2010/03/18
津山ちなみ「HIGH SCORE」 - ブルジョワジーのグロテスクなお愉しみ
参考リンク:Wikipedia「HIGH SCORE」
以下で今作と呼ばれる4コマのギャグ作品「HIGH SCORE」は、津山ちなみ先生の1994年のデビュー作。そして2010年の現在も連載中の、りぼん史上にまれなる超ロングラン作品だ(りぼんマスコットコミックス, 刊行中)。かつ筆者の知る限りちなみ先生は、このタイトル以外のお作を描いたことが、まったくないはず。
それもだんだんに内容や登場人物らが変わっているということもなく、ちゃんと一貫し、全盛期のブリジッド・バルドーばりの美少女で『高慢ちきでわがままな』ヒロインこと≪めぐみ≫、彼女を中心とする学園(+ホーム)ものとして。筆者がはじめて今作を見たのは1997年のりぼん誌上で、当時は男子らの見分けがつかなくて困ったものだったが。そうしてそれから、ずいぶんと長~いおつきあいになり。
で、これの第7巻(2008年7月刊)を、つい先日読んだのだが(…ご覧の堕文は、けっこう古くに書かれたものの再利用)。
そうして久しぶりに読むと、くっきり浮かんで見えたことは、この作品世界には≪凡≫がない、ということだった。きょくたんなものらしか、わりと存在しない。
まずそのヒロインが、極端な美少女で極端に性格が兇悪、また成績も極端に悪いということをはじめに。そのステディな彼氏の≪政宗≫は、極端にケンカが強い極端なナルシスト。その政宗の妹≪えみか≫は極端に男前な女の子でカッコいいが、彼氏の≪京介≫に対して極端に粗暴。その京介は極端な『へタレ』野郎で極端な浮気モノだが、しかし極端に脳がかしこくて家が極端なお金持ち。
と、この作品の中心にいそうな4人だけをざっとご紹介しても、このしまつだ。で、これらに対して、めぐみの親友の≪かおり≫だけは≪凡≫なふつうの少女かのように見えるが。ところがこの子は極端に乙女チックな片想いをこじらせて、極端にきもち悪い『おまじない』にふけったりするのだった。たとえば自分の部屋の中に、ナマの魚を吊るすとか!
という絢爛ごうかなこの世界が、筆者には、『女子中学生が夢想する一種のユートピア』という感じがしたのだった。じっさい今作が初めて描かれたころ、作者のちなみ先生はいまだ中学生だったはずだし。で、そのような性格を現在まで残しているからこそ今作が、小中学生向けのりぼん誌上にて、大ロングランを達成しえてるのでは、と。
すなわち。そのヒロインは目にもまぶしいグラマー美少女で、その彼氏はこわもてのイケメンで、そのママはTVや映画の大女優で、パパは元モデルのハンサムなお金持ちで…と、今作「HIGH SCORE」には、小中くらいの女の子たちの喰いつくような要素がありまくり。だがこういうことを、ただすなおに描いていてはしまいに反撥を買うので、そこをさけるために≪ギャグ≫に展開している、という見方もできなくはなさそう。
そしてその≪ギャグ≫の演出のため、この絢爛ごうかな作品世界のスミっこのようなド真ん中のような場所にめっきりと出没しているのが、さっき見た『ナマ魚』もそうだが≪グロテスク≫、という要素なのだった。グロテスクといえばまだしも日常的な表現だが、われわれの言い方だと≪現実的なもの≫というか。
(めんどうなことを申してすまぬが、ジャック・ラカンの用語の≪現実的なもの≫とは、まず『ことばにはできないもの』であり『考察の対象にできないもの』だ。ゆえにそれらの表れは、きもち悪い、わけが分からない、怖い、といった印象を人に与える。『ナマ魚』は魚屋やキッチンにあればただの食材だが、場所を変えれば異なる≪何か≫を訴える記号、しるしになる。そしてその≪何か≫が何なのかを、われわれはことばにはしきれない)
そうした≪グロテスク≫の出没は、今作のごく初期から仕掛けられていることで。まず生物部員のわき役≪沙夜≫には、むしろふつうの世界が見えていない(!)。そして自宅でこっそりと、大量のナマ肉を喰らう化けものを飼育しているらしい。また、めぐみの父の≪麗二≫はやたら幽霊が寄ってくる体質なので、ぜんぶ心霊写真になっちゃうからモデルとしてつとめきれず、実家のお寺の住職になったというお話で。
そうしてゆかいな仲間たちが集ったカラオケ屋で、めぐみのイトコの≪嵐士≫はこんな唄を歌うのだった(第7巻, p.29)。
『目ん玉ほじくり 出されたフランス人形♪
四つん這いで階段逆走 子供部屋が血で染まる♪』
この嵐士クンは、手芸や料理を趣味とする心やさしき大男だが。…しかしひと皮むけば虫を殺すの大好き(!!)という陰湿きわまるグロ野郎であり、かつ応援団では鬼の副団長としてヒラ団員らを瀕死までしごきまくり…という設定なのだった。
で、その目ん玉人形の唄がデュエット曲なので、続いてめぐみがその女声パートを、 『キェエェェエェェー!! オマエ達の目ん玉も ほじくり出してやるよォォォォォ!!』…と歌う。そこで京介は、かおりが嵐士クンにホの字なのを知っているので気を利かす。唄の2番はめぐみに代わり、『かおりが歌えよ!』と言うのだ。
けれどもかおりはこの唄のキモさにひきまくっているので、『えっ!?』と、ただとまどうばかり。京介のやさしい気配りは、惜しくもありがた迷惑だ。
かくて、エログロバイオレンスおよび交錯する≪愛≫によって彩られたこいつらの青春グラフィティ(?)みたいなことが、きょくたんに高まった美と才知と力と富貴などなどの乱費乱用をともないながら、すでに実世界の時間では15年間以上も続いていて、しかもさらにず~っと続きそう。と見れば『いいなァ彼らは、素でうらやましい!』とは思いつつ。
またそのように形容してみると今作には、19世紀ブルジョワジーどものおごり高ぶり驕慢ぶりを赤裸々に描いた仏自然主義文学、バルザック「人間喜劇」連作とか、そんなような風味もありげ。
何せ題名が「"HIGH" SCORE」とはよく言ったもので、この世界からは"low"なものらが、排除されつくしているのだ。けれどもその中へ≪グロテスク≫としてひんぴんと侵入してくるのは、排除されている"low"なものら…その影、その断片のようなブツたちだ。
すなわち、女性美の頂点をきわめたようなヒロインも血と肉と臓モツのかたまりにすぎず、また、どれだけのチカラの持ち主もいずれは衰えて死ぬ。そこいらの凡人どもと、何ら変わりなく。…といった排除された認識らを、≪現実的なもの≫としてのグロ物件やグロ事件らは作中に、この世の栄華を愉しんでやまぬ連中に向けて、≪回帰≫させているのだ。
と言っていると思い出すのは、バルザック「サラジーヌ」(R.バルトの批評「S/Z」の題材として有名な小説)の冒頭、新興ブルジョワジーの邸宅での盛大な宴の最中に、ババァかジジィかも分からぬ≪グロテスク≫な老人がぬっそりと現れて、一同のきもを冷やす。この人物の正体は読んでのお娯しみだが、にしても『虚栄の市』のド真ん中ッぽい場所へと≪グロテスク≫がちん入してくるには、わりと大いなる必然性があるかのようだ。
つまり、『死を想え、メメント・モリ』とでもいうような…? そうして、『排除されたものの“回帰”』というところまでをちゃんと描いていることが、今作のすぐれた…一本調子に終わってないところなのか。かつ、≪ギャグまんが≫というものが一般には"low"な世界のロウなイベントらを描きがちということに対して、今作はハイソでセレブな世界に"low"な事物がわき出している。そこらにひと工夫が?
ところでだが、りぼん作家としてのちなみセンセの大センパイたる一条ゆかり先生。そのきょくたんに高まった1970'sの大名作ら(「デザイナー」, 「砂の城」)は、さいごその『排除されたものの“回帰”』によって、浮かれていたヒロインらが没落するようなお話だったとして。
しかし一条センセの後年の作たる「有閑倶楽部」(1981)ではそうした展開がなくなり、ただもうだらだらと『虚栄の市』が続いてるばかり(!?)。けれども作中、殺人事件などの発生や幽霊の出没といったイベントによって、その世界には『排除されたもの』らの影がさしている。ああ…『セレブ』の世界のまばゆさと、その一方の影の深さ…あはっ、苦笑っ!
申し訳ないが筆者はこの堕文の参考にと「有閑」をちょっこし読み返して、ついつい『苦笑』という反応を返してしまったのだった。で、ここまでの堕文により、『きょくたんな美と才知と力と富』およびその乱費乱用を描く2作、すなわち「有閑」と「HIGH SCORE」との間に、性格の重なりがあることは明らかだとして。
そしてその「有閑」の『苦笑』的なところをストレートなこっけいと≪グロテスク≫に変換しつつ、かわいげある限りに仕上げているのが、今作のなしていることなのか。…のような見方をここに示して、いったん終わる。今作については、いずれまた語ることがあろう。
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