2010/08/31

氏家ト全「妹は思春期」 - 『“女の欲望”とは何か?』、に関連し

氏家ト全「妹は思春期」第1巻 
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倉島圭「メグミックス」を題材にした前記事『“女の欲望”とは何か?』(*)にて、それと並び立つ傑作(=ケッ作)としてご紹介した、氏家ト全「妹は思春期」。そっちの記事中にあれこれと書いたらごちゃごちゃしたので、この記事で「妹は思春期」について、かかわるところを手短に述べると。

ご存じのように今作「妹は思春期」は、とんでもなく耳年増な妹(ら)がヒーローである兄に、やぶからぼうな性的挑撥をかましてくるので、お兄ちゃん困っちゃう…くらいなことを描いたシリーズ作だが。
それについて筆者はかって、かなり考えに考えたすえ、『むしろそれは彼女らが、性交をやらざるための“挑撥”なのだ』、といういったんの結論を得た。それは主として、ラカン系ドクターのJ-D.ナシオの著書「ヒステリー」からのインスパイアで。以下、むかし書いた堕文をちょこっと直して再利用しつつ、まずいきなり引用で…。

 ――― J-D.ナシオ「ヒステリー」(訳・姉歯一彦, 1998, 青土社, p.16-19)より ―――
『{ヒステリー患者たちが、病むまでに怖れているのは…}絶対的、純粋な危険であってイメージ・姿形がなく、定義されるというよりは感覚的なもので、つまり最大の享楽の満足を体験するという危険である』

『ヒステリー神経症の精神生活の中心を占めるのは享楽に関する恐怖と執拗な拒否である』

『ヒステリー化とは、どんな人間の表現であっても、それ自身が内的には性的性質をもっていなくとも{他者のふるまいやもろもろの徴候を、}エロス化することである』

『理解せねばならないのは、ヒステリーの性が決して性器的な性ではなく性の模造物であり、本当の性的関係の具体化に向けた現実の企図行為と言うより自慰行為や小児の性的悪戯により近い偽の性であることだ』(以上、{}内は引用者の補足)

すなわち。このヒステリーの方々は、じっさいの性的行為とその≪享楽≫を怖れるので、そこで性交を行わないために、そして≪享楽≫に接近しないために、あえて逆に自分の世界を無法にエロス化しつつ、そしていたずら半分の性的言動に及ぶ。
で彼らは、そのことにより『私は性的存在ですよー♥』というフェイクを周囲に向けてかましながら実は、そのいたずらをとうぜんの失敗や挫折に導くことからこそ、少々の安堵というリターンを得ているのだ。そんなご苦労に及んでまで彼らは、『不満足の存在であり続けようという欲望に拘(こだわ)るのである』(同書, p.19)。

とまでを知った上で、あらためて氏家ト全「妹は思春期」なる創作を、チェキし直すと…。

その題名に言われた『思春期の妹』こと≪カナミ≫は、公衆の知らぬところでエロス一色の精神生活を送り(!)、そしていっつも周囲の人々への豪放大胆なるセクハラざんまいをエンジョイしながら(!!)、しかしじっさいのシリアスな性的行動へと及びそうな気配が逆に、みじんもない。
だいたい、状況をよく見れば。そもそもカナミの挑撥の対象は、実の兄と女の子たちのみでしかない(…あと、ごくまれに男性“教師”)。すなわちひきょう千万にも(!?)、セーフティな相手だけをねらい撃ちにして、『私は性的存在ですよー♥』とのアピールが敢行されているのだ。

そしてそれは何のためか…と考えたら、いまやわれわれは、カナミがじっさいの性的行動をしないためにこそ、その生きる世界をわざとらしくエロス一色に塗りつぶし、かつたわけた性的ないたずらにはげんでみせて、そして(意図的に)人々を引かせているのだ、と解釈できる。言い換えるとそれは、あまり病的でない限りの≪ヒステリー≫的なアチチュードなのだ。

また「妹は思春期」で、追って登場するカナミの親友にして同類たる≪マナカ≫という少女は、同じく下ネタまみれのおしゃべりや性的なおふざけに明け暮れながら、しかも自主的に『貞操帯』をそうびして(!)、自分でがっちりとロックをかけている。そして、『なぜそんなことを?』という常人の友人からの質問に、

 『それはもちろん 私の清らかな 純潔を 守るためですよ』

と、やや得意げに答えるのだった(「妹は思春期」第6巻, 講談社ヤンマガKC, p.126)。

19世紀後半、精神医学史上に名高きフランスのシャルコー医師が、彼のヒステリー患者の女性らを教壇の見世物(=魅せもの)にして世間の大評判をとったという故事があり、パリ留学中の若きフロイトもそれを見学しているが(1885年)。そうして「妹は思春期」なる作品は、その面白っぽい『見世物=魅せもの』を、もう少しソフトかつ、やや健全そうな発達の一過程として示しているのだ
(かってながらここでは、シャルコーによる見世物の、『催眠術治療の実演』という性格を度外視。「妹は思春期」という作品には、『治療』および『催眠術』という要素はない。そのどちらも、必要がないし)

すなわち、社会的に未成熟な思春期の少女と少年らが、自らを意識的に性交から遠ざけるのは、けっしておかしいことでない。かと言って人間らには、『無償で』そのようながまんができるのでもない。ではどうすれば?…ということが、「妹は思春期」なる作品の描いていることの一端ではありそうなのだった。

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