2010/05/06

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」 - 心はマジだが、立場的には冗談

杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ダイナマ伊藤!」

すごい大むかしのこと、バイト先の職場の休憩室で、1977年の週刊プレイボーイのバックナンバーを見つけた。『わ~い、H本だ!』と悦んでそれを見ていたら(!?)、そこに連載中だった本宮ひろ志「俺の空」の内容の断片が、みょうに心に残ったのだった。
すなわち。放浪中の主人公がヒッチハイクすると、恩人であるいせいのいい運ちゃんが、へんなところでトラックを停める。そして『すこしは恩義を返してもらおうか』みたいなことを言い出し、それからおもむろに自分のズボンをおろして、『ケツ貸せや!』と言う…っ(続く)! わ~おっ、BL展開ッ!?

「俺の空」については、以上のことだけよく憶えていて、それがなかなかに外傷的(トラウマティック)で、『それから主人公はどうなったのだろうか?』と、ずっと少しは気にしていたのだった。そうしてつい先日、やっとこの件を確認できたのだが。

…だがそれが、意外とつまらなくて。ネタバレになってしまうが(失礼)、その続き、主人公が『いや~ん!』とは言わないがイヤがってあわてると、運ちゃんは破顔一笑、『冗談だよ冗談』と言い、そしてズボンを脱いだいきおいでスーツにビシッと着替えて、それから行きつけのソープ、作中の用語では『トルコ風呂』へと向かうのだった(プレイボーイComics版, 第3巻, p.187)。ンだそりゃッ、BLじゃねーじゃん!

だいたい「俺の空」のさいしょのシリーズは、主人公のいい気な女性遍歴を描くようなものなんだけど、それの延長で男子との激闘もありかな?…と、自分はちょっぴり期待してた感じなのだった。まともな読者はそんなこと思わなかったろうけど、ちょうどその時代がJUNEっぽいものの出はじめだったので、あるかもよと?
がしかし、あたりまえだが本宮ひろ志先生におかれては、ヘテロセクシャル『のみ』のお人だったというばかり。

ところで≪冗談≫というものについてフロイト「機知」(1905)は、『実はホンネが言われているに他ならない』、くらいを主張している。『機知(Witz)』という語がかたくるしいが、これは『ジョーク(joke)』と英訳されていることばなので、その書をわれわれは「ジョーク論」と受けとってよさげ。そしてその主張の1つとして、『ふつう言えないホンネを主体が言うための手段がジョーク』、なのだ。
だから筆者は腐男子じゃないけれど(?)、いちおう美少年とも言える「俺の空」の主人公に対して、この運ちゃんが『実は』邪欲をいだいていなくもなかった、と考えたい気持ちが現在もなくない。

そういえば、以前の同僚でうっとうしいやつがいて、いつも仕事が立て込んでくると、『iceさん、ボクはもう帰りますから』と、やったら何度も言っていた。それが毎度すぎたのでしまいに、『じゃ帰れ、二度と来んなッ!』と言いわたせば、向こうはしれっとして、『やだなァ、“冗談”じゃないスか』などとぬかすのだった。
これについてまず言えることとして、彼においては『職場を放棄したい』というのがホンネに他ならない。言われたオレの方だって、大して気分は変わらなかったんだから、そこは別に責めないが。けれども彼の言語活動がジョークとして大失敗していたのは、『誰をも笑わせていない』という問題点による。

なお、ここでジョークが成り立つために笑うものは、横で聞いている第三者であってもかまわない。かつ、もしもさきの『冗談』で笑えるようなすなおな人がいたら、その受け止め方はこうだろう。『あははっ、職場放棄とかありえないし!』。かくて、言われたホンネが出まかせとして受けとめられるすれ違いから、ジョークの笑いが生じる。
ところが筆者は『ジョークはホンネである』という事実を知っており、かつ善意に乏しいひねくれ者であり、しかもはるかに洗練されたギャグまんがに毎日目を通して感覚をきたえているのだから、彼にとっては相手が悪かった、としか言いようがない。ちょっとは笑えるようなことを言ってこそ、『言えないホンネを言う』ことが許容されうる。これは憶えておきたい。

と、ほとんど同じことを、世紀をまたいで週刊少年サンデーに載っていたギャグ作品、杉本ペロ「ダイナマ伊藤!」が描いている。
その作中、なぞの中年ヒーロー≪ダイナマ伊藤≫の身体から、爆発物反応が検出される。そこへかけつけたデカ長は、さいしょだけ石原プロ作品的に勇ましいが、けれどもまじで爆発物があるらしいと知ったとたん、若い刑事の相棒に『あとは頼む』(!)と言い残し、自分だけさっさと逃げようとする。
しかしとうぜんながらきっつく呼び止められて、デカ長はしぶしぶ現場まで戻ってくる。そして言いぬけするには、

 『冗談冗談マイケル ジョーダン。
 心は本気だが、立場的には 冗談だ』

というのだった(少年サンデーコミックス版, 第1巻, p.44)。
しかしこの『冗談』は、『冗談もダジャレも やめてください!!』と、彼の相棒にはまったくの大不評に終わる。そこで第三者として見ているわれわれが笑うにより、やっとデカ長の発話行為が、からくも『冗談』として成り立つ。

このように『心は本気だが、立場的に』、いちおう否定されている言説、それがジョークなのだ(なおこの堕文では、ジョークと冗談とを区別していない)。そういえば、ギャグに限らずまんがには、やたら人へと『死ね!』なんて『冗談』(?)を飛ばす人らが出てくるが…ッ!
かつ、『言えないホンネを“冗談”として言う』、という行為の心理的な効用は、フロイト様も述べておられる通り。そしてその逆には、『聞きたくない他者のホンネを、“冗談”かのように受けとめて笑殺する』、という行為がある。一方はそれを言いたい、もう一方はそれを聞きたくない、そのような言説らが『冗談』として笑いを介するにより、やっとこの世に発生しうるのだ。

また。『このさいオレたち、付きあっちゃったらどうよ?』なんて言い方でなされる『“冗談”めかしての告白』、ということが話題になるが。それが出てくる理由は、『相手が告白を聞きたくないかもしれない』という、一種の善意(?)にもよる。
何せ女性たちはやさしいから、真剣な告白を真剣にことわるということもたいへんだ。そこでそうじゃなく、『ウフフ、iceクンてば、ふざけないでよ~』のようなかわし方を相手に残しているのは、こちらの善意とも考えたいわけだが?

とまあ。それこれによって、われわれはここにおいても、フロイトの理論とギャグまんがのなしている『意味』とのシンクロを見たのだった。
ところで杉本ペロ「ダイナマ伊藤」という作品だが、しかしそれは主としたら、こんな『意味』の分かることばかりを描く作品でもない感じ。どっちかと言ったら≪不条理系≫なので、その主な内容についてはいずれまた別の記事にて!

【余談】 ほんとに余談だが、「俺の空」についてもう少しだけ。その第3巻の巻末に野坂昭如がそれへの『解説』的な文章をよせているのだが、これがけっこう手きびしい。ほめているようには、ほとんど読めない。
その文中の印象的なフレーズらだけ抜き書きしとくと、『古典の形式を踏襲』はまだしもいい方で、『月並みの本領』、『確実に男を癒楽させてくれるという原則』、『せちがらい昨今、せめて束の間でも』、『鼻毛抜きつつ読んで楽しむ』、『不毛のロマン』、『時に見るに忍びない』。そうして、『これをいかに血肉にとりこむか。それは読者の側の問題である』、というのだった。

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