2010/04/21

山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - こんな≪女≫で、よかったら?

山上たつひこ「喜劇新思想大系」講談社+α文庫版・上巻, 1997 
参考リンク:Wikipedia「喜劇新思想大系」

ご存じのことかとは思うのだが、以下で話題の作品「喜劇新思想大系」(1972)の内容は、まったくもって激烈にはしたないしろものに他ならない。なので皆さま方におかれては、以下を見ても過剰にはびっくりなされないよう、あらかじめお願いしつつ。

さてこの「喜劇新思想大系」は、何度も何度も再刊されている≪ギャグまんが≫史上の大傑作だが、筆者においては秋田漫画文庫版(1976)の印象が強い。というか、通読したことがあるのはその版だけだ。で、その全6巻を一時は持っていたのだが、なぜか近ごろ見つからない(歴代の刊本については、次のリンク先をご参照。[*], [*])。
というところで地元の図書館に、講談社+α文庫版(上下巻, 1997)の収蔵を発見したので、それで久々に今作を再読したのだった。するとこの版についての印象があまりよくないが、しかしそんな書誌的な細事はおいといて。

こんどの再読で筆者の印象に残ったのは、次のことだ。今シリーズ中に、おなじみのヒーロー≪逆向春助くん≫が女装するエピソードが、2つある。するとその両方のお話で、女装した春助くんは、別にゲイでもない男性たちから、異様に好かれてしまう。
もっとはっきり言うと、彼たちの劣情を強力に刺激してしまう。それはもちろん≪ギャグ≫ではあるが、なぜかこのことに、ふかしぎかつ異様なる説得力があるなあ…と、このたび自分は感じたのだった。
なお、ご存じの方も多いだろうけど、われらが春助くんの面相は、あいきょうのあるおサル顔。きょくたんなブ男とわざとらしいハンサムしか出てこない今作の男子らの中では、わりかしニュートラルな見かけだとは言える。が、そうとはしても、別に女性と見まごうようなツラつきはしていない、と、おことわりした上で。

さて具体的に申して、春助くんの女装エピソードが出ているのは、この刊本の上巻に収録の2編。『町内素人名人会』(p.247)と、『お見合い大百科』(p.385)だ。
まず『町内』で春助くんは、横丁の仲間たちに誘われて、素人芝居のヒロイン役を演じる。劇の演目は、エロ小説家の≪筒彦≫が脚本を書いた、『“世紀の対決”慢性欲情男と先天性淫乱パクパク女』という、題名からしてまったくどうしようもないしろものだ。そして先天性何とか女の春助くんに対抗して、おかまの≪亀丸師匠≫が欲情男を演じるのが、また面白いところでありつつ。
その一方の『お見合い』で春助くんは、彼が思いをかけている少女≪めぐみ≫のお見合いをブチ壊すべく、本人の代わりに自分が女装してその席に出る。そこでとんでもなく粗暴でおバカで品のない女性を演じて、相手を撃退しようとする。

そうしてそれらのお話が、どう運ぶかというと…。

まず『町内』で春助くんは、さいしょはいやがっていたくせに超ノリノリで、その下劣きわまるお芝居に入っていく。そしてチン妙な女装姿で舞台セットの上で、『ああ…… ほてるわ 体が うずく……』などと言ってるところへ、何かの拍子に、警官に護送されている最中の婦女暴行魔が、会場に入ってくる。
するとその暴行魔は、春助くんの演じる団地妻のわざとらしい媚態と嬌態を見て、『イ… 色ッペエ~ フーッ!フーッ!』と、激しく興奮してしまう。それで警官の制止をものすごい力でふりきって舞台に上がり、そして春助くんを間近で見ながら『女…… いー女』とつぶやき、その次の瞬間には『犯す!』と叫んで跳びかかり、何かしようとするのだった。
そこで舞台監督の筒彦はあわてるけれど、ほとんどの人々はその展開を面白がって、事態を止めようとはしない。たまりかねた春助くんは、ステージ近くで見ていた艶っぽい未亡人≪志麻≫を暴行魔に示して、『(自分は)女と ちがうっ これが本当の 女ですよ』と言いながら、志麻を犠牲にして彼のなんぎを逃れようとする(!)。
だがそんな鬼畜の保身行動もむなしく、暴行魔は志麻には目もくれず、春助くんをかっさらって逃走。そして山中の隠れ家で彼は、あくまでも春助くんを女性と信じつつ、何かを試み続けるのだった。

その一方の『お見合い』で春助くんは、これもまたチン妙なドレスとカツラ姿でお見合い会場に出現。しかもメイクがへんに濃いので、春助くん本人から見ても『まるで 終戦直後の パンパンでは ないか』というありさま。そして、あまりに粗暴すぎなので高校をダブって在学5年目、特技はバーベルとジャーク、さらに『ご趣味は?』と聞かれての答に、『はい オナニーを 少々…』等々とふざけたことを、見合い相手の男性に吹きまくる。
ところがよく見ると相手の反応が、さいしょはすなおにドン引きしていたものが、『オナニー 俗に言う マス ですわね』という春助くん(が演じるめぐみ)のせりふが出たあたりから、びみょうにも喰いつき始めている(!)。それから2人が庭園に散歩に出ると、『めぐみ さんなら (和装よりも)ウエディング ドレスの 方が 似あう かな?』などと彼はぬかしやがり、そして春助くんの体に手を廻してくる。何とこの男はすっかり、目の前の≪女≫と結婚したい気まんまんになっているのだ(!!)。
と、計算が大ちがいになったので春助くんは大あわて。父親役の筒彦をからめて、もう1つお芝居を打ち、その粗暴さと非常識さを魅せつけてみるが、しかし男はいっこうに引かない。それどころか嬉々として、『あとは 結婚式の 日どりを 決めるだけ ですねっ』などと、とんでもないことを言い出す(!)。
そこで最後の手段として春助くんは、その場で服を脱いで全裸を男に見せる。そして『この通り…… 私は 女として 生まれながら 体は男……(中略)とても あなたの お嫁に なんか なれませんわ』と、わけの分からぬことを言って、ついに男をあきらめさせる。と、それでうまく行ったかと思ったら、その1ヶ月後に男が性転換して女性になって春助くんを訪れ、再び結婚を申し込んでくるのだった。

という2つの女装エピソードを見て、大いに笑った後でちょっと考えてみれば。そうこうとすると、男という連中は『実は』、作中で春助くんの演じているような≪女≫こそを、ほんとうは好んでいるのでは?…という気がしてくるのだった。
春助くんによる2つのお芝居は、『男たちが本当に求めている≪女≫』の姿というものを、うかつにもそれぞれの場へ現前させてしまっているのだ。それはわれらのジャック・ラカン様が、『≪女≫は、存在しない』という超メイ言によって記述しているところの≪女≫でもあろうかと。つまり男らがかってに求めている≪女≫は実在しないものだが、しかしわれらの『女装春助くん』は、そのイメージの一片としてのリアリティをそれぞれの場で実現しちゃっているのだ。

また、別のところから言えば。エロ小説家を本業とする筒彦が、『先天性淫乱パクパク女』などというしろものを彼のお芝居のヒロインにしたことは、べつに観客への(意識的な)イヤがらせではなさげ。そうして彼の制作のねらいは、少なくとも1人の観客に対しては、超ジャストミートしているのだ。
かつ、まったく関係ないものを結びつけているようでもあるが、かの高橋留美子「らんま 1/2」(1987)について、粗暴でありつつしみのない≪女らんま(その実体は男子)≫というキャラクターが、作品の内外でやたらな人気を呼んだ。このことをも、あわせて考えてみるとよろしいかも。

かくて今作における『女装春助くんの大好評(?)』という描写は、意外性の演出でもありつつ、しかしまったくとっぴなことが描かれているのではない。そして読者はそれへと≪共感≫しながら、しかしその≪共感≫を拒み、それを無意識へと沈める。その間の心的エネルギーの大きな動きが、『笑い』という肉体の運動によって消費される。
かつ、かくてわれらが呼ぶところの≪ギャグまんが≫は、それによって笑うものたちに対してのパーソナルで外傷的な≪真理≫を返している。『真理:≪女≫は、存在しない』。ところがノーマルな読み手たちはその≪真理≫を受けとって無意識へとスルーするのであり、そしてそれでよい。『受けとってスルーする』ということと、『受けとらない』ということとは、けっしてイコールではない。

さらに、もう少し話を続けよう。ご紹介した2つのエピソード、『町内素人名人会』と『お見合い大百科』。この2編それぞれの冒頭にて、本すじにはちょくせつ結びついていない感じのプロローグが、わりと長めに展開されている。それらについて、別になくてもいいようなもの、あるいはページ数合わせ、などとも考えられないことはないが、しかしよくよく見てみると。

まず『町内』のプロローグで春助くんは、自分で自分のペニスをしゃぶることのできる『尺八ザル』というものの存在を本で読み、『こんな マネが 出来る わけは ない!』といったん言いながら、そしていそいそと、その行為にチャレンジし始める(!)。しかしぜんぜんできないので体を柔らかくしようと考え、一升ビンから『ぐび ぐび ぐび~っ』と、勢いよくお酢を呑む。
そこへ彼の悪友らが部屋に入ってきて、『酢なんか 飲んで どーする つもりなんだ』と聞くので、われらのヒーローは『きまっとる じゃないか 体をやわらか くしてな…』と言いながら、自分のものを自分の口でどうにかしようと、再びトライし始める。そして彼が状況に気づいて、『わっ わー!』と叫んで自分の股間を隠すのは、そのだいぶ後の瞬間なのだった。

その一方の『お見合い』のプロローグで春助くんは、夜の街角で、女性の下半身が無修正で映っている感じのわいせつ写真、それを売るというバイトに精を出している。ところがそれは、『実は おれの下半身の 写真なのだ』と、彼はモノローグで白状する(!)。何とそれらは、春助くんが足腰まわりのムダ毛を剃った上で、自分のものを股ぐらにかくしたところを映した写真なのだった。

と、見てくると。すでに文脈から皆さまにも読めているように、これら2つのエピソードは、それぞれの後に描かれている『女装春助くん、その大好評(?)』というイベントを、間接的に予告するものになっていることが分かってくる。
『尺八ザル』をまねすることによって春助くんは、自分の中から、大悦びでペニスをしゃぶる≪女≫を呼び出している。偽エロ写真を作ることでも彼は、彼の中から、男性たちの好む≪女≫の幻想(イメージ)を呼び出している。だからこれらの小ネタが、それぞれに続いたエピソードへと発展することには、あからさまではなくも必然性が『ある』のだ。

とま。筆者がいつも申し上げるように、人を笑わせうる≪ナンセンス≫は、決して単なるナンセンスでは『ない』ということ。そしてけっこう無手勝流チックに構成されていそうな今作について、見えにくい巧みな構成が実は存在していること。この2つを上記によってみごと立証できたところで、いったんこの堕文は終わる。もちろん今作こと「喜劇新思想大系」については、今後も随時その大傑作たるゆえんを見ていくだろう。

【付記】 まったくもってよけいなことを申すのだけど、エピソード『お見合い大百科』のさいごのオチ(性転換)はあまりにも『まんが的』、というか作りごとすぎて、筆者はあんまり好きじゃない。いまでいう『トランスセクシュアリティ』についての分析的な見方が存在するので、そこをちゃんと勉強しなおすと、それが『作りごとにすぎる』というところを詳述できそうに思いつつ。
(上記にかかわる追記:山上たつひこ「喜劇新思想大系」 - トランスセクシュアル論へ向け

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