2010/10/13

浦沢直樹「20世紀少年」 - 中年コンビニ店長のみるドリ~夢

浦沢直樹「20世紀少年」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「20世紀少年」
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ほとんど誰もがご存じの作品「20世紀少年」シリーズゆえ、この記事はごあいさつや説明ぬきで。

どういうお話かもご存じかと前提しているが、こちらの都合に即したご説明をいたす。まず、物語のさいしょでケンヂくんは、フリーダムな反体制ロッカーになろうという夢やぶれ、つまらない中年独身男性として、はやらないコンビニの店長として、まったくつまらない生活を送っている。

それがおかしい事件のせいで、まずはそのコンビニが焼失してしまう。それでケンヂくん一家は、いわばフーテン同然の身に落ちるのだが…。
しかし、そこは考えようだ! むしろそれによって、もはや彼はコンビニ店長のつまらない生活を送る必要がなくなり、悪どもに追われる反体制ロッカー兼地下活動家となって、『夢にも見たような』スリリングな日々に身を投じるのだ。
で、この時期の地下アジトの生活が、彼たちが幼時に秘密基地ですごした至福の時間を、びみょうに再現しているもの、ということも明らかそうでありつつ。

それから例の決定的な大イベントが生じ、でっち上げにしても彼は、人類の敵呼ばわりされるハメになる。ただし筆者にもよく分かるが、何でもない人間よりは『人類の兇悪なる敵』の方がよっぽどカッコいい、という感じ方もある。
単にあるというか、大ありだ。ご存じのようにケンヂくん『もまた』、幼時のお遊びで、『いかにして人類を破滅に追い込むか?』を、大喜びで考案していたのでもあり。根っからの正義漢というわけはぜんぜんなく、ヒーローと悪のボスが入れ替わり自由な世界のお遊び少年という性格は、ケンヂくんにもその敵手にも、まったく等しくあるのだった。

で、この後はちょっと(かなり?)ネタバレっぽいことを書く感じなので、未読の皆さまは、ぜひご注意されたい。

その『人類の敵呼ばわり』の時代をずっと寝てすごしたようなケンヂくんが、やがて荒廃しきった世界に復活。そこで彼は、ロックスター兼救世主っぽい存在になり上がる。
が、そこまでに才能のなさがさんざんアピールされていたようなケンヂが、どうしてそこで老いぼれてスターになってしまうのか? ここを筆者は、大いにふしぎと感じた。
そういえば、ケンヂが寝ていた時代のエピソード。彼の残したテープを聞いて、『こんなんじゃぜんぜん』と、元ディスコクイーンのお婆さんが、タコを料理しながらダメを出す。そこまでをすなおに見てきたつもりの筆者は、ごく自然と、そのご発言に共感できたのだったが。

で、説得力があるかどうかは別として、『あれごときがなぜスターに?』という個所に、『理由』のようなものはある。
なぜって疫病の大流行のせいで、他のもっとまともなミュージシャンたちが、みんな死んでしまったから(!)。だからその疫病という要素は、まったくむだなくストーリーに寄与していると言える。目的論的に、ということばを使いたくなるまでに。

それからさいご、悪の首魁らしかった人の退治がすんで。晴れてケンヂくんは、30年くらいごしの恋を実らせる。念願のロックスターにもなれた。あとおまけとして、何か唐突に出てきた感じの幼時のトラウマを、どうにか解消することもできた。
で、その『幼時のトラウマの解消』の手段があまりにもバーチャルだったので、筆者はびっくりしながら苦笑したが。だがしかし、いまはそこにはつっこまないことにして。

と、見てくれば、もはや筆者の申し上げたいことは、賢明なる諸姉兄にはお見通しであろうかと。
つまりこの「20世紀少年」のお話は、細部をとばしてその根幹のところを見れば、“すべて”がケンヂくんの思うつぼなのだ。ゆえに、はっきり言うなら『“夢”なのだ』、と申し上げたいのだ。

フロイト「夢判断」(1900)にいわく、『夢は願望充足である』。これは、必ず妥当すべき正しいテーゼだ。ただし、『いろんなおかしをおなかいっぱい食べる』とか、『美女(ら)を相手にやりたいほうだい』とか、そのようにストレートな夢を、まともな大人らはみない。
そうじゃなく、いろいろにごまかしながら願望充足を実現するのが大人のやり口なのだ。cf. フロイト『イルマの注射の夢』。かつ、主体が充足したい願望はしばしば抑圧されたものなので、そこでお話と表現はひねりにひねられる。そうなので主体は、夢をみて『願望充足』というところを自覚できない。
つまり、自分の考えたお話の≪意味≫を、自分が意識できない。その意味を知り、そのお話を愉しんでいるのは≪無意識の主体≫だ。

だから、われわれが見てきた「20世紀少年」の壮大なストーリー。それについて、むざんに言いきってしまえば、『ロックスターになる』・『正義のヒーローとして活躍し崇拝される』・『あの娘とハッピーに結ばれる』、少なくともこの3項目の願望を充足すべく、その結末に向かって逆算しつつ、ケンヂくんがアイディアをこらしてひねくり出したもの、そのようにわれわれは受けとってよい。
あとおまけとして、とってつけた感じの『幼時のトラウマの解消』。作中でケンヂくんは、それをバーチャルでイージーに解決しているわけだが。そしてこの『バーチャルで解決』という方法を、われわれは今作の全編にわたるもの、と受けとってもよいわけだ。

よって筆者の知っている、「20世紀少年」の真の結末はこうだ。そうしてすっかり幸せになっちゃったケンヂくんの肩を、誰かが叩く。
…『ちょっと店長、何カウンターで居眠りしてるんですか!』。その怒鳴り声で目ざめると、そこはおなじみのコンビニで、目の前には例の怖い営業マンがいる。そうしてケンヂくんは、おなじみのまったくつまらない日常に復帰する。
そういうわけだが、しかし。ルイス・キャロル「アリス」シリーズの描いている結末たちは、今作においてはさわやかに省略されている。

そして、ケンヂくんに負けず劣らずのつまらない生活を送るわれわれもまた、それぞれの『ここ』で目ざめる。というところで筆者が思ったのは、施川ユウキ先生が示された、『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』というテーゼなのだった(*)。
そしてそういう意味では、≪アリス≫だってほんとうに目ざめたのではない。目ざめているのは、彼たちではない、われわれだ。

と、そんな見方がすべてとも申し上げないが。しかしそのように読める、ということが否定されそうな気も、まったくしない。
かつ、さっきわれわれが『とばした細部』こそが面白いのだとは、言うまでもない。この作品は、面白い。なお関連記事には、今記事とはまた少々異なった見方が出ているので、ぜひご参照をお願いしたい(*)。いまはこのくらいで。

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