2010/12/04

tenkla「ヨメイロちょいす」 - 『くぱぁ』の意味するところの両義性

tenkla「ヨメイロちょいす」第2巻
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「ヨメイロちょいす」第2巻
 
関連記事:tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

関連記事の続きで「ヨメイロちょいす」について、もうちょっと作品の内容よりなお話を。

1. まさに『自分』が作られようとしている瞬間

『ギャグとは“必ず”ショッキングなもの』、というわれわれのテーゼから。今作の冒頭、まだ何もしていない処女と童貞のヒロイン&ヒーローらの前に、彼たちの未来の娘と自称する女の子たちが現れる。このことを、とうぜんだが作中人物たちは、ショックとして受けとめる。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.15)―――
【花凜】 (頭をかかえながらモノローグで、)ありえない ありえないぃ
おかしいでしょ!? 必要なこと全部 スッとばして……
“既成事実”だけ 突きつけられるなんて……!!

その場面で花凜はさいしょ、いまだ告白もデートもしていないのに…などと、乙女チックなことを考えている。ところが、やがて。ようするに性交がなされたのだと気づき、その場面を具体的に想像して、彼女はひとりでかってにテンパるのだった(p.17)。

さて。婉曲に申し上げるのも逆にいやらしいかと思い、このさいストレートに記述させていただけば。そのらちもない想像の中で花凜は、サクくんのペニスの挿入を促して、自分のヴァギナを自分の手で『くぱぁ』と開いている。この『くぱぁ』という擬音とその所作が、追って今作「ヨメイロちょいす」に頻出する。
未来からやって来たらしい娘3人は、自らの存在を確定させるべく、その父母らに性交を促すのだ。自分の存在が消えないようにと必死で、母となるべき少女らのヴァギナを『くぱぁ』と開いてまで…! 何という、これはものすごいお話だろうか。

何がすごい、と言って。ふつうの人間らにとって、『父母の性交』を考えること、『自らの起源』をたずねることは≪外傷≫的な認識だ。
分析用語で≪原光景≫と呼ばれるものがあり、これは自分の両親が性交している姿を言う。それがしばしば隠喩的に表現されながら、分析主体の夢や妄想に表れる。
もう少し踏み込んで申すと、まさに自分が作られようとしている瞬間を、主体は眺めるのだ。すなわち≪原光景≫は、一般的には、じっさいに見たものが想起されているのではない。『自らの起源はどこに?』と考えたすえ、主体が見出すひとつの答がそれなのだ。

ところが今作の場合には、『自らの起源がなければならない』と考えた子どもが、≪原光景≫をイメージとして見るどころか、それを目の前で実現させようとする(!)。そしてそのことは逆に、親となりそうなヒロインとヒーローらに対して、≪外傷≫として作用する。
そもそも、結果が先にあって原因を作らなければならないということが、奇妙すぎて受けいれがたく、そしてヒーローらのやる気をそいでいる。それで彼たちは、何だかんだで娘らのおねだりを実現しないまま、物語はダラダラと続いているのだった。

2. やたらヴァギナが誇示されるギャグまんが、とは

ところでなんだが、話が『くぱぁ』に戻り。今作のヤマ場に『くぱぁ』が頻出することを、いちおう≪ギャグ≫だと受けとった上で…。
そしてわれわれの申す『第2世代ギャグまんが』というものは、山上たつひこ「がきデカ」(1974)を始まりとして、そこでいわゆる『タマキン(ペニス)』がやたら誇示される、という特徴があった(…補足すると、それに代わって『タマキン的な“記号”らが誇示される』という方向性が、第3世代的)。
だがしかし、それに対して『ヴァギナが誇示される』というタイプのギャグを、あまり見たような気がしない。いや細かく申せば、永井豪「ハレンチ学園」(1968)や、吾妻ひでお「やけくそ天使」(1973)などにあるけれど。けれどもマイナーでありつつ、しかもそれらの表現は、ギャグまんがのメインストリームからはみ出たもの、という気がする。

なぜだろうか? まずそれが≪ギャグまんが≫であれば、過剰に読者を興奮させてはいけない、いわゆるおかずになってはいけない、ということがある。
だから「ハレンチ学園」をいまよく読んでみると、意外とその内容に抑制がある、と感じられてくる。かの≪ヒゲゴジラ先生≫の醜怪な顔がおりおりドカンと描かれることは、けっして無意味ではなく機能していると知れる。
また「やけくそ天使」にしても、そのヒロインがやたらつつしみなくヴァギナを見せることが、いずれ冒頭の小ネタになってしまっている。作品をもたせているのはその先の、不条理や奇想天外として展開する部分だ。

それらに比したら、ピークの部分で『くぱぁ』が描かれてギャグとして機能する「ヨメイロちょいす」の表現は、かなりユニークなものだと知れてくる。そしてそれには、前提となっているしかけがある。つまりこの『くぱぁ』はヒーローから見ると、単なる≪享楽≫のサインばかりではない。
それは少年であるヒーローに、いきなりパパになることを求めてくる『しるし』でもあるのだ。だから彼は、一方ではすなおに興奮しつつも、しかし彼の言う自分の『モラトリアム』(第1巻, p.20)を継続しようとして、娘らが強いてくる性交から逃げまわる。
つまり今作の、『くぱぁ』の意味するところは両義的。この両義性の演出されていることが、それをギャグとして機能させているのだ。その構成の巧みさを、まずいまは見ておきながら。

3. やおよろずの神々の笑い、その対象

かつまた、『ヴァギナ-と-ギャグ』というお題で考えると。日本のさいしょの≪ギャグ≫と呼べるものは、日本最古の書物「古事記」の『天の岩戸』のエピソードで、アマノウズメがヴァギナを誇示してみせたこと、とも考えられてくる。

――― 「古事記」原文、『天の岩屋戸』より(*)―――
天宇受賣命(中略)。爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而。八百萬神共咲。

――― Wikipedia「天岩戸」, 『神話の記述 古事記』より(*)―――
天宇受賣命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りをして、胸をさらけ出し、裳(もすそ)の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

原文中の『番登』は『ほと』と読み、すなわちヴァギナのこと。そして「古事記」において、天地の開びゃく以後、何であれ『笑い』という現象が初めて記録されているのが、この場面なのだった。
(なお、「日本書紀」にも『天の岩戸』のエピソードは描かれているが、しかし『ヴァギナ等を見せた』という記述はないらしい)

するとびっくりだが、ニホンにおける『笑い』の起源は、ヴァギナを見て神々が大爆笑したことなのだ。…けれどもそのヴァギナの誇示が、『なぜ』ギャグとして機能したのか? それが筆者には、あまりはっきりとは分かりかねるのだった。
それについては何年も前から断続的に考えているのだが、まずはヴァギナを、≪去勢のシニフィアン≫として見ることができる(シニフィアンとは、みょうに意味ありげな記号)。フロイトの論文「メドゥーサの首」(1922)によると、ラブレーの小説に『ヴァギナを見せると悪魔が退散する』、というお話があるそうだ。それがまた、たぶんギャグっぽく書かれたものかと考えながら。
またはそうでなく、最高神であるアマテラスのこもった場所の前にてハレンチな行為がなされている、それゆえの≪ギャグ≫とも考えられる。ここで神々はアマノウズメの向こうに、アマテラスのヴァギナをも見ていたのやも知れぬ。

と、分かりかねることが多いのだった。『ペニスが誇示される』というギャグが、わりとさわやかに笑えるものであるに対して、その逆であって機能するギャグは、みょうに複雑なのだった。
また。これを書いている自分は男性なので、ペニスに対して怖いとか不気味なものだとか、そういう感じ方はあまりない。たぶんヴァギナの方をこそ、(無意識にも)そのように感じていることだろう。
ところが、女性であったからといって、ヴァギナに関するギャグをさわやかに笑える、ということがあるだろうか? ヴァギナに対するイメージの抑圧は、単なる道徳とやらの問題ではなく、それがあまりにも外傷的なので人間において普遍的なのだ。

そもそもヴァギナには、『考察の対象にしがたい』という性格があるように思われる。『てめえはドーナツの穴でも喰ってろ!』というジョーク(?)があるが、ヴァギナとはそれ的な“もの”だ。
というわけなので、今作「ヨメイロちょいす」のヒーローの優柔不断さにも似て、筆者の申しようが、いつも以上に切れ味よくないが。そのようにふしぎで不気味なヴァギナという“もの”の両義性をはっきり描き、そして≪ギャグ≫にしている「ヨメイロちょいす」という作品。その貢献の重要さを強調しながら、この堕文はいったん終わる。

2010/12/03

tenkla「ヨメイロちょいす」 - シュレーディンガーの娘たち

tenkla「ヨメイロちょいす」第1巻
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「ヨメイロちょいす」第1巻
 
参考リンク:Wikipedia「ヨメイロちょいす」

「ヨメイロちょいす」は2007年にチャンピオンREDいちごでスタート、追ってRED本誌で掲載中のSFチックな『微エロハーレムラブコメ』(第1巻, p.183、作者より)。単行本は、チャンピオンREDコミックスとして第4巻まで既刊。
そしてRED本誌移転後の第2巻から、作者によるなら『バカ度』が上がり、ラヴコメよりもギャグ要素に重点が移っている気配。なお作者のtenkla(てんくら, 天倉)先生はなぞめいた人物で、その実体は成年コミックの土居坂崎先生なのではと、ネットではもっぱらのうわさらしい。

1. その存在が、“未確定”

今作こと「ヨメイロちょいす」、その概要はというと。なぜかモテ気味だがうすぼんやりした高校生のヒーロー≪桜我咲久(さくらが・さく)≫くんと、2人の少女。ばくぜんと三角関係のあるところへ、とうとつに小さな女の子たちが現れる。
その女の子たちは、近未来からやってきた、ヒーローとひとりのヒロインとの間の娘であると言い張る。ところがその未来がうすぼんやりと不確定気味なので、自分の存在を確定させるため、父母の間にさっさと既成事実を作っていただきたい、と言うのだ。

もしもヒーローがあっち側のヒロインと結ばれた場合には、こっちの女の子の存在は消失してしまうらしい。だから娘らは必死で、自分の母とヒーローとを(性的に)くっつけようと、未来のテクノロジーをも用いながら画策する。
やがては3番めの母娘のペアまでも登場し、赤・黄・緑のイメージカラーで象徴される3組の母娘によって、われらのヒーローは(性的に)翻弄されまくる。ゆえに題名が「ヨメ-イロ-ちょいす」、というわけなのかと。

さて。皆さまもご存じのことと思うけれど、量子力学のおもしろ不可解さを表す≪シュレーディンガーの猫≫というお話がある(*)。説明はリンク先にゆずるけれど、見えない箱の中の猫は『50%生きていて、50%死んでいる』と、ひじょうにおかしいことばで記述される。
で、今作の、未来からやって来た娘たちもシュレーディンガー的に、『生まれている可能性が確率としてある』ような、あやふやな存在であるらしい。だから目の前で、サク君と自分の母≪花凜≫がしっくりしてないのを見て、娘の≪きぃろ≫は、半透明になっている自分の手を示す。

――― 「ヨメイロちょいす」第1巻, 第1話より(p.18) ―――
【きぃろ】 ほら 存在が“未確定” になりかけてる
なんとかしないと いなかったことに なっちゃうの

『シュレーディンガーの猫』は、素粒子のふるまいの『不確定』のふしぎに着目したお話だが。一方の今作では未来の『未確定』であることが、現在の目に見える現象として描かれるのだ。このSF的アイデアが、なかなか切れている感じ。

2. 50パーの確率で生きている

ところで、『好ましくない現在を改善するために過去への干渉がなされる』お話とすると、われわれは藤子・F・不二雄「ドラえもん」(1970)という偉大すぎる先行作を思い出さないわけにはいかない。その第1話から、ちょっと気になるダイアログを引用しておくと。

――― 「ドラえもん」第1話より(てんとう虫コミックス 第1巻, p.18) ―――
【のび太】 ぼくの運命が 変わったら、きみは 生まれて こない ことに なるぜ。
【セワシ】 心配はいらない。ほかでつりあい とるから。
歴史の流れが変わっても、けっきょく ぼくは 生まれて くるよ。
たとえば きみが大阪へ 行くとする。いろんな 乗りものや 道すじがある。
だけど、どれを 選んでも、方角さえ 正しければ 大阪へ 着けるんだ。

さいしょの話だと、いずれのび太くんはジャイ子と結婚して、その孫の孫としてセワシくんが生まれる予定だという。しかし何かをがんばれば、のび太くんはしずかと結婚できるかもしれない…。で、やはりいずれはセワシくんが、『同じ人』として生まれてくるのだろうか? それを『同じ人』、と言えるのだろうか?
とまあ、それはひとつのSFアイデアだ。そしてそれに対抗してかどうか、今作「ヨメイロちょいす」は、『未来における存在権を争う並行世界、そのエージェント』という、新しい切り口を描いているのだ。それがひょっとしたら、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)とすれ違っている発想かも…とも思わせながら。

つまり。「ドラえもん」においては、のび太くんの未来の妻が、ジャイ子であろうとしずかであろうと、結果は大して変わらないらしい。変わらないとは、同じアイデンティティを持った子孫が生まれてくる、ということが変わらない。…そこでセワシくんは、彼の現在の生活の改善を求めて、過去に干渉してくる。
ところが「ヨメイロちょいす」においては、それがぜんぜん『同じ』にはならないらしい。そしてヒーローの行動の分岐は多数の並行世界を生ぜしめ、そしてその世界らは、確率の波として存在するようなものらしい。…だから並行世界の住人たちは、自らの存在の確率の上昇を求めて、過去に干渉してくる。

けれども逆から考えると、自分自身を『確率的な存在』と考えている人はいないはずだ。…おられますか? すなわち、50パーの確率で生きているシュレーディンガーの猫は、実在はしていない。実在するのは100パー生きている猫と、100パー死んでいる猫だけだ。
ところで思ったのだが、貯金箱に多少はお金が入っていることは確か、けれどもいくらかは分からない、といった状況はありげ。これも一種のシュレーディンガーだとすると、それはようするに、ひとの記憶や認識の問題に還元されてしまう。

3. たとえば大阪に行くとして?

さらに言うと、ひとの知覚の形式である時間と空間の存在は、常にシュレーディンガー的な状況を生み出しているのではなかろうか?
…つまり。別に量子力学的な装置などがなかったとしても、猫を箱の中にぶち込んで、後で開けてみたら必ず生きている、という保証はないのだ。死んでいる可能性はごく薄いにしろ、確率としたらそれは存在する。
さらに、箱なんかなかったとしてもだ。自分の知り合いの某氏が近ごろ連絡がないのだが、ひょっとしたら死んでいるかもしれないので『シュレーディンガーの知人』、ということだって言えるのでは?

だが、そうではあっても≪自分≫の存在の可能性が100%でない、そのあり方が量子的、あるようでないようであいまいだ…という感じ方は、きわめて斬新でざらにない。そこが、「ヨメイロちょいす」の新しさだと見る。
ただしこの感じ方は、ふつうの人間からは、『わが身にもあること』という共感が、ちょっとできにくいのではないか…とも思われる。

だからふつうの人間の感じ方からすれば、「ドラえもん」のお話の方が、相対的に自然で受けいれやすいものなのだ。自分の先祖が大金持ちだったらよかったのに…くらい、誰でもいちどは考えるようなことで。
けれどもそこでわれわれが考えないのは、その『大金持ちの家系に生まれた自分』が、いまの自分と『同じ』ものなのか、ということだ。そして今21世紀の創作「ヨメイロちょいす」は、『同じ』にはならない未確定のさまざまな未来から、『シュレーディンガーの娘たち』が押しかけてくる、という絵図を描く。そのSFアイデアのフレッシュさを、まずわれわれは大いに評価しなければならないだろう。

さて、ここまでを見てきてだが、先行作「ドラえもん」に対抗しての「ヨメイロちょいす」ということは明らかに自覚的なしかけであり、今作の内部にもしっかり描きこまれていることだ。「ドラえもん」という語は出ていないけれど、あるお話で花凜の母の≪美凜(みりん≫)からサクくんに、こんなせりふが言われる。

――― 「ヨメイロちょいす」第2巻, 第12話より(p.145) ―――
【美凜】 たとえばあなたが 大阪へ(…中略…)結局 大阪に着くでしょう?

何のことかというと、お色気過剰な美凜はサクくんを誘惑して、『母体が花凜でも 私でもきぃろちゃんは 生まれるのよ』と言い張り、ヒーローを子作りに誘うのだった(!)。が、それでは基本設定がぶち壊れ、そして『ドラえもんに対抗』という作品の性格がなくなってしまうので、あわて気味に花凜が『生まれない わよっ!』とツッコむのだが!

といったところで、いまだ基本設定あたりを眺めたばかりだが。けれども記事が長くなっているので、tenkla「ヨメイロちょいす」の話は次回に続く。

2010/11/29

衛藤ヒロユキ「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」 - ≪ゆる系ギャグ≫はんらんの必然性?

「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻
「ドラゴンクエスト 4コママンガ
劇場 ガンガン編」第2巻
 
参考リンク:Wikipedia「4コママンガ劇場」
関連記事:ラベル“衛藤ヒロユキ”

日本のまんが史においてMid 1980'sあたりから、コンピュータゲームからのインパクトが大きくて無視できないとか。また、われらの衛藤ヒロユキ先生は、その流れの中から出てきて最先端に立ち、大ブレイクをなされたとか。…そういうことはあるけれど、だが別にそんな大きめな話を、いまここで申し上げようとはしていない。
ただ単に、さっき自室に積んである本の下の方に、「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場」の何冊かを見つけて、うっかり目を通してしまったのだ。で、その「ガンガン編」の第2巻(1992)から、われらが電脳系ギャグまんがのマイスター、衛藤ヒロユキ先生の作例にふれて、ちょっと感じたことを。

――― 「ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場 ガンガン編」第2巻, p.55 ―――
(お話の前提。ドラゴンクエストIVの第5章、勇者らは天空のぶきぼうぐを収集中。その1つである天空のかぶとを所有するのは、北方スタンシアラの国王。彼はそれを、『自分を笑わせてくれた者に与える』と、奇妙なおふれを出している。で、勇者らも挑戦!)
【勇者の仲間・商人トルネコ】 コーミズ(という村)の 住人は ムコーミズ!!
【王】 (むっつり、)おかしく ないのぉ
【トルネコ】 (あいそ笑い、)さすが王様 ひとすじなわでは いきませんな ハッハッハッ
【王】 (場がゆるんだので、ついスマイルを返し、)まあな
【勇者たち】 (脱兎と逃げている王を必死に猛追し、)確かに 笑ったぞ!

この作例が何と、すでに20年近くも前のものかと思うと、かなりがくぜんとさせられるものがある。ドラクエ自体はぜんぜんノスタルジーになっていないのに、また衛藤先生のペンワークのみずみずしさはいま見ても変わらないのに…。しかしわれわれ(というかオレ)ばかりが、ずいぶん年を取っちゃっているようで。
ま、それはともかくも。現在のわれわれは、この作例をどのように受けとめるべきだろうか?

作中で勇者らが取り組んでいる、『人を笑わせる』ということ。それは、われらがギャグまんがの最大のタスクでもあるが。
けれどもまんがに限らない話で、『さあこい!』とかたく待ち構えている人物を笑わせるだけのギャグなんて、そうそう出るものではない。『出るぞ』とお思いなら、ぜひいまここに出していただきたい。さあッ!

で、そんなすごいギャグがないとすれば。性急に笑いを取ろうとする前に、まず何とかしてその場の空気を温め、相手の心のガードをゆるくしておくことが有効になるだろう。
あと、あまり高級なやり方とは考えられていないが、『先んじて自分から笑ってみせる』ということは、ギャグ的弱者が人を笑いに誘う戦術としては有効であろう。笑いは、伝染するものだから。
いっそのこと第3者のサクラを用意して、まず彼に爆笑させてみることもできなくはない。いにしえの海外ドラマのコメディで、笑いどころにあらかじめ笑い声が入っている、あのように。

かつまた笑いの機能として、『緊張の緩和』ということがある。作例を見ると、『ギャグを出そうとするよりもお追従を述べた方が、まだしも相手を笑わせうるとは情けない』…という気もするが、しかしそれだけではない。
のっけからいきなりお追従を述べたのでは、王は『あ? 何?』くらいにしか反応しないだろう。そうではなく、さいしょの『笑うか/笑わないか』という勝負で、まず王の緊張が高まっており。次に勇者らがギブアップしてその緊張がゆるんだところへ、タイミングよくトルネコのあいそ笑いとお追従がヒットしているのだ。言うまでもないのだが作例は、ギャグ作品なりに、ちゃんとありうる人間の動きが描かれたものに他ならない。

ところでわれわれは『笑い』に関し、英語っぽく言って『ラーフ』と『スマイル』とを区別している(*)。いずれの笑いも『心身の緊張の緩和』ということに関連しているのだが、ラーフとは肉体のけいれん的な運動によって緊張が緩和に向かう現象自体を言い、スマイルとはゆるんだステータスが表情に表れているものを言う。
(そして、言うまでもなくギャグまんがは、どうにかして読者をラーフにみちびくべき)

だが、ドラクエIV本編にしろ、衛藤先生の作例にしろ、前提としてはその2つが区別されていない感じがある。調べてみると、スタンシアラの町人が、『王さまを“大笑い”させれば』…ほうびは思いのまま、と言っているようだ。この『大笑い』こそ、われわれの言うラーフのことに違いない。けれども『ラーフでなければならず、スマイルは排除する』とまではっきり言われているわけではない感じ。
そこらがあいまいだからこそ、作例がお話として成り立っている。王の方は『ラーフ以外無効』と考え、勇者らは『スマイル有効』とゲームのルールを受けとっている、その認識のギャップがギャグを生み出している。つまり、われわれの考えるような区別は必要かつ有意義なのだと、ここで衛藤先生が同意なさっているも同然。

と、それこれ見てくると。この作例は、こんにちはやり気味な『ゆる系ギャグ』とやらの方法、ギャグ的弱者の戦術を浮き彫りにしているようにも思うのだった。

ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻
ヒロユキ「マンガ家さんと
アシスタントさんと」第1巻
一般的なギャグまんがの作法として、『1ページに2つはギャグを入れること』、と言われるらしい。ミキマキ先生がりぼんの編集からそう教わったそうだが、何か古いまんが入門の本にも同じことが書いてあった気がする。それをいちおうリファレンスとすると、こんにち『ギャグまんが』で通っている作品のかなり多くに、そんな数のギャグが入ってないことに気づかされる。

ただし、すべっているかもしれないギャグを大量に盛り込むより、読者が心地よいようなふんいきで押していくという方法は、まんがとして大いにありうるものだ。そして全体のテンションを限りなく低めておくと、その中の少数のギャグが、よりインパクトあるものとして受けとられるやも?

――― ヒロユキ「マンガ家さんとアシスタントさんと」第1巻(2008), p.20 ―――
【まんが家】 (仕事部屋の窓から外を見て、)いい… 天気だなぁ
何故こんな日に… 僕はマンガなんか 描いてるんだろ?
【アシスタント】 先生の原稿が 遅れているせいです
【まんが家】 (表情が死んで、)スミマセン…

同じガンガン系の『ヒロユキ』先生というつながりで、これをご紹介してみたが…。

で、こういう作品の方法論をしさいに検討しても、ちょっと自分的にはあれだが。ともあれ、このようにきわめてロウなところでのテンションのびみょうな起伏、それにプラス『お追従』、読者のナルシズムをくすぐるような要素を加えると、あいそ笑いのスマイルくらいは引き出せそうなのだった。
そしてこのような、ギャグ的弱者の方法論が現在、筆者もそうである社会的弱者らのセンチメンタリズムとナルシズムにアピールしている、ということは大いにありそうだが。いや、そうでなくともおセンチとナルシーは、『まんが』というメディアには絶対のつきものだが。

けれどもそうじゃないものがあるかもしれない、『それが“すべて”ではない』のでは?…という想いから、自分はこの≪ギャグまんが≫というものに粘着し執着し続けている。

2010/11/28

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - すばらしきまんがの世界(ギャグ以外)

竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる THE MOVIE」
竹内元紀「Dr.リアンが
診てあげる THE MOVIE」
 
関連記事:竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」 - 選ぶべき≪鉛の娘≫, フロイト「小箱選びのモティーフ」

筆者の大好きな作品、今世紀のオープニングを飾った下ネタギャグまんがの大傑作「Dr.リアンが診てあげる」。それが表題に出ているけれど、この記事では≪ギャグまんが≫の機能というか功用というか、そこらをわりと広く考えてみたい。

1. まんがと呼ばれる、夢あふれるメディア!(ギャグ以外)

にしても、さいしょは「リアン」のお話から。…その実質的な第4巻「THE MOVIE」の序盤に収録された『マンガを描こう』の巻で、ヒーローのナオト君が、少年漫画新人賞の応募作を描こうとしていると言い出す。
超とつぜんに、まんが家志望だとカミングアウトするのだ。そうすると。

【美果】 いいわよね 読者に夢を売る 商売だしね ギャグマンガ 以外は

…と、いきなり的確すぎることを、天然ボケ気味の美果がおっしゃりやがる(p.28)。
その次に、どういうジャンルで描こうかという相談になると、『ラブコメが いいです!』と言い出したのがリアン。

【リアン】 (ラブコメすなわち、)男に都合のいい女を 仕立てて
とりえのない主人公を モテさせて 全国のドーテーどもを ドキドキさせるマンガ!
【美果】 みもふたもない 言い方するな!!

ところがこの、「Dr.リアン」というまんがはギャグ作品なので。よって、そこで『ギャグマンガ以外』のまんがが読者に売りつけている夢や幻想をぶち壊すための『みもふたもない 言い方』がなされるは、しごく必然かつとうぜん!
そうすると美果は、≪ギャグまんが≫が何であるかは知っているが、しかし自分がそれに出演しているという自覚がないらしい。…ま、それはそうか。

また、異なる作品も見ておくと。ロドリゲス井之介「踊るスポーツマン ヤス」(*)の第1巻、『ヤスチーム vs.ビキニ隊』の対抗戦で。敵の動きが速くてつかまえられないミチル君に対し、セコンドのヤスが、『心の眼を開け!』のようにコーチングする。
そうかと思ってミチル君が目を閉じて闘うと、それがあっという間にやられてしまう! あたりまえすぎていやになるところで、だいたい『心の眼』なんて、そんなかんたんに開くものじゃない…というか、開いた人がいるのだろうか? 筆者ぐらいの古い人だと、「アストロ球団」の球三郎サマじゃあるまいし…ということになるが(汗)。

そして、『まんがじゃあるまいし!』というふかしぎなツッコミが言外に表現されているのが、これらのギャグ作品のおかしいところだ。「Dr.リアン」という作品自体がムンムンのハーレム物語的なのに、それに近いラブコメが作内で揶揄され嘲笑されている。「踊るスポーツマン ヤス」の内容のありえなさは一般のスポ根まんがの比ではないが、けれどもかんじんなところに限って、要らざるリアリズムが描かれている。

2. 一般まんがをおちょくることが、ギャグまんがの使命

どうであれギャグまんがの内容には、ギャグじゃないまんがの内容や描写を否定しているところがあるのだ。筆者としては、“必ず”あると言いたい。
そしてそれが意外とかんじんなことで、そうだからこそまんが雑誌と呼べそうな媒体には、必ずいくつかギャグ(っぽい)作品が載っている。その質はともかくも。

ギャグじゃないまんがは一般に、読者の心にファンタジーを残して終わる。それに対してギャグまんがは、意識的または無意識的に『リアル』を読者に示して終わる。受け手の心の健康のために…行きすぎないようにバランスを取るべく、媒体には、行ったものを引き戻す要素が必要。それが、ギャグ(っぽい)まんがに期待される機能だ。
ただし、戻すぐらいならファンタジーの世界に行く必要もないのかというと、そんなことはない。どうせ起きるのに毎日眠らなくてはならないし、どうせ下から出るけれど食べなくてはならない。それと似たようなことで、人間にはファンタジーもリアリズムも必要だ。

そして、まんが史をひじょうに大きく見ると。ギャグまんがというジャンルの発生は、ストーリーまんがの発達に『対応して』のこと、という見方があるようだけど、その意見に筆者はほぼ賛成だ。
そのことを、筆者の持論のギャグまんが世代論を用いて言い直すと。まず『ストーリーまんが』という呼び方を求めるような作風の誕生に対抗して生まれたものが、ギャグまんが第1号「おそ松くん」(1962)からの第1世代。この過程を、かの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」は、『生まれた』ではなく『生まれさせられた』、と形容している(*)。
続いて1960'sからの劇画ブームに対抗したのが、「がきデカ」(1974)からの第2世代。そしてMid 1970'sからの新しいものら(大島弓子や大友克洋、等々)に対抗したものが、「伝染るんです。」(1989)からの第3世代。

というわけで、メインストリームのまんがの進歩だか発達だかに対応して、ギャグまんがも成長してきたと考えられる。言い換えれば、まんがにおける新しいファンタジー(の描き方)の発生に対抗して、ギャグまんがによる『リアル』の描き方も進歩してきたのだ。

よって。新たに第4世代のギャグまんががこれから生まれるには、それに先立って、まずギャグじゃないまんがにおけるイノベーション『こそ』が必要になってくるのかも。
あるいはそれは、すでに発生しているのだろうか? 筆者がはっきり認識できないうちに、ギャグにしてもギャグじゃないまんがにしても、いつの間にかすでに次の世代に突入してしまっている…そんなことは、ひじょうにないとも限らない。

3. 少年まんがは、少年として少年的に!

ところで、さいごに「Dr.リアン」の話に戻ると。いろいろ相談しながら描き上がったナオト君のラブコメ作品は、何とあからさまなエロマンガになってしまったのだった(p.34)。ペンネーム≪ルパンツIII世≫を名のる作者が、自分で自分の原稿に成年コミックのマークを描き込んでいるのがどうにも…。

【美果】 少年マンガを 描くんでしょ 描き直しま しょうよ
【リアン】 簡単に 少年マンガに 直す方法が あるですよ
(『ビシッ』と親指を立て、)チンチンを 少年のチンチンに 描き直せば いいです!!
【美果】 いいこと あるか――っ!!

というナイスな修正が、なされたのか否かは不明だが。けっきょく少年漫画新人賞は、落選してしまったのだとか。
何しろナオト君のまんが家志望の動機、その職業のいちばんの魅力とは、『エロ本 いっぱい持ってても 「人体デッサンの 資料」』として言い抜けが可能、ということだそうで(p.28)。そんなではそうなったのも、しごく必然かつとうぜんかと。

でまあ、いままでの話とは関係ないようなことだが。どうせ少年誌のラブコメなんて、ナオト君ほどじゃないにしろ、かなり血の気の余ってそうな方々が描いておられように(?)。ところがナオト君とは異なり、みんなちゃんと寸止めの作品に仕上げているのはすごいな、プロだなあ…と、おかしなことに感心してみせて、この堕文は終わるのだった。

2010/11/27

衛藤ヒロユキ「週刊わたしのキモいペット」 - めしませ、じゅくじゅくジューシーなアロマ!

衛藤ヒロユキ「週刊わたしのキモいペット」
衛藤ヒロユキ「週刊
わたしのキモいペット」
 
参考リンク:Wikipedia「週刊わたしのキモいペット」
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この作品「週刊わたしのキモいペット」は、2008年に携帯コミックとして配信された後、ブレイドコミックス全1巻として刊行されたもの。作者・衛藤ヒロユキ先生としては、確か初めてのショート形式の作品(毎回5ページ・全24話)。

――― 「週刊わたしのキモいペット」, 版元の宣伝文 ―――
あの大人気ギャグ作家・衛藤ヒロユキが携帯オリジナルで送る、キモかわいいペット満載コミックが早くも単行本で登場!!!

どんなお話かというと。何だかびみょうにファンタジー的な町≪カイデルタウン≫では、いま空前のペットブーム。12歳のヒロイン≪インコちゃん≫はそれに乗せられて、『ものすごいペットがほしい!』などと、浮かれたことを神さまにお願いしてしまう(p.7)。
すると『淫行ちゃん!!』と、おかしい名前で彼女を呼ぶ声が、窓の外から。やがて登場したのは≪ペットの神 ニャンプラー≫と名のる、やたらに手足の長い、ネコっぽい生き物。

【ニャンプラー】 わたしの使命は 良い子にステキなペットを めぐんでやる事!
(中略)気に入るまで どしどしペットを 紹介しますニャ

と、いちおうありがたそうなことを言いながら、なぜかニャンプラーの手足と胴体が、どんどん長~く伸びていく。やがてインコちゃんのお部屋は、それでいっぱいになってしまう!
このいきなりのキモさを見せつけられながら、うっかりその提案に乗ってしまったのが、われらのヒロインの運のつき。追って次々と紹介されるペットらが、少なくともニャンプラーくらいに必ずキモいのは、いたってとうぜんの展開と考えられよう。

ところでこんな分析は要らなそうなのだが、でもひとこと。ペットはほしいが“お金がない”と、まずインコちゃんが嘆いている。そこへニャンプラーが、『淫行ちゃん』という名でヒロインを呼ぶ。それから彼の手足と胴体が、限りなくニュニュ~と伸びていく。
…というものを見ると。そんな風に考える『必要』はないとしても、しかしこの流れに、いやらしい含みがないとは思えない。

かつ、そうかといってもその後の展開が、とくべついやらしいわけではない。けれども可能性というかふんいきとしてのいやらしさが、明らかにチラ見えしている。
そのことを読者はちゃんと見て認識しておりつつ、しかし笑いという肉体の反応に流してスルーする。これが、≪ギャグ≫というものの作用の仕方だ。

とまでが明らかになったところで、筆者の心にふれたお話をひとつご紹介。その第16話、近ごろアロマテラピーにこっているインコちゃんが、気まぐれに『「いい香りのペット」って どうかしら?』と、奇妙なことを提案(p.80)。
そこでニャンプラーはご要望に沿ったつもりで、≪花おやじ≫というペットをそこに召喚。すると造形が花っぽいオッサンが現れ、そのわきの下あたりから『もわ~』と、何かのニオイが立ちのぼってくる…!
するとインコちゃんは、『ぎゃ~っ! いい匂い!!』と、ざらには聞かれないようなせりふを叫びとして発し、逃げ出そうとする。しかし花おやじは、オヤジ特有の粘着的態度でドドド…とインコちゃんを追いかけまわす!

【花おやじ】 ジャスミンの 香りですよ!
【インコ】 いい匂いだけど 助けて~!!

続いて花おやじは二重の意味での『変態』を繰り返し、びみょうに人相を変えながら、『深みのある フローラルの香り』や、『もぎたて レモンの香り』などを放つ。それらがいちいち、いい香りには違いないのだが。しかしインコちゃんには、どうにもその発生源のオヤジがキモくてかなわないのだった。

…ここで考えれば。いまの世の中、『加齢臭』とかいうものがどうだとかうるさいけれど。まあそういうものが、じっさいにないとも言えないが。
けれども真に問題となっているのは何ごとであるのか、この作例によって、よ~く分かったはずだ。匂いがよかろうが悪かろうが、ようするにオヤジというものは好かれない! その一方で、(つまらんことを申し上げるが、)汚物であっても女子高生か何かから出たものならば、マニアの市場では値段がつかないこともないらしい。
だからどうしたというのだろうか? みょうに筆者は(オヤジだからか、)ここらで不きげんになってくるのだった。

あとこの作品について、前に「舞勇伝キタキタ」について述べたような、『児童まんがのていさいをよそおってはいるけど、実は内容が子どもうけするようなものでない』、ということも指摘はできる。…が、だからどうしたというのだろうか? 誰がどう悪いということもないけれど、ただいま筆者はみょうに不きげんなのだった。