2010/02/21

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 vs.フロイト「メドゥーサの首」 in 触手フェスタ

 
関連記事:吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

前の記事でわれわれが見た作品、吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(2008, MFコミックス, 全1巻)。それは『触手プレイ』を大フィーチャーしまくった、ももいろ臭の濃ぅ~いファンタジーラブコメだった。
そして。実作とはちょくせつ関係ない話になり気味かもだが、その記事についてちょっと補足を。

さてとつぜんだが、ポルノグラフィーの鑑賞者は、作品の中のどこへと感情移入しているのだろうか? 『それは作中の男性キャラクターだろう』…と言ってすめば、どんなに簡単ですてきなことか!
そんな、『ふつうの性交』(的なこと)を描写するようなしろものばかりではない。と言っていきなり、触手とかふたなりの例を持ち出すまでもない。ふつうの性交を描いていないポルノの題材として、軽く次のような例が考えられる。

●女性(1人)の裸体・半裸体。もしくは更衣、入浴、排泄らのプライベートな行為の描写。
●女性の自慰。
●レズビアン、それ的な描写。

以上のようなものが、(基本的に?)あるわけだが。しかし性交をストレートに描いたハードコアを基準に考えると、逆に『どうしてそういうものが“使える”のだろう?』…という気がしてくる。
なお。女性向けのポルノ的なものとして、レディコミや少女まんがのエロ部門があるけれど。しかし筆者がちらちらと見た限りだとそれらは、ふつうの性交を描写しているものばかりだ。男性の自慰をポルノ的な興味で描いているものなど、見たことがない。
(しかし、BL作品には男子の自慰を描くものもあっておかしくない気がする。だが本格的なBL作品は筆者の守備範囲外なので、フォローありたし)

このような≪女-男≫それぞれのありようの『対称性の崩れ』という事実には、常に注意しておく必要がある。男性の興味を裏返したら、女性に対して妥当する…ということはない。
つまりたんじゅんな話、≪触手≫ならぬヴァギナ的なモンスターが男子を凌辱する、などという絵図を見て悦ぶ女性は存在しないし。かつ≪ふたなり≫ならざる、乳房のついた男子、などというものを想像する女性も存在しない…のでは!?

BL界ではちょっと有名そうな、寿たらこ「SEX PISTOLS」(2003)という作品がある。どうであれその題名がひじょうにすばらしい、アナーキー! なのでちょっとだけ見てみたが、その内容はアナーキーすぎ!
ともあれそれは≪男×男≫によっての『生殖』を描いている、という点でBL界でも異色の作品らしい。しかし複雑きわまるお話だからか、そんなにまじめに見てなかったせいか、どういうことなのかさっぱり理解できなかった。いやむしろ、自分の中の『何か』が、そんなお話への『理解』を拒んだのだ、ということかも知れない。

それに比べたら、ふたなり同士のカップルに子どもができる、というお話の方が、まだしも流れとして『自然』(!)な感じがする。両性具有やメスだけで生殖する生物らはふつうに実在するが、オスだけで生殖する生物は存在しないからだろうか? 
まんがというものは人間どもの無責任な想像を描くものではありつつ、しかしそのすぐれた作品らは『想像を通り越したこと』の描出によってすぐれている。だが「SEX PISTOLS」という作品は、その内容が根も葉もなき想像であることにおいて『きわまっている』、という感じあり(びみょうなほめ言葉)。

話を戻して。さきに見た男子の登場しない男性向けのポルノ3題、それを『単体・自慰・百合』とでも言い換えてみて。
それらに関して、『鑑賞者はそれらのイメージを起点に、ふつうの性交への展開を想像しているのだ』と言ってすましたい気はまんまんだ。しかし、それだけだろうか?

≪触手≫という趣向の登場は、何かそうじゃないものの存在を示唆しているような気がするのだ。それは『他者の享楽』が存在することをまず描き、そしてその『他者の享楽』によって『逆に』凝視されるという体験を、鑑賞者において現前させる。
まずそこにおいて鑑賞者は、『他者の享楽』からの≪疎外≫をこうむる。ところが見られている彼は、触手プレイの絵図の中に自らを投影しようとも試みる。そしてその投影の場所は、触手のモンスターでもあり、その犠牲となっている女性でもある(!)。
どうでもいいとは言いがたい通例として、触手プレイで凌辱されてしまう女性は、もちろん最初は拒絶と抵抗を試みるが、しかししまいにはありえざる持続的なオーガズムの高みにいたるものらしい。われらの見ている作例「悪魔と俺」でも、りっぱにそうなっている。そうして≪享楽≫というものの実在が、鑑賞者に対して立証される。

言い換えて、触手プレイから『ふつうの性交への展開』などはありえない。にもかかわらず、そのイメージは現に『実用』されている。かつ似たような状況を、≪寝取られ≫という趣向についても見ておこう。これらはどういうことか?
それこれ考えると、『他者の享楽によって見られること』(=疎外)が、あわせて前の記事で見た≪“去勢”のシニフィアン≫のそこに現前することが、すでに鑑賞者の『実用』の十分条件になっている、と思えるのだった。つまり、鑑賞者の想像の中にさえも『ふつうの性交』のイメージが、ない。
そうとすれば、そんなに特異な趣向とは考えられていない『単体・自慰・百合』においてさえ、鑑賞者がそこから『ふつうの性交』を想像している、とは限らないのではないか? 『他者の享楽』の現前、その前にて主体が≪去勢≫されてあること、それ自体が鑑賞者の『実用』にたいしてじゅうぶんなのでは?

かつ。前のところでちょっと言及したが、現前している『他者の享楽』に対して自分を投影していく、という鑑賞態度がありうる。つまり触手のモンスターや犠牲者の女性『である』と、鑑賞者は自らを想像する。これはもちろんひじょうに飛躍のある『想像』で、よって『自己疎外』のきわまりを前提としたものでもありつつ。
そうすると『単体・自慰・百合』においても、男性の鑑賞者が『そこで享楽しているのは自らである』と想像していることは、大いに考えられる。これを想定しないと、≪ふたなり≫という趣向の存在も説明がつかない。
かつまた。ポルノ小説の元祖らしきクレランド「ファニー・ヒル」(1748)以来、女性の視点から女性の≪享楽≫を描く趣向は常にある。『もう、彼ったらスゴいんです。だからわたし…』、的な。それらは男性が愉しむものなのに、なぜわざわざ視点が逆から描かれているのか? そのようなお話において、男性の受け手らは自分を『どこ』に置いているのか…ということを考えなければならない。

それこれでまとめると、ポルノ鑑賞者の内面的な態度には、次のようなものがあると考えられてくる。

[1]主体は、自らの行為としての『ふつうの性交』(的なこと)を想像する。
[2]主体は『他者の享楽』からのまなざしを受けながら、彼自身は≪去勢≫され疎外されている。
[3]主体は『他者の享楽』のだんこたる他者性の前で、あえて(むりにでも?)『享楽しているのは自分である』と想像する。それによって自主的に、彼自身を疎外する。

ふつう的なポルノ鑑賞の態度は[1]である、[2]と[3]は特異なものである、とは言いたいところだが。しかし明示的でないだけ、意識されないだけで、[2]と[3]はポルノ鑑賞において必ず生じている現象なのだ。
そして≪触手≫や≪ふたなり≫や≪寝取られ≫といった新奇な趣向らは、まったくの想像にすぎない[1]の態度を撥無しながら、事実としてポルノ鑑賞が[2]であり[3]であることを、あまりにも明示的に表現しているのだ。

(付記。前の記事から、≪疎外≫という用語がよく出ているが。しかし疎外されていることは、望ましくない、あわれな状況である…とは、精神分析の主張では『ない』。むしろ人間存在の条件として、主体は自らを疎外する)

さて、ここまで見てきてだが…。

かんじんな文献、フロイト「メドゥーサの首」(1922)をちゃんと参照しないままに、前記事をポストしてしまった自分。しかし珍しく責任感あるところを発揮し(!)、翌日の外出時に図書館へ寄って、当該の資料を借りてきた。
そして久々に見てみたらそれは、正み3ページ足らずの断章で。かつ死後に発表された草稿だそうなので、『これがフロイトの断じて言うところだ!』というものではないが。

その文献にあたれば、まず触手の化け物にもよく似た『メドゥーサの首』が、成人女性のヴァギナおよび≪去勢≫をさし示す≪シニフィアン≫であることは、前に見た通り(この場では≪シニフィアン≫という用語を、意味不明だが意味ありげな記号、くらいに解されよ)。ヴァギナ=『ペニスの不在』なので、それは≪去勢≫をさし示す。…ではあるが…。

『(メドゥーサを見た者が)石のように硬くなるということは、勃起を示している。だから最初の状況では、これを見た者に慰めを与えるはずだった。これを見た者はまだペニスを所有しており、硬くなることでその所有を確認できるのである』(フロイト「エロス論集」1997, ちくま学芸文庫, p.278)

それは、ひとつの『論理』ではあろうが。しかし『去勢の恐怖に直面した者が、勃起という反応を返す』、そのことの不自然さへの説明になっているだろうか?
なお、この断章でのフロイトの論の全般的な傾きとして、『ヴァギナ=去勢を示唆する恐ろしいシニフィアン』、となっている。よって、何かラブレーの作品から、『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』(!)というお話が紹介されている。その場でそうとは言われていないけれど、つまりそれは≪外傷的なシニフィアン≫だと見られている。

ではあるが! 別の方向から考えたら、『ヴァギナを見た男性が勃起する』というのは、あたりまえかのようなことだ。けれどもその対象を『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン, メドゥーサの首』などと言い換えたところで、『はて?』というわれわれの疑問が生じてしまっているのだ。
そうしてここでわれわれは、≪外傷的なシニフィアン≫の現出が、男性らを性的興奮にみちびく(=勃起させる)、というふしぎな現象に立ち会っているのだ。

『ふしぎ』と言ったが、ざらにあることでありながら説明がつきにくい、という意味でそれはふしぎだ。前の記事の序盤でわれわれは、『ニッチ』というにもピンポイントすぎる性的嗜好に憑かれた人々の姿を、ちらと見た。そしてそれらの特異すぎる嗜好が、それぞれの人の個有の≪外傷≫のあるところを示しているものだとは、とうぜん考えられることだ。
たとえばの話(そんなに特異な例でもなさそうだが)、女性の髪が精液で汚される、そのシチュエーション以外は『萌えない』、という人もいる。だまって彼の言うところを聞いていれば、しかもその髪はつややかなロングの黒髪でなければならないとか、みょうに細かいことを申される。
そうしてふつうに考えて、そのシチュエーションは彼の幼時の≪外傷≫的な体験の反復以外でない。根も葉もないところから、『想像』されたものであるわけがない。で、彼がどうにかの状況で強烈な印象を受けたのは、他ならぬ≪母≫の髪に関してであろう、と推察される。

さらに。いろいろと話を聞いていれば、『トラウマ(外傷)』という語を、『自らの性的嗜好の起源』という意味に用いる人々がおられるのでびっくりさせられる。いわく、『わたしの“トラウマ”はキューティーハニーなので、グラマーかつボーイッシュな女の子がたまりません』、のように。
分析用語としての≪外傷≫はそういう意味には使われないが、しかしそれまた正しい! 男子らそれぞれの性的嗜好は、それぞれの個有の≪外傷≫が規定している。このことは、経験的に正しい。
ただしほんとうの≪外傷≫とは意識できないものなので、『キューティーハニー』は見かけ上のそれにすぎない。もっとそれ以前の、思い出せない何らかの≪外傷的≫なイベントが、彼に『キューティーハニー』という記号を選択させているのだ。はっきり言えば、彼にとってのある時期の≪母≫のイメージに対応する記号がハニーちゃん、なのだろう。

そうやって考えてくれば、『去勢を示唆する外傷的なシニフィアン』とは、ようするに『父によって犯される母のイメージ』と等価なものである、ということになり気味なのでは?
で、そこまでを見てから≪触手≫というお題に戻れば。『両親の性交』にかかわるイメージを精神分析では≪原光景≫と呼ぶのだが、触手プレイの衝撃的かつ≪外傷的≫なるイメージは、ひっきょうそれの等価物なのでは?

ところがだ、われらの題材である「悪魔と俺 特盛り」という作品の、また特異なところは。『触手プレイ』というものが一般的には、何らかの厳粛なる儀式かのように(!)、あたかも『荘厳な』という形容を待つものかのように描かれる、それをあえなく喜劇化してしまっている。
そこがその作品の≪真理≫に乏しいところでもあり、かつ同時に軽みがあってゆかいなところでもある。というふうにも見られるかなあ…と、筆者は考えるにいたったのだった。

【追記】 2010/02/23。ギリシャ神話で、≪鏡≫の盾を利用して≪メドゥーサ≫退治に成功したペルセウス。彼は次に、全裸で拘束された美女アンドロメダが、海の怪物に襲われそうなところに遭遇する。言わば、『触手プレイ』の目撃者になりかける。そこで彼は、こんどはメドゥーサの首を利用してその怪物を退治する。
ここになぜだか、われわれの気にしているキーワードが出まくっている。そしてこれを見た上だと、「悪魔と俺 特盛り」という作品が、また別のものにも見えてくる。

すなわち。『めんどうだなあ』とは言いながら、まいどまいどヒロインを触手のモンスターから救い出しているそのヒーローが、『ひょっとしたらペルセウスの再来なのか?』、というふうにも見えてくるのだ。
だから。日本神話の『スサノオ×ヤマタノオロチ』を含む『アンドロメダ型神話群』と同様の流れで、ヒーローがヒロインと結ばれてハッピーエンド…という方向が今作の結末にて示唆されていること、それは『合理的』だ。
ところが≪触手≫という趣向を愛する方々は、ペルセウスやスサノオになろうとしない。彼らはメドゥーサとも海の怪物とも、闘わない。そうして『触手プレイ』の永遠の持続の前で、現前している『他者の享楽』からの視線の前で、彼らは立ちどまり立ちすくみ、そして≪去勢≫されながら勃起という反応を返している。

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