2010/08/30

藤澤勇希「BM ネクタール」 - それをやたらと反復することが

藤澤勇希「BM ネクタール」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「BM ネクタール」

以下の堕文は、筆者がツイッターに投稿したものの再利用(*)。記事としてのていさいを作っただけで、字句はほとんど変えていない。



ななめ読み漫画レビュー、藤澤勇希「BMネクタール」。近未来SFパニックアクション、ものすごい力作で、読んでる時はけっこう引き込まれた。しかし見終わってみると、そんなには心に残ったものがない。人間ドラマの方面に、もうひとつの『押し』が、あちこちで足りないせいなのだろうか?

藤澤勇希「BMネクタール」(少年チャンピオン・コミックス全12 巻)、続き。その主人公が大阪弁のおもろい『イチビリ』少年という設定は、最初のエピソードでは大いに生きている。そこはいい。けれども続いたエピソードで、彼がわりと重くまじめな青年になってしまうので、なにわ要素が浮く。

藤澤勇希「BMネクタール」(2000-02)、続き。一貫して展開されるサイドストーリーで、BMと呼ばれる『資源=化け物』の開発者とその息子との葛藤、という要素があり。けれども、ほとんどクレイジーな父親に対し、つかず離れずの態度をとり続ける息子の心情、そこにあまり共感できなかった。

藤澤勇希「BMネクタール」、もう少し。父親像の弱さ、『父子の葛藤』の描写がシャープでない、ということは、主人公の側にも言えそうな感じ。主人公の母が、ごく短い出番でかなり強い印象を残しているに対し、父の方はどういう人物なのか、自分の読みではよく分からなかった。

藤澤勇希「BMネクタール」、結論。かの≪オイディプス神話≫をやたらに反復し続けることは、別に『いい/悪い』という問題ではなさげ。が、そうとしても今作の場合、その反復がことさら回避されているように読めることが、お話の印象を弱くしている感じあり。

藤澤勇希「BMネクタール」、余談。第1巻のカバーそでに、『愛犬 故・栃の嵐』というキャプションのついたわんこの写真あり。『無論「がきデカ」の名犬栃の嵐から、お名前をいただきました』 by 作者。ここがもっとも感動的だった、と言っては、皮肉っぽくも聞こえそうだが。



あと1つだけ、付け加えておくと。化け物≪BM(バイオ・ミート)≫のどん欲さと、われわれ人類のどん欲さ、ということが、2重写しで表現されていそうな今作。そういうものとして、りっぱに成り立っていそうな気がしないことはないのだが…。
けれどもこれが、手塚治虫先生が『まんがのなすべきタスクとは“風刺”!』と宣言なされたような風刺作品として、機能しそうな感じがない。それは何でかと考えたら、まず1つ、≪悪≫の描き方が弱い。
悪っぽく登場した人物らが、わりとかんたんに善っぽい方にころぶような展開が多い。悪の張本人かのような人物が、むしろ気の毒な病者のようにも見える。そこらに関して、『逃げている』などと断じたくもないのだが…その描いている『希望的観測』を、頭から否定したくはないのだが。しかしそこらが、今作のインパクトを弱くしている、とは言えそうなのだった。

2010/08/28

西田理英「部活動」 - もはや『触れること』はタブーを通り越して

西田理英「部活動」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「部活動(漫画)」, テニス漫画レビュー「新米教師と謎のクラブ活動, 西田理英『部活動』」

まいにちまいにち、とほうもない量のまんが作品が世に出ては消えていく現代ニホン。そのうたかたの流れの中で、ひじょうにたまたま自分の目にふれた今作、すなわち西田理英「部活動」。コミックブレイドとその関連誌に、2002~2006年あたり断続的にほそぼそと掲載。単行本は、ブレイド・コミックス全2巻。
…それを取り上げようと思ったのだが、しかし現在その本の第2巻が、自室の乱雑さのうたかたに呑まれてしまっ…。ようするに、あるはずなのだがめっからない。この惨状を『少しは』恥ずかしいと思いつつ、ともかくも始めてみると。

Wikipediaの説明が珍しくまとまっているので、作の概要はそちらをご参照(*)。何の部なのか分からないなぞの『部活動』、そのおかしな部員3人組の不条理っぽい行為ら、そしてその部の顧問になってしまった≪南部先生≫の苦悩を描くドタバタ劇。版元の宣伝文句だと、『部活動の概念を打ち破る、脱力系ギャグコミック』(*)。
古く「究極超人あ~る」から、おかしい部活動を描くギャグやコメディのまんが作品がいろいろあったけど、これは確かにちょっときわまり気味かも。『そもそも何の部なのか分からない』、という設定がハイパーだ。これに比したら≪あ~る君≫の属した『光画部』なんて、意外と万事にまともすぎっ!?

なお、おかしな部活を介しての少年たち(と青年)のじゃれあいを描く今作「部活動」は、筆者の感じだと、土塚理弘「清杉」シリーズ(*)に、わりとふんいきが近いのではと。読者にもっとも近いキャラクターが≪総受け≫をこなしながら(!?)、ツッコミもがんばる、というところで。
サッカー部なのにほとんどサッカーをしない「清杉」もあっぱれだと思ったが、『何部なのか分からない』は、もうひとつ越えたものがあるかも。かつ、さらにおかしな部活というと、きんこうじたま「H -アッシュ-」(*)に描かれた、その名も『包茎部』というのもすごかったが!

ところでそのような今作「部活動」の描く『部活動』が、ひょっとしたら≪部活動≫のエッセンスに迫っているような感じがなくもないかもと、筆者は感じた。
とは、どういうことかって。たとえば「清杉」だとサッカー部なわけで、試合や大会に勝つことを目的に活動していそうだが(じっさい勝つし!)。しかし、負けたらぜんぜん部活動が無意味になるかというと、そんなものでもない気配。単純な勝ち抜き戦なら1回戦で半分のチームが脱落するわけで、いきなり半分もが無意味では意味がなさすぎる。

では『部活動』の意味とは何かって、『そこでそれぞれが自分をきたえること』、などと、きれいごとを申してもよいが。…かの『包茎部』の部員しょくんさえも、それぞれが自らの包茎をきたえている(!?)らしいので。
だがしかし、きわまったところ部活動とは、それが『ともにあるための場』として『ある』というだけで、りっぱに意味をなし機能している、とも考えられてくる。

今作「部活動」の描いている部活動こそは、まさにそんな感じ。いちおう『活動』はなされているのだが――エイリアンへの対抗策を練ったり、山中でツチノコを探したりと――(!)。けれどもこの部の『真の』存在理由は、個性的すぎで孤立しがちな少年たちが、ともかくも『ともに』あれる場、というふうに筆者は受けとったのだった。
だから、というべきか、しかし、というべきか。部員の少年ら3人は、この部活を続けようという意思においては息がぴったりだ。…第1巻のカバー画で彼たちが、ともかくも1つの方向へ向かって走っているように。がしかし、その他の面において彼らは、とりわけ仲がよくもないし悪くもないのだった。そもそも彼らは、お互いのことをそんなには知らないような感じさえもある(!)。

そうした彼たちの関係性を示唆するものとして、第1巻のカラー口絵をご参照。部員と顧問の4人らがてんでに異なった方を向いて、そしてそれぞれにケータイ、ハガキ、糸電話などを構えている。
すなわち、彼ら全員がコミュニケーション的なことをしようとはしているのだが、しかし彼らは見ている方向ですれ違い、かつ手段(メディア)の違いによってもすれ違う。さらにこの部には、部員の数にあわせて3つの部室がある(!)てのが、また画期的でありつつ。

 ――― 「部活動」 第7話, 『部室掃除』の巻より(第1巻, p.81)―――
 顧問・南部『何で部室が 3つもあるんだよ』
 部長・赤井『現代社会に於いて 個々のプライバシーとは
 (中略)
 やがて来るであろう… 一人一部室の時代が!!』
 南部(モノローグで、)『来ねぇよ』

しかしそうしてプライバシーとやらを言いはりつつも、彼らはそれぞれ、まったくの独りきりではいたくないわけだ。どうにも現代人くさいその気持ちは、かなり自分にもわかる気がするのだった。

筆者も多少は利用しているツイッターというメディアがあり(*)、そのいわゆるTL(タイムライン)というものを見てすごす時間というのがあるけれど。この個人的なTLは、いろんな人がそれぞれにいろんなことを言ってるばかりで、ほとんどまとまりがない。
にもかかわらず、目の前に自分を含む何らかの≪コミュニティ≫があるかのように、錯覚できないこともない。そもそも何でお互いに『フォロー』しあっているのか、よくわからないような人も少なからずTL上にいるのだが、それもそれで逆にいい感じ。

一方の今作の描いている部活動は、そんなツイッターのように『バーチャル』なものではないけれど。けれども今作について何か書こうと考えたとき、真っ先に思い浮かんだことはそれなのだった。
Jamie Principle “The Midnite Hour”1992それとその逆に、やや関係ないような話をもふってみると。孤高のハウス歌手による歴史的超名盤とオレが考えるジェイミー・プリンシプル(with スティーヴ・シルク・ハーレイ)「ザ・ミッドナイト・アワー」(Jamie Principle “The Midnite Hour”1992)は、恋愛のような性交のようなことらを、すればするほど孤独感がつのる…という現代の地獄を描く。『あなたこそは、ぼくの一心に待っていた存在!(You're all I've waited 4)』と唄いつつ、ジェイミーのうめき声は悲痛さに向かって盛り上がるばかりだ(*)。

その描く苦悩と欲望の泥沼的な世界は、ハウスミュージック史の源初にあるジェイミー(with フランキー・ナックルズ)の超名曲『ユア・ラブ Your Love』(1985)の美しさと輝かしさが、くるりと裏返されているものでもある(*)。『いますぐあなたの愛が欲しい、もう待てはしない』という心情がそこで≪祈り≫として清らかに表現されていたものが、追ってその心情の内包するエゴイズム、さらにその自覚のもたらす≪不安≫、欲望あるものとして…欠けたものとしてあることの≪不安≫、等々が露呈してしまっている。
かつアシッドハウスというもの全般がそうかもだが、それはエイズの脅威がひじょうにセンセーショナルだった時代の表現物でもある。『触れるか・触れないか・触れたらどうなるのか』ということが、そこでは大いな問題になっている。

かってそんな時代(Early 1990's)、当時エイズと闘病中だった映画作家デレク・ジャーマンの展覧会というものを見に行ったら、使用ずみらしきコンドームや注射器らを彼のオブジェに塗りこめているので(!)、ナイーブな筆者はゾッとしたが。けれど現在、そのような表現のニュアンスが通じにくくはなっているように思える。いまのわれわれはその次の時代を生きており、もはや『触れること』はタブーを『通り越して』いる。でたらめ申せば、『タブーすぎるので禁じられてさえもいない』、のような。
それこれにより、もはやいまのわれわれは、動機が利己であろうと利他であろうと、そんなにまで『他者』を求めていない、または求めようという発想が抑圧されている、そんな感じ。…という≪ポスト・エイズ≫のこの時代において、2次元のイメージを『俺の嫁』にするのようなアチチュードは、少なくともあるていど適応的なのでは? それはポンプをブスッと肉に刺すようなヘビー・ドラッグがすたれて、もっとお手軽らしいMDMA(合成麻薬, エクスタシー)あたりが“イン”だネ、的なトレンドに対応したことともして。

(そろそろまったくの余談かもだが、そのEarly 1990'sに渡辺浩弐氏らが『コンピューターゲームはドラッグである』、ピュアな快楽の装置である、か何か宣言してらしたことは憶えている。それにならうならわれわれは、『“萌え”はドラッグである』、くらいは平気で言える)

といった状況下で。今作「部活動」の部員3バカの一角、ナルシストなお坊ちゃんの美少年≪青山くん≫の言うせりふ『ボク他人に 興味ないんだよね』(第1巻, p.155)は、ギャグでもありつつどこか(無意識)において、われわれの共感を呼んでいる。
しかしそのような彼でさえ、ほんとうに独りきりにはなりたくなくて、いろいろ都合をつけてまで彼たちの『部活動』にはげんでいるのだ。かくて、欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する『薄まった療法』(効果も薄いが副作用も少ない)として、どうやら彼たちの『部活動』はあるのだった。



西田理英「部活動」第2巻とまで申して、いちおうまとまった気もするが。プラス記憶に頼りつつ、今作の第2巻の内容についても、ちょっとだけ『触れて』みようとすると…。

第1巻の第9話で、部室を3つももっているわれらの『部活動』へのジェラシーをもって、さらに立場のない『オカルト研究会』がケンカを売ってくる。そしてこいつらがまた、それぞれにへんな仮面をかぶってフードとマントをつけた、あっぱれな3バカトリオなのだが。
そして第2巻で明らかになることとして、オカルト研で≪フレディ≫を名のっているおバカさんの中身が実は、りっぱな変人でありかつ地味だけど、ちょっとかわいい女の子なのだった。で、あろうことか彼女は、こっちの変人の赤井部長に岡ぼれして(!)、どうにか想いを伝えようとするのだが…。

…するのだが、それがどうにも伝わらない、というドタバタラブコメへ、第2巻から作品のムードが変わっていた気がする。今作はもともと表現が少女まんがっぽいのだが、フレディが活躍し始めたらほんとうに、『少女まんがのストレンジなラブコメ』になっていた感じ。
だがしかし、他人を求めない主義であり『触れない』主義の総本山みたいなわれらの部長に、フレディの遠まわしすぎな告白が、伝わるはずはないのだった。何せ、もろにダイレクトなメッセージでさえ、ぜったいストレートには通じないのだからッ!

そして、もしも世の中にこんな男らしかいないのだとしたら、女の子たちには≪腐女子≫になるか≪ビッチ≫になるか、その2つの選択肢しかない。それらの処し方がまた、『欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する、薄まった療法』でありつつ。
はっきり申せばフレディに関して、『あなたは腐女子になった方が、よっぽど心やすらかに生きられる』とは、伝えたいような気もする。かつ、赤井のような男とくっついたところで、続いてまた別のなんぎに遭うだけのような気もする。
けれどもフレディはあきらめはせず、そして彼女なりの歌声で、ジェイミーの“You're All I've Waited 4”を歌い続けるのだ。『触れること』を求め、少しでも欠けたものでなくなろうとして。

2010/08/25

高橋てつや「ペンギン娘」 - 『虹=二次』のグラデーション

高橋てつや「ペンギン娘」第3巻 
関連記事:高橋てつや「ペンギン娘」 - 萌えいずる、無意味なサイバー感!

人が『無意味、無意味!』と言い張っているところには、必ずや抑圧された≪意味≫がある、ありすぎる。そしてその意味を掘り出すことが、誰も聞きたくないような露悪的なへりくつになるんだけど、しかし。
すなわち関連記事において、この「ペンギン娘」について、『無意味である、無内容である』などと自分が言い張ってみたが。しかしパンチラレベルのライトなものであるにしたって、この「ペンギン娘」が性的な何かをアピールしまくっている作品であるのはまちがいない。その表現の仕方のところに、何かある。

その何かとは何かって、この作品は一方で明らかにエロをあおってもおりつつ、その一方、筆者がサイバー(笑)と言ってみたようなドライな表現と、そしてほとんど女の子しか出てこないというところで、読者側の興奮にブレーキをかけてもいる。その押し引きのバランス感覚が、一定の成功を収めているのかな、と、
で、自分としては今作のユニークさとして、『サイバー(笑)』の部分に注目したわけだ。『女子しか出てこない』は、こんにちだとありきたりだし。そして、女子のお尻ばっかりを追いかけている今作のヒロインが、内面的には男子、というかあっぱれなキモオタに他ならない…これもありがち。
(逆に言うと、現世に生きているキモオタの方々が、無意識において『自分は美少女である』、『自分は萌えキャラである』、と考えておられる。そして今作ら、女子らばっかしがじゃれあっているような作品らは、その事実を『反映』し、そこに迎合している)

そういえば今作で、お金持ちのヒロインのおつきで≪執事のセバスチャン≫という、たくましくたのもしい大男が登場するのだが。その彼の趣味が、なんと女装コスプレなのだった(第1巻・vol.08より)。
『執事』ってそんなものかも知れないが、彼は≪男性≫の枠から除外されている。彼の女装癖は、それを補助する演出だ。追って第3巻の巻末(vol.73)、そのセバスチャンは女湯に堂々と着衣で入り込んできて、全裸の少女たちといっしょに、まったくふつうにお芝居を進行させている(!)。それがあまりにさりげない描き方なので、さいしょおかしいとは思わなかったのが不覚。

『美少女だらけの女湯に、男性がチン入』ということがふつうはエロチックな事件なのに、われわれが見ている「ペンギン娘」の独特の表現は、そこからエロ味を脱臭しているのだ。ただし脱臭しきれてもいないわけで、残っているものが何か『ある』。また今作に限らず、『女装 - ふたなり - 百合』というグラデーションが虹(=二次)をなし、受け手の男子らの想像(=オレは女の子である、オレはカワイイ)がエスカレーション、という例のポイントはとうぜんあるけれど、まあ今回はこのくらいで。

2010/08/24

高橋てつや「ペンギン娘」 - 萌えいずる、無意味なサイバー感!

高橋てつや「ペンギン娘」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ペンギン娘」

まずいきなり反省文だけど、いつも自分がおかしいへりくつばっかりこねていて、すみまセーヌ川! 今回はそういうのなくて、かなりあっさりと終わるつもりなので!

さてこの「ペンギン娘」だけど、さいしょから最後まで女の子たちが(パンツ等を見せながら)じゃれあってるだけの、作者さまが言われるところの『ギャルコメ』。いわゆる萌え萌え系、らしきもの。2006年から1年半ばかり週刊少年チャンピオンに掲載、単行本は少年チャンピオン・コミックス全3巻。かつ、後で話題になるはずだが、その続編は「ペンギン娘MAX」として(…略。参考リンク先をご参照)。

別にどうでもいいような作品なんだけど、これは内容じゃなくてスタイルが面白い。実態は知りもしないが、いかにも『パソコンで描いちゃってま~す! ハイテック! IT! サイバー!(?) フューチャリズム!』というふんいきの画面構成が楽しい。
そこに盛り込まれた情報らの、質はぜんぜん高くもない感じだが(?)、しかしその密度がいかす。1回がたったの6ページにずいぶんいろいろなものを詰め込んでいるのだが、けれども『何を?』といったらほとんど何もない(!?)、その空疎さがゆかいだ。

たとえば。わりとスタイルが固まった感じの第1巻・第8話(仮称:花火大会の巻)の扉には、『vol.08』という通し番号がありつつ、しかも『037:浴衣=至高の日本文化』というサブタイトルも見えている。第8のエピソードだから『vol.08』はわかるとして、『037』は何かというと、それはエピソードらの中で分節されたシーケンスらの、全編を通しての番号なのだった。
が、そんな通し番号がなぜ必要なのか…ということもわからないし、そしていちいちゼロをつけて無意味にケタを合わせようとしているムダなデジタル感も、また過剰。さらには画面の床のところに『ペンギンCHECK』として、『浴衣:夏の萌え風物詩のひとつ、ウンヌンカンヌン』などと出ているバカっぽい豆知識もムダさをきわめて過剰!

と、はっきり申せばこの「ペンギン娘」は、1から10までムダ…。いや、0000から00FFあたりまでムダな情報ばかりな作品のような気もするが、しかしその『詰め込まれ感』が、ちょっと自分にはゆかいなのだ。それらがいちいち分節され、圧縮され、しかもナンバリングされていること、それ自体が面白いのだ。そしてともかくも見た目には、21世紀のまんが作品としてのフレッシュネスがそこには『ある』のだ。
という今作なのだったが、けれどもその無印シリーズは、たったの全3巻で終わり。『なあんだ』と思ったところで第3巻のあとがき(BONUS TRACK)を見ると、そこに作者さまから続編「MAX」のお知らせが。

 『(無印→MAXの、)一番の変化は、一話 ごとのページ数が 増えたこと』

それを見て、『マズいかも…』と思った筆者の悪寒は、不幸にも的中。無印ペンギンの、スタイルの面白さ、ごく短いページ数に空疎さが圧縮されている過剰さ、無意味きわまるサイバー感、それらの特徴を失った「ペンギン娘MAX」は、いたってありきたりなパンチラギャルコメになり下がった。
…ようにも思うのだが、そこはそれ、人それぞれの受けとり方がございましょう。と、放り投げて終わーる、ロワール川のさざなみに身をまかせて!

2010/08/21

ゆうきゆう+ソウ「マンガで分かる心療内科」 - 大好きSM、もしくは“DSM”讃歌

ゆうきゆう+ソウ「マンガで分かる心療内科」第1巻 
参考リンク:ゆうメンタルクリニック

この作品「マンガで分かる心療内科」は、もともとは実在の医院のサイトに掲載のPR&啓蒙用のウェブコミック(*)。それが好評によりヤングキング誌に掲載され、この20010年の初夏にYKコミックスとして第1巻が刊行されたもの。

…で、その単行本を見て、ウェブ版と比べ何か違っている気がする…と思ったら、題名がびみょうかつ大いに変わっている。いま確認したら、ウェブ版のシリーズ題名は、「マンガで分かる心療内科・精神科・カウンセリング」だ。
どうりで違和感のあったわけで、その内容のほとんどが明らかに精神科よりなのに、なぜか題名が心療内科オンリーになっている。

では、その『心療内科』とは何かって、さっきまで筆者もよく知らなかったのだ。そこで、とあるドクター様のブログ(*)を参照したところ…。
その『心療内科』とは1963年に、かの夢野久作「ドグラ・マグラ」でおなじみの九州大学の医学部から出てきたものだそうで。それはようするに『心身症』を診る科であって、そしてその心身症とは、神経症やうつ病を含ま『ない』のだとか。

 ――― 『メンタルクリニック.net:精神科と神経科と神経内科と心療内科』より ―――
『心療内科はあくまで内科の一種です。
心身相関という視点を取り入れることで,診断や治療においてより多角的なアプローチを可能としていますが,その対象となるのはあくまで過敏性腸症候群や気管支喘息,高血圧といった身体疾患なのです』(*

そうすると、つまりだ。『学校へ行け!』と言われると下痢をしちゃうとか、『家でゴロゴロしてないで働け!』と言われると心臓あたりが苦しくなるとか、そういう人々が世にはおられるようだが(ギクッ)。そこらを診るのが心療内科である、らしい(!?)。

というわけで、今作の題名の話に戻り。社会的なあれによって『精神科』ということばをさけたいのも分かるし、かつ題名をなるべく簡潔にしたいのも分かるが…。
にしても本書について、その主なモチーフが『精神疾患』・『うつ』・『ロリコン』・『妄想』・『認知症』、であるにもかかわらず、『心療内科』オンリーの看板が出ていることに、何の問題もないとは言えない感じ。『本当は“精神科”なんだけど、そこを婉曲に“心療内科”と言ってますよ』、というわけでありそうだが、しかしこの言い換えは、心療内科に関しての誤解をもたらすのでは?

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」第1巻まあ、題名の話はそのくらいにして。そして今作の概要はといえば、ナースの≪あすな≫と心理士の≪療≫クンというボケツッコミのコンビが、『「心療内科」の病気に関して とても優しくあたたかく 解説している{変態}マンガです』(第1巻, p.4)。…という引用中の『変態』の部分が、まるでサラ金の広告のいやらしいただし書きのように、小さくて読みにくい字になっている。
そう。あえて言うなら今作は、かの超名作・竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」(2001)の、精神科バージョンのようなしろもので。まずはお題に関し、精神的に残念なナースのあすなが、品のないボケを飛ばしまくる。そこへ療クンがツッコむのだ。

 ――― 第1巻・第2話『精神疾患になる原因って何?』より(自由気ままな要約) ―――
 あすな『そもそもどうして人は、メンタルの病気になるんですか?』
 療『あすなさんは、どうしてだと思いますか?』
 あすな『うーん… そうだ、“夫がずっと出張で さびしかったから”!』
 療『それは、浮気の言い訳だ!』
 あすな『さいしょからなりやすい素因のある人が、いそうな気もしますね』
 療『それもあるようですが、また別の重要な原因は、“かん○ょう”なのです』
 あすな『分かった! “浣腸”ですね!?』
 療『カンチョーじゃねえ! “環境”だよ!』
 あすな『鉄火巻きかと思ったら、みょうに甘ったるいのり巻きだったんです』
 療『それは、“かんぴょう”! 栃木の名産品だよ!』

というわけで、なかったネタも付け加えてみたが(サーセン!)、だいたいパターンはこんな感じ。このように今作は、かんじんそうな話をストレートに掘り下げることは『しない』、という点に特徴がある。で、少々無理にでもお話に、ギャグがチン入し挿入されている。
そしてその行き方をまちがって『ない』と考えるわけで、なぜならば『精神科にかかろうか、どうしようか』…というレベルの病者において、笑うことはひじょうに有効とされるからだ。もしも笑えるならば、なるべく“われわれ”は笑った方がよいのだ。
(筆者が職場で教わった『認知症対応マニュアル』にも、おかしなことを言いつのるお客さまに対しては、『コミュニケーションでうまいこと言いくるめ、気分を変えさせてみては?』、のようにあった。これがまた、『言うは易し』のきわまりだったが!)

そしてその逆に言って、今作を読んでみてため息をつくばかりで、ちっとも笑えない、むしろ『笑いごとかよ!』、のように感じられた方々におかれては、何らかの問題がないとも限らない。…いや、今作以外のまんがには大いに笑える、という場合ならばよいけれど!

ただ単に、ギャグが挿入されているばかりではない。今作はそのモチーフの精神疾患らについて、けっきょく深くを追求はしていない、という特徴をも有する。かんじんなところには強い記述がなくて、ぶなんにまとめちゃえ!的な傾きが見られる。
たとえば、この第1巻のちょっとした目玉でありそうな第4話、『ロリコンはどこから病気なの?』(p.29)から、その内容をざっと抜き書きすると。

 ――― 第1巻・第4話『ロリコンはどこから病気なの?』より、要約 ―――
【1】 精神医学の用語としては、ロリコンではなく『ペドフィリア(小児性愛)』が適切。
【2】 米精神医学界の診断基準『DSM-IV』は、ペド対象を『13歳以下』と規定。よって、14歳以上の異性が大好きな方々は、病気ではない。
【3】 同じく『DSM-IV』によれば、ペド行為とは『13歳以下との“性行為”』。よって、性交以外の行為に及んじゃったとしても病気ではない。いわく、『社会倫理的にアウトでも、精神医学的にはセーフ』(!)。
【4】 小児性愛の原因は、ようするに明らかでない。
【5】 ではその小児性愛の治療法はというと、まず薬物による性欲の抑制(!)、または施設への収容など、ひじょうに強圧的なものしか知られていない。
【6】 結論、『犯罪に走る前に メンタル(クリニック)か警察へ!』

それはまあ…。刑務所に行くよりはシャバで薬物療法でも受けた方が、まだしもいいかもしれないが。にしても、『もちょっとマシな療法が、何かないの?』とは、誰もが考えるのでは?
ただし、その症候によって本人と周囲の人々が大いに困っているのでない限り、ロリコンごときを治療の対象にするには当たらない。これはしっかり明記されているところで(p.38)、ようするにエロゲーや成年コミックなどを見て何とかできているくらいなら、精神科的な問題にはならない。

ちなみにいま出た『DSM-IV(精神障害の診断と統計の手引き・第4版, 1994)』というしろものの一般的特徴として、病因論などはシカトこいて記述的な症状(群)に病名を、言わば機械的に当てている。もっとはっきり言うと、そのDSMの第1版が1952年に現れやがって以来、精神分析に興味をもつわれわれは、遺憾の念なくしてその名を口にはできない。
何せそれのおかげで、まずは≪ヒステリー≫、続いては≪神経症≫といったわれわれの用語らが、ドクターたちのカルテから追放されてしまったのだから。それはすなわち、1950's以来のアンチ精神分析運動の象徴、そして向精神剤をバカスカ呑ませてオッケー的な精神医学の象徴でありつつ。

で、そのDSMが、しょーもないネタとして(!)、しかもそれしかないようなリファレンスとして(!!)、今シリーズには頻出するのだった。Web版には、こんなお話もある。

 ――― Web版・第6回『露出症の治療~どこからが病気?』(*)より ―――
路上であすながとつぜんに、露出狂とのぞき魔のペアに遭遇してびっくり! 走って逃げてから療クンにそれを告げたところ、彼はいたって冷静に、こんなことを言う。『医療業者としてもっと厳密に、“露出症”および“窃視症”という用語を用いましょう』。
さらに療クンはDSM-IVをひもといて、どちらにおいても『最少6ヶ月間にわたり』それらの逸脱行動があること、という診断基準を見つける。そして彼の観察によると、その変態たちの活動は最近5ヶ月のことなので(…なぜそれを知っているのか)、よって彼らは精神科的な病気ではない、と診断を下す(!)。
なおかつ露出症および窃視症について、その原因も分からなければろくな治療法も存在しない、というオチ方は、ロリコンの巻と同じ。そしてさわやかにあすなと療クンは、変態2人がパトカーで連行されるのを見守るのだった。

イエース、DSMサイコー! 精神医学バンザイ! 『ともに苦しむこと』などをしないならば、こいつはマネーメイキングとしてちょっとしたもんだぜィ!…なのかもしれない。

ところで本書の訴えるところとして、原作者のドクターが売りにしたいらしい『通院精神療法』の保険の点数が、近年にわたってダダ下がり、という現実があるとか(p.90)。その話は初めて聞いたのだが、しかしそれが、まったくもって意外なことでは『ない』。
いわゆる『精神療法』への評価の格下げは、DSMの普及(=腐朽)とアンチ精神分析運動にシンクロした、1950's以来の一貫した世界的な流れに他ならないからだ。どこかの誰かが、精神分析を激しく憎んでいるばかりか、多少なりともそれっぽい療法らの“すべて”を憎んでいるのだ。このことを知っていない“われわれ”は、いない。

で、彼たちにおそらく状況はきびしくなっているはずで、だからそのエピソードの冒頭で療クンは、『最近 ちょっとお金が 足りなくてね』と、さりげに(?)貧乏をアピールする。けれども療クンは、その点数評価の改訂を、『患者さんにとって やさしい料金設定に なってきているのです』と、むりにでも(?)前向きな話にしている。

それはつまり、『薄利』が強制されちゃっているがゆえの、『多売』に向かってのビジネス展開かッ?…などと、そんないじわるな見方はしないが! ともあれここは、ラカンが「テレヴィジオン」(1974)のどこかで『われわれみんなが力を合わせ』…等々と珍しくきれいげなことを述べていたにならい、日々の臨床をがんばっているすべての方々に、オレからもエールを送りつつ!