2010/05/12
「課長バカ一代」と「主将!! 地院家若美」 - または『山崎ハコ と ギャグまんが』
参考リンク:Wikipedia「課長バカ一代」, 「主将!! 地院家若美」
筆者はあんまりよく知らない対象なのだが、このご時世に浅川マキとか山崎ハコとかって、どうなのだろうか? うそでもいいから、フランソワーズ・アルディとかブリジット・フォンテーヌとかに置き換えてはダメなのだろうか? まずは以下しばし、約4年前に書いていた堕文の焼き直しから。
一条ゆかり先生のまぼろしの傑作「5愛のルール」(りぼん1975年5~12月号、未完)に、先日初めて文庫版で目を通した。するとその冒頭、ヒーロー初登場の場面にて。あれこれと失意が重なり、スナックでやけ酒中のヒロインの姉が、ジュークボックスに向かったヒーローに、
「ねぇハンサムさん 浅川マキかけてよ」
と、言う。
…いやはや、浅川マキも古ければ、それを呼び出す装置の≪ジュークボックス≫も古い。ぐん、とくるほど、じゅん、となるほど、古い。まあそれは、むかしの作品だからだが。
いや、作劇としたらむろん、この場面にその名前の登場は『ふさわしい』かも。われらが一条センセのなさるコトに、まちがいのあるはずはない。だがしかし、そうきなさるのか、そのふんいきイヤだなあ…と、自分が軽く思ったことも事実だ。
それから、わりと最近。ちょっと古書店で、野中英次「課長バカ一代 子供用」(2001, KC少年マガジン, 全1巻)を買って読んだ。これは「魁!! クロマティ高校」でおなじみの作者の1990'sのシリーズ作(ミスターマガジン掲載)を、少年マガジンの読者に向けて編集し直した1冊。
そしてその巻末近く、ヒーローのバカ課長が部下の3人を呼んで『バンドを結成しよう』と、とうとつに言い出す。その理由は『音楽への情熱』とかいうのではなく、社内のサークル活動として公認されれば予算が出るかもと、あて込んで。
けれども方向性がちっともまとまらないので、『しょーがない、じゃあ、いきなりだが解散しちゃおう』(!)という相談になってしまう。だが、解散するにも多少はカッコつけが必要ということで、部下の1人の発案により、『音楽性の相違』という理由が設定される。
それに続く会話として、われらのバカ課長が『ちなみに俺は 山崎ハコが 好きだけど オマエらは何が 好きだ?』と、一同にたずねてみたら…。
『え……! 課長も山崎ハコ 好きなんですか!?』
『実は僕も 山崎ハコ 好きなんですよ…… あんまり人に言わないようにしてるんですけど……』
『まさか…… 前田くんも……』
『山崎ハコのオールナイトニッポン…… 毎週聴いてました……』
やだもう…何なの、この会社? そうして彼ら4人は、ほんわかと意気投合し直すのだが。しかしその直後、『しまった、コレじゃ解散の理由がない!』と気がついて、再び頭を抱えるのだった。
ちなみに筆者は、浅川マキと山崎ハコとの区別がほとんどついていない。というか、しっけいだがおそらく、『区別しよう』という意志がない。
ゆえにこれら2つのまんが作品が、≪同じもの≫をさしているかのように、ついさっき確認するまでかん違いしていた。こういうことを、悪しき『同一性の思考』と呼ぶのだろうか?(2006/04/03)
と、ちょうど筆者がそんなことを書いていたころ、「魁!! クロマティ高校」に続くようなギャグまんがの新しい動きとして、マガジン系の媒体でひそやかに、やきうどん「主将!! 地院家若美」(2004)の掲載が始まっていた。はっきり申してほんとうに大好きな作品だが、それの第2巻をいま見ると、こんなことが描かれている。
最強の暗殺武術の達人にして、最悪の美少年ハンターであるBL系ヒーロー≪若美≫。その親友で幼なじみの≪三平白人(みひら・はくと)≫は『超 忍者マニア』で、独断的な忍者修行にはげみすぎ、学内ですっごく迷惑をかけまくり。よって若美と並んで、柔道部の2大問題児、との風評あり。
まったく困ったもんだ…という相談をしているところへ若美が道場に現れ、たまには練習を休んで遊びに行こう、と言い出す。一同は悦んで、若美がご招待のカラオケ屋に向かう。追って白人が道場におもむくと、誰もいない。何せ忍者だけに、ふだんから存在感を消しているせいで(?)、忘れられたのだ。
そこで白人は忍者の情報網か何かを使って、柔道部員らの行き先をつきとめ、ボーイに化けて彼らの個室に潜入する。実のところ白人クンは、のけものにされたこと、そして忘れられていることが、せつなくてたまらないのだ。さびしんぼうなのだ。
やがて部員らは、白人がいないことをやっと気づく。ところがそれからその場所は、白人へのしんらつな悪口とかげ口でもちきりに(!)。その口撃の急先鋒は、若美や白人が起こす問題の処理に追われまくりの、いつもは温厚な副将だ。部員らの中で、ちょっとでも白人をフォローしたのは、心のやさしいヒロイン≪美柑(みかん)≫だけ。
あまりのことに、ボーイ姿の白人がぼうぜんとしていると、何かわけの分からないリリックがその場に流れる。そこで白人は、
『誰だ! 山崎ハコなんか 歌ってんのは…!!』
と内心で叫び、そして人知れずダラダラと涙を流すのだった(KC少年マガジン版, 第2巻, p.74)。
それからお話の後半は、美柑以外の部員らに白人が、血も凍るようなおそろしいふくしゅうをッ!…と続く。ゆえにこのエピソードのサブタイトルは、『忍(しのび)の戦(いくさ)は無情 の巻』。
とまあ、そうなんだけど。そのストーリーはともかく、われわれの観点からは、≪山崎ハコ≫というふかしぎな記号が、こういう場面にて、その意味不明きわまる意味作用をなすものらしい、と分かったのだった。いや、『分かった』なんてことは言えないが、しかし何かを知った感じがなくもない、という。
「課長バカ一代」にしろ「主将!! 地院家若美」にしろ、≪山崎ハコ≫とはこういう意味の記号である、なんてことを描いてはいない。ただその使われ方を見ると、その記号は、あえて言うなら『共感なき共感』、さもなくば『コミュニケーションなきコミュニケーション』とでもいった、何かきわめて両義的で、受けとり方のむずかし~い心の状態を示すようなのだった。
そしてそのような、意味ありげにして意味不明なる記号(シニフィアン)の現出、それの引きおこす強烈なとまどいを、われわれは≪ギャグ≫と解釈する。その記号に何らかの意味があることは確かそうなのだが、しかしそれが思い浮かばないのは、その意味が≪抑圧≫の対象になっているからだ。そこで発生するエネルギーの詰まりが、笑いという運動によって発散されるのだ。
だからこれらがギャグとして成り立つには受け手において、『その意味が抑圧の対象』という前提が必要になる。山崎ハコという女性歌手について、『偉大きわまるディーヴァ』だとか『くだらなさのきわみ』だとか、別にどっちでもいいのだが、にしても受け手の側にはっきりした『意味』しかないとしたら、ここで笑いの発生はない。
そうじゃなくて、その存在感(プレゼンス)はずいぶんとありつつ、しかしその受けとめ方にはたいへん困る。そのような記号としての≪山崎ハコ≫であり、その現前によっての≪ギャグ≫なのだ。
対極的な例をも、1つ出しておくと。まんがに限らずギャグの世界には、エルヴィス・プレスリーの仮装をした人がよく登場する。それが決まって、かの映画にもなったラスベガスでのカムバック・ステージの、純白のジャンプスーツ(ソデにピラピラつき)&もみあげがものすごい、というかっこうで。『何かさいきんあったなあ』と思ったらそれは、若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第2巻の冒頭のお話にも出ているのだった。
だが、それがどうして≪ギャグ≫になるのだろうか? エルヴィスは文句なくカッコいいが、しかしその猿まねはカッコ悪いのでこっけいだ、というばかり? それともそうじゃなく、ネタとなっているエルヴィス自体に、過剰すぎてカッコよさを通りこしちゃってる部分のあることが、そこにて示されているのだろうか?
むろん筆者には、それをどっちであるとも言えない。むしろ、ほとんどの人には『それをどっちであるとも言えない』。そしてそうしたどっちつかずな感覚に対して、われわれは笑いという反応を返しているのだ。ここでまた、≪エルヴィス≫という記号がりっぱなシニフィアンだということが確認されながら。
で、何が『対極的』かというと、同じく意味不明なシニフィアンでありつつ一般社会に対し、エルヴィスは出っぱりすぎている例、山崎ハコは引っ込みすぎていて『逆に』気になるかもしれない例、という意味で。そしてこのような≪シニフィアン≫というしろものを、われわれは、いっそのこと『不条理の記号』と呼んでもよいように錯覚しつつ。
…などと、山崎ハコという記号を介してギャグまんがを見る、というふかしぎな行為のあったところで。そうして「課長バカ一代」にしろ「地院家若美」にしろ、ひじょうに大好きなすばらしい作品なので、こんなんでは語りきれない…と筆者は申し上げながらッ。
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