2010/02/28

きんこうじたま「H -アッシュ-」 - 地中海文明における『お宝』の意味作用!

 
参考リンク:別コミOfficial「きんこうじたま」

Mid 1990'sの『少女コミック』に掲載の、まさしく『H』な4コマ・シリーズ。頭の中がももいろ一色な女子高生のヒロイン≪カシス≫が、同級生や学校の先生らを巻き込んで、妄想の花をそこら中に咲き乱れさせる。
そのA5特装版の単行本がすてきで、まず作家の名前が『きん***たま』と、その一部が目立たぬようになっているのがショッキング。そしてカバーにゴールドの特色で『H』の文字がでっかく刷られており、まさに『“きん”こうじ先生の“H”』というところが演出されている。かつその金色が真紅の地色とあいまって、ひじょうにめでたい感じ! イエー!
なお、筆者はこれの単行本を『第2巻までしか持ってない』と考えていたが、いま調べたら全2巻らしい(少コミフラワーコミックス・スペシャル)。どうりで、第3巻がめっからなかったわけだ。いや第2巻の終わり方から、何となく続きがありそうかと思ってたんだけど。

そして、ちょっと異なるところから本題に入れば。2005年のこと、自分が氏家ト全や竹内元紀らの創作を初めてめっけたとき、『いくら何でも、ここまで下ネタギャグに徹底してる作品があったなんてッ!』…というおどろきに襲われたものだった。とはまたずいぶん気づきが遅かったが、何せ筆者は『情報力』というものがゼロな人間なので。
ところがだ。それらの登場からさらに約5年も先行して、下ネタギャグに超徹底した作品が、他ならぬ≪少女まんが≫の世界から出ていたとは! これがまた、筆者においてはおシャカ様もびっくりな大発見だった。それこそ、他ならぬ今作「H -アッシュ-」のことだ。
(なおどうでもいいことだが、今作の「H -アッシュ-」という題名が、同じ少コミ系の4コマとして先行した新井理恵「× -ペケ-」と対をなしている感じもある。かついちおう説明しておくと、『H』の文字をフランス語では『アッシュ』と読む)

さてその今作、きんこうじたま「H -アッシュ-」という創作が、あまりにもスバラしいと述べるにもほどがある。そもそもだが、ウソでも『少女まんが』の単行本で、いっきなし表紙にペニスがモロ描かれてある…そんなしろものが今作(第1巻, カバー)以外にもあるなら、ぜひここへ出していただきたい。
少年誌・青年誌のギャグまんがでさえも近年は、『表紙にペニス』は見た憶えがない。…あ、ごくさいきんのジャンプ・コミックスの「いぬまるだしっ」(2009)が出てたカナ? しかしそれは、幼稚園児のブツだし。

そういえば、われらがラカンちゃまの超メイ文の1つに、「ファルスの意味作用」(1958)てのがある(≪ファルス≫とは、象徴化されたペニス)。しかしこの題名はややひかえめなもので、内容を見ればむしろ、『意味作用の前提としてのファルス』とさえも言えそうなところだ。
…で、そのようなラカンのチン説が、高ケツで高まいなる方々には評判よくないわけだが。しかし『これを見よ』、ここにある崇高さをきわめた創作を見よ。
男性の外性器というものを婉曲に呼ぶにさいし、かって「がきデカ」は『タマキン』という語をフィーチャーし、一方の今作は『お宝』と言っている。≪ファルス≫という語もまた中立的でなくそれを賛美するニュアンスがあるので、われわれは『お宝』=≪ファルス≫と受けとってよい。

そして、“誰も”は≪享楽≫のシンボルでもあるファルスを心の太陽(?)にいだいてはおりながら。さらに今作の可憐なるヒロイン≪カシス≫たるや、その頭の中は常に『お宝情報』でいっぱい(!)…とはまたスゴい。まさしく彼女は、『意味作用の前提としてのファルス』というラカンの説をその身に体現している。
かつよく見ると(第1巻, p.2)、彼女のキャラクター紹介に『性別/処女』とある(!)。これもまた、くだらないジョーシキとやらの大いなる彼岸のできごとではある。なお『処女』と言われたら、超下ネタ物語の主要人物らが全員チェリーだ、という点でも、今作は21世紀の氏家/竹内の方向性に先行しており。
そうして今作で活躍する少女らが夢にも見上げる『お宝』、あふれる≪享楽≫と生命力と人類の縦のつながりを象徴してあまりあるもの。それと似たようなものを自分が1セットばかり所有していることを、今作にふれて筆者は生まれて初めて幸福に感じたのだった。

あわせて。確か古賀亮一「ゲノム」のどこかに出てくるヨタ話だが、その主人公の≪パクマン君≫が、『はばかりながら、こちとら男根崇拝の残る村が出身地でィ!』か何か言う。それはいったい、どこの村なのだろうか? むしろわれらの全員がいやでも住んでいる≪地球村≫、それが彼の出身地なのでは?
かくて今作は≪フロイト-ラカンの理論≫の正しさを正しく証明してるものでありつつ、愛とポエジーと笑いとファンタジーを供給しているあっぱれな『人間讃歌』に他ならぬ。また別の大傑作である「LET'S ぬぷぬぷっ」は『死にゆき壊れゆくもののタスク』として≪性≫を描いているが、一方の今作は成長しつつ生きるものの≪性≫を記述している。すると相反したものかとも見えつつ、読んでる時にはどっちも『そうだなぁ』…と感じさせるのが、それぞれの大傑作たるゆえんだ。

で、今作についてはいずれ詳細を見ながらあらためての大賛美があろうけれども、いまは次の点をチョコっと見ておこう。

今作の第1巻の途中から、その名もキッパリ『包茎部』という、ありえない部活が作中に登場する。…と、ただいま『包茎部』という字を書いただけで、およそ1分間ほど息が詰まりそうに…ッ!
そのお宝が『真性』であればいきなりブチョー待遇、『仮性』であれば一生ヒラ部員、そしてそのスローガンは、『むりにむかない』、というこの部は、包茎歴40年を誇る名ティーチャー、≪卯月先生≫が顧問をつとめる(第1巻, p.77)。第1巻のカバー左下で『お宝』を魅せているのもこの先生だし、そもそも校内で『お宝』をまる出しにしてるのはいつものこと(!)という、見上げた教育者でおられる。

で、その卯月先生が指導している包茎部なのだが。…実は筆者には、その≪活動≫の目的が、いまいちよく分からないのだ。
見てるとさいしょは、手術とかしないで自然とムケるように…というところが目的だった感じ。それならまだ分かるが、しかしだんだんとその活動は、『包茎を恥じずむしろ誇る、そのために“包茎を鍛える”』…というふんいきになっているのだ。
『包茎を鍛える』というわけの分からぬ語を書いてしまったが、自分でもまったく意味が分からない。だがそれは、われらが包茎部に関する記述として正しい、とは断言できる。

何かおかしいのは、その包茎部という、特定のやからだけのことではない。そもそも作品のかまえがだ、さいしょはばくぜんとも『包茎否定』的だったのに、第2巻あたりからハッキリと『包茎肯定』的なのだ(!)。お宝賛美で始まった今作「H -アッシュ-」は、1歩すすんで(?)その途中から、『包茎賛美』のたえなるオードを奏で始めているのだ。
すなわち。ヒロインの≪カシス≫は面接の最中に教師から、『君の(進路的な)ボーダーラインだが…』と聞いて、頭の中に『ホーケーライン』というものを思い浮かべる(!)。するとその図の中で、オトコらを2分するラインの、ホーケー側にいる連中はニコニコとうれしげで、ムケてる側の連中がなぜかシュ~ンとしている(第2巻, p.86)。とは、どういうことなのだろうか?

生物学の用語で≪幼形成熟(ネオテニー)≫というモノがあり、これは要するにわれわれ人類のことで、類人猿だったら胎児のような体勢のままで≪成熟≫をキメ込んでるのだという。それが、1つのかたちでの≪進化≫だ。
すると世に増えつつあるらしき包茎というものも、一種のネオテニーでありかつ≪進化≫の1つのかたちなのだろうか? てのは軽々には断じがたきところだし、そもそもムケねばならざるものならば、どうして誰もが包茎として生まれるのか?…というところからして、よく分からぬ。
しかし人類の生み出した美の頂点の1つであるミケランジェロのダヴィデ像も包茎だし、かつそれの範をなした古代ギリシャの古典彫刻群もまた、みなりっぱな包茎である…ということには注意しておくべきか。それは少なくとも、ユダヤ教方面の≪割礼≫チックな文明のかた苦しさに対峙しているものではあろう。

 ≪包茎≫ ← クラシシズム, グレコローマン(地中海文明), 文芸復興

ちなみに包茎部員の男子らは全員が『その他大勢』で、名前の出ているキャラクターはいない。だからヒロインが想いをよせるヒーローの≪広瀬君≫や、『モーホー』っぽいと評判の美少年≪森本君≫らのお宝状況は、秘密になっている。…これは心にくいところだ。

さァて包茎バナシの〆くくりとして、作者・きんこうじたま先生のプロフィールに、ちと見とくことがある。われらの作家は『お宝における仮性と真性』という論文でノーベル平和賞を受賞された(ウソ)であるそうだが(第1巻, カバー見返し)、その論文の題名にチューイしたい。
すなわち、まるでお宝には仮性と真性しかないと言わんばかりで、『お宝における、ムケてるやつ』というものの存在が超シカトされている(!)。つまりは、そういうことなのやも知れぬ。

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