2010/08/15
横山了一「極☆漫 ~極道漫画道~」 - “本当のワシら”は、乙女じゃけん!
参考リンク:Wikipedia「極☆漫」
今作のタイトル「極☆漫 ~極道漫画道~」の読み方は、『ごくまん・ごくどうまんがみち』。2009年から月刊少年チャンピオン連載中のギャグまんが、単行本は少年チャンピオン・コミックスとして第1巻が既刊。
物語のヒーロー≪鬼ヶ島香≫は40歳の男性(独身)、ガシッとした体で眼つきは異様にするどく、ボーズ頭に鼻ヒゲ、ようするにルックスが超こわもて。そしてその見かけのまんま、彼の職業は武闘派暴力団『鬼ヶ島組』の2代目組長!
ところがこの人物には、知られざる第2の面あり。というか本人の言うによれば、『本当のワシ』という秘密のパーソナリティがあり。
いさいをはぶけば、ようするに『本当のワシ』とは≪乙女≫なのだ。花とドレスとスイーツ(笑)と少女まんがを熱愛する『本当のワシ』は、さらに≪ローズマリー香≫というペンネームで少女誌『花とまめ』に作品を投稿中(!)。特に仕上げがうまいらしい香は、彼のオモテの商売道具のドス(短刀)を用いて、トーンの『削り』を巧みにこなすのだった。
そして、そのローズマリー香が投稿者として格を上げ、やがて担当編集がついて、版元の『白湯社』にも出入りするようになる。しかし編集者は、電話ごしに香が男性だとまでは知ったが、まさかヤクザとは思わない。ゆえに彼の出現は、『理由がぜんぜん不明だが、少女まんがの世界にヤクザが押しかけてきたッ!』というショックでしか、受けとめられない。
そこで必ずドタバタ劇が生じてしまいつつ、しかし香は、ふしぎにちゃんと原稿を届けたり、プロのアシスタントをつとめおおせたり、版元のパーティに行って憧れの大作家のサインをゲットしたり…と、まるでサクセスロードを着々と歩んでる感じ(!?)なのがゆかい。題名同士が似ているだけにジャンプの「バクマン。」に対抗している感じもありつつ(!?)、そのゆかい&強引なお話の運び方は、ぜひとも実作でご覧いただければ。
ところでなんだが今作「極☆漫」について、これを読んで愉しんでいる“われわれ”すべては、それぞれが≪乙女≫なのだということは言える。香はキモいが、しかしただ単にキモいだけだったら、今作には読者がぜんぜんいなくなる。その姿が、ひそやか&ささやかにも『共感』を呼んでいるのだ…と見ないわけにはいかない。
さらに、物語の最初から香は、ランクが同じくらいの投稿者≪カモミール京子≫をライバルとして意識しているのだが。そうしてお話が進んだところで、鬼ヶ島組と対立する組織のボス≪龍ヶ崎京≫というこれまた顔の怖い男性が登場してきたとき、一瞬で『こいつがカモミールか』と知れる意外性の“なさ”に、われわれはむしろ驚く。
(香×京子のエピソードの続きをちょっと書いておくと、投稿者同士の2人が意気投合したことにより、組織同士も和解と協力関係に進む。そしてハッピーかと思ったら、しかしその合作は、ヤクザ世界の勢力図および警察関係に、激甚なるインパクトをもたらす! 香にしろ京子にしろ、“オモテの仕事”のヤクザ稼業を、そんなにうっちゃっているわけではないのだった)
と、そんなことを言っている筆者は、世紀の変わり目をはさんで約10年間、わりと熱心なりぼんの読者だったのだが。何でそうだったのかって、当時の自分が≪乙女≫だったんだろうな…と考えないわけにはいかない。それがいまでは、自分の中の乙女が衰弱してしまったらしく(泣)、少女まんがを読んでも『お話』として読めるだけだ。
また一方で、ちょっとアングラっぽい世界に、『百合』とか『ふたなり』とかいう趣向もある。かつまた、男子が読むための『ショタ』とか『男の娘』とかのジャンルも、びみょうに盛り上がっている感じ。そしてこういうねじくれた趣向らのすべては、つまるところで『オレは乙女である、オレはかわいい』という無意識の認識をさしている。ちなみに筆者のメイ言に、『萌えオタは萌えキャラである』、というテーゼもあってはみたり。
そういえば、また。今作の第1巻の結び近く、香たちを飛び越して≪斉藤ネロリ≫という新人が、『花とまめ』からデビューする。その完成度に圧倒された香が気になって、編集部での打ち合わせ直後のネロリをつかまえると、それがわずか11歳の、頭に“りぼん”をつけた活発な…というか、ひじょうに才気ありかつ生意気な女の子。
で、こいつらが、たちまち“なかよし”になるのはめでたいが(?)。にしても香から見てのネロリ(本名・斉藤音緒)は、『そうであってほしい自分の姿』(分析用語で“理想自我”)に他ならぬのだった。
そうして今作「極☆漫」の描く香らの活躍は、『オレは乙女である、オレはかわいい』という“われわれ”の無意識の認識を言わずと肯定もしつつ、あわせてそれを客観化している。心では≪乙女≫であって『かわいい』が、残念にも現し世の姿がキモオタだったりオッサンだったりする“われわれ”の姿を、それが反映として示している。
その『客観化』という作用のところでショックが生じつつ、そしてそのショックを“われわれ”は、笑いによって受け流すのだ。すなわち今作は、≪ギャグまんが≫であるのだ。
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