2010/02/18

小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密」 - 赤塚不二夫「おそ松くん」を再び見出すために

この記事は、いったい何なのかというと? まずはギャグまんがを追求しようとするわれわれの必読書、米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981, 新評社)という名著が存在し。
そうしてそれに参考文献として紹介されていたのが以下に見る書物、小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」(1980, 創元社)だ。そして読んでみたらじっさい、その著者さまも言われるように『いまだ誰もはっきり論じたことのない』独創的な説があるかと感じたのだった。

そこでその当該のチャプター『笑い』(p.5-16)の要旨を、節ごとに抜き書きしたのが、追って掲示されるサマリーだ。ところでそれを見ていただく前に、筆者の注目点を書いておかねばなるまい。さもないと、要約の意味が通じないかも知れない、とおそれるので。

すなわち自分の考えとして、人間の『笑い』というものは、単にゆかいだから笑う、というものではない。『笑いは常に、どこか悪魔的である』とするボードレールの批評「笑いの本質について」(1855)、それを下敷きとすれば、次のように言える。
たとえば≪ハイジ≫のように純朴な田園の少女がいたとする。すると彼女は、ゆかいだから、という笑いしか知らないかも知れない。それをいま≪天使の笑い≫、とでも言っておく。空が青いから彼女は笑い、小川の水がきれいだから彼女は笑う。たぶん≪天使の笑い≫とは、そのようなものだろう。
ところが彼女が薄汚れた都会に出て、その雑踏の中でもまれるような暮らしをしたとする。そうすると彼女はやがて、われわれのよく知っている黒い笑い、『悪魔的な笑い』を知って身につけてしまうだろう。
そしてその悪魔的な笑いとは、差別・軽蔑・愚鈍・無知・偏見・無分別・暴力・死・狂気・セックス・未熟・貧困・スカトロ・グロテスク・剥奪・喪失…といった、ふつうはまったく『ゆかい』でなさそうな事項にかかわるもの。すなわち、われわれのよく知る≪ギャグ≫の作用だ。

では、なぜ≪天使≫ならざるわれわれは、まったくゆかいでなさそうなことらを≪ギャグ≫として笑うのか、笑えるのか? ここに問題がある、と見つつ。
そうして筆者の考えを言ってしまえば、人はゆかいでないことをも笑うことで、びみょうにもそれがゆかいかのように錯覚するのだ。それによって『受容可能なもの』として、その不ゆかいな事項らを再認するのだ。それを一種の『精神の健康法』として、われわれは実践しているのだ。

それはどういうことかというと。まず、どういうところから出たものであっても、人間にとっての『笑い(緊張の解消)』は≪快≫だ。むしろ『まず』笑ってみれば緊張が解消され、そしてそこに一定量の≪快≫が生ずる、とさえ言えるものだ。そしていろいろな意味での過剰で『おかしい』ものに触れたときに笑ってみせるということは、『なるたけ緊張を低めよう』という≪快感原則≫の適用結果なのだ。俗な用語で、『ストレスの発散』と言ってもよい。
ゆえにわれらのハイジっぽい少女は、ハードな環境の中で自分が傷つかないために『悪魔的な笑い』を憶えるのだ。『悪魔的な笑い』とは、まったくよくないものや状況を見ながら『こんなのは、まだまだ最悪じゃないね!』と言ってみるような強がりだ。
きわまったところでは、焼死体を見て『火葬の手間がはぶけたな』と言うような≪ユーモア≫、『黒いユーモア』! そしてそんなことを言っている人間が、必ずしも心を痛めていないとは限らない。

かつ人間にとって、『ゆかいでないこと』のきわまりを≪外傷(トラウマ)≫と言う。こんにちの一般的な用法だと『トラウマ』の語は、大災害で被災したとか、ハイジャックの人質になったとか、そんな極限的な体験(の印象)を言うようだが。『それもそう』なのだが、この語をさいしょに言い出した精神分析の用法は、ちと異なる。
もっと一般的な、誰にでも必ずあるものとしての≪外傷≫に、われわれは注目しているのだ。いちばんきょくたんなことを申せば、『なぜに自分は女性(もしくは男性)なのか?』というところに、もっとも根深い≪外傷≫が普遍的にある。
(補足。フロイトの研究過程で、最初期の「ヒステリー研究」では、ストレートな性的外傷が病因論の中心だった。それがだんだん変わっていき、最晩年の論考では≪去勢≫にかかわる外傷こそ、人間の終生克服しえぬコンプレックスだ、と言われた)

そうして、表現としての『笑い』の追求ということが深まっていったときに、その≪外傷≫というものをつつくような笑いが現れたのは、『逆の』必然とも言えよう。『本来は笑えないようなネタを用いて笑わせる』、そういうものを≪ギャグ≫だとすれば、それの進歩の方向性は『ゆかいでないことのきわまり』をネタにすることだろう。

そして、ここで問おう。米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」の論旨もそうなのだが、かの赤塚不二夫「おそ松くん」(1962)が『ギャグまんがの第1号』と見られる、その理由は≪何≫だろうか? かつ、まんがなんて本来こっけいを描くものなのに、そこへことさら『ギャグまんが』という言い方が出てきたのはなぜなのか?
それは、わざわざ≪外傷≫をえぐるものとしての≪ギャグ≫が、その「おそ松くん」という作品によって初めて集中的に、まんがへと描かれたからだ。

別のところでやや詳細に「おそ松くん」は検討したいのだが、いま言えることとして。それは単なるドタバタであるばかりでなく、かのイヤミ氏の『シェー!』という≪ギャグ≫の発明によって、≪ギャグまんが≫と呼べるものになりえたのだった。
では、『シェー!』とは、何か? それは、人間のオーガズムを婉曲に示唆するジェスチャーに他ならぬ。それは『逝くゥ~ッ!』という絶頂の叫びの婉曲な言い方をともなって、オーガズムの硬直とけいれんが模擬されている≪行為≫なのだ。
…またそれを追って1970'sには、黒鉄ヒロシによる『アヘーッ!』、どおくまんによる『ガビビィ~ン!』などの同じ線を追う≪ギャグ≫が登場し、それぞれ社会にインパクトを与えている。特に前者は、『シェー!』が婉曲に表現していたものを、もろストレートに表現している。かつ、これらに類する瞬時の1発ギャグの多くが、突発的なオーガズムの現前『である』ものと見られる。

そうして筆者の意見だと。述べたように「おそ松くん」をギャグまんがの第1世代として、以下に山上たつひこ「がきデカ」(1974)が第2世代、そして吉田戦車「伝染るんです。」(1989)が第3世代…として続くのだが。
そしてその流れをたんじゅんに、『進化である』などとは申さないが。しかしその間に、『ことさらに≪外傷≫をえぐっていく』という≪ギャグ≫の方法論に深まりが生じていそうなことは、おそらく見てとれるだろう。その流れの中で、≪外傷≫的な題材らの取り扱い方に、『婉曲→露骨→また婉曲』という行ったり来たりがありながら。

そしてそのきわまりとして出ているのが、『第3世代』の最大の武器である≪不条理ギャグ≫という方法だ。それはどういうものかというと、われわれの用語で言う≪シニフィアン=意味不明だが意味ありげな記号≫が提示され、それが見ているわれわれの≪外傷≫をえぐり返していく、という方向性だ。
ここでわれわれは、不条理ギャグの意味不明さは、≪シニフィアン≫の意味不明さとイコールだ、と言ってもよい。かつ、不条理ギャグがみょうに意味ありげなのは、≪シニフィアン≫が意味ありげなこととイコール、でもありつつ。

『(精神分析において)本質的なのは(、意味のある解釈よりも)、主体が、そのような意味作用の彼方で、どのようなシニフィアン――“ノン・センス”な、“還元不可能”な、“外傷”的なシニフィアン――に、自分が主体として従属しているか、を知ることである』
(by ジャック・ラカン, 「セミネールXI 精神分析の四基本概念」より)

そしてわれわれは≪ギャグ≫が≪外傷≫をえぐり返してくれる痛みに耐えかねて、そのショックを突発的な呼吸器や腹筋のけいれん(=爆笑)、という肉体の反応として受け流し、そして受けとったものを≪無意識≫に向かってスルーする(=抑圧)。≪外傷≫自体が『必ず抑圧されているもの』なので、その≪外傷≫についての≪知≫もまた、抑圧されねばならない。
かつ、そこで受けとられながらスルーされ抑圧されたものとは、≪真理≫に他ならない。≪真理≫が大げさに聞こえるなら、フロイトが「機知」(1905)に書いている『無意味の意味』に他ならない。人は単なるまったくのナンセンスを笑ったりはせず、それがひそやかに『無意味の意味』を発揮している限りで、それを≪ギャグ≫と受けとめる。
(精神分析の追求の対象としての≪真理≫、という概念が存在する。それとカッコなしの真理とは、いちおう別ものではあろうけど、しかしまったく無関係とは思われぬ)

ところで現在≪不条理ギャグ≫といえば、吉田戦車が開発した方法かのような見方がなされなくもないが(?)。さもなくば、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)が元祖かとも見られそうだが。しかし大方はご存じのように、それは遅くともLate 1960'sには用語も方法も出ていたもので、それ自体はまったく新しくない。
けれども、そんな方法をもって社会に大なるインパクトを与えた作品としては、吉田戦車「伝染るんです。」が第1号だ。そしてその方法は、今21世紀初頭のもっともポピュラーなギャグまんが、すなわち「ピューと吹く! ジャガー」や「増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和」らにも流れ込んでいる。
そこらを見て筆者は、吉田戦車「伝染るんです。」という作品の登場を、『ギャグまんが第3世代』の誕生と呼ぶのだ。何せまんがは『ポピュラー・アート』の一種だと考えられるので、筆者の見方もそれなりに『ポピュラリティ重視』としている。
(付言して。思想界の用語、実存主義の用語としての不条理と≪不条理ギャグ≫の不条理とは、その意味が同じでない。これについては、別稿で語られるはず)

ッとぉ…! しまった、こんなに長い前説を書くつもりはなかったのに…!

で、まあ。以上のような筆者による『ギャグまんが論』の裏づけの1つとして、以下に小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」のサマリー(記・2009/04/19)をご紹介したい、というわけなのだった。ではどうぞ。

≪小此木啓吾「笑い・人みしり・秘密 - 心的現象の精神分析」, 『笑い』より要約≫

1.【<笑い>は、おかしさの生理心理的な感情表出】
 仮説:笑いの源泉とは、人間らの生与の≪くすぐられ快感 - 笑い反射≫である。

2.【微笑と笑い】
 人々が『笑い』と呼ぶものに、2種類あるかと考えられる。
 i. Smile=『微笑』。これは、心的な緊張が解消された後の心理状態の表出とみられる。(=≪快楽≫的なもの)
 ii. Laughter=いわゆる『笑い』。アハハ、キャッキャ…のような笑い声、および肉体の軽いけいれん等をともなう、激しくも一過性の感情表出。これは何かといって、『内面に起こったはげしい心的な緊張の解消作用そのもの』かと見ゆる。(=≪享楽≫的なもの)
 そして以下では、後者の『笑い Laughter』にしぼって論考を進める。

3.【笑いのナルシシズム(自己愛)】
 笑いのベースには、笑う者のナルシシズムが必ずある。

4.【笑いの緩和作用】
 笑いの心理作用として注目すべきは、『何らかの心的緊張が高まる際に、その緊張を和らげ、時には笑い飛ばしてしまう』。
 そのような『笑い』の緊張解消・弛緩作用には、さまざまな衝動や感情の高まりを笑いへと転換し、人々を再度セルフ・コントロールさせ直す…という機能が(社会的に)期待されている。『笑いは、有用な自我の緩衝作用』。

5.【笑いと“くすぐり・くすぐられ”反応】
 笑いには、性的な興奮を中和したり遮断する効果がある。しかし一方で『笑具・笑い絵・笑女(・売笑)』…というように、笑いが性交を意味する場合もある。どういうことか?
 まず、『≪くすぐり - 笑い≫という刺戟反応ほど≪性的刺戟・興奮-オルガスム≫という性的な反応に類似した現象はほかにない』。よって前者の過程がすでに『あまりにも性的であって』、場合によっては容易に『性感的なものに発展してゆく可能性をもつという意味で、性的なものときわめて親密である』。
 たとえば男性が女性をくすぐるという状況を想定すると、『もし、男女間に性愛関係が肯定されているならば』、くすぐりの快感はそくざに、その女性の性愛的な興奮へと結びついてゆく…かと考えられる。だがしかし、もしも女性があくまでもケタケタと笑い続けるだけだったならば、性的興奮は盛り上がらない。
 後者の場合に、女性がやっていることは何か? 彼女はくすぐられる快感を、性器的な興奮の高まりへと結びつけず、『性器以前』的な性的興奮として表出し、それですましている(ふつうならば性的に興奮させられそうな刺激を、性的でなさげな興奮へと流し込んで処理している)。かつこれによって彼女は≪自我≫の機能とナルシシズムを維持し続け、そしてことに対する能動性を失わずにすんでいる。かくて、『笑いによるセルフ・コントロール』が成功している。

6.【おわりに】
 未検討の話題が3つ列挙されているが、さいごの≪諸感情の表出手段としての笑い≫のパラグラフを引用しておく。
 『笑いは、快感を伴い、しかも攻撃性、性欲いずれの衝動をも直接なまなましく発揮しない。むしろ、笑いはそれらの緩衝作用を営む。笑いは互いに共有されやすく、社会化された形での感情表出手段である。これらの心理的諸機能をもつために、笑いは社会生活におけるおかしさ以外のさまざまな感情(悲しみ、怒り、照れ…)のもっとも一般的で、もっとも適応的な感情表出手段になる』

以上、要約の終わり。

なお同じ本のさいごの方で、こんどはフロイト「機知」の主張を(いちおう)ふまえつつ、再び『笑い』が検討されている(p.189)。が、そっちの論考にはいまいちキレがない。

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