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2010/10/29

吉田戦車「伝染るんです。」, 新井理恵「ペケ」 - カミュってサルトる、≪不条理≫メモランダム

新井理恵「×-ペケ-」文庫版, 第1巻 
関連記事:うすた京介「すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り, ラベル“吉田戦車”

ギャグまんがの世界にはっきり≪不条理≫ということばを持ち込んだ作例として、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)は、目ざましいものにはちがいない。ただしそれは社会的にはマイナーに終わり、ムーブメントを起こしてはいない。
そうではなく。それを追って後からどんどん『不条理』な作品が出てくる、というムーブメントを起こしたのは、もちろん吉田戦車「伝染るんです。」(1989)。『よくも悪くも』そうなったわけで、つまり少なくない作品らが、そのムーブメントの『一部分』と見なされてしまったらしい。

1. 新井理恵「×-ペケ-」は、≪不条理≫なのかどうか

1990年に別冊少女コミックで掲載が始まった新井理恵「×-ペケ-」(フラワーコミックス・スペシャル, 全7巻)も、その巻き込まれたひとつでありそう。そしてその見方について、作者さまから、じわっと抗議が出ているところをお見うけいたす。

――― 新井理恵「ペケ」第1巻, 作者のごあいさつから(p.32) ―――
新井です。まぁ最近は不条理な四コママンガが世間にはびこっていて
それは現代の世の中自体が不条理(…中略…)
が つまりそんなことは どうでもいい関係ないコトなわけで

つまりムーブメントの存在は、はっきりと認めておられる。しかし、自作「ペケ」はその一員ではない、と言われたいごようす。
また別のところには、こんなことも描かれてある。

――― 新井理恵「ペケ」第2巻, カバー下のまんがより ―――
【なぞの博士】 「×-ペケ-」を 不条理と 言う者は
「不条理」という 言葉のイミを知らない アンポンタン・ポカンに すぎなーい!!

だがしかし、同じカバー下の表4では、その博士の助手が「ペケ」第2巻を読み終えて、『やっぱりただの 不条理4コマとしか 思えませんでした』と言っている(!)。言うにもことかいて、『ただの不条理4コマ』とは…!

とまで見てから、自分の感じ方を述べると。「ペケ」のポジションが、先行した「伝染るんです。」と、そして追って出た少女系ギャグの傑作、にざかな「B.B.Joker」(1997)にはさまれたものとして…。前後の2つに比べたら、「ペケ」はそんなに≪不条理ギャグ≫じゃない感じ、言われるとおり、確かに。

あまりにもきょくたんに単純化してしまえば、「ペケ」の描いていることは2種類だ。まずひとつは作者さまの、地域や学校における実見談。もうひとつは、いまでいったらBLっぽくて『腐女子』っぽい妄想。
そして、それぞれのネタ自体がどうというよりも、それらに対するさめきったシニカルな視点がユニークなのだ。そもそも前者の実見ネタなんて、ふつうの人らがどうとも思わないようなことらを、するどい感性がピックアップしているものだし。『妄想の世界でも モテませんでした…』とは竹内元紀の作品に出てきた標語(?)だが、なぜかそれ的な痛いリアリズムを、筆者は「ペケ」に感じるのだった。

2. サルトって、カミュった≪不条理≫たち

ところで筆者もアンポンタンとしての自覚は大ありなので、≪不条理≫などというむずかしい語の『イミ』を、ひじょうに知ってなさげ。そこで、すなおに辞書をひいてみれば…。

――― ≪不条理≫の項目, 「現代新国語辞典」より ―――
ふ-じょうり【不条理】《名・形動》
【1】道理に合わないこと。「―な判定」・不合理。
【2】〔哲〕人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的状況を言った語。(参)フランスの文学者カミュのことば。

…だそうだが。記憶によれば、確かカミュ「異邦人」(1942)の結末近くで、もうすぐ死刑になりそうな主人公が、教戒師のお説教のくだらなさをガマンしかね、『absurde!(仏・バカらしい、不条理だ)』と叫ぶ…だったかな? 何ンせ、アンポンタンのうろ憶えで。
などと、思ってたのだが。しかし調べてみたらぜんぜんそうではなかったので、自分のめっきりアンポンタンであることには、ほんっとにがっかりさせられた。

まず「異邦人」のやま場に、そのヒーローが『アブシュルド!』と叫ぶ、という場面がめっからない。いや、断じてないとは申していないが、自分には見っけられなかった。
さらに、その「異邦人」とペアをなすテクストと見られるカミュのエッセー「シーシュポスの神話」(1942)。こっちの方は逆に、≪不条理≫というキーワードが出すぎ! 本文など見ず、もくじだけをチェキっても、『不条理な論証』、『不条理と自殺』、『不条理な壁』、『不条理な自由』…等々という見出しらがズラリ。

サルトル「嘔吐」訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院なお、カミュに先立ったものとして、1938年のサルトル「嘔吐」にもまた、キーワードとしての≪不条理≫が出ている。拾い読みしかしていないのだが、この作品は中盤までは≪実存≫をキーワードとして、ひじょうに小説っぽく展開している感じ。
それが終盤前になって、急にキーワード≪不条理≫が登場。そこからしばらくエッセー風に、それに関する記述が続いている。

――― サルトル「嘔吐」より ―――
<不条理性>という言葉がいま私のペンの下で生れる(中略)。不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。
(註:“木の蛇”とは、かの有名な、主人公に突発的な吐き気を催させた、マロニエの根っこのこと。訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院, p.211)

おそまつながらも、手短さを目ざして『説明』してしまおう。この小説でさいしょ≪実存≫とは単にあるもので、『世界』の中にいちおうは収まっているものだ。ところが≪不条理≫の噴出という現象は収まらざる“もの”の現前であり、それは実存の存在(感)の確かさを失わせてしまう。
そうすると、『実存はふいにヴェールを剥がれた』、『実存とは、事物の捏造そのもの』、うんぬんに堕ちてしまう(同書, p.209)。そしてこの現象は、≪実存≫と世界との間の距離や摩擦の存在をあばきたて、そして主人公を吐き気にまで追い込むのだ。

また注目すべきは「嘔吐」の語り手が、『狂人の演説は、狂人の置かれた情況との関係によって馬鹿げている』として、他には還元しえぬ絶対的な≪不条理≫ではない、などと言っていることだ(同書, p.212)。
この主人公には≪ギャグ≫とか『笑い』とかを追求している気はなさげなのに(とうぜん!)、なぜか話がそっちへふれぎみなのだ。何しろさいしょから≪不条理 absurde≫なる語は、バカらしさ・こっけいさというニュアンスを呼び出すものだし。

さてその「嘔吐」の主人公が意識しているのは、『こっけいなようなものらを見ているのだが、しかしちっとも笑えない』という感覚だ。彼は真昼の公園の平和っぽい風景を見渡して、『なにやら滑稽な姿を呈していた』と思いかけ、しかし打ち消し、『実存しているものはいかなるものも滑稽ではあり得ない』、と述べる(同書, p.210)。

だがしかし『あり得ない』と言うならば、なぜ『こっけい』という語がことさらに呼び出され、そして宙に浮かねばならんのだろうか? しかも主人公が見ているのは、われわれがふつうに思うような『こっけいな眺め』ではない。
そして『笑う』ということは、むしろ≪不条理≫を見て見ず、『事物の捏造』としての実存に甘んじることらしいのだ。すなわち。

――― サルトル「嘔吐」より(p.209) ―――
『とめどなく笑い続け、濡れた声で、「笑うのはいいことだわ」と言うあの笑い疲れた女たちのように、すべてこれらのもの(註・主人公が見ている公園の風物ら)は、静かに従順に実存へと赴くままになっていた』

それこれと見てくればこの「嘔吐」の主人公は、常人らにはちっとも面白くないものをさして『実にこっけいくさい、しかし笑えない』などと、ひじょうに根性曲がりなことを言ってやがるヤツ、ということになり気味。ふしぎなことだが、笑わないくせに『こっけい』という前置きを、彼のりくつは必要とするのだ。
それがまた、りくつといっても、別にすじの通った論ではないのが困りもの。「嘔吐」のヒーローいわく、『“不条理”は、概念ではない』。またカミュいわく、『不条理の感性は、不条理の哲学ではない』(参照:カミュ「シーシュポスの神話」, 新潮文庫版, 1969, p.8-10, 訳者・清水徹氏による付記)。

3. 『ギャグ・不条理』 -と- ≪不条理ギャグ≫

かくて『不条理な感性』というしろものは、ふつうにわれわれを≪うつ病≫のような症候に陥らせるものかと考えられる。『笑わないこと』はうつ病の始まりだと、広く一般的に考えられている。
そこのところから、カミュが「シーシュポスの神話」の随所にニーチェをもってきて見かけ上の≪解決≫をつけたり、追ってサルトルがマルクス主義(つかむしろスターリニズム?)を一種の『救済の教え』かのようにいただいたり…という方向に両者が走っていることの理由が、筆者にはわかるような気もする。ニーチェやマルクスらの≪論≫をふつうは『超越論的』とは言わないが、しかしカミュやサルトルの≪論≫の内部にそれらを置いてみると、ふしぎだが超越論的に機能するのだ。

だが、別にわれわれは、いまどきサルトルやカミュの『思想』(?)をどうこうしようとしているのではないし。そこでもうここらから、独断的にもまとめに入ってしまうと。

【1.】 サルトルとカミュがいちいち言っている『こっけいさ』とは一種の強がりであり、≪自我防衛≫の機制の発動。その強がりが保持できなければ、“もの”や≪実存≫らの現前に面して、自我が崩壊してしまうは必定。そしてその機制は機能的に、ユーモアやウィットに重なるところがある。
【2.】 ただしカミュやサルトルの言う≪不条理≫は、『“笑い”を(見かけ上の)解決にはしない』という点が、ユーモアやウィットとは異なる。『笑うこと』には『考えることの放棄』という性格もあるが、それをしないということ。

かくて≪不条理≫の根源をたずねていくと、われわれが見たのは≪不条理ギャグ≫ではなくて、言うなれば『ギャグ・不条理』なのだった。それは何でもないもの…しかし“もの”として圧倒的にあるものの現前、その脅威に直面しつつ、『こっけいくせえ!』とまず強がり、しかも可能な場合には『笑わねえ!』と、2回強がるアチチュードなのだ。
そして、この不条理の感性においてありうる笑いとして、カミュの談義がコソッと示唆しているような、“ニーチェ的な笑い, 哄笑”、というものは考えられながら。

吉田戦車「伝染るんです。」第2巻と、ここまでを見てから、やっと話をギャグまんがに戻して。

だが、しかし。吉田戦車「伝染るんです。」を嚆矢とする(っぽい)≪不条理ギャグ≫と言われるようなまんが作品らは一般的に、『平凡(もしくは“日常的”)ならざるもの』の出現を描く。
それでは逆なようだが、言ってみればそれは、「嘔吐」のヒーローが何げなものを見て受けた『とほうもなき異様さ』という印象が、先廻りして絵的に表現されてあるものかと。
そしてその異様なる“もの”らは≪日常≫に対するインパクトとして機能し、作中人物や受け手らの心に≪不安≫をを引きおこす。たとえば、ただいま「伝染るんです。」という本(スピリッツゴーゴーコミックス, 全5巻)をパッと開いて、わりとランダムに見つけた作例…。

――― 吉田戦車「伝染るんです。」第2巻より(p.45) ―――
【角刈りの青年】 (ボロアパートの一室で電話をうけて、)もしもし
【電話の相手】(…ずっと無言…)
【青年】 (『はっ』と何かに気づき、アブラ汗をかきながら、)
く、くまか!? くまだな! オイ、なんとか言えよ! くまなんだろう!!
【やたら小さく、目鼻もない真っ黒なクマ】 (…どこかの街角の電話ボックスで、電話機の上に腰かけながら受話器を構えている)

理由はまったく分からないが、この青年は彼が“くま”と呼ぶふしぎな生き物から、いまで言う『ストーカー被害』をこうむっているらしい。
このお話の構造を見てみると、当事者である青年には単に≪不安≫があるばかりで、彼はとうぜんだが笑っていない。いわば「嘔吐」の主人公ばりに、ありえざる“もの”の出現に対し、おののきを感じている(…“木の根っこ”に対しての“くま”では、出たものの様相がだいぶ異なるが)。
ここにて誰かが笑っているとすれば、それは状況を見ているわれわれだ。というかわれわれが笑っていないとすれば、これはまんがとしてうまくない。

まんが作品には、基本的には常に三人称で叙述しているという性格があるが、そうだからこそわれわれは、このように描かれたことを客観視できる。状況から、心理的な距離をとることができる。
またその一方、もしも「嘔吐」という小説が三人称で書かれていたとしたら、『一人称の日記体』(小説として、もっともインティメートなふんいきになる形式)という現況にてあるような、身に迫る感じは出ないだろう。『この主人公はおかしいヤツ』くらいの印象を残し、ひょっとしたら戯画的なふんいきになっちゃったやも知れぬ。

まず第1段階としてわれわれは、ここで≪不条理ギャグまんが≫というものを定義できるだろう。それはサルトルも描いたような≪不条理≫の噴出という事件を、ことさらに誇張して分かりやすく描きつつ、しかもその状況を客観視させる。
そこにおいて、われわれは『半分』だ。半分は作中人物とともにおののき≪不安≫に見舞われ、そしてもう半分で、サルトルやカミュらも言った『こっけいさ』を笑っている。
そしてその笑いは、≪不安≫の発生に対し、いったんの(心理的な)けりをつけるのだ。かつ、たびたび申し上げていることだが、いかなるところから出たものであっても『笑い』(緊張の弛緩)という反応は、主体に≪快≫を与える。かくて『ギャグ・不条理』が裏返されるところに、≪不条理ギャグ≫が発生する。

4. ≪不安≫に関するメモランダム

ところが、だ。第1段階と言ったからには、少なくとも第2段階の≪不条理ギャグまんが≫の定義を考えているわけで。
それは、どういうことかというと。サルトルやカミュらの主張している“もの”が、『還元しえぬ不条理』だと称されているに対し…。
一方のわれらが≪不条理ギャグ(まんが)≫の描いている“もの”について、『心理的な還元』がまったく不可能でもなさそうと、筆者は見ているのだ。『心理』という語がイヤだが、その『還元』とはとうぜん(?)、分析的な解釈ができるという意味。

たとえば、さきに『くま』の作例を見ちゃったので、そのシリーズの別のエピソードらを、同じ第2巻からチェキれば…。
…くまは青年のアパートに上がり込んで、冷蔵庫を開けて食事の支度をする(p.19)。ドアのスキ間から封筒を押し込んでくるので中を見れば、山野を背景にくまが映った写真と、千円札2枚が入っている(p.31)。
また、玄関前にウインクのCDを置いていったので青年が再生すると、なぜか中身はテレサ・テンの唄だ(p.56)。さらには、大学の友人らが『あなたのお友達が山ぶどうを持ってきてくれて』、と礼を言うので、彼は『くまに違いない!』と考える(p.96)。…等々々。

これがおそらくEarly 1990'sに描かれたお話で、いまではウインクとテレサ・テン、どっちも同じくらいに(?)、懐メロになってしまっている。まあそれは別にいいけど、にしてもこれらはどういうことか、と考えたら。

これは都会で独り暮らしをしている青年の、いなかの親たち(主に母親)を代理するものとして、“くま”が活躍しているのだ…いまいちありがたくもないような、しみったれ気味でピント外れな『親心』っぽいものを彼に示しているのだ…と考えるのが、適切なのでは? で、そうとだけ申し上げちゃえば、興ざめな≪解釈≫かのようだが。
しかし青年はこの“くま”に対して、『自分を喰い殺さないとも限らない!』という≪不安≫や恐怖を感じているのだ。真に≪意味≫があるとすれば、そこだ。

とまでを見たところでわれわれは、≪不安≫という概念を正しく再検討しておこう。筆者が超愛用する参考書(シェママ他編「新版 精神分析事典」, 訳・小出他, 弘文堂, 2002)から、ちょいと引用すれば…。

――― シェママ他編「新版 精神分析事典」, ≪不安≫の項目より ―――
【不安】-『名付けられない何かを予期する主体において無意識的な感情の代わりに表れる、多少なりとも強い不快な情動』。
(…この後がひじょ~うに長いので、筆者が超要約をこころみると…!)

1. 「制止、症状、不安」(1926)でのフロイトは、≪不安≫に2つのレベルを区別する。まず第1のレベルは≪母≫の喪失に由来するもの、第2のレベルは≪去勢≫の脅迫(を感じたこと)に由来するもの。『このようにフロイトにとって主体における不安の襲来は、母であれファルスであれ強く備給された対象の喪失につねに結びつけられる』。

2. ところが続いたラカンちゃまにとって、『不安は、対象の欠如には結びついていない』。『ラカンにとって、不安を構成するのは「何であってもよい何かが、欲望の原因となる対象の占める場所に、現れてくるときです」(1962, セミネールX「不安」)』。

3. ≪ラカンの理論≫の構成として、欲望の対象は欠如の状態になければならない。そしてその『欠如が失われる』という可能性が逆に、主体に不安をもたらすのだ。『乳児にとって乳房の喪失の不安を生むのは、この乳房が乳児に欠如しうることにあるのではなく、乳房がその遍在によって乳児を埋め尽くしてしまうことにある』。

4. それこれにより、『満足させてしまおうとする応答はすべて、ラカンによれば、不安の出現をもたらさずにはおかない。不安はそれゆえ「対象喪失の誘惑ではなく、対象が欠如しないということの現前」(同セミネール)である』。

というわけでたいへんむずかしい話になっているが、にしても。『対象が欠如しないことの現前』が、『満足させてしまおうとする応答』が、≪不安≫を生む…ということまでは知っておこう、かと愚考しつつ。

で、「伝染るんです。」の話に戻って。“くま”によって表象されているあらぬところ(何であってもよい何か)から青年はまなざしを感じ、かつ彼を一方的に養う≪乳房≫の遍在を彼はそこに見出し、そして≪不安≫を覚えるのだ。
かつ、このエピソードに限らず吉田戦車「伝染るんです。」という作品を特徴づけるのは、『他者のあるべくもない感情』が、あるべき『欠如』をかってに失わせてくれる、それが『欲望の原因となる対象の占める場所』をかってに占拠する。そこを描く、ということだ。
では、サルトルやカミュの言った≪不条理≫が、『“感情”の彼岸にある“もの”』であって『(心理的に)還元不能である』、という話はどうなるのか? …筆者はとうぜんだが、ここでラカンちゃまにつく。

吉田戦車「伝染るんです。」第1巻また、『あるべくもない感情』といえば。この「伝染るんです。」には、会ったばかりの他人に向かって、『もっと お母さん みたいに』…という態度を要求する、おかしな子どもが登場する(第1巻, p.112等)。
『母性的な態度』というものを『保護』という語に集約させればば、“くま”に構われてる青年は根拠もないような『保護』を受け、こっちの子どもは根拠もなく『保護』を求める…と、逆の構図らが描かれつつ。

そして、『他者(ら)のわけ分からなさ』ということに普遍性が、ある。他者によって愛されようと憎まれようと(…または前者からの分岐で、保護を受けようと依存を受けようと)、それらの感情、それらを表す“もの”らの過剰な現前が主体の≪不安≫を生む、という帰結は同じだ。なんて言い方は粗雑すぎなので、よくないが。

ここいらまでを見て、われわれは≪不条理ギャグまんが≫につき、第2段階の定義ができよう。その描く≪不条理≫の噴出とは、『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である、と。
といったところが結論なのだが、さいごにちょっと補足を。これの1日前、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を扱った記事で、筆者はこんなことを述べた。

――― 自己引用、「すごいよ!!マサルさん」の記事から(*) ―――
『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。

『乳房の遍在』をやたらに描いた感じの「伝染るんです。」に対し、「すごいよ!!マサルさん」は『ファルスの遍在』、その過剰すぎる現前をやたら描いた感じ(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。『“母”であれ、“ファルス”であれ、強く備給された対象』と、さきの引用に言われていた双へき!
で、後者≪ファルス≫を描いていく方向が、まんがとしてポピュラーだということはありそうな気がするが。にしてもちょっと、『単純化しきった』にもほどがあったかな…と、多少は反省しつつ、この堕文は終わるのだった。

2010/10/13

浦沢直樹「20世紀少年」 - 中年コンビニ店長のみるドリ~夢

浦沢直樹「20世紀少年」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「20世紀少年」
関連記事:諫山創「進撃の巨人」, あわせて「GANTZ」&「ぼくらの」 - 黙示録 in 21世紀スタイル

ほとんど誰もがご存じの作品「20世紀少年」シリーズゆえ、この記事はごあいさつや説明ぬきで。

どういうお話かもご存じかと前提しているが、こちらの都合に即したご説明をいたす。まず、物語のさいしょでケンヂくんは、フリーダムな反体制ロッカーになろうという夢やぶれ、つまらない中年独身男性として、はやらないコンビニの店長として、まったくつまらない生活を送っている。

それがおかしい事件のせいで、まずはそのコンビニが焼失してしまう。それでケンヂくん一家は、いわばフーテン同然の身に落ちるのだが…。
しかし、そこは考えようだ! むしろそれによって、もはや彼はコンビニ店長のつまらない生活を送る必要がなくなり、悪どもに追われる反体制ロッカー兼地下活動家となって、『夢にも見たような』スリリングな日々に身を投じるのだ。
で、この時期の地下アジトの生活が、彼たちが幼時に秘密基地ですごした至福の時間を、びみょうに再現しているもの、ということも明らかそうでありつつ。

それから例の決定的な大イベントが生じ、でっち上げにしても彼は、人類の敵呼ばわりされるハメになる。ただし筆者にもよく分かるが、何でもない人間よりは『人類の兇悪なる敵』の方がよっぽどカッコいい、という感じ方もある。
単にあるというか、大ありだ。ご存じのようにケンヂくん『もまた』、幼時のお遊びで、『いかにして人類を破滅に追い込むか?』を、大喜びで考案していたのでもあり。根っからの正義漢というわけはぜんぜんなく、ヒーローと悪のボスが入れ替わり自由な世界のお遊び少年という性格は、ケンヂくんにもその敵手にも、まったく等しくあるのだった。

で、この後はちょっと(かなり?)ネタバレっぽいことを書く感じなので、未読の皆さまは、ぜひご注意されたい。

その『人類の敵呼ばわり』の時代をずっと寝てすごしたようなケンヂくんが、やがて荒廃しきった世界に復活。そこで彼は、ロックスター兼救世主っぽい存在になり上がる。
が、そこまでに才能のなさがさんざんアピールされていたようなケンヂが、どうしてそこで老いぼれてスターになってしまうのか? ここを筆者は、大いにふしぎと感じた。
そういえば、ケンヂが寝ていた時代のエピソード。彼の残したテープを聞いて、『こんなんじゃぜんぜん』と、元ディスコクイーンのお婆さんが、タコを料理しながらダメを出す。そこまでをすなおに見てきたつもりの筆者は、ごく自然と、そのご発言に共感できたのだったが。

で、説得力があるかどうかは別として、『あれごときがなぜスターに?』という個所に、『理由』のようなものはある。
なぜって疫病の大流行のせいで、他のもっとまともなミュージシャンたちが、みんな死んでしまったから(!)。だからその疫病という要素は、まったくむだなくストーリーに寄与していると言える。目的論的に、ということばを使いたくなるまでに。

それからさいご、悪の首魁らしかった人の退治がすんで。晴れてケンヂくんは、30年くらいごしの恋を実らせる。念願のロックスターにもなれた。あとおまけとして、何か唐突に出てきた感じの幼時のトラウマを、どうにか解消することもできた。
で、その『幼時のトラウマの解消』の手段があまりにもバーチャルだったので、筆者はびっくりしながら苦笑したが。だがしかし、いまはそこにはつっこまないことにして。

と、見てくれば、もはや筆者の申し上げたいことは、賢明なる諸姉兄にはお見通しであろうかと。
つまりこの「20世紀少年」のお話は、細部をとばしてその根幹のところを見れば、“すべて”がケンヂくんの思うつぼなのだ。ゆえに、はっきり言うなら『“夢”なのだ』、と申し上げたいのだ。

フロイト「夢判断」(1900)にいわく、『夢は願望充足である』。これは、必ず妥当すべき正しいテーゼだ。ただし、『いろんなおかしをおなかいっぱい食べる』とか、『美女(ら)を相手にやりたいほうだい』とか、そのようにストレートな夢を、まともな大人らはみない。
そうじゃなく、いろいろにごまかしながら願望充足を実現するのが大人のやり口なのだ。cf. フロイト『イルマの注射の夢』。かつ、主体が充足したい願望はしばしば抑圧されたものなので、そこでお話と表現はひねりにひねられる。そうなので主体は、夢をみて『願望充足』というところを自覚できない。
つまり、自分の考えたお話の≪意味≫を、自分が意識できない。その意味を知り、そのお話を愉しんでいるのは≪無意識の主体≫だ。

だから、われわれが見てきた「20世紀少年」の壮大なストーリー。それについて、むざんに言いきってしまえば、『ロックスターになる』・『正義のヒーローとして活躍し崇拝される』・『あの娘とハッピーに結ばれる』、少なくともこの3項目の願望を充足すべく、その結末に向かって逆算しつつ、ケンヂくんがアイディアをこらしてひねくり出したもの、そのようにわれわれは受けとってよい。
あとおまけとして、とってつけた感じの『幼時のトラウマの解消』。作中でケンヂくんは、それをバーチャルでイージーに解決しているわけだが。そしてこの『バーチャルで解決』という方法を、われわれは今作の全編にわたるもの、と受けとってもよいわけだ。

よって筆者の知っている、「20世紀少年」の真の結末はこうだ。そうしてすっかり幸せになっちゃったケンヂくんの肩を、誰かが叩く。
…『ちょっと店長、何カウンターで居眠りしてるんですか!』。その怒鳴り声で目ざめると、そこはおなじみのコンビニで、目の前には例の怖い営業マンがいる。そうしてケンヂくんは、おなじみのまったくつまらない日常に復帰する。
そういうわけだが、しかし。ルイス・キャロル「アリス」シリーズの描いている結末たちは、今作においてはさわやかに省略されている。

そして、ケンヂくんに負けず劣らずのつまらない生活を送るわれわれもまた、それぞれの『ここ』で目ざめる。というところで筆者が思ったのは、施川ユウキ先生が示された、『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』というテーゼなのだった(*)。
そしてそういう意味では、≪アリス≫だってほんとうに目ざめたのではない。目ざめているのは、彼たちではない、われわれだ。

と、そんな見方がすべてとも申し上げないが。しかしそのように読める、ということが否定されそうな気も、まったくしない。
かつ、さっきわれわれが『とばした細部』こそが面白いのだとは、言うまでもない。この作品は、面白い。なお関連記事には、今記事とはまた少々異なった見方が出ているので、ぜひご参照をお願いしたい(*)。いまはこのくらいで。

2010/03/02

藤波俊彦「江戸前・あ・めーりかん」 - スカトロとセクハラの堕地獄は、『いや~ん』

 
参考リンク:Wikipedia「藤波俊彦」

Mid 1990'sのスピリッツ掲載のギャグまんがで、この作者の作品系列の原点にありそうな創作。で、これは、『スピリッツ UNKO-DAISUKI コミックス』(全2巻)という異常な叢書名で刊行されており。
…その作品内容がウンコまみれなだけでは、誰かが満足できなかったらしい。かつ、これの第2巻がめっからなくて1年半くらい捜していたような気がするが、買えてみたら『何これ…』と感じたことも、別に隠す気はない。

で、これをどのように見るか、なんて視点を外して、『客観的』にどのようなことが、アメコミを模した濃ゅすぎな絵柄で描かれているかを申せば。
なにわの短大を出た後、特に目的もなく東京へやってきたヒロイン≪音子(おとこ)≫は、イトコの≪のりあき≫が管理するアパート『飴痢館(あめりかん)』へと下宿することに。すると玄関に彼女を迎えたのりあきは、アメコミのヒーロー風のマスクをつけたマッチョマン…というだけでもびっくりだが。
しかもよく見ればその服装が、名前の入った白ブリーフいっちょに、家の中でもブーツ着用。さらにその頭髪のあるべき部分に、要するに頭のてっぺんに、とぐろ条のウンコらしきモノが乗っかッている…というたいへんなしろものだった。
そして音子が『音子です』と自己紹介すれば、『オトコだとー!?』と叫んでのりあきは、何かを確認すべく彼女の胸をわしづかみにするのだった(第1巻, p.8)。

さァ~てこの、『音子です→オトコだとォ!?→パイづかみ』、というセクハラ3段活用のシーケンスは今作にやたら頻出するものなので、憶えとく必要がある。いや…ないな…。

ここまで書いたらもう十分なような気もしてきたが、もうちょっとご紹介しとこうか。これに続いても常人ならざるキャラクターらが続々と登場し、われらのヒロインはセクハラとスカトロとイカモノ喰いの堕地獄を味わいまくる…というのが今作の『ストーリー』、というか作品の骨子だが。
そしてそれらの異常さを音子が指摘すると、のりあきたちは逆に得意げに、『コレが 江戸前でース』、『「江戸っ子気質」 ってやつでース』…などと言い張りくさるのだった。
いやはやだぜ…。いま見直してみて、今作の内容をへんに詳細に書いとくと、無実の筆者が社会的なアレをこうむりそうな気がしてきた。

じゃまあ、いくぶんでもあたりさわりなさそうな話で〆れば。物語のテンポがそんなに上がってないときにへんなものが出てくると、真っ白な背景の手前で音子が状況に対してヒキの表情で、モノローグとして『いやーん』と言う…この場面が好きだ。
さいしょ彼女が『飴痢館』の異様なる外観を見て、『いやーん ボロぉ…』と言った、それを皮切りに。そして彼女ののりあきへの第一印象がまた、『いやーん 何こいつぅ…?』なのだった。
この、音子が『いやーん』…とつぶやいて展開のテンポが落ちる、その局面がまるで、ハードトランスの楽曲のなかばのおきまりのブレイクのようで、みょうにきもちがよい。これがなかったら、いくらなんでも今作は≪狂気≫しかない作品になりすぎでは、と。

と、ここまでを昨2009年の夏に書いていたのだが、いま少し補足。あまり筆者の得意な見方ではないが、今作は自称の江戸っ子らがなにわのギャルを凌辱しまくるようなお話であるとは見れる。どういうわけだか江戸方面から見て、なにわは『正気』と『美』とのありどころだ。そしてそれを、江戸っ子のわれわれが収奪したいのだ。
これってあれですか、ポスト・コロニアリズム的な読解が求められるところですか? けれどもそのような読み方は、オレじゃない方におまかせしたい。

それと、もうひとつ。むかしの筆者の勤務先のお客さまで、『芝区』出身のホンモノの江戸っ子さまがおわした(戦前の東京には『芝区』があったらしい)。ただこのヒトが、『オレは江戸っ子だから!』とそればっかしうるさくって、同僚たちの評判はよろしくなかった。
で、あるとき、この方が『オレは江戸っ子だから気が短けェんだ!』と言いつのられるので、『江戸っ子だから気が短いとは、それはどうして自慢になるのですか?』と、よけいなことを言って相手をへこませてしまったことは後悔している。ったく、江戸っ子なんてそんなもんなのかね…。

2010/01/18

伊藤潤二「ギョ」 - 彼氏と彼女の、事情と情事?

 
参考リンク:Wikipedia「伊藤潤二」

ホラーまんがの巨匠による一編。どういうお話かといえば、もうとにかく『こわい』! 読後感というにも、『こわい、こわい!』とだけ言ってすましたい気が満々だが。
けれど読んでから数日後に、『ひょっとしたらこういうお話なのかなぁ』…という1個の思いつきが生じたので、備忘がてらにここへ書いておこうかと。

このお話はヒーローの≪忠クン≫とヒロイン≪華織≫のカップルが、沖縄の別荘(忠クンのおじの所有物)に遊びに来ているところから始まる。忠クンはごくふつうの青年だけど、華織はひじょうに美人で、そして過度ぎみな潔癖症だ。
その潔癖症というところから痴話げんかになった2人、もめているところへひじょうに怪しい生物が現れる。魚の体に節足動物の脚(ただし4本)が生えたようなその生き物は、やたら素早く走り回りながら、その脚の先の鋭いツメで人を襲う。しかもその体の開口部からは常に、耐えがたい腐臭のガスを吐き出している。

これが1匹出たくらいならまだよかったが、やがてその大群が沖縄に上陸し、さらには東京にも出現して大暴れ。しかもその≪歩行魚≫ら(の一部)は、忠クンと華織を意図的に追い廻しているような感じも(!)。
そして忠クンは捕獲した歩行魚の1匹を、かれのおじである科学者≪小柳≫に見てもらう。ふんいきがいきなりマッド・サイエンティスト風な小柳は、美貌の女性助手≪芳山≫と2人で彼の研究所を営んでいる。
いろいろと調べたあげく小柳は歩行魚の正体は、太平洋戦争中に小柳の父が開発した生物兵器なのでは…と言い出す。その仕組みはどうかというと、まずは謎の細菌が生物を侵してやがては死なせ、死体から腐敗ガスを発生させる。それを運んで走り廻る脚は生物にくっついた機械であり、死体の発する腐敗ガスを動力に動いているらしい、というのだ。
(そして脚部の『機械』は、その運んでいる死体が腐り果てて崩壊してしまうと、新しい死体に取りついて再び行進を始める。このふしぎな『機械』というものがあまりにもふしぎだが、『それは実は人工物ではないのかも?』…という推測が、作品の結末近くで提示される)

で、何と、ヒロインの華織がその細菌に侵されてしまう。やがてその体はぶくぶくとみにくくふくれ上がり、皮膚がくずれボコボコのできものが生じ、そして息をするたびに腐臭を吐き出す。
これを悲観して首吊り自殺をはかった華織を背負い、忠クンは歩行魚らの襲撃をかわしながら小柳研究所に運び込んで、彼女の後を託す。そして歩行魚の猛威によって廃墟と化した東京、そのどこかで意識を失ってしまった忠クンが、次に目醒めると…!?(このあたりで、全2巻の第1巻が終わり)

といったような、独断的かつ強力でグロテスクがものすごいホラーまんがであると、今作「ギョ」を形容できる。まったくもって、こわいにもほどがある。
だが、これを読んでから数日後、筆者はおかしいことを思いついたのだった。『意外とこのストーリーは、ひそやかにも“愛と欲望の物語”になっているのではなかろうか?』…と。

さいしょ沖縄の別荘の場面で忠クンは、捕まえた1匹の歩行魚を、ビニールのゴミ袋に入れて保存しようとする(…科学的な大発見かも、と考えて)。しかし華織はそれが放っている悪臭にたまりかね、『遠くへ捨ててきて!』と叫ぶ。と、そこで、何とビニール袋に入ったままの歩行魚がぷかぷかと空中を浮遊しながら、2人に襲いかかるのだ。
それを何とか追い払って、ともかくも東京に戻った2人。するとビックリなことに袋入りの歩行魚は、東京にまで2人を追ってきて(!)、またも彼らに襲いかかるのだ。そうしてやっと力つきたその歩行魚の死体を持って、2人は小柳研究所に向かうのだが…。

さてこの、『ぷかぷかと浮いている袋入りの“もの”が、若い2人を追っかけてくる』…ということは、いったい≪何≫かというと。この『袋入りの“もの”は、≪子宮とその中の胎児≫ということを表しているのでは?』と、筆者は考えたのだ。

どこの誰がどう見ても思うだろうこととして、「ギョ」という題名のついたこの作品は、まさしく『“悪夢”的』だ。そしてそこから一歩進んで(試みに)、これを1つの『悪夢』として眺めても?…ということを、いま筆者は提案している。
その『悪夢』を見ている≪主体≫をヒーローの忠クンに等しいものと考えると、このお話は、彼の恋人であり同棲の相手である華織の『妊娠の可能性』という≪不安≫を、まず表しているのでは…と感じられるのだった。

そして。お話の途中であっさりとみにくい死体になってしまった(!)華織だが、ふしぎにその後のストーリーもまた、忠クンが彼女を追い求める、というモチーフを中心に展開するのだ。
以下はネタバレになってしまうが、あえて書いておけば。瀕死の華織を預かった小柳は彼女を病院に搬送したりはせず、やがて息絶えた彼女を何と(非常識にも?)、彼が独自に作った『機械』の動力源とする。そのふざけた所業を忠クンは怒り、彼女を『機械』から解放しようとする。すると『それ』は暴れ出し、研究所から逃げ出してしまう。そのはずみで、小柳も致命的な重傷を負う。
華織の死体を乗せた『それ』を追いかけて忠クンは、きてれつきわまるサーカス小屋にたどりつく。やがて見世物として華織がステージ上に引き出されるが、しかし『それ』は再び暴れ出し、汚物を噴き出して人々を威嚇しながら、サーカス小屋からも逃げ出してしまう。

やっとのことで華織をつかまえてその『機械』のスイッチを切った忠クンは、『それ』を再び研究所まで運んでくる。芳山1人が彼らを迎えて、華織を機械から降ろそうとする。ところがそこへ、死んだ小柳が飛行船つきの自作の『機械』に乗って、空中から彼らに襲いかかる。
一方の華織もまた、死んでいるはずなのにふしぎだが、自分の手で『機械』のスイッチをONにして暴れ出す。…という、この小柳と華織の行動はまるで、忠クンと芳山との過剰な接近を怪しみ、それに対して怒っているようにも思える。
この騒ぎのどさくさに、小柳は芳山をつかまえて、そのまま地平線の向こうへ飛んでいってしまう。追って華織は『機械』の群れに襲われて、どこかへと連れ去られてしまう。その別れ際、死んでいるはずの華織の手が、自分を求めてさしのべられるのを見たように、忠クンは考える。

やがて華織を探し求める忠クンは河岸にたどりつき、土手の上から河原の方に、グロテスクというにもほどがある『機械』たちの大行進を眺める。するといつのまにか若者たちが並んでそれを眺めており、ちょっと説明っぽいせりふを吐いた後、『僕たちは大学で、この災厄の解決のための研究を進めている』のようなことを言う。
忠クンもそれへの協力を求められ、そして仲間に入る。そうして彼らが土手の上を歩いていると、道すがら華織の焼死体らしきものが見つかる。そこで忠クンは仲間たちを先に行かせ、その死体の横に座って彼女に語りかけながら、土手の上からしばし、荒れはてた都市の景色を眺める。
というさいごの場面で忠クンが黒焦げの華織の死体に言うのは、『やっと…臭いから解放されたね…』というせりふだ(第2巻, p.165)。潔癖症で人一倍臭いに敏感だった華織が、自らものすごい悪臭ガスを放つ死体になってしまったことを、忠クンは哀れに思って気にしていたのだった。

ここまでを見て…あまりスッキリしたことも言えないが。まずさいしょの沖縄での場面ではっきりと描かれた、華織の過度ぎみな潔癖症、それを忠クンは少々ならずうとましく感じている…ということがある。
ということが『逆に』、汚辱にまみれきったこの物語のモチーフを、決定づけているように思えるのだ。つまりこのお話の中で華織が悪臭を放つ不潔でみにくい化け物になり下がり、しかもその姿を見世物としてさらされるということは、何と彼女の恋人が≪願望≫していることの一部分なのだ。

ただしふしぎだが、華織が化け物と化してから『逆に』、いっそう忠クンは彼女の忠実な恋人になるのだ。見ていて彼の献身ぶりにはひじょうに感動的なものがあると感じたが、しかしその態度は、彼女が美しく健康だったころには『逆に』、彼にはできなかったことなのだ。
そしておかしいことを申すようだが、筆者にはそのような忠クンのあまのじゃく心理(?)が、ちょっと分かるような気がするのだった。退廃芸術の方面に『最良の恋人は、死んだ恋人である』のような美学があるかと思うが、まあそんな感じで…?
かつ、生きていた時にさんざん忠クンを振り廻した華織は、死んでからもまったく大人しくしていない。同じように、いやむしろいっそう忠クンに世話を焼かせる。とはどういうことかと考えると、つまりびっくりだが、華織の2つの状態(生/死)は、主体の想念の中で等価なのだ。生きている状態の華織に対応する≪無意識≫のイメージが、あの奇怪な化け物の華織だということだ。

そして芳山の登場というところにまた何らかの意味があり、華織は生前から、彼女と忠クンとの間を疑っている。その一方のわれらのヒーローの側には『自覚的には』、芳山に対してそのような感情はないらしいが…。
けれども第2のヒロインとして芳山は、落ち着きある大人のレディとして、まあ子どもっぽいとも形容可能な華織への対立軸をなしていることは明らかだ。しかし忠クンがどうともせぬ間に、死せる小柳が、彼女をかっさらってしまう(…はっきりしないが以前から、小柳と芳山との間はまんざらでもなかったもよう)。
という物語の展開は、≪主体≫から芳山(…および、そのような女性、華織でない女性)への、へんな野心は禁じられている、という、どこからかのメッセージを表しているように思えるのだった。
かつ強引ぎみな読みをあえて行えば、小柳と芳山のペアは、忠クンの両親の『代理』として、この物語に出ているような気もする。その代わりにと言うのも何だが、忠クンの両親はどこかに健在なようなのに、物語の中にはまったく登場しない。彼の両親についてその消息を心配しているのは、小柳ただ1人だけだ。

以上、あまりすっきりとした分析にはなっていないようだが、トータル今作の内容を『忠クンが見ている悪夢』として見ると。この主体は、わりと(かなり?)扱いにくい恋人である華織と自分との関係を、夢の中で再考しているのかな…という気がするのだった。
で、どういう結論が出ているかということは、いちおうご紹介した通りだ。いかなる状態にあっても、華織はいつも彼を求めており、そして忠クンは彼女を思いやっている、ということを、彼の≪無意識≫の認識は示したのだ(…とは異なることもまた述べられそうだが、いまは前向きな見方を示しておく)。
だから筆者は、やがて忠クンが目醒めるとそこはまだ沖縄の別荘で。そして彼を追って目醒めた華織に、忠クンはやさしく何かを語りかける…といったハッピーエンドを今作に、頭の中でかってに付け加えておこうかと思う。

2010/01/17

玉井雪雄「OMEGA TRIBE」 - オイディプスは回帰し、意味は享楽へと還る(予定)

 
参考リンク:Wikipedia「OMEGA TRIBE」

  【Ch.1】 俺は、母を犯し、父を殺す(つもり)

≪精神分析≫というものに対しての、こういう見方がある。すなわち、『“すべて”の問題を、“パパ-ママ-ボク”の三者関係トライアングルの問題へと還元しすぎ』、だとか。筆者はあんまり知らないが、世にも名高いドゥルーズ+ガタリ「アンチ・オイディプス」という書物の主張が、ほぼそういう感じらしい。
という話を、ちょっと頭のすみにでも置いた上で、この堕文の主題たる玉井雪雄「OMEGA TRIBE(オメガ・トライブ)」というまんが作品を眺めれば? その訴えるところは「アンチ・オイディプス」とは正反対に、『“すべて”の問題の根源は、親子の問題である』というところかも…という気がしてくるのだった。よってこの作品に対し、「オイディプス・リターンズ」、「バック・トゥ・オイディプス」、といった副題を献上してみるのも、頭の中の自由というものだ。

とまで申してから、今作こと「OMEGA TRIBE」のあらましをざっとご紹介。まず発端、アフリカの奥地で遭難して死にかけた日本の少年が、神とも悪魔ともつかぬ怪しい人物≪Will≫によって、次世代の人類へと≪進化≫させられる。ヒーロー以外には不可視な『怪しい人物』の正体は、異種間の遺伝子の移動を媒介するウイルスだ。
これによってわれらのヒーローたる少年は、単に一種のエスパーとして蘇生したのみか、新人類の仲間を増やしつつ現生人類を滅亡に導く、という義務を負ってしまう。しかもすでに現れている新人類は、彼だけではない。よってわれらのヒーローは、他の系統の新人類たちがひそかに繰り広げている主導権抗争にも、巻き込まれてしまうのだった。

というわけで本編は、『超能力バトル』と『ポリティカルアクション』とをまたにかけたような描写を中心に展開する。…のだが筆者には、今作の決定的な『主題』は≪親-と-子≫、その葛藤、というところかと読める。
何しろまず、ヒーローたる≪吾妻晴(あずま・はる)クン≫が冒頭で瀕死の大ピンチに陥った理由が、『実の父によって殺されかけて』、というものだ(!)。それも、創世記にある『アブラハム×イサク』のような崇高味あるお話ではない。こともあろうに晴クンの父は、『金に困ったので』という理由にて、いらない子であるひきこもりの晴クンを使った保険金サギをもくろみ、わざわざアフリカ奥地まで連れ出して彼を殺そうとしたのだった。

これを筆頭に「OMEGA TRIBE」の主要な登場人物らはいちように、『親への恨み』というものをかかえている。追って晴クンの最大のパートナーとなる暴走族のリーダー≪秋一≫は、母に愛されない子として育ち、彼の想念の中では『自分は母を殺した人間だ』と思い込んでいる。アメリカ新人類のリーダー≪イブ≫は孤児で、幼いころに養父から性的虐待を受けていた。中国新人類から寝返って晴クンらにくみする≪水華≫は、中国の闇のボスである実父のあんまりな冷酷非道さを耐ええない。そして中東新人類の≪ハキム王子≫は、愛なくして彼を産んだ母親への両面感情に苦しんでおり…等々々々。

この作中で≪Will≫を名のる怪しい人物(=ウイルス)は、『おまえの絶望の深さを見せてみろ』、的なことをしばしば言う。現にあるこの世界をどれだけ強く激しく憎んでいるか、それが十分でなければ、新人類として生まれ変わることができないという。
そうして作中人物らが自分の≪絶望≫を掘り下げていくと、その核にあるのが、さきから述べている親への恨みなのだ。それぞれの人物らを『そのようなもの』にあらしめている決定的な≪外傷≫は、それなのだ。そうでない例として目立つのは1件だけ、イタリア新人類の≪ルチアーニ≫、彼の絶望の核は第二次大戦中の収容所体験だ。

で、見ておれば、作中でその『親への恨み』という≪絶望≫をさらけ出した人物らは、いずれは晴クンにくみするようになる(ラスト近くに重大な例外もありつつ)。またサイドストーリーにて描かれた自衛隊員父子の葛藤については、父親が晴クンにくみし息子が敵に廻るのだが、父は親としての自分を深く≪絶望≫してるに対し、息子の方は父への甘えを棄て切れていない…という違いがそれらをさせているのかと。
ただしこの甘ちゃんな息子隊員にしても、彼にその≪行為≫をさせている要因は『十分に愛してくれなかった』という『親への恨み』だ…という形式で、晴クンと一致している。異なるのは、その『十分には得られなかった』と彼が感じている父からの愛を、いまからでも取り戻せるはず…と信じていることだ。ゆえにこの人物には、≪絶望≫が乏しい。それこれにより彼は、晴クンへの対立軸の1つとしてどうにか機能しつつも、小物に終わる。

そして。そうして晴クン(ら)が自分らを組織化しつつ、当面の目標として実行しようとするプロジェクトは、クーデターによる日本の権力掌握だ。
この『クーデター』という語が登場するのは今作の第4巻めだが、全25巻と数えられる今作の以後ほとんどは、その目標の追求を描くことにあてられている。一見して異なることが描かれていても、それらはクーデター実行にいたるための迂回かのように読める。逆に申せば晴クン(ら)は物語の中で、クーデターを成功させたら次にどうするか…までは、あまり考えていないようす。

今作中でさいしょに『クーデター』という語を発したイブは、彼女のアジトへと強制的にご招待された晴クンに向かい、『新人類たちの権力ゲームに参加する気なら、最小限そのくらいは自力で達成してからネ』と宣告する。しかし晴クンの反応がパッとしないので、『さもなくばアメリカがしかけてアメリカの都合いいように、日本の政権を転覆する』のように言って、彼への挑撥を重ねる。この時点でのイブの肩書きは、何とファーストレディ=アメリカ大統領夫人だ(!)。よって、『力こそ正義なり』的な論法と恫喝外交はお手のもの(!?)。
その他もろもろ、その場にてさんざんなる屈辱をこうむった末に、晴クンはイブの挑撥を受けて立つ。ただし、向こうの思惑に乗ったのではないというつもりだ。言わば『ひきこもりの代表』として彼は、アメリカが代表している『強者の論理』の下で苦しんでいる人々を解放するために、クーデターを実行してやると、宣言したのだった。
…という、晴クンの『回心』にもとづくおしゃべりはひじょうに心にふれるものだが、しかしその場でイブが『面白いけど意味不明』と評したように支離滅裂ぎみ。その中に論理の飛躍がない、とはとても思えない。よって、うまくは要約しきれないことを申し開きしつつ。

そうしてイブのもとからの帰り際、人知れず彼にくっついているWillに向かって晴クンは、ひそやかに強力にいわく…。

 『俺は、
 俺を産み捨てた
 母{日本}を犯し、
 父{アメリカ}を殺す。』(第4巻, p.87。{}内はルビ)

このフレーズはもちろん、クーデターの実行によってそれを達成にかかる…という意味かと読んでおくが。しかし何をさしてのことであれ、これぞ断固たる≪オイディプス宣言≫としか受けとりようがない。
そしてこの場面は、古い洋楽ロックについて多少とも明るい人々の脳裡に『ああ、ドアーズのジ・エンドか』…という感想を一律に呼び起こしつつ、今作の終盤、その楽曲の訳詞が延々と引用される大山場へ向けての予告、言わば予定調和へのレールの敷設、かとも受けとめられる。
かくて≪覚悟完了≫をキメたところから、晴クンには気弱なお坊ちゃんという性格が失くなり、そしてストーリーの『本編』的な部分が、やっとここから始まるのだった。

ところで≪エディプス・コンプレックス≫という概念についてだが、『正常な人間、誰しもそれはある(必ずそこを経過する)』…と、精神分析は主張する。それがひじょうにないような主体の方が、よっぽどひどく病理的かと考えられる。
しかし常人らにおいて、じっさいに父を殺す、母を犯すということは『ない』。そうしたいけどそうしない、何かその代わりになるようなことらをする、と経過するのが常人の道すじだ。
すると、『本当にやりたいことをやらない』という選択がなされてこそ、ヒトの生きる道はやっと開かれる(!)。このことを精神分析の用語で、≪象徴的去勢≫と呼ぶ。“それそのもの”を実行しちゃったら、まさしく『ジ・エンド』…というところで、ドアーズの唄はまったくもって正しい。
またその一方、ソポクレスの描いた≪オイディプス王≫は、父とは知らずに殺し、母とは知らずに交わってしまったものを、『それをやりたい!』的な概念の代名詞にされては、少々とばっちり気味のようだが。けれども精神分析チックな理屈のいやなところで、『じっさいのところ、それをやってしまった理由は“やりたかったから”に相違ない』と解釈されうる。

  【Ch.2】 エディプス期の遅れすぎな到来

とまでを見てから「OMEGA TRIBE」の話に戻ると、晴クンらがやろうとしているクーデターは、『ジ・エンド』を期してのものなのか、そうでなくもっと前向きなものなのか…ということが問題になってくる気がする。けれどもそこは、けっきょく大してハッキリはしていないこと、かと読めた。
彼たちは『クーデターの達成』、せめてその実行、ということに向かってまっしぐらに動いており、その後はどうするということを、深く考えているようすがない。そのようなプランのなさは社会的には大迷惑な感じだが、けれどお話の流れの中では、一種の心理的な自然さを有する。
なぜならば晴クンらの実行しようとしているクーデターは、発達上のプロセスで幼児が初めて親に反抗すること、それと心理的に等価なイベントだからだ。『反抗してどうなる?』ということをチャンと考えている幼児などいないように、晴クンたちもそれを考えていないのだ。逆に申せば晴クンとその軍団の中核は、幼児の時代にふつうの反抗をしなかった、できなかった…という連中なのだ。

かって精神分析の描いた『ノーマルな発達プロセス』という絵図があり、すなわち幼児らはいっときを変態性欲のあくなき追求に捧げ(=多形倒錯)、けれどもやがて、その性欲の発露は≪父≫的な存在からの制止に遭う。ここに≪エディプス期≫というものが始まるが(めやす的には3~5歳ごろ)、やがて幼児らは『父を殺し母を犯す』ということを断念して、性欲の追求自体が≪抑圧≫される。ここに≪潜在期≫が始まり、性欲自体がないかのようにも見える少年少女、というその状態が、思春期の到来まで続く…という予定。
けれどいまどきの『この社会』に、このような規範的な発達プロセスというものが『ない』。…とまで断言するのを控えれば、それがめっきり乏しい。

まずは、≪潜在期≫における『性欲の抑圧』ということだが。フロイトはそれを健全な発達には必須な過程と言い、そしてよからぬ大人等の悪影響で、思春期前の早すぎる『春のめざめ』が生じることを懸念していた。しかしその懸念を、メディア等による性的情報のはんらんがあっさりと実現してくれた。
そういえば筆者にしても、「ハレンチ学園」や「がきデカ」を超・熱読しながら育ってしまった人間なので…。つまり思春期前から過剰にエッチな子どもだったので、『現代社会のひずみの犠牲者』を自認するにやぶさかでない(!?)。…ただし別のところにてフロイトは、『この現代の“性教育”とやらは偽善的すぎる!』のようにも述べておられつつ。
という≪潜在期≫の消失を追って、さらに、≪エディプス期≫の消失ということが起こっていると考えられる。3~5歳といった時期の幼児において、いまや『適切な反抗』がなされにくいのはなぜなのか、少子化の影響などありそうな気もするが、詳しいところは育児や教育の専門家らにたずねていただきたい。ともあれ、現にわれわれの目の前に、多数の≪晴クン≫たちがいるのだ。すなわち、

 『俺は、俺を産み捨てた母を犯し、父を殺す。』

この発言が出たところで初めて彼の、いびつなるエディプス期が始まっているのだ(…そこでの年齢は、推定17歳くらい?)。かくて潜在期の消失は『萌えオタ』や『変態紳士』たちの登場を呼び、またエディプス期の到来の著しい遅延は、家庭内暴力やひきこもりの発生を促す。つまりこう言うとあんまりなようだが、晴クンらが実行を期しているクーデターは、大がかりすぎる家庭内暴力だと言ってもよさげ。

…なお、付言して。エディプス期や潜在期に関し、その消失や時期の乱れの影響は、女子らには相対的に小さく、男子らには大だ、と見ておく。
なぜ女子らへの影響が小かと申すと、さいしょから女子らにおいては男子らに比し、それらの発現や効果が劇的でも局時的でもないからだ。それはまたなぜか…というとこの場では語りきれないが、にしても示した見方は、われわれの見ている『この社会』の現況に、そこそこマッチしているのでは?

そして、『家庭内暴力』…この場合だと子から親への暴力は、けっしてよくはないことではあろうけど。だがしかし、『何の意味もない蛮行』でも、けっしてない。ともかくもそれはその家庭の中に、何らかの小さからぬ問題があることを示す指標たりうる。
「OMEGA TRIBE」という作品にて晴クンが言う、『矛盾』。『この世界』、『この社会』、およびその社会の末端の単位たる『家庭』らの中に、無数に存在している矛盾。それらのあつれきを一身に受けとめるようなはめに陥って、そして黙って自殺していく子どもたちがいる。それに対する一方の、無意味げな暴力をふるうことやひきこもる≪行為≫らは、『しかし死にたくはない!』という子どもたちの意思表示に他ならない。
そしてその『しかし死にたくはない!』という無言の叫びこそが晴クンを、アフリカ奥地での絶望もきわまった大ピンチから、この世での活動に呼び戻したのだ。
かつ、一見まともそうな親たちでさえも、その子らに『死の寸前』的な矛盾と苦痛を背負わせている場合があることを考えると、まったくまともでない父によって殺されかけた晴クンの受難は、それらの苦痛を最大限に先鋭化させたものかと受けとれる。ゆえにきわまったる≪絶望≫によって、われらのヒーローには新人類たる資格がある…というわけだ。

と、ここまでに『ひきこもり』という例が出ているけれど、作中ではそれを筆頭に、のけもの・はぐれ・不適応者らにこそ、次なる進化へのチャンスがある…と言われる。これは今日の進化論の、ノーマルで一般的な主張でもある。

ところで晴クンらの期するクーデターの意味あいを、『いま、親子関係を見直せ!』というメッセージのプロモーション、と言うこともできそうだ(“家庭内暴力”の意味するところも、同じでありつつ)。そうして言われた『親子関係』が通常の親子だけでなく、『パパ(米)-ママ(日)-ボク』の象徴的な三者関係でもあるとは、すでに晴クンが明言している通り(…適切かどうかはさておいて、彼によるこの見方は、社会・政治・国際関係の問題らを、例のトライアングルへと還元している。つまり、『バック・トゥ・オイディプス』的な言説)。
ただし、『それらを、“こういうふうに”見直せ』という具体性が、晴クンの側にはとりあえずない。見た目的にはキッチリと計画的だが、実質的には破れかぶれの反抗である彼たちの≪行為≫の見通しのなさを、筆者は『そんなには』、責められないわけだが…。せいぜい言えることは、『愛されなくて苦しんだ者が救われようとするならば、まずはどうにか他者(ら)を愛してみては?』…くらいだが…。

しかしその一方で、他の新人類らの側には、『“すべて”の問題の根源たる親子の問題を、生殖のスタイルの改変でスッキリ解消してしまおう』、というプランらが存在する。ここはひじょうに興味深いので見ておくと、そのプランらを粗雑にも形容してみれば、『託卵』・『分裂』・『三叉生殖』の3種類。
さいごの1つは、男女いずれかの第3者が生殖に参加する『3P婚』(!?)…というゆかいなしろものだ。これはまた、フロイトが型を作りラカンが黄金のメッキをかけた『パパ-ママ-ボク』の聖三角形のエンブレム、それに茶々をぶち込んでいびつな四角形にしてしまおうという壮挙(, 暴挙, 愚挙)なのかっ?
等々あたりの今作の展開は、SF史上初めて性とジェンダーの問題へとシリアスに取りくんだル・グインの名作「闇の左手」を、ちらりと想起させたりもしつつ。かつまた、かの世に名高き「アンチ・オイディプス」の著者らは『n個の性』という超空想的な珍説を提示したらしいが(これも一種のSF的発想?)、そこらへの皮肉っぽい言及をもおぼろげに感じつつ。

そして、ネタバレになってしまうが常識で判断しうることなので、いっそ明記しておこう。「OMEGA TRIBE」作中に描かれたこれら3つの新規なソリューションらは、1つも成功しない。そりゃふつうに常識で考えて、成功するわけがない。
そもそも『新規』とは形容できない後ろ向きな策が前2者、また、単に『新奇』な場当たりのソリューションでしかないのが後1者。つまり、生物としてのレベルで人類の『親子関係を見直す』という問題提起には、適切で有益な解決が存在しそうもない。この見通しは正しい。

またそれらの失敗を見て思い出されるのは、初対面の時点でイブが晴クンに対して、『実は本当に新しい“新人類”は、唯一あなただけ』のように、ハッキリ告げていることだ。つまり、晴クン以外の見かけ上の新人類らは“実は”、現生人類へと進化しそこねた旧人類でしかない。そんな彼らには、単独で将来的な勝利を収める見込みなど、最初から皆無だったのだ。
まったくハッキリとそれは描かれていながら、しかし作品の大部分を占める抗争の描写の長々しさとトリッキーさと激烈さに気を取られ、そんな伏線を筆者はスッキリと忘れていたのだった。これは筆者の頭がとても悪いということなのか、またはそういう風にと仕向けた構成になっているということなのか…?

そういえば『親子関係を見直す』という問題提起に関連してわれわれは、かってカンボジアのポル-ポト派の残虐非道と言うにもあまりな社会実験を見ている。かつそのモデルは、中国の文化大革命の『造反有理』。…ということばの響きはよいが、しかし『党の指導下に』子らが親らを裁くという、これまた残虐にして無謀な実践であり。
またそれらと並行し、今作「OMEGA TRIBE」にはるか先行したSFまんがの手塚治虫「火の鳥 未来編」には、文字通りの『マザー・コンピューター』が生殖と養育を専権的に実行する…などというプランの提示もあった。けれど史実にもフィクションにも、それらの制度的・技術的な『親子関係の見直し』には、ただ1コの成功例もない。唯一、『限定的には成功例なのか?』とも見られうるのは、イスラエルの『キブツ』という制度だけだ(…これについて、もちろん筆者はよく知らない。なぜなのか、現在はすたれ気味らしい)。

もう1つポイントの存在を指摘しておくと、制度的でも技術的でもない『なしくずしの変化』として現在のアメリカでは、シングルマザーの大規模な増加と、結婚・離婚の反復による家庭環境の複雑化が生じているのだとか。後者については、もとの配偶者の連れ子を連れて再婚…ということがまれでない、のような話も聞く。
とすれば。「OMEGA TRIBE」作中で『3P婚』がさいしょに発生し普及するのがアメリカなのだが、じっさい『3P婚』にも近い複雑でおかしな親子関係が、その国では、すでに発生しているではないか…という気もしてくる。そこらを見た上で今作が描かれていたと考えても、特におかしいことはなさげ。
そして、シングルマザーやマルチプル家族のもとで育った子らは、平均的な家庭の子らに比してどうなのか…特に変わりはないのか…という問いはとうぜんあるわけだが、しかしそこらの実態の追求は、他の方々におまかせしつつ。

また。一見まったく関係なさげことも付記しておくと、「OMEGA TRIBE」に現れた『3P婚』ともいうべきアイディアについて、美川べるの「青春ばくはつ劇場」という4コマのギャグ作品が、異なる切り口で描いている。
すなわち、そのシリーズのヒロインで女子高校生の≪麗≫が電器店を訪れ、『親子電話がほしいんですが』と言う。すると店員は、『こちらのは子機が5台もついて便利ですよ』と言う。
『うーん、子機はそんなにいらないです』
『ならば、こちらはいかが! 子機が1台に対して親機が3台、という画期的商品です!』
『…ふつうの親子電話をください』(「青春ばくはつ劇場」第4巻, 2009, p.61より、自由な要約)

こうしたすぐれたギャグ作品を見ていると、同じようなことを描いて≪ギャグまんが≫は4コマ1本であざやかにサッサと済まし、一方のギャグでないまんが作品らは数百数千ページをムダに…あ、いや、過剰にページ数を費やす、という事実は知れる。これすなわちフロイトが、≪機知≫という知性のスタイルを大いに賞揚しているゆえんでありつつ。

  【Ch.3】 意味=享楽、その回帰まで

かつ、『親子関係の見直し』について、とくべつによさげなソリューションは存在しない、ということに並行し。もし人類にこの先の進化があるものとしても、その方向性が、今作「OMEGA TRIBE」にも描かれた『超能力バトル』で勝てるような『能力』の獲得…だとしたら、とうぜんひじょうにおかしい。それはありえない。
つまりガチのタイマンだと人間は、ライオンにもクマにも勝てっこない。…かの範馬バキ君や、そのお父さんでない限りは(…と名前の出た「バキ」シリーズもまた、親子の葛藤をテーマに描かれた作品、つまりもう1つの『オイディプス物語』かと見ゆる)。けれどもしかし、そうかと言って、ライオンやクマの方が人間よりも進化した高等な生物だとは、誰も考えていない。

また。SF設定の『超能力』について、原始人やその前の動物らがそなえていた『第6感』の復活(?)、なんて説明も聞かれるが…。
しかし、もしも先行人類や類人猿らが持っていた『第6感』を現生人類が持っていないとすれば、それは必要でもないし特に便利でもなかったからだ。先祖のサル類が持っていて人類が持たざる、小器用な木登りの『能力』…そのあたりと選ぶところはなさげ。で、そんな要らざる特殊な『能力』らを捨て去ることこそが、つまり≪進化≫なのだ、とも言いたいところだ。

われわれこと現生人類は、服を着なければ風邪をひき、靴を履かなければろくに歩けず、武器を持たなければ草食獣とのケンカにも平気で負ける。まったくもってふしぎなほどに、ひよわな生物ではある。ところがそれらは、まさしく≪進化≫の結果としてそうなっている…ということを認める必要はある。
筆者は先日、『ナショナル・ジオグラフィック』のHPで、『人間は4万年前から靴を履いていたことが判明』(*)との記事を見た(従来の定説より、約1万年も古くから)。かってながら、これには大いにうなづけるものがある。本来は要らないものである靴というアイテムを、ただの気まぐれでわれわれの大多数がそうびしている…ということは『ない』。いやしくもホモ・サピエンスたるものが外を歩くには、基本的に靴は必要、と考えるべきだ。

そういえば今作「OMEGA TRIBE」の開巻そうそう、約3万年前に、それまで並行して存在していた人類たるネアンデルタール人らを、現生人類が『絶滅に追いやった』…という記述があり、そしてそのページの画面には、後者から前者への一方的な殺戮が描かれている。このナレーションと画面とのびみょうな乖離が、ちょっと興味をひかれるところではある。
すなわち、現生人類がネアンデルタール人らを『直接に』滅ぼしたという見方は、現在までの定説ではない。むしろその説は今後にわたり、すたれていく気配だ。
そうでなく、直接の殺し合いなどはなかったとしても、同じニッチ(生態的地位)を争う2つの種は、いずれ劣勢な一方が滅びる(永続的な共存はない)…という原則がまずありつつ。そしてネアンデルタール人が劣勢となった理由として近年言われているのは、繁殖能力の乏しさ、発話機能(=言語能力)の貧しさ、といったところ。

『(ネアンデルタール人の特徴の1つとして、)現生人類と比べ、喉の奥(上気道)が短い。このため、分節言語を発声する能力が低かった可能性が議論されている。』(Wikipedia Japanより)

おサルに言語が操れないのは、単にお脳が弱いからばかりでなく、発声器官が貧弱だから…と言われる。その逆にカラスや九官鳥らは、まったく理解していなくとも人語をマネして発声できる。人間らが≪記号≫として用いたフレーズを、九官鳥らは≪信号≫として人間らに返している、という感じもする。

で、もしも『分節言語』(=われわれの常用するふつうの言語)がなかったとすれば、彼らと現生人類との優劣は決定的で致命的だ。それがないということは、この堕文が、『ウホホッ、ムホホッホ~イッ』といったような文字列だけでビッシリと埋められており、しかもニュアンスで理解してくれ、的なことだ(!)。
もっとかわゆくネコ語で『にゃにゃにゃん、にゃあ~ん!』と書いてもいいが、ともあれ『分節言語』なしの発話では、発話者のきげんがいいとか悪いとか、その程度のことしか伝達できない。つまり、記号ならぬ信号であるしかない。いくらこれが堕文中の堕文でも、それより少しくらいは『読めそう』なものなのではと、自分では大いに自負しつつ!
見かけ上は言語活動の外側に、『指をさす』という伝達の仕方がある。だが、そんなものでも意外に高度なコミュニケーションなようで、乳児や動物(加えて、ひじょうに重い認知症の方)たちは、示された指自体を眺めるばかりだ。しょうがないので自分が顔ごとソッチを向くと、つられて彼らも同じ方を見る、ということはある。『分節言語』のない世界とは、そのような伝達しかない世界にちがいない。

それこれを考えれば、『じゃんけんぽん、アッチむいてホイ!』といった遊びを愉しめる…そんなことがすでに、われら人類の知能のすばらしさをまたく証明している、かとも見れてくる。『指さされた方を向く』という作業自体がすでに高度であるに加え、『指さされた方を、“向かない”』というそこでのルールまでも理解せねばならないのだから! ついでに申してジャンケンの『チョキ』という手つきがもうすでに、人間ならぬ動物らにはできないし…(カニさんは別にして)。
そしてゲームに失敗するものがあれば、ふつうその場の人々が笑い崩れる…それは『所定でありかつ恣意的なルールのある“遊び”』という理解がちゃんと共有されている証拠なわけで、かくて根源的に考えたら人間らの所業らは、ごくごく小さなことまでが宇宙の中に輝く奇跡、としか思えない! 「ジョジョ」シリーズの荒木飛呂彦先生ではないが、その一貫して言われる『人間讃歌』ということばが、ここらで脳裡に浮かばないわけにはいかない。『人間という生き物のすばらしさ』とは、ノーベル賞学者や五輪のメダリストら『だけ』をさして言われるのでは、けっしてない!

かつまた、『人語(=分節言語)』を解する者は、動物であれども喰ってはならない…とは、ご存じC.S.ルイス「ナルニア・サーガ」中の掟だが。逆にここまで考えてきたら、『分節言語』をまったく有しない者は人類にあらずとみて、別にどうしようとも?…という気がしてきてしまった(!)。そんなでは『現生人類によるネアンデルタール人の虐殺』という仮説に心理的な根拠(?)を与えているようだが、しかしその説には、強い根拠はないのだ。
という『根拠の薄さ』を分かった上でも強い『ヒキ』を作ろうとして、今作こと「OMEGA TRIBE」の冒頭シーンでは、ナレーションと画面の描写とのびみょうな乖離が演出されているのかも?…などとは思ったのだが。が、けれども別に、そんなげすっぽいかんぐりに固執はしない。

ところでさいご、今作のほとんどさいご近く、わりと遠めの近未来あたりのところだが…。以下のネタバレはさすがにちょっとよくないかとも思いつつ、しかし書いておけば。
いろいろあったあげく、いちどは『適応者』として地球上に、最大の勢力を誇った『3P婚』の方々。作中の用語では、『三者人(トリプル)』と呼ばれる新人類。しかし彼らは、ただ単にそこでの現況に『適応』してしまったものとしての、自分らの将来的な限界を悟る。
そして『三者人』らの代表らしき人物は、まったく何の取りえもなさそうな…何でもない凡人どころかむしろ、社会からズルズルと落伍しかけの老けぎみな日本の青年をたずね、『キミこそが次世代人類の父祖になるのだ』のように告げて彼を祝福する。
まったく何でもないということが、未来の何かであるための条件なのだ…というテーゼが、ここにて正しく確認されている。そして、ぜんぜん理解できないままにふしぎな祝福を受けてしまった青年は、それをきっかけにそこまでの彼の考えをちょっと変えて、大急ぎで病院へと向かう。
病院で待っていたのは彼の妻と、そして産まれたばかりの彼たちの子どもだ。そうして彼は、彼とその生きる衰退した日本社会が、ままならぬ失意や逆境の中にあることを認めつつも、しかしあらためて、心から、彼らの子どもの誕生を喜ぶのだ。

ここでわれわれの物語は、『いま、親子関係を見直せ!』という、さきに見た晴クンからのメッセージに戻るのだ。その、親子関係を見直す、再び正しいものとする…ということが新たな人類への道だとして、そこにいたるかんたんな近道の、生物的・技術的・制度的な方策などは1コも存在しないと、すでにわれわれには確認できた(…補助的に有効な方策、くらいはあろうけど)。
よって親子関係をどうにかするには、単に人たるものたちのそれぞれが、正しく望ましき親子関係を作るために、心からつとめるしかない。何せ『まず』その努力がなければ、いっさい何もありえないのだ。というところに、必然性あるものとしての≪オイディプス≫が回帰する。正しい親子関係の中には、いつくしみだけでなく、葛藤もまた必然的にあろう。

などと申し上げている筆者は今作こと「OMEGA TRIBE」の、テーマ性のような部分…そこらへと大いに共感している感じだが。いやじっさい、そうなのだが…。
けれどもしかし、今作の大部分の中身と言える『超能力バトル』と『ポリティカル・アクション』の要素…そこらに対してはそんなにひかれるところがなかったとも、正直に白状いたす。それらは一流のプロのペンによって、十分に面白そうに描かれたページらではありながら。
とは申しても、そこらを単に切って捨てては『物語』がなくなってしまうので、それではまったく何も成り立たないが…。にしても結びふきんのあまりな正しさを見た上では、そこまでさんざんに描写された『超能力』にも『クーデター』にも、それぞれ自体としての大した≪意味≫はなかったではないか、とも感じないわけにはいかない。

と、≪意味≫という語が出たところで1つ申して、この堕文を終わりたい。われわれが今作の決定的な場面と見るところ、『俺は、俺を産み捨てた母を犯し、父を殺す』というあのせりふがポツリと出たシーン。そのすぐ直後に晴クンはキリリと意を決し、渋谷街頭にあふれる群集に向かって、声も限りの大音声で、次のように宣言する。

 『俺が、
 お前らに、
 快楽{意味}を、
 与えてやる。』(「OMEGA TRIBE」第4巻, p.92-93, {}内はルビ)

ここに出た、『快楽』と書いて『意味』と読ませる…という晴クンの言語センスは、まったくもっての精神分析に対する挑撥、それ以外の何でもないな…と、ここで筆者はかってきわまる感心をいたしたのだった。ラカン一流の超高等なる理論によれば、フランス語の『ジュイッサンス(享楽)』という語は『ジュ・ウィ・サンス(私は意味を聞く)』、と読み換えられるのだ(…だじゃれ!)。かつラカン用語の≪享楽≫は一般にはない概念だけど、この場面にて晴クンの言った『快楽』は、それへと言い換えられうる。
…けれども。追って晴クンが、たとえば筆者のような凡人らに『享楽=意味』を与えてくれようとして企画したこと…後に晴クンら一味が『祭り』と呼んだもの…つまり、彼らの目論んだクーデター。それが作中の一般人らにとっての『祭り』として機能し彼らにおいての『享楽=意味』が実現されたようすは、ほぼないのだった。これらを見ていた筆者においても、それを受けとった感じがいまいちしない。

【付記】 2010/02/04。文の中盤で、手塚治虫「火の鳥 未来編」についてふれているが、このたびそれを再読してみたら、筆者の記憶とはだいぶ異なるお話だった…ぎゃふん! ではあるけれど、『コンピューター制御の育児』への懐疑を手塚がしつように繰り返し描いている、という事実はある。
また文中、≪オイディプス≫と書いている一方で『“エディプス”・コンプレックス』とも書いている。これは意図的に、一般語と分析用語とで書き分けている。後者の表記は方針として、シェママ他編「新版 精神分析事典」(訳・小出他, 2002, 弘文堂)に従う。