2010/05/02
三上骨丸「罪花罰」 - 倫理としての美学、または口唇期の次の段階から
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近年のジャンプ系のギャグまんがで目立っているものには、ボケツッコミというよりも『ホームズ-ワトソン的』と形容したくなるような、Wヒーローのコントラストをフィーチャーしている作品が多い感じ。まず、うすた京介の2大傑作(「マサル」および「ジャガー」)がそうだし。また「ギャグマンガ日和」にしても、その中で主要な『芭蕉と曽良』や『聖徳太子と小野妹子』らのシリーズはそうだし。
そしてこのジャンプスクエア掲載作「罪花罰」もまた、何かと超越的すぎるヒーローと読者の代表っぽいキャラクターとの凸凹コンビをフィーチャー。前者がもちろん『罪花罰』の店長こと薔薇紋であり、後者はバイト店員の桔梗クンだ。
そして今作中ではその桔梗クンが、薔薇紋をはじめとする変態たちから、やたらに好かれたり、またはねちねちとからまれたりしてしまう。薔薇紋の暴走をおさえて自分のおしりを守るだけでもたいへんなのに(!)、彼たちのもとには次々と変質者たちが現れる。
その変態らの主なところを見ておくと、まずは薔薇紋のいとこでいいなづけを名のる、手芸と華道の天才少女≪ひなぎく≫。次に桔梗クンと同じ学校の、一見兇暴そうな不良だが実はドMのパンク少年≪蘭クン≫。さらには『罪花罰』の近くの八百屋の主人で、ふだんは知的な好青年だが『野菜コンプレックス(ベジコン)』というなんぎな性癖をもつ≪柚子≫、等々々。
で、こいつらがいずれもたちの悪い変態ではありながら。しかしわれらの桔梗クンは、そいつらの暴走に対してツッコんだりガードしたりしつつ、だがそのいずれにも、わりと一目おいている感じ。そして薔薇紋たちが、変態とはいえ何かに秀でたものであるに対して、自分にはそういう≪何か≫がないとなげくのだった。
『みんなそれぞれ 才能があって(中略)
なのにボクだけ なんにももってなくて』(第2巻, p.95)
そしてそこらに、われわれの視点がある。われわれの大部分は、天才でもなければド変質者でもないがゆえ(…例外もあろうけど)。
かつ、このように『何かになりたい』と痛感している桔梗クンに対して薔薇紋は、ときどきやさしく『きみはすでにそのままで≪何か≫なのですよ』的なことを言う。その甘言こそわれわれが、『実は』聞きたいことばでもある。がしかし薔薇紋は、まずは桔梗クンの若いピチピチボディに注目しているのではありつつ(!)。
で、見ていくと今作「罪花罰」は、巻が進むごとに、ちょっとお話が軽快さを失い気味。常人の代表として出ているはずの桔梗クンの根のクラさが、じわじわと目立っているストーリーが多し。
そういえばどこだかで、桔梗クンがつらい目に遭いすぎて放心し、『どうせ死ぬのに…』(!)、みたいなことをつぶやく場面があったようだが(いまちょっと発見できない)、それこそが今作の裏のテーマではありそう。
そしてそうした『どうせ…。なのになぜ?』、という問いかけに対しての今作の答が、薔薇紋たちが言っている『生をまっとうし、かつ、美をまっとうすべし』というような、倫理としての美学なのではなかろうか?
だからわれらのボードレール様がブチあげたものとしての『耽美』、言い換えて『腐敗と滅亡の美学』みたいなものは、たいへんに不健全そうでもありながら、実は人間肯定のきわみに他ならないのだ。『どうせ』人間なんて死ぬまで(もしくは死後まで)美しくはいられないわけだが、そのさいごの過程までをも『美』として高みに見よう、という趣旨なわけなので。
そしてそこいらの甘くも苦い認識を≪ギャグ≫として表現している今作「罪花罰」は、筆者が申す『ほんとはあまりゆかいでないネタを、むりにでも笑いという反応に方向づける』という≪ギャグまんが≫、そのど真ん中の創作と言ってまったくまちがいない。
ここでその≪ギャグ≫の黒いとこを、1つご紹介。ボランティアで近くの幼稚園のハロウィンを演出することになった、薔薇紋と桔梗クン。『コレに着替えてください』と言って薔薇紋は、黒地にガイコツの描かれた全身タイツを渡す。
そこで桔梗クンが着替えるとそのタイツのもようが、胴体の真ん中あたりから、臓モツやなまなましい死骸の絵になっている(!)。びっくりして、『なんだコレわぁぁあ』と桔梗クンが叫ぶと、薔薇紋は晴ればれと愉快そうに言うのだった。
『腐敗してゆく経過を リアルに表現してみました
ハハハ 滑稽でしょう?』(第2巻, p.69)
と、そこらまでを見てから筆者の言い訳(!)。ちょっと自分が疲れ気味なので、人さまの創作の重さを指摘する前に、この堕文がいつも以上にきれてなくて、諸姉兄に対してはひじょうに申し訳ない。この「罪花罰」は大好きな作品なので、これについては近くまた必ず見ていくこととして。
で、この堕文のさいごに1つ、筆者的に大注目してしまったエピソードをご紹介。そのハロウィンのお話の続きで、園児たちに見せる人形劇に薔薇紋は、桔梗クンにそっくりでおしりの大きさとツヤを強調したキャラクターを登場させる。名づけてそれが、『妖精の“尻ック”』。
というセクハラをこうむった桔梗クンは怒るが、しかし尻ックを見て園児たちは、『おしり~ ギャハハハ』とか言って、意外と大いに喜んでいる。そこで解説して薔薇紋がいわく(p.80)、
『彼ら(註・園児たち)はリビドー発達 段階で言うと
ちょうど 口唇期の次の段階に いますからね
この時期にトラウマを 与えてやると 将来アレな感じに… ククク』
はっきりとは言っていないのがにくいところだが、ここで薔薇紋が参照しているフロイトの性発達理論でいうと、口唇期の次の段階は≪肛門期≫なのだった。
というわけで薔薇紋サマもまた、いまこそフロイトに学ぼうというわれらの同志であったのだ。それを『イエ~ス!』と一瞬は悦んでしまったが、しかしその理論を『逆に』悪用しようというのは、ひじょうによろしくないぞッ!?
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