2010/07/17
吉田戦車「戦え! 軍人くん」 - みっちゃんのママには逆らえない
参考リンク:Wikipedia「戦え! 軍人くん」, 同「甘えんじゃねえよ」
関連記事:『吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 vs.フロイト「メドゥーサの首」 in 触手フェスタ』, 『坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味』
家の書棚をひっくり返していたら、奥の方からなつかしい本が出てきたので、うかつにも読んでしまった。ので、それについて少し。
この「戦え! 軍人くん」は、筆者が見たこともないコミックバーガーという媒体に『1989年頃』(出典・参考リンク先)に掲載、スコラ・コミックスDX全2巻。ということは、作者・戦車先生の代表作たる「伝染るんです。」(1989)と、まったく同年代の作。かつ、わりとそういう人がいるけれど、戦車作品との初対面は自販機エロ本のすみっこの埋め草まんがで、それがこの時期には社会的大ブレイクに向かっていたんだよなあ…などと、思い出しもしつつ。
ではまず作品を見る前に、その編本の概要を説明しておくと。この全2巻は、表題作たる「戦え! 軍人くん」以外にいくつかの連作や短編らをごちゃごちゃと併録。そしてそれらの中の主要らしきものは、「戦え! 学生さん」と「甘えんじゃねえよ」の2シリーズ。
で、それぞれのシリーズの概要はというと、「軍人くん」はSF近未来チックで不条理な戦場で活躍する、わりとふつうの少年≪吉田くん≫をヒーローとしたショート作品。「学生さん」は、「軍人くん」の主要人物はほぼそのまま、シチュエーションを平和な現代ニッポンに変えたもの。そして「甘えんじゃねえよ」は、自分の娘にうその知識を教えるのが生きがいの変人≪みっちゃんのママ≫と、その周囲などを描いた4コマ。
そうしてそれらの中で、さいごの「甘えんじゃねえよ」が、ちょっと重要というか、ひじょうに気にかかる創作なのだ。まずそれは、吉田作品の全般において、もっとも存在感ありふしぎな魅力のあるヒロインが描かれたもの、と考えられる。このお母さん(29歳・美人)に『群馬県出身』という設定がついているのは『かかあ天下』の意なのだろうか、家庭の中でも外でも彼女はやりたいほうだいなのだ。
何をやりたいほうだいしてるかって、みっちゃんのママは、純真な自分の娘にうそを教えるために…そして現在と将来、娘がそのまちがった知識によって恥をかくように…。ほぼそれ『だけ』のために、彼女のあふれる機知となぞめいた人脈と出所不明の大金、等々を惜しみなく用いまくるのだ。
たとえば、ある日。TVを見ていてつまらんことを憶えた5歳の娘が、ひじょうに高価かつ美味らしきキャビアというものを食べてみたい、のようなことを言い出す。そこでみっちゃんのママは、
『あら みっちゃん
ロシア人は キャビアより
明太子のほうを 好むのよ』
と、すかさずでたらめを教える。そして、そのうその補強のために、当時のソビエト外相のシュワルナゼ氏を自宅に呼びつける(!)。そしてみっちゃんの目の前で彼に明太子をむさぼり喰わせ、『うま~い! これに比べたら、キャビアごとき鼻クソ同然!』、みたいなことを彼に言わせるのだった(第2巻, p.157)。
またある日。どうしてそんなにお金持ちなのか、みっちゃんのママはつぶれそうなそば屋から頼まれた融資を快諾。しかしその見返りに、へんなことを持ちかける。追って、その店でみっちゃんに出された『きつねソバ』には油揚げがのっているのではなくて、“何らか”の肉が…。
すると何かを察したみっちゃんは、
『じゃあまさかこれ
キツネさんの……お肉!?』
という衝撃をこうむり、『いやあ あああ ああ』と泣き叫ぶ。
そこでみっちゃんのママは、『大成功!』と言わんばかりの晴れやかな笑みを満面にうかべ、調理場に向かってOKのサインを示す。がしかし、融資と引き換えにこの仕込みに協力させられたそば屋の若夫婦は、『ごめんね…… ごめんね みち子ちゃん』と、罪悪感にくれながら涙を流すのだった(同書, p.149)。
とま、そんなようなエピソードが延々と続く…というのも少しうそで、この「甘えんじゃねえよ」というシリーズは、みっちゃん母子だけを描いたものではない、オムニバス作品ではある。がしかし、そのパートがだんぜん印象に残るというのが、わりとふつうの感じ方らしい。
で、これらを見ていると、『母にとって、“娘”とは何なのだろうか?』、という問いかけが、読者に向かって放り出されているような気が、してこないこともないのだった。あたりまえだが(?)、みっちゃんのママの行為らには、いわゆる『合理的』な理由などは『ない』。そういう部位へとむりに『設定』がついているような、こんにちのあさはかなまんが作品らとは、ものがぜんぜん異なっている。
さて戦車センセの作風を形容するに、『レトロ』という語がよく使われるようなので、ここで自分もレトロな話をふってみよう。いまの『少女まんが』はヒロイン&ヒーローらの恋愛ざたを描くものばかりのような感じだがしかし、いにしえにおいては違ったらしい。そこにおいて1960'sまでは、『母子もの』という内容が主流だったらしい。
で、『やさしくてすてきなお母さま』へのすなおな思慕を描くような作品らがやたらいっぱいあった(らしき)そのシーンへと、かの楳図かずお先生は1965年、「ママがこわい」という爆弾をドカン!と投下されたのだった。ご存じとは思うがそれは、当時の少女まんがの大ルーチンたる『やさしくてすてきなお母さま』が、いつの間にか兇悪で残忍なヘビ女へと入れ替わっていた…という衝撃的なホラー作品であり。
そして、そのようなお話が大いにうけたことは、そしてそれらが現在にいたるもHOTに愛読され続けているという事実は…。そこに描かれた『やさしくてすてきなお母さま』と『残忍でねたみ深いヘビ女』とが、実は同じものに他ならぬ、という認識を返しているのではなかろうか?
追ってその約10年後に楳図先生の描かれた長編「洗礼」は、『やさしくてすてきなお母さま=残忍でねたみ深いばけもの』というありえないような等式の描写が、最高潮に達したものとなっている。娘に対してとんでもないことをたくらんでいる母親が、お話の冒頭では『やさしいおかあさん』で通っている。
そしていみじくも、その作品の巻頭言のようなナレーションにいわく…(「洗礼」小学館文庫版 第1巻, p.5)。
『母親とは娘にとって何か?
娘とは母親にとって何か?
そして………
母親は娘に何を与えたか?』
そこまでを見てから筆者の悪癖、精神分析チックなヨタをかましてみると、母にとって娘とは、娘にとって母とは、それぞれに『自分の夫(父)を“去勢”している存在』だと見られる。『“すべて”のことを父・母・子の三者関係の問題に還元しやがる』と、世にも評判のよくないやからには、そう見えるのだ。
そういえば、楳図式の『母子もの』と、その先行作かとも見られるグリムのメルヒェン「白雪姫」。そのいずれにおいても、『父=夫』であるべき人物の存在感の、なさや薄さが、『逆に』印象的だ。もしも母と娘との葛藤ということがあったなら、まず本来なら、彼女らの『父=夫』が間に入って何とかすべきところなのでは? がしかし、いずれのお話でも、そういう展開にはならない。
と同様に、吉田作品「甘えんじゃねえよ」においても、みっちゃんのパパである人は、ひじょうに存在感がうすく立場がない。≪父≫として、まともには機能しない。人物紹介のコーナーにもきっぱりと、『あまり存在感のないかわいそうなお父さん』(第1巻, p.147)とあり、その実の名前も明らかでないくらいで。
また存在感がうすいばかりか、彼は若ハゲ気味で頭髪もうすいし(!)。かつ、みっちゃんのママの名が実家の姓と同じ“長谷川”君枝であるところから、この人はむこ養子でもあるようだし。
で、追って登場する君枝の実父の長谷川某氏が、また何かといじわるで、ねちねちと同居のむこを迫害してやまないのだ。きわまったところでこの父は、むこの勤め先の社長を言いくるめて、社内における彼の呼称を『みっちゃんのパパ』に統一させる(!)。社長室に呼び出された彼に向かって、義父とつるんだ社長が宣告する。
『これからは 君のことを
みっちゃんのパパ と呼ぶことにしたから』
追って、課長たる自分のデスクに戻った彼を、若手社員や女子社員らが口々に、『みっちゃんのパパ』、『みっちゃんのパパ』、と呼ぶのだ。そのいわれなき、わけのわからぬ屈辱にしのび泣きしながら、『おれが何をしたというのだ… とみっちゃんのパパは思った』(第2巻, p.155)。
だが、しかし! 『何をした』かということはまったくもって明らかで、彼は義父の愛娘を義父から奪って何かして、あろうことか子どもまで産ませている…それが義父から見ての大問題なのだ。で、そのことへの仕返しとして長谷川某氏は『逆に』、『そのこと』によって全面的に、自分のむこをレッテル付けしているのだ。それがまさしく、われわれの用語の『象徴的“去勢”』の実践として。
その一方、みっちゃんのパパが、あらぬところで『みっちゃんのパパ』と呼ばれて、みょうに気分が悪い理由。それは彼が、1つの家庭の夫であり父でありつつ、かつまた1匹の『男』や『雄』でもあ(りう)る、もしくは単なる1人の人間でもあ(りう)る、といった可能性の部分が、その呼び方によってきっちりと否定されているからだ。場所をかまわずその呼称が出ることによって、彼は“常に”彼の家庭へとしばりつけられるのだ。
またそれに並び、その呼称は、『課長』と呼ばれたら多少は偉そうな人物から、その『偉さ』をも剥奪しているのだ。で、そうしたような窮状にひとが追い込まれることを、われわれは『象徴的“去勢”』と呼ぶのだ。
(この場で詳述もいたしかねるが、分析理論での『象徴的“去勢”』の機能は人間において、やたら普遍的かつ全面的で永続的。ほんとうはきわめてどうもうで兇暴かもしれない“もの”が、ノーマルな人間社会の構成員となるため、それは必須な過程だ)
(かつまた。『みっちゃんのパパ』に関する呼称の変更は、会社組織と家庭組織との混同で入れ換えなわけだが、同様に彼は、家庭内で妻や娘から『課長さん』と呼ばれたとしても、それが大いに不ゆかいであるだろう)
と、そこまでを見てくれば、さきに見たみっちゃんのパパの人物紹介の続きに、『ぜんぜんそうは見えないが居合道五段の腕前を持つ』、という要らなそうな設定が出ていることも、ちょっとは意味をなしてきそう。この、むかしは刀剣をあざやかにふりまわしていたらしき≪漢(おとこ)≫が、夫となり父となってからの現在は、そんなことをやらないし、やっていたという感じさえも見せない…。
…すなわち彼は、『去勢』をこうむってしまったのだ。そして別に言わずとも、ここでの≪刀剣≫がペニスの象徴として機能していることは明らかでありつつ。
かつ、『やさしいママ=ヘビ女』というお話を見た上だと、君枝のルックスはやや面長で目がつり気味で細く、美人で通っているが『へび女』のような感じは大いにある。また同じ本に併録の作品には、ずばり≪へび少女 沼田さん≫というわき役も登場しているし(第2巻, p.90)。
そして楳図作品のヘビ女は、その習性として、鶏卵を丸呑みしたり小動物を追い廻したりしていたようだが。君枝はそこがちょっと違っていて、家族ハイキングのさいに山野で『逆に』、そのヘビたちを素手でつかまえる(!)。さらにはその口に自分の口を当て、そこから息をプー!と吹きこんで大きくふくらまし、そして『ヘビ風船』とでも言えそうなものをこさえて遊ぶのだった…!(第1巻, p.135)
筆者はこれでも都会の仔だったので、ヘビで遊んだことなどなかったのだが、そんなことができるものなのだろうか? …原理的にはできそうな気もするけど、やってみようと考える人がめったにいないだろう。そして彼女の≪行為≫を見てびっくり大仰天し、『ひいいい』と叫んで引きまくっている自分の夫と娘に向かって平然と、
『コレ子供の 頃から 趣味だったの
久しぶり だわあ~』
と言って君枝は、言いしれぬ≪享楽≫の味わいに、そのほほを赤くそめるのだった。これがまさしくフェラチオや『去勢』を模擬する行為でありつつ、そしてわれらのヒロインが≪メドゥーサ≫の一族に他ならぬことの証明でもあろう。そして≪メドゥーサ≫はそれ自身が≪去勢のシニフィアン≫でもありつつ、その話題については関連記事をご参照ありたし(*)。
さらに。いつもふしぎと遡及的な書き方になるけれど、われらがみっちゃんのパパの初登場シーンが、またひどい! というかそれは、長谷川家シリーズ全編のオープニング・ストーリーでもあるものだが。
すなわち。おうちで絵本を見ていたみっちゃんが、『どうして 象さんのお鼻は 長いの?』と、ママに聞く。彼女の見ていた絵本の題名が「アニマル セックス」であることは流すとして、そこでみっちゃんのママはやたらとテンションも高く、次のように娘に吹きこむのだ(第1巻 p.126)。
『実は 生まれたばかりの 象の鼻は短いのよ!
それをアフリカの 屈強な大男が ギュ――ッと ひっぱるの!!
子象が泣こうが わめこうがギュギュ ギュギュ~~っとね!! ホホホホ』
というトラウマちっくなでたらめを吹いて娘をおびえさせておいて、次の4コマで、君枝はさらにノリノリで、≪外傷≫的なホラ話を重ねる。いわく、『同じように 男の子のちんちん もね! そう! 産婦人科の屈強なお医者さんが(、出生直後にその部位を) ひっぱるの!! 最初は男も 女もいっしょ なのよ!』。…これに対する、みっちゃんのリアクションがやばい。
『へー!! パパは ひっぱり足りな かったの?』
それを聞いて君枝は『ワハハハ ハハ』と、声も高らかに大爆笑。そうしてその横でこれらを聞いていたみっちゃんのパパは、『グサ』と痛烈に≪外傷≫をこうむって、冷や汗をかきまくり青ざめるのだった。
…と、この場面では母と娘が結託して(?)、それぞれの夫であり父である人物に『去勢』をかましているわけだが。にしても、君枝のさんざんなホラ話が娘の教育によくないかもしれないのに、聞いていて放っといているみっちゃんのパパ…。それがもう、さいしょから≪父≫たるものとして、あまり機能していないもよう、ということにわれわれは気づくのだ。
で、このように存在感のないあわれな『夫=父』をはさんで、それを見えにくい利害のポイントとして、母と娘は潜在的・顕在的に、対峙または敵対するのだ。もしもみっちゃんのパパが、『明治の父』くらいに威厳ある偉くて怖いお人だったとしたら、こんなお話は成り立たないはずでありつつ。ほんとうに怖いのは≪父≫であるべきなのに、パパがそのお役を引き受けないので、『ママがこわい』という現象が生まれているのだ。
で、そうした母娘の対立図式の潜在(→顕在)を、異なる性においての≪オイディプス物語≫の葛藤劇を、楳図先生はホラーとして描き、戦車先生はギャグとして描いているのだ。そして君枝の行為らが娘を『攻撃』しているものとすれば、それは夫を『去勢』しようとするものへのけん制でもありつつ、『自分“こそ”が夫を去勢したい』という意思の表れでもあるのだ。
なお、ここまでに『娘が父を去勢する』という論点へのフォローが乏しいが、それについては以前の記事、『坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味』(*)をご参照されたし。そこに出ている『娘は父の、“想像的ファルス”である』というテーゼの展開として。が、こっちの作中では、みっちゃんがいまだ5歳でひじょうに幼いので、そんなには父を『去勢』していないのだけど。
ところでそろそろ、しめくくりに向かって。ここらで筆者が正直なところを申し上げると、われらが巨匠・吉田戦車先生のご創作で、『これはいい、すばらしい!』と自分がすなおに言いきれる作品は、見てきた限り、かの崇高なる大名作「伝染るんです。」と、びみょうに並んでこの「甘えんじゃねえよ」。という、その2本だけなのだった。
いつも強固に『同じこと』を描いているとも見られていそうな戦車センセだが、そんなでもないと筆者は感じているのだ。ここでちょっとしっけい気味なことも申せば、この2作以外の戦車センセのお作には、『単にストレンジなことがダラダラと描かれた、“形式的なシュール”』とか、『まったくありそうなふつうの見立てギャグや風刺ネタ』、といった部分らが、少々目立ってなくもないのでは?
そうじゃなく、その世に言われた特徴の≪不条理ギャグ≫がまたくシャープに切れまくっている作品として主なものが、いま挙げた2作だと感じているのだ。そしてその≪不条理ギャグ≫とは、人間らの≪外傷(トラウマ)≫のある部位をことさらにつついて刺激しつつ、その痛みが『認識』にいたることを抑圧して、読者を笑いへと方向づけるものだ。
補足すれば、もともと人間は≪外傷≫の存在自体を抑圧するものなので、≪ギャグ≫はその傾向を利用している。それはいったん≪外傷的な知≫を示唆しておいて、そして爆笑という愉しみの発生とともに、その≪知≫を主体から押し流させるのだ。
『忘れようとしても思い出せない』…とは「天才バカボン」の中の名せりふだが、それはそのまま≪外傷≫のことだ。そのような分析理論と≪ギャグまんが≫との美しいシンクロを見つつ、そして『去勢』とは、われらのフロイト様が最晩年の論考で言われた、言わば『究極のトラウマ』、人間らが終生どうしても克服しがたき≪外傷≫なのだ。
とまでを言ったらいちおうオチがついた気もするので(?)、さいごにちょっとだけ、この堕文のお題となっている作品「戦え! 軍人くん」をも見ておく。その作中、軍の司令官で発明マニアで『美形中年』と形容もできそうな人物が、新兵のヒーローくんをつかまえて、彼が考案の新兵器の自慢に及ぶ。なお、ちょっと有名かもしれない≪いじめてくん≫というキャラクターは、この人物の発明品として今作で初めて登場したものらしい。
『吉田くん…また おもしろい物を 発明したぞ!
無砲塔戦車だ!!(…と言って司令官は、あるべきところに砲のない戦車を示す)
戦いたくても砲がない から
グルグル走りまわ るばかりの 情けない
兵器だよ! はははは』
が、これらを見て聞いた吉田くんがひじょうに反応に困っていることに気づくと、司令官は一転してしゅ~んとして、『…………だめか?』と問いかける。しかしわれらのヒーローは、そこでまた、いっそう反応に困るばかりだ(第1巻, p.49)。
と、かなり同じようなエピソードが、関連シリーズの「戦え! 学生さん」にも出ている。こちらではさきの司令官が教頭先生を演じていて、そして生徒役のヒーローくんを、出しぬけに背後から呼びとめる。
『吉田君 見てくれたまえ!
ついに芯の無い 鉛筆を 発明したぞ!
(と言って教頭は、『先端が円錐状に削られた木製の六角柱』、と言うべきものを示す)
今までの鉛筆は どんな高級品でも 芯があるのが 不満だった
そこを改良 したのがこの 鉛筆なのだよ
見たまえ まんなかに黒い汚い 芯が入っていない この美しさを!』
…等々とまくしたてて、教頭は大いに悦に入っているが。しかし例によって吉田くんは反応に困って、ただ無言でもじもじしているばかりなのだった(第2巻, p.72)。
そうしていずれのエピソードも、われわれがさんざんに見てきた『去勢』というモチーフをかすっているものであること、それは言うまでもなさげ。すなわち、それらの新発明は、ただ単に役に立たないのではない。言い換えて、このエピソードらは、むかしからあるような『こっけい』や『ナンセンス』を描くものではない。
そうではなく、それらの新発明のきわめている『役に立たなさ』が、われわれの≪外傷≫ある部位をズビズッ!とさして(刺して)いるので、それらが≪不条理ギャグ≫になっているのだ。それぞれのお話の吉田くんらが、『そらあかんがな!』等と安易にツッコんだりはしていない、そこに味わうべきところをぜひ見よう。
追記。ところで、みっちゃんのママが自分の娘をだまさなかった『珍しい例』として、こんなお話がある(第1巻, p.167)。
『ママ 赤ちゃんて コウノトリが 運んで くるんだよね』
『なに 言ってんの みっちゃん
あんたは ママの おまんこが ガバッと裂けて
血まみれになって 生まれてきたのよ』
『う うそだ!! 絶対うそだ ママのうそつき!!』
≪外傷≫との直面を避けるためのやさしい作り話を平気で否定して、みっちゃんのママは、外傷そのものである事実を娘につきつける。これによって例のごとく、娘が傷ついていることには変わりがない。
つまり単に『娘をだます』ではなくして、虚構をも事実をも随意に用いて、自分の娘に外傷を植えつけたりその外傷をつついたりすることこそ、君枝がなしていることなのだ。で、その行為らがわれわれ読者らの≪外傷≫をも刺激するにより、そこで≪ギャグ≫が構成されているのだ。
とま、そんな走り書きのさいごに。先日、ここに設置のメールフォーム(*)から、おそらく激励のおたよりらしきものをいただきました。ありがとうございます! 自分以外にもここを見ている人がいるっぽいと確認できたので、がむばりま~しゅ!
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿