2010/10/29

吉田戦車「伝染るんです。」, 新井理恵「ペケ」 - カミュってサルトる、≪不条理≫メモランダム

新井理恵「×-ペケ-」文庫版, 第1巻 
関連記事:うすた京介「すごいよ!!マサルさん」 - 局部を見せないまんが作り, ラベル“吉田戦車”

ギャグまんがの世界にはっきり≪不条理≫ということばを持ち込んだ作例として、吾妻ひでお「不条理日記」(1978)は、目ざましいものにはちがいない。ただしそれは社会的にはマイナーに終わり、ムーブメントを起こしてはいない。
そうではなく。それを追って後からどんどん『不条理』な作品が出てくる、というムーブメントを起こしたのは、もちろん吉田戦車「伝染るんです。」(1989)。『よくも悪くも』そうなったわけで、つまり少なくない作品らが、そのムーブメントの『一部分』と見なされてしまったらしい。

1. 新井理恵「×-ペケ-」は、≪不条理≫なのかどうか

1990年に別冊少女コミックで掲載が始まった新井理恵「×-ペケ-」(フラワーコミックス・スペシャル, 全7巻)も、その巻き込まれたひとつでありそう。そしてその見方について、作者さまから、じわっと抗議が出ているところをお見うけいたす。

――― 新井理恵「ペケ」第1巻, 作者のごあいさつから(p.32) ―――
新井です。まぁ最近は不条理な四コママンガが世間にはびこっていて
それは現代の世の中自体が不条理(…中略…)
が つまりそんなことは どうでもいい関係ないコトなわけで

つまりムーブメントの存在は、はっきりと認めておられる。しかし、自作「ペケ」はその一員ではない、と言われたいごようす。
また別のところには、こんなことも描かれてある。

――― 新井理恵「ペケ」第2巻, カバー下のまんがより ―――
【なぞの博士】 「×-ペケ-」を 不条理と 言う者は
「不条理」という 言葉のイミを知らない アンポンタン・ポカンに すぎなーい!!

だがしかし、同じカバー下の表4では、その博士の助手が「ペケ」第2巻を読み終えて、『やっぱりただの 不条理4コマとしか 思えませんでした』と言っている(!)。言うにもことかいて、『ただの不条理4コマ』とは…!

とまで見てから、自分の感じ方を述べると。「ペケ」のポジションが、先行した「伝染るんです。」と、そして追って出た少女系ギャグの傑作、にざかな「B.B.Joker」(1997)にはさまれたものとして…。前後の2つに比べたら、「ペケ」はそんなに≪不条理ギャグ≫じゃない感じ、言われるとおり、確かに。

あまりにもきょくたんに単純化してしまえば、「ペケ」の描いていることは2種類だ。まずひとつは作者さまの、地域や学校における実見談。もうひとつは、いまでいったらBLっぽくて『腐女子』っぽい妄想。
そして、それぞれのネタ自体がどうというよりも、それらに対するさめきったシニカルな視点がユニークなのだ。そもそも前者の実見ネタなんて、ふつうの人らがどうとも思わないようなことらを、するどい感性がピックアップしているものだし。『妄想の世界でも モテませんでした…』とは竹内元紀の作品に出てきた標語(?)だが、なぜかそれ的な痛いリアリズムを、筆者は「ペケ」に感じるのだった。

2. サルトって、カミュった≪不条理≫たち

ところで筆者もアンポンタンとしての自覚は大ありなので、≪不条理≫などというむずかしい語の『イミ』を、ひじょうに知ってなさげ。そこで、すなおに辞書をひいてみれば…。

――― ≪不条理≫の項目, 「現代新国語辞典」より ―――
ふ-じょうり【不条理】《名・形動》
【1】道理に合わないこと。「―な判定」・不合理。
【2】〔哲〕人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的状況を言った語。(参)フランスの文学者カミュのことば。

…だそうだが。記憶によれば、確かカミュ「異邦人」(1942)の結末近くで、もうすぐ死刑になりそうな主人公が、教戒師のお説教のくだらなさをガマンしかね、『absurde!(仏・バカらしい、不条理だ)』と叫ぶ…だったかな? 何ンせ、アンポンタンのうろ憶えで。
などと、思ってたのだが。しかし調べてみたらぜんぜんそうではなかったので、自分のめっきりアンポンタンであることには、ほんっとにがっかりさせられた。

まず「異邦人」のやま場に、そのヒーローが『アブシュルド!』と叫ぶ、という場面がめっからない。いや、断じてないとは申していないが、自分には見っけられなかった。
さらに、その「異邦人」とペアをなすテクストと見られるカミュのエッセー「シーシュポスの神話」(1942)。こっちの方は逆に、≪不条理≫というキーワードが出すぎ! 本文など見ず、もくじだけをチェキっても、『不条理な論証』、『不条理と自殺』、『不条理な壁』、『不条理な自由』…等々という見出しらがズラリ。

サルトル「嘔吐」訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院なお、カミュに先立ったものとして、1938年のサルトル「嘔吐」にもまた、キーワードとしての≪不条理≫が出ている。拾い読みしかしていないのだが、この作品は中盤までは≪実存≫をキーワードとして、ひじょうに小説っぽく展開している感じ。
それが終盤前になって、急にキーワード≪不条理≫が登場。そこからしばらくエッセー風に、それに関する記述が続いている。

――― サルトル「嘔吐」より ―――
<不条理性>という言葉がいま私のペンの下で生れる(中略)。不条理、それは私の頭の中の一個の概念でも、声の中の一呼気でもなかった。それは私の足下にあった死んだ長い蛇、あの木の蛇だった。
(註:“木の蛇”とは、かの有名な、主人公に突発的な吐き気を催させた、マロニエの根っこのこと。訳・白井浩司, 改訳版1994, 人文書院, p.211)

おそまつながらも、手短さを目ざして『説明』してしまおう。この小説でさいしょ≪実存≫とは単にあるもので、『世界』の中にいちおうは収まっているものだ。ところが≪不条理≫の噴出という現象は収まらざる“もの”の現前であり、それは実存の存在(感)の確かさを失わせてしまう。
そうすると、『実存はふいにヴェールを剥がれた』、『実存とは、事物の捏造そのもの』、うんぬんに堕ちてしまう(同書, p.209)。そしてこの現象は、≪実存≫と世界との間の距離や摩擦の存在をあばきたて、そして主人公を吐き気にまで追い込むのだ。

また注目すべきは「嘔吐」の語り手が、『狂人の演説は、狂人の置かれた情況との関係によって馬鹿げている』として、他には還元しえぬ絶対的な≪不条理≫ではない、などと言っていることだ(同書, p.212)。
この主人公には≪ギャグ≫とか『笑い』とかを追求している気はなさげなのに(とうぜん!)、なぜか話がそっちへふれぎみなのだ。何しろさいしょから≪不条理 absurde≫なる語は、バカらしさ・こっけいさというニュアンスを呼び出すものだし。

さてその「嘔吐」の主人公が意識しているのは、『こっけいなようなものらを見ているのだが、しかしちっとも笑えない』という感覚だ。彼は真昼の公園の平和っぽい風景を見渡して、『なにやら滑稽な姿を呈していた』と思いかけ、しかし打ち消し、『実存しているものはいかなるものも滑稽ではあり得ない』、と述べる(同書, p.210)。

だがしかし『あり得ない』と言うならば、なぜ『こっけい』という語がことさらに呼び出され、そして宙に浮かねばならんのだろうか? しかも主人公が見ているのは、われわれがふつうに思うような『こっけいな眺め』ではない。
そして『笑う』ということは、むしろ≪不条理≫を見て見ず、『事物の捏造』としての実存に甘んじることらしいのだ。すなわち。

――― サルトル「嘔吐」より(p.209) ―――
『とめどなく笑い続け、濡れた声で、「笑うのはいいことだわ」と言うあの笑い疲れた女たちのように、すべてこれらのもの(註・主人公が見ている公園の風物ら)は、静かに従順に実存へと赴くままになっていた』

それこれと見てくればこの「嘔吐」の主人公は、常人らにはちっとも面白くないものをさして『実にこっけいくさい、しかし笑えない』などと、ひじょうに根性曲がりなことを言ってやがるヤツ、ということになり気味。ふしぎなことだが、笑わないくせに『こっけい』という前置きを、彼のりくつは必要とするのだ。
それがまた、りくつといっても、別にすじの通った論ではないのが困りもの。「嘔吐」のヒーローいわく、『“不条理”は、概念ではない』。またカミュいわく、『不条理の感性は、不条理の哲学ではない』(参照:カミュ「シーシュポスの神話」, 新潮文庫版, 1969, p.8-10, 訳者・清水徹氏による付記)。

3. 『ギャグ・不条理』 -と- ≪不条理ギャグ≫

かくて『不条理な感性』というしろものは、ふつうにわれわれを≪うつ病≫のような症候に陥らせるものかと考えられる。『笑わないこと』はうつ病の始まりだと、広く一般的に考えられている。
そこのところから、カミュが「シーシュポスの神話」の随所にニーチェをもってきて見かけ上の≪解決≫をつけたり、追ってサルトルがマルクス主義(つかむしろスターリニズム?)を一種の『救済の教え』かのようにいただいたり…という方向に両者が走っていることの理由が、筆者にはわかるような気もする。ニーチェやマルクスらの≪論≫をふつうは『超越論的』とは言わないが、しかしカミュやサルトルの≪論≫の内部にそれらを置いてみると、ふしぎだが超越論的に機能するのだ。

だが、別にわれわれは、いまどきサルトルやカミュの『思想』(?)をどうこうしようとしているのではないし。そこでもうここらから、独断的にもまとめに入ってしまうと。

【1.】 サルトルとカミュがいちいち言っている『こっけいさ』とは一種の強がりであり、≪自我防衛≫の機制の発動。その強がりが保持できなければ、“もの”や≪実存≫らの現前に面して、自我が崩壊してしまうは必定。そしてその機制は機能的に、ユーモアやウィットに重なるところがある。
【2.】 ただしカミュやサルトルの言う≪不条理≫は、『“笑い”を(見かけ上の)解決にはしない』という点が、ユーモアやウィットとは異なる。『笑うこと』には『考えることの放棄』という性格もあるが、それをしないということ。

かくて≪不条理≫の根源をたずねていくと、われわれが見たのは≪不条理ギャグ≫ではなくて、言うなれば『ギャグ・不条理』なのだった。それは何でもないもの…しかし“もの”として圧倒的にあるものの現前、その脅威に直面しつつ、『こっけいくせえ!』とまず強がり、しかも可能な場合には『笑わねえ!』と、2回強がるアチチュードなのだ。
そして、この不条理の感性においてありうる笑いとして、カミュの談義がコソッと示唆しているような、“ニーチェ的な笑い, 哄笑”、というものは考えられながら。

吉田戦車「伝染るんです。」第2巻と、ここまでを見てから、やっと話をギャグまんがに戻して。

だが、しかし。吉田戦車「伝染るんです。」を嚆矢とする(っぽい)≪不条理ギャグ≫と言われるようなまんが作品らは一般的に、『平凡(もしくは“日常的”)ならざるもの』の出現を描く。
それでは逆なようだが、言ってみればそれは、「嘔吐」のヒーローが何げなものを見て受けた『とほうもなき異様さ』という印象が、先廻りして絵的に表現されてあるものかと。
そしてその異様なる“もの”らは≪日常≫に対するインパクトとして機能し、作中人物や受け手らの心に≪不安≫をを引きおこす。たとえば、ただいま「伝染るんです。」という本(スピリッツゴーゴーコミックス, 全5巻)をパッと開いて、わりとランダムに見つけた作例…。

――― 吉田戦車「伝染るんです。」第2巻より(p.45) ―――
【角刈りの青年】 (ボロアパートの一室で電話をうけて、)もしもし
【電話の相手】(…ずっと無言…)
【青年】 (『はっ』と何かに気づき、アブラ汗をかきながら、)
く、くまか!? くまだな! オイ、なんとか言えよ! くまなんだろう!!
【やたら小さく、目鼻もない真っ黒なクマ】 (…どこかの街角の電話ボックスで、電話機の上に腰かけながら受話器を構えている)

理由はまったく分からないが、この青年は彼が“くま”と呼ぶふしぎな生き物から、いまで言う『ストーカー被害』をこうむっているらしい。
このお話の構造を見てみると、当事者である青年には単に≪不安≫があるばかりで、彼はとうぜんだが笑っていない。いわば「嘔吐」の主人公ばりに、ありえざる“もの”の出現に対し、おののきを感じている(…“木の根っこ”に対しての“くま”では、出たものの様相がだいぶ異なるが)。
ここにて誰かが笑っているとすれば、それは状況を見ているわれわれだ。というかわれわれが笑っていないとすれば、これはまんがとしてうまくない。

まんが作品には、基本的には常に三人称で叙述しているという性格があるが、そうだからこそわれわれは、このように描かれたことを客観視できる。状況から、心理的な距離をとることができる。
またその一方、もしも「嘔吐」という小説が三人称で書かれていたとしたら、『一人称の日記体』(小説として、もっともインティメートなふんいきになる形式)という現況にてあるような、身に迫る感じは出ないだろう。『この主人公はおかしいヤツ』くらいの印象を残し、ひょっとしたら戯画的なふんいきになっちゃったやも知れぬ。

まず第1段階としてわれわれは、ここで≪不条理ギャグまんが≫というものを定義できるだろう。それはサルトルも描いたような≪不条理≫の噴出という事件を、ことさらに誇張して分かりやすく描きつつ、しかもその状況を客観視させる。
そこにおいて、われわれは『半分』だ。半分は作中人物とともにおののき≪不安≫に見舞われ、そしてもう半分で、サルトルやカミュらも言った『こっけいさ』を笑っている。
そしてその笑いは、≪不安≫の発生に対し、いったんの(心理的な)けりをつけるのだ。かつ、たびたび申し上げていることだが、いかなるところから出たものであっても『笑い』(緊張の弛緩)という反応は、主体に≪快≫を与える。かくて『ギャグ・不条理』が裏返されるところに、≪不条理ギャグ≫が発生する。

4. ≪不安≫に関するメモランダム

ところが、だ。第1段階と言ったからには、少なくとも第2段階の≪不条理ギャグまんが≫の定義を考えているわけで。
それは、どういうことかというと。サルトルやカミュらの主張している“もの”が、『還元しえぬ不条理』だと称されているに対し…。
一方のわれらが≪不条理ギャグ(まんが)≫の描いている“もの”について、『心理的な還元』がまったく不可能でもなさそうと、筆者は見ているのだ。『心理』という語がイヤだが、その『還元』とはとうぜん(?)、分析的な解釈ができるという意味。

たとえば、さきに『くま』の作例を見ちゃったので、そのシリーズの別のエピソードらを、同じ第2巻からチェキれば…。
…くまは青年のアパートに上がり込んで、冷蔵庫を開けて食事の支度をする(p.19)。ドアのスキ間から封筒を押し込んでくるので中を見れば、山野を背景にくまが映った写真と、千円札2枚が入っている(p.31)。
また、玄関前にウインクのCDを置いていったので青年が再生すると、なぜか中身はテレサ・テンの唄だ(p.56)。さらには、大学の友人らが『あなたのお友達が山ぶどうを持ってきてくれて』、と礼を言うので、彼は『くまに違いない!』と考える(p.96)。…等々々。

これがおそらくEarly 1990'sに描かれたお話で、いまではウインクとテレサ・テン、どっちも同じくらいに(?)、懐メロになってしまっている。まあそれは別にいいけど、にしてもこれらはどういうことか、と考えたら。

これは都会で独り暮らしをしている青年の、いなかの親たち(主に母親)を代理するものとして、“くま”が活躍しているのだ…いまいちありがたくもないような、しみったれ気味でピント外れな『親心』っぽいものを彼に示しているのだ…と考えるのが、適切なのでは? で、そうとだけ申し上げちゃえば、興ざめな≪解釈≫かのようだが。
しかし青年はこの“くま”に対して、『自分を喰い殺さないとも限らない!』という≪不安≫や恐怖を感じているのだ。真に≪意味≫があるとすれば、そこだ。

とまでを見たところでわれわれは、≪不安≫という概念を正しく再検討しておこう。筆者が超愛用する参考書(シェママ他編「新版 精神分析事典」, 訳・小出他, 弘文堂, 2002)から、ちょいと引用すれば…。

――― シェママ他編「新版 精神分析事典」, ≪不安≫の項目より ―――
【不安】-『名付けられない何かを予期する主体において無意識的な感情の代わりに表れる、多少なりとも強い不快な情動』。
(…この後がひじょ~うに長いので、筆者が超要約をこころみると…!)

1. 「制止、症状、不安」(1926)でのフロイトは、≪不安≫に2つのレベルを区別する。まず第1のレベルは≪母≫の喪失に由来するもの、第2のレベルは≪去勢≫の脅迫(を感じたこと)に由来するもの。『このようにフロイトにとって主体における不安の襲来は、母であれファルスであれ強く備給された対象の喪失につねに結びつけられる』。

2. ところが続いたラカンちゃまにとって、『不安は、対象の欠如には結びついていない』。『ラカンにとって、不安を構成するのは「何であってもよい何かが、欲望の原因となる対象の占める場所に、現れてくるときです」(1962, セミネールX「不安」)』。

3. ≪ラカンの理論≫の構成として、欲望の対象は欠如の状態になければならない。そしてその『欠如が失われる』という可能性が逆に、主体に不安をもたらすのだ。『乳児にとって乳房の喪失の不安を生むのは、この乳房が乳児に欠如しうることにあるのではなく、乳房がその遍在によって乳児を埋め尽くしてしまうことにある』。

4. それこれにより、『満足させてしまおうとする応答はすべて、ラカンによれば、不安の出現をもたらさずにはおかない。不安はそれゆえ「対象喪失の誘惑ではなく、対象が欠如しないということの現前」(同セミネール)である』。

というわけでたいへんむずかしい話になっているが、にしても。『対象が欠如しないことの現前』が、『満足させてしまおうとする応答』が、≪不安≫を生む…ということまでは知っておこう、かと愚考しつつ。

で、「伝染るんです。」の話に戻って。“くま”によって表象されているあらぬところ(何であってもよい何か)から青年はまなざしを感じ、かつ彼を一方的に養う≪乳房≫の遍在を彼はそこに見出し、そして≪不安≫を覚えるのだ。
かつ、このエピソードに限らず吉田戦車「伝染るんです。」という作品を特徴づけるのは、『他者のあるべくもない感情』が、あるべき『欠如』をかってに失わせてくれる、それが『欲望の原因となる対象の占める場所』をかってに占拠する。そこを描く、ということだ。
では、サルトルやカミュの言った≪不条理≫が、『“感情”の彼岸にある“もの”』であって『(心理的に)還元不能である』、という話はどうなるのか? …筆者はとうぜんだが、ここでラカンちゃまにつく。

吉田戦車「伝染るんです。」第1巻また、『あるべくもない感情』といえば。この「伝染るんです。」には、会ったばかりの他人に向かって、『もっと お母さん みたいに』…という態度を要求する、おかしな子どもが登場する(第1巻, p.112等)。
『母性的な態度』というものを『保護』という語に集約させればば、“くま”に構われてる青年は根拠もないような『保護』を受け、こっちの子どもは根拠もなく『保護』を求める…と、逆の構図らが描かれつつ。

そして、『他者(ら)のわけ分からなさ』ということに普遍性が、ある。他者によって愛されようと憎まれようと(…または前者からの分岐で、保護を受けようと依存を受けようと)、それらの感情、それらを表す“もの”らの過剰な現前が主体の≪不安≫を生む、という帰結は同じだ。なんて言い方は粗雑すぎなので、よくないが。

ここいらまでを見て、われわれは≪不条理ギャグまんが≫につき、第2段階の定義ができよう。その描く≪不条理≫の噴出とは、『欲望の原因となる対象の占める場所、欠如であるべきポイントが、“何でもよい何か”によって、かってに占拠されること』。それによる≪不安≫の発生を戯画として描き、(半ば)客観視させるエンターテインメントが、≪不条理ギャグまんが≫である、と。
といったところが結論なのだが、さいごにちょっと補足を。これの1日前、うすた京介「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」を扱った記事で、筆者はこんなことを述べた。

――― 自己引用、「すごいよ!!マサルさん」の記事から(*) ―――
『タマキン等を出したい的な傾きが、ひじょうに強くありながら、あえてがまんして(?)、何かその代わりのものを出す』。単純化しきったところで、≪不条理ギャグ≫とはそういうものだ。

『乳房の遍在』をやたらに描いた感じの「伝染るんです。」に対し、「すごいよ!!マサルさん」は『ファルスの遍在』、その過剰すぎる現前をやたら描いた感じ(ファルスとは、勃起したペニスをさし示す記号)。『“母”であれ、“ファルス”であれ、強く備給された対象』と、さきの引用に言われていた双へき!
で、後者≪ファルス≫を描いていく方向が、まんがとしてポピュラーだということはありそうな気がするが。にしてもちょっと、『単純化しきった』にもほどがあったかな…と、多少は反省しつつ、この堕文は終わるのだった。

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