2010/03/01

坂本丸愛鏡「やっぱり愛しているのに!」 - 秋刀魚の味、サケマスの味

Mid 1990'sの少年マガジン系のギャグまんが。この作品は大まかに言って、第1巻の前半が1P単位のショート形式で、それ以外はけっこう長いお話になっている(KC少年マガジン, 全2巻)。
事情がよく分からないが、ショートであるところは週刊少年マガジン掲載で、それ以外は月刊のマガジンスペシャル掲載だったらしい。比較すれば、ショート形式の方がテンポがあって読みやすいように思う。まんがに限らず≪展開≫のある芸術作品には、内容よりも展開自体のリズム感を味わうというところがある…そこらで。

で、≪愛鏡学園≫という舞台を中心に、主におかしな女生徒らの活躍を描いている感じの今作。手段を選ばずあざと~い蓄財にはげむ≪サチコ≫、そのサチコの金儲けに利用されまくるグラマーなお人よしの先パイ≪ケイコ≫、校庭の花壇にマンドラゴラを植えているオカルト少女の≪あんり≫、と、いろいろな女の子が出てくるが。
そしてその中で筆者が特に興味をひかれたのは、≪二人羽織の香(かおり)≫という少女の物語なのだった。以下、そこらを見ていくと。

『容姿端麗 頭脳明晰(中略)みんなの人気者』(第1巻, p.149)と評判の≪奥野香≫16歳は、『ある朝目覚めると 二人羽織になっていた…』(第1巻, p.5)と、今シリーズはカフカ的に始まっている。つまり特大のドテラみたいのを羽織った状態で、香の背後に隠れている人物が、そのソデから手を出している。
その状態に気づいた香はふつうにビックリし、『なにこれー やーっ!!』と叫ぶ。しかし、次に振り向いて時計を見ると、『遅刻しちゃう 急がなきゃ…』と言って、彼女はその状態のまま身支度を始める(!)。
まずは洗面台に向かい、手の甲が毛深い二人羽織の≪後ろのヒト≫に向かって、『右右… ちょい左』などとコーチングしながら歯を磨く。そしてだんだんに作業効率が上がってくると、『でも こりゃ 便利だな』などと思ったり(!)。

しかし続いて後ろのヒトは、頼まれもせぬのにシェービングフォームとカミソリを使おうとし始める。そこで香は『ちょっと ヒゲなんか ないよー』と叫び、そして足をバタつかせ、けんめいに背後を見ようとする。いまさら的だが、『だれよ 一体!?』と、後ろのヒトの正体をただす。
すると後ろのヒトはトランクスをはいたケツを、左手でボリボリとかいている。そこらで香は何かをさとり、『あ! お父さん! お父さんでしょ』…とは言うが、後ろのヒトは無言のままだ。

これを最初のエピソードとして、何とずぅ~っとそのままで、二人羽織の状態で、香の生活は続くのだった(!)。そしてあくまでも正体は謎のままでありながら≪後ろのヒト≫は、香にかかってきたオトコからの電話をジャマしたり、彼女がハデな下着を買うことを阻止したり、デートごときはとうぜんのよーにブチ壊したり、と、父親チックに香の行動をチェキる。
かと思うと後ろのヒトは、人命救助のために火事場へ飛び込んだり、香を襲った悪ものらを軽くブチのめしたり…と、オトコ気(?)のあるところも見せる。かと思うと、香の下着姿を写真に撮って賞金目当てに雑誌へ投稿したり、またあるいは、香をねらったチカン野郎に自分のケツを触らせて愉しんだり…と、ヘンタイ的なところも見せる。

というこの2人のこの状態は、何を意味してるのであろうか? まず香から見て≪後ろのヒト≫の性格は、『不可視』・『保護的(父性的)』・『規範的』・『スケベ(性的)』…となるわけで、それにジャストで相当するような記号を、精神分析は≪ファルス(象徴化されたペニス)≫、と呼んでいる。
かくて。ふつうの子らがリモートでなされている、父っぽい存在…≪父性記号≫からのソフトなコントロールを、香は超ダイレクトで超ハードに!…こうむっているのかと見れる。とまでは、まったく確かなこととして。

では…と、意外な設問をするかのようだが。逆に後ろのヒトから見ての香とは、どのような存在なのだろうか? それへの答が、再び『≪ファルス≫である』…というのが、われながらひじょうに恥ずかしく申し上げにくい感じだ。ただし、このたびのはものが異なる。

まず、主体に対して父性的なものとしての≪ファルス≫を≪象徴的なファルス≫とでも言う。そして香から見ての後ろのヒトは、それチックに振るまっている…と、われわれはさきに見た。
その一方で、主体が母の中にあるかと思い込んでる≪ファルス≫というものがあり、こっちを≪想像的なファルス≫と呼ぶ。母はじっさいにはペニスを持たないわけだが、幼児らはその存在を『想像』するのだ。で、それがないという事実を仮そめにも受け入れる、というのが人間らの源初の≪外傷≫だ。
しかし主体は、『母(および女性ら)には、ペニスがない=“去勢”をこうむっている』…という想念を完全に受け入れることはできず、何とか想像的に、その取戻しをはかる。

そしてびっくりだが、父親から見ての娘という存在が、その≪想像的なファルス≫でありうるのだ。別に小津映画でなくたって、娘をヨメに出す父親の異様~に深い哀しみ、ということは知られている。それはどういう哀しみかというと、またもやの≪去勢≫をこうむって、≪想像的なファルス≫の存在しなさをつきつけられる哀しみだ…と筆者は見ているのだ。そうして二人羽織の後ろのヒトは、自らの前面に香を構え、そしてそれを屹立した≪ファルス≫として、人々の前につき出しているのだった。

――― ラカン「ファルスの意味作用」(1958)より ―――
『すなわち、ファルスがシニフィアンの機能にまで止揚されて(aufgehoben)いるかぎりで、ファルスが果たすことのできる役割とは覆い隠された役割でしかない、つまり、ファルスは、意味作用の可能なすべてのものがそれによって刻印を押されているような潜在性の記号そのものとしてしか、自らの役割を果たすことができないのである』(原著"Ecrits", 1966, p.692, 訳・川崎惣一)

ところでだ、『娘が、父から見ての、≪想像的なファルス≫である』という状態は、どうしようもなくあることだが、それで完全に正しい…ということではなかろう。いずれ娘は父から離れていくものだし、そのゆくゆくの別離を前提とした関係がなければならないのでは?
そして後ろのヒトが父だとすれば、その適切な距離の取り方ができていないわけだ。または、二人羽織の内側にズッポリと隠れて…という彼のポジショニングが、≪ファルス≫というしろものの『覆い隠された役割』というラカンちゃまのみことばを、超表面的に受けとりすぎなのだ。ゆえに彼の存在の仕方は、われわれの見たまんまに喜劇的なのだ。

だが、そうと言っても、後ろの人の正体が香の父で確定…というわけではないのだった(!)。後ろのヒトがいつものよーに活躍している最中に父から電話がかかってきて、『今月には出張から帰ってくる』と言ったと、電話を受けた香の母が言うのだった(第1巻, p.171)。
それを聞いて香は『きゃー』!とおどろき叫び、『じゃ 後ろの人は 誰なのよォ』…と言ってパニクるのだったが。しかし今作の中でその正体は明かされておらず、『ナゾを残して 話は終わる』…とナレーションが入る中、後ろのヒトはヘンな汗をカキながら、ポリポリと頭をかいているばかりなのだった。

【ご注意】  『娘は父親の(想像的)ファルスである』という主張について、あまり確かな裏づけがない。ラカンが何かのセミネールで『(「ハムレット」の)オフェーリアはファルスである』と述べているらしいが、あるいはそれがそうかも? 現状ではそれを、筆者の私見と受けとられたい。

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