2010/11/09

佐藤秀峰「ブラックジャックによろしく」 - ≪父の隠喩≫を求めて

佐藤秀峰「ブラックジャックによろしく」
佐藤秀峰
「ブラックジャックによろしく」
 
関連記事:ラベル「海猿」
参考リンク:漫画 on Web「ブラックジャックによろしく」, Wikipedia「ブラックジャックによろしく」

モーニング掲載の社会派医療劇画、「ブラックジャックによろしく」。これは累計1000万部以上を売り上げた大ベストセラー作品だそうなので、説明みたいなことははぶいて。
で、この作品のさいしょのシリーズが現在、オンラインコミックサイト『漫画 on Web』(*)にて無料公開されており、それで筆者も一読する機会を得た。そして以下は、備忘のための走り書き。

これはご存じのように、主人公≪斉藤英二郎≫が研修医として、大学病院の中のさまざまな課に配属され、それぞれの場で問題にぶち当たって悪戦苦闘するお話だが。その中でとりわけ筆者に興味深かったのは、モーニングKC版で第9~13巻の『精神科編』だった。

1. 『病気を持った人間』、彼たちとのおつきあい

なぜそこかというと。もともと筆者が精神医療に興味があるという点、これがまず大きいけれど、あとひとつ思いあたるのは。

今作のヒーロー斉藤くんには、全シリーズ冒頭のエピソードを除き、『いかにも医師っぽい技能』を見せて活躍する場面が少ない(半人前だから!)。『よろしく』と言っても、あまりブラック・ジャック的でない。手術どころか、注射をする描写さえもめったにないようだが…。
その特徴が、とくにこの『精神科編』で、きわまっているのだ。きょくたんに形容すると彼は、ただ見守りしながら病棟を見学しているようなもの。ゆえにこの『精神科編』は、シリーズの中でもきわだって、われわれしろうとがヒーローに共感をもって見やすい部分なのでは。

そして以下に、読んで気がついた点だけをメモっておくと。

まずこれは21世紀のお話として、1980'sまでのような強制収容所ばりの、暗黒の精神病棟を描いたものではない。そうではあっても、いまださまざまなレベルの拘禁や拘束の存在していることが描かれている。かつ、いまだ社会に精神病への偏見が根強く存在していることも。
そしてベテラン記者の≪門脇≫は病棟周辺を取材し、新聞ジャーナリズムを用いてその偏見を打破できないかと模索しているが、しかし社内に存在する壁にぶち当たっている。
そして斉藤を指導する医長の≪伊勢谷≫は、それこれの万事を病棟内だけの問題とは見ていない。彼はいっそのこと精神病者たちを、そっくり社会に返してしまった方が、と考えている。荒療治だが、しかし『隔離』こそが差別偏見の元凶と見るからだ(第10巻, #93)。

【伊勢谷】 患者は 病院に飼われた 羊でもなければ……
社会に出すと 危険な狼でも ありません……
病気を持った…… 人間です――

ゆえに、まるごとぜんぶをケアという名目で管理すべきではないと、彼は考えるのだった。まずは保護的な観点から、もっともっとケア(=管理)すべきでは…と考えていた斉藤くんも、やがて伊勢谷に感化されていく。

で、このシリーズでは主に、≪統合失調症≫の患者さんらが描かれるのだが。お話をいちおうリードしている伊勢谷の描くその病像は、いたってニュートラルだ。それがざらにある病であり、原因は不明だが『自他の境界』あたりの認識を失調させるものであり、予後はそれほど悪くない、と、何度も語られる。
つまり彼には、統合失調症(分裂病, スキゾフレニー)に対してよけいなイメージをかぶせていく態度がない。彼が言っていないことまでもつけ加えれば、その病者たちは羊でも狼でもないのに加え、全人類を代表して苦悩している聖者らでもないし、まして哲学やポエムの題材でもない、ということ。

そして。ここでもうお話の本筋を離れるようだが、今作に描かれた患者さん、若い男性と女性2人について、ちょっと筆者は気づいたことがある。
描かれた2人のライフヒストリーを追っていると、いずれもその父親のところに目立たざる大きな欠落、存在感の過剰な『なさ』がある。まず男性の≪小沢≫については、その父親に関する情報が、何とまったく出てこない(!)。女性の≪小百合≫は、たぶん中学生くらいのころに両親が離婚し、その後は母親の側で育っている。
かつこの2人が、自分の父を語る局面がまったくない。それで、ひょっとすると彼らは、≪父≫に対する明確なイメージを、いまだ形成出来ていないのでは…と考えそうなほど。

これを小さくないポイントと筆者は感じるけれど、ところが伊勢谷は、そんなことを気にしてはいない。というか、彼は病因論などはほとんど語っていない。『ほとんど分からないが、しかし遺伝の要素は明らかにあるもよう』くらいに言うばかりで。

2. なくてはならない≪父の隠喩≫を求めて

ところで。『こういうものだ』と言いはる気はないのだが、ジャック・ラカンによる『精神病』の病因論においては、≪父≫に関するイメージ(隠喩としての父、象徴的な父)がちゃんと機能しているかどうか、ということが、ひじょうに重要だ。

――― C.カリガリス「妄想はなぜ必要か - ラカン派の精神病臨床」より ―――
『神経症の父の隠喩は防衛の機能を保証してくれます(中略)。何に対する防衛なのでしょう(中略)。例えば、貪り食う母親に対する防衛と言うことができるでしょう』
(原著・1991, 訳・小出+西尾, 2008, 岩波書店, p.37-38)

ラカン派の精神科医であるカリガリス先生が、ここで言う≪神経症≫とは、何と『常人』の言い換えだ。そして、神経症者(=常人)ならぬ精神病者においては、言われた『防衛の機能』が存在しないので、彼たちの心は『貪り食う母親』(的なイメージ、おぞましきもの)に対して無防備である、ということ。

その『隠喩としての父』とは、必ずしも実の父に関連している必要はなく、むしろもっと大きな、何らかの父性的なものをさしている。よく母たちが子どもを叱って、『お父さんに言いつけますよ!』と言う。これ的なおしゃべりに表れているもの、それこそが≪父の隠喩≫だ。問題は父本人のパーソナリティや言動だけではなく、そこから家庭や社会が描いている≪父≫のイメージなのだ。
とはいえ、じっさいの父親に何か目立って不十分なところがあるということは、少なくとも発病の因子のひとつたりえよう、とは考えられる。

かつまた精神病者の妄想を検討すると、『なくてはならない父の隠喩を求めつつ』の妄想形成、というものが浮かび上がってくる。『オレは南朝天皇家の末裔である』とか、『CIAがボクの脳波を傍受している』とか、そのような妄想の典型例があるが、そのどちらもが≪父の隠喩≫を求めてのものだ。
(…細かく言うと、天皇家の例はパラノイア的な妄想で、CIAの例は統合失調症的。詳しくは、前掲カリガリスおよびラカン「精神病」をご参照)

そうした妄想のある状態の方が、≪父の隠喩≫がまったく存在しないよりは、彼らにおいてはまだしも苦痛が少ないのだ。彼らにおいては、『父が分からない』ということ、『自分が分からない』ということ、この2つがイコールだからだ。で、このような妄想の発生を、『排除された父の隠喩が、現実界に回帰する』などと言う。
そして今作「ブラック・ジャックによろしく」の『精神科編』で描かれた患者2人、その妄想や幻覚についても、この説に符合するところが大いにありそうに思う。

とはいえ、残念ながら、いまあまり検討している時間もないので…。ただ、今作の描く統合失調症の病像について、わりとラカン派の精神病論に沿っている面があるのではなかろうか、とだけ指摘して、この走り書きを終わる。

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