2010/08/09
久保保久「よんでますよ、アザゼルさん。」 - いつでもどこでもギャグマンガ!
参考リンク:Wikipedia「よんでますよ、アザゼルさん。」
話題の作品「よんでますよ、アザゼルさん。」は、2007年よりイブニング連載中のギャグまんが。悪魔を使役する町の探偵≪アクタベ≫と、その助手のバイト女子大生≪さくま≫、そして悪魔≪アザゼル≫らが演じるドタバタを、劇画っぽい画風で描く。題名中の『よんでますよ』とは、仕事にまったく気乗りしないアザゼルを、アクタベたちが召喚してるの意。単行本は、イブニングKC第4巻まで既刊。
これについて、自分の興味あるところだけ紹介して、スパッと終わってしまおうとする。…なぞの人であるアクタベ探偵の呼び出す悪魔に、いつも出てるのが2匹いるのだが…。
そのまず1匹は、題名に出ているアザゼル。彼は現世ではちびっこいイヌのような姿になっており、話し方は関西弁で、その言動は下品とセクハラのかたまり。で、その悪魔としての特殊能力は、『淫奔』。任意の人間の性的魅力を、超きょくたんに高めるようなことができるらしい。
そのもう1匹は、『蝿の王』として有名なベルゼブブ。『魔界の貴族』を名のる彼は、人間界では18世紀風に正装したペンギンの姿になっており、ことばもきれいでものごしは紳士的。がしかし、その本質は便所バエ! …あまり説明したくないが、ようするにたいへんなるスカトロ変態者に他ならない。で、彼の特殊能力は、『(いつでも即時、)強制的に生物の脱糞を促す』。
と、するとだ。われらがアザゼルとベルゼブブの活躍するところ、いつでもどこでもエロとスカトロのカーニバル空間になりうる(!)。あらゆるシチュエーションであらゆる人間どもが、出し抜けにもうれつにさかったり、必死でケツを押さえながらトイレを探して駆けずり廻ったり…というシーンを拝むことが可能となる(!)。
という、そのことを想像してちょっとはゆかいになれるような人でなければ、たぶんギャグまんがなどを読んではいないだろう。永井豪「ハレンチ学園」(1968)以後のギャグまんがのあり方を、『チンコ-と-ウンコ』という2大シンボルに集約させる大胆な見方があるが、これはそのさわやかな行き方を、ちょっぴり大人っぽいアプローチで描いた作品かと見れる。
(どうでもいいようなことも付記しておくと、『チンコ-と-ウンコ』のそれぞれをラカン用語で言い換えれば、『ファルス-と-“対象a”』。だからどう…ということをいまは申さないが、それらがきわめて重要な概念らしいのだった)
でまあこの作品、そうした『チンコ-と-ウンコ』がばくはつしてる的なところは、ひじょうに面白いと思う。がしかし、まいどいちおう『お話』になっているこの作品の、エピソードの終わり方が、まいど後味よろしくない感じも? いちばんさいしょの物語にて、アザゼルのとんちで超むりやりに依頼を解決したさくまが、まさに『後味わるい――』と叫んでいるように。
(第1巻, p.23。『夫の浮気をやめさせて』という妻からの依頼。アザゼルが魔力で夫を性的不能にしたので、浮気は止む。がしかし、その不能が原因で、やがて夫婦は離婚してしまう!)
悪魔どもの活躍はアナーキーとカオスの大ばくはつを志向しているけれど、しかしその飼い主のアクタベは、きわめて現世的なところに、表面的には『依頼を解決した』というかたちに、ドタバタの落しどころを設営しようとするのだ。そしてアクタベは、よくもはっきりとさくまに向かっていわく、
『悪魔の力を 借りても 幸せになんぞ なれん』(同)
…するとアクタベは常に、“知っていて”クライアントらに見せかけの解決を与えているでしかない。言わば、『催眠術的』に。
まんがの世界で、一方にアナーキーとカオスの発生をドカンと描いてさわやかに終わっちゃうギャグまんがもあれば、またその一方に、とほうもないことを無理やり『いい話』にまとめている作品もある。そして今作「よんでますよ、アザゼルさん。」は、いやな意味での大人のリアリズムをギャグまんがの世界に持ち込んで、そこで毎回のお話をまとめているのだ。
すなわち、闇のヒーローであるアクタベは、善人か悪人かという以前にまずビジネスマンであり、そして『可能ならば、“チンコ-と-ウンコ”からでも利潤を引き出す』、という資本主義の理念を貫いているのだ。『チンコ-と-ウンコ』が大暴走することは反社会的なのでショッキングかつゆかい…と考えるわれわれ、その裏をまんまとかいてくれやがるのだ。
これをパンクロック的に申すなら、21世紀の『偉大なるロックンロールのペテン』、カオスからキャッシュをつかみ出す超荒わざの再現かッ(!?)。で、そういうまったく『大人的』な視点の顕示されているところが、今作独自の味わいではあるかと。
なくもがなの追記。今作の第1巻を買ったころ、筆者はふつうに、『作者さまのペンネームは久保保久、くぼ・やすひさ』…とだけ思っていた。それで読み方は合ってたみたいだが、しかし『名前が回文』というシャレの存在には、しばらく気づけなかった。…おニブだからっ!
もひとつ。今作の第3巻の末尾あたり、悪魔と悪魔っぽい人のたむろする探偵事務所のつとめに疲れたさくまが、大学のオタクサークルにからんでコスプレメイドのアルバイトを…というお話あり。しかし筆者はそこらを見て、『おたく様たちのキモさを笑うという方向性は、ギャグまんがとしてはチープ!』、と感じた。はっきり申せば、『またかよ』と。
でもまあ、そこでも作品の姿勢は一貫してて、つまりキモオタ様らはひじょうにキモいけど、しかし大した悪ではない感じ。が、それに対する悪魔連は、キモさを通り越している上にりっぱな悪である、と。
しかもそうでありつつ今作は、どちらかといえば悪魔どもの側に、読者の共感を誘っているふんいきがある(!)。それはショッキングなことだが、しかしおかしくはなくて、なぜなら≪悪魔≫とは、いつでもいわゆる『人間性』の側によりそうものだからだ。
すなわち。≪悪魔≫のお話を追っているつもりで、いつしかわれわれは、自分の中のどん欲・怠惰・ごうまん不そん…等々というものを見せつけられてショックをこうむり、かつ、そこに生じてしまったありえざる共感を≪抑圧≫する。それはそういうものなのだが、しかしその説話パターンをギャグまんがに描いた先行作がちょっと思い出せないので、やはりこの創作はユニークだと言える。
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