2010/09/05

kashmir「百合星人ナオコサン」 - 増殖を命じる声 と、不毛でありたい私

kashmir「百合星人ナオコサン」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「百合星人ナオコサン」

今作「百合星人ナオコサン」は、2005年から月刊コミック電撃大王に連載中の、SF系(?)ショートギャグ。毎回がたったの6ページぽっちだけに、すでに5年間も連載していて、いまだ単行本は第2巻まで(電撃コミックスEX)。そこまでの刊行ペースからすると、この2010年暮れあたり第3巻が出そうな感じも。
どういうお話かと言えば、『百合星からやってきた宇宙人』を名のるなぞの女性≪ナオコサン≫が、現代日本のどこかの少女≪みすず≫の家に居そうろうしつつ、異星のテクノロジーらしきものを乱用し、大きなお世話をいたしまくる。

 ――― 第1話『粘膜保護同盟』より(第1巻, p.7)―――
 【みすず】 ナオコさんは 宇宙人なんだそうです
 太古の昔より 地球の生命の進化を
 調整してきた種族なのだそうですが ホントかどうかわかりません

そのヒロインの初登場の仕方が、大いに人を喰っておりつつ≪不安≫をかきたてるものでもある。どこかに離れて暮らしていた姉の≪奈緒子≫が帰っていると聞いて、みすずは急いで中学校から帰る。そして姉の部屋のドアを開けると、『やあ おかえり みすず』と彼女をふつうに迎えたのは、見も知らぬへんな人。
そのへんな人、耳のとがったスペイシーなかっこうの女性が、すなわちナオコサンだった(第1巻, 第4話)。喫煙の代わりなのかレトロなガジェットの『ふしぎな指ケムリ』というものを右手でもてあそび、そして「淫獣教育」とかいう官能小説を読んでおりつつ。

 【みすず】 あなたは誰? 奈緒子お姉ちゃんと どういう関係ですか
 【ナオコサン】 だからその お姉ちゃんだってば 信じてないなー?

似ても似つかないのに、平気でナオコサンはそれを言い張る。ところがみすずの家族、母と弟は、『奈緒子→ナオコサン』の入れ替わりを、別におかしいとは思っていないらしい。いや、その2人にしても『奈緒子=ナオコサン』とイコールで見てるのでもない感じだが、しかしナオコサンの存在に違和感を覚えないらしい。そうして、なぜかいつもみょうにきげんよさげにナオコサンは、みすずの家に居すわり始める。
なお、この家には、大してまともな説明もないままに父親のプレゼンスがない。と申せば『またか』という感じだが、『父の不在』という徴候は、その作品世界における『規範の不在』にパラレルな現象ではありつつ。

で、そもそもナオコサンが、みすずの姉の奈緒子でもあり、百合星からやってきた宇宙人でもある、という主張がめちゃくちゃかのようだが。
それについて筆者は、目の前の人物がAさんでもBさんでもある、1つの場所がA地点でもB地点でもある、という『夢表現』のしくみを感じるのだった。かつ、『家族の入れ替わり』というモチーフは、人の子ども時代の夢にはよく出てくるものでもある。

よけいなことかも知れないが、自分が憶えている子ども時代の夢を書いておく。ある日、自分が帰宅すると、茶の間に母と弟がいる。別に何にもおかしくないようだが、しかし何かがおかしい…と感じる。目の前の2人が、本物の母と弟とは違うような気がして仕方がない。そして、不安が高まる。
そうして今作中でも、ナオコサンには及ばないにしろ、みすずの母と弟が、これまたおかしい人物らなのだった。美人の母は、町中のごみ集積場からエロ本を拾い集めることを主婦のメインの仕事かのように遂行し続ける。また外ではおとなしい弟は、姉のみすずに対してだけはエロい好奇心を燃やしまくって、いろいろな挑撥に及ぶ。それらに対してまたみすずは、違和感や不安を覚えるのだった。

そういうふうに見てくると、今作「百合星人ナオコサン」は、Wヒロインの一方で語り手のみすずが、四方八方からセクハラをこうむるお話だとも言える。その第3話(第1巻, p.17)の内容、ナオコサンが路上にばらまいたエロ本を母が拾い集め、『ハイ』とみすずに渡して、『だめでしょ 散らかしちゃ』と言う。
さらにその母から、家に父が不在でみすずはさびしいらしいと聞いて、ナオコサンは目に無償の同情の涙を浮かべながら、そしてみすずの両肩を『ガシッ』と手でつかんで言う。

 【ナオコサン】 これからは ナオコサンのことを 本当のお父さん だと思って
 股間を まさぐるなどして いい…
 【みすず】 許可されてもなあ(汗)

…いちおう生きているらしい実の父をさしおいて、そんな宇宙人が『本当のお父さん』を僭称しようとしているだけでも何だし。まして中学生の娘が、父の股間をどうするとか。ナオコサンのイメージの中で、父娘の関係はそういうものらしい(?)のだった。
そうしてこれらを見ていた、みすずの親友の女の子≪柊≫までもが、『みすずちゃんに だったら ま まさぐられても…』と、何かかん違いして、ありがた迷惑な提案をしてきやがる。さらにそのころ、弟の≪涼太くん≫はどうしているかというと、ナオコサンの指図により、パワードスーツで身長を底上げし年齢を偽装して、新宿あたりにエロ本を買出しに行っているのだった(…はっきりしないが、今作の舞台は武蔵野っぽい土地らしい)。

 『享楽せよ(Jouis!)、という命令がある。
 それに対して主体は、私は聞いている(J'ouis)、とだけ答える』

ラカン様によれば、このことが、人間らの≪不安≫のみなもとなのだそうだ。夢の中で象徴的に表現されたエロシーンを眺めるとき、われわれはうすうすながらもその≪意味≫を察し、不安に襲われる。あえて独断的に言い換えると、その不安は、自分の起源をかいま見ることの不安、性交の結果として存在している自分についての不安だ。
そしてナオコサンをはじめとする人物らがみすずに告げていることは、要してしまえば『汝もまた、りっぱなエロ生物である。よって、“享楽せよ”』。そしてそのメッセージのもたらす不安とショックを、われわれは笑いという反応によって受け流すので、ここに今作が≪ギャグまんが≫としてある。

と、ここまでを見てみると、一見ふつうの少女らしきみすずの愛好物が≪廃墟≫であることも、奇妙だが何らかの意味をなしてきそう。それはもちろん『望ましき自分(理想自我)』のイメージであり、その意味するところは『不毛でありたい』、(当面は)性交や出産をしたくない。これは、ふつうの意味での≪少女趣味≫の、1つのバリエーションでもありつつ。

追って、第8話の『触手エクスプレス』というのがまたひどいお話で、まずは冒頭、近所にちかんが出るということが家庭の話題になる(第1巻,p.56)。そこで母は『心配ねえ…』とつぶやいたかと思うと、おかしいことを言い出す。

 【母】 みすずちゃんも エロ本とかで 我慢しとかないと ダメよ?
 【ナオコサン】 がまんだ みすず!
 【みすず】 …される方の 心配してよ!

それからナオコサンはちかん対策をねって、啓発用のポスターを作成する。すると何と、その絵図でちかんを演じているのがみすずの姿(!)。

 【みすず】 どうして私が モデルなんですか!?
 【ナオコサン】 (とくいそうに、)敵を知るには まず己からと 言うじゃないか!!

ところで今作のおかしいところは、そこに明らかな享楽への扇動があるにしても、いわゆるノーマルっぽいヘテロセクシュアルのそれが、言わば度外視されている。いまのお話でみすずが(ゆえなく?)ちかん扱いされて気の毒なわけだが、しかし『痴女』ではない。なぜなのかふしぎにも、彼女が女性を襲うのでは…ということが懸念されている。
そもそも今作には、涼太くん以外には男性の『人物』などいないに等しいし。何せ作中の『享楽への扇動』のリーダーが、『百合星人』なので…と言えばそれまでだが。

Can“Future Days”1973と、この堕文がもはやずいぶん長くなってきたので、その『百合』とはどういうことか…を宿題にしながら、いったんここらでひと区切り。さいごに1つ余談でも書いておくと。
筆者が今作「百合星人ナオコサン」を『どうであれオレ的に、だんこ注目すべき作品!』と思ったのは、何の意味もなく涼太くんが、クラウトロック(ドイツ製ロック)のカンの1973年の名盤「フューチャー・デイズ」(*)のTシャツを着ていたからだった(第1巻, p.147)。

『レトロ・フューチャー』とは実にうまいことばがあったもので、21世紀の現在に(自称)宇宙人の活躍を描く今作は、俗悪きわまるギャグまんがでもありつつ、われわれがうかつにも忘れそうなものたちを、“ここ”に呼び戻している作品でもある。そしてその呼び戻された“もの”が、カンの名盤はともかく、街角のアースやオロナミンCのホーロー看板のような、これまた俗悪なイメージでもありつつ。
筆者は『広告の図像学』なんてことに興味はないが、殺虫剤にしろ健康ドリンクにしろ、へんに誇示されたそれらが≪ファルス=勃起したペニス≫をさしているイメージということは、ぜんぜんまちがいない。それらのイメージは、びみょうにもわれわれの≪外傷≫をつついて機能する。あんまりな拡大解釈のようだが、それらもまた『享楽せよ!』というメッセージを放つものにまちがいない。
しかもそれらの看板はどちらかというと、われわれがそれらを見ているというより、崑ちゃんや水原弘がわれわれを見ている、として機能しているのがいやなところ。こんなものらは、1986年にみうらじゅん先生が「見ぐるしいほど愛されたい」でネタにした時点でもじゅうぶんレトロだったのに、まさか21世紀の話題になるとは思っていなかった…!

2010/09/04

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 宇宙の法則が乱れる!(イケメンのせいで)

マツリセイシロウ「マイティ・ハート」第1巻 
関連記事:マツリセイシロウ「マイティ・ハート」 - 『護憲派』ヒロイン、爆誕っ!?

関連記事の続き。で、いきなり引用、『線は延長する。しかし点は、爆発することができる』ということばは、確か花田清輝の著作にあったものかと思ったが…(確認できず)。
そしてわれわれの立場からすると、『爆発することができる“点”』とは≪ギャグまんが≫のことか、と考えもできる。かつ、ギャグ以外のまんがは、『延長できる“線”』として。

そこから「マイティ・ハート」の話にすると、自分という1人の読者がその作品について考えようとしたときに、印象深く思い出せるのは、“点”であるギャグ要素だけだ。それはもち、ギャグまんマニアとしてのバイアスある『読み』の結果だが。
ところが実作「マイティ・ハート」は、たぶん“線”をなしているお話のようにも読めそうかも。おそらく。
そして、と言おうか、けれども、と言おうか、この作品の全7巻は、出だしのところがいちばんギャグっぽくて、続いた中盤はハーレム系ラブコメ(?)になり、そして結末近くは複雑なタイムスリップSFになっている、という感じ。で、自分からすると、その中盤にはあまり関心がもてず、そして終盤はむずかしくてよく分からない。

という、このやっかいな作品な作品について、“ひとつ”のまとまったことをオレごときには、言えそうもない。…と、あれから頭を整理して、やっと気がついたのだった。ほんとうにつまらない前置きだが、いろんな見方がございましょうけど、自分は主として今作のギャグ要素に注目しつつ、この堕文を続けるとして。

…が、なおもへんてこな前置きをひとつ書いておくと。ギャグじゃないまんがが『積分』的なアプローチでねちねちと何かを描くものとしたら、≪ギャグまんが≫のギャグは『微分』的に、ほんのささやかな表現で、ひじょうに多くのことを描いてしまう(成功している場合)。それは『延長-と-爆発』の言い換えだが、この対照性を見つつ。
だからそのピュアっぽいあり方として、ストーリー性もなく、ろくにキャラクターも立てず、頭に入れるような設定もない…そういうのが最上等か、という気もしてくる。その意味では≪バカボンのパパ≫なんてすばらしすぎる存在で、『何をしている人であり、何を求めて行動している』、という描写がほとんどないままに、その存在感がむしょうに大きい…これはすごい!
古い例どうしを並べると、≪矢吹ジョー≫もキャラクターであり≪バカボンのパパ≫もキャラクターであるとは言えども、各あり方がぜんぜん異なるということは見てとれるだろう。



で、やっと「マイティ・ハート」本編をちょこっと見ていくことにして。その第1巻の、ちょうどなかば…(第6話『イケメン襲来』の巻)。
悪の組織の新たなる刺客、≪シヴァルツシルト≫という人物が登場してくる。これは『イケメン怪人』というまたの名をもつだけに、とにかく超イケメンで、そして『横紙破り』をきわめたような野郎なのだった。
そのシヴァルツが、目標のマイティハート(略称・MH)を制覇する前にじゃまなので、味方のはずのヴァルケン隊を先にやっつけたりするほどに(!)、すっごく横紙破りであれる理由。それはひとえに、彼がモテるから、イケメンだからというのだった。
つまり、彼の2つの特徴は、片方が片方の帰結なのだ。モテ一元論にもとづくイケメン中心主義によって、シヴァルツには“すべて”が可能であり“すべて”が許されているらしいのだった。

 【シヴァルツ】 モテる男は 何者にも 縛られない
 モテる男は 全てを 縛るのだ!!
 (と言ってシヴァルツは、あっという間にMHをSMチックに緊縛!)

これを見て、ひそやかにMHへとホの字のヴァルケンは、シヴァルツの暴挙を止めたい。がしかし、体が動かない。なぜならばシヴァルツの放っている『モテオーラ』が、イケメンならざる生物らを軽ぅ~く圧倒し、そして金縛りにしているからだ(!)。
そしてシヴァルツは、身動きできないMHのパンツを脱がそうとしながら(!)、とんでもないことを言いくさるのだった。

 【シヴァルツ】 イケメン流 求愛訓 その一
 自分の 女には 自分の ブリーフを はかせる べし!!

と、ここいらで、真のイケメンたる存在のものすごさが、やっとわれわれにも実感できてきたところで…。
あまりのことにMHは、彼女のファイナル必殺技を、(文字通り)大ばくはつさせる。それのまきぞえでヴァルケンの手下たちは吹っ飛んでいくが、しかし爆心地のシヴァルツは、何らダメージを受けない(!)。そして、大とくい顔でいわく…。

 【シヴァルツ】 これが モテると 言うことだ!!
 イケメンとは… 神羅万象に 愛されし者!!
 (イメージ映像のカットイン:ミケランジェロのダビデ像)
 よって いかなる 物理エネルギーも
 イケメンを傷付けることは 出来ない!

かくて手も足も出ないとわかったので、MHは『ふ…ッ』と失神。そこでヴァルケンは、必死の力をふりしぼって、MHを抱えてその場から逃走! 『こいつは 俺の敵だ! 他人には 渡せん!!』と、何だか苦しい言いわけをそこに残し。
そうして取り残されたシヴァルツは、MHにはかせる予定だった自分の黒ブリーフを、なぜか自分の頭で『グッ』とかぶる(!)。そしてカッコいいらしきポーズをキメながら、『この恋… どうやら 長くなりそうだ』と言うのだった。

もはやウンザリな感じだが、さらにここから第9話まで、みっちりとこの強敵シヴァルツが大活躍しやがり、彼のモテ一元論にもとづくイケメン中心主義、その華々しい実践を魅せつけくさるのだった。そうして作品「マイティ・ハート」において、もっとも筆者がウケたのはこのエピソード群なのだった。

 ――― 第7話『湯煙ラプソディ』の巻より(第1巻, p.112) ―――
 (温泉旅館でバイト中の天河くん=ヴァルケンが、ふいにシヴァルツと遭遇)
 【天河】 てめー シヴァルツ! ここは 女湯だぞ!!
 【シヴァルツ】 フ…ッ 知らんのか?
 (カッと目を見開いて大宣言、)イケメンは 男湯など 入らん!!

などと、ご紹介したいようなシヴァルツの迷せりふが、まだもっとあるのだが。しかしもう、ほんとうに本気でイヤになってきたので、このくらいとして。
にしてもこれらは、どうして≪ギャグ≫として機能するのだろうか? そこら、筆者の自己分析によれば…。

このように横紙破りな絶対的モテ野郎が、いてほしくはないが、どこかにはいるに違いないと、なぜか自分は大確信しているようなのだった。そしてその無意識の肯定を、意識でむりにでも否定しようとするさいに、≪ギャグ≫の作用が生じるのだ。
では、シヴァルツのごとき絶対的モテ野郎が、どこかにはいるに違いないと、自分が確信しきっている理由は何か? それは、そういうヤツ(ら)が過剰に女性たちをキープしているのでないとすれば、自分がモテないという事実に説明がつかん(!?)、からのように思うのだった。
よってシヴァルツは、フロイト様の大名著「トーテムとタブー」(1912)でおなじみ、『始源の時代、“すべて”の女性を独占してやがった“原父”』の再来である(←これは本気では言ってない)。

もはや何も申したくなくなってきたので、この記事をとっとと終わる。ところで当家のお得意さま方におかれては、作品「マイティ・ハート」について前記事から、筆者が超かんじんなところを説明していない、ということは、とうぜんお見通しかと。
いやもう、追ってそこをちゃんとカバーしようという意思は、大いに存ずので。なのでぜひチャンネルはそのままで、キープ・オン・チューニングぅ!

2010/08/31

氏家ト全「妹は思春期」 - 『“女の欲望”とは何か?』、に関連し

氏家ト全「妹は思春期」第1巻 
関連記事:ラベル“氏家ト全”

倉島圭「メグミックス」を題材にした前記事『“女の欲望”とは何か?』(*)にて、それと並び立つ傑作(=ケッ作)としてご紹介した、氏家ト全「妹は思春期」。そっちの記事中にあれこれと書いたらごちゃごちゃしたので、この記事で「妹は思春期」について、かかわるところを手短に述べると。

ご存じのように今作「妹は思春期」は、とんでもなく耳年増な妹(ら)がヒーローである兄に、やぶからぼうな性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう…くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者はかって、かなり考えに考えたすえ、『むしろそれは彼女らが、性交をやらざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。それは主として、ラカン系ドクターのJ-D.ナシオの著書「ヒステリー」からのインスパイアで。以下、むかし書いた堕文をちょこっと直して再利用しつつ、まずいきなり引用で…。

 ――― J-D.ナシオ「ヒステリー」(訳・姉歯一彦, 1998, 青土社, p.16-19)より ―――
『{ヒステリー患者たちが、病むまでに怖れているのは…}絶対的、純粋な危険であってイメージ・姿形がなく、定義されるというよりは感覚的なもので、つまり最大の享楽の満足を体験するという危険である』

『ヒステリー神経症の精神生活の中心を占めるのは享楽に関する恐怖と執拗な拒否である』

『ヒステリー化とは、どんな人間の表現であっても、それ自身が内的には性的性質をもっていなくとも{他者のふるまいやもろもろの徴候を、}エロス化することである』

『理解せねばならないのは、ヒステリーの性が決して性器的な性ではなく性の模造物であり、本当の性的関係の具体化に向けた現実の企図行為と言うより自慰行為や小児の性的悪戯により近い偽の性であることだ』(以上、{}内は引用者の補足)

すなわち。このヒステリーの方々は、じっさいの性的行為とその≪享楽≫を怖れるので、そこで性交を行わないために、そして≪享楽≫に接近しないために、あえて逆に自分の世界を無法にエロス化しつつ、そしていたずら半分の性的言動に及ぶ。
で彼らは、そのことにより『私は性的存在ですよー♥』というフェイクを周囲に向けてかましながら実は、そのいたずらをとうぜんの失敗や挫折に導くことからこそ、少々の安堵というリターンを得ているのだ。そんなご苦労に及んでまで彼らは、『不満足の存在であり続けようという欲望に拘(こだわ)るのである』(同書, p.19)。

とまでを知った上で、あらためて氏家ト全「妹は思春期」なる創作を、チェキし直すと…。

その題名に言われた『思春期の妹』こと≪カナミ≫は、公衆の知らぬところでエロス一色の精神生活を送り(!)、そしていっつも周囲の人々への豪放大胆なるセクハラざんまいをエンジョイしながら(!!)、しかしじっさいのシリアスな性的行動へと及びそうな気配が逆に、みじんもない。
だいたい、状況をよく見れば。そもそもカナミの挑撥の対象は、実の兄と女の子たちのみでしかない(…あと、ごくまれに男性“教師”)。すなわちひきょう千万にも(!?)、セーフティな相手だけをねらい撃ちにして、『私は性的存在ですよー♥』とのアピールが敢行されているのだ。

そしてそれは何のためか…と考えたら、いまやわれわれは、カナミがじっさいの性的行動をしないためにこそ、その生きる世界をわざとらしくエロス一色に塗りつぶし、かつたわけた性的ないたずらにはげんでみせて、そして(意図的に)人々を引かせているのだ、と解釈できる。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。

また「妹は思春期」で、追って登場するカナミの親友にして同類たる≪マナカ≫という少女は、同じく下ネタまみれのおしゃべりや性的なおふざけに明け暮れながら、しかも自主的に『貞操帯』をそうびして(!)、自分でがっちりとロックをかけている。そして、『なぜそんなことを?』という常人の友人からの質問に、

 『それはもちろん 私の清らかな 純潔を 守るためですよ』

と、やや得意げに答えるのだった(「妹は思春期」第6巻, 講談社ヤンマガKC, p.126)。

19世紀後半、精神医学史上に名高きフランスのシャルコー医師が、彼のヒステリー患者の女性らを教壇の見世物(=魅せもの)にして世間の大評判をとったという故事があり、パリ留学中の若きフロイトもそれを見学しているが(1885年)。そうして「妹は思春期」なる作品は、その面白っぽい『見世物=魅せもの』を、もう少しソフトかつ、やや健全そうな発達の一過程として示しているのだ
(かってながらここでは、シャルコーによる見世物の、『催眠術治療の実演』という性格を度外視。「妹は思春期」という作品には、『治療』および『催眠術』という要素はない。そのどちらも、必要がないし)

すなわち、社会的に未成熟な思春期の少女と少年らが、自らを意識的に性交から遠ざけるのは、けっしておかしいことでない。かと言って人間らには、『無償で』そのようながまんができるのでもない。ではどうすれば?…ということが、「妹は思春期」なる作品の描いていることの一端ではありそうなのだった。

倉島圭「メグミックス」 - “女の欲望”とは何か?

倉島圭「メグミックス」SCC版 第1巻 
参考リンク:はてなキーワード「倉島圭とは」

話題の作品「メグミックス」は、のちに「24のひとみ」でプチブレイクした倉島圭先生が、そのキャリアの初期(2000-04)にヤングチャンピオンに描いていた、4コマ基調のショート作品シリーズ。いまは少年チャンピオン・コミックス(SCC)全2巻(2007)として手に入るものだが、それは「24のひとみ」が多少ヒットしたおかげな感じ。筆者にしたってその再刊がなければ、今作を知らずに生きていたやも知れぬ。
(かつ今作「メグミックス」の一部分は、「24のひとみ」SCCの1~2巻にもちょこっと収録されている)

1ついきなり、ここで大きな見方を示しておくと。今作こと倉島圭「メグミックス」と氏家ト全「妹は思春期」(2001)の2作は、ほぼ同時期に始まったシリーズであり、そしてあわせて、4コマギャグというジャンルにおいて、吉田戦車「伝染るんです。」(1989)以来のイノベーションを達成した傑作らに他ならない。
いずこに新味があったかを1つ言えば、それは今作と「妹は思春期」が、『“女の欲望”とは何か、そのなぞ的性格』を最大のモチーフにしているところだ。…という並び立つ両傑作(=ケッ作)だが、商業面においては「妹」の成功にひきかえ、今作はほとんど惨敗ぎみ。
何せ今作は、その単行本が、2002年にヤングチャンピオンコミックス(YCC)版として第1巻のみ出て、以後はぱたりと放置されていたくらいなしろもので。そして、どうしてそうなったのか…というと、いくつか思いあたるところもあるが。

などと、前置きはこのくらいにして。この「メグミックス」がどういう作品かは、YCC版・第1巻の裏表紙に4コマ形式で説明されているので、まずすなおにそこを見ると。

 【少年】 これってどういう マンガなの?
 【めぐみ】 まあ 簡単に言えば 二人の会話形式の 四コマ マンガだよ
 内容は全部 ウンコについての ことだけどね
 【少年】 どんなマンガだよ!!
 【めぐみ】 それから 何冊かに一冊は 当たりが あるんだって
 【少年】 えっ 何それ 当たったら 何かあるの?
 【めぐみ】 (急に真顔で、)三日以内に死ぬ…
 【少年】 最悪じゃねえか!!

…なわけで。死のリスクを負ってまで全編ウンコについてのまんがを読もうという人が、たぶんこの世にほとんどいない、という既知のことから、「メグミックス」の商業的惨敗は、きれいに説明されてしまう(!?)。
いくらギャグでも、これは明らかにやりすぎだった感じ。いちばんさいしょにこれを見ていたら、筆者にしたって『かってにふざけてろ』とつぶやいて、それっきりこんな作品のことは忘れていたところだ!

代わって筆者からもう少し説明しておくと、今作は基本的に、われらのヒロイン≪めぐみ≫と1人の男のダイアログ、という形式になっている。そしてめぐみは『神出鬼没の美少女』とSCC版のあおりにあるように、エピソードごとに中学生からお母さんまで年齢が自在に変わり、かつその身分・職業・立場などもころころと変わる。
そして設定がどのようであろうとも、さきの作例にも見たように、われらが美しきヒロインのおしゃべり(パロール)は、手段を選ばず全力で、ダイアログのレベルを引き下げる。

 ――― 『めぐみのUFO』の巻より(YCC版, 第1巻, p.51) ―――
 【少年】 めぐみさんは UFOとか信じる?
 【めぐみ】 うん 大好きだよ
 ウンコ(U) 糞尿(F) 汚物(O)の UFOね
 【少年】 汚えよ!!
 【めぐみ】 信じるどころか マン汁吹いちゃう♥
 【少年】 どういう性癖 してるんだ!!

 ――― 『めぐみのお見合い』の巻より(YCC版, 第1巻, p.63) ―――
 【青年】 めぐみさんは 将来 どういう家庭を 築きたいですか?
 【めぐみ】 私の理想は… そうですね
 今の家庭では 子供が親に 暴力を振るったり
 親が子供を 虐待するなんてことが あるじゃないですか
 それが理想ですね
 【青年】 何考えてんだよ!!
 【めぐみ】 家庭崩壊が駄目なんて あなたの頭は かてえ方かい?
 【青年】 うるせえ!!

 ――― 『めぐみの結婚前夜』の巻より(YCC版, 第1巻, p.96) ―――
 (小津安二郎「晩春」的なシチュエーションで、)
 【めぐみ】 お父さん 私がいなくなったら どうするの?
 【中年男】 心配するな 父さんだって 独りでやっていく
 【めぐみ】 オナニーを?
 【中年男】 そうじゃねえ!!
 【めぐみ】 専業主夫ならぬ せんずり主夫に なるんだね
 【中年男】 ならねえよ!!
 【めぐみ】 孫が生まれたら お自慰ちゃん
 【中年男】 うるせえよ!!

と、毎回、だいたいこのようなダイアログが約3ページ、ズダダダダ~!といういきおいで展開され。そしてさいご、男が『もうやっとれんわ!!』か何かと放り出してオチになる。しかもめぐみの美貌は変わらないけれど、相手の男(たち)はめぐみの吐く毒を喰らうと、その絵姿が、落描きになったり化け物になったりするのがゆかい。
その展開のスピード感は、ディーディー・ラモーンの『ワンツースリーフォー!』というカウントからズダダダダ~!といういきおいで約3分間の白痴的かつ攻撃的で自虐的なポップソングらが大放出されまくる、かのラモーンズのパフォーマンスにさも似たりッ! ヘイ・呆、劣ゴー!

それとまた別に、何かこれと似たようなものがむかしあったよなあ…と考えたら、ひじょうにおぼろな記憶の中のツービートの漫才(全盛期は1980年あたり)が、わりと近いかも。

 【きよし】 それにしても交通事故が多いですから、気をつけたいですね!
 【たけし】 そこで私は考えましたよ、新しい交通標語!
 【きよし】 おっ、それはどういう?
 【たけし】 『赤信号 みんなで渡れば怖くない』!
 【きよし】 こらっ! 危ないじゃねえかよ!
 【たけし】 危ないといえば、交通事故も怖いですが、火事も怖いですよね!
 【きよし】 ん、まあそうだね!
 【たけし】 そこで防災標語を考えました、『寝る前に ちゃんとしめよう 親の首』!
 【きよし】 死んじゃうよ! いいかげんにしろ!

倉島圭「メグミックス」YCC版 第1巻ところで今作「メグミックス」について、めぐみのおしゃべりのさしているものが、あらゆる方面での『堕ちること』と、そして(間接的に、)そのきわまりとしての死、ということは、見ているものには明らかなのでは。まずそのYCC版のカバーが、どくろが散乱する荒野でたたずむヒロイン、という絵であることが示唆しているように。
(ところが、追って出たSCC版のカバーが明るくこぎれいになっていることは、ともかくもマーチャンダイズ面での進歩向上とは言えよう)

そもそも今作は毎回、タイトルの入っているさいしょのスペースが、めぐみとスカルの2ショットと決まっている。それについての目につく例外は、めぐみが独りで首をつっているイメージ(!)。…と思ったがよく見たら、その回の題字の一部が、こっそりとスカルになっている(YCC版, 第1巻, p.20)。
本編においては『行動』らしきことをほとんどしないヒロインが、そのスペースのイラストにおいては、わりとアクティブにスカル(ら)と戯れているのだ。お互いにお互いを装飾としたり、お互いに追ったり追われたり、お互いに喰ったり喰われたり、出たり入ったり、殴ったり蹴ったり(…さいごのは一方的に、めぐみがスカルを)。

スカル、がい骨、どくろなどと呼ばれるそれは、“われらの作家”こと倉島圭先生、彼自身を表すアバターでもあるようだが。われらのヒロインが、本編でからんでくる名もなき男ども3種類(少年・青年・中年)をぜんぜん相手にしない、または表面的にしか相手にしないのと対照的に、彼女は≪それ=死≫と戯れているときにだけ、多少なりともほんとうの彼女であるように、筆者には思えるのだった。

なおここで、今作「メグミックス」と並び立つ傑作としてご紹介した氏家ト全「妹は思春期」について、少しだけふれると。ご存じのようにそれは、とんでもなく耳年増な妹(ら)が、ヒーローである兄に無法な性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう、くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者は考えに考えたすえ、『むしろそれは、ヒロインが性交を実行せざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。「妹は思春期」についてややくわしくは、別の記事でふれるとして(*)。
そうして今作「メグミックス」でも、次のような軽いネタについては、「妹は思春期」と同様な解釈ができなくもない。

 ――― 『めぐみの青春時代』の巻より(YCC版, 第1巻, p.41) ―――
 【めぐみ】 どうしたの? こんな所(校舎裏)に呼び出して
 【少年】 俺 めぐみさんのことが 前から好きなんです!
 【めぐみ】 ええっ! 前から……
 (急にほほ染めて、)私は後ろからが好き♥
 【少年】 何言ってやがる!!
 【めぐみ】 突き合ってください♥
 【少年】 どういう勘違い してんだよ!!

そんなに軽くもない感じだが、しかし今作の中だとこれは軽い方。こんなお話ばかりならよかったのだが(?)、しかしめぐみの暴走は、もっと重い方までも平気で行く。筆者の心に、とくにインパクトが大だったエピソードをご紹介すると。

 ――― 『葬式』の巻より(2Pショート形式。SCC版, 第2巻, p.130) ―――
 (墓地にて、喪服姿の2人)
 【めぐみ】 あっ お父さん この度は…
 【中年男】 めぐみ先生… わざわざ すみませんね
 【めぐみ】 私…その… 何と言って いいか…
 【中年男】 いいんですよ(空を見上げて、)
 学校ではバイクを 禁止していました それを承知で…
 親より先に 逝くなんて こんな馬鹿息子…
 【めぐみ】 まさに 愚息も昇天…
 【中年男】 何言ってんだよ!!
 (中略)
 【めぐみ】 でも私…いまだに 信じられないんです 何でこんな… こんな…
 こんな奴の為に 葬式を開いた のか! 私の為に やるべき だったのに!
 【中年男】 お前は生きてる じゃねえか!!
 【めぐみ】 (目をふせて、)じゃあ早く 殺して…
 【中年男】 わけわかん ねえ!!

倉島圭「メグミックス」SCC版 第2巻とは、ずいぶんひどいエピソードだがしかし、『まさに 愚息も昇天…』のところで、わかっているのに何度でも爆笑してしまう。そしてかわいそうなお父さんを置き去りに、われらのめぐみ先生は、死んだ少年へのふしぎな嫉妬を隠しはしないのだった。

そこらからシリーズのふんいきが暗い方向に高まって、そしてSCC版・第2巻の巻末、全編の末尾とも受けとれる部位あたりに、めぐみが自殺して終わり、というお話がいくつか(!)。その中でも、あまりにアイロニーがきわまって印象的なのは、『めぐみの未来』と題されたエピソード。
それは、今作でよく見られるパターンとして、テレビ番組の収録のようなていさいで、なぜかめぐみが『識者』かのようにゲスト出演している。で、その背景が、崖っぷちに十字架の林立する墓地らしき場所。

 ――― 『めぐみの未来』の巻より(SCC版, 第2巻, p.177) ―――
 【青年】 今日は日本の未来に ついて めぐみさんに お話を伺いたいと 思います
 【めぐみ】 どうもよろしく
 (中略、いつもごとくのボケツッコミがあって…)
 【めぐみ】 日本の未来は一体 どうなっているのでしょうか?
 それは皆さん 一人一人の思いに かかっています
 (と言うとめぐみは、どこからか取り出した拳銃を自分に向けて、)
 ただ…私はそれを 見届けることが できないんです
 (さいごのコマ、カメラのレンズをふさぐ手のひら、その向こうで血しぶき)

このお話のさいごのシーケンスのサブタイトルが“E.vil N.ever D.ies”で、『どこかで聞いたな』と思って確認したら、スラッシュメタルのオーバーキル(Overkill)の楽曲に、ずばりそういう題名があるようだ。かつその表記は、3語の頭文字『END』を強調してもいることから、心の中で自分は、このエピソードを「メグミックス」全編の最終話と受けとっているのだった。

で、これを見ては何か、悲しみとともに、ふしぎだが一種の敗北感のようなものを自分は感じるのだった。分析治療なんてのもめったに『成功』はしないものだそうだが、その最大の失敗、分析家の敗北とは、クライアントの自殺によって治療が終わってしまうことだという。
われわれの用語の≪分析主体≫と同様に、めぐみも大量のおしゃべり(パロール)をたれ流してはくれたが、けれどもわれわれは、彼女の欲望の対象を、その欲望の性格を、適切に分析しきることができなかった。…よってこのようになった、という気がしてくるのだった。

 『“女の欲望”、とは何か?』

伝えられた逸話としてフロイト様は、『それは、“欲望されること”である』、と言われたそうだ。しかしめぐみは、名もなき男らの欲望の対象にはなりつつ、そのことを愉しみはしない。それをここまで、われわれが見てきたように。
ところで、狭い意味での≪ヒステリー者≫の特徴は、まったく飽きもせずにドクターらへの愁訴を繰り返し、それを(無意識にて)愉しみ、そして大いに苦しんでみせながら自殺は『しない』ことだそうだ。そうしてヒステリーの方々は、分析家たちからは愛されながら、彼らとの共生関係を生きるのだ。
そしてここらで、「妹は思春期」と今作、それぞれの描いていることはきっぱりと分かれる。筆者は「妹は思春期」という作品の『心理的』なふかしぎの一端を明らかにできたと思い込んでいるが、「メグミックス」についてそれはない。

ちょっと見方を変えてみると、われらが見てきためぐみのどうしようもなきおしゃべりらは、『大文字の他者に向けてのアピール』だとも言いうる。『大文字の他者』とは『常に主体を見ていると想定された存在』であり、彼女は目の前の会話の相手(ら)の向こう側にそれを見て、それに向かってご奉仕し、その享楽を実現しようとしている。
享楽それ自体をではなく、『享楽にかかわるおしゃべり』を彼女は愉しみ、そしてその愉しみを大文字の他者に捧げようとし続けるのだ。いや、『愉しみ』と書いたが、見ているとまるで、なさねばならぬ義務かのように彼女は、へんな汗まで流しながらがんばって(?)、その毒を吐きまくり続けるのだ。
ひじょうに印象的な彼女の自虐、彼女がアバズレでヤク中の変態痴女かのように自分を言い張ることもまた、はっきりしないが『大文字の他者』を悦ばせようとしている感じ。そしてほんとうの彼女の愉しみかと見えるものは、バカな男どもからのお追従を受けることではなく、どくろ(=死)とのたわむればかりなのだ。
で、この場合、その大文字の他者とは、読者のわれわれである…などと言い切ってしまうのもむざんだが。そうまでは言わずとも、しかし、めぐみが大文字の他者を見ようとしている視線の手前にわれわれがいちゃっていること、これは確かくさい。

そういえば、めぐみの吐きまくる毒を喰らった男らの絵姿が、どんどん化け物と化していくようなことをお伝えしたが。これはおそらく、『そのときめぐみには、彼らがそのように見えている』ということが表されている。
3匹もそろってこのバカな男どもが、くそ律儀にツッコミを行うばかりで、まったくジョークやシャレを解さないので、われらのヒロインは不きげんなのだ…ということは、まんざらでたらめな見方でもない感じだが。

で、どうすればこのシリーズに、ハッピーエンドがありえたのだろうか? さいしょから設定も形式も病的っぽい今作について、それを問うことがナンセンスかも知れず、かつまた『オレにはわかりません』、という〆くくりにしたくはないのだが。
しかし自分は心にその問いをおいたまま、今作「メグミックス」に対し、いまはただ、けいれん的で外傷的な笑い(=ギャグの作用)を返し続けるのだった。

2010/08/30

高見+田口「バトル・ロワイアル」 - 喰いそこなったシチューの味

高見+田口「バトル・ロワイアル」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「バトル・ロワイアル」

以下の断章チックな堕文は、筆者がツイッターに投稿したものの再利用(*)。データ要素をここで補うと、コミック版「バトル・ロワイアル」はヤングチャンピオンに2000-05掲載、単行本はヤングチャンピオンコミックス全15巻。



ちょっと大急ぎで高見広春+田口雅之「バトル・ロワイアル」コミック版を、超ななめ読み。もっとこう、平凡な中坊チャンたちが殺しあうお話かと思ってたのに、一部の子たちがハイパーな人材だったのでびっくりした。

そのコミック版バトロワで心に残ったのは、心やさしい平和主義の女の子たちが、その中の弱い分子のせいで殺しあうはめになり、ヒーロー君はシチューを食べそこねるというエピソード。ここらの『心理的』な構成はさえていると感じたし、もっと全般にそういうことを描いてる作品かと期待してた。

ところでなんだがバトロワに限らず、自分は劇画の残虐描写なんて、怖いからあんまりよく見てません。どういう場面か分かったら、さっさとめくる。ペローだったら『狼は赤ずきんちゃんを食べてしまいました』ですますところ、やたらねちねちその過程を描写することが面白いとは感じない。