岡田あーみん 「お父さんは心配症」第1巻 |
参考リンク:Wikipedia「お父さんは心配症」
岡田あーみん先生の1983年のデビュー作であり、そして出世作で代表作ともなっている「お父さんは心配症」という作品。これについて、あまりにも客観的な名作すぎて、逆に語りにくい、ということを筆者は感じる。
何しろ手もとの単行本が、第50刷とか60刷というのがすごすぎる。だが、圧倒されっぱなしではしょうがないので、まずはその客観的な見方とやらを示しておくと…。
1. 彼女らの思うつぼの≪家族物語≫
『ギャグまんがの少女部門』というジャンル史的に、赤塚不二夫のファミリーから出てきてポスト赤塚的な作風で大成功をとげたのが、1970'sの土田よしこ先生。それ以前には、われわれが言うようなギャグまんがは、少女まんが界に存在しなかった。いずれわれわれは、そのよしこ先生の偉業についても、この場で見ていくだろうけれど。
そして1980's、よしこ先生の勢いが少々なくなってきたところで、入れ替わりにポスト「がきデカ」的な作風で出てきたのが、この岡田あーみん「お父さんは心配症」。そして以後、こんにちまでずっと新たな読者を獲得し続けている今作の成功ぶりは、かの「マカロニほうれん荘」や「ストップ!! ひばりくん!」にも並ぶ、などとは以前にも述べたこと。
そして今作「お父さんは心配症」が、男やもめのヒーローでパピィこと≪光太郎≫が、彼のお年ごろの娘である≪典子≫に対して心配症すぎるお話、そして娘の彼氏の≪北野くん≫を迫害しすぎるお話だということは、すでに常識の部類として。
しかし『母親がいない』というこの家族の状況を、単なる欠落や不幸とだけも考えられない。パピィと彼氏からの愛を一身に注がれて板ばさみになり、葛藤してみせながらヒロインが『愛を独り占め』というその状況を、愉しんでいないとは言えない。それは、無意識においての愉しみではありつつも。
大島弓子 「雨の音がきこえる」 |
たびたび述べていることなのだが、いちばんひどいと筆者が感じた作例は、大島弓子の中編「雨の音がきこえる」(1972)。これはジメッとした暗い家庭のお話として始まって、しかし作中で母親が死んでから、急に作品のふんいきがカラッと明るくなる(!)。…とは、どういうことだろうか?
ここらを意識させるものとして、りぼん掲載の小桜池なつみ「青空ポップ」(2006)という、これまたカラッと父子家庭を描く作品もあった。そのヒロインの亡き母親は、かっての伝説的なファッションモデルで、いまだ人々のリスペクトを一身に集めている。
そして、『なぜこの母親が故人でなければならないか?』と考えると、その方がヒロインにとって好つごうだから、としか考えようがない。死んだ母に代わって、空いているそのポジションを埋めることが、同じモデルの道に進むヒロインのタスクになるのだ。かって母の享受していた愛情と尊敬と名声らを、彼女はそっくり受け継ぎたいのだ。
小桜池なつみ 「青空ポップ」第1巻 |
(註。フロイトの用語の≪家族物語≫とは、親の愛を足りないと感じた子どもたちが、『きっと自分は拾いっ子に違いない』等々と、自分かってな自分の出自を想像することを言う)
あと、もうひとつ。われらがパピィのかいしょうのなさ、からきし威厳のないダメパパっぷりについて筆者は、「お父さんは心配症」に先行したりぼん史上の名作、池野恋「ときめきトゥナイト」(1981)との関連性をも感じる。かつその作品では、ヒロインの蘭世にしろライバルの曜子にしろ、やたらにパパとべったりな関係で、逆に母親とは疎遠ぎみ。
池野恋「ときめき トゥナイト」第1巻 |
ただし「ときめきトゥナイト」では、パパが娘の恋路をストレートにじゃまするような展開にはならないわけなので、そんなにまで今作と直接の関連を言う気はない。けれども何か、同じふんいきを描いているものか、という気はしつつ。
2. 『鼻血ブー』と、愛の弁証法
ところでなんだが≪ギャグ≫に限らずまんがの世界に、『鼻血ブー』というメニューが現存する。これはもちろん、谷岡ヤスジ大先生の「メッタメタガキ道講座」(1970)を元祖とするもので、その意味するところは『婉曲に表現されたオーガズム』ということは、前にも述べたような気が。
藤原ゆか 「CRASH!」第1巻 |
で、この「お父さんは心配症」について、パピィの有名な切り札としての鼻ぢ攻撃がさいしょに出たのは、まさに『鼻血でデート』と題された、その第2話(りぼんマスコットコミックス第1巻, p.19)。心配症かつヘンタイのお父さんが、あろうことか娘のデートにひっついて行くお話。
そして若い2人が映画館街で、「愛のゆくえ」とかいうロマンスを見ようとするので、いきなりパピィはテンションMAXへ! 『ふざけるんじゃねェ』と、娘にくってかかる。
【光太郎】 (激しく地だんだふみながら、)愛とか 恋とか 好きとか
変態三人娘とか 好色一代男とか ふとももをあげる とか そういう題の 映画はダメ
【典子】 これは悲しい 愛の物語 なんだから やらしく ないわよ
【光太郎】 (「愛人バンク」というポルノ映画の看板をさして、)い…いいか…
こ…こーゆう 映画は ダメ…だぞ(…と言いながら息を荒くし、鼻血を流す)
『愛』ということばからパピィはやらしいものを大いに連想し、それに対して典子は『“愛”は、やらしくない』と返す。ところが『愛人バンク』(いま言う援助交際をあっせんする組織)などという語の存在は、『やらしい“愛”もある』ということの実証に他ならない。
これがおそらく、弁証法というもののお手本だ。まあ弁証法は知らないが、これこそパピィが全シリーズ中、初めてその名高き鼻血を出す場面なのだった。
そして、ともかくもその「愛のゆくえ」とやらの上映館に入った3人。いくつかの小ネタをはしょって、やがて映画はクライマックス、マリィとトニィのラヴシーンへ展開。するとその描写が、意外に激しいものなのだった。
【トニィ】 マリィ きみがほしい
【マリィ】 い…いや トニィ~
【トニィ】 いやよ いやよも 好きの うちさ… ヘッヘッ
(劇場のスクリーン上に、作者からのメッセージ。『とてつもなく すごいシーンを そーぞーして下さい』)
その『すごいシーン』を見たパピィは、さきのとは比較にならない勢いで『ブモ~』と、噴水のような鼻血をのけぞって盛大に噴き上げる。たいへんなことに…!
それで次のシーン、典子がカンカンに怒って『も―― 帰って』とパピィを叱るのも、分からぬことではない。いや、もっともだ。
けれども『やらしくない』と娘が宣言していた映画が、実はかなりやらしかった、という事実はある。だからパピィが、止血用に映画のパンフを丸めて鼻孔に突っ込みながら、『純情な中年に あんな映画 みせるからだ』と抗弁するのも、またもっともなのだった。
3. “すべて”の性交渉は、いやらしい?
つまり娘とパパにおいて、『やらしい』ということの解釈が、ぜんぜんかみあっていない。娘の側は、まじめな意図があっての性交渉ならば『やらしい』とは言えない、くらいに考えていそう。ところがパパの側の考えは、『“すべて”の性交渉はやらしい』。
この作品「お父さんは心配症」において、いつもわれらのパピィが娘について、何かとやらしい想像をよくする。この第2話の中でも、映画館の闇の中、北野くんが典子にへんなことをしてはいないかとパピィは心配し、なぜかそのやらしい妄想が、娘たちにはまる見えだ(!)。そこで『お父さんの方が、よっぽどやらしいわよ!』などと典子がいつも言うのも、またもっともだが。
けれども娘たちの側が、やらしいことをまったくしようとしてはいない…かというと、そんなこともない。お父さんの心配にもまた、もっともなところがなくはないのだった。だから彼らの『やらしいぞ!』、『やらしくないわよ!』、という言い争いは、ぜったいに解決などを見ない。
などと、ことばにするとむずかしいようだが。しかしこれは常態として存在する、そしてふつうはなしくずしに解決される、そうしたジレンマがここには尖鋭的に描かれているのだ。
そしてこのありさまを過激化しているのは、われらのパピィがヘンタイであり、かつやもめでもある、この2つの前提だ。もしその前提が片方しかなかったら…または両方ともなかったりしたら、今作に描かれたようなおもしろ騒ぎは起こりえない、少なくともここまで過激にはならないわけで。
しかもこのパピィが、りっぱな変質者として娘を溺愛しつつ、しかし一線を超えていないところがある。…ダメな人なりに彼がまともな父親でありえているということは、本来ならば言うにもおよばないことだけれども、しかしいまの情勢下では言わねばならないかもしれない。そうだからこそ今作が、逆説的にも≪少女≫たちのユートピアを描くものになりえているのだ。
「ヤスジのメッタメタ ガキ道講座」 |
わかりきったことのようだが、『性的興奮によって鼻血が出る』という現象は、ほぼないことらしい。それは「ヤスジのメッタメタガキ道講座」によって生み出されたまんが的表現にすぎないと、やたらあちこちに書かれている。
だが調べていると、こんな記述が見つかった(*)。
アメリカには性的興奮と鼻血を結びつける習慣がなく、代わりに胸や眼からハートが飛び出したり、オオカミに変身する描写があり、日本のアニメなどで性的興奮状態の時、鼻血が出る理由がわからないといいます。
性的興奮に鼻血を連想する習慣は、アジアに多く中国、韓国、ベトナム、台湾に同じような発想があるようです。
そうだとするなら、『性的興奮→鼻血』というイメージのもとを「メッタメタガキ道講座」だけに還元する見方の根拠は、やや薄くなってくるのではなかろうか? あまり言論のあれな社会主義国の中国やベトナムに、「ガキ道講座」やそれ的なまんがの影響がありそうな気がしないので。
むしろ、東アジア一帯にもともと(うっすらと)存在したイメージを、ヤスジ先生がはっきりと描いてくれたのやも、という気がしてくるのでは? そもそもだ、女子小学生を対象読者層としたりぼんの誌面に『性的興奮→鼻血ブー』が描かれていて、『意味が分からない』という苦情があったような話は聞かない。
すると単なる約束ごと以上の何かが、『性的興奮→鼻血ブー』のイメージにはあるような気もする。しかしここでは、まさか≪集合的無意識≫なんてたわごとを申すのではない。
ともかくも。射精という現象を知らないような幼女らでさえも、性的興奮と体液の放出との関連をすなおに受けいれる、その事実に筆者はおののきと苦笑を返すのだった。
もうちょっと余談を重ねると、自分の子どものころの思い出で、ピーナツを食べすぎて鼻血が出たことが…確かあったはずなのだが。しかしそんなことはありえないというのが、こんにちの医学的な見方のようだ。『カフェインの過剰摂取にともなう鼻血はありうるとしても、まさかピーナツはない』、のような。
うーむ、何だかくやしい! ところでわれらがあーみん先生においても『鼻血悲話』として、幼少の時代にあらぬ局面ではなぢを噴いたことを告白されているのだった(第1巻 p.102, 第3巻 p.51)。そこでまたおかしな共感が生じながら、大好きなあーみん先生のお作についての話はぜひまた!
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