2010/08/28

西田理英「部活動」 - もはや『触れること』はタブーを通り越して

西田理英「部活動」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「部活動(漫画)」, テニス漫画レビュー「新米教師と謎のクラブ活動, 西田理英『部活動』」

まいにちまいにち、とほうもない量のまんが作品が世に出ては消えていく現代ニホン。そのうたかたの流れの中で、ひじょうにたまたま自分の目にふれた今作、すなわち西田理英「部活動」。コミックブレイドとその関連誌に、2002~2006年あたり断続的にほそぼそと掲載。単行本は、ブレイド・コミックス全2巻。
…それを取り上げようと思ったのだが、しかし現在その本の第2巻が、自室の乱雑さのうたかたに呑まれてしまっ…。ようするに、あるはずなのだがめっからない。この惨状を『少しは』恥ずかしいと思いつつ、ともかくも始めてみると。

Wikipediaの説明が珍しくまとまっているので、作の概要はそちらをご参照(*)。何の部なのか分からないなぞの『部活動』、そのおかしな部員3人組の不条理っぽい行為ら、そしてその部の顧問になってしまった≪南部先生≫の苦悩を描くドタバタ劇。版元の宣伝文句だと、『部活動の概念を打ち破る、脱力系ギャグコミック』(*)。
古く「究極超人あ~る」から、おかしい部活動を描くギャグやコメディのまんが作品がいろいろあったけど、これは確かにちょっときわまり気味かも。『そもそも何の部なのか分からない』、という設定がハイパーだ。これに比したら≪あ~る君≫の属した『光画部』なんて、意外と万事にまともすぎっ!?

なお、おかしな部活を介しての少年たち(と青年)のじゃれあいを描く今作「部活動」は、筆者の感じだと、土塚理弘「清杉」シリーズ(*)に、わりとふんいきが近いのではと。読者にもっとも近いキャラクターが≪総受け≫をこなしながら(!?)、ツッコミもがんばる、というところで。
サッカー部なのにほとんどサッカーをしない「清杉」もあっぱれだと思ったが、『何部なのか分からない』は、もうひとつ越えたものがあるかも。かつ、さらにおかしな部活というと、きんこうじたま「H -アッシュ-」(*)に描かれた、その名も『包茎部』というのもすごかったが!

ところでそのような今作「部活動」の描く『部活動』が、ひょっとしたら≪部活動≫のエッセンスに迫っているような感じがなくもないかもと、筆者は感じた。
とは、どういうことかって。たとえば「清杉」だとサッカー部なわけで、試合や大会に勝つことを目的に活動していそうだが(じっさい勝つし!)。しかし、負けたらぜんぜん部活動が無意味になるかというと、そんなものでもない気配。単純な勝ち抜き戦なら1回戦で半分のチームが脱落するわけで、いきなり半分もが無意味では意味がなさすぎる。

では『部活動』の意味とは何かって、『そこでそれぞれが自分をきたえること』、などと、きれいごとを申してもよいが。…かの『包茎部』の部員しょくんさえも、それぞれが自らの包茎をきたえている(!?)らしいので。
だがしかし、きわまったところ部活動とは、それが『ともにあるための場』として『ある』というだけで、りっぱに意味をなし機能している、とも考えられてくる。

今作「部活動」の描いている部活動こそは、まさにそんな感じ。いちおう『活動』はなされているのだが――エイリアンへの対抗策を練ったり、山中でツチノコを探したりと――(!)。けれどもこの部の『真の』存在理由は、個性的すぎで孤立しがちな少年たちが、ともかくも『ともに』あれる場、というふうに筆者は受けとったのだった。
だから、というべきか、しかし、というべきか。部員の少年ら3人は、この部活を続けようという意思においては息がぴったりだ。…第1巻のカバー画で彼たちが、ともかくも1つの方向へ向かって走っているように。がしかし、その他の面において彼らは、とりわけ仲がよくもないし悪くもないのだった。そもそも彼らは、お互いのことをそんなには知らないような感じさえもある(!)。

そうした彼たちの関係性を示唆するものとして、第1巻のカラー口絵をご参照。部員と顧問の4人らがてんでに異なった方を向いて、そしてそれぞれにケータイ、ハガキ、糸電話などを構えている。
すなわち、彼ら全員がコミュニケーション的なことをしようとはしているのだが、しかし彼らは見ている方向ですれ違い、かつ手段(メディア)の違いによってもすれ違う。さらにこの部には、部員の数にあわせて3つの部室がある(!)てのが、また画期的でありつつ。

 ――― 「部活動」 第7話, 『部室掃除』の巻より(第1巻, p.81)―――
 顧問・南部『何で部室が 3つもあるんだよ』
 部長・赤井『現代社会に於いて 個々のプライバシーとは
 (中略)
 やがて来るであろう… 一人一部室の時代が!!』
 南部(モノローグで、)『来ねぇよ』

しかしそうしてプライバシーとやらを言いはりつつも、彼らはそれぞれ、まったくの独りきりではいたくないわけだ。どうにも現代人くさいその気持ちは、かなり自分にもわかる気がするのだった。

筆者も多少は利用しているツイッターというメディアがあり(*)、そのいわゆるTL(タイムライン)というものを見てすごす時間というのがあるけれど。この個人的なTLは、いろんな人がそれぞれにいろんなことを言ってるばかりで、ほとんどまとまりがない。
にもかかわらず、目の前に自分を含む何らかの≪コミュニティ≫があるかのように、錯覚できないこともない。そもそも何でお互いに『フォロー』しあっているのか、よくわからないような人も少なからずTL上にいるのだが、それもそれで逆にいい感じ。

一方の今作の描いている部活動は、そんなツイッターのように『バーチャル』なものではないけれど。けれども今作について何か書こうと考えたとき、真っ先に思い浮かんだことはそれなのだった。
Jamie Principle “The Midnite Hour”1992それとその逆に、やや関係ないような話をもふってみると。孤高のハウス歌手による歴史的超名盤とオレが考えるジェイミー・プリンシプル(with スティーヴ・シルク・ハーレイ)「ザ・ミッドナイト・アワー」(Jamie Principle “The Midnite Hour”1992)は、恋愛のような性交のようなことらを、すればするほど孤独感がつのる…という現代の地獄を描く。『あなたこそは、ぼくの一心に待っていた存在!(You're all I've waited 4)』と唄いつつ、ジェイミーのうめき声は悲痛さに向かって盛り上がるばかりだ(*)。

その描く苦悩と欲望の泥沼的な世界は、ハウスミュージック史の源初にあるジェイミー(with フランキー・ナックルズ)の超名曲『ユア・ラブ Your Love』(1985)の美しさと輝かしさが、くるりと裏返されているものでもある(*)。『いますぐあなたの愛が欲しい、もう待てはしない』という心情がそこで≪祈り≫として清らかに表現されていたものが、追ってその心情の内包するエゴイズム、さらにその自覚のもたらす≪不安≫、欲望あるものとして…欠けたものとしてあることの≪不安≫、等々が露呈してしまっている。
かつアシッドハウスというもの全般がそうかもだが、それはエイズの脅威がひじょうにセンセーショナルだった時代の表現物でもある。『触れるか・触れないか・触れたらどうなるのか』ということが、そこでは大いな問題になっている。

かってそんな時代(Early 1990's)、当時エイズと闘病中だった映画作家デレク・ジャーマンの展覧会というものを見に行ったら、使用ずみらしきコンドームや注射器らを彼のオブジェに塗りこめているので(!)、ナイーブな筆者はゾッとしたが。けれど現在、そのような表現のニュアンスが通じにくくはなっているように思える。いまのわれわれはその次の時代を生きており、もはや『触れること』はタブーを『通り越して』いる。でたらめ申せば、『タブーすぎるので禁じられてさえもいない』、のような。
それこれにより、もはやいまのわれわれは、動機が利己であろうと利他であろうと、そんなにまで『他者』を求めていない、または求めようという発想が抑圧されている、そんな感じ。…という≪ポスト・エイズ≫のこの時代において、2次元のイメージを『俺の嫁』にするのようなアチチュードは、少なくともあるていど適応的なのでは? それはポンプをブスッと肉に刺すようなヘビー・ドラッグがすたれて、もっとお手軽らしいMDMA(合成麻薬, エクスタシー)あたりが“イン”だネ、的なトレンドに対応したことともして。

(そろそろまったくの余談かもだが、そのEarly 1990'sに渡辺浩弐氏らが『コンピューターゲームはドラッグである』、ピュアな快楽の装置である、か何か宣言してらしたことは憶えている。それにならうならわれわれは、『“萌え”はドラッグである』、くらいは平気で言える)

といった状況下で。今作「部活動」の部員3バカの一角、ナルシストなお坊ちゃんの美少年≪青山くん≫の言うせりふ『ボク他人に 興味ないんだよね』(第1巻, p.155)は、ギャグでもありつつどこか(無意識)において、われわれの共感を呼んでいる。
しかしそのような彼でさえ、ほんとうに独りきりにはなりたくなくて、いろいろ都合をつけてまで彼たちの『部活動』にはげんでいるのだ。かくて、欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する『薄まった療法』(効果も薄いが副作用も少ない)として、どうやら彼たちの『部活動』はあるのだった。



西田理英「部活動」第2巻とまで申して、いちおうまとまった気もするが。プラス記憶に頼りつつ、今作の第2巻の内容についても、ちょっとだけ『触れて』みようとすると…。

第1巻の第9話で、部室を3つももっているわれらの『部活動』へのジェラシーをもって、さらに立場のない『オカルト研究会』がケンカを売ってくる。そしてこいつらがまた、それぞれにへんな仮面をかぶってフードとマントをつけた、あっぱれな3バカトリオなのだが。
そして第2巻で明らかになることとして、オカルト研で≪フレディ≫を名のっているおバカさんの中身が実は、りっぱな変人でありかつ地味だけど、ちょっとかわいい女の子なのだった。で、あろうことか彼女は、こっちの変人の赤井部長に岡ぼれして(!)、どうにか想いを伝えようとするのだが…。

…するのだが、それがどうにも伝わらない、というドタバタラブコメへ、第2巻から作品のムードが変わっていた気がする。今作はもともと表現が少女まんがっぽいのだが、フレディが活躍し始めたらほんとうに、『少女まんがのストレンジなラブコメ』になっていた感じ。
だがしかし、他人を求めない主義であり『触れない』主義の総本山みたいなわれらの部長に、フレディの遠まわしすぎな告白が、伝わるはずはないのだった。何せ、もろにダイレクトなメッセージでさえ、ぜったいストレートには通じないのだからッ!

そして、もしも世の中にこんな男らしかいないのだとしたら、女の子たちには≪腐女子≫になるか≪ビッチ≫になるか、その2つの選択肢しかない。それらの処し方がまた、『欠けたものとしてあることの≪不安≫に対する、薄まった療法』でありつつ。
はっきり申せばフレディに関して、『あなたは腐女子になった方が、よっぽど心やすらかに生きられる』とは、伝えたいような気もする。かつ、赤井のような男とくっついたところで、続いてまた別のなんぎに遭うだけのような気もする。
けれどもフレディはあきらめはせず、そして彼女なりの歌声で、ジェイミーの“You're All I've Waited 4”を歌い続けるのだ。『触れること』を求め、少しでも欠けたものでなくなろうとして。

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