2010/03/12
施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - イヤだけど、現実しか存在しない
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≪われらの作家≫こと施川ユウキ先生が、どこだかで言ってらしたようなお説。『すべての物語は、潜在的には夢オチである』、とか何とか。もしもそういうものだとすれば、『夢解釈』ということを得意とするわれら精神分析の陣営が、≪物語≫らに対して黙っていられるわけがない。
ところで精神分析の夢解釈とは、『それもこれも性的な象徴なので、つまりあなたは性的欲求不満なのです』などといった、世間のイメージするようなくだらないものでは『ない』。
――― 久米田康治「さよなら絶望先生」, 第18集, 第177話より ―――
『フロイトの 夢分析に よると 大抵の夢が
性的欲求(リビドー) 不満の現れと されているのよ』
と、こんな適当なことを言っている≪智恵先生≫が学園のカウンセラーだそうなので、どうりで「絶望先生」作中の学校には、おかしい人間がひじょうに多いわけだ。そういう意味では、お話としてすじが通っている。
そもそも『性的欲求不満』と言ったら人間は“誰も”がそうなので、そんなことを指摘して『分析しました』なんて、バカなことを言っててもほんとうにつまらなすぎる。中学生ならいいけど、お互いもう大人なんだからさ!
さてここで筆者が大まかな見取りを示すと、精神分析の見方から、人間の夢とは次のような仕組みでできている。
◆比較的さいきんに主体が強い印象を受けたイベントやイメージが、『隠喩・喚喩』への変形をこうむりながら再現される。
◆かつそうやって再現されたものは、主体が無意識へと抑圧している幼時の≪外傷的≫な記憶が、遠廻しに再現されているものでもある。
◆かつ、夢の内容には、主体の(無意識の)願望を充足する要素が含まれている。『夢は願望充足である』の大テーゼは、必ず妥当する。
◆そして『なぜ人は夢をみるのか?』について1つの理由を言うと、それは『目ざめないため、もっと眠るため』だ。尿意の生じているときにトイレへ行く(行こうとする)夢をみるのは、それの分かりやすい例だ。筆者の体験だと、目ざまし時計が鳴っている時に、『セミの声がやたらうるさい』という夢を見たことがある。
◆ついでに。夢に出てくる長いものや棒状のものを、何でもかんでも『それはペニスの象徴です』、と言う。そのような精神分析の主張が紋切り型で失笑を買うわけだが、しかしその解釈がまちがっている、ということではない。われわれの解釈が紋切り型なのではなくて、夢みる人間らの発想が一般に紋切り型きわまるのだ。かつまた、正しく解釈すればいいというものでもなくて、それを『言う』タイミングが治療論の課題になる。
と、フロイトがそのような見通しを示した超名著「夢判断」(1900)の公刊から、すでに110年。その間に、脳生理学者やら何やらが別の方面から夢というものを研究して、何らかの成果を挙げているようだけど。が、そうかと言って、フロイトの理論が無効になったわけでもない。
つまり『レム睡眠のさいちゅうに脳波がウンヌン』、といった夢理論を皆さまも耳にしたことがおありだろうけれど、だがそれは別に、フロイトの夢解釈を無効にするようなものではない。それに対抗しているものですら、ない。同じ現象に対しての並行した記述がいくつかある、ただそれだけだ。いや、『同じ現象』を記述していると『さえ』も言えない。
すなわちあなたの気分や考えていることを、『脳波のざわめき』に還元するような主張もある。あなたがいまそこで生きているということを、ATPだかADPだかの代謝がなされている、とも言える。それらの主張も別にでたらめではなかろうが、しかし、『それ』があなただろうか?
つかみどころのない想念を何とかことばで表すより、脳波の波線の記録でも見たほうが客観的で『確か』なのだろうか? そしてそのように、現行の『科学』の守備範囲にあわせてものごとをスケールダウンして『理解』した気になる、そんなものが≪科学≫の営みなのだろうか? 別に筆者はセンチメンタリズムや実感信仰などから、これらを言っているのではない。
――― 2010年3月11日、icenerv(筆者)の、目ざめぎわの夢 ―――
朝7時、自分はいつもの職場で、検査器具を見たり利用者さまに声かけしたりと、いつもの仕事をしているつもりだ。そこへ遠くから女性の声で別の職員が、『iceさんは、鉄柱を見てくださーい!』と、業務上の指示を送ってくる。
鉄柱…? 鉄柱を見るとは、どんな仕事? 自分には分からないが、『とにかく行ってくださーい!』と、指示する声が重なる。
言われたとおり、ともかく自分は下の階へと向かおうとする。どこか下の階に、その鉄柱とやらはあるらしい。こうして通常の煩瑣な業務からしばし離れることになって、ややホッとしている気分もある。このどさくさまぎれに一休みできないかなと、ふらちな考えも脳裡をよぎる。
そうして自分が乗り込んだエレベーターには、OLらしき制服姿の女性がどこか上の階から先に乗っている。そして彼女は『もう、遅いわね!』と、かごの動きの遅さにいらだっている。…と、ここらで目がさめた。
(補足。夢の中では『いつも通り』のつもりだが、しかし『いつもの職場』ではないし、いつもの仕事ともだいぶ異なる)
ちょっと、解釈を。朝7時は自分のかっての職場で、早番の始業時刻だった。それに当たると5時半までに起床せねばならないし、人によるけど相棒の夜勤者は疲れてへんにイライラしてやがるしで、それが筆者は大きらいだった。
そのことがこの夢に関係していることは、かなりはっきりしている。かつ願望充足の要素がすなおに出ていることも、まったくご覧の通りにて(赤面)。
けれども≪鉄柱≫というものが何なのかは分からないし、OLっぽい女性の登場とそのせりふの意味も分からない。思い当たることがぜんぜんないでもないが、別にむりしてすぐに解釈をひねり出す必要はない。むしろ、解釈を急ぐことはひじょうによくない。
分からない要素がどうしても≪剰余≫として残るのが、夢解釈の『逆に』面白いところだし。かつそのなぞっぽい要素らは、多重の隠喩作用の向こうで、おそらく筆者が思い出したくもない≪外傷≫を示唆しているのだろう。
ここらにおきらくな自己分析の限界めいたところがありそうで、人間は思い出したくないことは思い出さないように努力を惜しまない。しかも、現に何かを深刻に病んでいるのでないとあれば、なおさらだ。
なお。あまり言い張らないのだが、≪鉄柱≫はとうぜん≪ファルス=勃起したペニス=父性的なもの≫を思わせる要素。そしてエレベーターは子宮と産道だとか、OL様は母親的なイメージだとか、そういうことは考えられなくない。
そういえば筆者が生まれるとき、母親は初産で、出産が予定日にはずいぶん遅れたらしいが。また、いちばんさいしょに出た≪検査器具≫にも、何か性的なイメージのような感じがありつつ。
どうであれ『自分が女性とエレベーターに同乗する』というイメージは、性交を示唆している要素という嫌疑が濃い。かつエレベーターの『下降』という現象は、倫理道徳的な意味での下降をも表すものだろう。
だから『遅いわね!』というせりふもまた、何か性的な意味に解釈されうる。別に言いたくはないのだが、いわゆる『遅漏』ということで女性から叱られたことはある。
とまでを見てから、話がいちばんさいしょまで戻り。そうは言っても≪物語≫が夢の一種であるとは、さまざまな前置きなしで言えることではない。そうだと言うにも、まずそれは“誰”がみている夢なのか?
その問いに対して『作者がみている夢』、という答には超0点を進呈せざるをえない。われわれの論議で、作者の心理とかはまったく問題にするところではない。
そうじゃなくて。広く共有された物語とは、『社会がみている夢』なのだ…という答は、大きな正解だと言いうる。正しい答だが、あまりにも大きい。
しかしながら、施川ユウキ先生のみことばを、また見直せば? 『すべての物語は、潜在的には夢オチである』とは、その物語のさいごで、お話の中の誰かが目ざめるということだろう。つまり作中人物の中の“誰か”が、その夢をみたのだ。
――― 施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」, 第5巻, 最終話より ―――
『夢オチの物語が 好きだ。
フィクションを フィクションと 潔く認めている所がいい。
本当の現実主義(リアリズム)だ。
全ての物語は 誰かに語られた時点で フィクションとなり
それは 夢オチであるべき なんだ』(p.177)
おやおや。いまさらながらちゃんと確認してみたら、筆者の記憶とはぜんぜんイコールでない気もする。そもそもこれは作中人物のモノローグであって、ユウキ先生の語りではない。
かつまた異なるのは、『である』と『である“べき”』との差異だろう。われわれは作品の外側から『である』かと考え、「酢めし」の作中人物は物語の中で『である“べき”』と言っている。
『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』(同書, p.183)
まったくそうなのだが、われわれはその逆に『夢オチの後の現実』の側からフィクションを語ることしかできない。言い換えて、≪語り=騙り≫という行為でフィクションを編み続けることしかできない。「酢めし」最終話の作中人物は、悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えているが、しかし『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』であるのだ。
ところで皆さまもご存じの、『胡蝶の夢』というお話がある。荘子が蝶になる夢をみて、夢の中では『自分は荘子である(であった)』などということは忘れて、楽しく舞い遊ぶ。ところが目ざめると、彼は荘子だ。そこで彼は、『自分が蝶になった夢をみていたのか、蝶である自分が荘子であることを夢みているのか、それは分からない』と結論するのだ(参考リンク:Wikipedia「胡蝶の夢」)。
そうしてこのお話について、誰かラカン系の大先達がするどく分析していたのだが、出典を思い出せなくて申し訳ない。…確かスラヴォイ・ジジェク様だったか、違ったか…?
ともあれその言うは、このような感じ。『そんな相対性は成り立っていない。荘子本人が正確に書いている通り、夢の中で蝶になった彼は、荘子ウンヌンもその生きていた環境もさっぱりと忘れている。ところが目ざめた荘子は夢の内容を憶えていて、それを(多少は)批判的に考察の対象にしている。目ざめている人間は“この現実は夢ではないのか?”と疑ったりするが、夢の中の主体は、そのようには考えない』。
筆者がここで自己反省してみると、夢というものの内容の合理性のなさに対して、夢の中で『これはふしぎだ』と考えていることはある。けれども『それは夢だからかなあ』と、そういうふうに夢の中で考えたことはないのだった。
そうすると、われらが見ている「酢めし疑獄」の1人のキャラクター。悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えている彼は、まったくもってそれ以上は目ざめようがないのだ。彼は彼の現実を生きており、われわれはわれわれの現実を生きている。
『きっと全てが夢で 現実なんてどこにも 存在しないんだ』(同書, p.183)
…と彼は考えたいのだが、そうではない。『そういうふうに考えたい』というところから、彼にしろわれわれにしろ自分で自分を騙り、そしてその≪騙り=語り≫の存在さえをも忘れてしまうのだが。
ここではむしろ、『現実しか存在しない』(夢という要素を包んだ現実)、ということの前にわれわれは(彼とともに)おののいているのであって、そしてそのことのあまりな≪外傷性≫を、ギャグとして『受け-流す』のだ。何度も申すけど『まんがとは人間どもの無責任な想像を描くもの』、ではありつつ、その中でギャグまんがだけが≪外傷的≫な『ほんとうのこと』を、かろうじての方法で描き出しているのだ。
(さいごに、蛇足的な釈明。筆者もいちおう≪ラカン系≫を名のりたいものとして、『現実』という語には注意しなければならない。けれどもいろいろ考えて、文中ではそれを≪現実界 real≫ではなく、夢との対比で一般的な≪現実 reality≫として用いている)
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