2010/09/15

はっとりみつる「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」 - ≪快感原則≫の勝利っ!?

はっとりみつる「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」

以下で話題の「ケンコー全裸系水泳部 ウミショー」は、『ショート形式のスポ根系ギャグラブコメ』という、めったにはない形式の作品。2005~08年の週刊少年マガジンに掲載、単行本は全9巻(KC少年マガジン)、略称「ウミショー」。
これが、湘南および沖縄を舞台にした、ひじょうに夏っぽいムードの作品なので、できれば夏の盛りの記事の題材にしたかったところだが。それがいつのまにか季節は初秋で、『行く夏を惜しんで』的な記事に…(むねん)。

まずそのスタイルについてちょっと見ておくと、掲載誌で当時、先行してショート形式の作品、ギャグの「魁!! クロマティ高校」やラブコメの「スクールランブル」などの成功例あり。とくに、小林尽「スクールランブル」の構成に新しさがあった。
で、それらを追って今作もショートで…という事情だったのかも知れないが。しかし「スクールランブル」に比べても、今作「ウミショー」はひじょうに冒険的な構成だったように感じる。かつ今作は、のんびり描いてたら軽く16ページにもなりそうなお話を10~12Pで描いている、その情報密度の高さに、21世紀のまんが作品というふんいきが大いにある。

『情報密度の高さ』などと申し上げたが、それを『ごちゃごちゃしてる』と言い換えてもよい。あまりうまくもない絵で、みょうに小さなところ、本すじに関係ないようなイベントやダイアログらをちまちま描いているので、楽しいが見ていて目が疲れる作品でもある。
そして今作に関し、『ごちゃごちゃしてる』や『展開が散漫ぎみ』は、何とりっぱなほめことばだ(!)。
というのも。今作は江ノ島っぽい海辺の町の『海猫商業(ウミショー)』という高校の水泳部を舞台に、競泳水着の女の子たちがやたら画面をウロウロしている作品なのだが。そこに情報をしぼってしまうと、ふんいきがいやらしくなってしまうところを、『ごちゃごちゃ』や『散漫』という表現の特徴が、ひとまずそれを救っている。

だいたい作品の序盤で言われる『ウミショー水泳部』の特徴が、『(校内で)不まじめ度 No.1』(第1巻, p.68)。その作中人物たちは基本的に、スポーツへと純粋にまい進しないどころか、恋や性交にもがんばりはせず、ことらをまったくつきつめない。そうして今作は、内容・ふんいき・表現らすべての面を『ごちゃごちゃ』と『散漫さ』で“逆に”統一し、そして“すべて”をゆる~い≪快楽≫のムードに染め上げているのだ。
(少々ご説明。この場で言われる≪快楽≫とは、ぬるま湯チックな安楽さのこと。それは、エキサイティングでホットなお愉しみ=≪享楽≫と対になるもの。分析用語の≪快感原則≫とは、できる限り平静安楽でいようという心の傾向。『快楽, 快感, 快』などと異なった訳語があるが、それらは同じもの)

しかも、そうではありつつ『情報密度が高い』とも言いうる表現になっているわけで、ただ単にゆるい作品ではない。今作「ウミショー」がいちおうは1つの成功作っぽい感じなのだが(たぶん)、その成功のひみつの一端は、上記の独自のアプローチにあるかと見る。
さて、この世のどんなに不まじめな人間であっても、オーガズムの最中に笑っているということはない。よって、おかしなことを申すようだが、人間らの『まじめ』の極致はオーガズムだ。≪享楽≫のきわみ(=オーガズム)へと向かって必死!…という態勢になった人間に、冗談はけっして通じない。
そうして今作「ウミショー」は、≪享楽≫のピークに向かって何かが高まりそうなところを、不まじめさや『天然ボケ』の鈍感さ等々の介入により、それがチンタラムードの≪快楽≫へと薄められてしまう…という現象を反復として描く。スポ根っぽくもありながら人々はスポーツに必死にならず、ラブコメっぽくもありながら人々は恋や性交を必死に追求しない。

ところで、これの第1巻の発売日に書店へと走ったオレ(めったにしない行動)、そんな筆者が今作「ウミショー」にもっとも入れ込んでいたころ、その描くところとして強く感じていたのは、『水の感触のこころよさ』ということだった。
今作のヒロイン≪あむろ≫は沖縄からの転校生で、やたら泳ぎが速いので水泳部にスカウトされるが、ド天然の彼女は『スポーツとしての競泳』をまったく解さない。彼女にとって泳ぎは遊び、またき遊びであり、そしてその遊びの核心は、おそらく『水の感触を楽しむこと』なのだ。
そうして今作では、そのような皮フの全体で味わうぬるめの≪快楽≫が、ヴァギナとペニスの性交による≪享楽≫へと対立させられている。かつ、人が『競技』へと過剰にシリアスにとりくむようなことがまた≪享楽≫の追求(=性交やオーガズムの代替)なので、あわせてそこが否定され気味。が、それらが否定されきっている…とも言えないのが、それまた今作らしい散漫さの美徳でありつつ。

中西やすひろ「Oh! 透明人間」第1巻ここで誰も聞きたくないようなことを平気で申し上げると、少年まんがには『性交やオーガズムを回避する』という大テーマ性が、もともとある。『それ』の代わりとしてヒーローたちは、冒険やスポーツやケンカ等々の≪享楽≫を追求するのだ。
1つのきわまったものとして、1980'sの月刊少年マガジン掲載の、中西やすひろ「Oh! 透明人間」という作品があり。これは透明になれる少年がいろいろと性的っぽい『冒険』をするが、しかしこのヒーローが性的に興奮しすぎると透明状態が解除される(=ヤバい!)、という設定。つまり『性的っぽい冒険はOK、しかし性交やオーガズムはNG』という縛りがあって、その上でからくも『少年まんが』として成り立っているのだ。
(性交そのものである享楽と、性交の代替である享楽のあれこれ。それらは対立の関係にもありながら代替の関係にもある、ということに注意)

だから。もしも「ウミショー」の作中人物らが、うかつに競泳へと真剣に打ち込んだりしたら、それはいたってふつうの少年まんがになる。その一方、お話のベースの開放的なムードに流されて性交がなされてしまえば、それは少年まんがとして失墜する。
そしてそのはざまで実作がなしているソリューションが、『水の感触のこころよさ』に代表される、ひじょうにぬるめな≪快楽≫の提示なのだ。かつ、そのぬるいものが提示されているからといって、『スポ根か性交か』というテンションが消失しきっているわけではない。それは根底には常にあって、“逆に”お話を支えているのだ。ただ単におきらくな作品がある、のではない。そこらに筆者は、今作の構成のふしぎな巧みさと新しさを見るのだ。

…とまでの前説が、すでにひじょうに長くなってしまったので、ここでいっぺん話を切り上げて。続いて次の記事で、作品の細部をちょこっと見ていこうかと。

あと、ひとつ余談。追って世に出たTVアニメ版の「ウミショー」(2007)は、筆者が申し上げた『ごちゃごちゃ』と『散漫』という特徴を失っていた。原作付きアニメというものの工程、およびわずか全13話の短さから、たぶんそうなろうという予想通りに。
で、それらの特徴がいやらしさを薄めていたという前提により、アニメ版はけっこういやらしい作品になった。少なくとも、原作よりはずいぶんいやらしい感じを受けた。見ていて羞恥を覚えたので、第1話しか視聴していない。

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