tenkla 「ヨメイロちょいす」第2巻 |
関連記事:tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち
関連記事の続きで「ヨメイロちょいす」について、もうちょっと作品の内容よりなお話を。
1. まさに『自分』が作られようとしている瞬間
『ギャグとは“必ず”ショッキングなもの』、というわれわれのテーゼから。今作の冒頭、まだ何もしていない処女と童貞のヒロイン&ヒーローらの前に、彼たちの未来の娘と自称する女の子たちが現れる。このことを、とうぜんだが作中人物たちは、ショックとして受けとめる。
――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.15)―――
【花凜】 (頭をかかえながらモノローグで、)ありえない ありえないぃ
おかしいでしょ!? 必要なこと全部 スッとばして……
“既成事実”だけ 突きつけられるなんて……!!
その場面で花凜はさいしょ、いまだ告白もデートもしていないのに…などと、乙女チックなことを考えている。ところが、やがて。ようするに性交がなされたのだと気づき、その場面を具体的に想像して、彼女はひとりでかってにテンパるのだった(p.17)。
さて。婉曲に申し上げるのも逆にいやらしいかと思い、このさいストレートに記述させていただけば。そのらちもない想像の中で花凜は、サクくんのペニスの挿入を促して、自分のヴァギナを自分の手で『くぱぁ』と開いている。この『くぱぁ』という擬音とその所作が、追って今作「ヨメイロちょいす」に頻出する。
未来からやって来たらしい娘3人は、自らの存在を確定させるべく、その父母らに性交を促すのだ。自分の存在が消えないようにと必死で、母となるべき少女らのヴァギナを『くぱぁ』と開いてまで…! 何という、これはものすごいお話だろうか。
何がすごい、と言って。ふつうの人間らにとって、『父母の性交』を考えること、『自らの起源』をたずねることは≪外傷≫的な認識だ。
分析用語で≪原光景≫と呼ばれるものがあり、これは自分の両親が性交している姿を言う。それがしばしば隠喩的に表現されながら、分析主体の夢や妄想に表れる。
もう少し踏み込んで申すと、まさに自分が作られようとしている瞬間を、主体は眺めるのだ。すなわち≪原光景≫は、一般的には、じっさいに見たものが想起されているのではない。『自らの起源はどこに?』と考えたすえ、主体が見出すひとつの答がそれなのだ。
ところが今作の場合には、『自らの起源がなければならない』と考えた子どもが、≪原光景≫をイメージとして見るどころか、それを目の前で実現させようとする(!)。そしてそのことは逆に、親となりそうなヒロインとヒーローらに対して、≪外傷≫として作用する。
そもそも、結果が先にあって原因を作らなければならないということが、奇妙すぎて受けいれがたく、そしてヒーローらのやる気をそいでいる。それで彼たちは、何だかんだで娘らのおねだりを実現しないまま、物語はダラダラと続いているのだった。
2. やたらヴァギナが誇示されるギャグまんが、とは
ところでなんだが、話が『くぱぁ』に戻り。今作のヤマ場に『くぱぁ』が頻出することを、いちおう≪ギャグ≫だと受けとった上で…。
そしてわれわれの申す『第2世代ギャグまんが』というものは、山上たつひこ「がきデカ」(1974)を始まりとして、そこでいわゆる『タマキン(ペニス)』がやたら誇示される、という特徴があった(…補足すると、それに代わって『タマキン的な“記号”らが誇示される』という方向性が、第3世代的)。
だがしかし、それに対して『ヴァギナが誇示される』というタイプのギャグを、あまり見たような気がしない。いや細かく申せば、永井豪「ハレンチ学園」(1968)や、吾妻ひでお「やけくそ天使」(1973)などにあるけれど。けれどもマイナーでありつつ、しかもそれらの表現は、ギャグまんがのメインストリームからはみ出たもの、という気がする。
なぜだろうか? まずそれが≪ギャグまんが≫であれば、過剰に読者を興奮させてはいけない、いわゆるおかずになってはいけない、ということがある。
だから「ハレンチ学園」をいまよく読んでみると、意外とその内容に抑制がある、と感じられてくる。かの≪ヒゲゴジラ先生≫の醜怪な顔がおりおりドカンと描かれることは、けっして無意味ではなく機能していると知れる。
また「やけくそ天使」にしても、そのヒロインがやたらつつしみなくヴァギナを見せることが、いずれ冒頭の小ネタになってしまっている。作品をもたせているのはその先の、不条理や奇想天外として展開する部分だ。
それらに比したら、ピークの部分で『くぱぁ』が描かれてギャグとして機能する「ヨメイロちょいす」の表現は、かなりユニークなものだと知れてくる。そしてそれには、前提となっているしかけがある。つまりこの『くぱぁ』はヒーローから見ると、単なる≪享楽≫のサインばかりではない。
それは少年であるヒーローに、いきなりパパになることを求めてくる『しるし』でもあるのだ。だから彼は、一方ではすなおに興奮しつつも、しかし彼の言う自分の『モラトリアム』(第1巻, p.20)を継続しようとして、娘らが強いてくる性交から逃げまわる。
つまり今作の、『くぱぁ』の意味するところは両義的。この両義性の演出されていることが、それをギャグとして機能させているのだ。その構成の巧みさを、まずいまは見ておきながら。
3. やおよろずの神々の笑い、その対象
かつまた、『ヴァギナ-と-ギャグ』というお題で考えると。日本のさいしょの≪ギャグ≫と呼べるものは、日本最古の書物「古事記」の『天の岩戸』のエピソードで、アマノウズメがヴァギナを誇示してみせたこと、とも考えられてくる。
――― 「古事記」原文、『天の岩屋戸』より(*)―――
天宇受賣命(中略)。爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而。八百萬神共咲。
――― Wikipedia「天岩戸」, 『神話の記述 古事記』より(*)―――
天宇受賣命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳(もすそ)の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。
原文中の『番登』は『ほと』と読み、すなわちヴァギナのこと。そして「古事記」において、天地の開びゃく以後、何であれ『笑い』という現象が初めて記録されているのが、この場面なのだった。
(なお、「日本書紀」にも『天の岩戸』のエピソードは描かれているが、しかし『ヴァギナ等を見せた』という記述はないらしい)
するとびっくりだが、ニホンにおける『笑い』の起源は、ヴァギナを見て神々が大爆笑したことなのだ。…けれどもそのヴァギナの誇示が、『なぜ』ギャグとして機能したのか? それが筆者には、あまりはっきりとは分かりかねるのだった。
それについては何年も前から断続的に考えているのだが、まずはヴァギナを、≪去勢のシニフィアン≫として見ることができる(シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。フロイトの論文「メドゥーサの首」(1922)によると、ラブレーの小説に『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』、というお話があるそうだ。それがまた、たぶんギャグっぽく書かれたものかと考えながら。
またはそうでなく、最高神であるアマテラスのこもった場所の前にてハレンチな行為がなされている、それゆえの≪ギャグ≫とも考えられる。ここで神々はアマノウズメの向こうに、アマテラスのヴァギナをも見ていたのやも知れぬ。
と、分かりかねることが多いのだった。『ペニスが誇示される』というギャグが、わりとさわやかに笑えるものであるに対して、その逆であって機能するギャグは、みょうに複雑なのだった。
また。これを書いている自分は男性なので、ペニスに対して怖いとか不気味なものだとか、そういう感じ方はあまりない。たぶんヴァギナの方をこそ、(無意識にも)そのように感じていることだろう。
ところが、女性であったからといって、ヴァギナに関するギャグをさわやかに笑える、ということがあるだろうか? ヴァギナに対するイメージの抑圧は、単なる道徳とやらの問題ではなく、それがあまりにも外傷的なので人間において普遍的なのだ。
そもそもヴァギナには、『考察の対象にしがたい』という性格があるように思われる。『てめえはドーナツの穴でも喰ってろ!』というジョーク(?)があるが、ヴァギナとはそれ的な“もの”だ。
というわけなので、今作「ヨメイロちょいす」のヒーローの優柔不断さにも似て、筆者の申しようが、いつも以上に切れ味よくないが。そのようにふしぎで不気味なヴァギナという“もの”の両義性をはっきり描き、そして≪ギャグ≫にしている「ヨメイロちょいす」という作品。その貢献の重要さを強調しながら、この堕文はいったん終わる。