠・衛藤ヒロユキ先生のご創作の流れから。シリーズ前作であり大傑作だった「グルグル」が、その後半からあまりさわやかにも笑えないような『鬱展開』と難解さに流れがちだった…とは世に言われ、そのような感じは筆者も受けた。
そしてそのふんいきを残した2002年の「がじぇっと」(ブレイドコミックス, 全3巻)は、見ていてあまり調子に軽快さがない。というか、ギャグまんがっぽさに乏しい。それがうれしくも、2008年からの今作、並びに「週刊わたしのキモいペット」(同, 全1巻, 2009)あたりで、大復調されたかと見ているのだが。

ただし筆者は今作「舞勇伝キタキタ」について、シリーズ前作に比したら軽快で軽妙すぎる感じもあるな…という印象をもいだくのだった。いや、作風なんてものはいずれ自然と変わってくるものなので、それをネガティブにだけ見ているのではないけれど。

つまり。前作の「グルグル」については、そのヒロインとヒーローがほんとうに未熟で頼りなくって、見ていて『こいつらは死ぬんじゃ?』という危惧が、おぼろげにもはっきり感じられた。特に第2巻あたりまで、ひじょうにそれが。いずれモンスターによって喰い殺されるか、それ以前に荒野かダンジョンでかってに野たれ死ぬか…。
そして、そのような『死ぬかも?』のスリルを前提としてこその、「グルグル」の脱力ギャグだったのだ。かつそのスリルは、当時の衛藤ヒロユキ先生のシロートっぽさ、かつ掲載誌の少年ガンガン自体が創刊直後でいろいろと未熟、という背景らをも合わせてのものであり。

ロートレック「カン・カン」ところが今作「キタキタ」について、人物らが『死ぬかも?』などという危惧は、さっぱり感じられない。キタキタおやじが永遠にそのキモさをキープし続けそうな勢いとともに、内容やふんいきに安定感がありすぎる。
ついでに申し上げて、何せ『オヤジ』がヒーローをつとめくさっているだけに、前作にあったような全般の『初々しさ』という感じがまったくない。また、前作のヒロインとヒーローが、けっこうなまいきで気まぐれで扱いづらいガキだったのに対し、今作で活躍する少女と少年は『いい子』すぎるきらいあり。特にヒロイン格の≪ルータ王女≫は、あろうことかキタキタ踊りをキモいと思っていない(!)。

しかし、時代の変化が作家を変え、その語り口をも変えていくことはしょうがない。そういえば今作には、前作にあったテクノとかヒップホップとかの、時代の中でとがった要素らを盛りこんでいく、というしかけも見あたらない。

もうひとつ、そういえば。さっき前作「グルグル」について、ウツで難解な部分の存在が指摘されたが、それは序盤に目立った『ギャグの背景に存在する死の不安』と、おそらく同根のものなのだ。いずれも作家の『青さ』が出ている部分なのだが、しかしウツの要素はあまり歓迎されなかった、というわけだ。
で、いまやそうした『青さ』を卒業され、堂々とそのペンをふるっているように見える衛藤先生。あまりとがった要素がなくなった分だけ、その叙述はひじょうになめらか。
ならばそのご創作は、もっともっと『児童まんが』であった方が、まんが界全体に対してもよいのではなかろうか…と、筆者は今作「キタキタ」を見て感じたのだった。

すなわち、児童まんがのギャグ部門ですごい作品が、初代「グルグル」以後、「絶体絶命でんぢゃらすじーさん」くらいしかない、それでは大いに困る…ということは関連記事のさいごで申し上げた。で、筆者としては衛藤ヒロユキ先生が、再びそれをやってくれても、と思うのだ。

ところが実作の「舞勇伝キタキタ」は、それっぽい感じをも有しつつ、むしろ児童まんがの悪質なパロディを演じているようなものだ。ルビがない点もどうかと思えるし、そもそも単行本のカバーが劇画調(?)のジジイのピンナップで(!)、よせばいいのにその乳首まできっちりと描いているなんて、逆に子どもよけとしか思えないし!
そんなんだと今作は、≪介護≫ということが大テーマになりそうな今後のニッポン国に対し、やったら元気すぎな高齢者のイカすお姿を提示する…というものになっていそう。と述べてみたら、なぜか「でんぢゃらすじーさん」にも、それと似たようなテイストがあるわけだが。

とま、今回はそんなとこで。そして、どうであれゆかい痛快、かつ見苦しくも腹立たしいこの作品は、いっそ衛藤ヒロユキ先生のライフワークであってよし(!)。そしてオヤジの『活躍』とともに、われらの希求する永遠のダンスビートもまた、強くしなやかに脈動し続けるがよし! ムーブ・ユア・バディ、アンド・ダンス・トゥ・ザ・ビート!!!

2010/03/15

金田一蓮十郎「ジャングルはいつもハレのちグゥ」 - 密林の中の≪テーバイ王家≫

 
参考リンク:Wikipedia「ジャングルはいつもハレのちグゥ」

作者・金田一蓮十郎センセの1997年のデビュー作にして、最大のスケールを誇るシリーズ。構成がよく分からないがお話の途中から「ハレグゥ」と改題されて、それぞれ全10巻出ているとかどうとか(ともにガンガン・コミックス)。

で、どういうお話かって。空想的な設定のジャングルの中の村、ヒーローの≪ハレ君≫と母との2人暮らしの家に、身寄りのない女の子≪グゥ≫が引き取られることに。で、さいしょ一瞬だけしおらしく振るまってたグゥだったが、実はこれがとんでもないしろもの! その本性は、妖怪変化か悪魔のごとし! そしてハレ君一家とジャングル一帯に、グゥの演出による不条理と疑心暗鬼の大うずが巻き起こる…ッ!

とま、そんな感じかと。これはおそらく名作と言われてるものなのだが、けれども筆者は現状のところ、さいしょの2巻までしか読んでいない。読めないのだ。
なぜって言い訳を申すならその内容が、≪外傷的≫というにも自分にはコワすぎる、ヤバすぎるッ…との理由によって。

何せ『外傷的ギャグまんが』というしろものであれば、それを読んでの拒否反応…てのはとうぜん大いにありうることだ。そして今作の内容がとくべつに悪趣味すぎる…とも言いがたいのだが、しかしそれは筆者のとくべつ痛いところに触れてくれたようなのだった。よけいなことかも知れないが、筆者の自己治療か何かのために、感じたことを書いておこう。

まず、グゥの特技が『まる飲み』であり、そしてその胃の中はおそらく異次元か何かで、そこでは呑まれた人らが平気で暮らしている。…こんなのは耐えられない! 恐ろしすぎ!
そしてその恐ろしき現象の存在を知ったハレ君もまた恐怖に襲われ、自失して壁に頭をぶつけながら、『長い夢だなぁ(中略)早く目ェ覚めないと』…などと悲惨なことを言う。この状態をナレーションは、『頭で理解した 事実を体全体で 否定する 少年』…と言う(第1巻, p.46)。よくもゆってくれやがッたモノで、『頭で理解した事実を体全体で否定する』とは、われわれの申している≪神経症≫の定義に他ならぬ。
ついでにグゥの挙動のワケ分かンなさに触れすぎたハレ君を、ナレーションは『現実がわからなくなる 少年であった』…と言うが(第1巻, p.184)。で、そのように≪現実≫が、分からなくなる、分からないものとしてのそれに気づく…ということが精神分析の始まりでありかつ、≪狂気≫とのふれあいの始まりでもあるのだった。はっきり申してこの作品は、われわれの方から見て、うがちすぎだしエグりすぎだッ!

かつきもち悪いといえば、この作品世界には≪ポクテ≫と呼ばれるふしぎな動物、『食用うさぎ』と呼ばれるものがそこら中に登場する。これはどういう動物かというと、見た目はへんだがひじょうに美味であり、しかも心やさしく知性ありげで、遭難した人を助けたりするという。
それこれによってポクテは、『神の使いでありつつ大切な食料源』なのだそうだが。しかしそのルックスのおかしさとあわせて、どうにもうすきみ悪い存在としか思えず。そして『神の使いの心やさしい動物を食用にする』、という神経が分からない。しかも、

 『あまりにも ポクテを食べ すぎると
 その仲間から 逆襲される』(第1巻, p.92)

などといううわさ話までがあるときては…! きも~!

で、話を戻し。そのようなグゥの存在に対してハレ君が、むりにでも慣れたような気分になったところで。こんどはハレ君らのガッコに超ナンパでイケすかねぇ男が保健の先生としてやってくる。で追って、何とこれが、ハレ君の実の父親だと判明する(!)。
向こうはハレ君ができたことをまったく知らなかったが、心当たりは『すっげーある』、ということなのだった。10年前に遠い都会で、たったの15歳だったハレ君の母を、こいつは手ごめ同然にどうかしたらしいのだった(!)。

しかもこのイヤな男、ハレ君の母によれば『ルックス(の良さを)取ったら ただの性格破綻者』(第1巻, p.169)というヤツが、再びハレ君の母に言い寄ってくる(!)。そして、イロケ過剰で酒にも生活にもだらしない彼女は、へたすればそいつとよりを戻したりしそうなのだったッ(!!)。
いやァ言うなれば、この物語の主人公たるハレ君の父親は、DIO様のお父上(えっと、名前が…ダリオ・ブランドーか)にも匹敵するくらいな、ロクでなしでヒトでなし…てことらしい。するとハレ君もいずれは父親を謀殺し、その墓にツバをかけて野望の旅立ちへ…。なんて展開もあるか?…とも考えたが、しかしそんな境地にまでは追いつめられてもいない。

それは、グゥとの関係にても“同じ”ことだ。ハレ君はグゥを気味悪く思って怖れてるし、彼女が、自分とその好きな女の子≪マリィ≫との間に割り込んでくるにもムカついてはいる。がしかし敵は、『もうガマンできない!』というところまでは彼を追いつめて来ない。
かつ、彼がとうぜんいちばんの頼りにしてる母はグゥをふしぎと気に入ってるので、彼はもろもろの状況をブチ壊しにはできない。そうしてなし崩しに、ハレ君が暮らしていた≪日常≫は異常化していくのだ。

ここで少々分析的な見方もすれば、ハレ君を囲んで3人のキーになる(気になる)女性らが存在し、そのそれぞれが≪“現実”的な女=グゥ≫、≪“象徴”的な女=母≫、≪“想像”的な女=マリィ≫、という機能を持っているようでもある。
(めんどうなことを申すがラカン用語として、“現実”=わけの分からぬキモいもの、“象徴”=すじ道や規範を示すもの、“想像”=好きかってなイメージ、という感じ。この3つを≪ラカン3界≫と称し、それらは合わさって人間というものを表す)

しかし一部の機能不全により3界のバランスが失調しているので、ハレ君は『不安』の高まりという症候をきたしている。≪想像≫は期待通りのイメージにならないし、≪象徴≫たるべきものは規範を示してくれないし、そしてグゥという女=≪現実的なもの≫ばかりが、ズズズィ…と彼へと迫ってくるのだ。
かつ、あまり言い張りたくないことだが、息子に対して≪規範≫てものを示すべき父親が、ハレ君においては『ただの性格破綻者』であり。そして今作の特に冒頭あたりで、ハレ君とその母との間に近親相姦チックなムードがあることにも注意がなされるべきであり。
で、その異常化していくハレ君の生活を見るに筆者は忍びない、こちら様の≪テーバイ王家≫の悲劇のケツ末を見届けたくはねェ…というのが、自分の正直なところなのだった(テーバイ王家は、われらがオイディプス君の家系)。そうするとグゥの役回りは、≪オイディプス=ハレ君≫になぞをかけまくるスフィンクスというところか。

と、さいしょに筆者が『自己治療』と記したように。こうして字で書いてみると多少は状況を客観視できてきたようなので、いずれ今作を読むことへの再ちょーせんがないとも限らない。

…とまでの堕文を、昨2009年の夏に書いていた。追って筆者はきもち悪いのをがまんして、「ハレグゥ」の第7~8巻あたりまでは目を通した。だがそこまでに、お話というか散漫ぎみなお芝居(?)は展開しているかも知れないが、テーマ的な深まりは特にないようだった。
そこまでをも見た上で、どうも筆者はこの作品を、『ギャグまんが』とは受けとれないようなのだった。これをつまらないとも思わないが、確かに≪何か≫を描いた作品だとは思うが、しかし笑えるところが多いという気はしないのだった。≪不条理≫系のギャグまんがというものは、そういうふうにも読まれてしまうものではある。

【追記】 2010/03/17。以下は今作を読んだものなら、誰でもうすうす感じていそうなことだが。グゥのきもち悪く恐ろしき行状のあれこれは、ハレ君に対しての単なるいやがらせ、ただの悪ふざけ、なのではないようにも思われる。それはむしろ一種の求愛(!?)、『“現実的なもの”としての女』を愛せよ、という意味のパフォーマンスなのかも知れない。
そういえば、ハレ君から見てのグゥは、ふだんはひじょうにへんな女の子だが、またあるときには光り輝く美少女だ。そしてその見え方の変化はハレ君だけが感じるところらしく、つまり『グゥが何ものであるか』を決定しているのは、意外とハレ君の側の態度や感じ方かも知れないのだ。

かつ。筆者にはよく分からないところだが、グゥはおそらく『成功したまんが作品のヒロイン』として、読者層の人気者なのでもあり。そしてなぜ彼女が(きもち悪いのに!)一定の人気を集めているかと考えたら、それが女性の一面、女性が『現実的なもの』でもあるという事実を表しているから、なのではなかろうか?
別の言い方をすれば。今作は少年誌の掲載作だが、女性らにも人気を博したと伝えられており。そうしてこれを読む女性らは、まったくもってわけの分からないグゥという存在に、自分の中にもある≪何か≫を見ているのではなかろうか?
で、そうして『女性というなぞ、“女の欲望”とは何か?』という問いをいきなりつきつけられた未熟な少年は、『不安』に苦しみ神経症を病むくらいしか対処のしようがなくて、ずいぶんかわいそうなのだが…っ!

2010/02/23

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」 - 無礼禁ッ、ダ・リアル・オ~ルドスク~ル!

 
関連記事:「ネギま!」と「魔法陣グルグル」

これは想い出ふか~い作品なので、その分ひじょうに語りにくい。筆者には10年近くもほとんどまんがを読まなかった時期があって、それを打破してくれたのが、今作と「赤ずきんチャチャ」だった。
Early 1990'sという時代のふんいきを濃ゆく映した両作らを、筆者は≪ハードコアテクノ≫系ギャグまんがと呼び、そしてその方向性は、超アップテンポ、ケミカルにハッピーなムード、幼児的エロチシズム、『魔術=テクノロジー』への礼賛、そしてとうぜん≪反復強迫≫的。ここでBGMに、T99、LAスタイル、キュービック22、ザ・プロディジーらの『ハードコアテクノ』の名曲がほしいところだ。グジュギャギャ~!

確か1995年、当時出ていた『エレキング』というテクノミュージックの専門誌に、自分と仲間とのユニット名で、この「魔法陣グルグル」へのレビューっぽい文章を出したことがあった。すると作者の衛藤センセから仲間のアドレスに宛てて、あつい心のこもったお礼のメールが届いたのだった(!)。
いま言うとふつうな感じだが、当時はインターネットではなく『パソ通』の時代だ。で、あらためてこの場に、衛藤ヒロユキ先生への感謝の気持ちをしるしつつ…。

そのころ『テクノ』は、魔法のキーワードだった。テクノといっても当時存在したものはローテックのきわみだったが、それで≪すべて≫が可能になると自分らは信じていた。回想してみれば、すばらしい時代だった! 当時の自分とテクノ仲間たちのことを考えたらそれがまぶしすぎて、いまの筆者があまりにもみすぼらしい燃えカスでしかない。
そんな燃えカスにふさわしき作業として、自分はまたこのみすぼらしい自室のPCに向かって、へんな堕文をぺたぺたと書いているのだろうか。当時にしたって『PC-9801』の『一太郎 Ver.3』などというソフトでぺたぺたと書いていた…というあたりは、そんなに変わってないのだが!

そしてその時のレビューの結びあたりに自分が書いたのは、確か、

『ヒロインの≪ククリ≫がヒーローの≪ニケ君≫を、いつか、彼女が言う“勇者様”ではなくてありのままのニケ君、として見れるようになったとき。そのとき、あらためて2人はちゃんと出遭い直すのだろう』

…のようなことだったはず(もらった掲載誌が仲間の方に行ってるので、いま見れない)。
そして実作のラストの展開が『ほぼ』そのような感じだが、しかし自分がとくべつに目ざといとも思わない。物語をすなおに追っていれば、誰にでも分かるようなことだった。

そうにしても、『いまは反省している』として告白しざんげしたいことがある。自分らのレビューは当時TV放映中だったアニメ版(最初のシリーズ)だけにもとづくもので、原作も読んでなければ何の資料をも見ずに書かれたのだった(!)。
当時の自分らはいまよりもなおビンボーで、あまり本も雑誌も買えなかったのだ。ゆえに有名な≪キタキタおやじ≫の本名が、『アドバーブ』か何かとまちがっていたはず(正しくはアドバーグ)。ずいぶんとズボラかつ≪勇気≫のあったことで、ほんとうに『いまは反省している』。

そもそも自分らは、そのアニメ版だけを見ての印象で『子どものアニメなのに、テクノっぽいテイストがある!』…という発見をしたつもりで感動していたのだが。しかし原作の方を見ていれば、それがもともと『テクノまんが』であることは明らかで、発見もへったくれもない。
ん? いや、そうとはしても、見る人が見なければ『テクノまんが』という認識はできないわけで。などと言うと、ファイヤアーベントのりくつのようだが。
で、もしも『コロンブスがアメリカを発見した』と言い方がアリなら、これも『発見』かも。いまならさしつかえないと思うので書いておくと、確か衛藤先生からのメールにも、『テクノまんがというつもりで自分の描いていたものが、“テクノ専門誌”で紹介されることは大きな喜び』、とあったような気がしつつ。

(大余談:想い出したけど同じ雑誌の次々くらいの号に、当時TV放映中の「新世紀エヴァンゲリオン」のレビューも書いたっけ…やはり資料ゼロで。いまにいたるも無知をウリにして恥じない筆者は、いかなる予備知識もなきまま、単にその作品の内容に沿ったことを書いた。
つまり『少年らにとって、“巨大ロボット”とは何なのだろうか?』といったことを。いまだったら軽く、『それは≪ファルスのシニフィアン≫である』、と述べるところだが。
で、この時に『エヴァン』という略称を使ったら、おたくっぽい人から『“エヴァ”でしょうよ!』というお叱りのメールが届いた。お芝居の中でミサトねーさんが『エヴァン』と発音している気がしたので、そう書いたまでだったのに…)

ところで読んでいる方々はご存じのように、作品の途中で「グルグル」の方向性は、テクノからヒップホップへと転じている。ガンガン・コミックス版の第11巻、『エルエル砂漠のクルジェ(LLクールJ)』のフォローによって聖なる魔獣『ブレイクビー(ト)』が呼び出され、そして『地の王(グランドマスター)のフラッシュ』を浴びて、勇者が新たなパワーに目ざめる、うんぬんと。
ちょうどそのころ、どういうわけだか自分も同じ方向にシフトして、テクノならぬオールドスクール(エレクトロ・ヒップホップ)のレコードを買い漁りまくっていた。まんがを買うお金に困っていても、なぜかレコードを買うお金はあったようだ。
そうしてクラブ音楽シーンのテクノ部門の世界的な流れもまた、『ハードコア全盛→アシッド・リバイバル→ハードミニマル流行りすぎ→エレクトロ・リバイバル→テクノポップ・リバイバル』、となっていったが…(1991-2000)。
途中から明らかに、その歴史が逆行していることはともかくも(けっきょくのところ、『テクノ美学』の最遠到達点は、いまだ“ミニマル”にある)。しかし、その流れのしまいのあたりで自分がぽろりと脱落してしまっていることに、やっぱりちょっぴりさびしさを感じたり。

…等々とらちもなき想い出話のさいごに、そのころ確か丸の内の逓信会館(?)だったかの会場で催された『魔法陣グルグル展』か何かいうイベントに足を運んだ…その時の歓びをしるしておく。確か夏休み中で大盛況の会場、そして夢中になってその世界を愉しんでいる小さな子どもたち…彼らの邪魔にならないようにつとめながら、その無心の歓びを分かちあったコトを。
そしていま断じて想うのは、われらが≪ギャグまんが≫の陣営から再び! このように子どもたちへと無心の歓びを与える作品が、出てこなくてはならない。実に残念ながら、今般そのような作品が見あたらない…という現状があるゆえ。

筆者が申しているのは、≪いま≫のギャグまんが界を盛況と見るにしろ低調と見るにしろ、どうであれ小学生さんらが喜ぶような作品がそこに少ない。このことが確か。
曽山一寿「絶体絶命 でんぢゃらすじーさん」という大傑作が1つあるが、1つだけではやばい。それが大問題だということだが、しかしいまはこのへんで。

2010/02/21

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 vs.フロイト「メドゥーサの首」 in 触手フェスタ

 
関連記事:吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

前の記事でわれわれが見た作品、吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(2008, MFコミックス, 全1巻)。それは『触手プレイ』を大フィーチャーしまくった、ももいろ臭の濃ぅ~いファンタジーラブコメだった。
そして。実作とはちょくせつ関係ない話になり気味かもだが、その記事についてちょっと補足を。

さてとつぜんだが、ポルノグラフィーの鑑賞者は、作品の中のどこへと感情移入しているのだろうか? 『それは作中の男性キャラクターだろう』…と言ってすめば、どんなに簡単ですてきなことか!
そんな、『ふつうの性交』(的なこと)を描写するようなしろものばかりではない。と言っていきなり、触手とかふたなりの例を持ち出すまでもない。ふつうの性交を描いていないポルノの題材として、軽く次のような例が考えられる。

●女性(1人)の裸体・半裸体。もしくは更衣、入浴、排泄らのプライベートな行為の描写。
●女性の自慰。
●レズビアン、それ的な描写。

以上のようなものが、(基本的に?)あるわけだが。しかし性交をストレートに描いたハードコアを基準に考えると、逆に『どうしてそういうものが“使える”のだろう?』…という気がしてくる。
なお。女性向けのポルノ的なものとして、レディコミや少女まんがのエロ部門があるけれど。しかし筆者がちらちらと見た限りだとそれらは、ふつうの性交を描写しているものばかりだ。男性の自慰をポルノ的な興味で描いているものなど、見たことがない。
(しかし、BL作品には男子の自慰を描くものもあっておかしくない気がする。だが本格的なBL作品は筆者の守備範囲外なので、フォローありたし)

このような≪女-男≫それぞれのありようの『対称性の崩れ』という事実には、常に注意しておく必要がある。男性の興味を裏返したら、女性に対して妥当する…ということはない。
つまりたんじゅんな話、≪触手≫ならぬヴァギナ的なモンスターが男子を凌辱する、などという絵図を見て悦ぶ女性は存在しないし。かつ≪ふたなり≫ならざる、乳房のついた男子、などというものを想像する女性も存在しない…のでは!?

BL界ではちょっと有名そうな、寿たらこ「SEX PISTOLS」(2003)という作品がある。どうであれその題名がひじょうにすばらしい、アナーキー! なのでちょっとだけ見てみたが、その内容はアナーキーすぎ!
ともあれそれは≪男×男≫によっての『生殖』を描いている、という点でBL界でも異色の作品らしい。しかし複雑きわまるお話だからか、そんなにまじめに見てなかったせいか、どういうことなのかさっぱり理解できなかった。いやむしろ、自分の中の『何か』が、そんなお話への『理解』を拒んだのだ、ということかも知れない。

それに比べたら、ふたなり同士のカップルに子どもができる、というお話の方が、まだしも流れとして『自然』(!)な感じがする。両性具有やメスだけで生殖する生物らはふつうに実在するが、オスだけで生殖する生物は存在しないからだろうか? 
まんがというものは人間どもの無責任な想像を描くものではありつつ、しかしそのすぐれた作品らは『想像を通り越したこと』の描出によってすぐれている。だが「SEX PISTOLS」という作品は、その内容が根も葉もなき想像であることにおいて『きわまっている』、という感じあり(びみょうなほめ言葉)。

話を戻して。さきに見た男子の登場しない男性向けのポルノ3題、それを『単体・自慰・百合』とでも言い換えてみて。
それらに関して、『鑑賞者はそれらのイメージを起点に、ふつうの性交への展開を想像しているのだ』と言ってすましたい気はまんまんだ。しかし、それだけだろうか?

≪触手≫という趣向の登場は、何かそうじゃないものの存在を示唆しているような気がするのだ。それは『他者の享楽』が存在することをまず描き、そしてその『他者の享楽』によって『逆に』凝視されるという体験を、鑑賞者において現前させる。
まずそこにおいて鑑賞者は、『他者の享楽』からの≪疎外≫をこうむる。ところが見られている彼は、触手プレイの絵図の中に自らを投影しようとも試みる。そしてその投影の場所は、触手のモンスターでもあり、その犠牲となっている女性でもある(!)。
どうでもいいとは言いがたい通例として、触手プレイで凌辱されてしまう女性は、もちろん最初は拒絶と抵抗を試みるが、しかししまいにはありえざる持続的なオーガズムの高みにいたるものらしい。われらの見ている作例「悪魔と俺」でも、りっぱにそうなっている。そうして≪享楽≫というものの実在が、鑑賞者に対して立証される。

言い換えて、触手プレイから『ふつうの性交への展開』などはありえない。にもかかわらず、そのイメージは現に『実用』されている。かつ似たような状況を、≪寝取られ≫という趣向についても見ておこう。これらはどういうことか?
それこれ考えると、『他者の享楽によって見られること』(=疎外)が、あわせて前の記事で見た≪“去勢”のシニフィアン≫のそこに現前することが、すでに鑑賞者の『実用』の十分条件になっている、と思えるのだった。つまり、鑑賞者の想像の中にさえも『ふつうの性交』のイメージが、ない。
そうとすれば、そんなに特異な趣向とは考えられていない『単体・自慰・百合』においてさえ、鑑賞者がそこから『ふつうの性交』を想像している、とは限らないのではないか? 『他者の享楽』の現前、その前にて主体が≪去勢≫されてあること、それ自体が鑑賞者の『実用』にたいしてじゅうぶんなのでは?

かつ。前のところでちょっと言及したが、現前している『他者の享楽』に対して自分を投影していく、という鑑賞態度がありうる。つまり触手のモンスターや犠牲者の女性『である』と、鑑賞者は自らを想像する。これはもちろんひじょうに飛躍のある『想像』で、よって『自己疎外』のきわまりを前提としたものでもありつつ。
そうすると『単体・自慰・百合』においても、男性の鑑賞者が『そこで享楽しているのは自らである』と想像していることは、大いに考えられる。これを想定しないと、≪ふたなり≫という趣向の存在も説明がつかない。
かつまた。ポルノ小説の元祖らしきクレランド「ファニー・ヒル」(1748)以来、女性の視点から女性の≪享楽≫を描く趣向は常にある。『もう、彼ったらスゴいんです。だからわたし…』、的な。それらは男性が愉しむものなのに、なぜわざわざ視点が逆から描かれているのか? そのようなお話において、男性の受け手らは自分を『どこ』に置いているのか…ということを考えなければならない。

それこれでまとめると、ポルノ鑑賞者の内面的な態度には、次のようなものがあると考えられてくる。

[1]主体は、自らの行為としての『ふつうの性交』(的なこと)を想像する。
[2]主体は『他者の享楽』からのまなざしを受けながら、彼自身は≪去勢≫され疎外されている。
[3]主体は『他者の享楽』のだんこたる他者性の前で、あえて(むりにでも?)『享楽しているのは自分である』と想像する。それによって自主的に、彼自身を疎外する。

ふつう的なポルノ鑑賞の態度は[1]である、[2]と[3]は特異なものである、とは言いたいところだが。しかし明示的でないだけ、意識されないだけで、[2]と[3]はポルノ鑑賞において必ず生じている現象なのだ。
そして≪触手≫や≪ふたなり≫や≪寝取られ≫といった新奇な趣向らは、まったくの想像にすぎない[1]の態度を撥無しながら、事実としてポルノ鑑賞が[2]であり[3]であることを、あまりにも明示的に表現しているのだ。

(付記。前の記事から、≪疎外≫という用語がよく出ているが。しかし疎外されていることは、望ましくない、あわれな状況である…とは、精神分析の主張では『ない』。むしろ人間存在の条件として、主体は自らを疎外する)

さて、ここまで見てきてだが…。

かんじんな文献、フロイト「メドゥーサの首」(1922)をちゃんと参照しないままに、前記事をポストしてしまった自分。しかし珍しく責任感あるところを発揮し(!)、翌日の外出時に図書館へ寄って、当該の資料を借りてきた。
そして久々に見てみたらそれは、正み3ページ足らずの断章で。かつ死後に発表された草稿だそうなので、『これがフロイトの断じて言うところだ!』というものではないが。

その文献にあたれば、まず触手の化け物にもよく似た『メドゥーサの首』が、成人女性のヴァギナおよび≪去勢≫をさし示す≪シニフィアン≫であることは、前に見た通り(この場では≪シニフィアン≫という用語を、意味不明だが意味ありげな記号、くらいに解されよ)。ヴァギナ=『ペニスの不在』なので、それは≪去勢≫をさし示す。…ではあるが…。

『(メドゥーサを見た者が)石のように硬くなるということは、勃起を示している。だから最初の状況では、これを見た者に慰めを与えるはずだった。これを見た者はまだペニスを所有しており、硬くなることでその所有を確認できるのである』(フロイト「エロス論集」1997, ちくま学芸文庫, p.278)

それは、ひとつの『論理』ではあろうが。しかし『去勢の恐怖に直面した者が、勃起という反応を返す』、そのことの不自然さへの説明になっているだろうか?
なお、この断章でのフロイトの論の全般的な傾きとして、『ヴァギナ=去勢を示唆する恐ろしいシニフィアン』、となっている。よって、何かラブレーの作品から、『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』(!)というお話が紹介されている。その場でそうとは言われていないけれど、つまりそれは≪外傷的なシニフィアン≫だと見られている。

ではあるが! 別の方向から考えたら、『ヴァギナを見た男性が勃起する』というのは、あたりまえかのようなことだ。けれどもその対象を『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン, メドゥーサの首』などと言い換えたところで、『はて?』というわれわれの疑問が生じてしまっているのだ。
そうしてここでわれわれは、≪外傷的なシニフィアン≫の現出が、男性らを性的興奮にみちびく(=勃起させる)、というふしぎな現象に立ち会っているのだ。

『ふしぎ』と言ったが、ざらにあることでありながら説明がつきにくい、という意味でそれはふしぎだ。前の記事の序盤でわれわれは、『ニッチ』というにもピンポイントすぎる性的嗜好に憑かれた人々の姿を、ちらと見た。そしてそれらの特異すぎる嗜好が、それぞれの人の個有の≪外傷≫のあるところを示しているものだとは、とうぜん考えられることだ。
たとえばの話(そんなに特異な例でもなさそうだが)、女性の髪が精液で汚される、そのシチュエーション以外は『萌えない』、という人もいる。だまって彼の言うところを聞いていれば、しかもその髪はつややかなロングの黒髪でなければならないとか、みょうに細かいことを申される。
そうしてふつうに考えて、そのシチュエーションは彼の幼時の≪外傷≫的な体験の反復以外でない。根も葉もないところから、『想像』されたものであるわけがない。で、彼がどうにかの状況で強烈な印象を受けたのは、他ならぬ≪母≫の髪に関してであろう、と推察される。

さらに。いろいろと話を聞いていれば、『トラウマ(外傷)』という語を、『自らの性的嗜好の起源』という意味に用いる人々がおられるのでびっくりさせられる。いわく、『わたしの“トラウマ”はキューティーハニーなので、グラマーかつボーイッシュな女の子がたまりません』、のように。
分析用語としての≪外傷≫はそういう意味には使われないが、しかしそれまた正しい! 男子らそれぞれの性的嗜好は、それぞれの個有の≪外傷≫が規定している。このことは、経験的に正しい。
ただしほんとうの≪外傷≫とは意識できないものなので、『キューティーハニー』は見かけ上のそれにすぎない。もっとそれ以前の、思い出せない何らかの≪外傷的≫なイベントが、彼に『キューティーハニー』という記号を選択させているのだ。はっきり言えば、彼にとってのある時期の≪母≫のイメージに対応する記号がハニーちゃん、なのだろう。

そうやって考えてくれば、『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン』とは、ようするに『父によって犯される母のイメージ』と等価なものである、ということになり気味なのでは?
で、そこまでを見てから≪触手≫というお題に戻れば。『両親の性交』にかかわるイメージを精神分析では≪原光景≫と呼ぶのだが、触手プレイの衝撃的かつ≪外傷的≫なるイメージは、ひっきょうそれの等価物なのでは?

ところがだ、われらの題材である「悪魔と俺 特盛り」という作品の、また特異なところは。『触手プレイ』というものが一般的には、何らかの厳粛なる儀式かのように(!)、あたかも『荘厳な』という形容を待つものかのように描かれる、それをあえなく喜劇化してしまっている。
そこがその作品の≪真理≫に乏しいところでもあり、かつ同時に軽みがあってゆかいなところでもある。というふうにも見られるかなあ…と、筆者は考えるにいたったのだった。

【追記】 2010/02/23。ギリシャ神話で、≪鏡≫の盾を利用して≪メドゥーサ≫退治に成功したペルセウス。彼は次に、全裸で拘束された美女アンドロメダが、海の怪物に襲われそうなところに遭遇する。言わば、『触手プレイ』の目撃者になりかける。そこで彼は、こんどはメドゥーサの首を利用してその怪物を退治する。
ここになぜだか、われわれの気にしているキーワードが出まくっている。そしてこれを見た上だと、「悪魔と俺 特盛り」という作品が、また別のものにも見えてくる。

すなわち。『めんどうだなあ』とは言いながら、まいどまいどヒロインを触手のモンスターから救い出しているそのヒーローが、『ひょっとしたらペルセウスの再来なのか?』、というふうにも見えてくるのだ。
だから。日本神話の『スサノオ×ヤマタノオロチ』を含む『アンドロメダ型神話群』と同様の流れで、ヒーローがヒロインと結ばれてハッピーエンド…という方向が今作の結末にて示唆されていること、それは『合理的』だ。
ところが≪触手≫という趣向を愛する方々は、ペルセウスやスサノオになろうとしない。彼らはメドゥーサとも海の怪物とも、闘わない。そうして『触手プレイ』の永遠の持続の前で、現前している『他者の享楽』からの視線の前で、彼らは立ちどまり立ちすくみ、そして≪去勢≫されながら勃起という反応を返している。

2010/02/19

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

 
参考リンク:Wikipedia「悪魔と俺 特盛り」

前に見た「あきそら」に続いての、ももいろ路線のご紹介。この吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(MFコミックス, 全1巻)はどういうお話かというと、どうでもいいようなフリーター(?)であるヒーローのところに、悪魔のプリンセスが押しかけ妻としてやって来た、というような…。
はい、またまた出ました、「うる星やつら」(1978)もどき。で、その路線のファンタジーラブコメとして、今作特有のセールスポイントは…。
それは悪魔のヒロインが、自分の手下のモンスターを人にけしかけるのだが、逆に自分がからまれてしまう。比喩でなく、『からまれて』しまう。
いわゆる≪触手系≫のグロテスクきわまる化け物によって、ヒロインが毎回ぐちゃぐちゃに凌辱されてしまうのだ。そして、大ゴマ、見開き、クローズアップ、等々と見せ方を変えながら延々と、そのこっけいな惨事が描写されまくる。それが、今作の毎回の山場であり見せ場なのだった。

近ごろまんが界のすみっこで、こういう『ニッチ』の需要に特化しすぎている作品らが、びみょうに目立たなくもないな…という気がする。今作の≪触手≫に対抗して、篠房六郎「百舌谷さん逆上する」の≪ツンデレ≫とか、そういうの。
いや別にそれらをけしからんとはまったく思わなくて、“誰か”がそれを愉しんでいるならオッケーなのだが(…「百舌谷さん」については、いつか別稿で検討したい)。

また。この場では18禁の話題は控えたいんだけど、しかし『2ちゃんねる』のエロゲー板というところは、スレッドのタイトルだけを見ていても面白い。いやむしろ、その『スレタイ』たちが面白い。それらを見ていて、『そんな奇妙な性的嗜好が、あるもんなのッ!?』…というサプライズがひじょうにすごい。ご紹介しないが、それらはあまりにも超ピンポイントで、『ニッチ』どころのさわぎではない。

また。精神分析の機能について、比喩で言ったら『ゴミ捨て』や『排泄』、そういう見方はまったくふつうにある。最初期の症例報告集「ヒステリー研究」(1895)に記録された≪アンナ・O(仮名)≫は、それを『煙突掃除』と呼んだ。そして彼女を診ていたブロイアー医師が、その『煙突』のススをかぶったはずだ。
で、この現代において『どうしようもない話』をする相手をもたない人々は、その『どうしようもない話』らを、2ちゃんねるやそれに類するところに『かきこ』し。そうして何とか、心の中のゴミ的なものを処理している…というわけなのだろうか? いや別にひとごととは思っていなくて、ここでの筆者の≪行為≫もあんまり変わらないし。

で、そこらで見られるようなびっくりのユニークすぎる性的嗜好らに比すれば、いまどき≪触手≫は、とくべつに目新しくはない。触手・ふたなり・寝取られ・そして近親相姦といった題材らは、いまどきふつう気味…などとうかつに述べてしまった後に、自分は思わず頭をかかえる。あまりにもあれだし、いずれも筆者には、あまり。
とまでを見てからわれわれは、今作「悪魔と俺 特盛り」のあからさまな最大のモチーフたる≪触手≫というものを、ちょっと検討してみよう。それは、≪何≫なのか?
てのも。無粋ながら筆者にはそれがちっとも『来ない』ゆえ、なぜこんなふしぎな趣向があるのか…と、ずっと疑問に思っていたので、このせっかくの機会に。

まず。ここで申している≪触手≫という趣向とは、タコやイソギンチャクが巨大化したような化け物が、その無数の触手で女体をさんざん性的に辱めて、それを(画面外で)見ている男性が興奮する。そのようなものとする。
で、その触手たちは『ペニスの象徴』なのであろう…なんてことを、書いてて筆者はつい噴き出す。『言うもさらなり』にしてもあんまりで、こんなところにフロイト様の出番はない。まだ、ない。大物は、ラストふきんで登場する。
さて気にするべきこと、この惨事において『行動』をしているのは化け物だけであって、犠牲者の女性や目撃者の男性らは、『反応』をしても『行動』はしていない。かつ、この触手の化け物らには、高度な意識や言語能力は『ない』のが一般的らしい(今作も、その路線)。
するとそこでは、何らかの無人称な『もの』が、言うなれば『オートマチック』に、女体をどうにかしている…という感じがある。

そして何の関係もなさそうだが、宇多田ヒカル「オートマチック」は、1998年のヒット曲だそうで。その題名を聞いたときに筆者が、『テクノっぽい曲なの?』というかん違いをいたしたことを、別に恥ずかしいとは思っていない。当時は≪テクノ≫が、びみょうにもはやっていた時代だし。
だが。そうとはしたって、愛(欲の行為)のエクスタシーを『オートマチック』ということばで表現する感性が、テクノやインダストリアルの文脈にのったものでは『ない』ということを、筆者は逆にふしぎだと感じたのだった。

そして、『オートマティック』に女体がじゅうりんされる、というイメージが、なぜある種の男性たちには『来る』のだろうか? ここでハードコアポルノということを考えると、まさに『オートマティック』に、その鑑賞者たちの意思には関係なく、画面内で性交的なことが遂行される。
そこでいわゆる≪疎外≫をこうむっている主体の存在を、≪触手≫という趣向は明示化しているようにも思える。そしてそんなような世界には『ギャングバング』とかいって、すごい本数のペニスが1つの女体をどうにかするような趣向が、あるらしい(!)。それがまた、≪触手≫という趣向にシンクロしているものかなあ、と考えつつ。
かつ並行し、≪寝取られ≫という趣向がまた。それは他者たちの≪享楽≫を見ている、というよりも他者たちの≪享楽≫によって見られている、そのような主体の≪疎外≫を、そこで明示化しているものではある。このことは憶えておいて。

ところで女性の側も見ておくと。今作「悪魔と俺」のヒロインについては、実のところ彼女は『触手プレイ』が大好きなので、そこでことさらに自縄自縛で自作自演のショーを演じているのだ、としか考えられない。そうと見なければ『逆に』、あまりにもお話がわけ分からなすぎる。

 『りゃめぇぇえっ… すごいの… いっぱいすぎてぇえっ…
 ふにゃあぁあぁぁ~っ へんになりゅうっ ふぇあぁあぁぁっ』(p.130-131)

しょうがないな…まったく。
しかしだが、そんな女性が『いる』ものなのか?…という点が、1つの考えどころだ。

逆の作例を、1つ提示。少年チャンピオンの掲載作、マツリセイシロウ「マイティ・ハート」(2007)の正義のヒロインは、男の悪党どもからセクハラされがちで、そしてそのときに生じる≪羞恥≫のエネルギーの大爆発で、敵を倒す。悪党どももそのしくみは分かっているのだが、しかしセクハラはやめられない(…)。
そのようなわれらのマイティ・ハートが、大ダコの触手で責められるエピソードがあった。これも一種のセクハラか、と思われながら…。
ところが彼女はその危機について、『羞恥ではなく快感でもなく≪嫌悪感≫しかないので』、気の毒にいつもの奥の手が使えないのだった(!)。『これはほんとうかもなあ』と、筆者はそれを読んで感心したのだったが。

けれども。マイティ・ハートは目撃者の存在を意識していないが、その一方「悪魔と俺」のヒロイン≪シフォン≫は、常にわざわざヒーローの見ている前で凌辱されて、そして『そのこと』を悦び愉しんでいるのだ。さきに引用したしょうもないセリフも、ヒーローに向かって言われているのだ。
すると彼女は、ただ単に触手が好き、というのとは異なるような感じもしてくる。

そこで考えてみるとシフォンは、≪大文字の他者≫を挑撥するために、その≪享楽≫を愉しんで『見せて』いるのかなあ…という気がしてくるのだった。≪大文字の他者≫とは、『常に主体を見ていると想定された存在』、くらいを意味するラカン用語だが。

いや別に大したことは言っていなくて、人間は独りでいても『自分の中の他者』が自分を見ているという、そのていどの話で(…としておいて)。そうしてシフォンのまなざしは、その≪大文字の他者≫とヒーローとを重ね合わせに見ているのだ。
はっきり言うならシフォンの求めるところは、ヒーローがその意思で彼女と性交を行うことだ。けれども彼がそれを遠慮しやがるので、そこでシフォンは触手プレイを鑑賞させて、彼を挑撥している(!)。しかしその挑撥がまったく成功しないので、作中のドタバタが続いている。

…ふつうのラブコメのヒロインだったなら、ちょっと短いスカートをはいてみせることで、ターゲットの男子を挑撥したりするようだが。そのようなところへ凄絶な触手プレイの実演をもってくるというのが、悪魔っ娘の発想のすごいところなのか?
ところでなのだが≪大文字の他者≫への挑撥は、成功しない、むしろ必ず意図されざるところに流れ弾としてヒットする…という法則を、筆者は以前に発見している。現に今作においても触手プレイの実演は、まったくもってヒーローの心(かどこか)には響いておらず、画面の外から関係ないものがそれを見て悦んでいるばかりだ(!)。そうしてまっとうなラブコメにおいても、そのようなヒロインの意図的な挑撥は、けっしてストレートには成功しない。

おや? それを言ったら今作は、流れとしては『まっとうなラブコメ』と、そんなに変わらないことになってしまうが…?
いや、じっさいそうなのだ。今作こと「悪魔と俺」は、『触手をフィーチャーしたラブコメ』に他ならない。触手をとったら大して何も残らないような作品でありながら、ふつうに『実用』されているような『触手もの』とは同じでない。
そこで『また』、そのこっけい味が生じている。ポルノとしたら失敗作になっているということが、バナナの皮にすべって転んでみせている具合いで、今作をびみょうにも笑えるコメディにしてくれている。

(補足。つまり、こういうことで。“誰か”である≪他者≫が常に自分を見ていると、シフォンは思う。その他者とは作中のヒーローであるべきだと、やがてシフォンは想像する。そうして『常に見ているもの』と想定されたヒーローを彼女は挑撥してみせるが、しかしじっさいに見ているのは、ヒーローではないただの≪他者≫に他ならない。
こういう現象は、まんがの外側にもあるふつうのことだ。他者は他者であって、主体の想像の外側にそれは存在している。このように他者の存在を前提として成り立っているのが、精神分析は1つの唯物論である、と言われるゆえんだ)

そして、話を戻し。他者の≪享楽≫の『目撃者』であるところのわれわれは、ただ単にその≪享楽≫から疎外をこうむっているのか、そうでなくむしろ≪大文字の他者≫(の代理)としてその魅せものを受けとっているのか、という問題がありそうだが。
それは、『どっちでもある』としか言えない。「悪魔と俺」のヒーローになったつもりで考えてみれば、それは分かることだ。
『テーゼ:≪大文字の他者≫への挑撥は、必ずや見当違いの第三者にヒットする』。そして『目撃者』たるわれわれは、≪大文字の他者≫の場所と≪第三者≫の場所とを、いわば『量子論的』に行ったり来たりする。
つまり。挑撥的なカッコで彼の気を引こうとしたラブコメのヒロインは、挑撥がすぎて彼にはスルーされつつ、関係ない男(or 触手)にからまれる。そこへさっそうとヒーローが救出に現れ、『分かってんだから、もうそれはよせ』的なことを言う←ハッピーエンド。けれども見ているわれわれのマインドは、その彼の場所とあの彼の場所とを、『量子論的』に行ったり来たりしている。ここでイエス・キリストの論法を借りるなら(?)、レイプの危機がちらとでも描かれたことは、じっさいにレイプが描写されたことと同じだ。

ふしぎだが『それはどっちでもある』ということは、≪触手≫でなくとも、ヤング何とか誌の巻頭の水着グラビアに見入っている男子の心理を考えてさえ、分かることだ。南国のビーチサイドで何かを愉しんでスマイルしている水着美女、見るものはその愉しみから疎外されている。
でありながら彼は、その水着美女の視線が『他ならぬ自分を見ているのだ』、その『わがままボディ』とやらは自分へと向けてさらされているのだ、といった錯覚から逃れえない。そのように錯覚できない場合には、それは『興奮できない、萎え』ということとイコールだ。
ただし、彼は完全なる錯覚におちいっているのでもない。興奮のさなかにも疎外の自覚は失われず、そして疎外されていることは、彼を≪無責任≫にしてくれている。この無責任さ、状況に対して第三者であることが、またなぜか愉しいところなのだ。フラットに言うならそこで彼は、『参加しつつも第三者である』。

ここまで、ずいぶんと長い堕文になりつつあるが(申し訳ない!)。ようするにポルノグラフィーというもの一般が、受け手を疎外しつつ同時に彼らを興奮させている。そしてこの状況を『やたら先鋭に明示化している』のが、≪触手≫であり≪寝取られ≫なのかなあ…という気はしてきた。
するとそれらの趣向は、『おかず』業界のヌーヴェルヴァーグ(?)でもあるかのように、『それを見ること』、『それを見る人』、というものをしつように描いているのかも知れない。ゴダールをはじめとするマニア兼ディレクターのフランス人たちは、『映画、それを鑑賞する人』というものをやたらと映画で描き、そして一方の≪触手≫や≪寝取られ≫は、ポルノ鑑賞者の特有の孤独と≪享楽≫に等しいものを、ポルノ作品の内部に描いてみせている。

かつ書いてきたら≪触手≫とは、その『無人称&オートマチック』で女性を凌辱するしろものとは、ここまでに言われた『第三者』であり、すなわち実体となった≪大文字の他者≫なのかなあ…という気もしてきた。
つまり今作に即して言えば、シフォンが自らを見せたい存在と、じっさいに彼女を見ている存在とが異なり。そして彼女の想像のらち外にあるものとしての後者が、≪触手≫として描かれているようでもある。

ところでなのだが、ここから少々、視点を変えて…。

触手というものがウネウネしまくっている「悪魔と俺」を見ていて、『何か似たようなものを知っているな』と感じた。何かと考えたら、それはメドゥーサ。メドゥーサの頭から生えている、無数のヘビたちのウネウネだ。
そうとすれば、われわれはここで、フロイト「メドゥーサの首」(1922)という論考を見ないわけに行かない。だがちょっと計算違いでその本が手元になかったので、記憶とかにたよってその論旨の一端をご紹介すれば…!

まず、ヘビとか(触手とか)いうものが、ごく一般的に『ペニスの象徴』として機能する、と見た上で。しかしそんなものが大量にウネウネしている場合には、異なった意味作用が生じる。
その大量のウネウネは、逆に≪去勢≫を象徴するものとなる。そこに集積されているのは、すでにちょん切られたものらだということ。そうして≪メドゥーサの首≫は、無数のウネウネにふちどられたその大きな口は、恥毛の生えた成人女性の性器を象徴するものでもまたあり、よって『去勢するものとしてのヴァギナ』という意味作用を発揮する。
で、その恐ろしいヴァギナとは、けっきょくは母親のヴァギナでありつつ(!)。そしてメドゥーサの首を見るものが石化する、硬直するとは、それを見るもののペニスの勃起を表す、というのだった。

分かるのだけど、分かってよいのか…という感じだ。≪去勢≫の恐怖に直面しているものが、ペニスの勃起という反応を返す、というところが特に。
いつもそうだがフロイトの議論には、『ににんがし、にさんがろく』…という感じのすなおな展開を、していないところがある。特に抽象度の低い議論にて、それが顕著だと感じる。だがしかし、論理じゃないようなその迫真性によって引き込まれる。そして、けっきょく人間らは論理的になど考えない、という事実も見ねばならないし。
しかも、それをご紹介している筆者の論にもまた、たぶんけっこうな飛躍がありつつ(!?)。ま、そこらの議論のつながり方は、後日また確かめようと思うけれど。

で、メドゥーサに対する≪触手≫のモンスターもまた、他者を去勢し、自らは去勢されないような存在と考えられる。ただしそれが女性を襲って凌辱するのは、メドゥーサにはなさそうな性格ではある。
そうするとそれは、メドゥーサの首がつまりは『母の性器である』、というのとは違う感じかも。むしろそれはフロイトが「トーテムとタブー」に描いた、すべての女たちを独占して≪享楽≫をほしいままにする、かの去勢されざる兇悪な≪原父≫のようなものなのだろうか?
しかしその≪原父≫には、さきに見た≪触手≫の、『無人称&オートマチック』で機能する…という性格がない。

ならばいっそ、主体の中から彼の≪欲動≫自体が飛びだして、主体の代わりに目的の女性を凌辱しているのだ…と言いたいような気もしてくる。そしてそれまた、主体が≪疎外≫されている、と言える状態であり。
さもなくば、『触手モンスター&犠牲者の女性』が1セットで、≪メドゥーサの首≫に対応するものなのか…という気もする。それぞれがいずれも、≪享楽≫と≪去勢≫をあわせて指し示しながら、主体を見返すものではあり。

そして、そうこうではありつつ。触手イベントの目撃者もまた、メドゥーサの首を見たものと同様に、≪去勢≫の恐怖に直面しながらペニスの勃起という反応を返す。これは、比喩でなくそうなっているものと考えられる。
そして、そこではむしろ勃起の条件として、≪去勢≫の恐怖が演出されなくてはならない(!)。何しろ『触手もの』の1つの見どころは明らかに、どれだけグログロで醜悪な恐ろしいモンスターが描かれているか、というところにある。
われらが見ている「悪魔と俺」でさえも、ほんとうにグログロでたまらない。がしかしその愛好者たちは、それの見た目が弱々しかったり、描き方が淡白だったりしたのでは、たぶんなっとくしない。
で、筆者の感じだと。男子らが一生背負い続けるとされている≪去勢不安≫という不安は、何によってどうなるのか分からないので≪不安≫だが。しかし去勢する化け物らが出ている現場では、対称なき≪不安≫が、対象を持つ≪恐怖≫へと書き換えられている。ここにも意味があるのかな…とも、考えるのだった。

それやこれやと、考えて。そしていろいろ申し上げて、何かかすっているような気はするのだが。しかし『触手とは?』という問いに対して、あんまりきれいな答が出ているような気がしない。…あんまり!?
けっきょくは『ふしぎだ!』と、再び嘆息せざるをえない。触手を見ていて興奮しない自分が、『なぜに触手で興奮する人がいるのか?』、という問いに答えようとしたことが、すでに失敗だったのかも知れない。≪ふたなり≫というお題の方がまだしも解明できそうなので、そっちを書いた方がよかったかも?

それにしても…と、おかしなことを告白すれば。中学生時代の筆者の愛読書は、フロイト「精神分析入門」とマルキ・ド・サド「悪徳の栄え」だった。そんなだから、いかなる変質的な趣向を聞いても、びっくりはしないはずだと考えていた。
ところがいまや、筆者はある種の人々のさまざまな≪性癖≫に、びっくりさせられっぱなしなのだ。これこそ『後生畏るべし』ということなのか、それにしても人間はふしぎだ…と、「悪魔と俺」の恐るべき画面に再び失笑を返しながら、自分は思うのだった。

【追記】 2010/02/23。読み返してみると、筆者のフロイト読解の切れ味は甘い、甘々だ。すなわち。
人が『去勢の恐怖』を感じるのは、刃物とかを持った兇悪なものに向かったとき、だけではない。そうではなく、目の前に『すでに去勢をこうむった者』が現前したとしよう。するとその去勢された(弱々しい、みすぼらしい)被害者の存在は、≪去勢≫という兇行がありうることの証明として作用する。
だからヴァギナというものが、『兇悪だから恐ろしい』記号だというわけでは、必ずしも『ない』。そういう風にそこらは読まなければなるまいが、これについては読解も何も、やはり記憶に頼ってのご紹介にはムリがあった!

2010/02/17

土塚理弘「清村くんと杉小路くんと」 - ユートピアの夏、BLの夏…!?

 
参考リンク:Wikipedia「清村くんと杉小路くんと」

これ、すなわち「清杉」という略称でおなじみ、ショート形式のギャグ作品(2000, ガンガン・コミックス, 刊行中)。それについて何かを書こうとしていたら、自分はこの手のドタバタ系のギャグまんがが苦手、ということを気づいてしまった。
それらを読むことはまったく苦手でないが、『こういう作品です』、と申すことが苦手だ。それプラス今作は、失敬だが『キレの悪いトイレみたいに』、断続でシリーズがちょぼちょぼ続いている…そこがまた話題にしにくいところ。
でもまあ、ほんのご紹介までに何か書いておけば。

見た目は不良っぽいがお人よしで超甘党のヒーロー≪清村くん≫、高校3年生。中学時代はサッカーで活躍していたが、監督と衝突してヤメちゃったという過去あり。
その彼を≪とりごや高校≫のサッカー部に勧誘したのが部長の≪杉小路くん≫、黒髪の優等生っぽい少年。で、さっそく翌日の試合に出てくれと言うのだった(第1巻, p.36)。なぜってつまり、『おまえ来ないと 5人しか いないんだよ!!』。

5人が6人になっても、いっこうにしょーがねーし…。フットサル部にでも変わった方がいいのでは…? けれど作中人物らは、そんなことを深くは気にしていない。

がしかしニヒルを気取っている清村くんが『嫌だ』と言うと、その翌日、ふつうに校庭のグラウンドで試合が始まってしまう(…5人対11人で!?)。で、何と終盤まで、とりごや高は0-0のイーブンで闘っている。
という杉小路くんらのありえざる健闘を、校舎の高いところから見た清村くん。そこでやっぱり加勢しようと思い直し、『くそっ』と叫んで階段を、猛ダッシュで駆け下りる。しかし不運にも脚がからんで、彼はガゴンガゴンと階段を転げ落ち、さらには窓をブチ破って校舎から飛び出してしまう(!)。

すると試合中の杉小路くんは、グラウンド目がけて落下する血まみれの清村くんを見つけ、大喜びで『パスだぁ』と叫んでするどいボールを送る。そのボールは落下中の清村くんに命中し、ハネ返ってそのまま敵ゴールに飛び込む。
そこでレフェリーの長い笛が鳴り、『試合終了!!』と声が響く。勝利の歓喜にとりごや高の『イレブン』(?)がわき、そして杉小路くんが『やってくれたぜ 清村…』とか言ってるところで。決勝点をキメた新たなるエースストライカーは、うつろな目をして血みどろでグラウンドに横たわったまま、かぼそい声にて『いしゃ… きゅうきゅうしゃ…』と呟いている(第1巻, p.44)←ハッピーエンド。

筆者は今シリーズの最初の6冊しか読んでいないが、以後もだいたいこんなようなお話が続いている。…というのはうそで、以後はもっともっとダメっぽいお話になっている。ただ単に彼らが昼食のパンを奪い合う、とかそんな。
なぜってそれは、清村くんがサッカーへの情熱をとり戻したのと入れ換わりに、杉小路くんはじめ先住のサッカー部員らは、『いかにしてサッカーをやらないか』ということをガンバリ始めるからだ(!)。ようするに、清村くんをツッコミ役として…。というよりも彼を『総受け』担当として、他のあらゆる人物らが彼をイジりまくるお話になっている。

で、清村くんに対する各方面からの『攻め』の多彩さが、今作の見どころなのかも知れないが。しかしそういうところはBL用語に詳しいお方だと、うまく記述できるのではないかと思う。筆者にはむずかしい。
別に冗談は申してなくて、男子高校生らがじゃれあってるところを描くだけの今作には、≪BL≫っぽい要素が明らかにある。そのメインの『秀才攻め×ヤンキー受け』というカップリングが、一種のツボをついているような気もしつつ。

なお、しまいにはどうなるかというと。最初のシリーズの最終話で明らかになるのだが、何と彼らは部員が5人のサッカー部で、例の『全国』を制したことになっている(!)。ところがそれへの続編は、お話の時間が戻って、彼らの『高校3年生の夏』という季節をえんえんと語り続ける。
そうして≪ユートピアの夏≫という季節に閉じ込められた少年たちの、こっけいで喰い意地きたなくも血まみれの青春は、いつまでもいつまでも続くのだった…!(←ハッピーエンド)

「ネギま!」と「魔法陣グルグル」 - 漫畫作品中に顕はれたるラカン師の事蹟につひて

何をかくそう、実を申せば、筆者の大尊敬する人物がジャック・ラカン(1901-81, 仏の精神分析家)なのだが。だじゃれの達人、おやじギャグの大家、セクハラ魔王、もしくはムッシュー・ふれんちハレンチ、等々々と称すべき崇高なるお方なのだが。だいたいのところそれは、ドラゴンボールの亀仙人と同じような人なのだが。
そこでそのラカンちゃまについて何か検索していたら、まったく関係なさそうな赤松健「魔法先生ネギま!」に関連のページらが、やたらとヒットする。これはふしぎだと感じた。…なお申し訳ないが筆者は、赤松健という作家、その作品について、ほとんど何も知らない。少年誌のラブコメとか、あまり読んでない。

そしてその先を見に行って知ったのは、何とその作品「魔法先生ネギま!」にそのまんま、≪ジャック・ラカン≫という人物が登場していることだ(第27巻カバー画の右上、赤い服を着た男)。『ンだとォォォ~っ!!』と叫んで、瞬時にエキサイトしてみた自分だったが。
しかし。さらにいろいろ調べてみたら、とんとガッカリするハメになった。

てのも。皆さまはご存じやも知れないが、「ネギま!」作中のラカンとわれわれの知るラカンちゃまとが、あまりにも似てなさげ。見た目がカッコよくてケンカが強くて、しかも振るまいがオトコらしいなんて、そんなのラカンちゃまじゃないや~い!
せめてそこに、セクハラの帝王だとかおやじギャグ愛好家だとか、さもなくばケンカの仕方が陰湿だとかお金が大好きだとか(!)、その程度の属性の一致でもあったらなあ…。そもそもどうしてその人物が≪ジャック・ラカン≫なのか、ということがさっぱり分からないが、まあ実作を読んでみると、何か分かるのかも知れない。いずれの話として。

ここでまったく関係ないことも書いておくと、筆者は自分の偽名・変名として、≪雀羅閑(じゃくら・かん)≫というのを考えたこともあった。E.A.ポーの名をもじって≪江戸川乱歩≫という作家もいるので、これもありかと考えたが。
だけど恥ずかしいので使えなかった。というかそれを思いついたころには、筆者がそんなにその崇拝者でもなかった。しかも崇拝者になってさえ、そんな名前はあらゆる意味で恥ずかしい。おもはゆい。

それと。あともうひとつ、ラカンちゃまが友情出演しているまんが作品を知っている。それは1990'sのファンタジー系ギャグの大傑作こと、衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」(1992, ガンガン・コミックス, 全16巻)だ。
そこでラカンは、主人公らより以前に難関ダンジョンに挑戦した≪冒険者ラカン≫として、さいしょはそのその残した日記帳として登場する。主人公らは、その記録を『攻略本』としてクエストに成功する。
という「グルグル」作中のラカンはフランス人でも何でもないが、別のところに≪ガタリ≫や≪デリダ≫といった人物らも登場しているので、これはラカンちゃまにはっきり関係あることだろう。よくも知らないが実在したガタリとデリダは、われらの師匠にたてついたフランス人どもだ。

そして≪冒険者ラカン≫、というこの響きが、われわれを少々うっとりとさせながら。けれど作中のだいぶ後でその本人が登場すると、それがまったく何でもない老人なのでガッカリさせてくれる。なくなる寸前までまったく口のへらなかったラカンちゃまとは、あまりにも似ていない。
ではありながら、グルグルの主人公たちを見習ってわれわれもまた、『ラカンの日記』的な彼のテクストらをたよりにして、≪人の心≫という超難関ダンジョンに挑戦しつつあるところなのだ。…なんて、きれいげなまとめ方はいかがでしょう?
とは言いながら、まともなクエストで行きづまる以前に。ラカンちゃまの記録されたおしゃべりや書いたもの、それら自体があまりにも意味の不明すぎな超難関ダンジョンなので、そこですでにハマリが生じているわけだけどッ!

(ここで、死ぬほどどうでもいいような説明。ラカンちゃまの『記録されたおしゃべり』を『セミネール』、つまりゼミナールや講義と呼び、その書いたものを『エクリ』、仏語で『書かれたもの』と呼ぶ、そのような習慣がある。そして皆さまが『セミネール』という語だけ憶えといてくださると、いずれ筆者がひじょうに助かるかも?)

…と。こんな筆者のミーハー話のついでとして、『「魔法陣グルグル」論』を終わらせては、あまりにもあんまりなので。それについてはあらためて、別の記事で述べ直すつもり。いやほんとうにシツレイしました、『反省してま~す』…と、すかさず流行語を使いながら。