2010/02/19

吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」 - ≪触手≫ と 私たち

 
参考リンク:Wikipedia「悪魔と俺 特盛り」

前に見た「あきそら」に続いての、ももいろ路線のご紹介。この吉川英朗「悪魔と俺 特盛り」(MFコミックス, 全1巻)はどういうお話かというと、どうでもいいようなフリーター(?)であるヒーローのところに、悪魔のプリンセスが押しかけ妻としてやって来た、というような…。
はい、またまた出ました、「うる星やつら」(1978)もどき。で、その路線のファンタジーラブコメとして、今作特有のセールスポイントは…。
それは悪魔のヒロインが、自分の手下のモンスターを人にけしかけるのだが、逆に自分がからまれてしまう。比喩でなく、『からまれて』しまう。
いわゆる≪触手系≫のグロテスクきわまる化け物によって、ヒロインが毎回ぐちゃぐちゃに凌辱されてしまうのだ。そして、大ゴマ、見開き、クローズアップ、等々と見せ方を変えながら延々と、そのこっけいな惨事が描写されまくる。それが、今作の毎回の山場であり見せ場なのだった。

近ごろまんが界のすみっこで、こういう『ニッチ』の需要に特化しすぎている作品らが、びみょうに目立たなくもないな…という気がする。今作の≪触手≫に対抗して、篠房六郎「百舌谷さん逆上する」の≪ツンデレ≫とか、そういうの。
いや別にそれらをけしからんとはまったく思わなくて、“誰か”がそれを愉しんでいるならオッケーなのだが(…「百舌谷さん」については、いつか別稿で検討したい)。

また。この場では18禁の話題は控えたいんだけど、しかし『2ちゃんねる』のエロゲー板というところは、スレッドのタイトルだけを見ていても面白い。いやむしろ、その『スレタイ』たちが面白い。それらを見ていて、『そんな奇妙な性的嗜好が、あるもんなのッ!?』…というサプライズがひじょうにすごい。ご紹介しないが、それらはあまりにも超ピンポイントで、『ニッチ』どころのさわぎではない。

また。精神分析の機能について、比喩で言ったら『ゴミ捨て』や『排泄』、そういう見方はまったくふつうにある。最初期の症例報告集「ヒステリー研究」(1895)に記録された≪アンナ・O(仮名)≫は、それを『煙突掃除』と呼んだ。そして彼女を診ていたブロイアー医師が、その『煙突』のススをかぶったはずだ。
で、この現代において『どうしようもない話』をする相手をもたない人々は、その『どうしようもない話』らを、2ちゃんねるやそれに類するところに『かきこ』し。そうして何とか、心の中のゴミ的なものを処理している…というわけなのだろうか? いや別にひとごととは思っていなくて、ここでの筆者の≪行為≫もあんまり変わらないし。

で、そこらで見られるようなびっくりのユニークすぎる性的嗜好らに比すれば、いまどき≪触手≫は、とくべつに目新しくはない。触手・ふたなり・寝取られ・そして近親相姦といった題材らは、いまどきふつう気味…などとうかつに述べてしまった後に、自分は思わず頭をかかえる。あまりにもあれだし、いずれも筆者には、あまり。
とまでを見てからわれわれは、今作「悪魔と俺 特盛り」のあからさまな最大のモチーフたる≪触手≫というものを、ちょっと検討してみよう。それは、≪何≫なのか?
てのも。無粋ながら筆者にはそれがちっとも『来ない』ゆえ、なぜこんなふしぎな趣向があるのか…と、ずっと疑問に思っていたので、このせっかくの機会に。

まず。ここで申している≪触手≫という趣向とは、タコやイソギンチャクが巨大化したような化け物が、その無数の触手で女体をさんざん性的に辱めて、それを(画面外で)見ている男性が興奮する。そのようなものとする。
で、その触手たちは『ペニスの象徴』なのであろう…なんてことを、書いてて筆者はつい噴き出す。『言うもさらなり』にしてもあんまりで、こんなところにフロイト様の出番はない。まだ、ない。大物は、ラストふきんで登場する。
さて気にするべきこと、この惨事において『行動』をしているのは化け物だけであって、犠牲者の女性や目撃者の男性らは、『反応』をしても『行動』はしていない。かつ、この触手の化け物らには、高度な意識や言語能力は『ない』のが一般的らしい(今作も、その路線)。
するとそこでは、何らかの無人称な『もの』が、言うなれば『オートマチック』に、女体をどうにかしている…という感じがある。

そして何の関係もなさそうだが、宇多田ヒカル「オートマチック」は、1998年のヒット曲だそうで。その題名を聞いたときに筆者が、『テクノっぽい曲なの?』というかん違いをいたしたことを、別に恥ずかしいとは思っていない。当時は≪テクノ≫が、びみょうにもはやっていた時代だし。
だが。そうとはしたって、愛(欲の行為)のエクスタシーを『オートマチック』ということばで表現する感性が、テクノやインダストリアルの文脈にのったものでは『ない』ということを、筆者は逆にふしぎだと感じたのだった。

そして、『オートマティック』に女体がじゅうりんされる、というイメージが、なぜある種の男性たちには『来る』のだろうか? ここでハードコアポルノということを考えると、まさに『オートマティック』に、その鑑賞者たちの意思には関係なく、画面内で性交的なことが遂行される。
そこでいわゆる≪疎外≫をこうむっている主体の存在を、≪触手≫という趣向は明示化しているようにも思える。そしてそんなような世界には『ギャングバング』とかいって、すごい本数のペニスが1つの女体をどうにかするような趣向が、あるらしい(!)。それがまた、≪触手≫という趣向にシンクロしているものかなあ、と考えつつ。
かつ並行し、≪寝取られ≫という趣向がまた。それは他者たちの≪享楽≫を見ている、というよりも他者たちの≪享楽≫によって見られている、そのような主体の≪疎外≫を、そこで明示化しているものではある。このことは憶えておいて。

ところで女性の側も見ておくと。今作「悪魔と俺」のヒロインについては、実のところ彼女は『触手プレイ』が大好きなので、そこでことさらに自縄自縛で自作自演のショーを演じているのだ、としか考えられない。そうと見なければ『逆に』、あまりにもお話がわけ分からなすぎる。

 『りゃめぇぇえっ… すごいの… いっぱいすぎてぇえっ…
 ふにゃあぁあぁぁ~っ へんになりゅうっ ふぇあぁあぁぁっ』(p.130-131)

しょうがないな…まったく。
しかしだが、そんな女性が『いる』ものなのか?…という点が、1つの考えどころだ。

逆の作例を、1つ提示。少年チャンピオンの掲載作、マツリセイシロウ「マイティ・ハート」(2007)の正義のヒロインは、男の悪党どもからセクハラされがちで、そしてそのときに生じる≪羞恥≫のエネルギーの大爆発で、敵を倒す。悪党どももそのしくみは分かっているのだが、しかしセクハラはやめられない(…)。
そのようなわれらのマイティ・ハートが、大ダコの触手で責められるエピソードがあった。これも一種のセクハラか、と思われながら…。
ところが彼女はその危機について、『羞恥ではなく快感でもなく≪嫌悪感≫しかないので』、気の毒にいつもの奥の手が使えないのだった(!)。『これはほんとうかもなあ』と、筆者はそれを読んで感心したのだったが。

けれども。マイティ・ハートは目撃者の存在を意識していないが、その一方「悪魔と俺」のヒロイン≪シフォン≫は、常にわざわざヒーローの見ている前で凌辱されて、そして『そのこと』を悦び愉しんでいるのだ。さきに引用したしょうもないセリフも、ヒーローに向かって言われているのだ。
すると彼女は、ただ単に触手が好き、というのとは異なるような感じもしてくる。

そこで考えてみるとシフォンは、≪大文字の他者≫を挑撥するために、その≪享楽≫を愉しんで『見せて』いるのかなあ…という気がしてくるのだった。≪大文字の他者≫とは、『常に主体を見ていると想定された存在』、くらいを意味するラカン用語だが。

いや別に大したことは言っていなくて、人間は独りでいても『自分の中の他者』が自分を見ているという、そのていどの話で(…としておいて)。そうしてシフォンのまなざしは、その≪大文字の他者≫とヒーローとを重ね合わせに見ているのだ。
はっきり言うならシフォンの求めるところは、ヒーローがその意思で彼女と性交を行うことだ。けれども彼がそれを遠慮しやがるので、そこでシフォンは触手プレイを鑑賞させて、彼を挑撥している(!)。しかしその挑撥がまったく成功しないので、作中のドタバタが続いている。

…ふつうのラブコメのヒロインだったなら、ちょっと短いスカートをはいてみせることで、ターゲットの男子を挑撥したりするようだが。そのようなところへ凄絶な触手プレイの実演をもってくるというのが、悪魔っ娘の発想のすごいところなのか?
ところでなのだが≪大文字の他者≫への挑撥は、成功しない、むしろ必ず意図されざるところに流れ弾としてヒットする…という法則を、筆者は以前に発見している。現に今作においても触手プレイの実演は、まったくもってヒーローの心(かどこか)には響いておらず、画面の外から関係ないものがそれを見て悦んでいるばかりだ(!)。そうしてまっとうなラブコメにおいても、そのようなヒロインの意図的な挑撥は、けっしてストレートには成功しない。

おや? それを言ったら今作は、流れとしては『まっとうなラブコメ』と、そんなに変わらないことになってしまうが…?
いや、じっさいそうなのだ。今作こと「悪魔と俺」は、『触手をフィーチャーしたラブコメ』に他ならない。触手をとったら大して何も残らないような作品でありながら、ふつうに『実用』されているような『触手もの』とは同じでない。
そこで『また』、そのこっけい味が生じている。ポルノとしたら失敗作になっているということが、バナナの皮にすべって転んでみせている具合いで、今作をびみょうにも笑えるコメディにしてくれている。

(補足。つまり、こういうことで。“誰か”である≪他者≫が常に自分を見ていると、シフォンは思う。その他者とは作中のヒーローであるべきだと、やがてシフォンは想像する。そうして『常に見ているもの』と想定されたヒーローを彼女は挑撥してみせるが、しかしじっさいに見ているのは、ヒーローではないただの≪他者≫に他ならない。
こういう現象は、まんがの外側にもあるふつうのことだ。他者は他者であって、主体の想像の外側にそれは存在している。このように他者の存在を前提として成り立っているのが、精神分析は1つの唯物論である、と言われるゆえんだ)

そして、話を戻し。他者の≪享楽≫の『目撃者』であるところのわれわれは、ただ単にその≪享楽≫から疎外をこうむっているのか、そうでなくむしろ≪大文字の他者≫(の代理)としてその魅せものを受けとっているのか、という問題がありそうだが。
それは、『どっちでもある』としか言えない。「悪魔と俺」のヒーローになったつもりで考えてみれば、それは分かることだ。
『テーゼ:≪大文字の他者≫への挑撥は、必ずや見当違いの第三者にヒットする』。そして『目撃者』たるわれわれは、≪大文字の他者≫の場所と≪第三者≫の場所とを、いわば『量子論的』に行ったり来たりする。
つまり。挑撥的なカッコで彼の気を引こうとしたラブコメのヒロインは、挑撥がすぎて彼にはスルーされつつ、関係ない男(or 触手)にからまれる。そこへさっそうとヒーローが救出に現れ、『分かってんだから、もうそれはよせ』的なことを言う←ハッピーエンド。けれども見ているわれわれのマインドは、その彼の場所とあの彼の場所とを、『量子論的』に行ったり来たりしている。ここでイエス・キリストの論法を借りるなら(?)、レイプの危機がちらとでも描かれたことは、じっさいにレイプが描写されたことと同じだ。

ふしぎだが『それはどっちでもある』ということは、≪触手≫でなくとも、ヤング何とか誌の巻頭の水着グラビアに見入っている男子の心理を考えてさえ、分かることだ。南国のビーチサイドで何かを愉しんでスマイルしている水着美女、見るものはその愉しみから疎外されている。
でありながら彼は、その水着美女の視線が『他ならぬ自分を見ているのだ』、その『わがままボディ』とやらは自分へと向けてさらされているのだ、といった錯覚から逃れえない。そのように錯覚できない場合には、それは『興奮できない、萎え』ということとイコールだ。
ただし、彼は完全なる錯覚におちいっているのでもない。興奮のさなかにも疎外の自覚は失われず、そして疎外されていることは、彼を≪無責任≫にしてくれている。この無責任さ、状況に対して第三者であることが、またなぜか愉しいところなのだ。フラットに言うならそこで彼は、『参加しつつも第三者である』。

ここまで、ずいぶんと長い堕文になりつつあるが(申し訳ない!)。ようするにポルノグラフィーというもの一般が、受け手を疎外しつつ同時に彼らを興奮させている。そしてこの状況を『やたら先鋭に明示化している』のが、≪触手≫であり≪寝取られ≫なのかなあ…という気はしてきた。
するとそれらの趣向は、『おかず』業界のヌーヴェルヴァーグ(?)でもあるかのように、『それを見ること』、『それを見る人』、というものをしつように描いているのかも知れない。ゴダールをはじめとするマニア兼ディレクターのフランス人たちは、『映画、それを鑑賞する人』というものをやたらと映画で描き、そして一方の≪触手≫や≪寝取られ≫は、ポルノ鑑賞者の特有の孤独と≪享楽≫に等しいものを、ポルノ作品の内部に描いてみせている。

かつ書いてきたら≪触手≫とは、その『無人称&オートマチック』で女性を凌辱するしろものとは、ここまでに言われた『第三者』であり、すなわち実体となった≪大文字の他者≫なのかなあ…という気もしてきた。
つまり今作に即して言えば、シフォンが自らを見せたい存在と、じっさいに彼女を見ている存在とが異なり。そして彼女の想像のらち外にあるものとしての後者が、≪触手≫として描かれているようでもある。

ところでなのだが、ここから少々、視点を変えて…。

触手というものがウネウネしまくっている「悪魔と俺」を見ていて、『何か似たようなものを知っているな』と感じた。何かと考えたら、それはメドゥーサ。メドゥーサの頭から生えている、無数のヘビたちのウネウネだ。
そうとすれば、われわれはここで、フロイト「メドゥーサの首」(1922)という論考を見ないわけに行かない。だがちょっと計算違いでその本が手元になかったので、記憶とかにたよってその論旨の一端をご紹介すれば…!

まず、ヘビとか(触手とか)いうものが、ごく一般的に『ペニスの象徴』として機能する、と見た上で。しかしそんなものが大量にウネウネしている場合には、異なった意味作用が生じる。
その大量のウネウネは、逆に≪去勢≫を象徴するものとなる。そこに集積されているのは、すでにちょん切られたものらだということ。そうして≪メドゥーサの首≫は、無数のウネウネにふちどられたその大きな口は、恥毛の生えた成人女性の性器を象徴するものでもまたあり、よって『去勢するものとしてのヴァギナ』という意味作用を発揮する。
で、その恐ろしいヴァギナとは、けっきょくは母親のヴァギナでありつつ(!)。そしてメドゥーサの首を見るものが石化する、硬直するとは、それを見るもののペニスの勃起を表す、というのだった。

分かるのだけど、分かってよいのか…という感じだ。≪去勢≫の恐怖に直面しているものが、ペニスの勃起という反応を返す、というところが特に。
いつもそうだがフロイトの議論には、『ににんがし、にさんがろく』…という感じのすなおな展開を、していないところがある。特に抽象度の低い議論にて、それが顕著だと感じる。だがしかし、論理じゃないようなその迫真性によって引き込まれる。そして、けっきょく人間らは論理的になど考えない、という事実も見ねばならないし。
しかも、それをご紹介している筆者の論にもまた、たぶんけっこうな飛躍がありつつ(!?)。ま、そこらの議論のつながり方は、後日また確かめようと思うけれど。

で、メドゥーサに対する≪触手≫のモンスターもまた、他者を去勢し、自らは去勢されないような存在と考えられる。ただしそれが女性を襲って凌辱するのは、メドゥーサにはなさそうな性格ではある。
そうするとそれは、メドゥーサの首がつまりは『母の性器である』、というのとは違う感じかも。むしろそれはフロイトが「トーテムとタブー」に描いた、すべての女たちを独占して≪享楽≫をほしいままにする、かの去勢されざる兇悪な≪原父≫のようなものなのだろうか?
しかしその≪原父≫には、さきに見た≪触手≫の、『無人称&オートマチック』で機能する…という性格がない。

ならばいっそ、主体の中から彼の≪欲動≫自体が飛びだして、主体の代わりに目的の女性を凌辱しているのだ…と言いたいような気もしてくる。そしてそれまた、主体が≪疎外≫されている、と言える状態であり。
さもなくば、『触手モンスター&犠牲者の女性』が1セットで、≪メドゥーサの首≫に対応するものなのか…という気もする。それぞれがいずれも、≪享楽≫と≪去勢≫をあわせて指し示しながら、主体を見返すものではあり。

そして、そうこうではありつつ。触手イベントの目撃者もまた、メドゥーサの首を見たものと同様に、≪去勢≫の恐怖に直面しながらペニスの勃起という反応を返す。これは、比喩でなくそうなっているものと考えられる。
そして、そこではむしろ勃起の条件として、≪去勢≫の恐怖が演出されなくてはならない(!)。何しろ『触手もの』の1つの見どころは明らかに、どれだけグログロで醜悪な恐ろしいモンスターが描かれているか、というところにある。
われらが見ている「悪魔と俺」でさえも、ほんとうにグログロでたまらない。がしかしその愛好者たちは、それの見た目が弱々しかったり、描き方が淡白だったりしたのでは、たぶんなっとくしない。
で、筆者の感じだと。男子らが一生背負い続けるとされている≪去勢不安≫という不安は、何によってどうなるのか分からないので≪不安≫だが。しかし去勢する化け物らが出ている現場では、対称なき≪不安≫が、対象を持つ≪恐怖≫へと書き換えられている。ここにも意味があるのかな…とも、考えるのだった。

それやこれやと、考えて。そしていろいろ申し上げて、何かかすっているような気はするのだが。しかし『触手とは?』という問いに対して、あんまりきれいな答が出ているような気がしない。…あんまり!?
けっきょくは『ふしぎだ!』と、再び嘆息せざるをえない。触手を見ていて興奮しない自分が、『なぜに触手で興奮する人がいるのか?』、という問いに答えようとしたことが、すでに失敗だったのかも知れない。≪ふたなり≫というお題の方がまだしも解明できそうなので、そっちを書いた方がよかったかも?

それにしても…と、おかしなことを告白すれば。中学生時代の筆者の愛読書は、フロイト「精神分析入門」とマルキ・ド・サド「悪徳の栄え」だった。そんなだから、いかなる変質的な趣向を聞いても、びっくりはしないはずだと考えていた。
ところがいまや、筆者はある種の人々のさまざまな≪性癖≫に、びっくりさせられっぱなしなのだ。これこそ『後生畏るべし』ということなのか、それにしても人間はふしぎだ…と、「悪魔と俺」の恐るべき画面に再び失笑を返しながら、自分は思うのだった。

【追記】 2010/02/23。読み返してみると、筆者のフロイト読解の切れ味は甘い、甘々だ。すなわち。
人が『去勢の恐怖』を感じるのは、刃物とかを持った兇悪なものに向かったとき、だけではない。そうではなく、目の前に『すでに去勢をこうむった者』が現前したとしよう。するとその去勢された(弱々しい、みすぼらしい)被害者の存在は、≪去勢≫という兇行がありうることの証明として作用する。
だからヴァギナというものが、『兇悪だから恐ろしい』記号だというわけでは、必ずしも『ない』。そういう風にそこらは読まなければなるまいが、これについては読解も何も、やはり記憶に頼ってのご紹介にはムリがあった!

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