2010/11/01

あらゐけいいち「日常」 - 56億年後の≪救済≫を待ちながら?

あらゐけいいち「日常」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「日常(漫画)」

あらゐけいいち「日常」は、2006年から少年エース掲載中のギャグまんが。ショート・4コマ・まれにやや長い…と多彩なスタイルで、地方都市の女子高生であるヒロインたちの、≪不条理≫っぽい『日常』を描く。単行本は角川コミックスAとして、第5巻まで既刊。

1. シュール! シューラー!! シューレスト!!!

この作品「日常」について、版元のサイトに出ているその宣伝文は、こう。

『かわいいのになんか変な微シュールギャグ。
妄想がふくらみがちな夢見る女子高生・ゆっこの回りにはロボやらヤギやら謎なものがいっぱい。今日も微妙にシュールな日常が始まります』

これを見てひじょうによくその内容がわかったはずだが、筆者においてもひとつ、発見的なことがあった。
というのは、作中に出ている『ロボやらヤギやら謎なもの』らについて。まずそれらをふつうに、≪シニフィアン≫(みょうに意味ありげな記号)らであると見て…そこまでは、いたってとうぜんだが。
そして。それらはつまり、ヒロイン格のゆっこらが『夢見る』『妄想』少女であるがゆえ、彼女らに見えているものなのだ、と! 筆者はあまりそういう風に考えていなかったが、宣伝文のニュアンスではそうなのか、と。

かつまた。筆者はあまり使いたくない語だが『シュール』とは、フロイト様から大影響をこうむりまくったアンドレ・ブルトンらの≪シュルレアリスム≫に関係あることとして。

――― 河瀬昇『公開講座 やさしい現代美術』より(*) ―――
シュルレアリスムは、フロイトが発見した無意識レベルに表現の源泉を求める。フロイトによれば、今まで人間精神の中心を占めるとされてきた理性(意識)は海面上にあらわれた氷山の一角に過ぎず、精神の大半は海中に沈む氷山のように意識下に没したまま、深層に潜む原動力として精神の働きに参画しているのである。シュルレアリスムは、この無意識にあって通常では隠れたままの人間の欲望や夢を現実に引き出し表現しようというのである。
(中略)
フロイトが提起した無意識レベルへの視点は、いきづまった近代自我による表現、近代芸術の限界を超える可能性を持つかんがえ方であったといえるだろう。現代においてなされる表現は、多かれ少なかれ、無意識レベルへの視点を抜きにしては成り立たないといっても過言ではない。

だそうなのでわれわれは、ギャグまんがなんてものを読んで『シュール…』とつぶやいているだけでも、『フロイト・ザ・グレーテスト!』と述べているに等しい。この正しい認識は、しっかりと身につけねばなるまい。
かつまた。別にシュルレアリスムの系統だけがフロイト(の理論)に関係しているわけではなく、それはそのひとつの用い方だ。『フロイト以前の精神分析は、(古代ギリシャ等、有史以来の)詩人らによってなされていた』というわけで、どんな流派であろうと芸術は、精神分析のベストパートナーなのでもありつつ。

2. 首を折って拉致、土中に埋めた上で焼却

おっと。『シュール』という語の登場に挑撥を感じたので、ついついそれに応じてしまったが、そんなことよりも!
今作「日常」に登場するひとつの≪シニフィアン≫、われわれはその動きを追ってみよう。この作品の興味深いところのひとつとして、エピソードの並び方が時系列順ではなさそう、ということがある。つながっていそうなお話の、結果が先に語られ、発端が後に出ているようなことが、わりとある感じ。
そのような叙述の例としてわれわれは「日常」第1巻から、≪弥勒菩薩像≫というシニフィアンの動きを追う。

まず「日常」第1巻、『日常の2』(p.18)。ある朝の通学路、親友のメガネ少女≪麻衣≫に出くわしたゆっこ。
ところが、しらっと無視される。そこで心当たりのひじょうにたくさんあるゆっこは、ひじょうに多くのいろいろな件をあやまり、そしてちゃんとつぐなおうとする。
つまり、その前日に麻衣のお弁当のハンバーグを食べてしまったことをあやまり、つぐないとしてひき肉のパック(生)を差し出す、等々。しかし麻衣のシカト攻撃がやまないので、何を怒っているのだろう…とさらに考えて、そしてあることに思いいたる。

【ゆっこ】 もしかして おととい 麻衣ちゃんの 弥勒菩薩の首 折ったこと?
そのまま 勝手に 持ち出した こと? そのまま こっそり土に埋めたこと?
やっぱり考えなおして 焼却炉で燃したこと?

ここまでずっと食い気関係の話が続いていた後で、いきなり『弥勒菩薩』という話題の登場にはびっくりさせられたのだった。絵で見るとそれは、全高おそらく20か30cmくらいの木彫りの像で、有名な広隆寺の『半跏思惟像』を模したようなもの。また弥勒菩薩とは、56億年後に“すべて”の衆生をまるっと≪救済≫なさる予定の、たいへんありがたい仏さまらしい。

で、弥勒の件を言ってさえも無反応なのでゆっこは、『ね――っ』と言って、麻衣の肩を叩く。すると麻衣は振り向いて、長い髪に隠れていた耳もとからイヤホンを外す。
それを見てゆっこは、音楽を聞いてたせいで、いままでの声がぜんぜん聞こえていなかったのか…と考え、いろいろほっとする。ところが続いて麻衣は、『後半 初耳』と言う。ゆっこ、ぎゃふん(完)。
これは麻衣というキャラクター特有の出方で、彼女はいつでもポーカーフェイスのうちに、必ずや2段め3段めのオチを用意している。そもそも『ヘッドホンのせいでした!』なんてオチ方では、現代的なギャグまんがとしておそまつなわけだし。

それに対してのゆっこのボケ方が、≪解決≫への見込みもなく乱発されるのと、きわめて対照的。そのような麻衣のくせ者ぶりには、今後も大いに注意すべきだが。
がしかしいまの問題は、≪弥勒菩薩像≫だ。どこからそんなものが、この女子高生たちの『日常』へと割り込むことになったのか?

3. なんか すごい うれしそうな彼女!

弥勒菩薩半跏思惟像いや別に、初読のさいには、そんなことなど考えてはいなかった。だがしかし、それからちょっと後の『日常の6』で、さかのぼってそれが明らかになったことには、逆にびっくりさせられたのだ。
何せ『シュール』系と言われるようなものだけに、放り出すかと思い込んでいたので。ところがそうではないというところにも、また今作の非凡さを感じつつ。

で、その『日常の6』は、ゆっこたちの高校の朝礼のお話(p.51)。まずイントロで、ハゲ校長の飛ばすしょうもないおやじギャグに、ゆっこはへきえき。ところが麻衣は、同じものを聞きながら、口をおさえて『ププー…』と笑いをこらえている。
それを見て、『まさか 麻衣ちゃんの弱点が おやじギャグだったなんて』…と、ゆっこは思い込む。それが事実かどうかはともかく、そう『思い込んだ』ことにわれわれは、≪意味≫を見出しながら。

そして校長に続いては、気が弱いくせに生徒指導係の若い女教師≪桜井≫が演壇に上がって、生徒らに『指導』的な話をする。よく見ると彼女は、その胸もとに両手でしっかと、うわさの弥勒像を持っている(!)。
それからちょっと別の展開があった後、ふと思い出して桜井は、かんじんきわまるこっちの話題に移るのだ。

【桜井】 (両手で高く弥勒像をかかげ、)今日 私の下駄箱に 弥勒菩薩が入っていました
こういうイタズラをするのは いけないと思います!!
【ゆっこ】 うわっ 気持ち悪いな よりによって なんで弥勒菩薩 なんだろ
【麻衣】 (“なんで”なのかを、)わからない でもない

すると自首して出たのは、何とさっきのハゲ校長(!)。そして頭をかきながら、『いやー桜井先生が 誕生日だと聞いていた もので… そーですか弥勒菩薩は ダメですか――…』などと、グダグダおかしな弁明をしやがるのだった(完)。

と、そこにおける弥勒像の再登場にびっくりしたところで。またその次の弥勒菩薩の出番は、『日常の8』(p.75)。教室の机をはさんで、ゆっこと麻衣は、『たたいてかぶってジャンケンポン』などと呼ばれる遊びをしようとしている。
ところが麻衣は、そのルールがあまり分かっていないのか、やる気がないのか、どっちかでゲームが進まない。ひとり相撲を演じさせられてゆっこが嘆いていると、麻衣はとつぜんロッカーから弥勒像を出して、『もらった』と言ってゆっこに見せる。

【ゆっこ】 (モノローグ、)さっきの弥勒菩薩!!!
【麻衣】 (それを机のすみっこに設置し、)これを ここに… フフ
【ゆっこ】 (さいしょモノローグ、)なんか すごい うれしそーだ ……
も――!!! そんなん どーでもいーから やるよ!!!

すると次の勝負、麻衣は『グッチョッパ』という最強の手を出して、そして勝ったと自己判断し、ばちあたりにも弥勒像でゆっこの脳天をポカリ! これにゆっこは二重三重のショックを受け、涙ぐみながら、『グッチョッパなし!!! あと 仏で叩くのも なし――~~!!!』と、麻衣に言う。
で、さいご、ようするにやる気がないと麻衣が告白。そこでゆっこは、ついに『何か』をさとって、やがてこんなことを言ったのだった。

【ゆっこ】 (画面は校舎の外景、)弥勒菩薩 みていい?
【麻衣】 いいよ

というところで、このエピソードは『完』。すると推測するに、弥勒像の有為転変の運命は。

 【1.】 校長がどこからかそれを調達し、桜井の下駄箱へ。
 【2.】 桜井がそれを、朝礼でさらしものに。
 【3.】 麻衣がそれをもらいうける。
 【4.】 ゆっこがそれの首を折って、いちど埋めた上で焼却してしまう。

【2.】と【3.】の間のプロセス、麻衣は誰の手からそれを直接もらったのか、桜井か校長か…ということが明らかでないが、まあそれはいい。何を考えたか校長が、彼の学園に持ち込んだ弥勒像は、桜井や麻衣の手をへて、そしてゆっこによって焼却(=償却)されて終わったらしいのだった。

4. ムレムレのオヤジ性 と、≪娘≫たち

で、どう見てもこの≪弥勒像≫が、われわれが言う≪外傷≫的なシニフィアンであり。そしてはっきり申してしまえば、それは例によって≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを表す記号)なのだ。
それは一方で性欲のたけりを表し、また一方で理性や権威や父性的なものを表す、『両義性』もきわまった記号。そもそも女性の誕生日に、匿名のプレゼントとして弥勒像を贈るなんて、意味は分からないが『とにかくセクハラ!』…と受けとってまちがいない。そしてこの場合、校長のそなえたムレムレの『オヤジ性』が、その外傷的なシニフィアンによって示されているのだ。

ゆえに朝礼のお話のイントロで、麻衣が≪おやじ≫ギャグにうけてみせる、という前ふりが必要になってくるのだ。つまり校長が示しているムンムンのオヤジ性に対する態度が、桜井はネガティブ、麻衣はポジティブ、そしてゆっこは両義的。
で、その弥勒像に対して両義的なゆっこが、さいしょは事故にしても、そのファルスのシニフィアンである弥勒像の首を折って≪去勢≫を執行し、さらには埋めた上で焼却(=償却)してしまう。…何ゆえの去勢なのか、なぜ彼女によってなのか?
そのあたりに、また何か意味があるような気もする。その去勢の仕打ちは、校長に向けられたものか、麻衣に向けられたものか、あるいはその両方なのか…。

かつまた。分析的な視点をはずしても、神仏の像を壊す・埋める・焼却するということが、ふつうにショッキングな描写だ。日本の例だと土偶に対する処し方を思い出すようなところで、するとこれは、民族的・神話的な≪外傷≫をえぐり返しているギャグでもあるのだ。

というわけで、われわれの議論があたたまってきたところだが。けれども記事がずいぶん長くなっているので、このひじょうに注目すべき作品、あらゐけいいち「日常」については、またいつか再び見ていくことに…っ!

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