2010/02/06

糸杉柾宏「あきそら」 - 『オムツの中の幸福』よ、永遠にあれ!

 
参考リンク:秋田書店(版元)公式

これは青年誌に掲載の、いわば『家庭内ラブコメ』(!?)とでもいうべき作品だが。しかしそれが、『はなはだしくエロい』とか『タブーに挑戦しすぎ』とかいった評判によって、まんが読者界で少々話題をさらっているもよう。『ただ単にエロいばかりではなく、年齢制限なしの一般誌でそれをやっているのがチャレンジング』、というニュアンスにもよって。
そうして筆者もミーハーなので、ついついそれを見てみたのだ。すると今作は、『必ず毎回、Hシーンの描写をピークとした構成』という特徴を有すので、実質的にはりっぱなポルノ作品だとも考えられる。

というところで思い出したのは、1990'sに青年誌編集部の内幕を描いて話題を呼んだ作品、土田世紀「編集王」の中の1エピソードだ。作の中盤に登場した新参の編集部員が、彼なりにプランを練りに練った結果、超エロエロに徹した挑撥的きわまる作品を仕掛けて、媒体の部数拡大に貢献し、人々の熱烈な関心をも勝ちとる。
ところがそれがあまりにも挑撥的すぎて、PTA方面を怒らすどころか、雲の上のこわい人からも版元に圧力がかかってくる。そこで気の毒にもその連載はポシャり、かつそれを仕掛けた編集者は、社内的には辺地の海外支社に飛ばされてしまう。

以上は記憶だけに頼ってのご紹介なので、おそらく少々(大いに?)不正確だろうけど。だがしかしこの「編集王」中の1エピソードについて、『それはまた、どういう“意味”なの?』…という疑問が当時から、筆者の頭を離れない。
つまりこの編集部員のなしたことが、善なのか悪なのか…という『評価』が投げ出されたままに、お話が終わっているように思えたのだ。がしかしそのポイントの追求は、いつか「編集王」を読み返したときに行うものとして。

と、そのようなものを、かって見たわけだが。また現実に即して言えば、われわれは1990'sに、遊人やみやすのんきのような作家たちの活躍を青年誌上に見たわけだが。そうしてそれらに類するものは、わりと常にあるのだが。
けれどもわれわれが≪いま≫という時に見ている作品、糸杉柾宏「あきそら」は、質的にそれらとはまた少々、異なるものかな…という気もするのだった。

というのも「あきそら」について、その≪内容≫を文字に書いてみれば、まったくもって露骨に挑撥的なのだが。しかしソフトフォーカスでパステル調ともいうべきその絵柄、それプラス四季の情趣を背景に盛り込みながらの叙述、といった特徴を有する作品自体のふんいきは、『挑撥的』という感じがそんなにしない。むしろ、『抒情的』(!?)。…よってこの作品に対しては、『おセンチで抒情派のハードコアポルノ』、というふしぎな呼称を捧げたいようにも思う。
別なことばで申せば今作は、あたかも『自然なこと』かのように(!?)、その不自然きわまる≪行為≫の数々を平気で描いている。そこがむしろ、『逆に悪質かも』…という気もするのだが、そういうところはまた後で見るとして。

ではここで、その「あきそら」がどういうお話なのかを、ざっとご紹介。別に『高校生』と明示されてないようだがそれらしきヒーローの≪ソラ君≫は、少女と見まごうほどにきゃしゃな美少年。それがまずさいしょのエピソードで、向こうの方から誘われて、実の姉の≪アキ≫と性交を行う。
そうして題名が「あきそら」というだけに、お話の中心はアキとソラ君との反復的な性交、そして2人の行く先見えざる『恋』のゆくえ、ということだが。加えてその間にソラ君は、誘われるままに別の少女たちの多数とも、性交や相互自慰を行う。かつ、女装・露出・乱交などの逸脱的な≪行為≫らをも行う。やがては彼の双子の妹ともまた、性交を行う。
そしてこれら一連の性的な行為らは、ソラ君にとってはすべて、いわゆる『据え膳』でありつつ。しかもそれらにさいし、しばしば、女子の側から『避妊などはいっさい行わない』(!)という意思の明示されている点が、またずいぶん挑撥的ではある。

…といったところで、既刊分の最新第3巻(チャンピオンREDコミックス)が終わっているのだが。そうして筆者の予想だと、『次の段階』としてソラ君は、彼たちの≪母≫とも性交を行うのではないかと思う。
母と書いたがその女性は、実母ではなくておば、彼たちの母の双子の妹だ。それがかって、幼くして実母を亡くしたきょうだいに『ママが帰ってきた!』と誤解されてしまったので、そのまま≪母≫としてのお芝居を通しているのだ。そうするとまんが的な展開としてこの女性は、いまだ処女であるとすれば、いっそう面白い…かも!?
またこの家族には、なぜか父親が(理由もなく)いない。ただ単に1人の父がいないどころか、今作には≪男≫と言えるほどの男性キャラクターが、まったく登場しない。

とまでを申せば、今作がいったい≪何≫であるのか? …分かる方々にはすでに、直感的にもお分かりになってしまったのでは? …とは思いつつも、続ければ。

まんが作品らを見ていると、次のような場面がまれでない。主人公の少女や少年に対し、昔から縁があった(らしき)年上の異性が、みょうに上から保護者めいた口を利く。そこで思わず主人公らが反発を示すと、向こうはきわめて心外そうに、『むかし自分は、乳幼児だったあなたのオムツまで替えてあげたのに』…と、何かひじょうに決定的なことかのように、それを言う。
それを言われたら主人公たちは、(とりあえず、一般的には、)羞恥や屈辱感を覚える。それはそうで、『かってオムツを替えられた』とは、一方的に向こうがこちらの恥部いっさいを知っており、そして無力だった自分に対し、一方的に保護の役を果たしていたことになる。いくら幼時のこととはいえ、そのことに対する『取り返し』は、後からはまったくつけようがない。
また、そこで主人公らが屈辱を感じる理由はもう1つ、言外に相手から『いまも大して変わっていないし(=半人前である)』、と言われているからだ。よってこの主人公らは(お話の要請として)、いまだ成熟せざる少女や少年でなければならない(…かつ、これが同性間のお話であってはインパクトが薄い)。そうして彼らが、どうにか『取り返し』をつけるためには、何とか≪成長≫をとげて、半人前を脱してみせる以外にない。

ということを見た上で、その一方。われらが見ている「あきそら」のヒーローたるソラ君は、たぶん10代半ばくらいの年齢でありながら、彼をかまっている少女たちによって、あたかも乳幼児かのように扱われているのだ。オムツをそうびした乳幼児に対して『排泄をガマンしろ』という者がいないと同様に、彼は何のためらいもなく事後へのうれいも持たないままにその≪行為≫らを遂行し、かつそれを悦び愉しむことを求められるのだ。
およびソラ君が、しばしば少女らの気まぐれで女装させられるということがあるが。これもまた、女性らが幼児を使って遊ぶやり方の1つだ。幼児でなければ≪着せ替え人形≫として、彼は弄ばれている。そして人形というなら作中でソラ君は、『自分から何かをする』ということがいっこうにない。『相手が望むならそれに応ずる』というのが、彼の常の構えだ。
そうしてわれらの主人公は、少女たちからそのように弄ばれ過剰なケアを受けることを、とりわけいやがってみせることはしないのだった。『幼児やペットや人形のような扱いを受けることは、男のこけんにかかわる』…などという発想は、彼にはほとんどないのだった。するとこのヒーローのマインド自体が、いまだ自覚なき乳幼児かのようだ、とも言えるのでは?

そうこうとすれば今作「あきそら」は、『いろいろな責任のともなう“大人の行動”』だとされる≪性交≫を、まるで『乳幼児の排泄&それのケア』に等しき行為かのように描いている。≪生殖≫という概念が、そこにおいてはぞんぶんに抑圧されきっている。であるゆえ、そこに『避妊』などの必要はない、とは、作品の内部的な1つの合理性だ。
これでは道理で今作が、その内容の激しさに比したら、意外といやらしい感じに乏しいわけだ。つまり乳幼児の排泄やオムツの交換を見て、ふつうの人々は興奮しないし。かといってぜんぜんエロくないとも言えないのは、ふさわしくない年齢のヒーローがそれをなされている、という倒錯感によるものだろうか?
そういえば。筆者ごときは知らないことだが、世のどこかでは、≪幼児プレイ≫というお遊びが、自覚的に実践されているそうで。そしてこの「あきそら」は、明示的でない方法でその愉しみを叙述した作品、かとも見られそうだ。

かつまた。以下のような精神分析チックなりくつを筆者は言い飽き気味なのだが、しかし正しいことなので申しておけば。
それの主張の1つとして、われわれ“誰も”は誕生の直後からしばらくの間、惜しみなき一方的な情愛をこうむりまくるという≪黄金時代≫を経験している。そうでないという人は、絶対にいないはずだ。まったく無力な乳幼児だったわれわれを、誰かが一方的かつ献身的にケアしてくれたからこそ、われわれはいま生きているのだ。
ところがそのような≪黄金時代≫はまたたく間に過ぎて、銀の時代や銅の時代らがそれに続く。さらに筆者あたりは現在のところ、“鉛”どころか≪泥の時代≫を生きているような気分だが、まあそれはともかく…。
と、ここまでを申してくれば、以下のことは明らかだろう。話題になっている糸杉柾宏「あきそら」という作品は、そうした≪黄金時代≫の幸福を…言い換えてわれわれがオムツをしていた時代の無上にして無責任なる幸福を、読者たちの現在に呼び戻しているものなのだ。

ところでそうした≪黄金時代≫について、それをわれわれは≪オイディプス≫以前の時代、すなわち『“近親相姦”が許された時代』(!)として認識している。その時期の幼児は≪多形倒錯≫と形容されるしろもので、ありとあらゆる享楽の追求を熱烈にためらいなく行う。ちょうどわれらのソラ君が、もろもろの逸脱的な性行動らをまったく辞さないように。
そしてそれらが許されないものとなるのは、母子一体の蜜月の空間に≪父≫的なものが規範として介入し、そして大いなる『否!』を発してからのことだ。そこにわれらが黄金時代と呼んでみたものが終わり、そして子の側には、分析用語で『エディプス期』と呼ばれる葛藤の時代が始まる(めやすとしては、3~5歳ごろのイベント)。
そうであるので、その逆に。『エディプス期』以前の無上の幸福がずっと続くことを描こうとする「あきそら」は、≪近親相姦≫をまったくふつうの『家族のふれあい』かのように描くためにも(!?)、≪父≫なるものを、そのイメージを、それの顕現を、その作品世界にて、ぎちぎちと抑圧しきっているのだ。

さらに申せば精神分析の主張として、『人間の最大の幸福は、“胎児”の時代にあった』かのようなことまで言われる。けれども胎児らがそれを自覚しているということはなく、むしろそんな自覚『さえも』ないことこそがその幸福のきわまりでもありながら、そしてそのような時期を過ぎた人間らが、それを過去形によって想う…ということだ。
けれどもまんが作品というものに向き合っているわれわれにとって、最初から最後まで『胎児』かのように過ごしている主人公というのも、あまりに考えにくいものであり(!)。そこで話題の「あきそら」という作品は、巧妙に、ほどよい作劇によって(?)、それ的な幸福を描いている…とは言えそうかも。

あわせて、異なるところも見ておくと。第2巻の第8話、われわれには親しい≪ペニス羨望≫という想念が高ぶってソラ君の双子の妹は、兄のペニスをハサミでちょん切って≪去勢≫してやろう、という暴挙に出る。
ところがさすがにそのことをソラ君が拒むので、『逆に』彼との性交を行うことで彼女は、まったくもって『想像的』もきわまった≪去勢≫を執行する。かつその性交によって彼女は『逆に』、自らを≪脱・去勢≫しているとも記述できる。
いちいち説明もしきれないが、これは精神分析が描いている女性の性発達プロセス(の一部)の、とんでもなくグロテスクなパロディに他ならない。そしてなぜ彼らがその一連のグロテスクな茶番を演じているのかというと、要してしまえば≪父≫が不在であるゆえだ。
そしてソラ君の側に即してこの茶番を見れば、彼はあらゆる意味において≪去勢≫を避けたい、と表明しているに等しい(…分析理論においては『“象徴的去勢”=近親相姦の禁止』)。そんなわがままが通っている理由もまた、要してしまえば≪父≫が不在であるゆえだ。

と、いま2度も申し上げた『≪父≫の不在』とは、この作品について『のみ』申しているのではない。この世界、この社会、その各ご家庭らに、生物学上の父というものは必然的にいるわけだが、しかし現在≪父≫というものがいるのだろうか…どこに? この世にあるべき規範を代表しつつ、そしてかの『大いなる否』を子らへと発する者(=“象徴的去勢”の執行)、そのような≪父≫はいずこに?

 『こんなこと…… おかしいって…  変だって……
 頭のどこかで 分かっているのに…
 なのに…………』(糸杉柾宏「あきそら」第2巻, 第6話)

説明もはばかられるほどに変質的な≪行為≫のきわまりが描かれた、その1つのエピソード(第2巻, 第6話)。それに付されたサブタイトルが『恋人たちの午後』とは、ずいぶんな皮肉にもほどがありげ。そしてその真っ最中、≪享楽≫のさなかにあって、ソラ君はモノローグにて、いま引用されたせりふを言う。
さて、その場面にて彼は、そこにどこからか『大いなる否』が雷鳴のごとく発せられることを望んでいるのだろうか? またはそうでなくその反対に、『頭のどこか』と言われた場所からかすかに聞こえている『否』というささやき、それの完全なる消失こそを彼は願っているのだろうか?

『享楽せよ!という命令がある。それに対して主体は、わたしは聞いている、とだけ答える』(by ジャック・ラカン)

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