2010/03/15

金田一蓮十郎「ジャングルはいつもハレのちグゥ」 - 密林の中の≪テーバイ王家≫

 
参考リンク:Wikipedia「ジャングルはいつもハレのちグゥ」

作者・金田一蓮十郎センセの1997年のデビュー作にして、最大のスケールを誇るシリーズ。構成がよく分からないがお話の途中から「ハレグゥ」と改題されて、それぞれ全10巻出ているとかどうとか(ともにガンガン・コミックス)。

で、どういうお話かって。空想的な設定のジャングルの中の村、ヒーローの≪ハレ君≫と母との2人暮らしの家に、身寄りのない女の子≪グゥ≫が引き取られることに。で、さいしょ一瞬だけしおらしく振るまってたグゥだったが、実はこれがとんでもないしろもの! その本性は、妖怪変化か悪魔のごとし! そしてハレ君一家とジャングル一帯に、グゥの演出による不条理と疑心暗鬼の大うずが巻き起こる…ッ!

とま、そんな感じかと。これはおそらく名作と言われてるものなのだが、けれども筆者は現状のところ、さいしょの2巻までしか読んでいない。読めないのだ。
なぜって言い訳を申すならその内容が、≪外傷的≫というにも自分にはコワすぎる、ヤバすぎるッ…との理由によって。

何せ『外傷的ギャグまんが』というしろものであれば、それを読んでの拒否反応…てのはとうぜん大いにありうることだ。そして今作の内容がとくべつに悪趣味すぎる…とも言いがたいのだが、しかしそれは筆者のとくべつ痛いところに触れてくれたようなのだった。よけいなことかも知れないが、筆者の自己治療か何かのために、感じたことを書いておこう。

まず、グゥの特技が『まる飲み』であり、そしてその胃の中はおそらく異次元か何かで、そこでは呑まれた人らが平気で暮らしている。…こんなのは耐えられない! 恐ろしすぎ!
そしてその恐ろしき現象の存在を知ったハレ君もまた恐怖に襲われ、自失して壁に頭をぶつけながら、『長い夢だなぁ(中略)早く目ェ覚めないと』…などと悲惨なことを言う。この状態をナレーションは、『頭で理解した 事実を体全体で 否定する 少年』…と言う(第1巻, p.46)。よくもゆってくれやがッたモノで、『頭で理解した事実を体全体で否定する』とは、われわれの申している≪神経症≫の定義に他ならぬ。
ついでにグゥの挙動のワケ分かンなさに触れすぎたハレ君を、ナレーションは『現実がわからなくなる 少年であった』…と言うが(第1巻, p.184)。で、そのように≪現実≫が、分からなくなる、分からないものとしてのそれに気づく…ということが精神分析の始まりでありかつ、≪狂気≫とのふれあいの始まりでもあるのだった。はっきり申してこの作品は、われわれの方から見て、うがちすぎだしエグりすぎだッ!

かつきもち悪いといえば、この作品世界には≪ポクテ≫と呼ばれるふしぎな動物、『食用うさぎ』と呼ばれるものがそこら中に登場する。これはどういう動物かというと、見た目はへんだがひじょうに美味であり、しかも心やさしく知性ありげで、遭難した人を助けたりするという。
それこれによってポクテは、『神の使いでありつつ大切な食料源』なのだそうだが。しかしそのルックスのおかしさとあわせて、どうにもうすきみ悪い存在としか思えず。そして『神の使いの心やさしい動物を食用にする』、という神経が分からない。しかも、

 『あまりにも ポクテを食べ すぎると
 その仲間から 逆襲される』(第1巻, p.92)

などといううわさ話までがあるときては…! きも~!

で、話を戻し。そのようなグゥの存在に対してハレ君が、むりにでも慣れたような気分になったところで。こんどはハレ君らのガッコに超ナンパでイケすかねぇ男が保健の先生としてやってくる。で追って、何とこれが、ハレ君の実の父親だと判明する(!)。
向こうはハレ君ができたことをまったく知らなかったが、心当たりは『すっげーある』、ということなのだった。10年前に遠い都会で、たったの15歳だったハレ君の母を、こいつは手ごめ同然にどうかしたらしいのだった(!)。

しかもこのイヤな男、ハレ君の母によれば『ルックス(の良さを)取ったら ただの性格破綻者』(第1巻, p.169)というヤツが、再びハレ君の母に言い寄ってくる(!)。そして、イロケ過剰で酒にも生活にもだらしない彼女は、へたすればそいつとよりを戻したりしそうなのだったッ(!!)。
いやァ言うなれば、この物語の主人公たるハレ君の父親は、DIO様のお父上(えっと、名前が…ダリオ・ブランドーか)にも匹敵するくらいな、ロクでなしでヒトでなし…てことらしい。するとハレ君もいずれは父親を謀殺し、その墓にツバをかけて野望の旅立ちへ…。なんて展開もあるか?…とも考えたが、しかしそんな境地にまでは追いつめられてもいない。

それは、グゥとの関係にても“同じ”ことだ。ハレ君はグゥを気味悪く思って怖れてるし、彼女が、自分とその好きな女の子≪マリィ≫との間に割り込んでくるにもムカついてはいる。がしかし敵は、『もうガマンできない!』というところまでは彼を追いつめて来ない。
かつ、彼がとうぜんいちばんの頼りにしてる母はグゥをふしぎと気に入ってるので、彼はもろもろの状況をブチ壊しにはできない。そうしてなし崩しに、ハレ君が暮らしていた≪日常≫は異常化していくのだ。

ここで少々分析的な見方もすれば、ハレ君を囲んで3人のキーになる(気になる)女性らが存在し、そのそれぞれが≪“現実”的な女=グゥ≫、≪“象徴”的な女=母≫、≪“想像”的な女=マリィ≫、という機能を持っているようでもある。
(めんどうなことを申すがラカン用語として、“現実”=わけの分からぬキモいもの、“象徴”=すじ道や規範を示すもの、“想像”=好きかってなイメージ、という感じ。この3つを≪ラカン3界≫と称し、それらは合わさって人間というものを表す)

しかし一部の機能不全により3界のバランスが失調しているので、ハレ君は『不安』の高まりという症候をきたしている。≪想像≫は期待通りのイメージにならないし、≪象徴≫たるべきものは規範を示してくれないし、そしてグゥという女=≪現実的なもの≫ばかりが、ズズズィ…と彼へと迫ってくるのだ。
かつ、あまり言い張りたくないことだが、息子に対して≪規範≫てものを示すべき父親が、ハレ君においては『ただの性格破綻者』であり。そして今作の特に冒頭あたりで、ハレ君とその母との間に近親相姦チックなムードがあることにも注意がなされるべきであり。
で、その異常化していくハレ君の生活を見るに筆者は忍びない、こちら様の≪テーバイ王家≫の悲劇のケツ末を見届けたくはねェ…というのが、自分の正直なところなのだった(テーバイ王家は、われらがオイディプス君の家系)。そうするとグゥの役回りは、≪オイディプス=ハレ君≫になぞをかけまくるスフィンクスというところか。

と、さいしょに筆者が『自己治療』と記したように。こうして字で書いてみると多少は状況を客観視できてきたようなので、いずれ今作を読むことへの再ちょーせんがないとも限らない。

…とまでの堕文を、昨2009年の夏に書いていた。追って筆者はきもち悪いのをがまんして、「ハレグゥ」の第7~8巻あたりまでは目を通した。だがそこまでに、お話というか散漫ぎみなお芝居(?)は展開しているかも知れないが、テーマ的な深まりは特にないようだった。
そこまでをも見た上で、どうも筆者はこの作品を、『ギャグまんが』とは受けとれないようなのだった。これをつまらないとも思わないが、確かに≪何か≫を描いた作品だとは思うが、しかし笑えるところが多いという気はしないのだった。≪不条理≫系のギャグまんがというものは、そういうふうにも読まれてしまうものではある。

【追記】 2010/03/17。以下は今作を読んだものなら、誰でもうすうす感じていそうなことだが。グゥのきもち悪く恐ろしき行状のあれこれは、ハレ君に対しての単なるいやがらせ、ただの悪ふざけ、なのではないようにも思われる。それはむしろ一種の求愛(!?)、『“現実的なもの”としての女』を愛せよ、という意味のパフォーマンスなのかも知れない。
そういえば、ハレ君から見てのグゥは、ふだんはひじょうにへんな女の子だが、またあるときには光り輝く美少女だ。そしてその見え方の変化はハレ君だけが感じるところらしく、つまり『グゥが何ものであるか』を決定しているのは、意外とハレ君の側の態度や感じ方かも知れないのだ。

かつ。筆者にはよく分からないところだが、グゥはおそらく『成功したまんが作品のヒロイン』として、読者層の人気者なのでもあり。そしてなぜ彼女が(きもち悪いのに!)一定の人気を集めているかと考えたら、それが女性の一面、女性が『現実的なもの』でもあるという事実を表しているから、なのではなかろうか?
別の言い方をすれば。今作は少年誌の掲載作だが、女性らにも人気を博したと伝えられており。そうしてこれを読む女性らは、まったくもってわけの分からないグゥという存在に、自分の中にもある≪何か≫を見ているのではなかろうか?
で、そうして『女性というなぞ、“女の欲望”とは何か?』という問いをいきなりつきつけられた未熟な少年は、『不安』に苦しみ神経症を病むくらいしか対処のしようがなくて、ずいぶんかわいそうなのだが…っ!

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