参考リンク:Wikipedia「サナギさん」
施川ユウキ「サナギさん」は、2004年から2008年に週刊少年チャンピオンに掲載の、学園ほのぼの不条理4コマ。単行本は少年チャンピオン・コミックス全6巻。
これはまったくイベントも何もないような生活を送る女子中学生のヒロインらが、せめて口先だけでも面白いことが言えないかと、奇妙なことをがんばるシリーズ。別にめんみつに調べてはいないが、その作中、学園祭や体育祭ていどのイベントさえもなかった感じなのは、それまたちょっと奇妙な感じもしつつ。
1. ふたりなら、『チン』ができる!
で、その第1回でヒロイン≪サナギ≫は、『足りないモノを想像すること』という、あまりにも地味なことを、彼女の趣味として言い出す(第1巻, p.5)。たぶんそれは、つまり『わたしには“何”が足りないのか?』という問いの変奏でありそうに思えつつ。
そして思いついたのは、河童の頭のお皿が乾くと困るらしいので、そこにフタが足りないのでは、と。しかし『あ』、と考えなおして、『やっぱ ラップでいいや』と、そのアイディアを簡略化する。すると彼女のイメージしている河童はショックをうけ、『残り物の オカズみたい カッパ!』と叫ぶ。
そのアイディアが気に入ってサナギは、親友の≪マフユ≫にそれを打ち明ける。
【サナギ】 河童のお皿は ラップした方が いいよね?
【マフユ】 (…しばし考えた後、)そのまま 河童を「チン」 できるから?
【サナギ】 (ショックを受けて、)できない よ!
【マフユ】 (ぐっ、と力をこめて、)二人なら できるよ!
【サナギ】 (ショックを受けて、)そんな友情 嫌!
このようにサナギは、ちょっとうまいこと言ってマフユを感心させてやろうと、いつもつとめるのだが。しかしいつも、それより一枚上手なことを、マフユから返されてしまう。
事後的にいまのお話の流れを検討すると、『残り物のオカズ』という語が出た時点で、『チン』の発想までは、あとほんの一歩だ。しかしその一歩を、サナギはめったに踏み出せないし、逆にマフユは、その一歩にためらいがなさすぎる。
それに続き、『足りないモノ』というなら、地獄に比べて天国のイメージはばくぜんとしすぎていて、『“アミューズメント性”が足りないのでは』と、マフユが言い出す。
これがまた面白いところで、女子中学生2人の会話で、どうしていきなり死後の世界の話になるのかと。ただしずーっと見ていくと、マフユはいつもそんなことを言い出す子なのだ、ということは分かってくる。『どうして』への答にはなっていないが、彼女の発想はそうなのだ。
それでいくつか、そのアミューズメント性の提案がなされるがいまいち。そこで、『もっと自由な世界を想像した方が』…うんぬんとサナギが言う。
するとマフユは、またしばし考えた後で、『………… 「轢き逃げ天国」』と、ものすごいアイディアを出してくる。それを聞いてサナギは、『地獄絵図しか 浮かばない!!』と、またまたのショックをこうむるのだった。
かくて。『天国をもっと楽しくしよう』という企画会議なのに、主としてマフユの誘導により、しまいに2人は『地獄絵図』を想像して終わるはめになる。いつも今作はこれ的な展開で、特にイベントも何もない地味な生活を送る彼女らが、せめて想像の世界でゆかいに遊ぼうとすると、なぜか必ずろくでもない、悲惨や苦痛や汚辱のイメージらが浮上してきやがるのだ。
2. ≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなもの、だけど
ところで。『女子中学生で4コマ』というと筆者が思い出した先行作は、りぼん史上に残る名作、田辺真由美「まゆみ!」(1989)。ただし序盤すぎには高校に進学してしまうので、その初期に限ったお話で。
で、別に何もないような地味な生活を送っているのは変わらないけれど、しかし「まゆみ!」のヒロインには好きな人がいる。その男子の一挙一動を見ているだけで、毎日が超ドラマチックなのだ。彼女の心の中では。
しかしその男子(いとーくん)のふるまいが、いまいちイメージ通りの王子さまでない。たとえばの話、くしゃみをした拍子に鼻水を噴き出すようなこともしでかす。そこで彼女はショックをこうむる…というギャグになっている。
≪ギャグ≫とは“必ず”ショッキングなものである、というわれわれのテーゼがそこで満たされる。けれどもヒロインのまゆみがタフな少女なので、意外にいとーくんが王子さまであることをやめない。
また一方、高校生のお話だが、同じりぼんで「まゆみ!」を追って出た空前の傑作、茶畑るり「へそで茶をわかす」(1992)。これは「サナギさん」のスタイルを先取りしているところがあって、そのヒロインが親友の少女を相手に、ことばの遊びに興じる局面が多い(*)。
ただし異なるのは、「サナギさん」に存在するような暗さと閉塞感が、「へそ茶」にはまったくない。何しろ「へそ茶」のヒロイン≪ぐりこ≫は、それをやろうと考えたりする前に、いたるところでそくざに遊びを始める女の子なのだ。かなり意図的にそれをしていそうなサナギらとは違って。
――― 茶畑るり「へそで茶をわかす」より ―――
【ぐりこ】 まり 土曜日の時間割ってどうだっけ
【まり】 えーと、保健、芸術、数学ね
【ぐりこ】 保、芸、数か 何だか『保くんの芸の数々』って感じだよね
【まり】 保くんって誰
これあたり「サナギさん」にもちょっとありそうなお話なのだが、しかしテイストがぜんぜん違う。
ぐりこのことば遊びは、何もないところから『芸達者な保くん』という、ゆかいそうな人物を呼び出す。そしてわれわれは、特に面白くもない記号を変換して楽しさを生み出す、そのぐりこの妙技から歓ばしいショックをこうむるのだ。
そして、サナギにしたって意図するところは、そうしたことなのかと思われる。ところがいまいち彼女の発想にはキレがなく、そしてそれをフォローするマフユの発想はキレまくりで、何もなさそうなところからドカスカと、陰惨なものらを次々に呼び出しまくるのだ。
3. 生まれる前に、何をしていましたか?
とまでを見たところで、筆者がへりくつこきの悪癖を露呈。例の≪ラカンの理論≫と呼ばれるしろものの中に、≪現実的なもの(または現実界)≫と呼ばれる概念がある。これは説明しにくいというか、むしろ説明できないものだ。
というのも、現実的なものとは、『ことばでは言えない何か』なのだ。つまり人間の世界の主成分を『ことばで言えるもの』と見て、しかもさらにある『何か』、というわけだ。
で、ここでは細かくふれないが、この概念は、ラカンの精神病論において超重要。別に哲学でもポエムでもなく、分析理論は基本的には治療のための実用品、ということはいちおう強調しておいて。
そしてその現実的なものの顕れは、怖い、不気味、不安、といった印象を人に与える。『名づけえぬものの恐ろしさ』とこれを考えてよく、人々はそれの恐ろしさに耐ええずして、幽霊・妖怪・神霊のような名を、仮にそれへと与えたりもする。
いろいろ考えあわせていると現実界とは、ぜったい誰にも知りえない『出生前の世界』でもあり『死後の世界』でもある、そんな気もしてくる。現実的なものとは、出生する前の自分、死後の自分であるようにも思える。ただしラカンはそこまでのらんぼうな単純化をしていないようなので、それは参考意見として。
で、『顕れ』というにも現実的なものは、ものとして現れるということはない。ではどのように顕れるのかというと、人間らの言語活動(または記号活動)のすきまっぽい部位に、ちらちらと顔を出しやがるのだ。そして「サナギさん」作中のマフユの言語活動は、かなりそれを実現しちゃっているところがある。
――― 「サナギさん」第1巻より, 『眠れない時』(p.22) ―――
【サナギ】 フユちゃんは 夜眠れない時って どうしてる?
【マフユ】 色々パターンがあるけど…… 布団から 片足だけ出して
ふと誰かに 足首をつかまれそうな 気がして 慌てて引っ込める とか……
【サナギ】 (ショックを受けて、)こ…怖いよ!
【マフユ】 コレは 「足首を つかまれなかった パターン」だから 怖くないよ
【サナギ】 (大ショックを受けて、)「つかまれた パターン」 あるの!?
【マフユ】 いや ないけど
この、足首をつかんでくるかもしれない『誰か』が、まさに現実的なものの顕れだ。そしてマフユの想像の中で『さえも』、それは足首をつかんできたりはしない。ないにしたって、あまりにもなさすぎることなのだ。
なのにサナギはさいごのコマで、じっさいにつかまれたくらいの大ショックをこうむって涙ぐんでいる。
また。いまちょっとパラパラ見ていたら、お正月の書き初めにマフユが、『初 最後の晩餐』と書こうかな…というお話が目についた。それを聞いてサナギは例によってショックをこうむりつつ、『最後の晩餐が いくつもある前提…!?』と、首をかしげる(第1巻, p.58)。
まったくありはしないものだが、その『2回め以降の最後の晩餐』こそがまた、現実的なものが顕れている『言語活動のすきまっぽい部位』なのだ。
4. チャーリー・ブラウン -と- サナギさん
で、この作品「サナギさん」は、前途ありげでフレッシュな中学生しょくんが、みょうにダークでウツっぽいイメージにからまれまくって、しまいに頭をかかえるようなありさまを、超しつように描く。
ちなみにこの作品には、作中の実在する大人の姿は描かれない。そこはC.M.シュルツ「ピーナツ」(スヌーピー)シリーズばりの演出で、なぜかいろいろなことにくたびれ気味の子どもたちが描かれ、そして『童心』なんてものの存在が否定されている。
なお、これと並行でヤングチャンピオンに掲載されていた施川先生の「もずく、ウォーキング!」は、もっとストレートに「スヌーピー」へと張り合うような作品になっている。張り合えているかどうか、は別として。
なお、というならもうひとつ。今作「サナギさん」に先だった施川先生のシリーズ「がんばれ!! 酢めし疑獄」について筆者は、『“ファルスのシニフィアン”が出まくり!』という印象をもっている。特に、その初期について(ファルスのシニフィアンとは、勃起したペニスをさし示す記号)。
それに換わって今作は、『“現実的なもの”が顕れまくり!』となっているわけだ。かくて、ラカンの理論の2大おもしろワードの攻略成功という偉業を、施川ユウキ先生の作品系列に見つつ。
でもう、それこれのショックを『受け-流す』ためにわれわれは、ギャグまんがの描いている≪ギャグ≫に対して外傷的でけいれん的な笑いを返す…なんてことは、いままでもさんざんに書いてきたが。
にしても、じっさいにあれこれの怖いものらにおびえ暮らすわれわれにとって、この「サナギさん」の描くびみょうにかわいい少女と少年たちは、少なくとも相対的に『好ましい自己イメージ』ではあろう。だからわれわれは、この痛くて苦しい作品を愛読する。
かつまた、まったくうそだが『ほのぼの』というムードを全般に押し通しているのがうまい。というか、出だしのところに『ほのぼのムード』のあることが、その後に出てくる現実的なものによるショックを強めているわけだ。…とひとまずそこらまでを見て、「サナギさん」の話はぜひまたいずれ!
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