2010/12/04

tenkla「ヨメイロちょいす」 - 『くぱぁ』の意味するところの両義性

tenkla「ヨメイロちょいす」第2巻
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「ヨメイロちょいす」第2巻
 
関連記事:tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

関連記事の続きで「ヨメイロちょいす」について、もうちょっと作品の内容よりなお話を。

1. まさに『自分』が作られようとしている瞬間

『ギャグとは“必ず”ショッキングなもの』、というわれわれのテーゼから。今作の冒頭、まだ何もしていない処女と童貞のヒロイン&ヒーローらの前に、彼たちの未来の娘と自称する女の子たちが現れる。このことを、とうぜんだが作中人物たちは、ショックとして受けとめる。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.15)―――
【花凜】 (頭をかかえながらモノローグで、)ありえない ありえないぃ
おかしいでしょ!? 必要なこと全部 スッとばして……
“既成事実”だけ 突きつけられるなんて……!!

その場面で花凜はさいしょ、いまだ告白もデートもしていないのに…などと、乙女チックなことを考えている。ところが、やがて。ようするに性交がなされたのだと気づき、その場面を具体的に想像して、彼女はひとりでかってにテンパるのだった(p.17)。

さて。婉曲に申し上げるのも逆にいやらしいかと思い、このさいストレートに記述させていただけば。そのらちもない想像の中で花凜は、サクくんのペニスの挿入を促して、自分のヴァギナを自分の手で『くぱぁ』と開いている。この『くぱぁ』という擬音とその所作が、追って今作「ヨメイロちょいす」に頻出する。
未来からやって来たらしい娘3人は、自らの存在を確定させるべく、その父母らに性交を促すのだ。自分の存在が消えないようにと必死で、母となるべき少女らのヴァギナを『くぱぁ』と開いてまで…! 何という、これはものすごいお話だろうか。

何がすごい、と言って。ふつうの人間らにとって、『父母の性交』を考えること、『自らの起源』をたずねることは≪外傷≫的な認識だ。
分析用語で≪原光景≫と呼ばれるものがあり、これは自分の両親が性交している姿を言う。それがしばしば隠喩的に表現されながら、分析主体の夢や妄想に表れる。
もう少し踏み込んで申すと、まさに自分が作られようとしている瞬間を、主体は眺めるのだ。すなわち≪原光景≫は、一般的には、じっさいに見たものが想起されているのではない。『自らの起源はどこに?』と考えたすえ、主体が見出すひとつの答がそれなのだ。

ところが今作の場合には、『自らの起源がなければならない』と考えた子どもが、≪原光景≫をイメージとして見るどころか、それを目の前で実現させようとする(!)。そしてそのことは逆に、親となりそうなヒロインとヒーローらに対して、≪外傷≫として作用する。
そもそも、結果が先にあって原因を作らなければならないということが、奇妙すぎて受けいれがたく、そしてヒーローらのやる気をそいでいる。それで彼たちは、何だかんだで娘らのおねだりを実現しないまま、物語はダラダラと続いているのだった。

2. やたらヴァギナが誇示されるギャグまんが、とは

ところでなんだが、話が『くぱぁ』に戻り。今作のヤマ場に『くぱぁ』が頻出することを、いちおう≪ギャグ≫だと受けとった上で…。
そしてわれわれの申す『第2世代ギャグまんが』というものは、山上たつひこ「がきデカ」(1974)を始まりとして、そこでいわゆる『タマキン(ペニス)』がやたら誇示される、という特徴があった(…補足すると、それに代わって『タマキン的な“記号”らが誇示される』という方向性が、第3世代的)。
だがしかし、それに対して『ヴァギナが誇示される』というタイプのギャグを、あまり見たような気がしない。いや細かく申せば、永井豪「ハレンチ学園」(1968)や、吾妻ひでお「やけくそ天使」(1973)などにあるけれど。けれどもマイナーでありつつ、しかもそれらの表現は、ギャグまんがのメインストリームからはみ出たもの、という気がする。

なぜだろうか? まずそれが≪ギャグまんが≫であれば、過剰に読者を興奮させてはいけない、いわゆるおかずになってはいけない、ということがある。
だから「ハレンチ学園」をいまよく読んでみると、意外とその内容に抑制がある、と感じられてくる。かの≪ヒゲゴジラ先生≫の醜怪な顔がおりおりドカンと描かれることは、けっして無意味ではなく機能していると知れる。
また「やけくそ天使」にしても、そのヒロインがやたらつつしみなくヴァギナを見せることが、いずれ冒頭の小ネタになってしまっている。作品をもたせているのはその先の、不条理や奇想天外として展開する部分だ。

それらに比したら、ピークの部分で『くぱぁ』が描かれてギャグとして機能する「ヨメイロちょいす」の表現は、かなりユニークなものだと知れてくる。そしてそれには、前提となっているしかけがある。つまりこの『くぱぁ』はヒーローから見ると、単なる≪享楽≫のサインばかりではない。
それは少年であるヒーローに、いきなりパパになることを求めてくる『しるし』でもあるのだ。だから彼は、一方ではすなおに興奮しつつも、しかし彼の言う自分の『モラトリアム』(第1巻, p.20)を継続しようとして、娘らが強いてくる性交から逃げまわる。
つまり今作の、『くぱぁ』の意味するところは両義的。この両義性の演出されていることが、それをギャグとして機能させているのだ。その構成の巧みさを、まずいまは見ておきながら。

3. やおよろずの神々の笑い、その対象

かつまた、『ヴァギナ-と-ギャグ』というお題で考えると。日本のさいしょの≪ギャグ≫と呼べるものは、日本最古の書物「古事記」の『天の岩戸』のエピソードで、アマノウズメがヴァギナを誇示してみせたこと、とも考えられてくる。

――― 「古事記」原文、『天の岩屋戸』より(*)―――
天宇受賣命(中略)。爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而。八百萬神共咲。

――― Wikipedia「天岩戸」, 『神話の記述 古事記』より(*)―――
天宇受賣命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳(もすそ)の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

原文中の『番登』は『ほと』と読み、すなわちヴァギナのこと。そして「古事記」において、天地の開びゃく以後、何であれ『笑い』という現象が初めて記録されているのが、この場面なのだった。
(なお、「日本書紀」にも『天の岩戸』のエピソードは描かれているが、しかし『ヴァギナ等を見せた』という記述はないらしい)

するとびっくりだが、ニホンにおける『笑い』の起源は、ヴァギナを見て神々が大爆笑したことなのだ。…けれどもそのヴァギナの誇示が、『なぜ』ギャグとして機能したのか? それが筆者には、あまりはっきりとは分かりかねるのだった。
それについては何年も前から断続的に考えているのだが、まずはヴァギナを、≪去勢のシニフィアン≫として見ることができる(シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。フロイトの論文「メドゥーサの首」(1922)によると、ラブレーの小説に『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』、というお話があるそうだ。それがまた、たぶんギャグっぽく書かれたものかと考えながら。
またはそうでなく、最高神であるアマテラスのこもった場所の前にてハレンチな行為がなされている、それゆえの≪ギャグ≫とも考えられる。ここで神々はアマノウズメの向こうに、アマテラスのヴァギナをも見ていたのやも知れぬ。

と、分かりかねることが多いのだった。『ペニスが誇示される』というギャグが、わりとさわやかに笑えるものであるに対して、その逆であって機能するギャグは、みょうに複雑なのだった。
また。これを書いている自分は男性なので、ペニスに対して怖いとか不気味なものだとか、そういう感じ方はあまりない。たぶんヴァギナの方をこそ、(無意識にも)そのように感じていることだろう。
ところが、女性であったからといって、ヴァギナに関するギャグをさわやかに笑える、ということがあるだろうか? ヴァギナに対するイメージの抑圧は、単なる道徳とやらの問題ではなく、それがあまりにも外傷的なので人間において普遍的なのだ。

そもそもヴァギナには、『考察の対象にしがたい』という性格があるように思われる。『てめえはドーナツの穴でも喰ってろ!』というジョーク(?)があるが、ヴァギナとはそれ的な“もの”だ。
というわけなので、今作「ヨメイロちょいす」のヒーローの優柔不断さにも似て、筆者の申しようが、いつも以上に切れ味よくないが。そのようにふしぎで不気味なヴァギナという“もの”の両義性をはっきり描き、そして≪ギャグ≫にしている「ヨメイロちょいす」という作品。その貢献の重要さを強調しながら、この堕文はいったん終わる。

2010/12/03

tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

tenkla「ヨメイロちょいす」第1巻
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「ヨメイロちょいす」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「ヨメイロちょいす」

「ヨメイロちょいす」は2007年にチャンピオンREDいちごでスタート、追ってRED本誌で掲載中のSFチックな『微エロハーレムラブコメ』(第1巻, p.183、作者より)。単行本は、チャンピオンREDコミックスとして第4巻まで既刊。
そしてRED本誌移転後の第2巻から、作者によるなら『バカ度』が上がり、ラヴコメよりもギャグ要素に重点が移っている気配。なお作者のtenkla(てんくら, 天倉)先生はなぞめいた人物で、その実体は成年コミックの土居坂崎先生なのではと、ネットではもっぱらのうわさらしい。

1. その存在が、“未確定”

今作こと「ヨメイロちょいす」、その概要はというと。なぜかモテ気味だがうすぼんやりした高校生のヒーロー≪桜我咲久(さくらが・さく)≫くんと、2人の少女。ばくぜんと三角関係のあるところへ、とうとつに小さな女の子たちが現れる。
その女の子たちは、近未来からやってきた、ヒーローとひとりのヒロインとの間の娘であると言い張る。ところがその未来がうすぼんやりと不確定気味なので、自分の存在を確定させるため、父母の間にさっさと既成事実を作っていただきたい、と言うのだ。

もしもヒーローがあっち側のヒロインと結ばれた場合には、こっちの女の子の存在は消失してしまうらしい。だから娘らは必死で、自分の母とヒーローとを(性的に)くっつけようと、未来のテクノロジーをも用いながら画策する。
やがては3番めの母娘のペアまでも登場し、赤・黄・緑のイメージカラーで象徴される3組の母娘によって、われらのヒーローは(性的に)翻弄されまくる。ゆえに題名が「ヨメ-イロ-ちょいす」、というわけなのかと。

さて。皆さまもご存じのことと思うけれど、量子力学のおもしろ不可解さを表す≪シュレーディンガーの猫≫というお話がある(*)。説明はリンク先にゆずるけれど、見えない箱の中の猫は『50%生きていて、50%死んでいる』と、ひじょうにおかしいことばで記述される。
で、今作の、未来からやって来た娘たちもシュレーディンガー的に、『生まれている可能性が確率としてある』ような、あやふやな存在であるらしい。だから目の前で、サク君と自分の母≪花凜≫がしっくりしてないのを見て、娘の≪きぃろ≫は、半透明になっている自分の手を示す。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.18) ―――
【きぃろ】 ほら 存在が“未確定” になりかけてる
なんとかしないと いなかったことに なっちゃうの

『シュレーディンガーの猫』は、素粒子のふるまいの『不確定』のふしぎに着目したお話だが。一方の今作では未来の『未確定』であることが、現在の目に見える現象として描かれるのだ。このSF的アイデアが、なかなか切れている感じ。

2. 50パーの確率で生きている

ところで、『好ましくない現在を改善するために過去への干渉がなされる』お話とすると、われわれは藤子・F・不二雄「ドラえもん」(1970)という偉大すぎる先行作を思い出さないわけにはいかない。その第1話から、ちょっと気になるダイアログを引用しておくと。

――― 「ドラえもん」第1話より(てんとう虫コミックス 第1巻, p.18) ―――
【のび太】 ぼくの運命が 変わったら、きみは 生まれて こない ことに なるぜ。
【セワシ】 心配はいらない。ほかでつりあい とるから。
歴史の流れが変わっても、けっきょく ぼくは 生まれて くるよ。
たとえば きみが大阪へ 行くとする。いろんな 乗りものや 道すじがある。
だけど、どれを 選んでも、方角さえ 正しければ 大阪へ 着けるんだ。

さいしょの話だと、いずれのび太くんはジャイ子と結婚して、その孫の孫としてセワシくんが生まれる予定だという。しかし何かをがんばれば、のび太くんはしずかと結婚できるかもしれない…。で、やはりいずれはセワシくんが、『同じ人』として生まれてくるのだろうか? それを『同じ人』、と言えるのだろうか?
とまあ、それはひとつのSFアイデアだ。そしてそれに対抗してかどうか、今作「ヨメイロちょいす」は、『未来における存在権を争う並行世界、そのエージェント』という、新しい切り口を描いているのだ。それがひょっとしたら、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)とすれ違っている発想かも…とも思わせながら。

つまり。「ドラえもん」においては、のび太くんの未来の妻が、ジャイ子であろうとしずかであろうと、結果は大して変わらないらしい。変わらないとは、同じアイデンティティを持った子孫が生まれてくる、ということが変わらない。…そこでセワシくんは、彼の現在の生活の改善を求めて、過去に干渉してくる。
ところが「ヨメイロちょいす」においては、それがぜんぜん『同じ』にはならないらしい。そしてヒーローの行動の分岐は多数の並行世界を生ぜしめ、そしてその世界らは、確率の波として存在するようなものらしい。…だから並行世界の住人たちは、自らの存在の確率の上昇を求めて、過去に干渉してくる。

けれども逆から考えると、自分自身を『確率的な存在』と考えている人はいないはずだ。…おられますか? すなわち、50パーの確率で生きているシュレーディンガーの猫は、実在はしていない。実在するのは100パー生きている猫と、100パー死んでいる猫だけだ。
ところで思ったのだが、貯金箱に多少はお金が入っていることは確か、けれどもいくらかは分からない、といった状況はありげ。これも一種のシュレーディンガーだとすると、それはようするに、ひとの記憶や認識の問題に還元されてしまう。

3. たとえば大阪に行くとして?

さらに言うと、ひとの知覚の形式である時間と空間の存在は、常にシュレーディンガー的な状況を生み出しているのではなかろうか?
…つまり。別に量子力学的な装置などがなかったとしても、猫を箱の中にぶち込んで、後で開けてみたら必ず生きている、という保証はないのだ。死んでいる可能性はごく薄いにしろ、確率としたらそれは存在する。
さらに、箱なんかなかったとしてもだ。自分の知り合いの某氏が近ごろ連絡がないのだが、ひょっとしたら死んでいるかもしれないので『シュレーディンガーの知人』、ということだって言えるのでは?

だが、そうではあっても≪自分≫の存在の可能性が100%でない、そのあり方が量子的、あるようでないようであいまいだ…という感じ方は、きわめて斬新でざらにない。そこが、「ヨメイロちょいす」の新しさだと見る。
ただしこの感じ方は、ふつうの人間からは、『わが身にもあること』という共感が、ちょっとできにくいのではないか…とも思われる。

だからふつうの人間の感じ方からすれば、「ドラえもん」のお話の方が、相対的に自然で受けいれやすいものなのだ。自分の先祖が大金持ちだったらよかったのに…くらい、誰でもいちどは考えるようなことで。
けれどもそこでわれわれが考えないのは、その『大金持ちの家系に生まれた自分』が、いまの自分と『同じ』ものなのか、ということだ。そして今21世紀の創作「ヨメイロちょいす」は、『同じ』にはならない未確定のさまざまな未来から、『シュレーディンガーの娘たち』が押しかけてくる、という絵図を描く。そのSFアイデアのフレッシュさを、まずわれわれは大いに評価しなければならないだろう。

さて、ここまでを見てきてだが、先行作「ドラえもん」に対抗しての「ヨメイロちょいす」ということは明らかに自覚的なしかけであり、今作の内部にもしっかり描きこまれていることだ。「ドラえもん」という語は出ていないけれど、あるお話で花凜の母の≪美凜(みりん≫)からサクくんに、こんなせりふが言われる。

――― 「ヨメイロちょいす」第2巻, 第12話より(p.145) ―――
【美凜】 たとえばあなたが 大阪へ(…中略…)結局 大阪に着くでしょう?

何のことかというと、お色気過剰な美凜はサクくんを誘惑して、『母体が花凜でも 私でもきぃろちゃんは 生まれるのよ』と言い張り、ヒーローを子作りに誘うのだった(!)。が、それでは基本設定がぶち壊れ、そして『ドラえもんに対抗』という作品の性格がなくなってしまうので、あわて気味に花凜が『生まれない わよっ!』とツッコむのだが!

といったところで、いまだ基本設定あたりを眺めたばかりだが。けれども記事が長くなっているので、tenkla「ヨメイロちょいす」の話は次回に続く。

2010/11/29

衛藤ヒロユキ「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」 - ≪ゆる系ギャグ≫はんらんの必然性?

「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻
「ドラゴンクエスト 4コママンガ
劇場 ガンガン編」第2巻
 
参考リンク:Wikipedia「4コママンガ劇場」
関連記事:ラベル“衛藤ヒロユキ”

日本のまんが史においてMid 1980'sあたりから、コンピュータゲームからのインパクトが大きくて無視できないとか。また、われらの衛藤ヒロユキ先生は、その流れの中から出てきて最先端に立ち、大ブレイクをなされたとか。…そういうことはあるけれど、だが別にそんな大きめな話を、いまここで申し上げようとはしていない。
ただ単に、さっき自室に積んである本の下の方に、「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」の何冊かを見つけて、うっかり目を通してしまったのだ。で、その「ガンガン編」の第2巻(1992)から、われらが電脳系ギャグまんがのマイスター、衛藤ヒロユキ先生の作例にふれて、ちょっと感じたことを。

――― 「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻, p.55 ―――
(お話の前提。ドラゴンクエストIVの第5章、勇者らは天空のぶきぼうぐを収集中。その1つである天空のかぶとを所有するのは、北方スタンシアラの国王。彼はそれを、『自分を笑わせてくれた者に与える』と、奇妙なおふれを出している。で、勇者らも挑戦!)
【勇者の仲間・商人トルネコ】 コーミズ(という村)の 住人は ムコーミズ!!
【王】 (むっつり、)おかしく ないのぉ
【トルネコ】 (あいそ笑い、)さすが王様 ひとすじなわでは いきませんな ハッハッハッ
【王】 (場がゆるんだので、ついスマイルを返し、)まあな
【勇者たち】 (脱兎と逃げている王を必死に猛追し、)確かに 笑ったぞ!

この作例が何と、すでに20年近くも前のものかと思うと、かなりがくぜんとさせられるものがある。ドラクエ自体はぜんぜんノスタルジーになっていないのに、また衛藤先生のペンワークのみずみずしさはいま見ても変わらないのに…。しかしわれわれ(というかオレ)ばかりが、ずいぶん年を取っちゃっているようで。
ま、それはともかくも。現在のわれわれは、この作例をどのように受けとめるべきだろうか?

作中で勇者らが取り組んでいる、『人を笑わせる』ということ。それは、われらがギャグまんがの最大のタスクでもあるが。
けれどもまんがに限らない話で、『さあこい!』とかたく待ち構えている人物を笑わせるだけのギャグなんて、そうそう出るものではない。『出るぞ』とお思いなら、ぜひいまここに出していただきたい。さあッ!

で、そんなすごいギャグがないとすれば。性急に笑いを取ろうとする前に、まず何とかしてその場の空気を温め、相手の心のガードをゆるくしておくことが有効になるだろう。
あと、あまり高級なやり方とは考えられていないが、『先んじて自分から笑ってみせる』ということは、ギャグ的弱者が人を笑いに誘う戦術としては有効であろう。笑いは、伝染するものだから。
いっそのこと第3者のサクラを用意して、まず彼に爆笑させてみることもできなくはない。いにしえの海外ドラマのコメディで、笑いどころにあらかじめ笑い声が入っている、あのように。

かつまた笑いの機能として、『緊張の緩和』ということがある。作例を見ると、『ギャグを出そうとするよりもお追従を述べた方が、まだしも相手を笑わせうるとは情けない』…という気もするが、しかしそれだけではない。
のっけからいきなりお追従を述べたのでは、王は『あ? 何?』くらいにしか反応しないだろう。そうではなく、さいしょの『笑うか/笑わないか』という勝負で、まず王の緊張が高まっており。次に勇者らがギブアップしてその緊張がゆるんだところへ、タイミングよくトルネコのあいそ笑いとお追従がヒットしているのだ。言うまでもないのだが作例は、ギャグ作品なりに、ちゃんとありうる人間の動きが描かれたものに他ならない。

ところでわれわれは『笑い』に関し、英語っぽく言って『ラーフ』と『スマイル』とを区別している(*)。いずれの笑いも『心身の緊張の緩和』ということに関連しているのだが、ラーフとは肉体のけいれん的な運動によって緊張が緩和に向かう現象自体を言い、スマイルとはゆるんだステータスが表情に表れているものを言う。
(そして、言うまでもなくギャグまんがは、どうにかして読者をラーフにみちびくべき)

だが、ドラクエIV本編にしろ、衛藤先生の作例にしろ、前提としてはその2つが区別されていない感じがある。調べてみると、スタンシアラの町人が、『王さまを“大笑い”させれば』…ほうびは思いのまま、と言っているようだ。この『大笑い』こそ、われわれの言うラーフのことに違いない。けれども『ラーフでなければならず、スマイルは排除する』とまではっきり言われているわけではない感じ。
そこらがあいまいだからこそ、作例がお話として成り立っている。王の方は『ラーフ以外無効』と考え、勇者らは『スマイル有効』とゲームのルールを受けとっている、その認識のギャップがギャグを生み出している。つまり、われわれの考えるような区別は必要かつ有意義なのだと、ここで衛藤先生が同意なさっているも同然。

と、それこれ見てくると。この作例は、こんにちはやり気味な『ゆる系ギャグ』とやらの方法、ギャグ的弱者の戦術を浮き彫りにしているようにも思うのだった。

ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻
ヒロユキ「マンガ家さんと
アシスタントさんと」第1巻
一般的なギャグまんがの作法として、『1ページに2つはギャグを入れること』、と言われるらしい。ミキマキ先生がりぼんの編集からそう教わったそうだが、何か古いまんが入門の本にも同じことが書いてあった気がする。それをいちおうリファレンスとすると、こんにち『ギャグまんが』で通っている作品のかなり多くに、そんな数のギャグが入ってないことに気づかされる。

ただし、すべっているかもしれないギャグを大量に盛り込むより、読者が心地よいようなふんいきで押していくという方法は、まんがとして大いにありうるものだ。そして全体のテンションを限りなく低めておくと、その中の少数のギャグが、よりインパクトあるものとして受けとられるやも?

――― ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻(2008), p.20 ―――
【まんが家】 (仕事部屋の窓から外を見て、)いい… 天気だなぁ
何故こんな日に… 僕はマンガなんか 描いてるんだろ?
【アシスタント】 先生の原稿が 遅れているせいです
【まんが家】 (表情が死んで、)スミマセン…

同じガンガン系の『ヒロユキ』先生というつながりで、これをご紹介してみたが…。

で、こういう作品の方法論をしさいに検討しても、ちょっと自分的にはあれだが。ともあれ、このようにきわめてロウなところでのテンションのびみょうな起伏、それにプラス『お追従』、読者のナルシズムをくすぐるような要素を加えると、あいそ笑いのスマイルくらいは引き出せそうなのだった。
そしてこのような、ギャグ的弱者の方法論が現在、筆者もそうである社会的弱者らのセンチメンタリズムとナルシズムにアピールしている、ということは大いにありそうだが。いや、そうでなくともおセンチとナルシーは、『まんが』というメディアには絶対のつきものだが。

けれどもそうじゃないものがあるかもしれない、『それが“すべて”ではない』のでは?…という想いから、自分はこの≪ギャグまんが≫というものに粘着し執着し続けている。

2010/11/28

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - すばらしきまんがの世界(ギャグ以外)

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる THE MOVIE」
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる THE MOVIE」
 
関連記事:竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

筆者の大好きな作品、今世紀のオープニングを飾った下ネタギャグまんがの大傑作「Dr.リアンが診てあげる」。それが表題に出ているけれど、この記事では≪ギャグまんが≫の機能というか功用というか、そこらをわりと広く考えてみたい。

1. まんがと呼ばれる、夢あふれるメディア!(ギャグ以外)

にしても、さいしょは「リアン」のお話から。…その実質的な第4巻「THE MOVIE」の序盤に収録された『マンガを描こう』の巻で、ヒーローのナオト君が、少年漫画新人賞の応募作を描こうとしていると言い出す。
超とつぜんに、まんが家志望だとカミングアウトするのだ。そうすると。

【美果】 いいわよね 読者に夢を売る 商売だしね ギャグマンガ 以外は

…と、いきなり的確すぎることを、天然ボケ気味の美果がおっしゃりやがる(p.28)。
その次に、どういうジャンルで描こうかという相談になると、『ラブコメが いいです!』と言い出したのがリアン。

【リアン】 (ラブコメすなわち、)男に都合のいい女を 仕立てて
とりえのない主人公を モテさせて 全国のドーテーどもを ドキドキさせるマンガ!
【美果】 みもふたもない 言い方するな!!

ところがこの、「Dr.リアン」というまんがはギャグ作品なので。よって、そこで『ギャグマンガ以外』のまんがが読者に売りつけている夢や幻想をぶち壊すための『みもふたもない 言い方』がなされるは、しごく必然かつとうぜん!
そうすると美果は、≪ギャグまんが≫が何であるかは知っているが、しかし自分がそれに出演しているという自覚がないらしい。…ま、それはそうか。

また、異なる作品も見ておくと。ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」(*)の第1巻、『ヤスチーム vs.ビキニ隊』の対抗戦で。敵の動きが速くてつかまえられないミチル君に対し、セコンドのヤスが、『心の眼を開け!』のようにコーチングする。
そうかと思ってミチル君が目を閉じて闘うと、それがあっという間にやられてしまう! あたりまえすぎていやになるところで、だいたい『心の眼』なんて、そんなかんたんに開くものじゃない…というか、開いた人がいるのだろうか? 筆者ぐらいの古い人だと、「アストロ球団」の球三郎サマじゃあるまいし…ということになるが(汗)。

そして、『まんがじゃあるまいし!』というふかしぎなツッコミが言外に表現されているのが、これらのギャグ作品のおかしいところだ。「Dr.リアン」という作品自体がムンムンのハーレム物語的なのに、それに近いラブコメが作内で揶揄され嘲笑されている。「踊るスポーツマン ヤス」の内容のありえなさは一般のスポ根まんがの比ではないが、けれどもかんじんなところに限って、要らざるリアリズムが描かれている。

2. 一般まんがをおちょくることが、ギャグまんがの使命

どうであれギャグまんがの内容には、ギャグじゃないまんがの内容や描写を否定しているところがあるのだ。筆者としては、“必ず”あると言いたい。
そしてそれが意外とかんじんなことで、そうだからこそまんが雑誌と呼べそうな媒体には、必ずいくつかギャグ(っぽい)作品が載っている。その質はともかくも。

ギャグじゃないまんがは一般に、読者の心にファンタジーを残して終わる。それに対してギャグまんがは、意識的または無意識的に『リアル』を読者に示して終わる。受け手の心の健康のために…行きすぎないようにバランスを取るべく、媒体には、行ったものを引き戻す要素が必要。それが、ギャグ(っぽい)まんがに期待される機能だ。
ただし、戻すぐらいならファンタジーの世界に行く必要もないのかというと、そんなことはない。どうせ起きるのに毎日眠らなくてはならないし、どうせ下から出るけれど食べなくてはならない。それと似たようなことで、人間にはファンタジーもリアリズムも必要だ。

そして、まんが史をひじょうに大きく見ると。ギャグまんがというジャンルの発生は、ストーリーまんがの発達に『対応して』のこと、という見方があるようだけど、その意見に筆者はほぼ賛成だ。
そのことを、筆者の持論のギャグまんが世代論を用いて言い直すと。まず『ストーリーまんが』という呼び方を求めるような作風の誕生に対抗して生まれたものが、ギャグまんが第1号「おそ松くん」(1962)からの第1世代。この過程を、かの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、『生まれた』ではなく『生まれさせられた』、と形容している(*)。
続いて1960'sからの劇画ブームに対抗したのが、「がきデカ」(1974)からの第2世代。そしてMid 1970'sからの新しいものら(大島弓子や大友克洋、等々)に対抗したものが、「伝染るんです。」(1989)からの第3世代。

というわけで、メインストリームのまんがの進歩だか発達だかに対応して、ギャグまんがも成長してきたと考えられる。言い換えれば、まんがにおける新しいファンタジー(の描き方)の発生に対抗して、ギャグまんがによる『リアル』の描き方も進歩してきたのだ。

よって。新たに第4世代のギャグまんががこれから生まれるには、それに先立って、まずギャグじゃないまんがにおけるイノベーション『こそ』が必要になってくるのかも。
あるいはそれは、すでに発生しているのだろうか? 筆者がはっきり認識できないうちに、ギャグにしてもギャグじゃないまんがにしても、いつの間にかすでに次の世代に突入してしまっている…そんなことは、ひじょうにないとも限らない。

3. 少年まんがは、少年として少年的に!

ところで、さいごに「Dr.リアン」の話に戻ると。いろいろ相談しながら描き上がったナオト君のラブコメ作品は、何とあからさまなエロマンガになってしまったのだった(p.34)。ペンネーム≪ルパンツIII世≫を名のる作者が、自分で自分の原稿に成年コミックのマークを描き込んでいるのがどうにも…。

【美果】 少年マンガを 描くんでしょ 描き直しま しょうよ
【リアン】 簡単に 少年マンガに 直す方法が あるですよ
(『ビシッ』と親指を立て、)チンチンを 少年のチンチンに 描き直せば いいです!!
【美果】 いいこと あるか――っ!!

というナイスな修正が、なされたのか否かは不明だが。けっきょく少年漫画新人賞は、落選してしまったのだとか。
何しろナオト君のまんが家志望の動機、その職業のいちばんの魅力とは、『エロ本 いっぱい持ってても 「人体デッサンの 資料」』として言い抜けが可能、ということだそうで(p.28)。そんなではそうなったのも、しごく必然かつとうぜんかと。

でまあ、いままでの話とは関係ないようなことだが。どうせ少年誌のラブコメなんて、ナオト君ほどじゃないにしろ、かなり血の気の余ってそうな方々が描いておられように(?)。ところがナオト君とは異なり、みんなちゃんと寸止めの作品に仕上げているのはすごいな、プロだなあ…と、おかしなことに感心してみせて、この堕文は終わるのだった。

2010/11/27

衛藤ヒロユキ「週刊わたしのキモいペット」 - めしませ、じゅくじゅくジューシーなアロマ!

衛藤ヒロユキ「週刊わたしのキモいペット」
衛藤ヒロユキ「週刊
わたしのキモいペット」
 
参考リンク:Wikipedia「週刊わたしのキモいペット」
関連記事:ラベル“衛藤ヒロユキ”

この作品「週刊わたしのキモいペット」は、2008年に携帯コミックとして配信された後、ブレイドコミックス全1巻として刊行されたもの。作者・衛藤ヒロユキ先生としては、確か初めてのショート形式の作品(毎回5ページ・全24話)。

――― 「週刊わたしのキモいペット」, 版元の宣伝文 ―――
あの大人気ギャグ作家・衛藤ヒロユキが携帯オリジナルで送る、キモかわいいペット満載コミックが早くも単行本で登場!!!

どんなお話かというと。何だかびみょうにファンタジー的な町≪カイデルタウン≫では、いま空前のペットブーム。12歳のヒロイン≪インコちゃん≫はそれに乗せられて、『ものすごいペットがほしい!』などと、浮かれたことを神さまにお願いしてしまう(p.7)。
すると『淫行ちゃん!!』と、おかしい名前で彼女を呼ぶ声が、窓の外から。やがて登場したのは≪ペットの神 ニャンプラー≫と名のる、やたらに手足の長い、ネコっぽい生き物。

【ニャンプラー】 わたしの使命は 良い子にステキなペットを めぐんでやる事!
(中略)気に入るまで どしどしペットを 紹介しますニャ

と、いちおうありがたそうなことを言いながら、なぜかニャンプラーの手足と胴体が、どんどん長~く伸びていく。やがてインコちゃんのお部屋は、それでいっぱいになってしまう!
このいきなりのキモさを見せつけられながら、うっかりその提案に乗ってしまったのが、われらのヒロインの運のつき。追って次々と紹介されるペットらが、少なくともニャンプラーくらいに必ずキモいのは、いたってとうぜんの展開と考えられよう。

ところでこんな分析は要らなそうなのだが、でもひとこと。ペットはほしいが“お金がない”と、まずインコちゃんが嘆いている。そこへニャンプラーが、『淫行ちゃん』という名でヒロインを呼ぶ。それから彼の手足と胴体が、限りなくニュニュ~と伸びていく。
…というものを見ると。そんな風に考える『必要』はないとしても、しかしこの流れに、いやらしい含みがないとは思えない。

かつ、そうかといってもその後の展開が、とくべついやらしいわけではない。けれども可能性というかふんいきとしてのいやらしさが、明らかにチラ見えしている。
そのことを読者はちゃんと見て認識しておりつつ、しかし笑いという肉体の反応に流してスルーする。これが、≪ギャグ≫というものの作用の仕方だ。

とまでが明らかになったところで、筆者の心にふれたお話をひとつご紹介。その第16話、近ごろアロマテラピーにこっているインコちゃんが、気まぐれに『「いい香りのペット」って どうかしら?』と、奇妙なことを提案(p.80)。
そこでニャンプラーはご要望に沿ったつもりで、≪花おやじ≫というペットをそこに召喚。すると造形が花っぽいオッサンが現れ、そのわきの下あたりから『もわ~』と、何かのニオイが立ちのぼってくる…!
するとインコちゃんは、『ぎゃ~っ! いい匂い!!』と、ざらには聞かれないようなせりふを叫びとして発し、逃げ出そうとする。しかし花おやじは、オヤジ特有の粘着的態度でドドド…とインコちゃんを追いかけまわす!

【花おやじ】 ジャスミンの 香りですよ!
【インコ】 いい匂いだけど 助けて~!!

続いて花おやじは二重の意味での『変態』を繰り返し、びみょうに人相を変えながら、『深みのある フローラルの香り』や、『もぎたて レモンの香り』などを放つ。それらがいちいち、いい香りには違いないのだが。しかしインコちゃんには、どうにもその発生源のオヤジがキモくてかなわないのだった。

…ここで考えれば。いまの世の中、『加齢臭』とかいうものがどうだとかうるさいけれど。まあそういうものが、じっさいにないとも言えないが。
けれども真に問題となっているのは何ごとであるのか、この作例によって、よ~く分かったはずだ。匂いがよかろうが悪かろうが、ようするにオヤジというものは好かれない! その一方で、(つまらんことを申し上げるが、)汚物であっても女子高生か何かから出たものならば、マニアの市場では値段がつかないこともないらしい。
だからどうしたというのだろうか? みょうに筆者は(オヤジだからか、)ここらで不きげんになってくるのだった。

あとこの作品について、前に「舞勇伝キタキタ」について述べたような、『児童まんがのていさいをよそおってはいるけど、実は内容が子どもうけするようなものでない』、ということも指摘はできる。…が、だからどうしたというのだろうか? 誰がどう悪いということもないけれど、ただいま筆者はみょうに不きげんなのだった。

2010/11/25

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - レビル将軍脱出劇について

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第14巻
安彦良和「機動戦士ガンダム
THE ORIGIN」第14巻
 
関連記事:安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - 反復しえないことの反復を

これはいつものレビューとは、やや性格の異なる記事。関連記事の安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を見ていて『あれ?』と感じたことがあり、精読して何かつかめた気がしたので、それをメモっておきたい。同じことを書いている記事が、ネット上にないようでもあるので。

「THE ORIGIN」第13~14巻の、『ルウム編』。ここはアニメではばくぜんとしか語られていないお話が、安彦先生独自の解釈で描かれたチャプターかと受けとめているが。
そのルウム戦役で、連邦軍のレビル将軍はジオン軍に大敗し、自身が捕虜になってしまう。ところが連邦軍特殊部隊の手によって、わりとあっさり脱出に成功。そして、講和に向けた南極会議のさなかに『ジオンに兵なし!』と主戦論をぶち上げ、戦争を継続へと向かわせる。…とまでは、アニメにおいても伝えられているお話だ。

ところでふつうに考えて、連邦軍によるレビル救出は、無能な彼らにしては手ぎわがよすぎ。それはまあそういうお話だから、と受けとっておくとしても。
しかし筆者が『あれ?』と感じたのは「THE ORIGIN」において、レビル救出作戦の指揮を取ったのは、あのひきょうな内通者のエルランとして描かれていることだ(以下すべて第14巻より, p,176)。これはちょっと、『あれ?』的な描写ではないだろうか?
なお、筆者は以前に今作を見た時には、この部分に陰謀のふんいきなどは感じていなかった。関連記事を書いて、やっと『エルランとジュダックは内通者』ということが頭に入ったので、この部分を『あれ?』と感じるにいたったのだった。…にぶい!

1. 黒幕・キシリア説

そこでちょっと、精読に及んでみると。まず話の前提としてジオン側のボスのデギン・ザビは、南極会議で休戦のなることを希望している。しかし彼の子であるギレンとキシリアは、戦争継続に対して意欲がありすぎ。
その一方の、連邦側の政治状況はよく分からないが。けれどもそれをキシリアは、『彼等はいま痛切に 休戦を望んで』いるはず、と読んでいる。

そして南極会議の直前、キシリアはマ・クベを全権大使に任命し、しかも『あなたは 停戦の使者 ではない』、と告げる(p.110)。むしろ彼を、『地球侵攻 軍の長として』、地球に向かわせるのだと。
それに対してマ・クベは、連邦がぜんぜん戦意を喪失していて、強く休戦を訴えてきたらどうするのか、と問い返す。するとキシリアは、

【キシリア】 御安心なさい 手は打ってあります

と、自信たっぷりに答えるのだった(p.112)。

すると『レビル救出』と呼ばれるイベントは、連邦側の失地回復の第1弾というよりも、戦争継続を願うキシリアの仕掛けた大芝居である、という風に読めてくるのだった。キシリアの指令と手引きによって、エルランがそれを実行したのかと。

いやあ、ガンダムとのつきあいも短くないけれど、しかし『レビル救出は、むしろジオンのしかけた陰謀であるやも』などとは、さすがに思いつかなかった。シリーズ本編のお話の前提として、そういうことがあった、とだけ受けとっていた。
けれども連邦のやることが基本へまばかり、後手ばかり、ということを考えたら、この「THE ORIGIN」の描き方にはかなりな説得力がある、と感じられてくる!

2. 黒幕・デギン説

で、そうなのかと思うと、また別の見方もあるようなのだった。と申すのは、Wikipediaにこういう記述があり(*)。

(エルランは、)『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では、ルウム戦役に敗れジオン軍に捕らわれの身となっていたレビルを、特殊部隊を使いデギン公王の手引きで救出した手柄を(…後略)

いったい何の話なのか、一瞬は分からなかった。ちょっと頭を使ったところ、これはつまり、エルランが指揮したレビル救出劇、その背後で糸を引いていたのはデギンである、という解釈なのかと。

これは意外な見方だと、さいしょ思ったが。しかし拘禁中のレビルとデギンとの会見の場面を見ると、それをほのめかす描写になっているかと感じられなくはない(p.115)。
すなわち、その場面でのレビルは、完全にしっぽを巻いた負け犬状態。デギンの説く休戦論をうけたまわって、見苦しいまでにへりくだりながら『しかりしかり、公王陛下の言われるとおり』、などとおうむ返ししてみせる。そしてデギンから、休戦のための力になってくれと言われると、『私になにができましょう このような虜囚の身で』、と答える。
するとデギンは、『判っている よく判っているとも 将軍』と、含みのありそうなことを言う。そこらから、デギンがこっそり手引きしてレビルを逃がした、という見方が出ているのかと。

…ところがだ。それから地球に戻ったレビルは、うって変わって超主戦論を唱え、連邦全体にハッパをかける。これをテレビで見てデギンは怒り狂い、何かその場のものをぶち壊す。そして、そこに現れたガルマが地球戦線へ出撃するというので、『恩知らず どもを黙ら せてやれ!!』と、檄を飛ばす(p.188)。
そのお芝居の前提として、デギンは休戦派でありつつ、かわいい末っ子のガルマを前線に送りたくはないようなことを、さんざんに言っていたのだ。それがこう変わってしまったので、その場でギレンは『おや?』みたいな表情をする。ところがその横で、キシリアはひそかにほくそ笑んでいる。

そして『恩知らず』とはどういう意味かと考えたら、レビル救出劇に関し、デギンがからんでいたことはありそうかも知れない。けれども彼はいっぱい喰わされているのであり、ことが思うつぼにはまったのはキシリアだ。
しかも知られる限り、レビル救出作戦を指揮したエルランと、デギンとの間につながる線はない。ガンダム界の常識のようなこととして、エルランはマ・クベの手先、マ・クベはキシリアの手下。すると救出劇がデギンの意思のもとの現象だとしても、キシリアは確実にからんでいると考えられる。

それこれによって『デギン黒幕説』は、『キシリア黒幕説』の一部分へと回収されよう。

3. なおも分からないことが

ただし、1つ2つ分かったことがあるからと言って、すべてが分かったことにはぜんぜんならないのだった。ここで筆者がふしぎに思うのは、なぜキシリアが『レビルは強硬な主戦論者である』ということを強固に信じられたのか、それを既定の大前提として行動できたのか、ということだ。
何しろ読者の目の前では、レビルはデギンにへいへいと、屈服してみせているのだから。ここでいちばんいいのは『レビルもまた内通者であり、キシリアの手先』という解釈になるのでは(!)。
だが、それはいちおうないとすれば。そうではなくとも、『デギンの休戦論に同調してみせれば、結果として脱出できる』とでもキシリアに吹きこまれて、その通りにしたとか…?

かつまた。脱出中のレビルの乗ったサラミス巡洋艦をシャアが拿捕するが、しかしレビルが乗っているのを知って、あえて見逃すという場面がある(同, p.169)。なぜそうしたかというと、『最高の政治 ショーを だいなしに』したくはないので、みたいなことを言う。
これではまるで、レビルによる主戦論の大演説があることを、読んでいたというよりもあらかじめ知っていたかのようだ。そしてシャアの望みもまた戦争継続なので、それをじゃましなかったということ?
いくらあのお方でも、ずいぶん読みが深いなあ…と感心しないではいられない。常人の3倍の洞察力があるのだろうか? なお、この時点でのシャアはドズルの指揮下にあり、キシリアとの接点はない『はず』であり、レビル救出劇と呼ばれた陰謀にからんではいないはず。

かつまた筆者が『分からんなあ』と思うのは、なぜキシリアが、パパであるデギンの意思にそむいてまで戦争を継続したかったのかと。このものすごい陰謀家の意図がひじょうに見えなくて、はっきりしているのは、彼女がわりと誰にでも言っている『私は ギレン総帥を 好かぬ』、というその1点だけだ。
だから、デギンが死んだ後にキシリアが、何とかしてギレンの背中を刺してやろうとして画策する、そこは分かる。分かりきらぬ部分もなくはないが、けっきょくはそこにつながっていることかと解釈できるが。
がしかし、このように平気でパパを出しぬいているキシリアが、さいごギレンをやっつけてパパの敵討ちみたいなことを言っても、あまり真に受けることができなくなってくるのだった。まあそれは、さいしょからあまり信ぴょう性のない言い分であるにしろ。

『“女の欲望”、そのなぞ的性格』。

ただし、今後の「THE ORIGIN」の展開で、これらの疑問が氷解したりするのやも知れず。ものすごい陰謀家ではあるが、しかし政治家にはなりきれていなそうなキシリアの≪欲望≫が、はっきりと浮き彫りになってくるやも知れず。それを大いに期待しつつ、この堕文を終わる。

2010/11/24

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 - 反復しえないことの反復を

安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻
安彦良和「機動戦士ガンダム
THE ORIGIN」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」

この「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」は、1979年の名作TVアニメ「機動戦士ガンダム」の物語を、そのメインのアニメーターだった安彦良和先生が、まんが作品として描いているもの。2001年からガンダムエース掲載中、単行本は第21巻まで既刊(角川コミックスA)。
で、ガンダムという商標のついたまんがの本が、いままでにずいぶん世に出ているようなのだが。しかしその中で『作品』とまでも呼べそうなものを、筆者は今作しか存じ上げない。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻, カバー見返しより ―――
【安彦良和】 『ガンダム』というのは、こういう物語です。

さらに今作の連載開始時のあおりが、『誰もが待っていた。これが本当のガンダムだ』、とあったそうで。そうすると『あまりにもフェイクが多すぎる』とは、かなり“誰も”の感じ方だったようだ。

1. 自分自身の『若さ故』の、あやまちとエトセトラ

この作品、その存在のありようについて、ひとつの印象。オリジナルであるTVアニメーションの「機動戦士ガンダム」は、わずか1年足らずの放映期間のものであり、たぶん着想から数えても、せいぜい2年くらいでできたものかと考えつつ。
…ところが、それのまんが版としての決定版を創りだそうとして安彦先生が、がんばってすでに足かけ10年(!)。見込みとすれば、TVアニメ版と同じところで終わるとして、たぶん全23~24巻くらいにはなりそう。すると、早くとも完結は2012年くらいになりそうかと。

これと似たような性格のまんが作品として、貞本義行「新世紀エヴァンゲリオン」などは、もっとすごいことになっている。TVアニメ本編に先行して1994年からスタートしている作品なのに、いまだ第12巻までしか出ていない。貞本先生は専業のまんが家ではないとしても、ずいぶんなことだ。
さらに補足すれば、安彦「ガンダム THE ORIGIN」が、原作アニメで未言及の部分を大いにボリュームアップしている作品であるに対して。その一方の貞本「エヴァ」は、もう少しは割り切った姿勢の創作であるらしいのに…!
(余談を重ねてしまえば、貞本「エヴァ」が次の13巻で終わるとすると、TV版の全26話に対して数字的にきりがいい。ちょうどバランス的にそんなものかと感じられるけれど、しかしその執筆にかかっている時間があまりにもだ)

…というものを見て、近ごろ年寄りぎみな筆者は思うのだが。人の生涯というものについて、『若いときについうっかりと勢いでなしてしまったことを、後半生でずっとフォローしなくてはならない』ということが、そこにはある気がする。

ここでやや関係のなさそうなことを言い出すが、「フランケンシュタイン」という物語について。それは後世のイメージだと、ファウストばりの老人であるフランケンシュタイン“博士”が、怪物を作り出すお話のような感じだが。しかしメアリ・シェリーの原作小説(1818)のフランケンシュタインは、博士どころか学部学生の若輩にすぎない。
その若きフランケン君が、若気のいたりでついうっかりと勢いで、結果的に怪物であるものを生み出してしまう。そして彼はそれ以後の人生を、ずっとその怪物のフォローに費やすのだ。

そうしてガンダムにしろエヴァにしろ、ある意味でエンターテインメントの世界の『怪物』かのようになってしまった存在であり。そしてそれらを、若さの勢いにまかせて生み出してしまった人々は、フランケン君よろしく、それぞれのフォローに後半生の、ほとんどを捧げているように見えなくもない。そのことは、安彦・貞本という両先生だけの話ではなく。
しかも、決定的であり反復しえない最初の創造は、何か『霊感』的なものの作用としか思えぬ超早わざでなされたのに。しかしその後のフォローは、かっての勢いがほとんどない状態で、かつ『霊感』の介在の余地もない作業として、そして終わりも見えぬままに遂行され続けている。
現在いちおうの決定版かと見なされている「劇場版アニメ・ガンダム3部作」にしたって、1980's初頭の勢いあまっている時点だったからこそ、わりにさくっと完成したが。しかしそれ的なものをいまごろになって作ろうとしたら、その作業は、これまた軽く10年かかりそうな気もするのだった。

ここらで押井守作品からのエコーとして、『“始まったものは必ず終わる”って、大まちがいだ!』といったせりふも聞こえてきそうかも。ガンダムにしろエヴァにしろ、その反復しえぬ最初の誕生時には少々早く終わりすぎ、そしてそれらが怪物にまで育ちあがって以後、逆に『終わらなすぎるもの』としてある。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第1巻より(p.157) ―――
【シャア】 認めたくないものだな 自分自身の 若さ故の あやまちと いうものを……

そうだがしかし、その逆のこともまた大いに言えよう。『人はいつか』、かっての自分の『若さ故の』勢いやら何やらが失われていることを、認めたくないが痛感するはめになると。

いやもちろん、ガンダムやエヴァが怪物的なものと言ったって、それらはエンターテインメントなので、それでいいのだが。『終わらなすぎるもの』として悠久に存在し続けて、悪いということは別にないが。
けれどもそれだけの大きな創作は、かかわった人々に大きな『業』を背負わせてしまうものでもあるなあ…と、見ていて筆者が感じたしだい。

2. 確実に裏切られている善意

次に、今作の内容にふれて筆者が感じたこと。もともとアニメ版にも存在していた要素である、『大人たちのダメさ、いい加減さ』。それをこの「THE ORIGIN」は、さらに強調して描いているなと。それはもう、『1年戦争』などという惨事が起こってしまったこと自体が、あからさまなその表れだが。
さらにそのことは、ヒーローのアムロ君らに対し、上層部の無責任と場当たり主義として、また直接に表れる。いかなる職場にもあるようなことだが、アムロ君らに対し、押しつけられるタスクばかりがやたらに多くて大きく、そしてフォローはひじょうに少ないのだった。

――― 「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」第3巻, セクションIより ―――
(…状況、地球へ降りたホワイトベースの着地点は、敵勢力圏のど真ん中!)
【アムロ】 (居室でふて寝しつつ、)連邦軍は 戦争に 勝ちさえ すればいいんだ
僕らなんか どうなっても かまわない んだ たぶん…
【フラウ・ボゥ】 それって考えすぎよ アムロ
(…場面変わって艦橋、ジャブローの連邦軍司令部から、指令の入電あり)
【艦長ブライト】 (電文を見て、)ホワイトベースは…… 敵の戦線を 突破し
ジャブローに向かわれたし これだけか?!
【セイラ】 はい 他には 何も
【リード大尉】 ああ~っ なんの支援も ないというのか ジャブローからはっ!!
(中略)もう連邦も おしまいだよ!

リード大尉の嘆きようももっともで、また共感できるところはある。けれども、この愚劣な戦争の惨禍に巻き込まれて、よっぽどかわいそうな少女と少年たちに先んじて、彼がそのように泣きを見せるのは、大人としてひじょうにカッコ悪いのだった。そこでブライトとセイラは、リードを横目で眺めて鼻白む(第3巻, p.24)。

というものを見たら、もはや何も言いたくはなくなってくる。実のところ筆者は年よりをこじらせつつある折から、いまやロボット同士のチャンバラに、それほど興味がない。そのような自分からの、今作の見え方を記しておくと。
せめて何の責任もなさそうな若者たちを守ろうとして、まともな大人たちは自己犠牲をとげ…ガンダム用語の≪特攻≫ということをしたりして、どんどん死んでいく。その後に生き残るのは、地位も名誉もあるひきょう者ばかり、とさえ言えよう。さっき見たフラウ・ボゥによる善意の受けとめ方は、確実に裏切られているのだ。

リードもみっともないおくびょう者ではあるが、しかし人間らしさがかいま見える分だけ、まだしもましな方かもしれない。アムロ君による『あなたみたいな ひとが いるから…!!』というせりふ(第16巻, p.228)で有名な、オデッサ作戦ふきんに登場する、内通者のエルランとジュダックあたり、あまりにもひどすぎる。
そしてその2人が外道すぎるのは、言うをまたないこととしても。また一方、問題のエルラン作戦部長の指令のあやしげさを、ベテランのスレッガーがするどく指摘する場面で、われらが艦長のブライトには、こんなことしか言いようがない(第16巻, p.157)。

【ブライト】 作戦に異議を 唱えて いては 任務を遂行 できない! 軍は機能 しないっ!

しかし断固としてそれを言明するブライトの顔に、明らかにおかしな汗が浮かんでいるのはなぜだろうか? 彼が考えてもスレッガーの指摘に理があるが、しかし立場上そうとは言えないのだ。

3. この21世紀に語り直されるガンダム物語として

こんなでは、われらのブライト艦長にしてもだ。リードよりましなのはオタオタしないところだけ、エルランらよりましなのは裏切り者でないだけ、くらいに見えてきてしまうのではなかろうか?
また、それに先だった場面で。かの黒い三連星に襲われそうなセイラを大急ぎで救出しようと、アムロ君とガンダムは訓練もなくいきなり、スレッガーの操る戦闘機の背中に乗って出撃する。そこでブライトが、その超緊急の新戦法について、『これが うまくいけば これからも たびたび活用 できるな』と、脳天気なことを言いやがるのを、ミライは聞き逃さない。

【ミライ】 うまくいけば?
これがうまく いかないというケースを どう お考えなの かしら?

そこでブライトは、いちおう恥を知る男だけに絶句するが(第16巻, p.104)。しかしそれを言うミライにしても、もっとましな考えがあるでもなく、アムロ君らの行動の成功を、ただ真しに願うことしかできないのだった。

こうしたことを筆頭に、この作品「ガンダム THE ORIGIN」は、きわめて痛い認識を自分につきつけて来るもの、と見えているのだった。まあじっさいに、アニメのガンダムに比べて今作は、いっそう『地に足の着いたもの』となっている気がする。この世間のいやなことの数々が、よりあからさまに描かれてしまっている。
それは組織というものの不ゆかいさに加え、フラウ・ボゥやモスク・ハンなど『相手を見た上で』へんにからんでいくアムロ君のずるさや、シャアの数々の陰謀のあんまりな悪らつさなどをも含め。さらにはアニメに描かれなかった、かの理想家ジオン・ダイクンの平板なる実像をも含め。

メディアの違いも機能しているが、勢いやふんいきで流しているところがないだけにこのまんが版の描写は、言うところの人間ドラマに比重が移っている感じなのだった。かつ、例のニュータイプというSF発想に対して、安彦先生の扱い方は、きわめてニュートラルでもあり。で、そうこうとすると、見えてくるものは…?

これらのことにより。こんなまんがの本をつらつらと読んでいる自分が、エルランらほどの悪人でもないとは考えたいが、しかしよくてリードくらいのみっともないおくびょう者なのでは…と感じられてならず、筆者はため息を重ねるばかりなのだった。
あたりまえかもだが、自分が高校生くらいで今作のアニメを眺めていたころに、そうした感じ方はなかった。それから追って、自分はもとより、物語としてのガンダム自体も年をとった。「THE ORIGIN」という作品の登場は、よく言ってその『成熟』の徴候だ。そしてその『成熟』とやらの味わいが、自分にはやたらとほろ苦い。

そして、この21世紀に語り直されるガンダム物語として、こういうものしかありえないと断言もできないが。しかし明らかに最良のものとして、われわれの目の前に安彦良和「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」という作品が存在しているのだった。『反復しえないことの反復』というそのタスクの重さが、この物語にいっそうの重厚さを付け加えながら。

【追記】 2010/11/28。文中で、今作こと「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」の完結を、けっこう先に見込んだけれど。しかし掲載誌の最新号では、ギレンがすでに死んでいるとか。するとおそらく来年には終わるだろうし、単行本も次巻までやも知れぬ。まあ、オレのこの手の予想があたったことはないので、いつも通りだが…!

2010/11/22

岡田あーみん「お父さんは心配症」 - 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

岡田あーみん「お父さんは心配症」第1巻
岡田あーみん
「お父さんは心配症」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「お父さんは心配症」

岡田あーみん先生の1983年のデビュー作であり、そして出世作で代表作ともなっている「お父さんは心配症」という作品。これについて、あまりにも客観的な名作すぎて、逆に語りにくい、ということを筆者は感じる。
何しろ手もとの単行本が、第50刷とか60刷というのがすごすぎる。だが、圧倒されっぱなしではしょうがないので、まずはその客観的な見方とやらを示しておくと…。

1. 彼女らの思うつぼの≪家族物語≫

『ギャグまんがの少女部門』というジャンル史的に、赤塚不二夫のファミリーから出てきてポスト赤塚的な作風で大成功をとげたのが、1970'sの土田よしこ先生。それ以前には、われわれが言うようなギャグまんがは、少女まんが界に存在しなかった。いずれわれわれは、そのよしこ先生の偉業についても、この場で見ていくだろうけれど。
そして1980's、よしこ先生の勢いが少々なくなってきたところで、入れ替わりにポスト「がきデカ」的な作風で出てきたのが、この岡田あーみん「お父さんは心配症」。そして以後、こんにちまでずっと新たな読者を獲得し続けている今作の成功ぶりは、かの「マカロニほうれん荘」や「ストップ!! ひばりくん!」にも並ぶ、などとは以前にも述べたこと。

そして今作「お父さんは心配症」が、男やもめのヒーローでパピィこと≪光太郎≫が、彼のお年ごろの娘である≪典子≫に対して心配症すぎるお話、そして娘の彼氏の≪北野くん≫を迫害しすぎるお話だということは、すでに常識の部類として。
しかし『母親がいない』というこの家族の状況を、単なる欠落や不幸とだけも考えられない。パピィと彼氏からの愛を一身に注がれて板ばさみになり、葛藤してみせながらヒロインが『愛を独り占め』というその状況を、愉しんでいないとは言えない。それは、無意識においての愉しみではありつつも。

大島弓子「雨の音がきこえる」小学館文庫版
大島弓子
「雨の音がきこえる」
『少女まんがにおける片親の家庭の描写』について、見ていて気がつくことがある。傾向として父子家庭の場合には、作品のふんいきは、わりにカラッとして明るい。しかし母子家庭の場合には、わりにジメッとして暗い。傾向として。
たびたび述べていることなのだが、いちばんひどいと筆者が感じた作例は、大島弓子の中編「雨の音がきこえる」(1972)。これはジメッとした暗い家庭のお話として始まって、しかし作中で母親が死んでから、急に作品のふんいきがカラッと明るくなる(!)。…とは、どういうことだろうか?

ここらを意識させるものとして、りぼん掲載の小桜池なつみ「青空ポップ」(2006)という、これまたカラッと父子家庭を描く作品もあった。そのヒロインの亡き母親は、かっての伝説的なファッションモデルで、いまだ人々のリスペクトを一身に集めている。
そして、『なぜこの母親が故人でなければならないか?』と考えると、その方がヒロインにとって好つごうだから、としか考えようがない。死んだ母に代わって、空いているそのポジションを埋めることが、同じモデルの道に進むヒロインのタスクになるのだ。かって母の享受していた愛情と尊敬と名声らを、彼女はそっくり受け継ぎたいのだ。

小桜池なつみ「青空ポップ」第1巻
小桜池なつみ
「青空ポップ」第1巻
かくて、『母親などは、いなくていい』、『よい母親とは死んでいる母親』とは、≪少女≫たちの無意識の認識として、あるていどは普遍的なものであるらしい。だから今作「お父さんは心配症」についても、これが意外と、少女らの思うつぼの世界、あっぱれな≪家族物語≫として機能し、一種のユートピアを描くものであることは、まず見ておくべきこととして。
(註。フロイトの用語の≪家族物語≫とは、親の愛を足りないと感じた子どもたちが、『きっと自分は拾いっ子に違いない』等々と、自分かってな自分の出自を想像することを言う)

あと、もうひとつ。われらがパピィのかいしょうのなさ、からきし威厳のないダメパパっぷりについて筆者は、「お父さんは心配症」に先行したりぼん史上の名作、池野恋「ときめきトゥナイト」(1981)との関連性をも感じる。かつその作品では、ヒロインの蘭世にしろライバルの曜子にしろ、やたらにパパとべったりな関係で、逆に母親とは疎遠ぎみ。
池野恋「ときめきトゥナイト」第1巻
池野恋「ときめき
トゥナイト」第1巻
蘭世と曜子の関係にやや近いものとして今作では、≪緒形ひろみ≫とその父親が、何かと典子&パピィに張り合ってくる。で、ひろみとその父のべったり仲良しな関係は、『ありうるもの』としてこちら側から参照される。
ただし「ときめきトゥナイト」では、パパが娘の恋路をストレートにじゃまするような展開にはならないわけなので、そんなにまで今作と直接の関連を言う気はない。けれども何か、同じふんいきを描いているものか、という気はしつつ。

2. 『鼻血ブー』と、愛の弁証法

ところでなんだが≪ギャグ≫に限らずまんがの世界に、『鼻血ブー』というメニューが現存する。これはもちろん、谷岡ヤスジ大先生の「メッタメタガキ道講座」(1970)を元祖とするもので、その意味するところは『婉曲に表現されたオーガズム』ということは、前にも述べたような気が。
藤原ゆか「CRASH!」第1巻
藤原ゆか
「CRASH!」第1巻
追って現在もそれが、少女まんがではけっこう多用されるのだった。いまのりぼんに、藤原ゆか「CRASH!」という作品が載っているはずだが、その第1部のヒロインは芸能事務所の見習いで、『タレントの素質ある人材を見つけると鼻血を出す』という設定だった。『それはギャグですか?』…くらいな感じ方もしたが。

で、この「お父さんは心配症」について、パピィの有名な切り札としての鼻ぢ攻撃がさいしょに出たのは、まさに『鼻血でデート』と題された、その第2話(りぼんマスコットコミックス第1巻, p.19)。心配症かつヘンタイのお父さんが、あろうことか娘のデートにひっついて行くお話。
そして若い2人が映画館街で、「愛のゆくえ」とかいうロマンスを見ようとするので、いきなりパピィはテンションMAXへ! 『ふざけるんじゃねェ』と、娘にくってかかる。

【光太郎】 (激しく地だんだふみながら、)愛とか 恋とか 好きとか
変態三人娘とか 好色一代男とか ふとももをあげる とか そういう題の 映画はダメ
【典子】 これは悲しい 愛の物語 なんだから やらしく ないわよ
【光太郎】 (「愛人バンク」というポルノ映画の看板をさして、)い…いいか…
こ…こーゆう 映画は ダメ…だぞ(…と言いながら息を荒くし、鼻血を流す)

『愛』ということばからパピィはやらしいものを大いに連想し、それに対して典子は『“愛”は、やらしくない』と返す。ところが『愛人バンク』(いま言う援助交際をあっせんする組織)などという語の存在は、『やらしい“愛”もある』ということの実証に他ならない。
これがおそらく、弁証法というもののお手本だ。まあ弁証法は知らないが、これこそパピィが全シリーズ中、初めてその名高き鼻血を出す場面なのだった。

そして、ともかくもその「愛のゆくえ」とやらの上映館に入った3人。いくつかの小ネタをはしょって、やがて映画はクライマックス、マリィとトニィのラヴシーンへ展開。するとその描写が、意外に激しいものなのだった。

【トニィ】 マリィ きみがほしい
【マリィ】 い…いや トニィ~
【トニィ】 いやよ いやよも 好きの うちさ… ヘッヘッ
(劇場のスクリーン上に、作者からのメッセージ。『とてつもなく すごいシーンを そーぞーして下さい』)

その『すごいシーン』を見たパピィは、さきのとは比較にならない勢いで『ブモ~』と、噴水のような鼻血をのけぞって盛大に噴き上げる。たいへんなことに…!
それで次のシーン、典子がカンカンに怒って『も―― 帰って』とパピィを叱るのも、分からぬことではない。いや、もっともだ。
けれども『やらしくない』と娘が宣言していた映画が、実はかなりやらしかった、という事実はある。だからパピィが、止血用に映画のパンフを丸めて鼻孔に突っ込みながら、『純情な中年に あんな映画 みせるからだ』と抗弁するのも、またもっともなのだった。

3. “すべて”の性交渉は、いやらしい?

つまり娘とパパにおいて、『やらしい』ということの解釈が、ぜんぜんかみあっていない。娘の側は、まじめな意図があっての性交渉ならば『やらしい』とは言えない、くらいに考えていそう。ところがパパの側の考えは、『“すべて”の性交渉はやらしい』。
この作品「お父さんは心配症」において、いつもわれらのパピィが娘について、何かとやらしい想像をよくする。この第2話の中でも、映画館の闇の中、北野くんが典子にへんなことをしてはいないかとパピィは心配し、なぜかそのやらしい妄想が、娘たちにはまる見えだ(!)。そこで『お父さんの方が、よっぽどやらしいわよ!』などと典子がいつも言うのも、またもっともだが。
けれども娘たちの側が、やらしいことをまったくしようとしてはいない…かというと、そんなこともない。お父さんの心配にもまた、もっともなところがなくはないのだった。だから彼らの『やらしいぞ!』、『やらしくないわよ!』、という言い争いは、ぜったいに解決などを見ない。

などと、ことばにするとむずかしいようだが。しかしこれは常態として存在する、そしてふつうはなしくずしに解決される、そうしたジレンマがここには尖鋭的に描かれているのだ。
そしてこのありさまを過激化しているのは、われらのパピィがヘンタイであり、かつやもめでもある、この2つの前提だ。もしその前提が片方しかなかったら…または両方ともなかったりしたら、今作に描かれたようなおもしろ騒ぎは起こりえない、少なくともここまで過激にはならないわけで。

しかもこのパピィが、りっぱな変質者として娘を溺愛しつつ、しかし一線を超えていないところがある。…ダメな人なりに彼がまともな父親でありえているということは、本来ならば言うにもおよばないことだけれども、しかしいまの情勢下では言わねばならないかもしれない。そうだからこそ今作が、逆説的にも≪少女≫たちのユートピアを描くものになりえているのだ。

「ヤスジのメッタメタガキ道講座」
「ヤスジのメッタメタ
ガキ道講座」
さてこの堕文のさいごに、少々余談を。話は戻るけれども、『鼻血ブー』ということについて。
わかりきったことのようだが、『性的興奮によって鼻血が出る』という現象は、ほぼないことらしい。それは「ヤスジのメッタメタガキ道講座」によって生み出されたまんが的表現にすぎないと、やたらあちこちに書かれている。
だが調べていると、こんな記述が見つかった(*)。

アメリカには性的興奮と鼻血を結びつける習慣がなく、代わりに胸や眼からハートが飛び出したり、オオカミに変身する描写があり、日本のアニメなどで性的興奮状態の時、鼻血が出る理由がわからないといいます。
性的興奮に鼻血を連想する習慣は、アジアに多く中国、韓国、ベトナム、台湾に同じような発想があるようです。

そうだとするなら、『性的興奮→鼻血』というイメージのもとを「メッタメタガキ道講座」だけに還元する見方の根拠は、やや薄くなってくるのではなかろうか? あまり言論のあれな社会主義国の中国やベトナムに、「ガキ道講座」やそれ的なまんがの影響がありそうな気がしないので。
むしろ、東アジア一帯にもともと(うっすらと)存在したイメージを、ヤスジ先生がはっきりと描いてくれたのやも、という気がしてくるのでは? そもそもだ、女子小学生を対象読者層としたりぼんの誌面に『性的興奮→鼻血ブー』が描かれていて、『意味が分からない』という苦情があったような話は聞かない。
すると単なる約束ごと以上の何かが、『性的興奮→鼻血ブー』のイメージにはあるような気もする。しかしここでは、まさか≪集合的無意識≫なんてたわごとを申すのではない。

ともかくも。射精という現象を知らないような幼女らでさえも、性的興奮と体液の放出との関連をすなおに受けいれる、その事実に筆者はおののきと苦笑を返すのだった。

もうちょっと余談を重ねると、自分の子どものころの思い出で、ピーナツを食べすぎて鼻血が出たことが…確かあったはずなのだが。しかしそんなことはありえないというのが、こんにちの医学的な見方のようだ。『カフェインの過剰摂取にともなう鼻血はありうるとしても、まさかピーナツはない』、のような。
うーむ、何だかくやしい! ところでわれらがあーみん先生においても『鼻血悲話』として、幼少の時代にあらぬ局面ではなぢを噴いたことを告白されているのだった(第1巻 p.102, 第3巻 p.51)。そこでまたおかしな共感が生じながら、大好きなあーみん先生のお作についての話はぜひまた!

2010/11/16

たまちく.「殺し屋さん」 - 死刑か去勢か、または『死刑も去勢も』!

たまちく.「殺し屋さん」第1巻
たまちく.
「殺し屋さん」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「殺し屋さん」, Web漫画アクション:日替わり4コマ「殺し屋さん」

「殺し屋さん」は2004年から漫画アクション掲載中の、ブラックで不条理でエッチっぽい4コマシリーズ。単行本はアクション・コミックスとして、第4巻まで既刊。
作者名のたまちく.とは、かの「B.B.Joker」の原作者でもある一條マサヒデと、作画担当の春輝の合作ペンネーム。『にざかな』名義の一條作品「BBJ」や「4ジゲン」でおなじみの強引なだじゃれに加え、少女向け作品のあちらではまだしも控えめだった下ネタが、こちらではとめどもなく爆発しているのが盛観。

1. タケノコで、ぎりぎり殺れるかも

さてこの「殺し屋さん」は、まず何を描く作品かというと、日本一の殺し屋と呼ばれるヒーロー≪佐々木竜一≫、そのバラエティ豊かすぎな殺しの手法と、そしてその常人には理解しがたきプロフェッショナリズムだ。

――― たまちく.「殺し屋さん」, 第1巻より(p.5)―――
【竜一】 (…竹林の中、被害者を冷たく見下ろし、無言でタケノコを構える)
【被害者のおっさん】 た…頼む!! もっと カッコいいので 殺ってくれ…!!

これが第1巻の巻頭の、とびら絵のネタ。そしてさっきまで考えてもみなかったが、『他に手段もあろうに、なぜタケノコで殺すのか?』という問いに、まともな答のありそうな感じがしない。そうだからこその≪不条理ギャグ≫だ、と言えばそれまでだが。

にしても、いちおう考えると。記号としてのタケノコは、『成長するもの』という感じもしつつ、しかしそれがちょん切られ刈り取られて、兇器に使われようとしている。
また試みに、『タケノコ』とあるものを『アスパラガス』にでも置き換えてみたら、このギャグは成り立つか…と考えてみる。すると、いくら何でもアスパラでは柔らかすぎて、兇器に使えそうな気がしない。むりがある。ダイコンでもきびしいところで、タケノコでぎりぎり殺れるかも?…といった感じか。

すると『タケノコ』は、生物なのか死物なのかがあいまいで、柔らかいのか硬いのかもあいまいなしろものだ。かつあれは、食材としてもひじょうにあいまいなもの、と考えるのは筆者だけだろうか? 別に野菜でも穀物でもないものを、ずいぶんむりして食材にしている感じだが。
そのような『タケノコ』のきわだったあいまいさを突きつけられて、しょうがなくわれわれは笑いを返すのだ。完全なるナンセンスには行ききっていない、というところに味わいがある。かつそれが≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスをさし示す記号)でもありつつ、≪去勢≫という意味作用をちらつかせ…ということは確かなのだが、しかしあまり言い張りたくはない。

さて。タケノコで殺されようとしていた人がどうなったのかは分からないが、ともかくも冷酷非情な殺し屋であるヒーロー。あるお話で、いまにも殺されそうな人が、『あんたには…憐れみという 気持ちは ないのか』と、彼に問う。

――― たまちく.「殺し屋さん」, 第1巻より(p.118)―――
【竜一】 憐れみ…? あるさ… 例えば「亀」だ…
亀は ただただ ゆっくりと 穏やかに おとなしく 暮らしているだけなのに…
なのに何だ!?(…中略、急に激高して、)
形が似てるからって 頭を生殖器に例えられる 気持ちがお前に分かるか!?
【被害者の青年】 …なんか… 可哀想な人だな…

こんど読み返してみて初めて気づいたが、そうすると竜一は、彼自身の頭がペニス的形状とみなされている、と考えている。そのようにしか、読めない。言われてみれば、その真ん中分けの頭が、そう見えないことはない。

2. “誰も”が、象徴的に去勢されなければならない

しかもそうかといって、竜一が精力絶倫ということが、まったくないらしいのだった。かのゴルゴ13あたりとは、ぜんぜん異なって。
むしろ彼は女性にはほとんど縁のない方で、ひょっとしたら童貞かも知れない(!)。しかも彼の持ち物が、そんなには立派でないらしい。竜一のライバルに『日本一の医者』という男がいて、どこかのトイレで彼らが並んで小用しながらの会話、というお話があり。

――― たまちく.「殺し屋さん」, 第1巻より(p.109)―――
【竜一】 …また俺の成功を 妨げに来たのか…
【医者】 いや…今日は 非番だ…
(隣を覗き込んで、)…それ 保険利くな…
【竜一】 (泣きながら、だっと走り出し、)何の話だよ…!! ほっといてくれよ…!!
【医者】 (追いかけて、)性交の妨げに なるぞ!!

というエピソードから遡及的に見ると、さっき話題になった“皮つき”のタケノコとは、竜一の彼自身を示す記号に他ならない、ということにもなってくる。
このように、『タケノコ』という記号の示しているあいまいさに負けず劣らず、竜一という存在自体があいまいで、型にはまったイメージを結ばない。彼は精力絶倫の『リア充』さんでもなければ、性への関心など超越したクールガイでもない。カッコいいけど、ひじょうにダサい。かの≪ファルスのシニフィアン≫というしろものは、一方では燃えさかる性欲のたけりを表し、また一方ではしょんぼり≪去勢≫を表すというふゆかいなまでに両義的な記号だが、彼自身がまたそれだ。

――― たまちく.「殺し屋さん」, 第2巻より(p.37)―――
【竜一】 (長い帽子のシェフと武士に向けて刀を振り、)うらあぁぁ!!
…急所は 外した… 命だけは 助けてやる…
(ところが振り向くと2人は、切られた帽子とちょんまげから血を流して死んでいる)
【同居人の少年】 (場面変わって寝室、)な…何か悪い夢でも 見たんですか…!?

と、あからさまに出ました≪去勢≫のモチーフ、ゴチであります。人を殺すことをどうとも感じないらしい竜一だが、しかし殺さないつもりで殺してしまうことは、やはりショッキングであるようなのだった。
たまちく.「殺し屋さん」第2巻
たまちく.
「殺し屋さん」第2巻
ところで去勢ということは本来、殺すことの代替行為に他ならない。「史記」の著者の司馬遷が、『死刑か去勢か』と迫られて後者を選んだ、その故事にならって(?)、夢の中の竜一もまた、『殺さない代わりに“象徴的去勢”を執行』、という意図で行動している。
ところが『去勢した上で殺す』、という理不尽なイベントが夢の中で発生してしまったので、竜一は『ギャー!』とでも叫びながら目ざめたらしい。どういうことだろうか?

ノーマルな社会を成り立たせている規範とは、『殺し合わないために“誰も”が、象徴的に去勢されなければならない』。ところが殺しを稼業にしている竜一は、誰がどう見てもその規範を侵しすぎている。『死刑か去勢か』とは残酷きわまる仕打ちだが、にしてもそれは“法”の側からのみ言いうるメッセージであり、それを彼は言える立場ではない。
たまにかっこうをつけても、ぜんぜんかっこうがついていない。彼を保護する“法”が、まったく存在しはしない。その無意識の認識を、竜一の悪夢は返しているのだ。

だから『その認識』が、もっとストレートに表現されたら、それは竜一自身が去勢の上で殺される、という自業自得の理不尽をこうむるお話にもなるだろう。ところがそれを裏返して、彼が『去勢の上で殺す』というお話になっているのは、『夢は必ず願望充足である』のテーゼを満たすための操作かと受けとっておく。悪夢にしたって、人はほんとうに最悪の悪夢は見ない仕組みになっているのだ。

という風に見てきて、あまり今作「殺し屋さん」の概要を、うまく伝えられている気がしないが。追っていろいろ補足することにして、今回の堕文のさいごに、筆者の感じをひとつ申し上げておくと。
ほとんど感情を動かさず、しかもぜったい自分の意思によらず、ほぼ一方的に殺しまくる今作のヒーローが、『死神といえども神の一種』という意味で、神かのように見えることもある。ところが、そのように見うるのでは?…などと考えてしまうと、逆にぜんぜん神っぽくない気がしてくる。

『依頼を受ければ何でも殺す、依頼がなければ何も殺さない』。これが彼の、自らに課しているルールだ。前に筆者は、『いかなる無法な悪人も、その精神が完全に破綻していない限り、何らかの独りがってな“オキテ”を守っている』のように書いたが、竜一にとってはこれがそれだ。
だから彼は、蚊に刺されそうでも叩いたりできないし、地べたを歩くにもアリをふまないように注意を払う。大したストイックさのようにも思えるが、しかしそんなには貫徹できていない。必要なときには『依頼を依頼』して、彼は害虫を退治したり野菜を料理したりするのだった。

そうした竜一のもろもろの煮え切らなさが、大していいこともしていないのに善人を気取っているわれわれの煮え切らなさを、裏返しながら照らし出すものになっているのだろうか? …と、そこらまでを見て、今回の話はこれくらいで!

2010/11/13

ホラー系ギャグまんが家の元祖、チャールズ・アダムス。基本情報と関連リンク集

チャールズ・アダムス「ばけもの大会」
チャールズ・アダムス
「ばけもの大会」
 
関連記事:押切蓮介「おばけのおやつ」 - または、≪ホラーギャグ≫論・序説第1章

ギャグまんがとブラックユーモア、またはホラーギャグというものについて調べていると必然的に突きあたる存在が、チャールズ・アダムス。米カートゥーン史上で確実にベスト3に入る大作家、映像シリーズ「アダムス・ファミリー(アダムスのお化け一家)」の原作者としても有名。

…なのではあるけれど、しかしその存在感やポピュラリティが、この日本国では異様にない。ティム・バートンの映画「アダムス・ファミリー」がちょっとうけたからといって、原作者アダムスに対する関心はいっこうに高まっていない。
論より証拠、アダムスの著作物で日本でも刊行されたものは、そのサイドワーク的な絵本である「チャールズ・アダムスのマザーグース」(国書刊行会, 2004)、ただ1冊だけ。かつネット上にも、ニホン語の情報がひじょうにない。日本語版のWikipediaに、チャールズ・アダムスの項目が“ない”のを象徴的な徴候として。

その現状を残念に思うので、しょうがなく無知な筆者が最低限のリソースを、ここに集積いたしておく。別に網羅的・完ぺきなものを作ろうとしてはおらず、なるべくパッと見で概要がつかめるように…と意図しつつ。ではどうぞ。



1. チャールズ・アダムス 人物と略歴

チャールズ・アダムス(Charles Samuel Addams)は、アメリカのカートゥーン(1コマまんが)を代表する作家のひとり。作品に『Chas Addams チャズ・アダムス』とサインするので、しばしばそちらの名前でも呼ばれる。
1912年ニュージャージー生まれ、高校時代から創作を学内誌に発表。ペンシルバニア大学やニューヨークの美術学校で学び、1932年からイラストレーターとして活動。1938年から一流誌『ニューヨーカー』の常連まんが家となり、1988年の没までその座にあり続け、その間、常に全世界から、最大の評価と敬意を受け続けた。

2. チャールズ・アダムス その作風

チャールズ・アダムス「四つ裂きの刑」
チャールズ・アダムス
「四つ裂きの刑」
アダムスの作風をひとことで言えば、やはり『ブラックユーモア』であり、そして『ゴシック』。死・暴力・犯罪・オカルト・SF要素などをモチーフにしての笑いがメイン。あるべくもない悪意の噴出や、あるべくもない“もの”らの出現が描かれる。

――― チャールズ・アダムスによる作例 5題 ―――
【その1】 ゲレンデのスキーのわだちが2本、途中に大木をはさんで(!)、続いている(…この不条理はアダムスのギャグの超基本で、同じ題材が何度も何度も描かれたらしい)。

【その2】 あぶない坊やが、盗んだ看板や立て札の収集にはげむ。看板らに書かれた文字は、『立入禁止』、『この先危険』、『高圧注意』、『遊泳禁止』、など。

【その3】 路上のマンホールから大ダコが出現し、通勤途中のサラリーマンにからみついて大騒ぎ! ところが平然とその横を通過していく別のリーマン、いわく『ニューヨークじゃ日常茶飯事さ』。

【その4】 画一的な建て売り住宅街の朝、それぞれの家から出勤していくパパを、ママと坊やが見送っている。ところがよく見るとそのパパたちは、1つの頭に顔が2つ・服を着たアリクイ・身長が約50cm・異常にデブ・手足が4本ずつ、等々とおかしい人ばかり!

【その5】 いわゆる『人喰い人種』の村で、料理中の妻に夫が言う。『…まさか、あの人類学者が昼めしの材料、ということはないよな?』。

このように。モンスターをはじめ、宇宙人や『人喰い人種』などの≪異類≫の活躍が大いに見られるのは、前の世代のカートゥニストらになかった特徴かと思われる。『アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ』を礼賛するようなトゥーンが大いに栄えていた中で、彼は『それが“すべて”ではない』と訴える。かつ彼はまた、『アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ』自体に内在する不気味さ、その破綻の必然さを描いていたように考えられる。

『アダムスと(ポスト・)コロニアリズム』ということは明らかに存在している問題で、おそらくはアメリカの学者らがいくつもの論文を書いていそう。たとえば次のような作例が、そのかっこうの題材になろう。

優雅なパーティ会場のバルコニー。着飾った女性が、身につけたエキゾチックな首飾りを示し、『これがいわくつき、呪いの伝説のついたものなんですの!』と言う。その背後の茂みの暗がりから、いわゆる『土人』が吹き矢で彼女に狙いをつけている。

マーガレット・ミードやレヴィ-ストロースらの著作がベストセラーになるような時代を、彼はまんが家として『ちゃんと』生きたのだった。ただしアダムスの『未開人もの』シリーズは、いまだとあまり笑えるものかどうか…という気もしつつ。
(追記。その後の調査により、アダムスの世代のギャグ・カートゥーンには、『未開人』テーマの作例は、ひじょうにざらにあると知った。その中でアダムスのアプローチがとりわけユニークだったかどうかは、いまは明らかにしない)

3. チャールズ・アダムスと、その先行作家ピーター・アーノ

ここで比較の材料を提示、アダムスより1世代前の偉大なまんが家に、ピーター・アーノ(Peter Arno, 1904-68)がいる。彼は『ギャグ・カートゥーン』の元祖として知られ、1925年から没までニューヨーカーに寄稿していた、アダムスの大先輩だ。このアーノと比較してみると、アダムスの個性がいっそう分かりやすいかもしれない。
アーノの作風は、くびれのきわだったグラマーなアメリカ女性への礼賛、艶笑の要素が大いに目立つものだ。その特徴を、楽天的・肯定的・享楽的、などとも形容できるだろう。

――― ピーター・アーノによる作例 4題 ―――
【その1(1936)】 野球場の外野席。ホームラン性の当たりを捕ろうとしている外野手の腕が、最前列の観客の女性の首にまきついて、ハグする形に。それで女性はあわを食うが、その隣の夫は言う。『じっとして! ワールドシリーズの勝敗がかかっているんだぞ!』。

【その2(1943)】 プールサイドでスタンバイしている女子水泳選手たち。それを撮影しているカメラマンたちのカメラが、いちようかつ露骨に、端っこの美人選手だけを狙っている。そこで美人選手はにんまり、他の選手らはおかんむり。

「ピーター・アーノのポケットブック」
「ピーター・アーノの
ポケットブック」1955
【その3(年代不明)】 公園のベンチで、ひじょうに国際色ある子どもを6人も面倒みている女性。その装いは、喪装かも。そこへ通りがかった高級軍人が、連れに向かって説明する。『彼女Q-37号は、かってわが国でもっとも優秀な工作員だったのです』。

【その4(1960)】 全米ミスコンテストのステージ上、ラインナップした各州代表の女性らが、まったく画一的なグラマー体型。それを眺めて関係者らしき紳士たちが、『アメリカに生まれた誇りを感じるね!』と悦ぶ。

いちおう『意味』の分かるものを集めてみたが、そんなには面白くもない感じ(!?)。しかしこれらは、日本で言ったら「ノンキナトウサン」から「フジ三太郎」あたりに相当するような創作なので、まあそこはがまんで。

さて、いまアーノの作例としてミスコンテストという話題が出たが、われらがアダムスにもそれを扱った作品がある。そちらではコンテスト会場にUFOが飛来するので(!)、ステージ上の役員がそれに向かって叫ぶ。

『どっかへ行っちまえ、エントリーはとっくに締め切られているぞ!』

またアーノの作例3は『国際色のある子どもたち』という題材だったが、やや似たようなことをアダムスが描くと、こうだ。『分娩室』と札の出ているドアをバタンと開けて、ナースと医者たちが『ギャー!』とでも叫び驚き恐れながら、そこからいっさんに逃げ出してくる(!)。こういうものが、『アダムスの作風』だ。

4. チャールズ・アダムスの主要な著作物

アダムスには主著として9冊の作品集があり、その他に総集編・ドローイング・挿し絵などが刊行されているようだが、ここではひじょうにかんたんな紹介にとどめる。また、定まった訳題は存在しないようなので、いま筆者がつけている。

    ≪作品集≫
「四つ裂きの刑」, Drawn and Quartered (1942)
「アダムスと悪しきもの」, Addams and Evil (1947)
「ばけもの大会」, Monster Rally (1950)
「わが家の人々」, Homebodies (1954)
「夜にうごめくものたち」, Nightcrawlers (1957)
「黒いマリア」, Black Maria (1960)
「ご馳走いっぱいのテーブル」, The Groaning Board (1964)
「わたしの人々」, My Crowd (1970)
「お気に入りの場所」, Favorite Haunts (1976)

    ≪総集編≫
「いとしき死者の日々」, Dear Dead Days (1959)
「そして彼らはいつまでも幸せに」, Happily Ever After (2006)

    ≪イラストレーション≫
「チャールズ・アダムスのマザー・グース」, The Chas Addams Mother Goose (1967)

5. チャールズ・アダムスと「アダムス・ファミリー」

アダムスに、「アダムス・ファミリー(アダムスのお化け一家)」という作品は、存在しない。それは彼の作品系列を原作とした、米ABCのテレビシリーズ(1964)に付けられたタイトルだ。それをまたベースにして、アニメーションや劇場映画へと、シリーズが続いている。

なお、のちに『アダムス・ファミリー』と呼ばれるキャラクターたちは、早くも1938年のニューヨーカー誌に登場し、それからアダムス作品のレギュラーとなっている。けれども個々人の名前があるでもなく、設定の類も何もなかった。それらはすべて、映像化のさいに後付けされたものだ。

6. チャールズ・アダムス関連のリンク集

チャールズ・アダムス「いとしき死者の日々」
チャールズ・アダムス
「いとしき死者の日々」
以下にご紹介するリンク先について、そのコンテンツらに何らかの問題がないとも限らないが、『あくまでも研究のための情報収集』ということをふまえつつご利用されたし。

    ≪オフィシャル≫
◆Tee & Charles Addams Foundation(*
総本家だが、期待するほどの情報はない。いくつか作例も見られるが、解像度がひじょうに低い。

    ≪準オフィシャル的サイト≫
◆The New Yorker: Charles Addams(*
アダムスのホームだったニューヨーカー誌の公式サイト。上のリンク先以外にも、サイト内を検索するといろいろ出てきそうな感じ。
◆Wikipedia: Charles Addams(*
英語版Wikipedia、基本情報が存在する。アダムスの(少年時代の?)ニックネームは『Chill さむけ』だった、など。あと気づいたこととして、『エドワード・ゴーリー(Edward Gorey)をも見よ』とあり、どこかの世界でアダムスはゴーリーのお仲間らしい。…が、筆者はそれを否定する。まだしも、『アーノ-アダムス』関係の方が重要。
◆はてなキーワード: チャールズ・アダムス(*
わずかな基本情報が存在する。一般知識としては、このくらいで充分かも?
◆国書刊行会: チャールズ・アダムス 恐怖と笑いの双面神(*
「アダムスのマザーグース」の版元のサイトに掲載、訳者・山口雅也氏によるエッセイ。

    ≪その他、特にアダムスの作例が見られるウェブ≫
◆チャールズ・アダムス(*
日本語で作例の見られるサイトはここだけ。
◆Golden Age Comic Book Stories: Charles Addams(*
ここはけっこう、あせるほどにすごい。
◆Hairy Green Eyeball: Charles Addams(*
アダムスだけでなく、アーノの作例も豊富。その姉妹ブログも参照(*
◆Caustic Cover Critic: The Book Covers of Charles Addams(*
表紙だけ。たぶん本人のコレクションを展示しているサイトで、本の読み込まれた感じがよい。
◆A Dazy Log Was Brossing A Cridge: Charles Addams(*
◆Cartoonist.Name: Charles Addams(*
◆Looking at Cartoons, Getting Along: Charles Addams(*
上の3つのサイト、それぞれアダムスの作例を10数点ほど掲載。このクラスのリソースは、枚挙にいとまがない。

7. さいごに。自分(アイスマン)と、チャールズ・アダムス

チャールズ・アダムス「わたしの人々」
チャールズ・アダムス
「わたしの人々」
何度も申し上げるけれど、アダムスの知名度が日本ではひじょうに低い。けれどウェブ上のいろいろな作例を見ていると、超むかし読んだ本だが、星新一「進化した猿たち」(1968)に載っていたものが、けっこうあるな…と気がついた。
それで思わず、懐かしんだ。ホラー的でSF的でウイットがあって超コンパクトなアダムスの作風と、星新一のテイストの重なりは、申すまでもなく明らかだろう。
ただし「進化した猿たち」は、いちいちカートゥーン作者の名などは書いていない本なので、『アダムス入門』的には使えない。あらかじめいろいろ見ていれば、画風や画面のサインで分かるだろうけれど。

もうひとつ、これはどうでもいいようなことだが、名前の表記について。むかしは『アダム“ズ”』という書き方が、一般的だったように思える。そういうことにコンシャスだった都筑道夫氏もそう書いているらしいので(*)、それで行きたいような気もしたが。
けれども近ごろめっきりと体制順応的なオポチュニストになっている自分は、ここでの表記を一般的な『チャールズ・アダム“ス”』としている。それがいちおうは考えた結果であると、ひきょう者の言い逃れを残して終わる。

2010/11/09

佐藤秀峰「ブラックジャックによろしく」 - ≪父の隠喩≫を求めて

佐藤秀峰「ブラックジャックによろしく」
佐藤秀峰
「ブラックジャックによろしく」
 
関連記事:ラベル「海猿」
参考リンク:漫画 on Web「ブラックジャックによろしく」, Wikipedia「ブラックジャックによろしく」

モーニング掲載の社会派医療劇画、「ブラックジャックによろしく」。これは累計1000万部以上を売り上げた大ベストセラー作品だそうなので、説明みたいなことははぶいて。
で、この作品のさいしょのシリーズが現在、オンラインコミックサイト『漫画 on Web』(*)にて無料公開されており、それで筆者も一読する機会を得た。そして以下は、備忘のための走り書き。

これはご存じのように、主人公≪斉藤英二郎≫が研修医として、大学病院の中のさまざまな課に配属され、それぞれの場で問題にぶち当たって悪戦苦闘するお話だが。その中でとりわけ筆者に興味深かったのは、モーニングKC版で第9~13巻の『精神科編』だった。

1. 『病気を持った人間』、彼たちとのおつきあい

なぜそこかというと。もともと筆者が精神医療に興味があるという点、これがまず大きいけれど、あとひとつ思いあたるのは。

今作のヒーロー斉藤くんには、全シリーズ冒頭のエピソードを除き、『いかにも医師っぽい技能』を見せて活躍する場面が少ない(半人前だから!)。『よろしく』と言っても、あまりブラック・ジャック的でない。手術どころか、注射をする描写さえもめったにないようだが…。
その特徴が、とくにこの『精神科編』で、きわまっているのだ。きょくたんに形容すると彼は、ただ見守りしながら病棟を見学しているようなもの。ゆえにこの『精神科編』は、シリーズの中でもきわだって、われわれしろうとがヒーローに共感をもって見やすい部分なのでは。

そして以下に、読んで気がついた点だけをメモっておくと。

まずこれは21世紀のお話として、1980'sまでのような強制収容所ばりの、暗黒の精神病棟を描いたものではない。そうではあっても、いまださまざまなレベルの拘禁や拘束の存在していることが描かれている。かつ、いまだ社会に精神病への偏見が根強く存在していることも。
そしてベテラン記者の≪門脇≫は病棟周辺を取材し、新聞ジャーナリズムを用いてその偏見を打破できないかと模索しているが、しかし社内に存在する壁にぶち当たっている。
そして斉藤を指導する医長の≪伊勢谷≫は、それこれの万事を病棟内だけの問題とは見ていない。彼はいっそのこと精神病者たちを、そっくり社会に返してしまった方が、と考えている。荒療治だが、しかし『隔離』こそが差別偏見の元凶と見るからだ(第10巻, #93)。

【伊勢谷】 患者は 病院に飼われた 羊でもなければ……
社会に出すと 危険な狼でも ありません……
病気を持った…… 人間です――

ゆえに、まるごとぜんぶをケアという名目で管理すべきではないと、彼は考えるのだった。まずは保護的な観点から、もっともっとケア(=管理)すべきでは…と考えていた斉藤くんも、やがて伊勢谷に感化されていく。

で、このシリーズでは主に、≪統合失調症≫の患者さんらが描かれるのだが。お話をいちおうリードしている伊勢谷の描くその病像は、いたってニュートラルだ。それがざらにある病であり、原因は不明だが『自他の境界』あたりの認識を失調させるものであり、予後はそれほど悪くない、と、何度も語られる。
つまり彼には、統合失調症(分裂病, スキゾフレニー)に対してよけいなイメージをかぶせていく態度がない。彼が言っていないことまでもつけ加えれば、その病者たちは羊でも狼でもないのに加え、全人類を代表して苦悩している聖者らでもないし、まして哲学やポエムの題材でもない、ということ。

そして。ここでもうお話の本筋を離れるようだが、今作に描かれた患者さん、若い男性と女性2人について、ちょっと筆者は気づいたことがある。
描かれた2人のライフヒストリーを追っていると、いずれもその父親のところに目立たざる大きな欠落、存在感の過剰な『なさ』がある。まず男性の≪小沢≫については、その父親に関する情報が、何とまったく出てこない(!)。女性の≪小百合≫は、たぶん中学生くらいのころに両親が離婚し、その後は母親の側で育っている。
かつこの2人が、自分の父を語る局面がまったくない。それで、ひょっとすると彼らは、≪父≫に対する明確なイメージを、いまだ形成出来ていないのでは…と考えそうなほど。

これを小さくないポイントと筆者は感じるけれど、ところが伊勢谷は、そんなことを気にしてはいない。というか、彼は病因論などはほとんど語っていない。『ほとんど分からないが、しかし遺伝の要素は明らかにあるもよう』くらいに言うばかりで。

2. なくてはならない≪父の隠喩≫を求めて

ところで。『こういうものだ』と言いはる気はないのだが、ジャック・ラカンによる『精神病』の病因論においては、≪父≫に関するイメージ(隠喩としての父、象徴的な父)がちゃんと機能しているかどうか、ということが、ひじょうに重要だ。

――― C.カリガリス「妄想はなぜ必要か - ラカン派の精神病臨床」より ―――
『神経症の父の隠喩は防衛の機能を保証してくれます(中略)。何に対する防衛なのでしょう(中略)。例えば、貪り食う母親に対する防衛と言うことができるでしょう』
(原著・1991, 訳・小出+西尾, 2008, 岩波書店, p.37-38)

ラカン派の精神科医であるカリガリス先生が、ここで言う≪神経症≫とは、何と『常人』の言い換えだ。そして、神経症者(=常人)ならぬ精神病者においては、言われた『防衛の機能』が存在しないので、彼たちの心は『貪り食う母親』(的なイメージ、おぞましきもの)に対して無防備である、ということ。

その『隠喩としての父』とは、必ずしも実の父に関連している必要はなく、むしろもっと大きな、何らかの父性的なものをさしている。よく母たちが子どもを叱って、『お父さんに言いつけますよ!』と言う。これ的なおしゃべりに表れているもの、それこそが≪父の隠喩≫だ。問題は父本人のパーソナリティや言動だけではなく、そこから家庭や社会が描いている≪父≫のイメージなのだ。
とはいえ、じっさいの父親に何か目立って不十分なところがあるということは、少なくとも発病の因子のひとつたりえよう、とは考えられる。

かつまた精神病者の妄想を検討すると、『なくてはならない父の隠喩を求めつつ』の妄想形成、というものが浮かび上がってくる。『オレは南朝天皇家の末裔である』とか、『CIAがボクの脳波を傍受している』とか、そのような妄想の典型例があるが、そのどちらもが≪父の隠喩≫を求めてのものだ。
(…細かく言うと、天皇家の例はパラノイア的な妄想で、CIAの例は統合失調症的。詳しくは、前掲カリガリスおよびラカン「精神病」をご参照)

そうした妄想のある状態の方が、≪父の隠喩≫がまったく存在しないよりは、彼らにおいてはまだしも苦痛が少ないのだ。彼らにおいては、『父が分からない』ということ、『自分が分からない』ということ、この2つがイコールだからだ。で、このような妄想の発生を、『排除された父の隠喩が、現実界に回帰する』などと言う。
そして今作「ブラック・ジャックによろしく」の『精神科編』で描かれた患者2人、その妄想や幻覚についても、この説に符合するところが大いにありそうに思う。

とはいえ、残念ながら、いまあまり検討している時間もないので…。ただ、今作の描く統合失調症の病像について、わりとラカン派の精神病論に沿っている面があるのではなかろうか、とだけ指摘して、この走り書きを終わる。

2010/11/07

櫻井リヤ「仮スマ」 - 仮面のカリスマの告白!

櫻井リヤ「仮スマ」第1巻
櫻井リヤ
「仮スマ」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「仮スマ」

たまには、あまり黒くないハッピーなお作品をご紹介! こちら櫻井リヤ先生の「仮スマ」は、『華やかな芸能界で繰り広げる大爆笑ビジュアル系ギャグ!!』。
今作は2001年のザ・マーガレットにて初登場、追って本誌のマーガレットに進出して掲載中。単行本は、第6巻まで既刊(マーガレット・コミックス)。自由なショート形式の作品で、ひじょうに読みやすく親しみやすい。

1. まったく謎に包まれたままの、その実体!?

ではまず、この作品のヒーローの≪サク≫をご紹介いたすれば。

――― 「仮スマ」第1巻より, 『カリスマアーティスト』(p.3) ―――
超人気アーティスト サク
その歌唱力とルックスで 若い女性達を虜(とりこ)に している
だが自らを ほとんど 語ろうとしないため
彼の素性は まったく謎に包まれた ままだ

さてこの白面で長身の美形カリスマアーティスト、その『素性』がどんなかというと。それが本名を≪米俵豊作≫という、ものすごいイナカから出てきた地味ぃ~な青年。顔の地味さをメイクでごまかしているので、属性として水分にきわめて弱い。
その素顔が、どれだけ地味なのか。初期のお話で豊作くんが、顔を隠して外出するエピソードあり。すると案のじょうサクの大ファンの女子たちに出くわし、思わずジタバタした拍子に、帽子とグラサンが取れてしまう。…しかし女子らは『なんなのよアンタ!!』と言うばかりで、何も気づかない(!)。そこで『変装の 意味ナシ!!』と、豊作くんはさとる。

さらに豊作くんは、単に地味というばかりか、着るものが野良着とジャージしかないようなド辺境の出身で、ふだんのセンスが異様にダサい、古臭い、そして地道すぎ。お金はあっても六畳ひと間の風呂なしアパートに住まい、食事はまめまめしく自炊。ついでに幼児的という面もあって、女性関係まったくなしどころか、男女の手がふれると子どもができると考えている。

そんなわけなので仮面のカリスマ、「仮スマ」というわけか。あとひじょうにショッキングなのは、彼のことばのなまり。『~やがも』とか『~だっち』とかいう語尾が印象的で、意味は分かるけれど聞いたことのないものであり、『どんだけ奥地の出身!?』という感じを大いに盛り上げている。
サクとしてはいちおう標準語を操っているけれど、しかしその『米俵弁』が、そんなには隠しきれていない。こんなお話があり。

――― 「仮スマ」第1巻より, 『演技』(p.34) ―――
【演出家】 (イメージビデオを撮影中、)次のシーン サクは――
服を脱いで シャワーに向かう いいね?
【サク】 はい(…カメラが廻るとサクは、脱いだ服を正座してキチキチ折りたたむ)
【演出家】 (怒って、)たたまなくて いーんだよ!! 脱ぎ捨てろ!!
【サク】 (名前入りの白ブリーフいっちょで、)かあちゃんの 教えだっちに――

これをイケメンのよそいき顔で、みょうにきれいに直立して言いやがる。というわけで、サクをサポートしているスタッフたちは、彼がすごいイナカものということを、ぜんぜん知らないわけではない。あまりごまかしきれていないのだが、しかしあえてスルーしてくれているらしい。

2. 『てーんで わからんちども まあ よかちぬー』

なまりの話題で押していくと、こんなエピソードも。サクは海外のプロデューサーと仕事することになり、レセプションで向こうはペラペラと外国語で話しかけてくる。するとサクはスマイルし、負けずに一方的にしゃべくる。

【外国の人】 Mie Oinem kuf dielina layudk dul...
【サク】 てーんで わからんちども まあ よかちぬ――
なんしゃべとーも けぇとつかんが よかひとなぬくさ――

いま初めて気づいたのだが、この場面の白人らしきプロデューサーのおしゃべりが、何語なのか分からない。そしてサクの米俵弁も、どこの方言か分からないを通り越して、もはやニホン語っぽくない。
なのでこのシーンをテレビで見ている人々は、サクが何らかの外国語を操っていると思い込んで感心するのだった。ゆえに題して、『バイリンガル』(第1巻, p.47)。いやほんとうに、一種のバイリンガルと言えないこともない!

さらに、こんなお話が。地方巡業に出たサク、ホテルの部屋での打ち上げに参加。すると誰かが、『ジャンケンで 負けたヤツは イッキ飲みな!』と言い出す。バスローブ姿か何かでリラックスしているサクは、『ハハッ おもしろそうですね』と、よゆうで受けて立つ。
そしてジャンケンをする運びになるとサクは、『もんじゃらけ~ ポ~~』と、ぜんぜんわけの分からないことを言い出す。それも、みょうにとびっきりのイケメン顔を作ってそんなことを言い、そのこぶしを振るのだった(第1巻, p.136)。

【サク】 もんじゃらけ~ ポ~~
【その場の人】 なっ なんなんスか それ!?
【サク】 じゃんけんの かけ声…
【その場の人】 「ジャンケン ポン」でしょ!?

『ジャンケンポン!』の方言といえば、筆者が小さいころの東京足立区では、『チッ!ケッ!タッ!』という言い方がイカスとされていた。歯切れよく、より気合いがこもるような言い方になっていたわけだが、しかし『もんじゃらけ~ ポ~』では、それとはまるで逆! どこにも気合いの入りようがない!
あまりにゆるすぎて、逆にショッキング。かつ、この『もんじゃらけ~ ポ~』には、どこぞの体毛がもんじゃらけ~くらいのニュアンスもありそうな感じだが、まあそこは追求しない。

それからやり直しで、『じゃーんけん』…というかけ声に続き、こんどサクがどうするかというと。『チョキ!!』と叫んで彼は、両手の人差し指を高い場所で組み、みょうに大きなポーズでバッテンを作る!
サク本人は顔を赤くして必死だが、ちょっとこれには威圧的なしぐさという感じもある。それを見せられた歌手仲間はびっくりして、『なんじゃ そら~!? こえーよ』とツッコむのだった。

というわけで筆者の感じ、この作品では、まず何しろ米俵弁がすごい。こんな方言がどっかにはあるの?…とは誰もが思うようなところだったらしく、単行本のどこかで作者さまが種明かしをされている。
それが丸っきり架空の方言で、作者の考案になるものだそう。エセ方言にしても出来すぎで、これのテンポなきテンポが、今作「仮スマ」のムードを決定づけているとは言えそう。

3. みんないっしょに、『もんじゃらけ~』

さてこの「仮スマ」も、第3巻を過ぎたころから、わりと誰にも見えたことがあると思う。それはこの≪サク=豊作くん≫が、とんだこっけいなおどけ者にも見えながら、実はたいへん好ましい男子なのではないかと。それは筆者が、できれば少女まんがの一般的な読者の身になって考えよう、として感じたのだが。

つまりサクのハデハデしさと輝く才能に対して、豊作くんの実直まじめさや生活力の豊かさ、人のよさ誠実さ、そして農作業できたえたフィジカルの超強さなどもまた、女性らから見て魅力的でないということはないのでは。つまり、いわゆる『1粒で2度おいしい』キャラクターになっているのではなかろうか?
お話の作り方として、キャラクターには第2の側面、ウラの顔、『実は…』というポイントを持たせろと、よく言われる。その方が、より好かれるから。そういうものとして、これは大いに成功していると思われるのだ。

かつまた今作には、装うということや≪仮面≫という主題について、考えさせられるようなところもあるにはある。けれどあまりむずかしくは考えず、『もんじゃらけ~』と言いながら豊作くんを眺め、ゆかいな気分でひとまず終わりたい。次にこの作品を見るときには、今作のびっくりなラブコメ展開について、おそらく!

カヅホ「キルミーベイベー」 - なるべくなら、やさしくグッドバイ

カヅホ「キルミーベイベー」第1巻
カヅホ
「キルミーベイベー」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「キルミーベイベー」

4コマ専門誌の掲載作に、なかなか≪ギャグまんが≫とまで呼べるようなものがない中で大いに注目すべき作品、カヅホ「キルミーベイベー」。2008年からまんがタイムきららキャラット掲載の学園4コマシリーズ。単行本はまんがタイムKRコミックスとして、第2巻まで既刊。

またこれはおそらくカヅホ先生のデビュー作らしいのだが、しかしはっきりとは確認できず。で、版元からの宣伝文を引用いたしとくと。

殺し屋ソーニャに殺されたい!? なぜかフツーに学校に通う組織の暗殺者・少女ソーニャ。そんな彼女にまとわりつく恐れを知らないおバカ娘やすな。二人が織り成すキラリと光るキラーギャグ4コマ!! この鋭いナイフ、絶対クセになる!!

さてこの作品を最初に知ったとき、『タマちく.「殺し屋さん」(2004)をパクって、萌え萌えっぽく仕立てたのですね?』…などと、ぜんぜん思わなかったことはない。かつ近ごろギャグ以外のおまんがで、少女が殺し屋とか生体兵器とかいうお話は、むしろありがちの部類。その線で、殺し屋少女≪ソーニャ≫の造形も、どっかで見たようなものという気もするが。
ただそういうところを差し引いても、何か今作は大いにユニークなものかと思える。何がユニークなのだろう?
(念のため。そんなには内容が「殺し屋さん」に似てないし、そんなに萌えっぽくもない)

今作の題名が「キルミーベイベー」であり、さらにその表紙に描きこまれた英語題らしきものが『Baby, please kill me.』。つまり誰だか分からないが、誰かが『ソーニャに殺されたい』と、考えている。それがどうでもいい人物のこととも思えず、ようするにわれわれだ。
筆者にしたって、そんなことを考えながら読んでいたのではないが、しかしそうとしか考えようがない。すると「Dr.リアンが診てあげる」の話の続きで(*)、ソーニャも≪リアン≫と同様に、『死の女神』であり≪ワルキューレ≫の一族であり、そしてわれわれが選ぶべき3人めの娘であるらしい。

そういえば今作「キルミーベイベー」は、ちょうどその3人の娘『だけ』が活躍するお話だ。ソーニャとやすな、そして忍者であると自称する≪あぎり≫。それをフロイト「小箱選びのモティーフ」に照らしたら、そのいずれが『金・銀・鉛』に相当するとも言いがたいが…。
しかし今作を「Dr.リアン」に並べると、それぞれのフィーチャーしている3人の娘が、『確信犯的キラー少女』、『超天然ボケの一般人』、『ポーカーフェイスのくのいち』と、ひじょうにきれいに役柄が重なっているのが、また面白いところ。そこいらで今作は、何か無意識の説話的な流れにふれているところがありそう。

かの「Dr.リアン」のヒーローが『自らの死』としてのリアンをケアしてやまぬように、こっちの作品の場合だと見ているわれわれが、気分だけでもソーニャをケアしつつ、そして『Baby, please kill me.』と無意識にてつぶやく。で、なるべくならやさしく息の根を止めてほしいなあ…と思うので、お話が進むにつれてソーニャが少々バカっぽくなってくるのは、≪死≫との心理的ななれあいができそうかという想像だろう。

というわけで、まだあまり内容にふれていないのに今回の記事はそろそろ終わりだが(!)。堕文のさいごに、筆者の気になったことをひとつ。
今作の単行本・第1巻の巻頭のカラー口絵コーナーが、『トントン相撲』、『福笑い』、『将棋』、『ぬりえ』などの、遊べる本という仕立てになっている。その中の『まちがい探し』(p.3)の内容が、ひじょうに強烈。
以前われわれは、おおひなたごう「おやつ」の連載・第1回のとびら絵に、ものすごい50ヶ所のまちがい探しを見たが(*)、わりとそれに近いもの。夏のビーチでソーニャとやすながスイカ割りに興じている上の絵が、下の絵では、この世の終わりっぽい悪夢的情景に変わってしまっている。

それが、『何ヶ所のまちがいがあります』というごあいさつもなく、ただ『違うところを見つけよう!』となっているのは、なかなか放り出した感じ。そして、海の色が真っ赤だったり、空とぶカモメが翼竜だったり、ターゲットのスイカがやすなの頭部で(!)、ソーニャの構えた棒きれが鋭そうな剣になっていたり(!)、といったまちがいらがある中…。
いちばん自分がびっくりしたのは、絵図の右下の貝がらが、≪ジェニー・ハニバー Jenny Haniver≫に化けてしまっていること。ジェニー某ってあまり有名じゃないと思うけれど、それは小さな怪物の干物みたいなものだ。UMA(未確認生物)の一種、と見なされることもある。

ジェニー・ハニバー『生前』の想像図
ジェニー・ハニバー『生前』の想像図
とは言っても、そのプチ怪物ジェニー・ハニバーとは、ようするに細工された魚の干物。主にガンギエイが材料になるらしいが、むかし16世紀のイギリスの漁師らがシャレで作ったものが、怪奇を愛する人々の思い込みらを呑み込んで、いまに伝わっているらしい。ただし見てみるとほんとうに醜怪で、悪夢的様相と感じないわけにはいかない(*)。
そんなジェニー某が怪物に見えてしまうのは、逆にわれわれの心の中にこそ、『怪物』らの棲みかがあるためなのだろうか? なぜか人間らは、『怪物というものがいる』と、ぜひに思い込みたいらしい。ジェニー某とは、そのわれわれの熱意の象徴だ。

つまり。むかしの人らが、自然現象を神霊や妖怪らのしわざに見立てたり、ジュゴンやマナティーを見て人魚と思い込んだりしたらしいが、その理由を対象の側に押しつけるのは、実はおかしい。そうしてけっきょくのところ、≪悪夢≫とはわれわれの中にあるものに他ならない…とは、いたってつまらない結論だが! そして今作「キルミーベイベー」の話は、ぜひまた遠からず。

2010/11/05

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - ≪中の人≫にも、またその中の人?

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」第6巻
杉本ペロ
「ダイナマ伊藤!」第6巻
 
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部屋をちょっと片付けようとしていたら、ずっと探していないこともなかった「ダイナマ伊藤!」の単行本のうち、第6巻が出てきた。
そういえば…いまいち熱心な読者じゃなくて申しわけないが、自分このシリーズ全7巻のうち、何冊までが手もとにあるのか、いまいち把握できてない。3冊は確実、たぶん4冊くらいはあったような気がするのだが。
そんなヤツではあるけれど、ひさしぶりにこの第6巻を一読、ちょっと感じたことを書いておくと。

1. 中年ヒーローの、こっけいと悲惨!

いやまずその前に、この作品「ダイナマ伊藤!」の、版元からの宣伝文をご紹介。

超非常識人間・ダイナマ伊藤が人の迷惑も省みず、思い込みで突っ走るハチャメチャな日常をシュールに描いたギャグ満載の短編集。

まあ、そんなようなお作品に間違いはないけれど。しかしこの文章では、何となくわれらの中年ヒーローが、悦んでその騒ぎらをを起こしているような感じ?
…それがそうでもない気がするというのは、例によってあまり強調したくはない≪ギャグまんが≫の裏面らしきところだ。とは、何を言っているのかって。

ダイナマさんがあまりにも正体不明なので、作中の人々も見ているわれわれもびっくりさせられる、というお話だが。しかしヒーロー本人には≪自分≫が何なのか、分かっているのかというと、まったくそんなことがない。むしろばくぜんとは、『自分が分からない』ということで苦しんでいるようにも見えるのだった。

たとえば、この第6巻の中盤の展開。ダイナマさんが年越しを目前に『来年こそは爆発して みせますよ』と大活躍を予告すると、テレビで新年へのカウントダウンが始まる。
…そのカウントダウンの進行につれ、彼のトレードマークの天パ頭が『ムクムクムク』とふくれ上がり、ゼロのタイミングでドカン!(p.63) 予告通り、ほんとうに爆発してしまう!

その次の回はお正月のお話になり、たくましくもダイナマさんは、前回の爆発でホータイだらけの体で、タコ揚げなどに興じている(p.65)。そこへ彼が飼っているような動物の≪ムガトラ君≫らが、お年玉をせびる。
…途中のドタバタは省略して、ムガトラ君は逃げ廻るダイナマさんを追いつめて、『3つ数える内に 払えムガ!』とおどしにかかる。そして『3、2、1、』とカウントすると、またもダイナマさんの頭がふくれ上がり、『ゼロ!!』でまたまた大爆発!

2. ≪不条理の人≫の、栄光と苦悩!

そうとすると、ちょっと何かが分かった感じだが。にしても2回めの爆発は、シャレにならん規模だったらしい。次の回の冒頭で彼は病院にかつぎこまれ、大手術を受ける(p.73)。もはやダメかと医師らも思ったらしいのに、しかしページをめくるともう超回復しているのは、さすがダイナマさん!
…そしてまた途中を省略してダイナマさんは、何か隠している感じの主治医につめよって、自分のことをたずねる(p.79)。

【伊藤】 私は…私は何者なんですか。
やっぱり普通の人間では ないのですか!?
【ドクター】 私が 調べてわかったことは… ダイナマ君は……
カウントダウンを聞くと 爆発する体質のようじゃ
【伊藤】 (ちょっと変わった体質なだけ、と聞いて安心し、)良かった。
【ムガトラ】 そんな人間 いないムガ!!
【ドクター】 現にここにいるじゃないか!! 3、2、1、0(ゼロ)!!

で、どういうオチになったかは言うまでもない。不条理の人であるダイナマさんは、その自らという不条理によって、彼本人が苦しんでいないわけではないのだった。
かつ。前にペロ先生の「俺様は?(なぞ)」を論じたところで(*)、その内容について『ジョジョっぽい感じもある』などと書いたが。そしてこちらの作品「ダイナマ伊藤!」もまた、ジョジョ第4部に出てくるキラー・クイーンだったかシアー・ハート・アタックだったかの効果で、人間爆弾にされてしまった人物を描いているがごとくなのだった。

3. ≪中の人≫にも、またその中の人?

しかもこの第6巻では、何げに活躍していた人物らの皮が1枚はがれて、中から違った人が出てくる、という描写が多し。それがひじょうにショッキングというか、≪外傷≫的というか。いま見た病院のエピソードの途中でも、どういう必要があってか、わりにふつうっぽいドクターの皮が1枚はがれると、中からちんちくりんのブラック・ジャック先生もどきが出てくる(p.78)。
で、すると。それをかげから見ていた目撃していたムガトラ君は驚き、そのショックでパックンとその体が割れて、中の小さめなムガトラ君が顔を出す(!)。

とは、どういうこと…と聞かれても、とうぜん筆者には分からない。ドクターは何らかの意図あって変装していたようだが、ムガトラ君の方には何の説明もつかない感じ。
またこれを何度も何度も魅せられては、『誰が誰なのか?』ということに、何の確信もなくなってくる。背中のチャックを開けて着ぐるみから出てきたからといって、その『中の人』の≪中の人≫が、またいないとも限らない。

かくてこの「ダイナマ伊藤!」に描かれた世界には、あまりにも確かなことが少なすぎる。そもそもその毎回のエピソードが、『問1、問2、問3』…とナンバリングされていることからも、解きえないなぞが次々と、読者に向かって投げ出されている気配。
そして申し上げるまでもなく、自分が分からず、他者のことも分からず、世界が何であるのかも分からず、解きえないなぞを次々と突きつけられている…とは、画面の外のわれわれのことだ。その考えたくもないわれわれの惨状を、この「ダイナマ伊藤!」という作品は、戯画としてかろうじて、正確に描き出しているのだ。

三上骨丸「罪花罰」 - さようなら罪花罰、そして永遠に…!

三上骨丸「罪花罰」第4巻
三上骨丸
「罪花罰」第4巻
 
関連記事:ラベル「罪花罰」

ジャンプスクエア掲載のきわめて異色あるシリーズ、『お耽美変態フラワーギャグ』こと「罪花罰」。それがこの10月に第4巻が出ていて、しかもそれで完結と知ったのが3日前くらいのこと(!)。
その最終巻のオビに『完尻(かんけつ)』と、また背徳的なおギャグがモロ出ているのが、あっぱれな有終の美学の提示か。そして『残念だな!』とは思いつつ、われらが三上骨丸先生のお次のシリーズ作を待ちながら、ざっとこの「罪花罰」最終巻からの印象を記しておくと。

まずさいしょ、この第4巻で、筆者ことアイスマンがいちばんうけたところをご紹介。
巻頭の第26話『コスプレコンテストの巻』(仮称)で、『学ランとメガネ』というお題が出る。すると、おなじみの過激なパンク少年≪蘭クン≫が超まじめっ子の優等生をよそおい、華麗なる前ホックの白ランを着込んでいわく(p.21)。

【蘭】 (はしゃいでいるライバルをキリッとたしなめて、)キミ! 待ちたまえ
今のキミの発言 刑法三万六条に ふれますよ?
なにしろ私の頭の中 には六法全書が 百冊入ってるん ですからね
【審査員】 百冊って… この人 優等生じゃ ないでしょ!?

やたらお尻ばかりが出ているような(?)今作で、ふだん出ないタイプのギャグの炸裂がよかった。そしてこの『六法全書百冊』というネタだが、それは≪記号≫というものを実体視しがちなわれわれ、そのおろかさをえぐっているギャグか…と、いまは見ておいて。

しかしなのだが、この第4巻、全般的にはちょっと重さが目立つな…とは感じた。前の堕文でも指摘したかと思うけど、ヒーローの≪桔梗クン≫はじめ登場人物らが実はいちようにネクラ気味で、そこをムリにはしゃいでいるようなふんいきが、ちょっとあり。
そしてそういう印象が前に出すぎてくると、ギャグまんがとしては、ちょっと機能的でない。

そこでわれわれが、さかのぼってこの物語の、出だしのふんいきがどうだったかを、思い出してみると?
その記念すべき第1話『綺麗な薔薇にはアレがある』の巻(第1巻, p.5)で、変態フラワーショップの変態店長≪薔薇紋≫の暴走を止めるために、バイト少年の桔梗クンががんばる。その日、近所の奥さまやお嬢さんたちを集めてフラワーアレンジメント教室を開催というので、店の評判を守るべく、薔薇紋の露出行為(=ポロリ)を止めようとする。
ところがあえなく薔薇紋の策略に引っかかり、逆に桔梗クンが変態露出少年として、ご近所の評判に!…というお話だったわけだが。

この大成功例を再見して思うのは、やはりギャグまんがには『逆に』、世間の目だとか≪常識≫だとか、そういったものの導入が必要なのかな…ということ。そこでギャップの成立がなければ、お話も始まらず笑いも生じない。
だから、さいしょから不健全で耽美すぎる薔薇紋という悪のヒーローを活かすには、逆に多少でも健全で常識的な人間たちを並置しなければならない。そしてさいしょは桔梗クンが、そのようなものであろうとして大いにがんばっていた。
かつ、その他大勢の一般人らに対して変態どもをショウアップする、という構図の組み方が、また大いに効果的だった。前に筆者が悦んでみせた『幼稚園でハロウィンの巻』にしても、その図式だったわけで。

ところがだんだんにこの物語から、対比を出すための材料としても、『健全』や『常識』がなくなりすぎている、ということは言えそうなのでは? まずは、パワフルに変態どもへとツッコミを敢行し続けるべき桔梗クンから、そのエネルギーが失せていってしまうことを代表として。そしてお話が、ただ単におかしい人たちがじゃれあっているようなふんいきになってしまっては…?

ギャグだけの話では、ない感じ。この作品の、もう一方の大フィーチャーである『耽美』。その耽美というアチチュードにしても、『引きこもって先鋭化する』と、『出ていって俗世間を挑撥する』と、両方のベクトルがなければよくない、いずれもたないように思われる。耽美なんて本来は引きこもりたいものではあるのだが、しかしお耽美な人しかいない世界では、逆にそれが成立しないわけだ。

で、ギャグ面にしても耽美面にしても、この「罪花罰」という作品、その終盤は少々バランスを失い気味だったような気が、やや筆者はしているのだった。…なんてさみしい結論にもなってしまいそうだが、にしてもお耽美ギャグという方向性をだんこ支持する折から、今作「罪花罰」をあらためて賛美し、そして骨丸先生のさらなるご健筆を希望しながら!

2010/11/03

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「Dr.リアンが診てあげる」

筆者がかってに考えた『下ネタギャグまんが御三家』の一角として、氏家ト全・古賀亮一とともに高みに並び立つ、われらの竹内元紀先生。そして「Dr.リアンが診てあげる」は、竹内先生の2001年のデビュー作にして代表作となっている、下ネタ超満載のギャグまんが。2001年から2004年まで少年エースに掲載、単行本は実質的に全5巻(角川コミックスA)。

1. ゴスロリ幼女が、みとってあげる!

で。実を申せばアイスマンこと筆者は、別に生まれてから現在まで、ずっと熱心にギャグまんがをウォッチしてきた…というわけではない。ま、めったにそんな人もおられないとは思うが、いたら超リスペクトせざるをえず!
自分においての転機は、2005年だった。当時の少年マガジンに掲載、氏家ト全「女子大生家庭教師 濱中アイ」の内容のわけ分からなさ(*)にブチ当たってから、何かあるような気がしてきたのだった。何かとは、≪ギャグまんが≫として、「おそ松くん」から「伝染るんです。」あたりまでのクラシックらとは、また異なった新しいもの、という意味。

それから、ずっと探求しているけれど。その収穫らの中でも、氏家・竹内・古賀の『下ネタ御三家』のお作品らは、慣れたつもりでいまだに、たいへんショッキングであり続けているのだ。そしてそのキラ星のごとき傑作らから、この記事では「Dr.リアン」を見ていきたい。

――― 竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻, 版元の宣伝文より ―――
これぞ下ネタ&脱力ギャグの決定版!!
用法・用量を守り電車内等周りの目がある場での服用には充分注意して下さい。笑いが止まらなくなった場合は医師またはリアンにご相談しやがれです。

「Dr.リアン」がどういうお作品でありやがるのか、これでぞんぶんにお分かりのはずだ。でもぜんぜん分からないかと思うので(読んでおられぬ限り)、ちょこっと筆者からご説明。

題名にも出ているヒロイン≪リアン≫は、見た感じ10歳くらいの女の子。これがゴスロリ服の上にナースキャップと白衣と聴診器をそうびし、女医であると言いはって、でたらめかつ殺人的な治療・投薬・人体実験らをなさりたがる。
で、ヒーローである一介の高校生≪ナオト君≫が、その犠牲になったのだが。しかし彼がひじょうに寛大な人格者で『ドンマイ』とか言うので(!)、それに心を撃たれたリアンは彼にひかれ、そのアパートに住みついてしまう。ちょうど、他に行くあてもなかったので。そして、リアンにくっついている奇妙な生物≪師匠≫も一緒に。
それからこのお話には、ナオト君に惚れ込んでいるクラスメイトの≪美果≫、追ってくのいちの≪もみじ≫などの人物らが登場し、やたらとにぎやかになる。むしろ、にぎやかすぎるというか。しかも彼女と彼たちのほとんどがドスケベ色ボケ気味なので、今作が『下ネタ&脱力ギャグの決定版』になっているわけだ。

――― 「Dr.リアンが診てあげる」第1巻 第1話より(p.16) ―――
【美果】 (『どどん』と語気強く、)あんた 本物の医者じゃないでしょ
【リアン】 おまえ 失礼です リアンの 熱意と心は 本物の医者にも 負けないですっ!!
【美果】 やっぱ ニセモノ じゃん
【リアン】 (大いにあせって、)あやや ナゼかバレた です

この場面で、たぶんかぜで発熱しているらしいナオト君に対し、リアンはヤバそうなシリツを執行しようとし、美果は漢方の応用で(?)ミミズをナマで喰わせようとして、それで争っているのだ。美少女っぽい人たちに囲まれているヒーローといっても、あまりうらやましくはないのだった。

というエピソードにも出ている特徴だが、この物語では全員が徹底してボケまくり(!)、定まったツッコミ役というのがいない。ほとんど変質者しか出てこないような作品で、全員が入れ替わりに入り乱れてボケツッコミを演じる。
字で書くと何でもないようだが、しかし竹内元紀センセ以外で、そんな作品は見たことがない。このあからさまに安定のなさそうなカーニバル的様相を、ちゃんと読めるものとして描ききっているのが、「Dr.リアン」のまたすごいところだ。追って出た竹内作品らでは、ちょっとそれが不安定な感じに傾いてしまっている。

2. ≪リアン≫とは、≪師匠≫とは、何もの?

そしてだ。10歳くらいの女の子が住所不定で放浪中とか、その頭からへんな生物が生えているとか、そういうところでこのお話には明らかに、ギャグまんがにしたって『リアリズム』がない。そのリアン&師匠のコンビは、全編で終始、なぞ的な存在でありすぎ続ける。

…にしても、ちょっとは素性をたずねてみると。まずリアンについて、本人によれば、彼女はある医院の孫娘なのだそうで。そして祖父のドクターがボケ始めたのを見て、自分が跡継ぎにならねばと決意し、それで医術の武者修業(?)をしているのだとか。
また一方の師匠というのが、のべつスケベで下劣でオヤジっぽいことを言いまくっている玉っころなのだが、実にふしぎな生き物だ。そもそも、何の『師匠』なのか分からないし…たぶん、お医者さんごっこの師匠だろうけど!
そして第1話の描写を見ると、それはあたかも髪飾りのように、リアンの後頭部にくっついているのが定位置らしい(p.7)。だから師匠が手足のように使っている蝶ちょ結びのリボンは、髪飾りとしての付属物だったもよう。
で、必要なとき、ガンダムシリーズの≪ビット≫のように、有線でニューッと出てきて活躍する…という初期設定だった感じだが。しかし追って第2話以降、師匠がその定位置にいるのを見た気がしない。

ところでリアンの家の医院について、『お父さんは 継がないの?』と美果が聞くと、リアンはこんなことを言う(p.17)。

【リアン】 ヤツは ろくでなし です
夜な夜な母に プロレスごっことか言って 悲鳴をあげさす とんでもないヤツです
「いやん」とか「死んじゃうー」とか
(ぎゅっとこぶしを作って、)いつか乱入して 母と共にヤって やるです
【美果】 (悦んで赤面しながら、)それは よした方が いいわよ

といううわさに聞く、ろくでなし兼ドスケベであるらしい父親と、現にいるドスケベで役立たずな師匠。この2者の間に性格の重なりを感じない、と言ってはうそになるだろう。ちなみに師匠はとんでもないセクハラ常習犯でありつつ、しかしリアンに対しては、まったく性的興味がないようだ。
だから師匠とリアンとの関係に≪父-娘≫を見つつ、彼らはお互いがお互いを≪ファルス≫にしている、とは言えそう(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。しかしこの記事では、そこはとくべつには掘り下げず。

3. フロイト「小箱選びのモティーフ」 と、「Dr.リアン」

さてなんだが、この作品「Dr.リアン」について。リアンと師匠の存在がなぞすぎるし奇妙すぎる、それは誰がどう見てもだ。
それにあわせて筆者は、ヒーローのナオト君についてさえも、そのパーソナリティが、興味深くも読みきれない、ということを感じるのだった。

彼はまず、おっとりしてるけれど大したむっつりスケベ君として登場。物語の冒頭から、自室のベッドの下にエロマンガを大量に収蔵していなさる。ところがナオト君は、追って彼へとHOTに迫ってくる美果やもみじを、スルーしてまったく眼中に置かない。彼の言う『恋愛感情はないけど 仲がいい』友だちとしての関係を、だんこキープし続ける。
彼は女教師エロマンガが特に好きらしいので、わりと年上ごのみということもありそうだが、しかしそれだけでもない感じ。そして彼が本気でケアしている女の子は、明らかにリアンただひとりだけだ。
第13話の結末、ふざけすぎたリアンがゴリラっぽい男の怒りを買い、そして(敵にぬれぎぬを着せ、)貞操の危機を訴える。するとナオト君は、ひじょうに珍しく血相を変えてブチ切れ、そして『ロリゴリ粉砕パンチッ!!』と叫んですごいのをお見舞いし、その強そうなゴリ男をKOしてしまう(第2巻, p.76)。

そうかといって、彼自身がロリコンだからリアンにご執心、というのでもなさそうなのだ。むしろナオト君は『女教師もの』が好きなわけでもあり、ロリコンらしさを匂わせているところは、作中にまったくない。
かつまた、美果やもみじが裸っぽいものを見せるとナオト君ははなぢを噴くので、彼女らに対して性的な魅力を感じない、というのでもないようだ。

このやっかいな様相を、何とかまとめると。ドスケベのくせしてナオト君は、じゅうぶんな性的魅力をもって彼を誘う美果やもみじを相手にせず、そしてロリコンでもないのに、役たたずな殺人的ちびっ子のリアンを、惜しみなくケアしている。
なぜそうなるのか? 『それは彼が、少年まんがのヒーローであり続けるため』、さもなければ、しんが正義漢であり道徳の人だから…と言えばそれもそうかもだが、しかしもう少しましな説明がありそうな感じ。

その描かれたことがなっとくいかない、というのではない。分かる気もするが、しかしその分かり方がことばにならない、という点がなっとくいかない。
で、ず~っとそれを考えていた筆者だったが、追ってフロイト「小箱選びのモティーフ」(「改訂版フロイド選集 7 藝術論」訳・高橋等, 1970, 日本教文社)という文献を見て、ちょっと何かが分かった気がしたのだった。『ひとりの男が3人の娘からひとりを選ぶ』という場合、もっとも幼くて地味な3人めを選ぶのが『正解』なのだ。

――― フロイト「小箱選びのモティーフ」(1913)より, その概要 ―――
シェイクスピア「ヴェニスの商人」で、3人の求婚者がヒロインを争って『小箱選び』の試練を受ける、という場面がある。そして金・銀・鉛の3つの小箱のうち、鉛を選んだものが当たりを引く。
金・銀・鉛の3者の選択で、鉛が当たりであるというお話は、シェイクスピア以前のずっと古くからある説話パターンだが、しかし何となくふしぎだ。そして『なぜ鉛を選ぶか?』というところで、シェイクスピアの描いたヒーローの口上は貧弱すぎる。こういうおしゃべりの不自然さの背後には、必ず何かある。

そこでいろいろな説話を比較し、さらに『小箱はしばしば女性の象徴である』という分析的知見をもあわせ考えると。…実のところこの種の説話では、『ひとりの男が三人の女たちのうちから誰かを選ぶということが問題になっている』(p.144)。
そうするとこれは、同じシェイクスピアの「リア王」のヒーローが、3人の娘らの中から、鉛のように地味な末娘のコーディーリアを『選ばない』ことで大失敗する、ということを思い出させる。また、メルヒェンで王子さまから選ばれるシンデレラにしても、同じく地味で鉛っぽい3人めの娘であり。
そしてこの3人めの特徴として、『沈黙(・無口・存在感のなさ)』ということが言える。オッフェンバッハの喜歌劇「美しきヘレナ」における『パリスの審判』で、そのヒーローが3人めの女神アプロディーテを選んだ理由は、ただ単に『黙っていたから』だそうで。

そしてこの鉛的な3人めの娘、その意味するところは≪死≫である。分析的に、沈黙は死のメタファーなので。

運命の三姉妹モイラ。中央がアトロポス
運命の三姉妹モイラ。中央がアトロポス
『もし姉妹のうち三人目の女が死の女神であるとすると、われわれはこの三人姉妹が何者であるかすぐにわかる。これら三人は運命の女神たち、つまり運命の姉妹たちなのである(中略、すなわちギリシャ神話のモイラ)。その三人目がアトロポス、すなわち苛責なき者(遁れがたき者)とよばれている』(p.151)。かつ、アプロディーテにも本来は『死の女神』という性格があったらしい。
『コーディーリアは死である。(中略)すなわちそれはドイツ神話の「ワルキューレ」のように死せる英雄を戦場から運び去る死の女神なのである』(p.159)。

よってもって、結論。『ここに描かれている三人の女たちは、産む女(註・母親)、性的対象としての女、破壊者としての女であって、これはつまり男にとって不可避的な、女に対する三通りの関係なのだ』(p.160)。

そして死すべき人間(man, 男)らにとって、3人めの鉛っぽい女を選ぶことは、いわば『究極の正解』なのだ。

そうしたわけで、われらのヒロインであるリアンもまた、りっぱに『運命の三姉妹』の3人めであり、そして『死の女神』の1ピキなのだ。わざとらしく彼女は、白衣の下に黒ずくめのゴス衣装を隠し、そして全身のいたるところに十字架マークを飾っており。
そして彼女が医療のまねごと等をすると、必ず死者が出そうな惨事に! また物語が進むにつれ、美果やもみじらに対し、ヒロインなのにリアンの存在感が薄れていくことも、この説話の性格として必然的なわけだ。

(…あと、よく知らない作品の話で申しわけないが。近ごろよく話題になる「涼宮ハルヒの憂鬱」というシリーズ作でも、3人の娘らがヒーローをめぐって活躍し、そしてその3人めは無口で幼めで鉛っぽいらしい)

4. ワルキューレの『奇行』、ヴァルハラまで…!

ゆえにわれらのナオト君は、若くして究極の正解たる選択をなしたようなのだった。フロイト様のお話を追っていると、いきなり究極へ行っちゃダメなのでは?…という気が、びみょうにはするのだが。ともかくも3人めの貧弱なおチビさんを選択することは、『説話的な必然性』というものを満たすのだ。
そして、『自らの死』であるところのリアンをかかえ込んで生きるナオト君。リアンは彼のことを『好きだもん』とは言いながら、しかし『貴重な実験サンプル』とも呼び(第2話, p.27)、そしてほんとうに人体実験の材料にしており(第5話, p.88)、しかもそれらをぜんぜん隠していないにもかかわらず!

そのように自分用の≪ワルキューレ≫を自ら養っているところから、逆に彼が文字通りヒーロー(英雄)的にも思えるのかな…というところまでを見て。そして今作「Dr.リアン」を研究することは、またの機会にぜひ続く!

2010/11/02

押切蓮介「おばけのおやつ」 - または、≪ホラーギャグ≫論・序説第1章

押切蓮介「おばけのおやつ」 
参考リンク:Wikipedia“押切蓮介”

ただでさえマイナーなギャグまんがの世界ではあるけれど、その中でまたささやかに≪ホラーギャグ≫というジャンルが、ちょっとはやっている感じはある。その現在の第一人者が、言わずと知れたこちらの押切蓮介先生。あと今回は見ないが、松本ひで吉「ほんとにあった!霊媒先生」(2008)の存在をも指摘。
そして参考リンク先の記述だと、こちらの押切蓮介先生その人が、このジャンルの開拓者であるようなお話。へえぇー、そうなのかな?、と思って調べてみると…。

1. ≪ホラーギャグ≫の源流をたずねて

まずは押切先生のデビューが、1997年のヤングマガジン誌上「マサシ!! うしろだ!!」であるそう。そしてそれ以前のホラーギャグっぽい作品はというと、確かにいまいち見つからない。
古典の部類、楳図かずお先生の「アゲイン」(1971)や「まことちゃん」(1976)は、タッチは確かにホラーっぽいけれど、内容にホラー要素があるのではないわけで。またもっと古く、水木しげる先生の諸作のこっけい味ということも思い出されるが、それはわれわれの言う≪ギャグ≫ではない。

まんが本来の風刺やこっけいと、「おそ松くん」以降のショッキングな≪ギャグ≫とを、できれば一緒にしたくはない…というわれわれの立場があるのだ。よって諸星大二郎先生のユーモア系の諸作品も、ここでは除外にしたい。
かつまた、1970-80'sのB級ホラーまんがには、ストレンジすぎてむしろ笑えるようなものも多い、のような説を聞く(その話は、この後にまたふれる)。それもそれで留意すべきだが、しかしわれわれは意図的でないものを≪ギャグまんが≫とは呼ばない。
さらにまた、海外の映画やカートゥーンの分野では、ホラーギャグというテイストはずいぶん前からあったような感じだ。けれどもそっちのお話は、また管轄外として。

なお、ホラーを看板にかかげた作品ではないが、りぼんの大ロングラン4コマ作品の津山ちなみ「HIGH SCORE」(1995)による、このジャンルへの貢献が見逃せない。ヒロインの父親が霊媒体質、同クラスメイトは地下室で化け物を飼っているオカルト少女、イトコの少年は虫をいじめるの大好きなグロ野郎…と、かなりそっち系の要素で押している(*)。

山咲トオル「戦慄!! タコ少女」第1巻かつまた。あまり筆者は知らなかった作家だが、1994年デビューの山咲トオル先生もまた、ホラーギャグというジャンルに先鞭をつけた1人ではあった感じ。インタビュー記事を拝見すると、その作家歴の初期、『“怖いのと面白いのを足したのを描こうかな”と、「まことちゃん」と「おろち」を足したのを描いてみようと』…などと、かなり迫ったことを述べておられる(*)。
ただ筆者のおぼろな印象だと、山咲先生のお作らは、視覚的なグロをフィーチャーしすぎている感じで、『「まことちゃん」と「おろち」を足した』ような…というふんいきではなかったような? そこらはいずれ、機会があれば検討することとして。

2. 包丁をブッ刺し、血がドピュー

それこれ見てくると、分かったのは。『明らかに可能なジャンル』だと、すでにLate 1970'sくらいには認識されていた感じの≪ホラーギャグまんが≫。だが、それが意識的に追求され始めたのは意外と遅く、Mid 1990'sくらいになりそうということ。
しかも。ここまでに名が出た3先生の特徴として、それぞれかなり意図的・意識的に、このジャンルやテイストに進まれている、そのことをわれわれは意識したい。

まず、山咲トオル先生については見たとおり。その初期、画面が楳図先生に似すぎと言われて、『何か個性を!』と考えた末に山咲先生は、その路線を目ざされたのだ。ただし「まことちゃん」+「おろち」では、ぜんぜん『脱・楳図』になっていない感じだが!
また津山ちなみ先生については、以前りぼん誌上で見た談話によると、『すべてネタ出しは計算ずくの作業。ひらめきに頼るようなことはしません』、とか。その計算の上で出てきた、ギャグ+ホラーの路線なのだ。

そして、ここで見ていく押切蓮介先生。この方は、わりとマニアックなまんがファンが高じて、創作に進まれたそうで。その事情が、押切先生のご著書の解説文に書かれている。

――― 押切蓮介「でろでろ」第4巻, 解説文より(p.158) ―――
【押切蓮介】 (ひばり書房の1980's B級ホラーへの傾倒を明かし、)ひばり系って、作者本人たちはマジメに描いたのかもしれませんけど、おかしいじゃないですか。そういう「笑えるホラー」な感じが現代に活かせるんじゃないかと思って。

押切蓮介「でろでろ」第4巻なるほど…と、こっちの側にかってななっとくが生じ気味。『ギャグとホラーの親近性』はひじょうに古くから言われていることだけれど、しかしホラーのふんいきを前提にしながらギャグとして機能させる、そのような創作は、めちゃくちゃに意識的な作業の結果でしかありえないようなのだった。
そしてわれらの押切先生は、B級ホラーの意図されざるおかしさを、意図的なギャグへと鍛えあげようとしておられる、そういう作家だということも、また見えた。

あと、あたりまえのことも記しておくと。かの赤塚不二夫「天才バカボン」(1967)で、マッドサイエンティストがグロい人体改造手術をするようなお話がある。また谷岡ヤスジ「メッタメタガキ道講座」(1970)では、ささいなことでブチ切れたキャラクターがデバ包丁を人にブッ刺し、血がドピューと出る。よく考えたらどちらも怖い内容だが、しかし≪ホラーギャグ≫と呼べるもの、とは感じられない。
つまり≪ホラーギャグ≫を言うには、ふんいきとしてのホラーっぽさが前提らしいのだった。すると「HIGH SCORE」の場合には、わりとのんきな学園生活の中にホラー要素が侵入してくるわけで、ひじょうに巧みな構成ではあるけれど、やはりこっちのコアな作風ではない感じ。

かつ、山咲トオル先生がまんが家業をセミリタイア(?)状態であることから、ホラーギャグの初期からの最重要作家は、やはり定説通り押切蓮介先生なのであろう…と、どうやら確認できたようなところで。

3. 見ることは、見られることでもある

ここでやっとわれわれは、押切蓮介先生の実作を見てみる準備ができたのだが(!)。ところが申しわけないことに、筆者の準備不足により、その代表作っぽいものを語っていくことができない。
そこでいまは、まにあわせ的に(!)、先生の初期作品集から、わずか3ページの小品をひとつ見てみよう。

――― 押切蓮介「おばけのおやつ」p.61, 『遠隔』(2003) ―――
何かのタワーの展望台から、少年が設備の望遠鏡(両眼用)を覗いていると、下方の民家の一室に、首吊り死体を発見してしまう。白一色のワンピースを着た、ぞろりと髪の長い女性の。
それで少年が『あっ…』と言ったきり、とりつかれたように見続けていると、やがてその女はゆっくりと顔を上げる(!)。そして何とも言えぬ不気味な表情で、眼球がないように見える目で、見ている少年を見つめ返してくる。少年は戦慄しながら、しかしそこから目を離せず、向こうを見つめ続ける。
そこへ少年の連れが、ニヤニヤしながら『おい… 何見てんだよ』と、声をかけ少年の肩にふれる。すると少年は、眼窩から血を流しながら、『ズシャッ』とその場に倒れてしまう。その目からは、眼球が失われているように見える。
そして少年の連れが、ぞっとしながら望遠鏡の方を見やると。その接眼レンズのあるところから、ざんばらの長い髪の毛が大量に、こちら側へと垂れている(完)。

おっと、この作品はギャグ味のぜんぜんない純ホラーだったが。けれどもこの短編集「おばけのおやつ」(2007, 太田出版)で、いちばん筆者の印象に残った作品が、この『遠隔』なのだった。

英ブラック・ラット・プロダクション「オイディプス」そしてこの超ショートホラーのスタイルが、われわれの前に研究した中山昌亮「不安の種」シリーズ(*)によく似ていることは、まず言うまでもないとして。そしてその記事で言及された作例らの、『ほのかにも性的ニュアンスがある』、というところも通じている。
『遠隔』の少年が、スケベ心から民家を望遠鏡で覗き込んだのかどうか、ということは分からない。けれども彼の連れは、彼が何かスケベ的なものを見ているに違いない、と思っているわけだ。

で、ともかくも。あれこれの“もの”を『見たい』という少年の欲望が、『見ることは見られることでもある』という≪真理≫の回帰をともなって、さいご罰せられている気配。かつまた≪近親相姦≫のふんいきを匂わせているところも、「不安の種」に見た作例らに同じ。
この物語について筆者は、少年が自分の母や姉の浴室や寝室を覗く、というお話のバリエーションのような気がしたのだった。そして『目をえぐられる』という結末は、かの≪オイディプス王≫が、お話のさいごに自らを罰して自分の目をつぶした、ということを想起させるのだった(=≪去勢≫を示唆する要素)。

よってこれは、単なるグロい怪奇談ではない。見ることと見られること、見る手段としてのフェティッシュであるレンズ類、女性と男性、そして≪欲望≫。…こうした≪外傷≫的な要素らがたくみに織り込まれていてこその、鮮烈な超ショートホラー作品『遠隔』なのだった。

かつまた。このようにホラー作品というものが、何らかの性的な認識を匂わせていることが、かなり多くありそう…と筆者は思うのだが、しかしそんなには聞かない説だ。
『ホラーとエロス』、という問題意識! これにつき、はっきりそのようなお題が出ているのではないが、スラヴォイ・ジジェク様がヒッチコックやスティーブン・キング等を語っているご文らは、かなり迫りえているものと考えつつ。
そして押切作品の場合だとエロスの要素は、その描くふしぎなふんいきの少女たちに出ているものかと思われる。実作をしさいに見ていけば、何かきっと明らかになることがあろう。

…と。まずはわれらが押切蓮介先生の創作のキレ、その一端を見た上で、この話の続きはまた遠からず!

【追加の余談】 『遠隔』という作品について、もうひとこと。それはさきに述べたような作品とみて、いちおうまちがいないとも思うのだが…。
けれど言わんでいいことを指摘しておくと、さいごの1コマの、双眼鏡式の望遠鏡から、髪の毛がこっちに伸びてきている描写。ちょっと見方を変えると、その凄惨で不気味なものが、『ものすごい鼻毛』という風にも見える(!)。
押切先生として、たぶん珍しくシリアス一辺倒なホラー作品である『遠隔』。それが意外に(?)、≪ひばり系≫ばりの『笑えるホラー』になっているようなところが、びみょうにはあるのだった。まさか仕込みでもないと思うけど、どうなのか…?

2010/11/01

施川ユウキ「サナギさん」 - ≪現実界≫でたわむれる子どもたち

施川ユウキ「サナギさん」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「サナギさん」

施川ユウキ「サナギさん」は、2004年から2008年に週刊少年チャンピオンに掲載の、学園ほのぼの不条理4コマ。単行本は少年チャンピオン・コミックス全6巻。

これはまったくイベントも何もないような生活を送る女子中学生のヒロインらが、せめて口先だけでも面白いことが言えないかと、奇妙なことをがんばるシリーズ。別にめんみつに調べてはいないが、その作中、学園祭や体育祭ていどのイベントさえもなかった感じなのは、それまたちょっと奇妙な感じもしつつ。

1. ふたりなら、『チン』ができる!

で、その第1回でヒロイン≪サナギ≫は、『足りないモノを想像すること』という、あまりにも地味なことを、彼女の趣味として言い出す(第1巻, p.5)。たぶんそれは、つまり『わたしには“何”が足りないのか?』という問いの変奏でありそうに思えつつ。
そして思いついたのは、河童の頭のお皿が乾くと困るらしいので、そこにフタが足りないのでは、と。しかし『あ』、と考えなおして、『やっぱ ラップでいいや』と、そのアイディアを簡略化する。すると彼女のイメージしている河童はショックをうけ、『残り物の オカズみたい カッパ!』と叫ぶ。
そのアイディアが気に入ってサナギは、親友の≪マフユ≫にそれを打ち明ける。

【サナギ】 河童のお皿は ラップした方が いいよね?
【マフユ】 (…しばし考えた後、)そのまま 河童を「チン」 できるから?
【サナギ】 (ショックを受けて、)できない よ!
【マフユ】 (ぐっ、と力をこめて、)二人なら できるよ!
【サナギ】 (ショックを受けて、)そんな友情 嫌!

このようにサナギは、ちょっとうまいこと言ってマフユを感心させてやろうと、いつもつとめるのだが。しかしいつも、それより一枚上手なことを、マフユから返されてしまう。
事後的にいまのお話の流れを検討すると、『残り物のオカズ』という語が出た時点で、『チン』の発想までは、あとほんの一歩だ。しかしその一歩を、サナギはめったに踏み出せないし、逆にマフユは、その一歩にためらいがなさすぎる。

それに続き、『足りないモノ』というなら、地獄に比べて天国のイメージはばくぜんとしすぎていて、『“アミューズメント性”が足りないのでは』と、マフユが言い出す。
これがまた面白いところで、女子中学生2人の会話で、どうしていきなり死後の世界の話になるのかと。ただしずーっと見ていくと、マフユはいつもそんなことを言い出す子なのだ、ということは分かってくる。『どうして』への答にはなっていないが、彼女の発想はそうなのだ。

それでいくつか、そのアミューズメント性の提案がなされるがいまいち。そこで、『もっと自由な世界を想像した方が』…うんぬんとサナギが言う。
するとマフユは、またしばし考えた後で、『………… 「轢き逃げ天国」』と、ものすごいアイディアを出してくる。それを聞いてサナギは、『地獄絵図しか 浮かばない!!』と、またまたのショックをこうむるのだった。

かくて。『天国をもっと楽しくしよう』という企画会議なのに、主としてマフユの誘導により、しまいに2人は『地獄絵図』を想像して終わるはめになる。いつも今作はこれ的な展開で、特にイベントも何もない地味な生活を送る彼女らが、せめて想像の世界でゆかいに遊ぼうとすると、なぜか必ずろくでもない、悲惨や苦痛や汚辱のイメージらが浮上してきやがるのだ。

2. ≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなもの、だけど

ところで。『女子中学生で4コマ』というと筆者が思い出した先行作は、りぼん史上に残る名作、田辺真由美「まゆみ!」(1989)。ただし序盤すぎには高校に進学してしまうので、その初期に限ったお話で。
で、別に何もないような地味な生活を送っているのは変わらないけれど、しかし「まゆみ!」のヒロインには好きな人がいる。その男子の一挙一動を見ているだけで、毎日が超ドラマチックなのだ。彼女の心の中では。
しかしその男子(いとーくん)のふるまいが、いまいちイメージ通りの王子さまでない。たとえばの話、くしゃみをした拍子に鼻水を噴き出すようなこともしでかす。そこで彼女はショックをこうむる…というギャグになっている。
≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなものである、というわれわれのテーゼがそこで満たされる。けれどもヒロインのまゆみがタフな少女なので、意外にいとーくんが王子さまであることをやめない。

また一方、高校生のお話だが、同じりぼんで「まゆみ!」を追って出た空前の傑作、茶畑るり「へそで茶をわかす」(1992)。これは「サナギさん」のスタイルを先取りしているところがあって、そのヒロインが親友の少女を相手に、ことばの遊びに興じる局面が多い(*)。

茶畑るり「へそで茶をわかす」第1巻ただし異なるのは、「サナギさん」に存在するような暗さと閉塞感が、「へそ茶」にはまったくない。何しろ「へそ茶」のヒロイン≪ぐりこ≫は、それをやろうと考えたりする前に、いたるところでそくざに遊びを始める女の子なのだ。かなり意図的にそれをしていそうなサナギらとは違って。

――― 茶畑るり「へそで茶をわかす」より ―――
【ぐりこ】 まり 土曜日の時間割ってどうだっけ
【まり】 えーと、保健、芸術、数学ね
【ぐりこ】 保、芸、数か 何だか『保くんの芸の数々』って感じだよね
【まり】 保くんって誰

これあたり「サナギさん」にもちょっとありそうなお話なのだが、しかしテイストがぜんぜん違う。
ぐりこのことば遊びは、何もないところから『芸達者な保くん』という、ゆかいそうな人物を呼び出す。そしてわれわれは、特に面白くもない記号を変換して楽しさを生み出す、そのぐりこの妙技から歓ばしいショックをこうむるのだ。
そして、サナギにしたって意図するところは、そうしたことなのかと思われる。ところがいまいち彼女の発想にはキレがなく、そしてそれをフォローするマフユの発想はキレまくりで、何もなさそうなところからドカスカと、陰惨なものらを次々に呼び出しまくるのだ。

3. 生まれる前に、何をしていましたか?

とまでを見たところで、筆者がへりくつこきの悪癖を露呈。例の≪ラカンの理論≫と呼ばれるしろものの中に、≪現実的なもの(または現実界)≫と呼ばれる概念がある。これは説明しにくいというか、むしろ説明できないものだ。
というのも、現実的なものとは、『ことばでは言えない何か』なのだ。つまり人間の世界の主成分を『ことばで言えるもの』と見て、しかもさらにある『何か』、というわけだ。
で、ここでは細かくふれないが、この概念は、ラカンの精神病論において超重要。別に哲学でもポエムでもなく、分析理論は基本的には治療のための実用品、ということはいちおう強調しておいて。

そしてその現実的なものの顕れは、怖い、不気味、不安、といった印象を人に与える。『名づけえぬものの恐ろしさ』とこれを考えてよく、人々はそれの恐ろしさに耐ええずして、幽霊・妖怪・神霊のような名を、仮にそれへと与えたりもする。
いろいろ考えあわせていると現実界とは、ぜったい誰にも知りえない『出生前の世界』でもあり『死後の世界』でもある、そんな気もしてくる。現実的なものとは、出生する前の自分、死後の自分であるようにも思える。ただしラカンはそこまでのらんぼうな単純化をしていないようなので、それは参考意見として。

で、『顕れ』というにも現実的なものは、ものとして現れるということはない。ではどのように顕れるのかというと、人間らの言語活動(または記号活動)のすきまっぽい部位に、ちらちらと顔を出しやがるのだ。そして「サナギさん」作中のマフユの言語活動は、かなりそれを実現しちゃっているところがある。

――― 「サナギさん」第1巻より, 『眠れない時』(p.22) ―――
【サナギ】 フユちゃんは 夜眠れない時って どうしてる?
【マフユ】 色々パターンがあるけど…… 布団から 片足だけ出して
ふと誰かに 足首をつかまれそうな 気がして 慌てて引っ込める とか……
【サナギ】 (ショックを受けて、)こ…怖いよ!
【マフユ】 コレは 「足首を つかまれなかった パターン」だから 怖くないよ
【サナギ】 (大ショックを受けて、)「つかまれた パターン」 あるの!?
【マフユ】 いや ないけど

この、足首をつかんでくるかもしれない『誰か』が、まさに現実的なものの顕れだ。そしてマフユの想像の中で『さえも』、それは足首をつかんできたりはしない。ないにしたって、あまりにもなさすぎることなのだ。
なのにサナギはさいごのコマで、じっさいにつかまれたくらいの大ショックをこうむって涙ぐんでいる。

また。いまちょっとパラパラ見ていたら、お正月の書き初めにマフユが、『初 最後の晩餐』と書こうかな…というお話が目についた。それを聞いてサナギは例によってショックをこうむりつつ、『最後の晩餐が いくつもある前提…!?』と、首をかしげる(第1巻, p.58)。
まったくありはしないものだが、その『2回め以降の最後の晩餐』こそがまた、現実的なものが顕れている『言語活動のすきまっぽい部位』なのだ。

4. チャーリー・ブラウン -と- サナギさん

で、この作品「サナギさん」は、前途ありげでフレッシュな中学生しょくんが、みょうにダークでウツっぽいイメージにからまれまくって、しまいに頭をかかえるようなありさまを、超しつように描く。
ちなみにこの作品には、作中の実在する大人の姿は描かれない。そこはC.M.シュルツ「ピーナツ」(スヌーピー)シリーズばりの演出で、なぜかいろいろなことにくたびれ気味の子どもたちが描かれ、そして『童心』なんてものの存在が否定されている。
なお、これと並行でヤングチャンピオンに掲載されていた施川先生の「もずく、ウォーキング!」は、もっとストレートに「スヌーピー」へと張り合うような作品になっている。張り合えているかどうか、は別として。

なお、というならもうひとつ。今作「サナギさん」に先だった施川先生のシリーズ「がんばれ!! 酢めし疑獄」について筆者は、『“ファルスのシニフィアン”が出まくり!』という印象をもっている。特に、その初期について(ファルスのシニフィアンとは、勃起したペニスをさし示す記号)。
それに換わって今作は、『“現実的なもの”が顕れまくり!』となっているわけだ。かくて、ラカンの理論の2大おもしろワードの攻略成功という偉業を、施川ユウキ先生の作品系列に見つつ。

でもう、それこれのショックを『受け-流す』ためにわれわれは、ギャグまんがの描いている≪ギャグ≫に対して外傷的でけいれん的な笑いを返す…なんてことは、いままでもさんざんに書いてきたが。
にしても、じっさいにあれこれの怖いものらにおびえ暮らすわれわれにとって、この「サナギさん」の描くびみょうにかわいい少女と少年たちは、少なくとも相対的に『好ましい自己イメージ』ではあろう。だからわれわれは、この痛くて苦しい作品を愛読する。
かつまた、まったくうそだが『ほのぼの』というムードを全般に押し通しているのがうまい。というか、出だしのところに『ほのぼのムード』のあることが、その後に出てくる現実的なものによるショックを強めているわけだ。…とひとまずそこらまでを見て、「サナギさん」の話はぜひまたいずれ!

あらゐけいいち「日常」 - 56億年後の≪救済≫を待ちながら?

あらゐけいいち「日常」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「日常(漫画)」

あらゐけいいち「日常」は、2006年から少年エース掲載中のギャグまんが。ショート・4コマ・まれにやや長い…と多彩なスタイルで、地方都市の女子高生であるヒロインたちの、≪不条理≫っぽい『日常』を描く。単行本は角川コミックスAとして、第5巻まで既刊。

1. シュール! シューラー!! シューレスト!!!

この作品「日常」について、版元のサイトに出ているその宣伝文は、こう。

『かわいいのになんか変な微シュールギャグ。
妄想がふくらみがちな夢見る女子高生・ゆっこの回りにはロボやらヤギやら謎なものがいっぱい。今日も微妙にシュールな日常が始まります』

これを見てひじょうによくその内容がわかったはずだが、筆者においてもひとつ、発見的なことがあった。
というのは、作中に出ている『ロボやらヤギやら謎なもの』らについて。まずそれらをふつうに、≪シニフィアン≫(みょうに意味ありげな記号)らであると見て…そこまでは、いたってとうぜんだが。
そして。それらはつまり、ヒロイン格のゆっこらが『夢見る』『妄想』少女であるがゆえ、彼女らに見えているものなのだ、と! 筆者はあまりそういう風に考えていなかったが、宣伝文のニュアンスではそうなのか、と。

かつまた。筆者はあまり使いたくない語だが『シュール』とは、フロイト様から大影響をこうむりまくったアンドレ・ブルトンらの≪シュルレアリスム≫に関係あることとして。

――― 河瀬昇『公開講座 やさしい現代美術』より(*) ―――
シュルレアリスムは、フロイトが発見した無意識レベルに表現の源泉を求める。フロイトによれば、今まで人間精神の中心を占めるとされてきた理性(意識)は海面上にあらわれた氷山の一角に過ぎず、精神の大半は海中に沈む氷山のように意識下に没したまま、深層に潜む原動力として精神の働きに参画しているのである。シュルレアリスムは、この無意識にあって通常では隠れたままの人間の欲望や夢を現実に引き出し表現しようというのである。
(中略)
フロイトが提起した無意識レベルへの視点は、いきづまった近代自我による表現、近代芸術の限界を超える可能性を持つかんがえ方であったといえるだろう。現代においてなされる表現は、多かれ少なかれ、無意識レベルへの視点を抜きにしては成り立たないといっても過言ではない。

だそうなのでわれわれは、ギャグまんがなんてものを読んで『シュール…』とつぶやいているだけでも、『フロイト・ザ・グレーテスト!』と述べているに等しい。この正しい認識は、しっかりと身につけねばなるまい。
かつまた。別にシュルレアリスムの系統だけがフロイト(の理論)に関係しているわけではなく、それはそのひとつの用い方だ。『フロイト以前の精神分析は、(古代ギリシャ等、有史以来の)詩人らによってなされていた』というわけで、どんな流派であろうと芸術は、精神分析のベストパートナーなのでもありつつ。

2. 首を折って拉致、土中に埋めた上で焼却

おっと。『シュール』という語の登場に挑撥を感じたので、ついついそれに応じてしまったが、そんなことよりも!
今作「日常」に登場するひとつの≪シニフィアン≫、われわれはその動きを追ってみよう。この作品の興味深いところのひとつとして、エピソードの並び方が時系列順ではなさそう、ということがある。つながっていそうなお話の、結果が先に語られ、発端が後に出ているようなことが、わりとある感じ。
そのような叙述の例としてわれわれは「日常」第1巻から、≪弥勒菩薩像≫というシニフィアンの動きを追う。

まず「日常」第1巻、『日常の2』(p.18)。ある朝の通学路、親友のメガネ少女≪麻衣≫に出くわしたゆっこ。
ところが、しらっと無視される。そこで心当たりのひじょうにたくさんあるゆっこは、ひじょうに多くのいろいろな件をあやまり、そしてちゃんとつぐなおうとする。
つまり、その前日に麻衣のお弁当のハンバーグを食べてしまったことをあやまり、つぐないとしてひき肉のパック(生)を差し出す、等々。しかし麻衣のシカト攻撃がやまないので、何を怒っているのだろう…とさらに考えて、そしてあることに思いいたる。

【ゆっこ】 もしかして おととい 麻衣ちゃんの 弥勒菩薩の首 折ったこと?
そのまま 勝手に 持ち出した こと? そのまま こっそり土に埋めたこと?
やっぱり考えなおして 焼却炉で燃したこと?

ここまでずっと食い気関係の話が続いていた後で、いきなり『弥勒菩薩』という話題の登場にはびっくりさせられたのだった。絵で見るとそれは、全高おそらく20か30cmくらいの木彫りの像で、有名な広隆寺の『半跏思惟像』を模したようなもの。また弥勒菩薩とは、56億年後に“すべて”の衆生をまるっと≪救済≫なさる予定の、たいへんありがたい仏さまらしい。

で、弥勒の件を言ってさえも無反応なのでゆっこは、『ね――っ』と言って、麻衣の肩を叩く。すると麻衣は振り向いて、長い髪に隠れていた耳もとからイヤホンを外す。
それを見てゆっこは、音楽を聞いてたせいで、いままでの声がぜんぜん聞こえていなかったのか…と考え、いろいろほっとする。ところが続いて麻衣は、『後半 初耳』と言う。ゆっこ、ぎゃふん(完)。
これは麻衣というキャラクター特有の出方で、彼女はいつでもポーカーフェイスのうちに、必ずや2段め3段めのオチを用意している。そもそも『ヘッドホンのせいでした!』なんてオチ方では、現代的なギャグまんがとしておそまつなわけだし。

それに対してのゆっこのボケ方が、≪解決≫への見込みもなく乱発されるのと、きわめて対照的。そのような麻衣のくせ者ぶりには、今後も大いに注意すべきだが。
がしかしいまの問題は、≪弥勒菩薩像≫だ。どこからそんなものが、この女子高生たちの『日常』へと割り込むことになったのか?

3. なんか すごい うれしそうな彼女!

弥勒菩薩半跏思惟像いや別に、初読のさいには、そんなことなど考えてはいなかった。だがしかし、それからちょっと後の『日常の6』で、さかのぼってそれが明らかになったことには、逆にびっくりさせられたのだ。
何せ『シュール』系と言われるようなものだけに、放り出すかと思い込んでいたので。ところがそうではないというところにも、また今作の非凡さを感じつつ。

で、その『日常の6』は、ゆっこたちの高校の朝礼のお話(p.51)。まずイントロで、ハゲ校長の飛ばすしょうもないおやじギャグに、ゆっこはへきえき。ところが麻衣は、同じものを聞きながら、口をおさえて『ププー…』と笑いをこらえている。
それを見て、『まさか 麻衣ちゃんの弱点が おやじギャグだったなんて』…と、ゆっこは思い込む。それが事実かどうかはともかく、そう『思い込んだ』ことにわれわれは、≪意味≫を見出しながら。

そして校長に続いては、気が弱いくせに生徒指導係の若い女教師≪桜井≫が演壇に上がって、生徒らに『指導』的な話をする。よく見ると彼女は、その胸もとに両手でしっかと、うわさの弥勒像を持っている(!)。
それからちょっと別の展開があった後、ふと思い出して桜井は、かんじんきわまるこっちの話題に移るのだ。

【桜井】 (両手で高く弥勒像をかかげ、)今日 私の下駄箱に 弥勒菩薩が入っていました
こういうイタズラをするのは いけないと思います!!
【ゆっこ】 うわっ 気持ち悪いな よりによって なんで弥勒菩薩 なんだろ
【麻衣】 (“なんで”なのかを、)わからない でもない

すると自首して出たのは、何とさっきのハゲ校長(!)。そして頭をかきながら、『いやー桜井先生が 誕生日だと聞いていた もので… そーですか弥勒菩薩は ダメですか――…』などと、グダグダおかしな弁明をしやがるのだった(完)。

と、そこにおける弥勒像の再登場にびっくりしたところで。またその次の弥勒菩薩の出番は、『日常の8』(p.75)。教室の机をはさんで、ゆっこと麻衣は、『たたいてかぶってジャンケンポン』などと呼ばれる遊びをしようとしている。
ところが麻衣は、そのルールがあまり分かっていないのか、やる気がないのか、どっちかでゲームが進まない。ひとり相撲を演じさせられてゆっこが嘆いていると、麻衣はとつぜんロッカーから弥勒像を出して、『もらった』と言ってゆっこに見せる。

【ゆっこ】 (モノローグ、)さっきの弥勒菩薩!!!
【麻衣】 (それを机のすみっこに設置し、)これを ここに… フフ
【ゆっこ】 (さいしょモノローグ、)なんか すごい うれしそーだ ……
も――!!! そんなん どーでもいーから やるよ!!!

すると次の勝負、麻衣は『グッチョッパ』という最強の手を出して、そして勝ったと自己判断し、ばちあたりにも弥勒像でゆっこの脳天をポカリ! これにゆっこは二重三重のショックを受け、涙ぐみながら、『グッチョッパなし!!! あと 仏で叩くのも なし――~~!!!』と、麻衣に言う。
で、さいご、ようするにやる気がないと麻衣が告白。そこでゆっこは、ついに『何か』をさとって、やがてこんなことを言ったのだった。

【ゆっこ】 (画面は校舎の外景、)弥勒菩薩 みていい?
【麻衣】 いいよ

というところで、このエピソードは『完』。すると推測するに、弥勒像の有為転変の運命は。

 【1.】 校長がどこからかそれを調達し、桜井の下駄箱へ。
 【2.】 桜井がそれを、朝礼でさらしものに。
 【3.】 麻衣がそれをもらいうける。
 【4.】 ゆっこがそれの首を折って、いちど埋めた上で焼却してしまう。

【2.】と【3.】の間のプロセス、麻衣は誰の手からそれを直接もらったのか、桜井か校長か…ということが明らかでないが、まあそれはいい。何を考えたか校長が、彼の学園に持ち込んだ弥勒像は、桜井や麻衣の手をへて、そしてゆっこによって焼却(=償却)されて終わったらしいのだった。

4. ムレムレのオヤジ性 と、≪娘≫たち

で、どう見てもこの≪弥勒像≫が、われわれが言う≪外傷≫的なシニフィアンであり。そしてはっきり申してしまえば、それは例によって≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを表す記号)なのだ。
それは一方で性欲のたけりを表し、また一方で理性や権威や父性的なものを表す、『両義性』もきわまった記号。そもそも女性の誕生日に、匿名のプレゼントとして弥勒像を贈るなんて、意味は分からないが『とにかくセクハラ!』…と受けとってまちがいない。そしてこの場合、校長のそなえたムレムレの『オヤジ性』が、その外傷的なシニフィアンによって示されているのだ。

ゆえに朝礼のお話のイントロで、麻衣が≪おやじ≫ギャグにうけてみせる、という前ふりが必要になってくるのだ。つまり校長が示しているムンムンのオヤジ性に対する態度が、桜井はネガティブ、麻衣はポジティブ、そしてゆっこは両義的。
で、その弥勒像に対して両義的なゆっこが、さいしょは事故にしても、そのファルスのシニフィアンである弥勒像の首を折って≪去勢≫を執行し、さらには埋めた上で焼却(=償却)してしまう。…何ゆえの去勢なのか、なぜ彼女によってなのか?
そのあたりに、また何か意味があるような気もする。その去勢の仕打ちは、校長に向けられたものか、麻衣に向けられたものか、あるいはその両方なのか…。

かつまた。分析的な視点をはずしても、神仏の像を壊す・埋める・焼却するということが、ふつうにショッキングな描写だ。日本の例だと土偶に対する処し方を思い出すようなところで、するとこれは、民族的・神話的な≪外傷≫をえぐり返しているギャグでもあるのだ。

というわけで、われわれの議論があたたまってきたところだが。けれども記事がずいぶん長くなっているので、このひじょうに注目すべき作品、あらゐけいいち「日常」については、またいつか再び見ていくことに…っ!