2010/10/07

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」 - その、見苦しくも腹立たしい雄姿

衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「舞勇伝キタキタ」, ガンガンONLINE「舞勇伝キタキタ」
関連記事:衛藤ヒロユキ「魔法陣グルグル」 - 無礼禁ッ、ダ・リアル・オ~ルドスク~ル!

まあその、ダンスミュージックとかのインパクトを受けて生きている自分としては、『踊らない人間』というものがいまいち好きになれない。それは何でかな…と考えたら、ダンスという行為が特に意味もないけれど、ともかく肯定的なものである、そこがいいのかな、という感じ。
だがしかし、さいしょの発言を裏返して『自分は踊る人間が好きだ』、とはきっぱり言いきれないのが、われながらふしぎなところだ。特にこの、いまからわれわれが見ようとしているスーパーまじかるダンサー≪キタキタおやじ≫について!

このキタキタのおじさまを、まったくご存じない方は少ないはずとは思うけれど、少しだけご紹介。彼はもともとは、1990'sのファンタジーギャグまんがの大傑作「魔法陣グルグル」のわき役。つるっぱげのジジイで常に半裸のダンスコスチューム(!)、彼の出身地の伝統芸能『キタキタ踊り』の後継者さがしのため、勇者らの旅についてくる。
で、このオヤジによるキタキタ踊りというものが、見たらこっけいさを通り越して不ゆかい千万きわまりない。本来はもっといいものらしいのだが、しかしオヤジはそのよさを人に伝えることができない。
ところがオヤジはそれが伝わることを確信しきっていて、『機会があれば踊ろうと、常に考えておりますぞ!』などとぬかし、そしてそのポリシーを実行しまくる。そうして彼のイヤすぎる大きな存在感で、作品世界を無法に席巻しようとするのだ。

しかもこのオヤジは常人とは思えぬ超タフネスを誇り、ダンスにおいて疲れを知らないどころか、バトルのまきぞえで魔物にやられてもすぐケロっとしている。その最大HP(ヒットポイント)は50000とかいう、とほうもない数値もどこかに出ていたようで。
また彼は≪アドバーグ・エルドル≫というりっぱな本名を持っていて、その地元には地位も財産も家族もそれなりにあるらしい。かつ、ことばがきれいで性格は明朗で、常に物ごしがていねい。…が、そうしたキタキタの特徴らの“すべて”が、なぜかむしょうにわれわれをイライラッとさせるのだ。

そしてその奇妙な存在感の大きさを活かしくさり、この21世紀に今度は主役として(!)、堂々とふっかつしやがったものが、この「魔法陣グルグル外伝 舞勇伝キタキタ」という作品なのだ。ムカつくがいちおう説明すれば、このしろものはWebのガンガンONLINEで掲載中(*)、単行本は第2巻まで既刊(ガンガンコミックスONLINE)。

 ――― 「舞勇伝キタキタ」第1巻, カバー見返しより ―――
 『みなさんの熱いリクエストが特に無い中、
 ついにキタキタおやじが帰ってきました!
 見苦しくも腹立たしい
 オヤジの活躍をごらんください!』

ドガ「舞台の踊り子」で、そのお話のプロローグを見ると。前作のヒーローらによって魔王は封印されたけど、あいかわらず魔物の脅威の残る世界で、孤児のチキ君13歳は、新たな勇者たることを志す。
そして彼は、勇者伝説の中にチラチラと出ている『キタキタ』というなぞワードに注目。よくわからないが、たぶん勇者に関連する重要事項だろうと考えて、軽率にも『それ』を呼び出してしまう!

そうして降臨したキタキタおやじの、ハイパーなキモさとウザさと毛ズネに直面し、チキ君は『とんでもない 変態だぁ~~っ!!』と叫ぶ。それで集まってきた村人らが、『けしからぬ変態め!!』などときめつけて、ジジイをろうやに押しこむ。
ところが次の夜、ろうやを脱出してまでキタキタは粘着的に、チキ君が寄宿している村長の家を急襲! と思ったらそこにモンスターまでが出現してきて、超てんやわんや! そしてオヤジは、彼のハードでアグレッシブな踊りのインパクトによって、軽ぅ~く魔物をやっつけてしまう!(第1巻, p.21)
その快挙を知った村人らは態度を一転、『あなたは 英雄だ!』とキタキタを賞賛。ところがオヤジはそれを強く打ち消し、『ただ踊りを見せようと していただけですぞ!』的に言いはって、そして自らろうやに戻っていくのだった…!

かくてこのクソオヤジは、変態と呼ばれることも欲さず…そこはふつうだが、かつまた英雄と呼ばれることをも欲さない。ただ一介のダンサーであろうとし、そしてその踊りを生涯かけて、伝え広めようとしているのだ。
その崇高さをきわめた雄姿を目にし、思わず筆者は感涙にくれた! そうして自分の脳裡には、原始人らの炎を囲んでの群舞から、中世・ルネサンスの民衆のダンスへの熱狂、そしてベルリンの壁の崩壊(1989)をもたらしたアシッドハウス大旋風、といった眺めらが次々にフラッシュ。そうして人類がダンスにかけてきた欲求と情熱の“すべて”が、このキタキタおやじによって象徴されている…かのような気もしたのだが。

だがしかし、そうかと言ってもキタキタ踊りがこっけいで見苦しく、そしてこのオヤジがうっとうしさきわまる、という事実には何の変わりもないッ!
そういえば筆者はフレッド・アステアを超リスペクトしているが、一方のわれらがキタキタおやじは、その20世紀最大のダンス・ヒーローのあり方をくるっと裏返している、という見方もできそうだ。その熱きパッションと献身ぶりにおいては等しいのに、しかしアステアと異なってオヤジの踊りは、人々をげんなりウンザリさせる役にしか立たない。

ミュシャ「サロメ」なお。ダンスの世界には『見せるダンス』と『参加して楽しむダンス』の違いがある、とは言われている。前者の典型はバレエや能楽の舞であり、後者の典型はダンスパーティや盆踊りだとして。
けれど、阿波踊りに『踊るアホウと見るアホウ』がいるように、両者の中間的なものもある。そしてオヤジは、そのブサイクな踊りをたっぷりと見せつけた上で、参加して愉しむことさえも迫ってきやがるので、ほんっっとうにしまつが悪いっ。
ただし、≪ギャグ≫に関することらは“すべて”が両義的だ。すなわち、キタキタ踊りがひじょうに見苦しいのは、そのムーブうんぬんよりも、まずオヤジの見苦しさがきわまっているせいかもしれない。かつそのキタキタおやじにしたって、見ようによってはびみょうにカッコよくないとも言い切れない…とは、すでに申し上げたようなことで。

で、筆者といっしょにチキ君もキタキタにうっかり感服してしまい、うかつにもオヤジを連れとして、勇者修行の旅に出てしまう。『うかつ』にしたってほどがある! しかもオヤジの思わくはとうぜん異なり、うまく誘導してチキ君を、キタキタ踊りの後継者にしてしまいたいのだ。
追ってこいつらが第1回のクエストに突入し、そしてダンジョンの中。疲れきったチキ君が仮眠している横でオヤジは、何らかの書きものを。…自分が寝てる間にマッピングでもしていたのかと思い込んで、チキ君は心を打たれる。そして彼が覗き込むと、オヤジが書いていた文字は…。

   キタキタキッズ
 ×キタキタ2世
 ?キタキタコヤジ
 ◎キタキタわらし

ななっ、何とオヤジはダンジョンの奥底で、キタキタ・ダンサーとしてのチキ君の芸名を考案していやがったのだ(第2巻, p.44)。プロデューサー気どりか! しかも、『いちばんイヤな案に 決まりかけてる~っ!!』と、少年は大ショックをこうむる。

 【チキ】 勇者のはずが キタキタわらしって うわぁああっ
 (…と叫んで少年は、その場から『だっ』と逃走!)
 【おやじ】 あっ キタキタわら… …チキ殿!!

と、まったくこいつらが噛み合っていないのだが。けれどもオヤジのキモさを強力に押し立てて、ふしぎと彼らはクエストに成功し続けるのだ。ただし既刊分を読んだ限り、オヤジのたまらないウザさが印象に残るばかりで、一方のチキ君が勇者っぽく成長しているような感じがほとんどないけれど…!



さてだ。そんなキタキタおやじの『ヒーロー』としてのあんまりな両義性、それに対するわれわれの感情の矛盾や葛藤が、≪笑い≫という肉体の反応へ、うんぬん。…といった分析めいたことは、このごろ言いすぎなので今回は言わないで。
なお分析っぽい観点から、一般ピープルが愉しむ踊りは『性交の代替行為』であり、そしてすぐれたダンサーらの見せる踊りは『性交の象徴化』だと言われる。そして後者の営為は、人間らの性欲を芸術へと≪昇華≫する。ところがオヤジの所業ときたら、昇華された芸術のつもりでマスターベーションを見せつけているに等しい(!)、といったことも言えながら。

…さてだ。ここでは前作「魔法陣グルグル」に対しての今作「舞勇伝キタキタ」、両者の感じの違い、といったことを述べていったん終わりたい。

まずはここまでの、巨匠・衛藤ヒロユキ先生のご創作の流れから。シリーズ前作であり大傑作だった「グルグル」が、その後半からあまりさわやかにも笑えないような『鬱展開』と難解さに流れがちだった…とは世に言われ、そのような感じは筆者も受けた。
そしてそのふんいきを残した2002年の「がじぇっと」(ブレイドコミックス, 全3巻)は、見ていてあまり調子に軽快さがない。というか、ギャグまんがっぽさに乏しい。それがうれしくも、2008年からの今作、並びに「週刊わたしのキモいペット」(同, 全1巻, 2009)あたりで、大復調されたかと見ているのだが。

ただし筆者は今作「舞勇伝キタキタ」について、シリーズ前作に比したら軽快で軽妙すぎる感じもあるな…という印象をもいだくのだった。いや、作風なんてものはいずれ自然と変わってくるものなので、それをネガティブにだけ見ているのではないけれど。

つまり。前作の「グルグル」については、そのヒロインとヒーローがほんとうに未熟で頼りなくって、見ていて『こいつらは死ぬんじゃ?』という危惧が、おぼろげにもはっきり感じられた。特に第2巻あたりまで、ひじょうにそれが。いずれモンスターによって喰い殺されるか、それ以前に荒野かダンジョンでかってに野たれ死ぬか…。
そして、そのような『死ぬかも?』のスリルを前提としてこその、「グルグル」の脱力ギャグだったのだ。かつそのスリルは、当時の衛藤ヒロユキ先生のシロートっぽさ、かつ掲載誌の少年ガンガン自体が創刊直後でいろいろと未熟、という背景らをも合わせてのものであり。

ロートレック「カン・カン」ところが今作「キタキタ」について、人物らが『死ぬかも?』などという危惧は、さっぱり感じられない。キタキタおやじが永遠にそのキモさをキープし続けそうな勢いとともに、内容やふんいきに安定感がありすぎる。
ついでに申し上げて、何せ『オヤジ』がヒーローをつとめくさっているだけに、前作にあったような全般の『初々しさ』という感じがまったくない。また、前作のヒロインとヒーローが、けっこうなまいきで気まぐれで扱いづらいガキだったのに対し、今作で活躍する少女と少年は『いい子』すぎるきらいあり。特にヒロイン格の≪ルータ王女≫は、あろうことかキタキタ踊りをキモいと思っていない(!)。

しかし、時代の変化が作家を変え、その語り口をも変えていくことはしょうがない。そういえば今作には、前作にあったテクノとかヒップホップとかの、時代の中でとがった要素らを盛りこんでいく、というしかけも見あたらない。

もうひとつ、そういえば。さっき前作「グルグル」について、ウツで難解な部分の存在が指摘されたが、それは序盤に目立った『ギャグの背景に存在する死の不安』と、おそらく同根のものなのだ。いずれも作家の『青さ』が出ている部分なのだが、しかしウツの要素はあまり歓迎されなかった、というわけだ。
で、いまやそうした『青さ』を卒業され、堂々とそのペンをふるっているように見える衛藤先生。あまりとがった要素がなくなった分だけ、その叙述はひじょうになめらか。
ならばそのご創作は、もっともっと『児童まんが』であった方が、まんが界全体に対してもよいのではなかろうか…と、筆者は今作「キタキタ」を見て感じたのだった。

すなわち、児童まんがのギャグ部門ですごい作品が、初代「グルグル」以後、「絶体絶命でんぢゃらすじーさん」くらいしかない、それでは大いに困る…ということは関連記事のさいごで申し上げた。で、筆者としては衛藤ヒロユキ先生が、再びそれをやってくれても、と思うのだ。

ところが実作の「舞勇伝キタキタ」は、それっぽい感じをも有しつつ、むしろ児童まんがの悪質なパロディを演じているようなものだ。ルビがない点もどうかと思えるし、そもそも単行本のカバーが劇画調(?)のジジイのピンナップで(!)、よせばいいのにその乳首まできっちりと描いているなんて、逆に子どもよけとしか思えないし!
そんなんだと今作は、≪介護≫ということが大テーマになりそうな今後のニッポン国に対し、やったら元気すぎな高齢者のイカすお姿を提示する…というものになっていそう。と述べてみたら、なぜか「でんぢゃらすじーさん」にも、それと似たようなテイストがあるわけだが。

とま、今回はそんなとこで。そして、どうであれゆかい痛快、かつ見苦しくも腹立たしいこの作品は、いっそ衛藤ヒロユキ先生のライフワークであってよし(!)。そしてオヤジの『活躍』とともに、われらの希求する永遠のダンスビートもまた、強くしなやかに脈動し続けるがよし! ムーブ・ユア・バディ、アンド・ダンス・トゥ・ザ・ビート!!!

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