2010/08/21
ゆうきゆう+ソウ「マンガで分かる心療内科」 - 大好きSM、もしくは“DSM”讃歌
参考リンク:ゆうメンタルクリニック
この作品「マンガで分かる心療内科」は、もともとは実在の医院のサイトに掲載のPR&啓蒙用のウェブコミック(*)。それが好評によりヤングキング誌に掲載され、この20010年の初夏にYKコミックスとして第1巻が刊行されたもの。
…で、その単行本を見て、ウェブ版と比べ何か違っている気がする…と思ったら、題名がびみょうかつ大いに変わっている。いま確認したら、ウェブ版のシリーズ題名は、「マンガで分かる心療内科・精神科・カウンセリング」だ。
どうりで違和感のあったわけで、その内容のほとんどが明らかに精神科よりなのに、なぜか題名が心療内科オンリーになっている。
では、その『心療内科』とは何かって、さっきまで筆者もよく知らなかったのだ。そこで、とあるドクター様のブログ(*)を参照したところ…。
その『心療内科』とは1963年に、かの夢野久作「ドグラ・マグラ」でおなじみの九州大学の医学部から出てきたものだそうで。それはようするに『心身症』を診る科であって、そしてその心身症とは、神経症やうつ病を含ま『ない』のだとか。
――― 『メンタルクリニック.net:精神科と神経科と神経内科と心療内科』より ―――
『心療内科はあくまで内科の一種です。
心身相関という視点を取り入れることで,診断や治療においてより多角的なアプローチを可能としていますが,その対象となるのはあくまで過敏性腸症候群や気管支喘息,高血圧といった身体疾患なのです』(*)
そうすると、つまりだ。『学校へ行け!』と言われると下痢をしちゃうとか、『家でゴロゴロしてないで働け!』と言われると心臓あたりが苦しくなるとか、そういう人々が世にはおられるようだが(ギクッ)。そこらを診るのが心療内科である、らしい(!?)。
というわけで、今作の題名の話に戻り。社会的なあれによって『精神科』ということばをさけたいのも分かるし、かつ題名をなるべく簡潔にしたいのも分かるが…。
にしても本書について、その主なモチーフが『精神疾患』・『うつ』・『ロリコン』・『妄想』・『認知症』、であるにもかかわらず、『心療内科』オンリーの看板が出ていることに、何の問題もないとは言えない感じ。『本当は“精神科”なんだけど、そこを婉曲に“心療内科”と言ってますよ』、というわけでありそうだが、しかしこの言い換えは、心療内科に関しての誤解をもたらすのでは?
まあ、題名の話はそのくらいにして。そして今作の概要はといえば、ナースの≪あすな≫と心理士の≪療≫クンというボケツッコミのコンビが、『「心療内科」の病気に関して とても優しくあたたかく 解説している{変態}マンガです』(第1巻, p.4)。…という引用中の『変態』の部分が、まるでサラ金の広告のいやらしいただし書きのように、小さくて読みにくい字になっている。
そう。あえて言うなら今作は、かの超名作・竹内元紀「Dr.リアンが診てあげる」(2001)の、精神科バージョンのようなしろもので。まずはお題に関し、精神的に残念なナースのあすなが、品のないボケを飛ばしまくる。そこへ療クンがツッコむのだ。
――― 第1巻・第2話『精神疾患になる原因って何?』より(自由気ままな要約) ―――
あすな『そもそもどうして人は、メンタルの病気になるんですか?』
療『あすなさんは、どうしてだと思いますか?』
あすな『うーん… そうだ、“夫がずっと出張で さびしかったから”!』
療『それは、浮気の言い訳だ!』
あすな『さいしょからなりやすい素因のある人が、いそうな気もしますね』
療『それもあるようですが、また別の重要な原因は、“かん○ょう”なのです』
あすな『分かった! “浣腸”ですね!?』
療『カンチョーじゃねえ! “環境”だよ!』
あすな『鉄火巻きかと思ったら、みょうに甘ったるいのり巻きだったんです』
療『それは、“かんぴょう”! 栃木の名産品だよ!』
というわけで、なかったネタも付け加えてみたが(サーセン!)、だいたいパターンはこんな感じ。このように今作は、かんじんそうな話をストレートに掘り下げることは『しない』、という点に特徴がある。で、少々無理にでもお話に、ギャグがチン入し挿入されている。
そしてその行き方をまちがって『ない』と考えるわけで、なぜならば『精神科にかかろうか、どうしようか』…というレベルの病者において、笑うことはひじょうに有効とされるからだ。もしも笑えるならば、なるべく“われわれ”は笑った方がよいのだ。
(筆者が職場で教わった『認知症対応マニュアル』にも、おかしなことを言いつのるお客さまに対しては、『コミュニケーションでうまいこと言いくるめ、気分を変えさせてみては?』、のようにあった。これがまた、『言うは易し』のきわまりだったが!)
そしてその逆に言って、今作を読んでみてため息をつくばかりで、ちっとも笑えない、むしろ『笑いごとかよ!』、のように感じられた方々におかれては、何らかの問題がないとも限らない。…いや、今作以外のまんがには大いに笑える、という場合ならばよいけれど!
ただ単に、ギャグが挿入されているばかりではない。今作はそのモチーフの精神疾患らについて、けっきょく深くを追求はしていない、という特徴をも有する。かんじんなところには強い記述がなくて、ぶなんにまとめちゃえ!的な傾きが見られる。
たとえば、この第1巻のちょっとした目玉でありそうな第4話、『ロリコンはどこから病気なの?』(p.29)から、その内容をざっと抜き書きすると。
――― 第1巻・第4話『ロリコンはどこから病気なの?』より、要約 ―――
【1】 精神医学の用語としては、ロリコンではなく『ペドフィリア(小児性愛)』が適切。
【2】 米精神医学界の診断基準『DSM-IV』は、ペド対象を『13歳以下』と規定。よって、14歳以上の異性が大好きな方々は、病気ではない。
【3】 同じく『DSM-IV』によれば、ペド行為とは『13歳以下との“性行為”』。よって、性交以外の行為に及んじゃったとしても病気ではない。いわく、『社会倫理的にアウトでも、精神医学的にはセーフ』(!)。
【4】 小児性愛の原因は、ようするに明らかでない。
【5】 ではその小児性愛の治療法はというと、まず薬物による性欲の抑制(!)、または施設への収容など、ひじょうに強圧的なものしか知られていない。
【6】 結論、『犯罪に走る前に メンタル(クリニック)か警察へ!』
それはまあ…。刑務所に行くよりはシャバで薬物療法でも受けた方が、まだしもいいかもしれないが。にしても、『もちょっとマシな療法が、何かないの?』とは、誰もが考えるのでは?
ただし、その症候によって本人と周囲の人々が大いに困っているのでない限り、ロリコンごときを治療の対象にするには当たらない。これはしっかり明記されているところで(p.38)、ようするにエロゲーや成年コミックなどを見て何とかできているくらいなら、精神科的な問題にはならない。
ちなみにいま出た『DSM-IV(精神障害の診断と統計の手引き・第4版, 1994)』というしろものの一般的特徴として、病因論などはシカトこいて記述的な症状(群)に病名を、言わば機械的に当てている。もっとはっきり言うと、そのDSMの第1版が1952年に現れやがって以来、精神分析に興味をもつわれわれは、遺憾の念なくしてその名を口にはできない。
何せそれのおかげで、まずは≪ヒステリー≫、続いては≪神経症≫といったわれわれの用語らが、ドクターたちのカルテから追放されてしまったのだから。それはすなわち、1950's以来のアンチ精神分析運動の象徴、そして向精神剤をバカスカ呑ませてオッケー的な精神医学の象徴でありつつ。
で、そのDSMが、しょーもないネタとして(!)、しかもそれしかないようなリファレンスとして(!!)、今シリーズには頻出するのだった。Web版には、こんなお話もある。
――― Web版・第6回『露出症の治療~どこからが病気?』(*)より ―――
路上であすながとつぜんに、露出狂とのぞき魔のペアに遭遇してびっくり! 走って逃げてから療クンにそれを告げたところ、彼はいたって冷静に、こんなことを言う。『医療業者としてもっと厳密に、“露出症”および“窃視症”という用語を用いましょう』。
さらに療クンはDSM-IVをひもといて、どちらにおいても『最少6ヶ月間にわたり』それらの逸脱行動があること、という診断基準を見つける。そして彼の観察によると、その変態たちの活動は最近5ヶ月のことなので(…なぜそれを知っているのか)、よって彼らは精神科的な病気ではない、と診断を下す(!)。
なおかつ露出症および窃視症について、その原因も分からなければろくな治療法も存在しない、というオチ方は、ロリコンの巻と同じ。そしてさわやかにあすなと療クンは、変態2人がパトカーで連行されるのを見守るのだった。
イエース、DSMサイコー! 精神医学バンザイ! 『ともに苦しむこと』などをしないならば、こいつはマネーメイキングとしてちょっとしたもんだぜィ!…なのかもしれない。
ところで本書の訴えるところとして、原作者のドクターが売りにしたいらしい『通院精神療法』の保険の点数が、近年にわたってダダ下がり、という現実があるとか(p.90)。その話は初めて聞いたのだが、しかしそれが、まったくもって意外なことでは『ない』。
いわゆる『精神療法』への評価の格下げは、DSMの普及(=腐朽)とアンチ精神分析運動にシンクロした、1950's以来の一貫した世界的な流れに他ならないからだ。どこかの誰かが、精神分析を激しく憎んでいるばかりか、多少なりともそれっぽい療法らの“すべて”を憎んでいるのだ。このことを知っていない“われわれ”は、いない。
で、彼たちにおそらく状況はきびしくなっているはずで、だからそのエピソードの冒頭で療クンは、『最近 ちょっとお金が 足りなくてね』と、さりげに(?)貧乏をアピールする。けれども療クンは、その点数評価の改訂を、『患者さんにとって やさしい料金設定に なってきているのです』と、むりにでも(?)前向きな話にしている。
それはつまり、『薄利』が強制されちゃっているがゆえの、『多売』に向かってのビジネス展開かッ?…などと、そんないじわるな見方はしないが! ともあれここは、ラカンが「テレヴィジオン」(1974)のどこかで『われわれみんなが力を合わせ』…等々と珍しくきれいげなことを述べていたにならい、日々の臨床をがんばっているすべての方々に、オレからもエールを送りつつ!
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