2010/07/31

規範としての公共性 と 錯覚された匿名性 - 斎藤環氏の論によせて

 
参考リンク:【毎日jp】時代の風:公共性と匿名性=精神科医・斎藤環

以下の堕文は、自分のツイッターへの投稿を加筆修正して再利用しているもの。『ギャグまんハウス』とさわやかな名前(?)に改めたばかりなのに、あまりまんがの話題でないので申しわけない…!



7月25日付の毎日jpのコラム・斎藤環『公共性と匿名性』は、駅員への暴行や電車内の痴漢行為から、インターネットにおける匿名性の功罪、といったことを考察している(*)。それにいわく、匿名性ありげと錯覚される場所で、『退行した個人の心理状態は、依存と攻撃との間を揺れ動く幼児の心に、きわめて近いものになっていく』。

そして想定された匿名性によって(酔って)、『自らを客観視する視点を失うと、世界に自分と相手の2者関係しか存在していないかのような錯覚がもたらされる。そしてほとんどの3者関係は、その起源である母親と子供の2者関係に限りなく近づいていく』。

…というところを見て、ふつうの方々は、その斎藤氏の論の運び方につまづくやも知れず、と感じた。すなわち『3者関係』の存在が、あたかも当然の前提のように言われているのはなぜ?…と。それは、斎藤氏をも筆者をも含んでいそうな“ラカン系”一流の論法なわけで、『オイディプス以後』の世界を生きているわれわれにおいてはそうなのだ。
(ただし細かいことを申すと、『3者関係の“起源”は、母子の2者関係である』、『ほとんどの3者関係は、2者関係に近づいていく』といった斎藤氏のご主張は、筆者にはよく理解できない)

別の言い方をすると『社会』とは『第3者』のいる場所に他ならず、そしてその第3者(たち)がうっとうしいのだ。そうして『オイディプス以前の世界』、第3者のいない世界へのHOTな郷愁は、誰もが死ぬまでキープし続けるものではある。
そして時にわれわれは、その現前を錯覚する。ちょっと自分が興味をもっている≪まんが≫というメディアにも、わりとそういう世界を描こうという傾きがかなりあるとは、まいどお伝えしている通り(*)。

藤末さくら「あのコと一緒」RMCクッキーシリーズ 第10巻ここでまた品のないネタをふらせていただくと、公共の場所での痴漢に類することとして(?)。まんがの世界で、別に成年コミックではなくとも、登場人物らが放課後の教室のド真ん中でエッチ行為等を遂行して、それが特には問題にならない的な、まったくいい気なことが、わりと描かれるが(…むかし少女誌のCookieで拝見、確か藤末さくら先生の「あのコと一緒」だったか)。
で、その荒唐無稽さを、われわれ読者がいちおう受け容れるのは、『そういうこともあって欲しい』という望みにそれがアピールするからだ。で、そのような、フィクションとの認識の上のことなら別にいいが…。
だがそして、『そうであって欲しい』、『それは“あり”であって欲しい』という自分の≪想像≫を、ある種の人々は自分で真に受けてしまうのだ。けっきょく人間らは、自分が信じたいことを信じるばかりだ。

で、そもそもだ。なぜに暴力やレイプがいけないか?…という問いに、『相手によくないから』という答を出してはいけない。ここが大いに誤解され曲解されそうなところで、ことをそのような2者関係の問題に還してはいけない。
なぜならば2者関係の世界に、暴力やレイプへの抑止は『ない』からだ。レイプじゃなくても教室でエッチをしてはいけないし、合意の上でも決闘をしてはならないのだ(…かつ、あたりまえだが、近親相姦をしてもいけない)。よって、第3者である“もの”が、それを禁じているからいけない…と、そこを解さなくてはならぬ。

さてここで補足、斎藤環氏の用いている『退行』なる語、その分析的な定義は…。
『耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程』、うんぬん。シェママ他編『新版 精神分析事典』(2002)、項目『退行』より。
ただし、同書におけるこの語の扱いは軽い。これは『記述的』な用語でしかないよ、と言わんばかりな感じでありつつ。
で、そうとはしても、それならば『欲求不満』とは何かを、多少は厳密に理解しとく必要もありげ。それはラカンが、確かセミネール「対象関係」にてはっきりさせているところで、それは要するに『要求』である。…とすればそれは、まったくきりのないものだ。

(補足。ラカン用語としての『要求』とは、『愛の要求』。子どもが『あれがほしい、これがほしい』と言ってだだをこねるとき、実の目的はそれらの対象ではなくて、親の反応を見てその愛情の存在を確かめたいのだ。というようなことを、分析用語で『要求』と呼ぶ。そしてこの『要求』は、満たされえない)

話を戻し、電車の中とか駅の構内とかいう公共の場所を、なぜか社会の外側である、そして『匿名の世界』である…と錯覚する気持ちが、自分にはあまり共感できないが。でもそういうことが、現にあるらしい。で、そのような錯覚をきたした人間が走る行為が、レイプと暴行である…とは、あまり知りたくないことであり。

と、そこに浮上した『匿名性-と-攻撃性』の喰い合わせについて、斎藤環氏のコラムは、次のように続く。すなわちたんつぼ(2ちゃんねる)を筆頭に、匿名っぽいインターネッツでのひぼう・中傷・フレームの横行がありつつさらに、『わが国のネット文化の特徴としても、匿名志向が強いことはよく知られている』、だそうで(…そうなのだろうか? 外国に比べて特にそうだとは、筆者は感じたことがなかった)。

そしていわく、『公共性を志向するはずのブログですら、しばしば匿名で発信されているということ。私はここに、わが国における「匿名性」と「公共性」をめぐるねじれた関係があるように思う』。『私たちにとっての公共性とは、まず第一に「匿名である自由」によって支えられているのではないだろうか』。

とまで、斎藤環氏の論を引用して。だがしかし『匿名性』というにも、『公衆』においての(規範的な)匿名性と、『群集』においての(独りがってに想定された)匿名性とは、異なるものなのでは?…と自分は、ちょっと社会心理学チックなことを思うのだった。

すなわち。なぜにわれわれが、(いろいろとやばそうな)満員電車に平気で乗り込めるのか、と考えてみよう。それは、乗り合わせる人々が、最低限のことをわきまえた『社会の構成員』であろう、と期待するからでは? 匿名ではあっても『公衆』の一員であろう、としていちおう信頼してみるからでは? 身分不詳の相手だからって、まずは『ひと』として扱うのが『ひと』でもあるし。ところが、そうした期待や信頼を裏切るやからがいるのだ。

また『匿名』というなら、一般に公共の選挙が無記名投票で行われるが、『そんなでは無責任でよろしくない』、という意見はあまり聞かないし。と、そのような『匿名の公衆』に対する期待と信頼が、われらの市民社会にはタテマエとしてあるのだ。…ところが、なのだ。

そういえばインターネッツなんてものも、もとはと言えば産軍学界の“エリート”たる紳士たちの社交場、的に構想されていた『公衆』の空間らしくて。で、そうした場所に、オレとかのわきまえなき連中がまぎれ込んでしまえば、もとが『紳士の空間』なので規制がゆるめなだけに、いったんのやりたい放題はできながら…(!?)。

しかしそんなものは、とりあえずの見過ごしにあずかっているだけ、ということは知られなければならない。ネットに限らず、『人前』的な場所に匿名性なんてものは、根本的には『ない』。
わきまえた行動をしていれば、または、せめて『あまりにも』過剰なことをしなければ、とくべつには追及されなくてすむ…ということが、『匿名性』とかん違いされているばかりだ。まあ、たんつぼ的な場所で『逝ってヨシ』とか『禿藁』とかあおりあっているくらいなら、むしろ下層階級のふんまんのはけ口にもなろうか、くらいなところで。
自分にしたってiceくんとかいう偽名をなぜか名乗っているけど、それで身分を隠しおおせている、とはぜんぜん思っていない。そもそもラカン様のみ教えとして、語る人間に≪秘密≫をキープすることはできないし。

だのに、なぜ後ろ向きの無責任な『匿名性』の存在が想定されるのかといえば、それはすでにお分かりのように、ある種の人々が『それを想定したいから』という、まったくかんたんきわまることに他ならない。その人々は、『匿名の世界』=『責任のない世界』=『オイディプス以前の世界』の再現前を、『そこ』に求めてやまない。
(さらにくどく申せば『オイディプス以前の世界』とは、『“父性”のない世界』、『象徴的“去勢”以前の世界』、『“第3者”の存在しないマンツーマンの世界』、『オムツの中にぜんぶ垂れ流しの世界』、そして、『近親相姦が許容される世界』。それがすなわち、斎藤氏の言われる『幼児の心』の世界でもありつつ。かつ、じっさいのところ、それの『再来』を望んでいない人間はいないのでもありつつ)

ところである種の逆転現象も存在して、匿名インターネッツにたかっている人々が、いちおう格のあるメディアをつかまえて、ウソを書いたりミスリードに誘導したりが目立つ『マスゴミ』と言い捨てることがある、これはご存じかと。またそれが、まったく根拠なく言われているのでもなさげ。
つまり、たんつぼに匿名でまともなポストを投じる人もいれば、格のあるメディアに本名でヨタを書く人もいるという事実。すなわち、『空間』のとらえ方と用い方は、それぞれの人しだい。これがきっぱり見えるようになったことは、とりあえずのインターネッツの功績かとも思われる。

ではここらで、この堕文もしめくくりに向かいつつ、斎藤環氏のコラムの結語を引用。
『私たちは少なくとも、「匿名性」が持つ可能性と限界の両面を、共に十分に理解しておく必要がある。そのためにも、「匿名である自由」がしばしば公共性を侵害してしまう現実に、いっそう自覚的であるべきなのだ』。
…なのだそうだが。

筆者の結論。これは斎藤環氏の主張の言い換えにすぎぬやもだが、『(自分が)匿名である自由』、すなわちありえざる『自分からの自由』の用い方などを心配するのではなく、その逆に、『公衆としての他者の、いったんの匿名性を尊重すること』。まず誰もがそれを知ったらよいのではなかろうか…と思うがしかし、それがある種の人々にはできないのだ。
さらに言い換えると、表面的にしても『(自分が)匿名である自由』が存在していそうに錯覚されうるのは、その場の人々が『公衆としての他者の、いったんの匿名性を尊重すること』を実践してくれているからだ…と、これを知ったらよいのでは? そしてその『いったんの匿名性の尊重』ごときは、主体がちゃんとした『公衆』であることをやめてしまえば、そっこうで廃棄されうるものなのだ。



2ちゃんねるのTOP画像(7/31現在)、壺=たんつぼ追記。話題のコラムの存在は、サッカー系サイト『サポティスタ』(*)の『タレコミ掲示板』にて知った。そのリンクを張ったお人は、サポティスタのコメント欄の荒れようが、まさしくたんつぼばりだ、と言われたかったもよう。
しかしネットなんて、多少は荒れている方が傍観者的には面白い、と筆者は思っているけれど(!)。かつ、そもそもそのサイトで、エントリへのコメントが多くなると『炎上マーク』のアイコンが華やかに点灯する、というその演出(!)…それは何を仕向けているものなのか、『jk 常識で考えて』。

ところでだ。単にネットでしたい放題のことをしたいなら、自分で掲示板やブログでも設置して、そこにあることないこと書いてみれば…なんて一瞬だけ考えてみて、次に思わず苦笑した。それはオレがいまここでやっていることで(!?)、しかし一般的には、人のいない場所で独りぼっちで暴れたがるやからはいない。
そうではない。ブログ炎上なんて現象が発生すると、その炎上がさらなる炎上を呼ぶ。たんつぼの『祭り』は、ネタがどうこうよりも祭られていること自体が、また『祭り』に他ならぬ。そのような場所である種の人々は、『独りではない』との錯覚の甘さを味わう。
そうして彼らは『禿同』みたいに言ってくれる≪自分≫をそうした場に求めるのだが、しかし自分はそれをひとごととも思っていないし、それが悪そのものだとも思っていない。われわれの目の前にいる21世紀の『コロス(ギリシャ悲劇の“その他大勢”の傍観者)』もまた、おセンチであり軽薄であり、そして熱しやすくてさめやすく無責任であることには、いっこう変わりがない。

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