諫山創「進撃の巨人」は、昨2009年から別冊少年マガジン掲載中の話題作。2000年後の未来らしき世界に、何の理由もなく身長50メートルの兇暴な巨人らが現れて、人間らを捕食しまくるというお話。で、その描写がねちねちとものすごい、という評判で。
そして筆者はその第1巻(KC少年マガジン)を見て、それを『黙示録的』とふつうに呼ぶにしろ、そこに何か21世紀的な新しい発想があるのかも…と感じたのだった。
とは、どういうことかというと。『何の理由もなく』という不条理さが印象的な今作とは異なり、『20世紀的な黙示録』と呼べそうな作品というものは、根も葉もないところからの破滅、ということは描かないものだった。
そういうものの元祖かと考えられるH.G.ウェルズの大古典SF「宇宙戦争」(1898)は、ご存じのように『火星人の地球侵略』ということを描いたさいしょの作品だが(*)。が、それの以前に、当時としての科学的な『火星人存在説』というものがあって、そこから出てきているものでありかつ、そうだからこそ大きな社会的反響を呼んだのだった。
ちょっと話をそこから飛ばして、五島勉「ノストラダムスの大予言」が大ベストセラーになった1973年から、「MMR マガジンミステリー調査班」の1999年の完結まで、さまざまな黙示録的イメージが、人々の娯楽に供されたものだが。宇宙人の襲来でなければ核戦争、環境や生態系の激変および崩壊、マインドコントロールによる独裁、カルト宗教によるテロリズム…と、いろいろなものがそのメニューにのぼったが。
しかし、じっさいにあるかどうかを別とすれば、これらは『まったくありえないようなこと』ではない。いちおうのもっともらしさがあるものと、いまはそれを見て。
そしてこうした『20世紀的な黙示録イメージ』というものを事後的に集約しているまんが作品は、浦沢直樹「20世紀少年」(1999)だ。その特徴として、(科学的に)まったくありえないようなことは、描かれていない。そういう意味で言うと、そのいちばんさいごに超科学兵器が登場することには、ちょっとがっかりしたが。
にしてもそれは、『20世紀的な黙示録イメージ』にひたりすぎた作中人物らが、21世紀にそれを現実のものにしようとする…そんな暴挙を描く作品ではあった。その題名に出ている『20世紀少年』とは何ものかって、『20世紀的な黙示録イメージを内面化しすぎたやつら』、というわけでもあった。「20世紀少年」については、また別のところでふれたいつもりだが。
それに対し。今21世紀に出てきている黙示録的なまんが作品というと、奥浩哉「GANTZ」(2000)、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)、という2作がぱっと脳裡に浮かんだのだが。そしてその2作の描く世界の危機には、『20世紀的な黙示録イメージ』のようなもっともらしさは、ない。
20世紀のそれがあくまでもこの世界、この次元に内在する危機だったのに対し、21世紀のその2作は、別世界や別次元に起因する危機、というものを描いているようなのだった。『ふってわいたもの』、という感じがするのだった。よってそれらの描く危機について、『不条理な』という形容詞をつけたくなるのは、そんなにおかしい感性でもないのでは。
かつ、その「GANTZ」と「ぼくらの」という2作について、作中の危機への対応に関連し、『ルール』ということばが目だっていることが、筆者には印象的だ。『ルール』が存在するからには、その生死をかけた闘いが、一種の『ゲーム』だということろう。
で、その『世界の存亡をかけたものとしての≪ゲーム≫』という発想が、筆者をも含む『20世紀少年』らの頭の中にはないものなのだ。かつ、その「GANTZ」と「ぼくらの」における『もっともらしさの“なさ”』という特徴について、『いわゆる現実』との対応のなさについて、『それはゲームだから、システムの上のことだから』という言い方は、いちおうできそうだ。
ところがその2作の描く『ゲーム』とやらのあんまりな不条理さが、いま逆に、われわれのマインドにヒットしているのだ。ふしぎとそれが、われわれにとっては『リアル』なのだ。で、それはなぜなのかということは、いずれ考える必要ありげ。
そうして話題を、「進撃の巨人」にまで戻し。その作品の描いている破滅には、『ありうること』という感じがまったくない。設定まわりに『リアリズム』というものが、からっきしない。さらには「GANTZ」と「ぼくらの」に見られた、『ルール』ということをからめてのリアルさの演出、という特徴すらない。
そうだとすると、われわれはこのきわめてプリミティブな物語を、何らかの心理的なことと解したくなるわけだ。何か心理の問題が、象徴的に描かれたものであろう、と。まさにその意味で、その物語は『悪夢的』だ。
そしてそういうこととすると、この物語は、≪他者≫に対する不安を恐怖に描き換えたものなのかな、という気もしてくるのだった。別にそういう読み方を、自分がしたい、というのではないつもりなのだが。
その物語の主人公である少年少女らは、巨人らの侵入を防ぐために作られた城塞都市の内側に、『引きこもって』生きている。やがて彼らが編入される巨人対策部隊は、常ひごろ『タダメシ食らい』として、ふつうの市民らからバカにされている。
ところがそこへ、前よりもさらに強力な巨人が襲ってくると、彼らには立ち向かうすべがない。で、その巨人らの風貌がわりと、単なるそこらのオッサンたちを多少グロっぽく描いたものかのようで、そんなには化け物っぽくないのだった。
と、こういうふうに言ってしまうと、『(可能態として)引きこもりやニートであるような青少年らからは、世間がどのような場所に見えているか』ということを、今作は象徴的に描いているような気もしてくるのだった。そうしてそれが、われわれの中の≪不安≫を形象化してくれているものなのだ。
つまり人間らの中に≪不安≫というものがあるものとして、「宇宙戦争」から「MMR」にいたるような20世紀的な黙示録らは、それをびみょうにも『科学的な世界観』と関連づけて形象化しようとしている。ノストラ某の大予言なんてものをも、いずれは科学の内側にくりこまれるものかと見つつ。そしてこの営み自体を対象化したところに、『“本格科学”冒険漫画』との副題を付された「20世紀少年」のような物語が成り立つ。
続いた21世紀の黙示録である「GANTZ」と「ぼくらの」は、その同じ不安を根も葉もないような不条理な危機として描きつつ、作中の人々はそれへと『ルール』を介して対処する。その物語らのリアリティを支えているのは、不条理なものであるにしろ『ルールが存在する』、ということだ。
さらにわれわれが見ている「進撃の巨人」には、もはや『科学』もなければ『ルール』もない。その不条理な創作を素朴に支えているのは、『不安が、単にあるのではなく、形象化されねばならない』という情熱かと筆者は見る。
そしてそういうことを、もっとスマートな創作として描いているのは、もちろんわれらが支持してやまない≪不条理ギャグまんが≫でありつつ、さらには中山昌亮の傑作短編ホラー「不安の種」シリーズだ。ところが面白いと思うのは、≪不条理ギャグ≫にしろ「不安の種」シリーズにしろ、社会の内側からその外側への≪不安≫を描く。しかし筆者の見方によると、「進撃の巨人」ではそれが実質のところで裏返されている。そこだ。
だいたいのところ、この作品の「進撃の巨人」という題名にはおかしいふんいきがある。ふつうの感性で今作に題名をつければ、「“襲撃”の巨人」とでもなるのでは。ところが『“進撃”の巨人』というからには、物語の視点が巨人らの側にもあるわけだ。このことが追って、何かを意味してきそうな気もしつつ。
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